トロイメライ。
遥かなる夢想。
この腐敗した世界で、僕は倒れることを夢見る。
けれどそれは君の優しい手が許さない。
Troumerei
「……………………」
黒の教団、アジア区支部支部長バク・チャンは待っていた。
方舟のゲートを睨みつけて、何だか苛々した様子だ。
口をへの字に曲げてぐるぐると小さな円を描きながら歩き続ける。
その落ち着かない所作に、仕事をしながらもジョニーはリーバーに耳うちをした。
「あの人、いつまでああやってるつもりですかね……?」
「そんなの決まってるだろう。あいつらが帰ってくるまでだ」
「はぁ……。やっぱり」
呆れ混じりの答えを受けてジョニーはため息をつく。
リーバーに至っては顔を覆ってしまった。
「しかも何か人が増えてるし……」
「おいユウ!オマエまでバク支部長と一緒に歩き回ってんなよー」
「うるせぇ、落ち着いて座ってられるか!!」
科学班一同の視線の先では、そんな会話が繰り広げられていた。
バクと一緒になって苛々と歩き回るのは病人服のままの神田。
その傍に座り込んでいるのはラビだ。
どうやって病室を抜け出してきたのか大いに疑問である。
しかも怪我人のくせに方舟の前に陣取って立ち去ろうとしない。
調査の邪魔になって仕方がないのだが、何故彼らがここにいるかということを考えると決して邪険にはできなかった。
科学班員達にできることはただひとつ。
「早くアレンを連れて帰ってきてくれ、……!」
そう祈ることだけだった。
「……っ、遅い!!」
ついに限界がきたのか、バクが叫んだ。
今までさんざんウォンがなだめすかしてきたのだが、とうとうキレてしまったらしい。
「遅い遅い遅い、遅すぎるぞ!!」
「ああ、もういい。俺が引きずり出してくる」
低くそう言ったのは神田だった。
バクより随分あとからこの場に居たくせに、短気な彼はもう我慢がきかないようだ。
お馴染みの『六幻』が修理中のため凶器を振り回すことはなかったが、凄まじい殺気を放って方舟へと歩き出す。
ラビは床に胡坐をかいたまま、片目で神田を一瞥した。
「無理だって。どんなにがんばったって、オレらじゃアレンのところには行けないさ」
「モヤシのことなんか知るか。俺がふん縛ってくるのはバカ女だけだ」
「だーから、そのはアレンのところにいるんだってば」
「…………っ」
「もうちょいアイツら信じて、待ってようぜ」
ラビがそう言ってやれば、神田はぐっと唇を噛んだ。
怒りに握りこんだ拳が怖い。
近づいたら問答無用で殴られそうだ。
一同はそう思って神田から距離を取った。
その向こう側では、バクが両腕を振り上げてわめいていた。
「の奴め、何をちんたらしておる!ウォーカーを連れてさっさと出て来んか!!」
「はいはい、バク支部長。ちょっとどいてください」
そう言っていきり立つバクを押しのけたのは、長身の男性だった。
婦長を引き連れて進み出てきた彼にバクは思わず目を瞬かせる。
「何だ。万年寝不足のデフォンではないか」
本部に勤務する医療班・班長の登場に、驚きの声を出した。
バクは腕を組んでラスティの横顔を眺める。
「珍しいな。究極に面倒くさがりの貴様が、こんなところまで出向くとは」
「婦長がうるさくてね。怪我人がまた二人も逃げ出したものですから」
そう言うラスティの背後では、神田とラビが必死に隠れようと、互いを押し合いへし合いしていた。
婦長の鋭い眼光がそれを射抜く。
けれど怒鳴るのをぐっと我慢して、彼女はラスティの後ろに控えていた。
ラスティは申し訳程度にバクに頭を下げた。
「どうも。お久しぶりですバク支部長。再会を祝してちょっと静かにしていてもらえますか。そっちの二人もね」
