お人よし、お人よし!
そう呼ばれている男に会いたいって?
サイモンはあっちこっちに引っ張りだこ。

どうぞよしなに、ペテン師さん。







● マザーグースは放課後に  EPISODE 11 ●







「つまり、アレンくんは知っていたのね?」


ずいっと顔を近づけて女子生徒が訊いてきた。
釣られるように周囲の皆も身を乗り出す。
朝の教室で席に着いた途端、クラスメイトに取り囲まれたアレンは、今日も今日とて始まったなと思う。


「変だと思ったのよ。転校してきてすぐに“好きだ”なんて言いだすから!」
「まぁ、あの顔を見たらイチコロだよな」
「まさにキョーレツ!超美少女!」
「私、ルイスと張り合えるような美人って初めて見たわぁ」
「それがどうしてダサい三つ編み眼鏡なんてしていたのかしら?」


わいわいがやがや、賑やかなことこの上ない。
始業前にこれだけはしゃいで疲れないのだろうか。
アレンは他人事のように考える。
とりあえず鞄を置いて、一限目に必要なものだけを取り出してきた。


「何か事情があったんじゃない?素顔を隠さないといけないような」
「顔だけじゃないだろう。あのルイスに啖呵を切っていったんだ」
「そうよ。全校生徒の前であんなに堂々と振る舞えるなんて」
「いつも控えめに喋っていたのが嘘みたいだったな」


授業中も日本語の勉強がしたいから、机の中で辞書を広げておく。
書き取りノートは教科書の下だ。
そろそろ本格的に覚えないとに叱れる。


「ねぇ、皆はどう思う?やっぱりは特待生になるのかな?」
「きっとそうよ。私はソロモン様のお言葉を信じるわ!」
「うーん……。確かに彼女には何かありそうだ」
「どうだか。期待しすぎると肩透かしを喰らうぜ」
「ええ。顔が可愛いだけで、ルイスに勝てるものですか」


今日は何を書こうかな。
そういえば、前に仕上げた恋文も見せていない。
が落としていった日本語の詩集に挟んだきりだ。


「ねぇ、アレンくんはどう思う?」


今日も授業に出て来ないようなら、寮までお見舞いに行って、ついでにラブレターを渡そう。
中身を添削してもらわないと。
ついでに反応を楽しまないと。
赤くなって照れてくれると嬉しいんだけど。


「アレンくんったら!」
「はい?」


そこでようやくアレンは返事をした。
日本語の辞書から顔をあげると、クラスメイト全員がこちらを見ていた。
何だか視線が冷たい。
どうやらの話に参加しないアレンが不満みたいだ。


「おいおい、色男。随分と涼しい顔じゃねぇか」
「美少女ふたりに取り合われる、“オイシイ”身分のくせに」
「何よ、その言いかた。男の嫉妬は醜いわよ」
「悔しかったらアレンくんみたいに紳士的な振る舞いをすることね」


しかも空気がギスギスし始めた。
仕方がないのでアレンはページをめくる手を止める。


「すみません。この三日間で皆さんの質問にはお答えできたと思っていたので」


そう、二人の対決が決まったのはすでに一昨々日のことだ。
それにも関わらず、いまだ興奮冷めやらぬ様子なのは、すべてが原因だった。


「全然よ。アレンくん、うまくかわしてばかりなんだもの」
本人に聞きたくても、部屋から出て来ないし」
「ハロウィンの夜から風邪で寝込んでるんだって?」
「本当かしらね。実はルイスから逃げてるじゃない?」
「ははっ、勝負が怖くてこのまま不登校か」
「……僕に言えるのは」


頭の上で飛び交った笑い声に、アレンはそっと瞼を下した。


「僕はのことを顔で好きになったわけじゃないし、特待生になるかどうかなんて興味はないし、二人の勝負はできれば取りやめてもらいたいし、本当に具合が良くないから心配だし」


そこで一度言葉を区切り、ため息と共に吐き出した。


「相変わらずのいないところで、彼女のことをとやかく言う人間と、話す気などないということだけですよ」


言い終わると同時に音を立てて辞書を閉じる。
静かになった教室によく響いたからアレンとしては満足だ。
気まずそうな様子のクラスメイト達に、にっこりと微笑んでやる。


「もうすぐ始業です。予習をしても?」
「え、ええ……」
「邪魔して悪かったな……」


口々に言って解散してゆく背中。
それを見送りながらアレンは肩を落とす。
こうも毎日同じようなことを訊かれるなんて。
どうやら生徒たちは皆揃って二人の勝負に興味津々のようだった。
そこに本人が拍車をかけている。
彼女はあれだけ強烈に素顔を明かしておきながら、風邪をこじらせて寝込んでしまい、以来は一切姿を見せていないからだ。


