異性として意識していないから、恋人じゃない。
世間一般のそれとも違うから、友人とも言い切れない。
私達はきっと、言葉ではくくれない関係なんだ。
● ふたり、背中あわせ ●
視界は闇だった。
黒に染まった世界で、神田は意識を集中していた。
呼吸を殺して『六幻』を振るう。
風を切る、手ごたえ。
同時に舞い落ちてくる無数の葉を、その刃でもって一瞬で解体する。
そして足元を埋める大樹の根を跳び越えると、さらに森の奥へと進んでいった。
これは習慣としている朝の鍛錬の一環だった。
神田は上着を脱ぎ、目を白い布で覆って視力を奪い去り、愛刀を振るっていた。
研ぎ澄まされる感覚。
むき出しの上半身に触れる空気が冷たい。
神田は普段通りに足を進め、順調に鍛錬をこなしていった。
しかし、ふと感覚に引っかかる、気配。
乱れた呼吸。
走ってくる、足音。
いつもとは違うそれは、すぐ右手側から感じられた。
神田は強く地面を蹴ると、茂みを突き破り、その気配に斬りかかった。
鋭く降ろされた剣先を、気配は慌てて回避する。
その行動が地面を転がるという無様なものだったから、神田は続けて『六幻』を振るった。
さすがに二撃目は相手も自分を取り戻して、迎え撃ってくる。
刀身は強く弾き返され、神田は大きく後退した。
「反応が遅い」
一撃目の避けかたがあまりにもらしくなかったので、神田は責めるような口調になった。
しかし目の前の人物は呼吸も荒く、何も答えない。
やはり、らしくない。
そもそもこんなに乱れた気配で、このような場所に来るだなんてことはおかしいのだ。
神田はその不審さに、苛立った動作で目隠しを取った。
「何してやがる。」
黒から一気に色彩を取り戻した世界で、何よりも鮮やかな金色がこちらを見つめていた。
は息を切らして、いまだに明けきらない空を背景にして、そこに立っていた。
金の髪は乱れ、何だか呆然とした目をしている。
が答えないので、神田は舌打ちをひとつした。
「おい、聞いてんのかバカ女」
「……………………」
「目を開けたまま寝てんじゃねぇよ、返事しろ」
「…………神田」
ようやく聞けた彼女の声は、何だかいつもの張りがなかった。
神田は盛大に顔をしかめた。
「気色悪い声で呼ぶな」
「こんなところで何して……、ああ朝の鍛錬か。そっかそっか……」
はひとりでそう呟いて、くるりと神田に背を向けた。
そして草の上に無造作に腰を下ろした。
そこは黒の教団から続く森の中で一番ひらけており、また木々の間から垣間見える景色がひどく美しい場所
だった。
は膝を抱えると、背後の神田に言った。
「邪魔してごめんね。でも不意打ちなんてズルイよ。お詫びに今すぐどっか行って」
「……何だ、それは」
彼女のめちゃくちゃな言い分に、神田は眉をひそめた。
「不意打ちなんて普段のお前ならどうってことないだろ。そもそも何だ、どっか行けって。先にここにいたのは
俺だろうが」
「神田はケチだなぁ、乙女の頼みを無下にするわけ?お願いだから黙って立ち去ってよ」
の声は普段と変わらなかった。
けれど何かが違った。
それは確かな違和感だった。
だからといって、神田がどうこう言う問題ではないのだが。
「……ワガママな女」
思わず吐き出すと、は小さく“ごめんね”と言った。
(あぁ本当にらしくな い)
しばらくはそこでぼんやりと景色を眺めていた。
膝を抱えて、そこに顎をのせて、徐々に広がっていく光を見つめる。
世界は美しい。
森は静かだ。
だからもう目を閉じてしまいたかった。
優しいそれらに包まれて、心を破いてしまいたかった。
けれどそれを許してはならないことを、は自分に誓っていた。
溢れそうになる感情を、唇を噛んで堪える。
そのことに必死になっていたから、彼がどさりと腰を下ろすまでその存在に気がつけなかった。
「邪魔だ」
低く言われて肩を押しのけられる。
驚いて見ると、神田がとは反対の方向に体を向けて、隣に座っていた。
すでに団服を纏っているところを見ると、上着を取ってここに戻ってきたらしい。
「ちょ、何で……?」
は困惑して、反対方向に向けられた神田の横顔を見つめた。
「何で神田がここにいるの……?」
「どこにいようと俺の勝手だ」