相変わらず抑揚のない声で告げて、ラスティは片手を婦長の方に差し出した。
そして何やら難しい単語で一気に指示をする。
婦長の抱えた救急箱からはありとあらゆる物が取り出されてきた。
ラスティは注射器に薬を入れて、針を調整しながら言った。
「焦っても意味はありませんよ。貴方たちにできるのは、のんびり二人を出迎える準備をするくらいだ」
「しかし、どうにも遅すぎる!彼らは重症人だというのに……」
「だからといって騒いでも仕方がないでしょう。特に神田君とラビ君。君たちまで病室を出てきたのは非常に面倒だよ。バク支部長ともども、あまり落ち着きがないようなら……」
そこでラスティは言葉を切って、誰からもよく見えるように手にしたそれを持ち上げた。
「この注射で静かになってもらうからね」
淡々とそう告げられて、アジア区支部長とエクソシストの二人は何となく蒼白になった。
何故ならラスティが手にしている注射は、巨大で痛そうな上に、得体の知れない奇妙な液体が入っていたからだ。
あんな色の薬、見たことない。
神田とラビは完全に沈黙した。
バクはぶるりと体を震わせて、何とか言う。
「お、俺様は怪我人ではないぞ!注射を受ける謂れなど……」
しかし、その言葉はそこで遮られた。
ドカァン!!と凄まじい破壊音が響いて、方舟の扉が粉々に砕け散ったのだ。
どうやら内側から蹴り破られたらしい。
のときと同様、完全に破壊される。
一度復元された扉は、またもや破片となって床の上に落ちた。
その場にいた者は驚きのあまり、揃って方舟のゲートを凝視する。
立ち込める煙。
床に落ちた破片を踏みしめて、ひとつの影が早足に歩み出てきた。
「ちょ、ちょっと、何で扉を蹴り開けるの?」
「だって、両手が塞がっているから」
吃驚したような少女の声と、焦りをまじえた少年の声。
蹴り破いた扉の向こうから出てきたのは、方舟の中で行方不明になっていたアレン・ウォーカーその人だった。
彼を捜しに入ったはというと、その両腕に横抱きに抱きかかえられている。
アレンは彼女に言った。
「方舟ならすぐに直せるから大丈夫。それより君の怪我の方が心配だ」
「平気よ。てゆーか何度も言ってるけど下ろしてください」
「嫌です」
「じ、自分で歩けるってば!」
「その怪我で?冗談じゃない。誰が許すもんか」
アレンは強い口調でそう断言した。
暴れるを叱って、そのままずんずん前進する。
「早く医療室で処置を…………」
そうして顔をあげて、ようやく自分達を凝視している大勢の団員達の存在に気がついた。
全員があまりに目を見開いているものだから、驚いて足を止める。
下ろせと訴えるを逃がさないように片腕で強く抱きこみながら、アレンは首を傾けた。
そして、きょとんと目を瞬かせて、
「あれ?皆、どうかしたんですか?」
そう訊いたのがいけなかった。
一瞬後、これ以上ないまでに盛大な怒鳴り声が黒の教団中に響き渡った。
どうやらみんな仲良くブチキレてしまったようだ。
全員が全員好き勝手に叫ぶものだから、何を言っているのかまったく聞き取れない。
とにかく鼓膜が死ぬほど痛い。
そのあまりの勢いにアレンが度肝を抜かれているうちに、腕からをかっ攫われた。
ひどく乱暴に彼女を奪い取ったのは神田だった。
睨みつけてくる黒い瞳に射殺されそうだ。
何か手ひどく罵られたが、周りの罵詈雑言と混ざってよくわからない。
アレンはそんなもの無視で金髪を追って手を伸ばした。
それはほとんど無意識の行動で、けれど指先がに届く前に科学班員たちに飛びつかれる。
「アレンー!」
「お前、どこまで奥に行ってたんだよー!!」
「なかなか出てこないから心配しただろうが!!」
「いや、あの……」
