ページの隙間、文字で囲んで。
栞のように挟んでしまえば、此処に留まるしかできない。
日曜日は来ないよ、
ソロモン・グランディ。
● マザーグースは放課後に EPISODE 1 ●
その場所は想像以上に広大で、荘厳で、何より孤立していた。
冬を間近に控えたイギリスの空はぼんやりと灰色がかる。
背の高い貴婦人に導かれながら、長いポーチを歩いていたアレンは、まるで自分の心情のようだと思った。
霞むような雲から覗く柔らかな陽光。
そう、不安の中に見え隠れする期待。
僕は少なからず、今から起こることを楽しみにしている。
「ウォーカーくん」
名前を呼ばれてハッと顔を前に戻す。
見慣れない情景に目を奪われすぎていたらしい。
婦人の話に適当な相槌が返せないなんて、何て失態だろう。
アレンは謝罪を込めて微笑んだ。
「失礼。ミセス・フェルディ」
「……生徒は“フェル先生”と呼びます」
眼前の女性はにこりともせずに呼び名の訂正を求めてきた。
釣り上がった細い眉に、きちんと引き詰めた茶色の髪。
上を向いた鼻に掛けられているのは赤縁の眼鏡だ。
物語にでも出てきそうな“女教師”然とした彼女は、レンズの向こうで小さな瞳をますます細めてみせた。
その視線が値踏みをするものだったから、アレンは英国紳士として恥ずかしくない笑顔を浮かべる。
「重ねて申し訳ありません、フェル先生。初めての場所に少し緊張しているようです。どうぞお目こぼしを」
「……貴方の立ち振る舞いは大変結構。しかし、学園の中ではふさわしくありません」
フェルディはじろりとアレンを見下ろした後、顔を背けるようにして再び歩き出した。
「教師は言うまでもなく、他の生徒を前にしたときは慎みなさい」
「どこか問題でも?」
「目立ってはならない、という私からの忠告です」
アレンはフェルディが前を向いているのをいいことに、思い切り半眼になって首を傾げた。
目立つ?僕が?
品行方正で清廉潔白、見た目も中身も控えめなこのアレン・ウォーカーが?
そんな馬鹿な。金髪暴走娘や万年抜刀男じゃあるまいし。
アレンは当然のようにそう考えたけれど、フェルディによって一刀両断された。
「過度に丁寧な口調や親切な行為はお止めなさい。とても“普通”の少年には見えませんよ」
……まさか、この英国紳士然とした態度を咎められるとは。
予想外かつ初めての経験に、アレンはちょっと唖然とした。
つまり、もっと粗暴でいろと?年相応に。少年らしく。
なかなか無理な注文だ。
マナに出逢う前の自分を思い出してみるけれど、それを今実践してみせるには難しいものがあった。
「……肝に銘じます」
アレンは殊勝に返事をしたものの、フェルディの言を承服しかねていた。
だって、僕が“目立つな”と言われてしまう対象ならば、彼らは一体どうなるんだ?