神田は事も無げにそう切り返した。
「俺は鍛錬の後、ここで『六幻』を磨くのが日課なんだよ」
「や、普通の刀じゃなんだし磨かなくても……、じゃなくて!お願いだから他のとこ行ってよ」
「何でテメェの意思に従わなきゃいけねぇんだよ、ふざけんな」
「今日だけでいいからさぁ!」
「そんなに嫌ならテメェがどっか行け」
「私だってここが駆け込み場所なんだって!」
「じゃあ好きしろ。俺も好きにする。それだけだ」
あまりにキッパリそう言われたので、は神田をにらみつけた。
お互いに意固地なのは知っている。
一度決めたら絶対に意志を曲げたりなんてしない。
だからどちらもここから動かないことは明白だった。
は思わず半眼になった。
「…………ワガママな男」
「お互い様だろ」
「神田に譲り合いの精神を求めた私が間違ってたよ」
「その通りだな。俺は間違ってもテメェにそんなもん求めねぇよ、無駄だから」
冷たくそれだけ言って、神田は口を閉じた。
そして言葉通り、『六幻』を磨き始める。
イノセンスにそんなことする意味はあるのか……、と思わず考え込むなど、まるで無視だ。
彼は本気で自らの日課を守りたかっただけらしく、着々と手を動かしていった。
の存在などいないものだと考えているようだ。
だからも視線を前に戻して黙り込んだ。
そうしていると互いの姿は目に入らない。
人ひとり分だけずれた、背中合わせ。
ただぬくもりが感じられる距離で、ふたりはそこにいた。
(あぁなんて優しい人なんだろう。でもこんなの は 弱くなっ てし まう)
「ごめん」
高くのぼってきた太陽の光を背に浴びながら、神田はその声を聞いた。
すぐ隣からだった。
けれどとても距離があるように感じた。
それは何故だろう。
考える間もなく、が言う。
「ごめん。ごめん。ちょっと今からいろいろ言うけど気にしないで。独り言だから。全部ぜんぶ独り言だから」
「……………………」
「聞かなくていいから。何も言わなくていいから。私の独りよがりな言葉だから」
呼吸が。
苦しそうだと、神田は思った。
声はいつもと同じなのに、はひどく苦しそうだった。
まるで言葉にしなければ、心の重みに今すぐ殺されてしまうのだと錯覚するほどに。
見えない血を流しながら、は言葉を紡ぐ。
「将来の夢はね、お菓子屋さんなんだ」
「…………誰の話だ」
「独り言だって言ったじゃない。なに返事してるの」
「うるせぇよ。俺も独り言だ」
「……神田のバーカ」
「……殺すぞ」
「結婚したら家族でお菓子を作って、自分のお店で売るのが夢なんだって」
「いきなり話を戻すな。だから誰の話だ」
「セラフィちゃん」
「……誰だ」
「探索隊の女の子」
「テメェが口先だけで丸め込んだ女の一人か?」
「よく一緒に遊ぶの。友達だよ」
「遊ぶ?どうせテメェが一人ではしゃいでただけだろ」
「いつも手作りのお菓子を持って来てくれてね。“おいしい”っていうと、ちょっとだけ顔を赤くして笑うの。すごく可愛い子」
「食い物に釣られたか」
「まだ16歳でね。夢があって。好きな人がいて。私の目にはキラキラ輝いて見えたよ」
「人間が輝くわけねぇだろ、眼科行けよ」
「大好きだったよ。大好きだったんだけどね」
「だけど、何だよ」
「セラフィちゃん死んじゃったんだって」
神田は一瞬言葉を失くして、それからを振り返った。
彼女は抱えた膝に顔を埋めていて、その表情は見えなかった。
「任務中に、アクマに殺されたんだって」
「………………」
「知ってる。こんなのよくあることだ。私達は戦争をしているんだ。だからいつ死んでもおかしくない。望む未来も、命の温もりも、昨日までそこにあった笑顔だって一瞬で消えてしまうんだ。わかってる。そんなこと思い知ってる。でも、神田」
「……何だよ」
「ごめん。ちょっとだけこっち見ないで。今すごくひどい顔してるから」
それでもお前は泣かないんだろう。
神田はそう思ったけれど、口には出さなかった。
顔を前に戻して、から視線を逸らす。
そして先刻感じた距離感の正体を、ようやく理解する。
遠いと感じたのは、の心だった。
彼女は必死に自分から遠ざかろうとしたのだ。
