ご注意を〜

これは完全捏造物語です。
時間的にはDグレ5巻の最後、江戸に出発する直前。
船の上でのお話です。


「それでもいい、むしろ何でも読んでやるぜ!」という勇気に満ち溢れている方は、スクロールで どうぞ。
















● 海葬 ●





視界は一面青だった。
慣れない潮風が少し肌に痛い。
船の見張り台の上に立ったアレンは、じっと目の前に広がる海を眺めていた。
静かに響く潮騒の音と、足元から聞こえてくる船員達の声。
それをまるで別世界のように感じながら、ただただ揺らめく海面を見つめる。


(師匠が沈んだ?)


その言葉を聞いて以来、耳に木霊する事実。


(師匠が沈んだだって……?この海に…………)


妓楼の女主人、彼の恋人であるアニタの言である。
アレンの捜し求める師匠、クロス・マリアンを乗せた船は、八日前この海に撃沈した。
不気味な残骸と毒の海だけを残して、忽然と姿を消してしまったのだ。


相変わらずだ、とアレンは思った。
あの人はいつだって、そうだった。
自分が追いかけても追いかけても、追いつけないところに行ってしまう。
手を伸ばしてみても、するりと逃げられる。
彼と過ごした数年間はそれの繰り返しだった。
アレンは師に追いつこうと必死に走ったが、彼はその遥か先を悠然と歩いているのだ。
弟子を振り返ろうともせず、背を向けてどんどん前へ進んで、何もかもを置き去りする。
ただ煙草の煙だけを後に残して。


おかげでアレンは煙草が嫌いだった。
煙たいのが嫌い。灰で汚れるのも嫌い。
けれど一番嫌いなのは、その匂いだ。
髪に、服に染み付いて取れない。
傍を離れてからも、煙草の匂いがするたびに師匠を思い出した。
どうやらあの不愉快な香りは、心にまで刻みつけられてしまったらしい。


ふと、煙が目の前をかすめて天に昇っていくのが見えた。
おそらく下の甲板で、船員の誰かが煙草をくゆらせているのだろう。
胸の中の思い出に触れられて、アレンは思わず見張り台の手すりをきつく握り締めた。


「………………バカ師匠」


口元に薄っすらと笑みを浮かべて吐き捨てる。


「これで死んでたりしたら恨みますよ」


本当に、恨んでやろう。
何で僕がこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。
苦しいような感情が渦巻く胸を押さえて、ため息をつく。


(心配?あの師匠相手に?…………そんな、馬鹿な)


アレンは胸中で呟いて、ゆるく首を振った。
心配をしているわけではない。
あの師匠が簡単に沈むものか。
アニタに放った言葉は、今でもアレンの中で確かなものだった。
あんな悪魔みたいな人、心配してやるだけ損だ。時間の無駄だ。
けれど、


(生きていると、信じているのに)


揺れて、乱れる、この気持ちは何だ?
まるで眼前でたゆたう海のように、アレンの心は揺らめいていた。
胸中に一滴の感情が落ち、幾重もの波紋を広げている。
これは、不安?
何に対する……?
江戸に向かうことか。師匠を追うことか。
違う。確信していたことを、否定されたからだ。


アレンはクロスの生を信じていた。
けれど、それでも心を揺さぶられたのだ。
「クロスは死んだ」と告げられて、少なからず衝撃を覚えた。
師匠は絶対に死なない。
そんなアレンを形造る確かな強さが、一時でも他人に否定されてしまった。
だからこそアレンは今、自分でも説明のつかない感情に揺らされているのだった。


心に広がる波紋。
音もなく静かに、そっと流れる感情。
きっと誰にも気付かれない、微かな動き。
アレン自身、どう感じていいのかよくわからなかった。


(どうせすぐにおさまる……)


こんな小さな心の揺れを、口にするほど弱くはない。
他人に気取られるほど、子供ではない。
いつもの笑顔で過ごしていれば、忙しい船旅に紛れて消えていくだろう。
もしくは襲い来る戦闘の波に飲み込まれて、見えなくなってしまうだろう。
だから、放っておこうとアレンは決めた。
手すりを握り締めた手を緩めて、顔をあげる。
海を見下ろすのをやめ、遥か遠くに視線を投げた。
自分が進むべき方向へと。