その答えは、いくつものアーチをくぐり、本館に至る寸前で得ることになった。
「あなたの部屋は男子寮の3階、奥から2番目です。後で寮監に案内を……」
つらつらと校内生活の説明を続けていたフェルディの顔が不意に陰った。
また太陽が雲に隠れたのかと思ってアレンは視線をあげる。
赤い煉瓦の敷かれた道の上から、校舎越しに空を仰ぐ。
「!?」
その一瞬後には、影はアレンの上へとかかり、目を見開くと同時に衝突。
見事に地面へと押し倒された。
痛い。けれど、そんなことはどうでもいい。
アレンはぶつけた後頭部をさすりながら、自分の腹の上に鎮座した人物を見上げた。
つまり、校舎の4階の窓から跳躍して、こちらへと飛びかかってきた大馬鹿者を。
「い、痛たたた……」
アレンの胸で額を打ったのか、そこに突っ伏したまま呻いている。
ぶつかった衝撃で吹き飛んだのだろう、カバンや教科書や脱げてしまった靴、弦の曲がった眼鏡が音を立てて落ちてくる。
最後に落下してきたのは何故だか食パンで、一口だけ齧った跡がついていた。
「いっけなーい、遅刻遅刻!……っと、ぶつかっちゃったぁ!!」
わざとらしい。
しかもちょっと涙声だ。
予想していたより衝突の痛みが強かったのか。
「転校初日の朝に鉢合わせるだなんて、これはもう運命だよね!今後の展開は決まっちゃったよね!そう思わない!?」
思わない。断じて思わない。
「そういうわけで、お約束!かわいい君にフォーリンラブ!」
そろそろ殴り飛ばしてもいいだろうか。
馬鹿の頭越しに見えるフェルディの顔が、それを許してくれそうな感じに歪んでいる。
「さぁ、ここで私とめくるめく愛の学園生活を始めよう!!」
絶対に嫌だ。
「ハッピースクールデイズにようこそ、お嬢さ……」
そこでがばりと身を起こした馬鹿は、途端に完全硬直した。
アレンはその凍りついた笑顔を、もっと冷ややかな目で見つめる。
知能指数の低い人間を蔑む、絶対零度の眼差しだ。
「あ、あれ……?」
冷や汗をだらだら流しながら後退してゆくけれど、いまだにアレンの腹に跨ったままだから逃げるにも限度があって、膝を立ててやればそこに背中をぶつける。
「ひぃ」と肩をすくませると、恐る恐るアレンを覗き込んできた。
「リナ……、じゃなくて。お、女の子が転校して来るって聞いてたんだけど……?」
「僕が女性に見えますか」
「…………………………いいえ」
首を振った拍子に長い髪が流れて頬にかかった。
きっちり三つ編みされたそれを片方引っ掴む。
アレンは金髪の少女に微笑みかけた。
「誤情報を鵜呑みにしないでください。相手を確かめずに突撃しないでください。4階からスカートで飛び降りないでください。それと……」
「……それと?」
びくびくと身を縮ませる少女に、アレンは満面の笑みを浮かべる。
同時に額に青筋を。
「とっとと退け、この馬鹿!!」
あまりにも腹が立ったので、三つ編みを思い切り引っ張って、自分の上から振り落としてやった。
学園。
此処の呼び名はそれだけだ。
その単語を口にすることで、伝わる“意味”がある。
表向きは名門校の出としていても、その実「学園の出身だ」と告げれば、顔色を変える者が何人いるか。
さぁ、よく観察して。
眼前の人物は、世界を動かす逸材か。それとも、世間から捨てられた廃材か。
見極めの力も此処で習得するべきスキルのひとつだ。
「転校生を紹介します」
教卓に立ったフェルディが淡々と言い、廊下にいるアレンに視線を投げる。
入室の促しだ。慎重に一歩を踏み出す。
戸をスライドさせて身を滑り入れると、いくつもの目が好奇の矢を放ってきた。
ぶすぶすとアレンの全身に刺さって染み込んでゆく。
それはたちまち毒となり薬となり、此処での“僕”を創りあげる。
いつも笑顔で優しくて、礼儀正しいアレン・ウォーカー。
自分の外見や雰囲気から大体においてそう期待されることは知っていたし、その通りに振舞いたい気持ちもあった。
「自己紹介を」
相変わらずフェルディはぴくりとも笑わない。
