恐れや不安に負けてやらない。
私は私を超えて行く。
そうやって、全てを守りたいと思った。
この命を生き抜く意味を。
● 泡沫の祈り EPISODE 6 ●
「まったく、相変わらず無茶をする奴だな」
腕を組んだ男性が呆れた顔でそう言った。
聞きなれたその苦情に、は傷の手当を受けながら軽く肩をすくめてみせる。
窓ガラスを砕いたのは、数人の探索隊と一人のエクソシストだった。
彼らがそこから神田とを時計塔の中に引っ張り上げてくれたのだ。
二人は回廊の床に座らされ、今は怪我の応急処置を受けているところである。
その探索隊たちはベルンの街に到着したときに逃げるよう指示した一団だった。
話を聞けば、怪我人を含める住人を安全な場所まで導いたところでエクソシストの彼が合流したそうだ。
彼もコムイから緊急連絡を受け、この地へとやって来たのだという。
「二人では厳しい戦いだと思って駆けつけてみれば……。この惨状だ」
短い黒髪をきちんと整えたその男性は、額に手をあててため息をつく。
大げさな嘆きだが、確かに見渡す限り時計塔はぐちゃぐちゃだ。
「何か申し開きはあるのか、」
「ありませーん。あっても聞いてくれないでしょ、スーマン」
は顔馴染みの仲間に苦笑を向けた。
エクソシストの証である漆黒のコートを身に纏った、黒髪黒眼の男性。
スーマン・ダークとは5年越しの付き合いになる。
最初は彼の思慮深い性格ゆえ敬遠されていただが、持ち前のゴーイングマイウェイ精神を発揮して、今ではかなり親しい間柄となっていた。(スーマンもスーマンで根っこが世話好きなものだから、この暴走娘を放っておけなかったのだろう)
は何とかごまかせないものかと笑顔を深めてみたが、効果は皆無のようだった。
スーマンにふんっと鼻を鳴らされる。
「ああ、聞かないな。毎回ここまで被害を出されては聞きたくもなくなる」
「不可抗力だってば」
「暴走娘は今日も元気に破壊活動か」
「苦情ならアクマに言ってよー」
「そして無茶をしすぎだ」
最後だけ口調を変えて、スーマンはもう一度ため息をついた。
細めた瞳で見下ろされる。
上から下までの怪我の具合を確かめると、その眼前に膝をついた。
「…………痕が残ったらどうする」
手を伸ばされ、顎に指をかけられた。
くいっと仰向かされて視線が合う。
はますます苦笑してしまった。
「それならもう手遅れだよ。痕なら体中にある」
「知っている。せめて見えるところぐらい庇えと言っているんだ」
「致命傷以外は興味ないんだよなぁ」
「若い娘がそんなことでいいのか?」
口調はアレだが、本当に心配してくれているみたいなのでは微笑んだ。
こういうときスーマンはお父さんみたいだと思う。
けれど言わない。
事実彼は父親で、よりは随分年下ではあるが、娘がいるのだ。
きっと知らずに重ねて見てしまっているのだろう。
は触れるスーマンの手を握って、にっこりと笑った。
「りょーかいです。今度から気をつけるね」
「信用できないな」
「なんで!?」
「まずはその突っ走り癖をなおせ。話はそれからだ」
そう言い切られて、はぐっと黙り込んだ。
正論ではあるが、何だか悔しい。
だからちょっとだけ睨みつけるようにスーマンを見上げる。
けれど彼はそれを気にすることなく視線を滑らせた。
「そして、今回はこの暴走娘を加速させる奴が一緒だったみたいだな」
話を振られて神田は顔をあげた。
壁に背を預け、と同じように応急処置を受けていたところだ。
痛みとその言に、盛大に眉をひそめる。
「俺のせいにするな」
いつもならそれだけ告げて終わらせるのに、が絡むと何故だか全然言い足りなくて、思わず続ける。
「誰の意思も関係ない。そいつは勝手に駆けずりまわっていた。命懸けの大バカ女だ」
当たり前のことすぎて、つい吐き捨てるような口調になった。
それが癇に障ったのか、スーマンが顔をしかめる。
瞳に冷たい光を宿して神田を睨みつけた。
「…………お前はに助けられたわけじゃないのか?」
「誰も頼んでいない」
「その言い方はどうなんだ」
「放っておけ」
他人には関係のないことだ。
話している内にそう結論して、神田は会話を打ち切った。
は勝手に自分を守り、自分も勝手に彼女を守った。
それだけのことだった。
それはわざわざ他人に説明することではないし、当の本人達が了解していればいいだけの話なのである。