(今日もお休みかな……)


昨日は登校するつもりだって言っていたけど。
男子生徒であるアレンが女子寮に行くには、必ず教師か寮監の付添いを受けなければいけないので、本当の体調は確かめられなかったのだ。
誰も見ていなければ荒っぽい手段でも確認できたのに。
の言う「大丈夫」はあてにならないから、実のところまだ随分と悪いのかもしれない。


「アレン」


不意に声をかけられた。
廊下のほうを振り返ってみると、開けっ放しの戸をくぐり抜けて、一人の少年が近づいてくるところだった。
教室内がひそやかに沸き立つ。
特に女子生徒が顕著な反応を見せていた。


「ソロモン」


アレンが名前を呼び返すと、彼は爽やかな笑みを浮かべた。


「おはよう。朝から自習とは感心だな」
「おはようございます。……まぁ、日本語同好会にいられるかどうかが懸かってますから」


苦笑しつつ首を傾ける。


「何かご用ですか?」


もうすぐ授業が始まる時間だ。
ソロモンは高等部の三年生だから教室も校舎も違う。
そんな彼が中等部の、それも自分に何の用だろう。


「いや、がいれば彼女に聞こうと思っていたのだが」


ソロモンはそう前置きをして、アレンに一枚の紙を見せてきた。


「お前達、“これ”を何に使うつもりだ?」
「“これ”?」
「ほら。学園にあるものを片っ端から借りていっただろう」


差し出された用紙を確認してみる。
それは学園の備品に関する貸出書で、ずらずらと品名が羅列された最後には、確かに“日本語同好会”のサインがあった。
この字には見覚えがある。


の奴……。病人のくせに」
「やっぱり彼女か。昨夜遅くに届け出があったらしく、先生方も先ほど気が付いたらしい。保管庫にこの貸出書だけを残して、ごっそり物が消えていたそうだ」


ソロモンは不思議そうな顔で頭をひねった。


「俺も気になったから、神田かラビに確認しようと思ったのだが。二人とも始業間近になっても教室に現れない。だから此処に来たんだよ」
「うーん。も出てきていませんよ」
「お前は知らないことなのか」
「僕は何も」


聞いていません、と言った声が掻き消えた。
学園中に響き渡るようなボリュームで、風変わりな音楽が流れてきたからだ。
その音は強く弦を弾いて出しているようだった。
皆が何事かと顔をあげる。
同時に歌が鼓膜を震わせた。


「“色はにほへど、散りぬるを”」


声音としては高いのに、歌い方で低音を保っている。
聞いたことのない技法だ。


「“我が世たれぞ、常ならむ”」


決して強引でなく、上品さでもって、ゆったりと意識を呑み込んでゆくような。


「“有為の奥山、今日越えて”」


不思議と圧倒されてしまう。
歌と共に響く弦楽器の音色が、神経の深いところを掻き鳴らしてくる。


「“浅き夢見じ、酔ひもせず”」


べべん、べん、と弦が爪弾かれた。
そのときにはもう、教室中の生徒が窓際に集結していた。
揃って見上げるのは向かいの校舎だ。


「お粗末さまでこざいました」


しっとりと言って頭を下げた人物は、高くそびえ立つ部室棟の屋上、その縁に腰かけていた。
安全用の柵を乗り越えた場所で、宙に脚を垂らしているのである。
ギターよろしく膝に抱えているのは見たこともない楽器だ。
ピックのようなもので弦を弾けば、またべべんという音が響いた。


「さてもさても良い朝で。皆さんどうお過ごしでしょう?」


女子生徒の制服を着た人物が、笑んだ調子で問いかけてきた。
実際に微笑んでいるのかもしれない。
断言できないのは、彼女が和風の面を被っているからだ。


!」


距離があるのでアレンは声を大きくした。
顔が見えなくてもわかる。呆れた調子で言ってやる。


「病み上がりが何をしてるんだ」
「ちょっとした快気祝いってとこかな」


はあっさりと応えて面を額に押し上げた。
眼鏡を掛けていない。
長い髪も背中に流して、上半分をリボンで束ねているようだった。
あれだけ隠していたくせに、惜しみもなく晒された素顔に、周りの生徒達がこそこそ言い始める。


「つまり、


それを遮るようにソロモンが口を開いた。


「お前は学園中の“和楽器”を借り切って、一体どうするつもりなんだ?」


現状を面白がっているとしか思えない口調だ。
は合いの手のようにべん!と弦を鳴らした。


「もちろん、三日間の不在を埋めるのよ」


すっかり色の良くなった唇が弧を描く。
は勢いよく手をつき足を振ると、その反動でくるりと後方回転し、屋上の縁に起立してみせた。
危険な場所で披露された軽業に、生徒達は一気にざわつく。
アレンとしては別のことで胸がざわつく。
だっての奴、短くしたスカートで、宙返りなんてきめるから。