だからというわけでもないけれど、アレンは教卓の横で体の向きを変え、教室内にいるすべての生徒へと微笑みかけた。
柔らかく優雅な笑顔を浮かべる。
「はじめまして」
クラスの人数は30人もいなかった。
等間隔に据えられた机に、男女が交互に腰掛けている。
色とりどりの髪の色。肌と瞳のコントラスト。人種は様々だったけれど、立地の関係か白人が一番多いように見えた。
品定めするような男子の眼。くすくすと笑い合う女子の声。
「今日からこのクラスに転入することになりました」
穏やかな調子で言いながらもアレンは内心眉をしかめていた。
窓際の一番後ろの席に、例の金髪を発見したからだ。
彼女はこちらを見もせずにやたらと眼鏡を触っている。
どうやら今朝の衝突事件で調子がおかしくなってしまったらしく、油断していると鼻先からずり落ちてきてしまうようだった。
「アレン・ウォーカーです。よろしくお願いします」
名前を口にした途端、わずかにざわめきが起こった。
「ウォーカーだって」「本当に?」「もしかして」「いや、まさか」、そんな囁きがあちらこちらから聞こえてくる。
意味がわからなくて瞬くと、一番前に座っていた女子生徒が言った。
「あなた、あの子の知り合い?」
指差されたのは、金髪の少女だった。
アレンはもう何度か瞬いた。
なぜ名乗っただけで、あの馬鹿の関係者扱いをされなくてはいけないのか。
しかも当の本人は完全に眼鏡を取り落として、必死にアレンから目を逸らそうとしていた。
「地縁血縁かしら?」
「詮索はおよしなさい、マフェットさん」
フェルディがたしなめたけれど、女子生徒は言い募った。
「だって、転校生がまた“ウォーカー”だなんて。こんな偶然ありますか?」
アレンはそこで何となく笑顔になった。
金髪の少女はというと、限界まで小さくなっていた。
「……つかぬことをお聞きしますが」
アレンは誰にともなく問いかける。
「彼女のお名前は?」
「……・ウォーカーさんですよ」
隣でフェルディがため息と共に答えてくれた。
“・ウォーカー”は非常に居たたまれない顔でアレンと目を合わせたあと、今にも死にそうな感じに微笑んだ。
「ど、どうも……」
「何よ、。やっぱり親戚なの?」
女子生徒の問いかけにはアレンが返しておく。
「他人です」
それもずばりと即答、反論を許さない満面の笑みで。
「先祖代々、延々脈々、完全完璧に、どうあっても、間違いなく!赤の他人です」
まるで土下座するかのように、金髪が机上に伏せられた。
あろうことかアレンが座るよう指示されたのは、窓際の一番後ろ、つまり例の金髪を前に見る席だった。
抗議の目を向けたけれど、フェルディは取り合ってくれない。
教室内に他の空きがないことを確認して、仕方なくそちらへと足を向ける。
派手な髪色は三つ編みへと押し込められ、珍しい金眼は壊れた眼鏡で隠されている。
異様なまでに整った顔立ちも、半分はレンズの向う側だ。
見慣れた美少女の見慣れない姿に何となく釘付けになる。
「ウォーカーくん。早く席に着きなさい」
思わず机の横に立ってじろじろと見下ろしていると、フェルディの叱咤が飛んできた。
ああ、急がないと。けれど、ここまで凝視しておいて挨拶しないのも変だ。
アレンはとりあえず口を開いて、何を言ってやろうか迷った。
初めまして?よろしく?どれも気持ち悪い。
面倒くさくなって肩をすくめつつ囁いた。
「あとで校内を案内してもらえますか」
「・・・・・・え?」
「ありがとう。親切なクラスメイトがいて助かります」
はきょとんと目を見張ったけれど、アレンは勝手に承諾されたことにして、さっさと彼女の後ろの席に座った。
授業が始まる。
緩慢な教師の話。小さく交わされるお喋り。ページを捲る音。紙上を走るペン先。
さすが隠されているとはいえ名門校だ。レベルが高い。はっきり言ってアレンにはさっぱりだった。
聞いていても仕方がないから、頬杖をついてぼんやりと眼前を眺める。
金髪は三つ編みにされているので、ちょうど白いうなじを見つめる格好になる。
じぃっと視線を注いでいたらが身じろぎをした。
見られていることを気配で感じ取っているらしい。