神田はそう思ったが、スーマンは納得していなかったらしい。
もう一度問い詰めるために口を開こうとして、しかしそれはに止められた。
「はいはい、そうです。私が勝手な突っ走りクセが功を奏しました。おかげでユウちゃんは生きています」
「テメ……ッ、その呼び方はやめろ!!」
「そして、他人に誤解されるような言い方しかできないどこぞの不器用さんのおかげで、私は生きています」
「…………………」
「結果オーライ!ってことで笑っとこうよ」
にへらっ馬鹿みたいな笑顔を見せられて、神田は力が抜けるのを感じた。
怒りが空気の抜けた風船のようにしぼんでゆく。
思わずため息が出たが、それはスーマンも同じだったようだ。
肩を落として掌に顔を埋める。
「お前はまたそうやって……」
何もかもさらりと受け流す。
吐息ほどの声は、それでも神田には届いた。
そう、はいつもこうだ。
どんなことがあっても、例え辛いことや苦しい目にあっても、何でもない顔で笑う。
けれど流しているわけではないことを、神田はもう知っていた。
その証拠にわずかに笑顔を翳らせて言った。
「スーマン。皆も。ありがとね」
「何がだ」
「助けてくれたこと。……それと、下で囚われていた仲間たちを下ろすのを手伝ってくれて」
「……………………」
「私じゃ、きっと……受け止められなかったから」
は自分の掌を見つめながら囁いた。
その小さな手では……少女の身では、空中から地に降りてくる彼らを支えられなかったのだ。
戦闘が本当に終ったと知ったが真っ先にした事といえば、階下でいまだ蜘蛛の巣に囚われていた仲間達の救出だった。
彼らはもう死体だ。
だから先に自分の傷の手当をするようにと神田は言ったのだが、このバカ女はそれをがんとして聞き入れなかった。
傷だらけの体で無理にイノセンスを発動して糸を切り裂き、仲間の遺体をアクマから取り戻したのだ。
そうしなければ、きっと。
の戦いは終ったことにはならなかったのだろう。
そして彼女が背負った哀しみは、永遠に終らないのだろう。
「…………、だからお前は、無茶をしすぎだと言うんだ」
スーマンは吐息と共にそう言って、の血まみれの手を握った。
それをそっと下ろさせる。
もう片方の掌で金色の頭を覆うように撫でた。
「今は体を休めなければいけない。あちらの彼の手当てが終ったら、二人で病院に行って来るんだ」
「でも……」
「ここは俺達で引き受けるから。先に行っていろ」
「…………、ありがとう」
見つめてくるスーマンの眼差しに感じるものがあったのか、は言いかけた言葉を呑み込んで素直に頷いた。
スーマンは彼女の髪をかきまわし、立ち上がる。
離された手を、はきつく握りこんでいた。
神田とは生きている。
だから笑うことが出来る。
けれどそれが叶わなかった探索隊の者を悼むの表情は、ひどく切なかった。
彼女はこれから先ずっとこの哀情を抱いてゆくのだろう。
その誇り高き存在が、戦場に立ち続ける限り。
神田は一度しぼんだ怒りが急激に膨らむのを感じた。
無性にバカ女と罵りたくなった。
殴りつけてやりたくもなった。
それはきっと、無為に傷つかずに絶望も苦痛も糧にして必死に起立する彼女が、強すぎて痛かったからだ。
神田は無理に身を起こそうとした。
すると肩を掴まれて止められる。
視線を向けると、怒った顔の探索隊がいた。
「動かないでください。無茶です」
「お前……」
神田はわずかに瞳を見開いた。
目の前にいたのが、見知った顔だったからだ。
今まで気付かなかったことを自分でもどうかと思う。
彼は、この街に来た際に神田と口論になった男性だった。
あの時この胸倉を掴んでいた怒りの手が、今は傷を癒すために使われている。
それが彼の仕事であり、神田がエクソシストだから。
そして、それが“仲間”というものだからだろうか。
神田は思わず逸らした目を一度閉じた。
それから探索隊に向き直って言う。
「手間をかけさせたな。…………、すまない」
告げた声は固かった。
けれど探索隊は心底驚いたようで、面白いほどに目を剥いた。
同時に掴んでくる手の力も抜けていたから、神田はそっぽを向いて立ち上がる。
そして乱暴な足取りでのもとへと向かった。
「おい」
「え?」
振り返った彼女に神田は、
ドコォ!!