「さぁ、ありがたくも私に興味をお持ちの皆さん!よってらっしゃい見てらっしゃい!」


片手で肩にかかった金髪を弾き飛ばす。
朝の光を浴びて、輝きを放つ。


「私は私がやりたいことをする。在るがままでいるだけよ。批評がしたいのならご自由に。気が済むまでとくとご覧あれ!」


が放り投げたバチが、陽光を弾いて宙を舞う。
それを横薙ぎにして受け取ったのは、給水タンクの上に立ったラビだった。
高みから飛び降りて来ると、の右後方、安全柵の向こうに立つ。


「ココは学校、オレらは十代!だったら青春するっきゃないだろ!」
「日本語同好会は全力で青い春を謳歌しまーす!」


親友達は顔を寄せ合いきゃっきゃと笑った。


「オレたち名づけて“チーム・ワビサビ”!」
「ちなみにワビサビとは“詫びを入れても許さねぇ!俺の刀の錆びにしてやるぜ!”の略です!」
「違ぇよバカ」


そこに冷たい突っ込みが入った。
ラビが投げたバチを見もせずにキャッチしたのは神田だ。
いつからそこに居たのか、屋上に通じる扉横に背をあずけている。


「物騒な嘘つくな」
「我らが部長!」
「部長のおでましさ!」
「うっぜぇ、テメェら本当に刀の錆びにするぞ」


青筋を浮かせながらも、指先で弄んでいたバチを投擲。
後ろ手でそれを受け止めたは、頭の上に掲げて身を翻し、アレンたちに背中を向けた。


「異国の楽器で馴染み深い曲を。音楽は時も場所も越えられる。そうでしょう?ソロモン」


問いかけられたソロモンは、少し目を見張ったけれど、すぐに微笑んで頷いた。
は振り返らなくてもその答えを確信しているようだった。


「音を楽しむ時間を共有することで、心の境界も越えられますように」


祈るように囁いた少女の髪の上で太陽が波打っている。
眩しいからアレンは目を細めた。


「あら捜しばかりではつまらない。もっとおもしろおかしく行きましょう!」


一気に掻き鳴らされる音。
驚いたことにいつの間にか他の二人まで楽器を手にしている。
神田はとは種類の違う弦もの。
ラビのは叩いて音を出すタイプみたいだ。


「三味線、琵琶に、締太鼓でお送りします!最初はこの曲!」


金髪を流して振り返ったが、屋上の縁に片脚を突き立てた。


「校歌斉唱!!」


何を始めると思えばそれか!
アレンは心の中で全力の突っ込みを入れた。
周囲の皆はぽかんとしている。
そんなことには構わずに、やたらと楽しそうなが、元気に校歌を歌い始める。
伴奏は当然みたいに和楽器だ。


「ヘイヘイ!」


ラビがかけ声まで入れ始めた。
しかしよくもまぁ緩やかな曲調の校歌を、ここまでアップテンポに仕上げたものだ。
加えて和楽器という聞き慣れない音源を使っているから、珍しくてついつい聞いてしまうのも本当だった。


「はーい、次!今流行りのあの曲から、昔懐かしその曲まで!チーム・ワビサビ、ウィズ和楽器がお届けしまーす!!」


屋上の縁であっちこっちに踊りながら、は三味線を弾いて歌いまくる。
高さをものともしないパフォーマンスっぷりだ。
途中からラビの声を加わってさらにヒートアップ。
神田は冷静そうに見えて、きちんとテンポを合わせているあたり、実はノリノリなのかもしれない。


「お手を拝借!」
「あ・ソ〜レ!!」


パン、パン、と独特の拍子で手が打ち鳴らされた。
釣られた生徒達がやり始める。
最初は数えられるくらいだったけれど、曲が進行と共に音が大きくなってゆく。
アレンが身を乗り出してみると、始業間近だというのに中庭に人が集まっていた。
左右を見渡せば、どの教室も窓辺が埋まっている。
皆が屋上を指差し、掌を叩いて笑っている。
ああ、そうか。アレンは何となく悟る。
此処は“由緒ある”家の子が通う名門校。
達のように、素直に馬鹿をやる生徒なんて、居なかったに違いない。