それでも授業中だからか、一切振り返ってこない。
アレンはちょっと面白くなって、意地悪な気持ちにもなって、彼女の後ろ姿を見つめ続けた。
おかげで昼休みになる頃には、は体をガチガチに強ばらせて、完全に縮こまってしまっていた。
その肩を叩こうとして邪魔される。
あっという間に女子生徒たちに取り囲まれたのだ。
「ねぇ、ウォーカーくん」
「変わった時期に転校してきたのね」
「あぁ、安心して。詮索はしないわ」
「ここのルールだものね」
「でも、私たち仲良くはしたいの。お話しましょうよ」
とか何とか言いながら、きゃっきゃと纏わりついてくる。
前後の席だというのに完全にが見えなくなってしまった。
アレンは一番近くにいる女子生徒―――――――先ほどと親戚なのかと尋ねてきた少女だ―――――――に微笑みかけた。
「ありがとうございます。でも、先約があるので」
「先約?」
「ええ、申し訳ないんですけれど。彼女と」
手で前方を示すと女子の群れが割れた。
そうして視界の中に戻ってきたは、まさに席を立とうとしているところだったので、アレンは一瞬口元を歪める。
睨みを効かせることで立ち止まらせた。
「と?」
片眉を跳ねあげて女子生徒が訊く。
アレンが頷いてやると彼女はに向かって言った。
「何の約束?」
「……学校の案内よ。ルイス」
の返答に女子生徒は軽く鼻を鳴らした。
まるで気に喰わないとでもいうように瞳を細めた後、アレンを振り返って表情を一変させる。
「だったらみんなで行きましょう。ね?」
真っ直ぐな栗毛を揺らして女子生徒は立ち上がり、親しげにアレンの腕を取った。
「私はルイス。ルイス・マフェットよ。よろしく」
どうやら彼女がこのクラスのリーダーであり、と仲が良くないであろうことは、アレンにはすぐに察せられたのだった。
ルイスに手を引かれて廊下に出ると、他のクラスメイトも何だ何だと後をついてきた。
おかげでちょっとした集団になる。
行き交う生徒たちの視線は主に転校生であるアレンへと注がれており、少々……否かなり居心地が悪かったが、こうも囲まれてしまっていては逃れようがなかった。
「クラスで学ぶのは語学や歴史の必修科目だけよ。基本的に午後は自由選択の授業になっているわ。美術、音楽、情報処理に宇宙工学。スポーツのほうが好きかしら。サッカー、テニス、合気道、射撃なんてのもあるわよ」
教室の前を通るたびにその用途を伝えながら、ルイスは淀みなく学校生活についても説明してくれた。
一応事前に資料は読んでいたし、フェルディからも聞いていたが、実際に授業を受けている生徒の話は感想も交えてあり面白かった。
四方八方からわいわい言われる。
「ゴルフは選択しないほうがいいわ。夏が最悪。暑いったらないの」
「馬鹿言うなよ、あれは紳士の嗜みだろう」
「第二言語はどうする?ちなみにラテン語は必須だから、逃げられないわよ」
「アジア圏から選べよ。ちょうど留学生も来ていることだし」
「いいや、やめとけ。あの授業にいるのは浮かれた女子だけだ」
「何よ、それ。男の僻みって嫌ねぇ」
こうも同じ歳の男女が集まって会話をしているというのは、アレンにとって随分珍しいことだったから、しばらくの間返事もせずに耳を傾けてしまった。
彼らはこちらの気後れなど構わず、次々と話題を変えてゆく。
「学生寮はハウスと呼ばれているの。ここでの私たちの家ね」
教団をホームと言うようなものか。
「寮内には談話室、娯楽室、自習室があるわ。キッチンも自由に使えるけれど、食堂での料理が美味しいから、男の子には必要ないかもしれないわね」
それは楽しみだなぁ。
アレンが無意識に唇を緩めたところで、目の前を通り過ぎた生徒が二人いた。
男女で並んで歩いている。
顔立ちがそっくりだ。恐らく双子だろう。
髪の長さと服装で性別を見分けたアレンは、隣のルイスへと問いかけた。
「どうして彼らだけ制服が違うんですか?」
「え?……ああ。ジャック!ジル!」
どうやら知り合いだったらしく、ルイスが双子に声をかけた。