と豪快に蹴りを決めた。
もちろん怪我は避けてやったが、は勢いよく床に沈没することになる。
スーマンたちが唖然とする中、神田は怒鳴った。
「この、馬鹿が!!」
「…………っつ、たい!これはマジで痛いよ神田……っ」
「うるせぇ、自業自得だ!!」
「何で!?」
「テメェは自分勝手すぎるんだよ!!」
神田はそこでひとつ呼吸を吐いた。
何だか苦しいから拳を強く握り締める。
ああ、腹が立つ腹が立つ腹が立つ。
「俺にあんなことを言っておいて……っ」
「神田……?」
「………………“痛い”んだろ。誰だって」
「………………………………」
見開かれた金色の瞳を睨みつける。
は言ったはずだ。
特殊な体の神田に対して、それでも痛みを負ってほしくはないと。
だったら同じだろうと思った。
お前だって、そうなんだろう。
どんな強くたって、全身に負った傷は心をさいなみ、痛むのだろう。
神田はきつく固めた自分の拳を見た。
それから床についたの手を見た。
自分よりずっと小さな、その白い掌を見つめた。
少女の華奢な指先。
バカ女と何度だって罵ってやりたかった。
ああ、そうだ。コイツは“女”なんだ。
神田は無意識の内にそれを繰り返していた。
“バカ女”と呼ぶことで、その認識を繋ぎとめていた。
でなければ忘れてしまいそうだったからだ。
が、“女”であり、まだ“子供”だということを。
最初は確かにそうやって見ていたのに、傍にいればいるほどそれは意識から消えていった。
それほど彼女は強く強く、真っ直ぐに立ち続けていたのだ。
けれど、忘れてはいけないことだった。
差別や同情の意味ではなく、彼女も“人間”なのだということを、神田は覚えておかなければいけないのである。
これからも共に戦うために。
「俺たちは同士なんだろう。だったら……」
見上げてくるの綺麗な瞳が憎らしくって、神田は彼女の胸倉を掴んだ。
ぐいっと引き寄せる。
吐息がかかるほどの近距離で、鋭く睨みつけた。
「独りでこの戦いを背負ったような顔をするな」
そんなのは、許さない。
俺を勝手に守っておいて、お前を守らせておいて、そんなことは絶対に。
独りで全て抱え込もうとするその自分勝手を、俺は。
はしばらく呆然と神田を見上げていた。
けれどしだいに肩が震え出す。
そして最後には声をあげて笑い出した。
「……ぷ。あは、あはははははっ」
「な、何だよ……」
「いや、あはは。神田は本当に不器用さんだなぁ、と思って!」
「……テメェ、馬鹿にしてんのか」
「好きだって言ってるのよ」
笑顔でそう言い切られて、神田は少しの間硬直した。
今まで他人を遠ざけて生きてきたから、ここまで真っ直ぐな好意を向けられたことは、ほとんど初めてだったのだ。
「……っ、くだらないこと言ってんじゃねぇよ!!」
「ええっ、ホントだよ」
「うるせぇ、黙れ!いいから出るぞ。病院に行くんだろう」
神田は止まらない口調で一気にまくし立てた。
何だか頬が熱い気がする。
それはきっと怪我が熱を持っているせいだ。
何だか見つめることのできないから、乱暴にを突き放す。
彼女は笑んだ声で言った。
「…………神田も、みんなを下ろすの手伝ってくれてありがとうね」
「礼を言われることじゃない。俺もこの戦場に立った人間だ」
神田はわずかに目を伏せて呟くと、塔の上に視線を投げた。
「あのままにしておくわけにもいかなかっただろう。それにあれを済まさない限り、お前はここからてこでも動かないつもりだっただろうが」
「う……。ま、まぁ……」
「迷惑なんだよ。いつまで経っても任務が終わらねぇ」
当たり前のようにそう言い切ると、神田はを促した。
「ホラとっとと立て、バカ女……」
そこで何となく言葉を止める。
ちらりと金髪の少女に視線をやる。
きょとんと見つめ返してくる光色の瞳。
「バカ女、……じゃなくて」
もうそう呼ばなくても忘れない。
は弱くて強い、“人間”だということを。
そして唯一無二の“仲間”だということを。
彼女に宿った灯火の暖かさに、神田は自然とそれを口にした。
「」
名前を呼ばれて彼女は目を見開いた。
初めてだった。
神田がその音を口にしたのは。
あまりに意外だったのか、はぽかんと口を開けてしまった。