「居たら居たで驚きだけど」


苦笑の吐息をついたアレンの横で、ソロモンが「うん?」と呟いた。
今の今まで大いに楽しんでいただけに不思議に思う。
思わず隣を見やった。


「どうかしましたか?」
「いや……」


ソロモンは口元に手を当てて眉を寄せる。


「歌詞が間違っていた」
「歌詞?」


アレンはに視線を戻す。
和楽器の深みのある音色で、現代風にアレンジされた童謡が、次から次へと披露されている最中だった。
今演奏されているのは、例のマザーグース『誰が駒鳥を殺したの?』である。
どうやら日本語で歌ったあと、英語で繰り返しているみたいだ。


「弔い人を歌った第七フレーズだ。明らかに日本語の歌詞が違っていたぞ。誤訳だろうか?」
「……?あのに限ってそれは有り得ませんよ。彼女は一体なんて歌っていたんです?」


アレンが確認しようとした矢先、手拍子が最高潮となって、割れんばかりの拍手に変わった。
歓声と口笛が起こる。
まるであのハロウィンの夜みたいに、生徒達がはしゃいでいるのだ。


「あっぱれ!」
「あっぱれ!」


とラビが声をかけ合いながら、順々に楽器を変えてゆく。
主に吹きものだ。横笛も縦笛もお構いなしに、一つの曲を吹き鳴らしている。
絶妙のタイミングで杓拍子を入れる神田が、その面倒くさそうな表情も含めて、アレンとしては可笑しかった。


「「あっぱれさ〜!!」」


二人と横並びになっていたが、下に敷いてあった着物を掴んだかと思うと、空中前転で屋上の縁まで戻ってきた。
手も使わず軽やかに柵上を通過する。
そして赤く豪華な着物を翻し、その上に乗せてあった紙吹雪を、一気に放ってみせた。
色とりどりの和紙がぱぁっと舞う。
まるで手品か魔法みたいに空が染まる。
アレンでさえも思わず賞賛の声をあげてしまった。


「ありがとーう!」


拍手喝采を受けてが叫んだ。
着物をマントみたいに羽織って、大きく手を振っている。
そのときアンコールに混じってこんな声が聞こえてきた。


「『ハムレット』に出てくる曲も歌ってくれよ!温室のオフィーリア!!」


は口元の笑みをそのままに、何度か目を瞬かせた。
視線がこちらを向く。
アレンはソロモンとは反対隣を見る。
いつからそこに居たのか、ルイスが無表情に立っていた。


「朝っぱらからうるさいわね」


独り言のように呟いたあと、彼女は言い放った。


「やってみなさいよ。私より上手く歌える自信があるのなら」


周囲のはやし立てる声も、催促するような手拍子も、見つめ合う二人には聞こえていないようだった。
ルイスの顔に表情は発生しない。
の唇から笑みは去らない。


「“とりなくこゑす、ゆめさませ”」


その口唇がゆっくり歌を紡いだ。
ラビが差し出した三味線を受け取ると、静かに目を閉じてから続ける。


「“鳥啼く声す、夢覚ませ”」


最初に歌ったいろは唄と同じような響きだ。
日本語独特の緩やかな調子。
そこに三味線の音が優雅に絡まり合う。


「“見よ、明け渡る東を”」


いまだに宙を舞う紙吹雪は、を彩る飾りでしかなかった。


「“空色映えて、沖つ辺に”」


ぎりっと窓枠が軋む音をアレンは聞く。
力の込めすぎで真っ白になったルイスの手。


「“帆船群れゐぬ、靄の中”」


べべん、べん、と三味線が鳴って歌の終わりを告げる。
拍手の前にが言った。
真っ直ぐにルイスを見据えて。


「間違えないで、ルイス。私はオフィーリアになりたいわけじゃない」


さぁっと風が吹いて、長い金髪と赤い着物の裾、そして紙吹雪を舞いあげた。


「私は、“夢”を覚ます」


きっとイノセンスのことを言っているのだろう。
覚ますは隠語だ。
つまりは、“隠されたイノセンスを見つけ出す”と告げている。


「あなたに勝って、“啼く鳥”を捕まえるだけよ」


クック・ロビン。
復讐を唄う鳥。
その正体は誰だ?
の言うとおり、ルイスとの勝負を制すれば、それがわかるのだろうか。
アレンがそんな思案に沈むうちも、生徒達は二人の少女をけしかける。
が場を盛り上げすぎたせいで、遠慮のない言があちらこちらから聞こえてきていた。
これは収拾がつかなさそうだ。
どうするつもりだろうと危ぶんだ矢先、の背後で扉がぶち開けられた。