アレンがしどろもどろになっていると、軽く肩を叩かれた。
見上げてみるとリーバーだった。
何だか妙に安堵した様子だ。
「ようやく出てきてくれたか……」
「はい?」
「皆お前たちが帰ってくるのを待ってたんだよ」
「そうそう、一触即発の雰囲気でな」
反対側から頭に腕を置かれる。
振り返ればラビのにへら顔があった。
「やっと出てきたな、この引きこもり!」
彼の手がアレンの後頭部に触れて、白髪を乱暴にかきまわす。
「おかえり」
笑顔でそう言われたから、アレンはちょっと驚いた。
それから何となく緩んだ口元で呟く。
「………………ただいま」
少しだけ笑うと、ラビはますますアレンの頭をぐちゃぐちゃにした。
思わず悲鳴をあげて逃げ出す。
自分を囲む人垣を越えると金髪が見えた。
「こ……っ、の、バカ女が!!」
そこには神田とバクを筆頭に、猛烈に怒られているがいた。
床に置いたクッションの上で身を縮ませている。
傍にはラスティが膝をついていた。
「こら、なに隠してるの」
何とか皆の視線から逃れようとしていただが、ラスティにそれが通用するはずがない。
乱暴ではないが強引に促されてしぶしぶ腕をどけると、血の滲んだ患部があわらになった。
同時にまた何人もの怒声が飛ぶ。
「おま……っ、それは痛いだろう……」
「相変わらず無茶しやがって」
「どこまで血を垂れ流せば気がすむんだ、テメェは!!」
「ああ、もう本当に馬鹿娘としか言いようがない……!」
「や、その……、ご心配をおかけしまして…………」
は本当に申し訳なさそうにうなだれた。
周囲は気持ち的におさまらないらしく、それからしばらく説教を続けたが、ラスティが口を開いたので黙った。
「吐き気は?」
「ない、です」
「ただでさえ血が足りてないときに、ずいぶんとまぁ……。寒いでしょう」
「え、っと……。少し」
「とりあえず鎮痛剤」
「も、もしかして注射……!?」
「そう。でも、痛くはないよ。今よりは全然ね」
「…………………………」
「この激痛によく耐えられるものだ。さすが、と誉めるべきかな」
ラスティはあくまでいつも通りだったけれど、他の者はそうはいかなかった。
神田がを見下ろして唸る。
「テメェ……」
けれどそこからはどう怒っていいのかわからなくなったらしい。
を睨みつけたまま沈黙する。
隣からバクが口をはさんだ。
「見た目以上にそれの痛みはひどいのか?」
「はぁ……。まぁ、ただでさえ内臓破裂に、刺傷、裂傷、打撲、骨折等々の重症ですからね。そりゃあ痛いでしょうねぇ」
「う……。想像しただけで寒気がする…………」
「おまけに新しく怪我までしてきて。足を潰す気なのかな、この子は」
ラスティは言いながらの脚を横目で見る。
巻きつけたズボンの生地がじんわりと赤い。
にじみ出た血はいまだに止まっていないらしい。
は皮膚に進入してくる注射針の感覚に体を震わせながらも、微笑んで見せた。
「いいえ、そんなつもりはありません。だって負けないって決めてましたから。痛みにも苦しみにも、自分自身にも」
「……………………」
「それに、アレンにも」
ちょうどその時、アレンが人垣をかき分けて一番前に飛び出してきた。
彼は驚きに息を呑んで足を止める。
唇を動かしたけれど、声は出なかった。
はそんなアレンを見上げて言う。
「私は絶対に、あなたを諦めたくなかったから」
手放したくなかった。
どうしても失いたくなかった。
そう願ったのは、彼の心とか、絆とか、思い出とか。
そんなアレンの笑顔の理由だ。
それが、が絶対に諦めたくなかったものだ。
アレンは瞳を細めて、吐息のように囁く。
「……」
切ない声で呼ばれたから、わざといつものように笑ってみせた。