「うわー、絶景ぜっけい!」


その時ふいに頭上からそんな声が降ってきた。
アレンは心底驚いて目を見張る。
自分が立っているのは見張り台なのだ。
ここより上に、人が立てる場所などないはずだった。
かばりと天を振り仰ぐ。
アレンがいるところより高い位置にあるマストの上に、ひとりの少女が立っていた。
潮風に金髪がさらわれて、光のようになびいている。


!」


アレンは思わず大声で彼女の名前を呼んだ。
それでもは普通に額に手をかざして、金の瞳で大海原を眺めている。


「やっぱり西洋のとは色が違うね。こんなに綺麗な東洋の海を見たのは初めてだよ」
「そうですか……って違う!そんなところで何をやってるんです!?」


アレンが怒った口調でそう訊くと、は目を瞬かせた。


「何って、海を見てるの。アレンばっかり絶景を独り占めしてさ」
「だったら場所を代わります!そんな危ないところからは早く降りてください!!」


アレンは見張り台の端に身を引きながら言った。
何てことをするんだと思う。
マストの上といえば目が眩みそうなほど高いところである。
いくらエクソシストと言えども危険なことに変わりはない。


「まったく……。どうやって登ったんですか」
「下から順にマストを足場にしてね。次はついに頂上!メインマストの上に……」
「駄目です止めてください本気でやったら絶対に許しませんよ」


一息にそう告げられて、は不満そうな顔をした。
アレンを見下ろして半眼になる。


「落ちたりしないよ。そんなヘマ誰がするもんか」
「そんなことはわかってますよ。けれど見ていて心臓に悪いんです」
「大丈夫。もしもの時は華麗に着地をきめてみせるから!」
「だから見たくないんですって」
「うーん」
「下で受け止めてくれる人もいませんよ」
「むむ……」
「いいからホラ」


アレンは眉をしかめたまま、マストの上のに両腕を伸ばした。
その体を引き下ろそうと手をかける。
けれどそれが届く前にが言った。


「ああ、でも。きっとクロス元帥みたいにすごい人なら、どこから落ちても私ぐらい軽々受け止めてくれたりして」


それを聞いたとき、アレンは自分がどんな顔をしたかよくわからなかった。
見つめてくるの表情は変わらない。
けれどそれがかえって何かを悟らせた。
アレンは思わず彼女から目を逸らしてしまった。
顔ごと背けてから、どうしてそんなことをしてしまったのだろうと後悔する。


「うん、そんなシュチュエーションはちょっと憧れるな」
「……………………」
「お姫さま役なんて柄じゃないけど、尊敬するクロス元帥にそうしてもらえたら幸せかも」


いつもの口調で言うに返す言葉が出ない。
アレンは何か支えが欲しくて、傍にあった手すりを掴んだ。
が動く気配がする。
彼女はマストの上に身軽に腰掛けると、さらりと髪を流した。


「なーんてね」
「………………、え?」
「助けられるなんて冗談でしょ。私達は、クロス元帥を助けに来たのに」


アレンはうつむいたまま、目を見張った。
銀灰色の瞳を限界まで開く。
潮風が二人を包み込んだ。


「助けに来た相手に救われるなんて、無様なマネはしない」


それではきっと、彼に笑われてしまうだろう。


「足手まといだとは思わせない。帰れだなんて言わせない。ねぇ、アレン。私は決めてるの」


はそこで微笑んだようだった。
落とした視界の隅で、彼女の細い脚が揺れている。


「絶対に、クロス元帥に会うって、決めてるんだ」


アレンはわずかに息を呑んだ。
そっと視線をあげると、金の瞳が見えた。
真っ青な空を背景にして、ひとりの少女が微笑んでいた。


「必ず彼を見つけ出す。アクマの大群の中だろうが、悲劇の中心だろうが関係ない。どこにだって行って、 どこだろうが飛び込んで、一番にその手を掴んでみせる」
「……………………」
「私はクロス元帥を捕まえる。そして言うのよ。“ありがとう”って」


そう告げられて、アレンは思い出した。
いつか彼女が言っていた言葉。
にとっての、クロス・マリアン。


幼いころ、その隠蔽した過去ゆえに周囲から敬遠されていたにとって、自分を受け入れてくれる存在は とても大切なものだった。
そしてクロスもその一人だったのだ。
会えない時間が長かったせいか、いつしかはクロスを“好き”だと想うようになった。
それは憧れでしかなかったと気付けた後でも、彼女はクロスを大切に想い続けているのである。


