私の日常はどこへ行った?
● 笑顔の在処 EPISODE 1 ●
二人は向かい合っていた。
間合いをとり、構えた木刀越しに互いを睨みつける。
ぶつかり合う視線。黒と、金の瞳。
一方は青年、もう一方は少女だった。
青年の名は、神田。少女の名は、。
二人は鍛錬場の中央に陣取り、数分もの間 睨み合ったままピクリともしない。
しかし彼らをよく知る者はこれから始まるであろう激戦に固唾を呑んでいた。
二人を囲むように人垣が出来ているにも関わらず、声どころか物音ひとつ聞こえてこない。
その異常なまでの静寂の中、は両手で木刀を握りなおした。
神田も体の向きをわずかに変え、片手で構えた木刀の切っ先をに向けなおす。
互いにそれとは知れぬほど微かな動きで相手を窺う。
そして、また、沈黙。
空気が張り詰め、耳が痛む。
どれぐらいそうしていただろう。
突然、物音がした。
鍛錬場の扉を開ける音だ。
それはあまりに日常的な音ながら、空間に凝結していた時を突き動かし、新たな世界を創造する。
瞬間、二人は床を蹴った。
掻き消えたかのようにすら見えるスピードで、木刀の腹同士が激突。
力なら押し負けると読んだが組み合っていたそれを弾いたが、反撃は神田の鋭い剣戟によって封じられた。
さすがに神田の剣術は完成されていて、隙がない。
対するは剣術と呼ぶには型破りで、軽い身のこなしとスピードを武器にしている。
何度も二本の木刀が打ち鳴らされる。
不意に神田の突きがの頬をかすめた。
群衆はヒヤリと息を呑んだが、は―――――――――――鮮やかに笑って見せた。
彼女の持つ木刀が神速で突き出された神田のそれの下に潜り込み、跳ね上げる。
乾いた音が大きく響いて神田の腕が真上を向く。
がら空きになった彼の懐には躊躇もせずに飛び込んだ。
その金の瞳が不敵に光り、木刀が力の限りで振り撃たれる。
しかしその一撃を、神田は獣じみた動きで身を低くして避けた。
思いがけない速さで回避され、は目を見開いた。
驚きに一瞬 動きが鈍る。
そんな彼女のわき腹を神田の木刀が狙う。
は間一髪、屈んだ神田の肩に左手をつき、ぐるりと体をまわしてその向こう側に着地。
振り向きざまに攻撃を打ち出したが、それより一瞬早く神田の木刀が首筋に突きつけられた。
の木刀は神田の心臓に、わずかばかり届いていない。
数秒の静寂。
が口を開いた。
「くっ、悔しい!また負けたー!!」
たった今まで素晴らしい剣の試合を披露していた者とは思えない、子供のように素直な大声だった。
真剣な表情は消えてまるで別人。
それを契機に周囲の人々も騒ぎ出す。
「いやーすごかったなぁ!」
「相変わらず手に汗握る」
「おしかったですね、さん」
「神田相手じゃ仕方ないって」
周りの様々な反応を背にして、は神田を上目づかいに睨みつけた。
「本気で悔しい!どうして何度やっても勝てないかなぁ」
「寝ぼけてんのか。いくら相手がお前でも、この俺が剣術で負けるわけねぇだろ」
神田はくだらなさそうに言って木刀を下ろした。
妙に頬を高潮させた少女たちが差し出してきたタオルと水の入ったボトルを受け取る。
そして同じように顔を赤くした男たちが二つをに手渡す前に、彼女にそれらを投げ渡してやった。
先にタオルを頭から被せてしまったので視界が利かず、はボトルを頭で受けた。
すこーん、と響く音。
「痛いよ神田!」
「いい音がしたな。空っぽだからか」
「よーしいい度胸だ、もうひと勝負しよう。今度こそメッタメタのギッタンギッタンに
してやる!」
「ふざけんな、少し休憩させろ」
「逃げるなーっ」
「逃げてねぇよ。何試合連続でさせるつもりだテメェは」
神田はばっさりと言い捨てると、ボトルに口をつけて水を飲み下した。
何しろ朝からぶっ続けで鍛錬しているのだ。さすがにそろそろ息があがってきた。
体力的に考えてのほうが疲れていそうなものを、彼女は元気に胸を張る。
その肩は激しく上下していたが、金の瞳はまるで星のように爛々と輝いていた。
「ふふん、これくらいで根をあげるなんて神田もまだまだだね」
「人間としてまだまだのテメェに言われたくねぇよ。それだけ息を切らしといて、よくまだ勝負を挑む気になるな」
神田は首筋の汗を拭いながら、呆れた表情になった。
「その異常な挑戦欲はどこから来るんだ」
「とりあえず剣術で神田に勝つまでは諦めないつもり!」
明るくすごいことを宣言されて、神田は軽く眉をひそめた。
そういえばコイツは出逢った当初からそれの一点張りだった気がする。
今更ながらそのことを不思議に思って、切れ長の黒い瞳で彼女を見やった。
「どうしてそこまで剣術にこだわる。他の武術でなら、俺から勝ちをとったことが何度かあるだろ」
不審気な口調でそう訊かれて、は一瞬きょとんとした。
それからボトルの水を一口飲んで、神田を見つめてにやりと笑う。
「だって剣術で神田に勝ったら、それはもう愉快じゃない」
「……………………」
「イノセンスが刀なのに。誰よりも剣士然としてるのに。私に負けたら、神田ってばすごく面白いことになるよね。“え、あの神田が剣術で負けた?ププッ!”みたいな心温まる展開を私は希望してるんだよ!!」
「………………………………………………」
神田は無言で『六幻』に手をかけた。
その動作に周囲の人々は悲鳴をあげ、もひっと息を呑む。
ヤバイヤバイヤバイ!!