それから瞳を伏せて呟く。
「でも、まだまだだなぁって……思う。ちょっとがんばっただけなのに、傷口が開くわ、血は出るわ、みんなには心配をかけるわで、もうホントに」
言いながらだんだんと落ち込んできたのか、は肩を落として俯いた。
けれど途中で顔を振り上げる。
注射をうち終わった腕を取り戻すと、彼女はきちんと座りなおし、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
今だからこそ、やっとそう告げることができたのだろう。
は皆に向かって続ける。
「わがままをやってごめんなさい。心配をかけてごめんなさい。…………………それと」
声は、わずかに震えた。
「ありがとう」
言った途端、ラスティがぶすりと点滴針を刺した。
は痛みに悲鳴をあげる。
けれどそんなのは無視で何人もに頭を殴られた。
「い、っ、いた!痛い痛い痛い!!」
はぽかぽか叩かれて涙を滲ませたが、半分は嬉しさからだった。
何故なら拳に何となく温かいものを感じ取ったからだ。
「テメ……ッ、珍しく素直になってんじゃねぇよ!!」
「卑怯だぞ!これではもう怒れんではないか!!」
「このヤロ、このヤロ!!」
「ああもう、どこまでもお前らしい!!」
妙な罵り言葉を浴びせられて、は口元をゆるめた。
そしてわざと怒ったフリで返す。
「私がこうやらかしちゃうのは、皆のおかげでしょ!」
そう、それを皆が何気なく許してくれるからだ。
本当に温かく見守っていてくれるからだ。
はいくつもの痛い優しさを受け止めたが、なかなか拳をおさめてくれないのでさすがに避難を開始する。
ずるずるとラスティの方に寄って治療に専念しようとしたのだ。
けれど彼も彼で点滴針を必要以上に刺してくる。
結構痛い。
ちょっぴり泣きそうになっていると、後ろから勢いよく抱きつかれた。
これまた痛い。
「まったくオマエはー!!」
振り返らなくてもわかる。
ほとんど笑いながら叱ってくるのはラビだ。
「帰ってくるのが遅いんさ!このバカバカバカ!!」
「う……。反論できないけど、連呼はやめてマイベストフレンド!」
「いくら言っても足りないっての!ああ、でも」
そこでラビはの頭を撫でた。
親が子にするように、兄が妹にするように、愛おしさを込めて。
「…………がんばったな」
「……………………」
「うん。がんばった。オマエすごくがんばったさ」
「ラビ……」
「さすがマイベストフレンド!!」
ラビは怒っていたフリも忘れて破顔した。
痛みに泣きそうになっているを、笑いながら抱きしめる。
きゃあきゃあじゃれあっていると、治療の邪魔だとラスティに注意された。
婦長によって親友達は引き離される。
「ああもう、点滴がうまくいかないじゃないか」
「ちょ、ラスティ班長、あなたともあろう人が刺し間違いすぎじゃないですか、これはさすがに痛ーっ!疑いたくないけどもしかしてワザと!?」
「うん、ワザと」
「認めた!あっさり認めた!」
「君ってさぁ、むかつくよねー」
「しかも本人に向かって悪口だ!!」
「これだけめちゃくちゃやるくせに、きちんと“ごめんなさい”と“ありがとう”が言えるんだもんなぁ。これじゃあいつまでも怒ってるこっちが大人気ないみたいじゃないか。なんて腹の立つ。えい」
「いた!痛いですよっ」
「ささやかな報復だよ。素直に受けてなさい。痛いぶん、完璧に治療してあげるから」
言葉通りラスティはぶすぶすと注射やら点滴針を刺してくる。
医者にあるまじき暴挙な気がするが、彼の口元が笑みの形にゆるんでいるから文句も言えない。
はくぅと唇を噛んで、これまた痛い優しさを受け止めた。
「ラスティさん」
頭の上から声が降ってきた。