同時に振り返った顔のうち、男子の方には笑みが広がったが、女子の方は無表情のままだ。
「ちわっス」
「こんにちは」
口調や態度から見て下級生である彼らは、ルイスに軽く会釈をしてみせた。
男の子のほうは落ち着きがなくそわそわと手足を動かしている反面、女の子のほうは静かな双眸でほとんど微動だにしていなかった。
なんて対照的な双子だろう。
黒髪に淡褐色の瞳という、お揃いの見た目なのに。
「うるさい男の子が、ジャック・フィッシャー」
「ルイスさん、ひっでぇ!」
「物静かな女の子が、ジル・フィッシャーよ」
「……どうも」
「この子たちは特待生なの。だから銀ボタンの制服を着ているのよ」
へぇ、とアレンは呟いて、もう一度双子を見やった。
紺のブレザーに並ぶボタンの色。白銀に輝く特権の証。
ふと横を見るとルイスの制服にも同じものが光っていた。
「ルイスさんも?」
「あら。今頃気が付いた?」
ルイスはくすりと笑って、双子の間に立つと、アレンと真っ直ぐに向かい合った。
「ジャックは絵画、ジルは占術に特別秀でた生徒よ。そして私は」
「演劇界の期待の星!しかも文武両道の才色兼備。学園が誇る名女優っスよ!」
変な歓声までつけてジャックがおだてたから、ルイスはその頭をぽかりとやった。
けれど表情としては笑顔で、まんざらでもない様子だ。
まぁ確かに腰まである亜麻色の髪は流れるようだし、長い睫毛に囲われた蒼い瞳は生気に煌めいている。
人目を惹きつける容姿に、活発で面倒見の良い性格。
話上手なところから要領の良さを感じたから、成績も優秀なのだろうと見当がつく。
……どうしてそんな彼女と、あの金髪は、仲が悪いんだ?
アレンは双子に挨拶をしながら視線だけで背後を振り返った。
クラスメイトの一団の最後尾。
皆の陰に隠れるようにして、はそこに立っていた。
目はアレンたちに向いておらず、何ともなく窓の外を眺めている。
「あ」
そんな彼女に声をかけた者がいた。
灰色の短い髪と菫色の瞳を持つ、これまた銀ボタンの制服を着た少女だ。
少女はの傍まで駆け寄ると、躊躇いがちにその袖を引っ張った。
意識を余所にやっていたがパッと振り返ったから、大げさなまでに体を揺らして後退する。
窺うように相手の表情を見て、もごもごと何かを言った。
アレンの位置からは当然聞こえず、ただが親しげに微笑んだことだけを視認した。
そこで少女はようやく安心したように肩の力を抜いてみせた。
「あの人も特待生ですか?」
アレンが尋ねるとルイスは少しだけ眼をすがめてみせた。
「ええ、まぁね。メアリー!」
ルイスの声はその自信に裏打ちされているのか、華がありよく通るものだった。
おかげでやたらと注目を集めてしまうから、名前を呼ばれた菫色の瞳の少女は身を守るように両腕の本を抱え直した。
おどおどと応える。
「な、なぁに?ルイスちゃん……」
「私のクラスの転校生よ。紹介したいから来てちょうだい」
「え……、で、でも……」
メアリーはますます体をすぼめて、ルイスとの顔を交互に見た。
それが気に喰わなかったのか、ルイスは少々きつめの言葉を飛ばす。
「いいから、いらっしゃい」
「あ、あの……わたし、その……ちゃんを呼びに来て……」
「だから、何?そんなの待たせておけばいいでしょう」
「彼女を誘いに行けと言ったのは俺だよ。ルイス」
そこで少女同士の間にふわりと割って入った者がいた。
途端に周囲が色めき立つ。
女子生徒は小さく歓声をあげ、男子生徒は羨望の眼差しを注ぐ。
彼はとメアリーを庇うようにその場に立った。
「ソロモン……」
ルイスが小さく呼んだのは、癖のある赤金の髪に、琥珀色の瞳を持つ美少年だった。
顔立ちは彫刻のように整っており、口元の笑みは穏やかさを、眼差しは意思の強さを伝えている。
近くにがいるからだろうか。
眼の色彩が似ていないこともないのに、彼女の金色が鮮やかすぎて、ソロモンの印象は随分と優しいものになっている。
「すまない、メアリー。遅れたな」
「い、いえ、そんな……」
「も悪かった」
「謝られる理由はないよ、ソロモン」