そばにいる人間の存在にどうしようもなくて、悲しみを吐き出しながら、それでもそのぬくもりにすがったりしないように。
は泣かない。
それを自分自身に誓っている。
けれど悲しんでいないわけではないのだ。
絶望を感じていないわけではないのだ。
それを誰にも見せない分だけ、彼女は独りで苦しんでいる。
こんな人気のない朝の森に駆け込んで、孤独に膝を抱えて、渦巻く感情に耐えようとした。
独りで悲しみを吐露して、再び胸にしまいこんで、そうしてもう一度立ち上がるために。
今日はその場にたまたま自分が居合わせただけだ。
きっと居ても居なくても変わらなかった。
は全てを背負って、そしてその重みを抱えて、また笑うのだろう。
いつものように。
(いつものように?)
…………………………孤独のまま?
(気色悪ぃ)
神田は手を伸ばした。
視線すらそちらにやらずに、の首に腕をまわし、その頭を乱暴に引き寄せる。
反対方向を向いて座っていたから、の上半身は横向きに神田の膝の上に崩れ落ちた。
身を固くしたの顔を自分の胸に押し当てながら、神田は言う。
「慰めてほしいのならラビかリナリーのところに行け」
そうじゃないと知っている。
だから。
「それが嫌ならしばらくこうしてろ」
「かん……」
「顔をあげるな」
神田はには一瞥もくれずに、前を見つめたまま告げた。
「テメェの不細工な面なんて、俺は絶対に見たくねぇんだよ」
気持ち悪ぃ、と吐き捨てる。
苛立ちに舌打ちをする。
不機嫌を隠し切れずに、に触れた手に力がこもる。
きっと痛みを感じているだろう、けれど彼女は何も言わなかった。
ただ大人しく、神田にされるがままになっていた。
慰めの声などかけない。
悲しみに手を差し伸べたりはしない。
そんなことは望んではいないと、俺は知っているから。
だから今、お前の顔を見てたまるものか。
絶対に。
(そうすればお前は消えないと、わかっていた。ただ繋ぎとめるこの手さえあれば大丈夫なのだと、わかっていたんだ。 俺 は )
神田の手は痛かった。
強く強く押し付けられて、額はきっと赤くなっている。
けれど温かくてどうしようもなかったから、は幼子のように彼の服を掴んだ。
震えを殺すように指先に力を込めて。
「神田」
小さな声で呼ぶと、神田はまた舌打ちをした。
はそれでも続けた。
「神田はあったかいね」
目を閉じて、感じる。
「心臓がずっと動いてる」
「……止まってたらどうすんだよ」
「神田も生きてるもんね」
「だから……」
「神田は死ねないんだよね」
「………………」
「だから、死なないんだよね」
神田は一瞬体を強張らせて、を見下ろそうとしたようだった。
けれどすぐにそれをやめて、顔をあげる。
それを気配で感じていたら、彼はぶっきらぼうに言った。
「当たり前だろ」
抱き込まれた後頭部から一度手が離れて、すぐに戻ってくる。
べしりと勢いよく叩かれる。
「俺は死ねない。だから、死なない」
「うん」
「だから、テメェを不細工な面にさせることはない」
「………………」
「絶対にな」
あぁやっぱりなんて優しい人なんだろう。
は泣いてしまいそうになった。
だからかわりに微笑んだ。
心の温もりを、そのまま笑みにする。
「当然じゃない」
いつものように強気な声を張る。
「誰があんたを死なせるもんか」
神田の胸に顔を埋めたまま、は宣言した。
「死んだら私がぶっ殺す!」
「馬鹿かテメェ。死んでたら殺せねぇだろうが」
「生き返れ!」
「意味わかんねぇよ、ふざけんな」
小さく笑っていたら、もう一度強く後頭部を叩かれた。
怒ったのかなと思ったけれど、神田は何も言わなかった。
だからは口を開いた。
「神田。ごめんね……」
「何の話だ」
「いや、あの、何てゆーか。その……ね?」
「俺はテメェに謝られる覚えなんてねぇよ」
「……っ、かっこいい!神田めちゃくちゃかっこいい!でもごめんね!!」
柄にもなく気遣ってくれる神田に本当に申し訳なく思って、は涙目になった。
そして告白した。
「団服に鼻水つけちゃった……!」
「……………………」
「え、えへ。ごめんね!」
その瞬間、はこれ以上ないほどの乱暴さで神田に突き飛ばされた。
ぎゃあ!と悲鳴をあげて、後ろ向きにずっこける。
あ、今絶対スカートの中見えた!