「そこの三人!」


甲高い怒声が飛ぶ。
ラビが「ヤベェ」と呟き、神田が顔をしかめる。
はちょっと舌を出すと、明るい表情で後ろを返り見た。


「おはようございます、フェル先生」
「のんきに挨拶をしている場合ですか!あなた達はなんてことをしてくれたのです!!」
「突撃、和楽器ライブ!日本語同好会の活動ですよ」
「お黙りなさい!こんな暴挙は学園が始まって以来だわ!!」


フェルディは見たこともないくらい怒っていて、いつもきちんと結い上げている髪を乱し、眼鏡を吹き飛ばさんばかりに首を振って嘆いた。


「理事長先生がお留守のときに、こんな問題を起こすだなんて……!」


ああ、何だ。サイモン理事長は不在なのか。
が目立つ真似をし始めたことに、どんな文句をつけてくるだろうと心配していたアレンは、思わずホッと胸を撫で下ろす。


「とにかくこちらへ来なさい!ウォーカーさん、そんな危ないところに立っていてはいけません!!」
「平気です、先生」


いきり立つフェルディにあっさり返すと、は生徒達に向き直って微笑んだ。


「もう始業ね。みなさーん!今後もチーム・ワビサビにご期待くださーい!」
「よろしくさー!」
「やっと終わりか。行くぞ」


拳を振り上げたラビの頭をはたいて、神田が安全柵を跳び越えた。
フェルディが悲鳴をあげる。
ラビも後に続いたものだから、もう一度同じものが響いた。


「あ、ああっ、あなた達!おやめなさい!!」


引き止めようと駆け寄ってくるフェルディに、は片目を瞑って投げキスをした。


「はい、先生。残念ながらおしまいです」


そうして思いきり校舎の縁を蹴立てる。


「今回は、これにてお開き!」


高らかに宣言しながら、は屋上から飛び降りた。
フェルディだけではなく、生徒間でも叫び声が飛び交う。
彼女に続いて神田とラビも空中に身を躍らせたから、ますますその音量は大きくなった。


「ばか」


人騒がせだなぁと思ってアレンは呟いた。
同時にが地面に着地。
背中に流した長い金髪と、羽織った赤い着物、そしてスカートの裾が翻り、それがおさまったときには、何事もなかったかのように起立していた。
神田とラビも地面に降り立ち、日本語同好会の三人が並ぶ。
その身軽さに唖然とし、言葉を失った皆の前で、が三味線を掻き鳴らした。
べん、べべん、べんべん!


「さぁて、今日も授業がんばりましょー!」
「オー!」
「うるせぇ」


三人は和楽器を担いで歩き出した。
普通だ。あまりにも普通だ。
この場にいる全員の度肝を抜いたばかりとは思えない。
ただ一人平然とそれを見ていたアレンは、自分も窓から中庭へと飛び降りた。
今度は誰も悲鳴を発さなかった。
どうでもいいので振り返らずにに駆け寄る。


「ちょっと!三人だけなんてずるいですよ。僕も参加したかったのに」
「だったら代われよ、モヤシ。俺はもうやってらんねぇ」
「ダメさ、ユウ。コイツは勝負の景品なんだから」
「まぁ少しくらいならいいかな?アレンは木魚担当ね!」
「モクギョって何?」


に手渡された木の塊を叩きながら、アレンは仲間と一緒に校舎へと入っていった。
ぽくぽくぽくぽく、チーン!
最後にが掌サイズの鐘を鳴らして笑う。
それを聞いた生徒達の中で、誰かが呆然と呟いた。


「何か訳わかんないけど、すげぇ……」


周囲は一斉に頷いたのだった。

































「で、思ったわけよ」


シャーペンを振りつつが言った。
表情は真剣そのものだ。
授業も部活も夕食も終えたあと、自習室に呼び出されて来てみれば、大真面目な顔をしてこう告げてきたのである。


「私、勉強しなきゃマズイってね!」


アレンは黙して紅茶を飲んだ。
ラビは適当に相槌をうちながらテキストを捲った。
神田は教科書を睨み付けたまま微動だにしなかった。


「うわぁ無視だよ、いつも通り無視だよ」
「え?何?」


が半眼で文句を垂れたので、アレンは今初めて聞こえた素振りで返す。


「君の頭がまずいことになってるって?大丈夫、前からです」
「言うと思った。それがもし事実だったとして、何の慰めにもなってないよね」
「人間、諦めが肝心ですよ」
「悟りきった優しい顏で頭撫でるのヤメテ」