「ずっとお礼を言えないままだったんだもの。だから、会いたい。会ってこの心を届けたい」


そこでは瞳を伏せた。
自分の左耳のピアスに触れる。
それは、クロスと友人関係だった彼女の師匠の形見だ。


「…………届けてみせるよ。私に託された、グローリア先生の想いと一緒に」


そしては身軽に立ち上がると、猫のような敏捷さでアレンの眼前の手すりへと降り立った。
あまりに近いから、アレンは数歩後ろに下がって彼女を見上げる。
太陽を背にしていなくても、光るようなその存在を。
はアレンを見つめて、ふふんと笑った。


「ごめんね、アレン。悪いけれど、私はあんたの面目を丸潰しにしちゃうから」


思わず瞬いたアレンの鼻先に指先が突きつけられる。


「私は誰よりも先にクロス元帥を見つけ出す。そして彼を助けて、守って、“よくやった”って言ってもらう予定なの。 弟子のあんたを差し置いてね!」


は不安定な場所に危な気もなく立って、上半身をこちらに乗り出してきた。
その唇に浮かんだ、強気な笑顔。
それは綺麗で、優しくて、そしてどこまでも強かった。


「あわよくばそのままお傍に置いてもらうんだから!」


あまりに眩しい光を宿してそう言われたものだから、アレンはしばらく何も言えなかった。
そしてが身を引いて、手すりの上で身軽に一回転したところでようやく口を開く。
喉がかすれたが、きっと彼女は気にしないだろうと思った。


「何ですか……、それ」
「だから、お傍に置いてもらうの。あの人は私の“憧れ”なんだから」


はやっぱり特に突っ込まずに、踊るように手すりの上を歩いていって、アレンに背を向けるように立った。


「いつだって隣に立って、お役に立ちたいと想うのが乙女ってものでしょ?」
「馬鹿なこと言わないでください」


の言葉にだんだん調子を取り戻してきたアレンは、彼女を軽く睨みつけた。


「言っている意味がわかってるんですか?」
「意味って?」
「お傍にって……、師匠の恋人にでもなるつもりですか」
「なれるものならなってみたいけどね」


言いながらはアレンを振り返った。
そして少しだけ拗ねた顔で呟く。


「見た?アニタさんの神々しいお姿を!クロス元帥はああいうお姉さまが好みなんだ……」
「そうですね……。まぁ、確かに彼女は師匠のタイプだと思いますよ」
「ちなみに私もモロタイプです、美人さん大好き!」
「知ってますよ。君のことだから」


アレンは少し微笑んで、手すりの上に立ったの隣まで歩いていった。
並んで眼前に広がる海を眺める。
海鳥が鳴きながら頭上を飛んでいった。



「ん?」
「師匠が生きてるって、信じてる?」
「うん。それがきっと、私達の力だから」
「……そっか」
「信じてるよ。揺れる心も隠して、“師匠はそんなことで沈まない”と言い切った、アレンを」


風が吹いた。
二人の髪は陽の下に踊り、美しい光を放つ。
視線は遥かなる目的地を射抜いていた。


「信じてる」


の声に、アレンはぎゅっと手すりを握り締めた。
ああ、やっぱりと思う。
どうしたって彼女にはわかってしまうんだ。
自身も、師であるグローリアを“死んだ”と他人に告げられた経験がある。
だからアレンの微かな心の動きを酌んでくれたのだろう。
でも、それだけじゃなくて。
ただ彼女はいつだってそういう人なのだと知っていた。
どんなときも、アレン自身ですら望んでいると気付いていないようなものをくれる。
例えば言葉や笑顔、温もり。
そしてその底に秘められた、途方もない優しさを。
何だか胸が苦しかった。
心の波紋はますます広がる。
けれど今は妙な衝動はない。
不安は綺麗に溶け込んで、別の何かが産まれてきた。
名前の知らない、けれど確かな感情。


「悪いけれど、


アレンは自然と浮かんでくる笑みを唇に刻んで、言った。


「君の思う通りにはさせません」
「え?」
「師匠を一番に見つけるのは僕です。助けるのも、守るのも、君になんて譲ってやらない」
「ええ!?」
「そして師匠に死ぬほど恩に着せてやるんです!」


アレンはを見上げた。
そして不敵に微笑んでみせた。


「この、僕が」


師匠は生きている。
そう信じる心は変わらない。
けれどもっと確かで、温もりと光を宿した力が、今アレンを笑顔にさせていた。
いまだ揺れる心は、それでも不安にではなく、希望に震え始めた証拠だ。
アレンは少しだけ声を出して笑った。