顔をあげると、アレンが傍にかがんでいた。
彼はひどく心配そうな瞳でを見下ろしている。
「は、大丈夫ですか」
「頭の中身はダメみたいだけどね。体なら大丈夫。俺が何とかするから」
「ちょっとラスティ班長!頭だって大丈夫ですよっ」
は咄嗟に反論したが、アレンは穏やかに首を振った。
「ああ、そっちはもう僕も諦めてるんで。気にしないでください」
そしてラスティに向けて笑顔を浮かべる。
何だとこのヤロ。
はそう思ってアレンに突っ込みを入れようと、パンチを繰り出した。
けれど普通にかわされる。
悔しい。
「うんうん。もう手の施しようがないからね」
「ああ、きっと死んでも治らないだろうな」
「さすがのデフォンも、馬鹿娘につける薬は持っておらんか」
「実際とユウってどっちが頭悪いんかなー」
「俺を引き合いにだすんじゃねぇ!!」
ラスティ、リーバー、バク、ラビ、神田と口々に言われて、は拳を震わせた。
確かにこちらに非はあるけれど、それにしたってひどい言い草だ。
怒りに腕を振り上げる。
「失礼なこと言うなー!」
「だって。あなたは彼のためにどんな無茶でもしでかすのでしょう?」
そう言ったのは婦長だった。
彼女はさらりとこう続ける。
「そのお馬鹿な行動を止めたくても、恋には特効薬も治療法もありませんし……。本当に困ったものねぇ」
瞬間、空気が凍った。
今なんか普通にすごいこと言ったぞ。
しかも“恋”とか猛烈にに似合わない単語が聞こえた。
一同は思わず婦長を見た。
彼女はテキパキと点滴のチェックをしている。
はしばらく唖然として、それから一気に真っ赤になった。
「な……っ、ふちょう!?」
「暴れないで。針が抜けてしまうわ」
「いや、だって今……!」
「安静にしていなさい。怪我はラスティ班長が治してくれるから」
ねぇ?と話を降られて、ラスティはちょっとだけ気まずそうに頷いた。
「うん、まぁ、怪我はね……。心のほうはアレン君に何とかしてもらいなさい。それは、俺にはどうにもできないことだよ」
「ほら、班長もこう言っていらっしゃるわ」
婦長はちらりとを睨みつけた。
「あなたが彼の精神安定剤みたいなものだってことは知っていたけど。薬の方も患者を必要としているみたいですものね。今回でそれがよくわかりましたよ」
「や、だから、ちょっと!何でそういうこと言っちゃうんですかぁ!?」
「今さらでしょう」
「しかもみんなの前でー!!」
「知らない人なんて誰もいませんわ」
「う、うそっ」
は慌てて周囲を見渡した。
何人かが露骨に目を逸らした。
何人かは妙に爽やかに微笑んでみせた。
バクは腕を組んでふんと鼻を鳴らし、ラビは複雑そうに後ろ頭を掻いている。
神田はひどく不愉快気に横目で睨みをきかせていた。
その鋭い視線の先にはアレンがいて、彼とぱちりと目が合ったから、はますます真っ赤になる。
超高速で顔を逸らした。
どうしよう、本当にバレているみたいだ。
みんなが自分の気持ちを知ってる。
こういうことに慣れていないはどうしていいのかわからなくて、頭を抱えてしまった。
ジロジロ見てくる一同の視線から逃れたいけれど、まだ怪我の処置中である。
少しでも動けば婦長に怒られる。
第一、誰も逃がしてくれるはずがない。
けれど恥ずかしくて死にそうだ。
は耐え切れなくなってラスティの白衣を掴み、それに顔を押し付けて隠した。
「ちょっと君。引っ張らないで」
「うぅ……」
何だか情けない声が出た。
ラスティ班長ってば冷たい。
離れなさいと言われたから、しぶしぶ白衣から手を引く。
けれど指先をほどいた直後、膝にばさりと上着をかけられた。
驚いていると強い力を感じる。
肩を抱かれてぐいっと引き寄せられる。