神田は気まずそうに横目で彼女を見ていたが、その反応にきちんと向き直る。
そしてまじまじとの顔を眺めると、小さく吹き出した。
「バカ面」
くくっ、と喉の奥で笑って、の額を豪快に叩いた。
それから目を瞬かせる彼女の手首を掴んで引っ張り立たせる。
よろめくのも無視して歩き出した。
「行くぞ」
「わっ、ちょ、待ってよ!」
「モタモタすんな」
「何よ、ユウちゃんのくせにっ」
「その呼び方はやめろ!」
「ラブリーな感じでいいじゃない」
「テメェが言うとそう思えねぇんだよ」
「えっへへ。じゃあお返しに、神田にも可愛く“ちゃん”って呼んでもらおうかな」
「死んでもごめんだ。つーか気持ち悪い。消えろ」
「な、何で!?だって呼び捨てもいいけど、なんかこうもっと愛を込めて……ね!」
「き・え・ろ!!」
「なんて感情を込めちゃってるんだよ、それは殺意でしょ!?」
「テメェにはこれで充分だ!!」
喧嘩のような会話を繰り広げながら、神田とは連れ立って歩み出した。
残された者たちは呆然とするばかりだ。
アンバランスな二つの影。
それを見送って、ようやくスーマンは吐息に似た笑みをこぼした。
「………………なかなか、いいコンビなのかもしれないな」
遠くから聞こえてくるのは打撃音と悲鳴と、騒々しい話し声。
少し行き過ぎている感はあるものの、それは歳相応のじゃれあいのようだ。
あの神田とやりあえるとは、さすが破天荒代表のと言うべきだろう。
そこまで感心して、しかしスーマンは掌で顔を覆うと天を仰いだ。
「それにしても……、あいつら自分達が大怪我人だってことを忘れてるだろう……」
同じエクソシストとはいえ、彼らの強靭さには呆れてしまう。
スーマンは痛む頭を押さえつつ視線を戻した。
するとが「行ってきまーす!」と手を振っているのが見えた。
思わず苦笑して手を振り返す。
「お疲れ様」と、心からの気持ちを乗せて。
「………………………………ああ、駄目だ。やっぱり斬りたい。思い出せば思い出すほど、このバカ女を斬りたくて仕方がない」
神田は『六幻』の柄をギリギリ握り締めながら唸った。
力をこめた指先が真っ白だ。
けれどそれは何だか口だけのようだった。
「何度斬ってやろうと思ったことか……」
「ハイハイ、そうさね。ユウはが大好きだもんな」
ラビが半眼で神田の声を遮った。
にんまりと笑い、隣の彼の頬を指先でつつく。
若干、突き刺しているようにも見える。
「ちょーっと妬けるさ。お前ら、そんなに深い仲だったんか」
「……っ、気色悪い言い方すんな!!」
「私も嫉妬しちゃったわ。と分かり合うのは私だけでよかったのに……」
「お前まで変なこと言ってんじゃねぇよ!!」
神田は視線を落とすリナリーに吠えた。
けれど彼女は気にせず嘆き続けている。
ラビはラビで半眼のままニヤニヤしているものだから、目を閉じて眉を寄せた。
「だから、俺とコイツはそんなんじゃ……っ」
そこでラビとリナリーが揃ってため息をついたので、神田は思わず言葉を止めた。
これは何だか何を言っても無駄な雰囲気だ。
額に片手をあてて俯く。
「羨むところなんてねぇだろうが……」
「二人だけの世界を作っといて、よく言うさ」
「だから変な言い方をするな。俺たちは、ただ……」
ただ、互いを認め合っただけだ。
そんなこと、本当は何でもないことなんだろう。
周りを見れば、隣にいる人間を“友人”と呼び、“仲間”と呼び、大切に想っている。
まるで当たり前のように誰かを愛おしいと感じている。
けれどそれは、神田には縁のない話だった。
どうしてそう簡単に他人を受け入れられるのか不思議で仕方がなかった。
それでも“何故”と考えたことはあまりない。
自分はあらゆる意味で特殊であるし、このような境遇だ。
感覚が違っているのだろう、と勝手に結論付けていた。
自分は周囲の人間とは異なった存在なのだと、そう思っていた。
ただ唯一、だけが殴りつけるような鮮明さで、この胸の内の感情を呼び覚ましたのだ。
彼女は自分を怒らせ、驚かせ、笑わせた。
嵐みたいに心をかき乱して、覚えのない感情を思い知らせてきた。
苛立つことも少なくない。
戸惑うことだって多い。
それでもそんなを、認めることが出来たのは。