はどちらかというとメアリーを気にかけてそう言ったようだったけれど、ソロモンは悪びれもなく笑って返す。
「いや、今日こそはどうしてもお前を誘いたくて」
「……メアリーに言わせれば私が釣られるとでも?」
「違ったか?」
「完璧な作戦ね。ホイホイついて行くところだった」
軽く首を振ってみせたに、ソロモンは吐息混じりの笑みを漏らす。
「残念。また振られたか」
「いい加減、諦めたら?」
険のある声が二人の眼差しを絶ち切った。腕組みをしたルイスだ。
「いくら勧誘したって、その子じゃ無理よ」
「いいや、彼女は絶対だ。必ず手に入れる」
「まったく……とんだ悪癖だわ。ソロモンは捨てられた仔犬を放っておけない。それで今は金眼のわんちゃんにご執心ってわけね」
ルイスの皮肉に何人かの女子生徒が忍び笑いをした。
アレンはそれを不快に思ったけれど、意外なことにルイス本人も同じように感じたらしい。
軽蔑の眼差しを彼女たちに向ける。
「陰でコソコソ笑わないでくれる?あと、あなたも何か言い返したら?」
そのまま視線をへ。
金髪の少女はにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、捨て犬の矜持を認めてくれて。ルイスのそういうところ、好きだよ」
「……私は、あなたのそういうところが嫌いよ」
ルイスは苦々しく呟いたけれど、は気にしない素振りでソロモンとメアリーを振り返った。
「さぁ、行って。“黄金の午後のお茶会”へ」
「次はお前も、一緒に」
ソロモンは何気ない手つきでの髪を撫でたかと思うと、不意に身をかがめてその白い頬に唇を寄せた。
女子生徒が小さく悲鳴をあげ、男子生徒が沸き立つ中、アレンは無心でそれを眺めていた。
は一歩足を引いて身を離す。
「ソロモン」
抗議を込めて名前を呼ばれても、彼は笑顔ひとつでかわしてしまう。
「行こう」
ソロモンが促したのは、特待生の生徒たちだった。
よくよく見れば、彼の制服に縫い付けられているのは、銀ではなく金色のボタンだ。
つまり、特待生よりも上の立場。どうやら眼前の美少年がこの学園のトップらしい。
「アレンくん、悪いけれど案内はここまでね」
ルイスは不満げに肩にかかった栗毛を払う。
そこでようやくソロモンはアレンの存在に気が付いたようだった。
「おや、転校生か?」
「そうよ。今日転入してきた、アレン・ウォーカーくん」
「はじめまして」
挨拶を口にしながら見上げる。
近くに立たれてみれば、アレンよりもだいぶ背が高い。
ソロモンは親しみを込めてこちらの肩を叩いてきた。
「俺はソロモン・シャフトー。あちらはメアリー・フェアだ」
「よろしくお願いします」
「ああ。……すまない、時間がなくてな。次に会ったときにゆっくり話そう」
「是非」
アレンはいろんな意味を込めて頷いてみせた
遠くで何となくが顔色を失くしているように見えたが、どうでもいいので完全に無視した。
ジャックとジル、メアリーを引きつれて、ソロモンの隣に並んだルイスが、最後にアレンに向かって言う。
「ごめんなさいね。残りは別の人に案内してもらって」
そうして彼女は嫌そうに一瞥してみせた。
「例えばそこの、金眼のわんちゃんとかにね」
はどっちかというと猫っぽいけどなぁ、というどうでもいいことを考えながら、アレンは首肯してみせたのだった。
「メアリーはピアニストの卵よ」
アレンの半歩後ろでが言う。
微妙にずれて並びながら、二人は人気のない廊下を歩く。
「あまりにも華麗に動かしてみせるから、ピアノなんかなくても、その指だけでメロディを奏でられるんじゃないかって思うくらい」
午後の授業開始を告げる鐘が鳴ると、クラスメイト達は口々に「また後で」と手を振っていってしまった。
残されたのは転校初日のアレンと、気まずげに唇を引き結んだだけだ。
彼女も授業に出なくていいのか尋ねると、「まだ教科を選択していない」と返された。
ニか月前に転入してから、仮でいくつか受講してみたものの、どれかひとつに決めかねているらしい。
だからこそ、ルイスはに案内の続きをしてもらえと言ったようだった。