金髪に手を置いたら邪険に払われた。
ムッとしたので頬を抓ってやる。
それも除けようとしながら、は先の発言の説明に入る。


「だからさ。勉強しないと駄目だと思うんだよね、私」
「どうしたんさ、急に」
「昔の人もよく言ったじゃない。初心忘れるべからず。困ったときは基本に立ち返れ」
「手順すっ飛ばして型をぶち壊して、いきなり変化球から入るお前がか?」
「そう褒められると照れるなぁ」
「本当におめでたいね、
「とにかく!学生の本分は勉学よ。そこで上位を取るのは必須でしょう」


ああ、何だ。
ようやく話の核心を掴んだアレンは、ちょっと呆れて自ら手を引いた。
釣られるように金色の瞳がこちらを向く。


「ルイスさんとの勝負の件か……」
「他に何かある?」


は当たり前みたい言うとポケットから数枚の紙を取り出してきた。
手早く広げて指先で弾く。
確認してみれば、前回のテストの順位表だ。


「ちなみに敵さんは万年一位よ」
「何さ、やるじゃん」
「学年主席かよ」
「うわぁ、優秀なんですね」


アレンたちが口々に言うにも無理はなかった。
ルイスの成績はどの教科もほぼ満点、文句なしの総合成績トップである。


「ちなみには?」


こう見えて彼女も勉強は出来るほうなので、どうせ上位だろうと踏んで探したけれど、なかなか見つからない。
目が迷子になっているアレンの横から、当の本人が指をさして教えてくれた。


「ここよ」
「……ここ?」


アレンは怪訝に眉を寄せる。
何故なら順位表を何枚も捲った先に“・ウォーカー”という名前を発見したからだ。
言ってしまえば中の下。平均よりも少し悪い。
つまり、転校してきたばかりで勉強についていけていないアレンと同列なのである。


「……君、手を抜いた?」
「まさか」


疑いの目でを見れば、普通に首を振られてしまった。


「じゃあ、テスト中に寝てたとか?」
「ううん」
「わかった、前日に徹夜して寝不足だったんだ」
「知っての通り、私は夜しか眠れない体質よ」


完全否定。
言葉を次げないからアレンはラビに視線を移す。
彼は困ったように肩をすくめてみせた。
その隣では神田が呆れた顏でテストの順位表を眺めている。


「名実共にバカ女じゃねぇか」
「いやぁ……。の場合、一概にそうとは言い切れんところがあるんさ」
「どういう意味です?」


アレンと神田が揃って首を傾けると、ラビはの手元にあった問題集を取り上げた。
冊子を立てて見せ、解答部分を指差す。


「例えば、ココ。が解いたばっかの数学の問題な。これを見てわかる通り」
「「………………………」」
「ああ、うん……。アレンもユウもわかんないか……。答えが間違ってるんさ」
「ですよね!」
「だと思った!」
「……。まぁ多少ひねった問題ではあるけど。はこれが“難しい”から解けないんじゃない」


何だか生暖かい目になっていたラビは、手にしていたシャーペンをくるりと回すと、恐るべき速さで何かを書き出した。
覗き込んでみると数字だった。
見ているだけで目が回りそうなほど複雑で長い式が、問題集の余白を埋め尽くしてゆく。
次のページの半ばほどまで到達したところで、ラビはそれをの前へと戻した。


「ホラ。これで解けんだろ?」


意味がわからない。
アレンと神田は顔を見合わせた。
元の問題すら攻略できないに、何十倍も難解になったものを渡してどうする。
ただの嫌がらせじゃないか。


「ああ、これなら」


こちらの同情など知らないで、は軽く頷いた。
疑問符を浮かべながら彼女を見守る。
するとその華奢な指先に支えられたシャーペンが、先ほどのラビにも負けない勢いで数字を繰り出し始めた。


「「!?」」


思わず目を見張る。
その時にはもうはラビに解答を見せていた。


「あってる?」
「あってる。えらいえらい」
「えっへへ」
「「いやいやいやいや、ちょっと待て!」」


仲良く微笑み合っている親友達に全力で突っ込みを入れざるを得ない。


「何で!どうして!中等部三年生向けに作れた問題が解けなくて、どこぞのエロ兎が複雑怪奇にした数式なら解けるんですか!!」
「そうだ、おかしいだろ!こんなの納得できねぇぞ!さてはテメェら謀ったな……!!」
「んなこと言われても」


ラビはまた無駄に数字を書き足しながら、のんびりした口調でのたまった。


「全てはジジイのせいってな」
「……ブックマン?」
「あの老人がどうした」
に勉強を教えたのは、うちのジジイなんさ。だからコイツには“中等部三年生”の勉強はできない」
「……それって」
「つまり……」
「そ。この問題も他の教科も、テストだって、には“カンタン”すぎるんさ」
「「イヤミか!!」」