「ただ……、“自分”を形造るもの―――――――――根底にある想いが同じだっただけだ」
彼女は己の信念を叶えるために、必死に今を生きようとしている。
それだけだ。
それだけが神田との共通点。
二人は止まることを知らないように、ひたすら前に向かって走り続ける。
まるで獣のように“強さ”だけを求めて。
たったそれだけのことだけれど、彼女を認めるには充分だった。
は自分と同じ誓いを胸に秘めた人間なのだから。
二人だけが分かり合える世界があった。
心に灯した誓いの熱度はきっと互いにしか知ることはない。
絶対的な絆が生まれ、二度と失われはしないだろう。
それぞれの信念が滅びない限り、永遠に。
神田にとって、他者とは確実に違うたったひとつの存在。
それが“”なのだ。
「それほど特別なことじゃない。ただ俺と同じだったから、こいつのことが理解できた。それだけの話だ」
「だーから、それがすごいんだって」
ラビが片頬を膨らませながら言う。
「今まで他人のことなんか眼中外だったユウが、初めて気に留めた人間…………しかもその存在を認めて、信じて、背中まで預けちゃったんだからさ」
「それだけのことをこいつはしたからな。言葉に行動が伴っていなければ本当に叩き斬っていたところだ」
「話を折るなよ。つまりはユウにとって“特別”、ってやつなんだろ?」
「とくべつ……。何か鳥肌たったぞ」
「慣れない言葉にビビったな。はぁ……まったくは誰とでも仲良くなりすぎるから困ったもんさ」
微妙に顔を青くした神田を放り出して、ラビはソファーの手すりに頬杖をついた。
長々とため息を吐き出す。
そして憂鬱そうに呟いた。
「コイツが嬉しそうだからいいんだけど、親友としては複雑さー……」
「私もよ。もうみんな私のと仲良しなんだもの」
リナリーまでそう言い軽くにらんでくるものだから、神田はわずかにたじろいた。
隣ではまだラビがぶつぶつ言っている。
「もー、オマエいつかオレより仲良くなるんじゃねぇだろうな」
「ならねぇよ。テメェみたいに会えばベタベタひっつくなんてごめんだ」
「その代わりにさんざんやりあってるじゃん。トレーニングの時とか絶対誘うしさー」
「それは……、どうせこいつも鍛錬するんだ。二人でやったほうが効率がいいだろう」
「普段は一匹狼のくせに」
「別に俺は……」
「他のヤツなんて誘ったこともないくせにさぁ」
「……………………、何だか妙に突っかかるな」
最初は苛立たしげに眉をひそめていた神田も、ようやくラビの様子を不審に思った。
見上げてくる眼が揺れている。
そこに滲んだ感情は何だろう。
神田が強く見つめると、ラビは苦笑を浮かべた。
「ごめん、ホントにちょっと嫉妬した」
そうして彼は翡翠の隻眼を伏せた。
「だってオレ達には無理なんさ」
その声は真剣味を帯びていて、神田は口を閉じる。
ラビは眉を下げて笑った。
「オレ達には無理さ。ユウみたいにはできない」
浮かべた笑顔は、どこか哀しげだった。
「今日……、話を聞いて思ったんさ。…………リナリーはまだ過去のを求めてる。いつかあの頃のコイツに戻れるように願ってる」
言いながらリナリーを見ると、彼女はかすかに頷いた。
ラビは目を閉じて続ける。
「そんでオレは、今のを大切に想いすぎている。昔のコイツに戻るくらいなら、何もかもを犠牲にしてもいい……、ずっと今の“”でいて欲しい」
同じ人物を想いながら、二人は背中合わせだった。
リナリーは過去が戻ることを望み、ラビは現在が続くことを祈っている。
どちらも“”を大切にしながら、目指す答えは正反対だ。
ラビは瞼を開くと、瞳を細めて神田を眺めた。
「ユウはどちらでもないんだな……。お前は目の前のだけを見つめている。過去も未来も関係ない。コイツの信念が生き続ける限り、お前の中で“”は喪われない。その一点が確かならば、他がどんなに変わろうと同じままでいられる。…………オレ達にはできないことさ」
神田はしばらくラビを見つめ返していた。
まるで睨みつけるように。
そして短く問う。
「何故だ」
「弱いからさ。決まってんだろ」
ラビは軽く肩をすくめてみせた。
「ユウみたいに真っ直ぐ立ってはいられない。きっと、望むものが多すぎるんさ……」
「それなら、俺だって同じだ」