今度こそ本気で斬られると本能的に察知したは、大きく両手を振った。
「ああーっと、今のは冗談で!」
目の前で強烈な殺気を放つ神田をなだめるように、ピッと人差し指を立てる。
「私の特技って知ってる!?」
「はぁ?」
突然言われて神田は口を歪めた。
話題に引っかかった証拠だ。
どうやら意識を“斬る”こと以外に向けさせることが出来たらしい。
その手が『六幻』から離れたのを見て、は心の中でガッツポーズをきめた。
よかった神田っておバカさんで、なんて誤魔化しやすい!
「お前の特技?いつでもどこでも暴走できることか?」
「よーし後で体育館裏に来い。無論ひとりでね!」
「誰が行くか」
「なんでよ、もしかしたら愛の告白かもしれないじゃない」
「なおさら行くか!!!!」
「うわ全力で拒絶したよムカつく!違いますー、私の特技は武術全般なんですー!だから剣術も得意ってわけ」
は大げさにため息をついてみせた。
「でも、どうやっても神田には勝てない。いつでも本気のさんとしましては、大変悔しいわけですよ」
なるほど、と神田は納得の表情を見せた。
誤魔化そうと言い出したことだが、これはこれでの本心だった。
生来の負けず嫌いに加え、師匠に叩き込まれた様々な武術。
血反吐を吐きながら鍛錬した日々は良い思い出を軽く通り越してひどいトラウマだ。
剣術のプロフェッショナル神田に勝とうだなんて無謀かもしれないが、それでも諦めきれないのが自分というもの。
「というわけで神田。早く私にコテンパンにやられちゃってください!」
は元気よく言って、敬礼のように片手を振った。
周囲の者たちはまた神田が抜刀するのではないかと緊張したが、彼は顔をしかめただけだった。
「どうでもいいが、似合わねぇ敬語はやめろ」
「似合わないって失礼な……ってなんで?」
「嫌な奴を思い出すからだ」
吐き捨てるようにそう言って、神田は後ろを振り返った。
はつられるようにその先を視線で追って、あっと声をあげた。
そこにいたのは白髪の少年。
つい先日入団したばかりの新人エクソシストである。
彼は鍛錬場という場所にふさわしく、動きやすそうな黒いシャツとズボンを身につけていた。
名前はアレン・ウォーカーというのだが、ごたごたしていてはそれをまだ記憶できていない。
アレンは突然話をふられて、驚きに目を見張っている。
「あんたこの間の!」
は思わず叫んで、勢いよくアレンを指差した。
しかしその弾みで、思いがけないことが起こった。
指差すのと同時に、同じ手に持っていたボトルが空を切ってしまったのだ。
「あ」
驚いてみても、時すでに遅く。
それは猛烈なスピードでアレンめがけてふっ飛んでいった。
「うわっ!?」
アレンは寸前のところで、左手でボトルを受けとめた。
水が入っているから相当な威力だったが、それだけでは説明できない衝撃が掌に残っている。
「馬鹿力……」
思わず呟いて、アレンはをちらりと睨みつけた。
「こんにちは。随分な挨拶ですね」
「違うって!今のは手が滑ったんだよ。当たればいいなー何でうまいこと受け止めてるのさ!なんて思ってないよ」
「………何か僕に恨みでもあるんですか?」
呆れたような、怒っているような声でそう訊かれて、は何となく思い出した。
つい先日起こった、彼との色々。
主に、顔のラクガキ。
「いえいえ恨みなんてないけど、この間はどーも。紳士のチョビヒゲはなかなか落ちなくて素敵だったよ、しつこさも作戦のうちかなぁ!」
「いえいえ礼にはおよびませんよ。君の犬ヒゲだってなかなかの粘り強さでした、僕の頬が真っ赤になるくらい!」
「………何の話だ?」
神田が不審そうに眉をひそめているが、アレンとはお互いに満面の笑みを浮かべて無言の睨み合いを展開していた。
「…………………」
「…………………」
「……………………………」
「……………………………」
「………………………………………………泣いたくせに」
「!?」
がぼそりと呟くと、一瞬にしてアレンの表情が変わった。
その柔和な顔立ちが歪み、白い頬が真っ赤に染まる。
は、あれ?と目を見張った。
だがその理由を聞く前に、吹っ飛んできたボトルがの頭に凄まじい勢いでぶち当たった。
ずこーん!とこれ以上ないくらいイイ音が響き、その瞬間 猛烈な痛みがを襲う。