「メアリーは高等部の2年生。私たちより二学年上よ」
「ジャックとジルさんは?」
「あの子たちは一学年下。中等部の2年生」
「それで、ルイスさんは僕たちと同じ中等部の3年生……か」
彼らはそれぞれ銀ボタンを身に着けるに足る、突出した才能を持っているという。
ジャックは絵画、ジルは占術、ルイスは演劇、メアリーはピアノ。
「じゃあ、ソロモンは?」
アレンは彼の制服に光る金ボタンを思い出しながら尋ねた。
その輝きよりずっと淡い瞳でを見つめ、彼女の頬に落としていった口づけのことは、無理やり意識の外に追い出しながら。
「……ソロモンは」
斜め後ろではわずかに言いよどんだ。
それが自分でも気に喰わなかったのか、軽く咳払いをしてから続ける。
「彼は、未来の指揮者よ。作曲家でもある。すでにいくつも曲を世に発表しているの」
「へぇ。だからメアリーさんと一緒にいたんですね」
「うん。二人はよく共演しているから」
「けれど、それだけじゃあ説明がつかない。何故彼だけが金ボタンなんです?」
ふと、アレンは右手側に目を向けた。
校舎に囲まれたそこは中庭になっていて、よく手入れされた芝生の真ん中に銅像が建っている。
……違和感がある。勝手な思い込みだろうか。
こういう学校にある像といえば古めかしいものと決まっているだろうに、視線の先に起立するそれからは、まだ新しい匂いが嗅ぎ取れたのだ。
「現理事長の銅像よ」
ようやく真横に来たが言う。
「前理事長を失脚させ、この学園を改革した方。西の地を治める侯爵でもある。そのお名前は……」
アレンは横目でを見た。
彼女は真っ直ぐに銅像を仰いでいた。
「サイモン・シャフトー」
あぁと腑に落ちて、アレンは顔を逸らした。
空気が水を帯びている。蒸れた土の匂い。緑が膨張するような。
今夜はきっと雨になるだろう。
「ソロモンは理事長の息子、というわけですか」
しかも行く末は侯爵だ。
特待生に選ばれるだけの指揮力を持ち、人々の心をとらえる曲を書いて、異性を騒がせる美麗な容姿と、同性に僻まれないだけの社交性を身に着けた、パーフェクトな好青年。
「きっと成績優秀でスポーツも万能なんでしょうね」
「よくわかったね」
「周りの反応を見れば明らかです。特に女性たちは素直ですから」
「ソロモンが金ボタンを身に着けだしたのは、飛び級で高等部の3年生になった今年からだそうよ。卒業後は学園の運営にも関わるようになるのだから、今からしっかり皆を監督しろっていう理事長からのお達しだって」
そうやって、ソロモン・シャフトーは特別な存在なのだと、自他共に認めさせようというわけか。
「毎週水曜日の午後、特待生たちは理事長の開くお茶会に出席するの。表向きは優秀な者同士の交流会ってことになっているけど」
「けど?」
「そこでの何気ない会話で、学園の方針が決まることもあるってウワサ。場を取り仕切るのは、すでにソロモンの役目になっているみたいね」
水曜日の午後。つまり今、まさにこの時だ。
の言っていた“黄金の午後のお茶会”。
そこでソロモンたちは、凡人には考えも及ばない、ハイレベルな会話を交わしているのだろうか。
「ソロモンはじきにこの学園を支配する。……つまり」
アレンは吹き抜けになった渡り廊下の真ん中で足を止めた。
「彼は僕たちの正体を知っているんですか?“・ウォーカー”さん」
わざと名前を強調して、さん付けにまでして、冷たい調子で言い放つ。
表情も冷ややかになるよう意識して振り返った。
さて、彼女はどんな反応をするだろう。
完全に意地悪な気持ちで視線を向けてやる。
そして、一瞬、彼女を見失った。
「………………………」
返り見た先にあるはずだったの顔は、廊下の床すれすれに伏せられていた。
つまり、膝を折り、両手をついて、深々と頭を下げていたのだ。
アレンはそれを見下ろして言葉を失う。
だって、なんか、すごい土下座されている。
「言うのが遅くなりましたが」
ここで「久しぶり!」と続けたら面白いのになぁ、とアレンは余計なことを考えた。
「ごめんなさい」
何が?