気がつけば、は誰かの胸に倒れこんでいた。
こうしていれば確かに顔を隠せるけれど、はよけいに真っ赤になった。
耳まで朱に染めて体を強張らせる。
何故なら抱きしめてくる人物がアレンだったからだ。
「ちょ……っ、なに、アレン……!うわっ」
「アレン君、そのまま支えててあげて」
「わかりました」
頭の上でアレンとラスティが勝手に会話している。
それより体のバランスが取れない。
ラスティが脚の止血をしようと、それをぐいっと持ち上げたからだ。
どうやら膝に上着をかけられたのは、そうすることで下着が見えないようにするためだったらしい。
はズボンを脱いでしまっているから、アレンが気をまわしてくれたようだ。
そして後ろに倒れそうになるのを彼の腕が助けてくれた。
けれどここまで密着する必要はないような……。
がアレンと見上げると、何だか彼の頬には赤みが差していた。
思わず何か言おうとするが頭を引き寄せられる方が早い。
額をアレンの胸に押し付ければ、完全に顔を隠すことができた。
でも、こんな。
結局恥ずかしい。
「あ、あの……」
「……………………」
「えーっと……」
「痛い?」
唐突にアレンが訊いた。
は一瞬きょとんとしたが、すぐに質問の意味を飲み込んだ。
首を振ろうと思ったけれど嘘はつきたくない。
だから言った。
「痛いけど、思いが叶ったから平気」
「……そっか」
「うん」
「、あの……」
アレンは何か言いかけたけれど、がわずかに呻いたから言葉を止めた。
視線をやると、ラスティが包帯をきつく縛り終えたところだった。
彼はの膝をぽんっと叩いて言う。
「はい、とりあえず応急処置はおしまい」
「あ、ありがとうございます」
「さぁ、病室に戻りましょう!」
「意気揚々だね婦長。アレン君、本格的な治療をするから彼女をベッドまで運んであげて」
「はい……」
アレンは何だか緩慢に頷いた。
ラスティたちが引き上げの支度をしている中、ため息混じりに言う。
「たぶん、しばらく会えなくなるね……」
「あぁ……、うん。怪我がよくなるまで婦長が出してくれないと思う」
「だったら、やっぱり今言っておくよ」
「え?」
が聞き返した瞬間だった。
アレンはその膝にかけていた上着を掴むと、ばさりと引き寄せる。
空中で翻ったその布の影、誰の視界からも遮られたそこで、二つの影がひとつになる。
アレンがの顎を掴んで、その唇にキスをしたのだ。
一瞬だけ触れた温もりに、は目を見張った。
上着が床に落ちて光が戻ってくる。
アレンは微笑んだ。
「。迎えに来てくれてありがとう」
そうして唇をの耳元に寄せると、何かを小さく呟いた。
歌うように、楽しそうに、愛を囁いた。
瞳を合わせてもう一度微笑む。
それは心からの笑顔だった。
だからも笑った。
幸せに胸を満たして微笑みを交わした。
どちらからでもなく腕を伸ばして抱きしめる。
旋律のように奏でられた想い。
「おい、テメェら何をした……?」
ふいに近くでそんな声がした。
猛烈な怒りのオーラを感じる。
けれどアレンとは振り返らなかった。
そうしなくてもそれが神田だということはわかっていた。
「いや、今絶対“ちゅっ”って音したよな!?」
わたわたと訊いてくるのはラビだ。
他の者もざわめいてはいるけれど、何となくなかったことにしてくれているのに、この二人ときたら問い詰める気満々だ。
後ろでバクとリーバーが大業なため息をついた。
「なぁ、したんか!?しちゃったんか!?」
「答えろテメェら!!」
「はい?そんなこと訊きたいんですか?野暮ですね」
「やぼやぼ!てゆーか恥ずかしいこと訊かないでよ……っ」
「赤くなったさー!」
「やっぱりかよ……っ」