思わず声を揃えてを睨み付けたアレンと神田だったけれど、彼女はようやく解けるようになった問題を前に笑顔を浮かべていた。
うきうきと答えを書き込む姿に悪気は皆無だ。


「……じゃあ、何ですか。勉強の難易度が低すぎて逆についていけないってことですか」
「俺たちを含む全校生徒にケンカ売ってるな、こいつ」
「そうは言っても困ったもんだぜ。このままじゃ、の成績をよくすんのは」


「不可能ではないぞ」


そう断言する声と共に、の肩が抱かれた。
彫刻のように美しい手を辿れば微笑んだ横顔が目に入る。
アレンは思わずイラッとしたけれど、神田が文句を投げるほうが早かった。


「おい、ソロモン。盗み聞きか」
「馬鹿を言え。これだけ目立つ面子を揃えておきながら」


まぁ確かに。
すでに気が付いていたことだ。
神田に熱い視線を注ぐ女子の群れとか、ラビに敬礼を送ってくる不良グループとか、アレンとを見てひそひそ噂をする生徒達とか。


「話題の人物が四人もいれば、注目してくれと言っているようなものだ。その会話も自然と耳に入ってくるさ」
「なんっか正当化してるように聞こえるさー」
「それより、今はの成績についてだ」


流すように話を戻してソロモンは続ける。


「ようは慣れだよ。頭のレベルを“中等部三年生”に合せる訓練をすればいい」


の背後に立った彼は、わずかに屈み込むと、その耳元に唇を寄せて囁いた。


「人間が年齢と共に、どの程度の知識を有してゆくのか。今から把握しておけ」
「どうして?」
「将来、人の上に立つためだよ」
「それはあなたの役目でしょ、ソロモン」


が普通に返せば、彼は軽く吐息を吐いた。
苦笑めいた表情になる。


「釣れないな。そのとき俺の隣に居て欲しいという意味で言ったのだが」
「必要ないでしょう。完全無欠の君に、の助けなんて」


アレンが横から口を挟んでやる。
「さっさと離れろ」という意思を込めて微笑めば、ソロモンは余裕の態度で応じてみせた。


「社会に出れば同等の人間で集うものだ。効率的に利益を生むためにそうなる。言っておくが、学生時代を終えれば話しをすることも難しくなるぞ」
「……誰と誰が」
「何故と一際気が合うのがラビなのか。考えてもみろ」


そんなのどっちも明るいバカだからだろう。
反発するみたいにそう考えるけど本当はわかっている。
ソロモンの見解だって間違ってはいない。
とラビはその知識の量から、共有できるものが多いのだ。


「会話のレベルが合わなくなってからでは遅い。それが嫌だと言うのならば、よりもお前が勉学に励むべきだ。彼女と釣り合うようにな」


何だかものすごく痛い言葉を吐かれた気がする。
ぐさりと胸に突き刺さって抜けない。
エクソシストとして教団にいるだけなら関係のないことだけど、本当はこの学園に潜入してからずっと感じていた。
は、優秀だ。
方向性はちょっと変だけど、物知りだし機転もきく。
たぶん知能が高くて応用力があるのだろう。
ソロモンのような人物がきちんと導いてやれば、彼女に秘められた素質は花開くはずだ。
それこそ特待生にだってなれるかもしれない。


(釣り合わない)


それをライバルに告げられたのは、想像以上に痛みを伴うことだった。


「あら。だったら、私が勉強を見てあげるわよ」


背後からそんな声がかかった。
続いて亜麻色の髪が触れる。
自然な動作でアレンの左隣に腰かけ、その腕を胸に抱き込んだ少女に、神田が呆れた顔を向ける。


「お前も盗み聞きかよ」
「このルイス・マフェットがそんな下品なことするわけないでしょう」


たまたまだと主張して、ルイスはアレンに微笑みかけた。


「ねぇ、ソロモンの言うことなんて聞く必要はないわ。自分のレベルがどの程度かもわからないお馬鹿さんなんて放っておきなさい」


彼女は嘲笑を込めてを一瞥する。


「指摘してやらないと気付かないなんて甘えすぎよ。その点、アレンくんには自覚があるようね。それはとても大事なことだわ」
「は、はぁ」
「ほら、私が家庭教師になってあげる。がぼんやりしている内に差をつけてしまいましょう」
「そうはいかないぞ、ルイス」


楽しげに笑うのはソロモンだ。


には俺がつこう。アレンに負けさせはしないさ」
「あら、面白いわね」


彼らは笑顔で睨み合うと、それぞれの相手に手を差しのべた。
ソロモンはシャーペンを握るの甲を優しく覆い、ルイスは困った顔をしているアレンの頬を軽く撫でる。


「さぁ、俺に任せてくれるか。
「私が指導してあげるわね、アレンくん」
「「いやあのちょっと」」


両脇から迫られてアレンとは後ずさりをし、その結果互いの後頭部を思い切り打ちつけ合った。
ガンッとイイ音が響き渡る。
二人は頭を抱えて悶絶したあと、またもや同時に振り返った。