「いったぁぁぁぁああ!!え、や、何コレ新しい衝撃!お星様がキラキラしてるよ綺麗だね!うんっ」
激痛のあまり、は自分でも訳の分からないこと口走りながら、ボトルを投げつけてきた(正しくは投げ返してきた)張本人を見つめた。
涙でにじんだ瞳に映ったのはアレンの呆然とした顔。
痛みに震えると、自分の左手とを見比べている。
「何ちょっと驚いてんの!?ものすごい勢いでボトルを投げつけてきたくせに!この激痛を生み出したのは紛れもなくあんただからね!!」
「………………」
「おいコラ何とか言えっ」
「……え、あ!すみません、大丈夫ですか!?」
アレンはハッと我に返ると、ひどく慌てたようにに駆け寄ってきた。
それはが驚くぐらいの慌てっぷりで、無意味に両手をわたわたと動かしながら、謝罪を口にした。
「本当にすみません!あんなことするつもりはなかったんですけど無意識のうちに……」
「いや、それはそれでかなり失礼な気もするけど……」
言いながらは考える。
確かに目の前のこの少年は、間違っても女の子にボトルを投げつけるような奴ではないはずだ。
的にはまだよくわからないが他の団員の評判はすこぶる良く、特に紳士的だと聞いている。
その証拠に鍛錬場にいるすべての人間が、先ほどのアレンの行動に驚いていた。
神田ですら目を見張っているのだ。
この間のとの一件があるが、それでもここまでする人物だという印象は受けていない。
「……そんなに泣いたって言われるのが嫌なの?」
思わずそう訊くと、アレンの顔が再び赤くなった。
また何かされるのかと身構えただったが、今度は肩を掴まれただけだった。
かなりの勢いでそれなりに痛かったが、先刻の比ではない。
「そのことは二度と言わないでください……!」
顔をぐっと近づけられて、小声で強く言われる。
はその剣幕に冷や汗をかきながら、目を瞬かせた。
「な、なんで?」
「あれは僕の一生の不覚なんです、忘れたくてたまらない過去なんです、自分が許せないんです、思い出しただけで死にたくなるんです……!!」
「は、はぁ……そうなの」
「頭がカッってして、仮にも女の子に問答無用でボトルを投げつけてしまうほど凄まじい威力を持ってるんです………!!」
「あ、あの、仮にもって何かな……?」
「だから絶対に!もう二度と!口が裂けても!言わないでください!!!!」
一気にまくしたてられて、は壊れた人形のようにカクカクと首を縦に振った。
誰だ、この人を温厚な少年だって言ったの。
めちゃくちゃ怖いよ。目がマジだよ。ここで頷かなかったら呪われそうな勢いだよ。
「お前らがそんなに仲が良かったとはな」
突然横からそう言われて、アレンとは振り返った。
見るとそこには、憤然と腕を組んでこちらを睨みつけている神田がいた。
その仏頂面ですら今のには救い以外のなにものでもない。
目の前の怖い白髪少年から逃れられるのなら、すがりがいのない藁にだって食らいつくのがだ。
だが、しかし。
「なに神田、ヤキモチ?」
「寝言は寝て言え」
嬉しさのあまり思わずはしゃぐと、神田は猛烈な冷たさでそう吐き捨てて、くるりと二人に背を向けてしまった。
「え、なっ、神田!どこ行くの!?」
「五分休憩だ。時間になったらすぐに再開するぞ」
それだけ言い残して、神田は鍛錬場の休憩室に向かって歩き出す。
はその後ろ姿に大声で訴えた。
「いや、ちょっと待って!これのどこが仲良さそうに見えるの!?おかしいからさ!!」
だからこの人と二人っきりにしないで!置いてかないで!!
はそう叫びたかったが、それより早く神田は行ってしまった。
「あ、あのバカ侍 本気で裏切った!今晩 私が食堂中の蕎麦を食い尽くしてやる!欠乏症になって苦しむがいい……!!」
最高の呪詛を込めて、は低く低く呟いた。
それを聞いたアレンが激しく引いていることなど知らずに、は彼へと視線を戻す。
さて、これからどうしようか。
とりあえず逃げる算段をしよう、とは思った。
冒頭で、鍛錬場の扉を開けたのは、実はアレンです。
鍛錬しようと思って来てみれば、ヒロインと神田がなにやらハジけていたのでしばらく見ていた主人公。
次はヒロインがアレンにアクティブに絡みます。
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