思わず頬を染めたを見て、ラビは叫び、神田は唸った。
アレンは何となくにこにこしていた。
そんな白い少年の肩に腕をまわしてラビが言う。
「んじゃあさ、アレン!のがどんな具合だったか詳しく教えてくれ!!」
「何でそうなるんだよ、馬鹿ウサギ!!」
神田が怒鳴ったが、アレンは平然と顎に手をあてた。
「ええ、まぁ……イイ感じにいいとしか言えませんね。これ以上は教えられません、教えたくありません!!」
「アレンもなに普通に答えてるのバカー!!」
顔を真っ赤にしたが悲鳴じみた声をあげる。
咄嗟にアレンから離れようとしたが、がっちり抱き込まれていて叶わない。
その頭上では、なーなーいいじゃん!もっと詳しく頼むさぁ!嫌ですよ僕のものなのに誰が教えますか!とか何とか、好き勝手な会話が展開されていた。
その脇でぶるぶるしていた神田が盛大に声を張る。
「テメェら……っ、全員表に出ろ!!」
「ユウパパが怒ったさー!」
「勝手に怒っててください。僕はを連れて行かなきゃいけないんで」
「って、ひゃあ!どさくさに紛れて変なとこ触るなアレン!!」
「おいおい、そこはマズイって!オレでも止めるって!!」
「もういい、一秒だって我慢できるか!今すぐ斬り捨ててやる!!」
「嫌だなぁ、騒がないでくださいよ。こんなのは不可抗力でしょう。ねぇ?」
「それが腰を撫であげながら言うことか、このエセ英国紳士ー!!」
四人は本当に重症人なのか疑いたくなるくらい、元気にぎゃあぎゃあと騒ぎ出した。
神田は烈火のごとく怒り狂い、ラビは何だか赤くなったり青くなったりと忙しい。
は笑顔の少年から逃れようとさんざんもがきまわっていた。
アレンはそんな彼女を丁寧に抱き上げて(その際、柔らかい感触を思い切り楽しんだ。もちろん不可抗力で!)、足取りも軽く歩き出す。
神田とラビの叫び声が追いかけてきたが、完全にスルーだ。
そのままを攫うようにして足を進め、最後に振り返って微笑んだ。
「医療室で待ってますねラスティさん。治療のほう、よろしくお願いします」
そしてきちんと一礼すると、優雅に扉から出て行った。
何となくぽかんとする一同と、騒がしい神田とラビ。
早く行きましょうと促す婦長を横目に、ラスティはため息をついた。
「アレン君……完全にいつもの調子を取り戻してる。さすがは君だなぁ」
あれだけ彼は心を閉ざしていたというのに。
本当にさすがだと思う。
けれど、何だか呆れ混じりな口調になってしまった。
さぁ病室へ!急かしてくる婦長は、いつの間にか神田とラビを引きずっている。
その仲間入りをするまいとラスティは重々しく頷いた。
そしてもうひとつの懸念を呟いた。
「うん、急ごう。でないと彼は、エセでも紳士ではいてくれないだろうから」
廊下の向こうからの悲鳴が響いてきたのは、その直後だった。
「誰も見てないからって、こういうことしないでー!」
「今さら。方舟の中でさんざんしたのに?」
「そ……っ、そういうことも言わないでっ」
「はぁ……。は文句が多いな」
「ため息つきたいのはこっちだぁ!!」
「うるさい」
そこで唇で唇を塞がれてしまったので、の声はくぐもった悲鳴に変わった。
身を引こうにも抱えられているからうまく動けないし、何より頭を押さえられている。
それでもジタバタがんばっていると、アレンはようやくキスを止めてくれた。
助かったと思って息を吸い込む。
瞳をあげればアレンが軽くこちらを睨んでいた。
何だろうその目。
さっきだって何だろう、あのしぶしぶ離れてやるといった態度は。
「ちょっと性急すぎませんか、アレンくん」
思わずそう言えば、アレンはつんとした調子で返した。
「普通だよ。むしろ、これからしばらく会えなくなるって言うのにずいぶん我慢してると思う」