そして強打した背中に激痛だ!!
「い、いった……ぁ」
「……………………」
痛みに震えていたら上から声が降ってきた。
見上げると、黒い影。
神田が仁王立ちになって、世にも恐ろしい形相でこちらを見下ろしていた。
「謝れ」
「は……?」
「謝れ!今すぐに謝れ!むしろ土下座だ、額と地面が同化するくらいの勢いで土下座しろ!!」
「えー、ごめんって言ったじゃない。それに鼻水がでたのは神田がぎゅうぎゅう押し付けてくれたからだよ。
友情の証と思って受け取ってよ」
「こんな小汚ねぇ友情があるか!そんな腐れたもん今すぐドブに投げ捨てて来い!!」
「やだ照れてるんだ?わかってるって、神田って雨の中で震えてる子犬とか拾っちゃう不良タイプだもんね!」
「うるせぇよ、拾うかよ!!」
神田は憤然と怒鳴り散らして、くるりと踵を返した。
そしてひどく乱暴な足取りで歩き出す。
「絶対に拾ってたまるか!!」
はふと気がついた。
あぁ、そうか。
今日、ここで震えていたのは私か。
だから彼は拾いに来てくれたのだ。
いつもの日課のついでに、さり気なさを装って。
「神田ってばテレ屋さん!」
自分を置き去りにして帰ろうとする神田の背中に、は勢いよく飛びついた。
すぐさま振り落とされたがめげずに隣に並ぶ。
「仕方ないなぁ、シャイなユウちゃんにお姉さんがアイスを奢ってあげよう!」
「いらねぇよ、俺は今から朝飯なんだよ、蕎麦を食うんだよ!!」
「じゃあ融合させてアイス蕎麦に!!」
「そんな気色悪ぃもん誕生させてみろ、すぐさまテメェの存在をこの世から消してやる!!」
「いいから素直に受け取ってよ。お礼なんだからさ!」
はそう言って微笑んだ。
胸の中の思い出に告げる。
死んでしまった仲間を想う。
貴方はもういなくなってしまったけれど、私は忘れたりなんかしない。
その悲しみも痛みも、流したりなんかしない。
そして絶対に負けないと誓うよ。
すべてを纏って未来へと歩いていく。
貴方達と共に。
は神田の手を握った。
驚いたように肩を揺らす彼を、精一杯の笑顔で見つめる。
「ありがとう」
そして神田の手を引いて走り出した。
「行こう、お腹すいちゃった!」
そこにいたのはいつもの二人だった。
強く強く立って、死と絶望を拒絶して、いなくなってしまった命の重みを抱えて、それでも生きていくために。
二人は明るい朝の光の中へと駆けていった。
(大好きだよ大すきだよ だいすきだよ だから絶対に守ってみせる!)
(こんどこそ きっと)
ひとり神田祭り開催中。(笑)
時間的にはアレンが入団する前ですかね。
神田とヒロインの関係はこんな感じだと思っています。
男女なんだけど恋人でもないし、友人ともどこか違う。(言葉がないのでヒロインは友達と言っていますが)
ただ大切な相手だということは間違いなくて。近すぎず、遠すぎず、傍にいてくれる人。
互いに尊重して、心地良い距離感を保っているというところでしょうか。
ちなみに神田に“死なない”と言ってもらったのは、私の願望が入ってます。お願いだから死なないでください。(切実に!)
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