に言われて気がつきましたよ。これは絶好の機会です。何が何でも師匠を見つけ出して、 借りを作らせてもらいます。そうすれば、僕はもう二度と借金をつけられないはず!!」
「うわ何この人、腹黒い打算し始めた!」
「いいえ、それだけじゃ済ませません。体に悪い煙草、お酒、借金の原因の全て、ついでに ひどい女癖まで全部やめさせてやる!それだけの弱みを握ってみせますよ、僕は!!」
「もしもーし、目的が変わってきてる気がするよ!?」
「ああ、何だかすごくやる気になってきました。こんなに師匠と会いたいと思ったのは初めてですよ! 君のおかげですね、ありがとう!!」
「ど、どういたしまして……って複雑ー!!」
「それから」


言いながらアレンは腕を伸ばした。
そして手すりの上に立ったの腰に後ろから手をまわす。
そのままぐいっと引き寄せれば、彼女はバランスを崩してアレンの方へと落ちてきた。


「きゃ……っ、ちょっと!」


短く悲鳴をあげて抵抗しようとしたを、アレンは両腕で抱きこんだ。
膝裏に手をいれ、もう片手を肩を引き寄せる。
軽々とその体を支えて、アレンはの耳に口元を寄せた。


「こんなこと、師匠じゃなくたってできる」


囁けば唇が金髪に触れた。


「君なら僕が受け止めてあげるよ」


そうしてアレンはを間近で覗き込んだ。
自然と微笑むと、金の瞳が見開かれる。
そして次第に緩んでいき、彼女はわざと怒ったフリで言った。


「それで、受け止めてくれた後に放り出すわけ?普通に落ちるよりもひどいことになりそうだよ」
「それでも師匠よりはマシだよ。あの人はきっとが落ちてきたって、受け止めずに避けるに決まっている」
「なんで!?」
「君が好みのタイプじゃないから」
「う……っ、うわぁん傷ついたー!やっぱりナイスバディなお姉さまじゃないとダメなんだ!?」
「それ以前に師匠がいくつだと思ってるんですか。君みたいな女の子を恋人にしたら犯罪ですよ」
「ちっちっち!アレンは青いなぁ。愛っていうのはそんな常識なんて軽々ぶち壊しちゃうくらい凄まじいものなんだからっ」
「ああ、何だか不愉快な発言が聞こえました。やっぱり放り出してもいいですか?」


アレンがいつもの調子でを見張り台の向こうに追いやろうと動き出した。
抱きかかえられた状態でそんなことをされては受身も取れない。
は悲鳴をあげた。


「ぎゃー!ちょ、待……っ」
「うん、なかなかの高さですね。さぁ、僕の機嫌をすこぶる良くするために空へと羽ばたいてみてください」
「は、羽ばたけるかー!」
「大丈夫です。君なら出来ます。ユーキャンフライ!!」
「笑顔が……っ、笑顔が殺人的に素敵だよアレン……!!」
「ありがとう。そんな思い出を胸に、逝ってください。……、君なら飛べるって、僕は信じています!」
「いらない!そんな信用いらないよ!!」


二人は狭い見張り台の上で賑やかに言葉を交わした。
互いに離れようと暴れながら、本当はただ抱きしめ合う。
揺らめく不安を知っている。
いつだって、自分達はあらゆるものに脅かされている。
けれど強く立っていたいと願っていた。
恐れを希望に変えて。
まだ見ぬ明日に怯えずに、望む未来を掴み取るために。


「は、離さないでなんて言わないからね!」


落とされないようにアレンにしがみつきながら、は叫んだ。


「私が絶対アレンを離してやらないんだから!!」


それを聞いてアレンは沸きあがる笑みをこぼした。
空の青、海の蒼、目眩のするそれよりも、眩しい。そんな気持ち。
いつだって与えてくれた、存在。
不安は海の底に埋葬され、胸の中で確かに希望が光り出した。


を抱きしめて、アレンは声をあげて笑った。








捏造物語、第2弾です。
前回といい、今回をいい、何だかアレンが可哀想だったシーンばかりですね……。
もうちょっと他人に甘えて欲しいという願望が、知らずに出ているのかもしれません。
それにしても我が家のヒロインはまともに元気付けることができない子だなぁ。(笑)
小突き合って、冗談言って、それで揺れる心をそっとしまって、不安を笑い飛ばしてしまうのが彼女のやり方のようです。