「すごい自己評価だね!」
「自分で自分を誉めてやりたい気分ですが、何か?」
「わかった。わかったから、笑顔で睨み付けるのはやめて!」
その壮絶な微笑みに震え上がったは、何とかなだめようとアレンの首に抱きついた。
身を寄せて髪を撫でる。
ああ、でもこのくらいじゃ駄目かな。
はそう思って、そっとアレンの顔を窺った。
その頬は何だか赤かった。
どうにも彼は、とことん“から”というのに弱いらしい。
思わず口元が緩んだが、一瞬後には悲鳴をあげていた。
またアレンが変なところを触ったからだ。
「だから、ちょ……っ、やめてってば!」
「不可抗力なので止めません」
素敵な笑顔でアレンはそう言い切った。
彼の指先がのふくらはぎをなぞり、膝裏を撫でて、太腿に達する。
下着が見えないように膝にかけてくれた上着が、ちょうどそれを隠していた。
だから本当に肌に感じるものだけが鮮明で、はこれ以上ないほど真っ赤になった。
「ばか、もうアレン!」
「…………そんなに止めてほしい?」
「そ、そりゃあ……」
「じゃあ、お手並み拝見。、僕を止めてみせて」
「……………………」
アレンは小首を傾げてにっこりと笑った。
けれど少しいつもと違う。
何だか目がキラキラしている。
悪戯っ子が甘いお菓子を期待するような表情だ。
つまり何だ。
私にアレンが満足して、思わず手を止めるようなことをしろと?
そういうことか。
アレンはきっと自分にはできないと思っているのだろう。
今までさんざんそういうことは止めろと訴えてきたのだから。
けれどそんなのは何だか悔しい。
だからはアレンの胸倉を引っ掴んだ。
ぐいっと引き寄せて唇を寄せる。
耳元で小さく呟いた。
どこにも流れていかないように。
アレンの心にだけ響くように。
そっと愛を囁いた。
アレンの目が見開かれる。
手どころか足まで止まった。
呆然と見つめてきたから、はその顔を睨みつけて微笑んだ。
「だから、あなたは私を見くびってるって言うのよ」
そう告げてやれば、今度はアレンの顔が真っ赤になった。
何か言おうとしたけれど声が出ないようだ。
とりあえずは待った。
何とかぎこちない呼吸を繰り返したあと、アレンは思い出したように歩き出す。
何だか早足だ。
そしてを見ないまま呟いた。
「そんなこと、言ってくれると思ってなかった……」
「え?どうして?」
「だって……、僕が一方的に想っている期間が長かったし……。僕が言ったって、君がハッキリとそう返してくれたことはなかったじゃないか」
言われてみればそうだ。
アレンはもう喜んでいるのか非難しているのか、よくわからない口調になっていた。
混乱しているのだろうかとは思う。
「だから、今までずるずるとよくわからない関係でいて」
「あー……、うん。ごめん。私、言葉よりも行動で示す人間なの」
「知ってるよ。今日がいい例だ」
「でも、私の気持ちは知ってたでしょ?」
「知ってた……って言うのかな。そうだと喜んだこともあったし、自惚れだと落ち込んだこともある」
「ああ、なんという微妙なすれ違い……」
「君が僕くらい言ってくれればいいんだよ」
そこでアレンは妙につっかえた。
「す、すきだって」
「…………さっき言った」
「もう一度言ってよ」
頬を染めたアレンがそう呟くから、は自然と微笑んだ。
そして思う。
これがあなたを幸せにする魔法だったらいい。
私だけの、魔法だったらいい。
はそんな願いを込めて、そっと呪文の言葉を紡ぎ出した。
そして終曲。
けれど旋律は止まらない。
君が存在する限り、この想いに終焉はこない。
さぁ今日も愛を奏でよう。
ト ロ イ メ ラ イ 。僕の夢、君をあいしてる。