「痛いじゃない、アレン!」
「うるさい石頭!何で僕の方に退ってくるんだよ!」
「だってソロモンが!」
「僕だってルイスさんが!」
「「………………………」」


そこで何となく黙り込む。
が唇を尖らせて呟いた。


「どうして私とアレンが争わないといけないのよ」


そう言われてアレンは頷いてあげたかったけれど、それより先に手元に落ちてきたリボンに目を瞬かせる。
どうやら頭をぶつけ合った弾みで、の髪がほどけてしまったらしい。
本人は顔にかかった金髪を除けている最中だったから、アレンが指先で捕まえてやった。


「……あれ?」


何故だかやけに見覚えがある。


「これ、僕のじゃない?」


尋ねた瞬間に奪い返された。
そのあまりの素早さにアレンはぽかんとする。
唖然と見つめる先では何だか頬を染めていた。


「ち、違……!」
「……いや、それ、僕がハロウィンの仮装でつけてたリボンタイだよね?」


あの日は黒いシャツを着ていたので、色が映えるように白を選んだはずだ。
それが気付いたら無くなっていて、一体どこへやったのだろうと首を傾げたものだ。
まさかが持っていたとは。


「拾ってくれたんだ。ありがとう」
「う、うん……部室に落ちてたから……」
「ああ、君を看病しているときにかな。それで、
「…………………………」
「何で僕のリボンタイで髪を結んでたの?」


単純にわからなくて訊いただけなのに、は別の解釈をしたようだった。
後ろに立ったソロモンを吹き飛ばす勢いで立ち上がり、アレンの眼前へと例のリボンを突き出す。


「返す!言われなくたって返すから!」
「は……?」
「勝手に使っちゃってごめんね他になくって私ったらうっかり」
「はぁ……」
「もう二度とこんなことしないから安心してくださ」
「いや、リボンが欲しいのならもっとちゃんとしたの渡すけど」


アレンが首を傾げると、は体を強張らせた。
背後でため息が聞こえる。
たぶんルイスだ。あとラビ。
その反応を不思議に思いながらも続ける。


「別に勝手に使ったって怒ってるわけじゃないよ。ただ髪に結ぶのなら、もっと他に」
「……い」


アレンの言葉の途中で、が小さく応えた。
聞き返す前にもう一度言われる。


「そんなのいらない!」
「なんで?リボンくらいプレゼントする」
「いらないいらないいらない」
「その頑なさは何……?」
「絶対いらないから!!」


は最終的に顔を真っ赤にして叫ぶと、勉強道具を掻き集めて踵を返した。
ソロモンが呼び止めたけれど聞かない。
仕方なく彼はの後を追って歩き出した。


「意外に鈍感だな」
「?何の話です」
「俺から教えることではないよ」


憐れむように言い残して、ソロモンは自習室を出て行った。
このままでは彼がと二人っきりになってしまうと悟ったアレンは、慌てて立ち上がろうとしたけれど、ルイスとラビのため息に引き止められる。


「まぁ、私から教えることでもないわよね」
「オレだって言いたくないさ」
「……だから何の話です」


眉を寄せながら問いかければ、苛立った口調で神田が吐き捨てた。


「あんな首紐がいいとはな。悪趣味な女だ」


首紐って、という突っ込みを入れたら睨み付けられる。


は趣味が悪いが、テメェは始末が悪い。……あとはその足りない頭で考えろ」


神田は言葉の最後で叩きつけるように教科書を閉じた。
乱暴な動作で席を立つ。
去っていくその背に疑問符を浮かべていたら、ラビが異常なほど優しい口調で教えてくれた。


「言っとくけど、アレン」


その微笑みは同情だ。


「ユウに言われたらお終いだかんな」


何が何だかわからないアレンだったけれど、それだけは事実だと確信できたから、屈辱に項垂れるしかなかった。










ヒロインのハッスル回でした。楽しそうで何より。
ちなみに神田、ラビ、ヒロインの三人は、前々から同行会のカモフラージュ活動として、和楽器や歌を練習していました。
ですので、急に弾けるようになったわけじゃないですよ!演奏とっても難しいですからね。
今後は木魚担当にアレンを加え、チーム・ワビサビは活動の幅を広げていくことでしょう。(笑)

次回はヒロインとルイスがバチバチします。女の戦いです。どうぞお楽しみに!