疑問に思った途端にまくしたてられた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、謝って済むことじゃないけど、全身全霊をかけてごめんなさい!!」
その言葉の奥には涙が滲んでいて、疑いようのない謝罪の念が伝わってくる。
アレンはあっけに取られたあと、素直にドン引きして、次に大きく目を見開いた。
「勝手に“ウォーカー”を名乗ったりして、ごめんなさい!」
「…………………………」
「転入した日の自己紹介で、ファミリーネームも言うように指示されて」
「…………………………」
「私ちっとも考えてなくて、何一つ思いつかなくて、どうしてだか自分でもわからないんだけど」
「…………………………」
「口をついて出てきてしまったのが、“ウォーカー”で……」
アレンはぽかんと開けていた唇を閉じた。
のつむじを見つめる。
三つ編みが床を這っている。
「アレンが、お父さんからもらった、大切な名前なのに」
喉から絞り出すように言うの髪を、アレンはしゃがみこんで掌に掬った。
「本当に……、ごめんなさい」
「“フェンネス”って、言えばよかったのに」
金髪をいじりながら呟けば、は弾かれたように顔をあげた。
アレンはその瞳を見つめて繰り返す。
「“・フェンネス”」
「……それは」
「それか、“イグナーツ”」
「……思いつかなかった、な………」
「咄嗟の場面で、グローリアさんでもドリーさんでもなく、僕のファミリーネームを名乗ってしまうなんて」
屈みこんだまま、膝に肘をついて頬を支える。
片手では相変わらず三つ編みを弄んでいる。
不意を突くようにそれを引き寄せて、触れるか触れないかのギリギリの距離で、アレンは唇に弧を描かせた。
「随分と気が早いね、」
そして無理な力を加えられて、わずかに前のめりになった少女に、ニヶ月ぶりのキスを贈った。
「今から嫁いだあとの予行練習?呼ばれ慣れておこうって?」
「な……っ、ば……っ」
「だって君が“・ウォーカー”になるのは、僕と結婚したときだけだよ」
「ち、ちが……っ、私はそんなつもりじゃなくて……っ」
「じゃあ、ただの思いつきで言ったの?」
そう訊いてやればは苦しげに言葉を詰めた。
アレンは吐息のように微笑んで、彼女の頭を撫でてやる。
「ごめん。ちょっと意地悪だったね」
「……アレン。怒ってる、でしょ」
「怒ってないよ。僕自身、了承もなしにマナの名前を借りているわけだし」
「…………………………」
「無意識に出てきたのが、“ウォーカー”なら……うれしい」
アレンがそう言ってやれば、は上目づかいに見つめてきた。
罪悪感とか不安とか謝意とかが入り混じった眼差しだ。
それもアレンの笑顔を見つけて溶けてゆく。
「ごめんね。……ありがとう」
は本当に気に病んでいたようで、半泣きの笑みでそう囁いた。
髪を梳いていた指先を握られる。
左手を隠すためにはめた手袋越しに体温を感じる。
頬の輪郭、睫毛の震え、安堵に緩んだ唇、優しく潤んだ瞳。
しばらくぶりに見た、アレンだけが知っている“”に、意識の揺らぎを覚える。
金色だけがやけに鮮明で、そこに導かれるように、自然と身を乗り出した。
そうして唇が触れ合いそうになったところで、
「あなた達!廊下の真ん中で何をしているのです!!」
フェルディの怒声に鼓膜を突き破られた。
新章です。『マザーグースは放課後に』、タイトルの通りマザーグースに関連したお話になります。
そしていきなり学園物語です。
主要キャラが十代なんだから一度はやっておくべきでしょう!という単純な発想。^^
潜入捜査といえば『遺言はピエロ』もそうでしたが、今回はまた違った雰囲気になる予定です。
よろしければ引き続きお楽しみください。
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