神田はきっぱりと言い切ると、向かいのソファーにいるに目をやった。
リナリーの肩に寄り添う金髪。
眠る頬に影が落ちている。
祈るようにではない。
本当は奪ってやりたいほど強く願うことがある。
それは、彼女がその強い信念のもとに、“”として最期まで生き抜くことだ。
神田はそっと呟いた。
「……いまだに“バカ女”と呼ばずにはいられない」
それは彼女が“女”で“人間”であることを忘れたわけではないけれど。
「こいつの生き方は、見ていてたまにぞっとする」
神田は珍しく震えを殺すように自分の指先をきつく握りこんだ。
「こいつは終わりに向かって走り続けている。今はまだ違っていても、いずれ自分まで壊そうとするんじゃないかと……、思うことがある」
は守るために自分の全てを懸けている。
命を投げ出しはしないけれど、他の全てを犠牲にするほどその誓いは深い。
それを強いと思う反面、恐ろしくもあるのだ。
死なないかわりに、彼女は自分の心や精神を殺していっているようで。
必死に生き抜くために、いつか全ての温もりや優しさに背を向けてしまいそうで。
ただただ、怖い。
「だから、俺はお前が嫌いだ」
そう告げた声は固かった。
視線は落とされたままだ。
いまだに動けずにいたアレンは、それでもそれが自分に向けられた言葉だということを理解していた。
瞬きさえ出来ない。
きっとこの場にいる誰よりも恐怖を感じているのはアレンだった。
「お前はいずれグローリアと同じことをする。他人を守って、勝手に死んでゆく。…………そうやって“”を崩すんだ」
ようやく本当の意味でアレンは気づいた。
あのとき―――――――――ベルネス公爵家の地下通路で、自分はの心の傷をえぐってしまった。
最初にそれを聞いた時より、よく理解できる。
何てひどい乱暴さで傷つけてしまったのだろう。
考えれば気分が悪くなった。
自分に吐き気がする。
アレンがひとりで逃げろと、自分が犠牲になると言ったとき、彼女は何を思ったのか。
壊れそうなあの表情は、きっとアレンを見ていた。
アレンに重ねて、グローリアを見ていたのだ。
己をかばって死んでいく、儚く白い影を。
(僕は……)
アレンは目の前が暗くなったように感じた。
何てことをしてしまったのだろう。
強く凛と立ったを破壊するほどの絶望。
そんな過去の傷跡を、アレンはの目の前で再演しようとしたのだ。
怖い。
そう思った。
これほど鮮明に生きているを、崩し壊そうとした自分が。
神田がこちらを見た。
その瞳に殺されそうだ。
光る黒い双眸が恐れているのは、“”の消失。
彼女の信念を崩され、その存在を破壊されること。
その引き金になりかねないアレンを許せるはずもない。
一度ぎりっと奥歯を噛み締めて、神田は低く告げた。
「お前の存在はこいつを傷つけるだけだ。だから」
そして最後通告のようにアレンの耳に響く、言葉。
「これ以上、に近づくな」
「目が覚めてみれば、ずいぶん楽しくなさそうな話をしてるのね」
唐突に明るい声が飛び込んできて、アレンと神田は向かい合ったまま目を見張った。
同時に振り返れば向かいのソファーに寝ぼけ顔が見える。
金の瞳をこすりながら、はひとつあくびをした。
「うーん、よく寝た!」
どうやら話の中心人物がようやく目を覚ましたらしい。
しかも素晴らしいタイミングで。
ここは誉めるべきか罵るべきか、判断が難しいところだ。
そんなことを考える一同の視線の先で、は笑った。
「リナリー、膝と肩を貸してくれてありがとね」
「え、ええ……」
微笑を向けられてリナリーは戸惑ったように頷いた。
はそれでもいつも通りに伸びをして、ソファーの上で膝を抱える。
「それで、何だっけ?アレンとグローリア先生が同じだって?」
「う、あっ、あのごめん!」
そこでハッとしたようにラビが両手を合わせた。
勢いよく頭を下げる。
「オレ、みんなにグローリアが死んだときのこと喋っちまった!」
「ああ。別にいいよ」
「へ……?」
あまりにもあっさりが返したものだから、ラビは妙な姿勢のまま固まった。
窺うようにの顔色を見るが、彼女は眠そうに瞬きをしているだけだ。
「い、いいんか……?」
「うん」
「だってオマエ、あれ以来全然そのこと言わなくなっただろ……?てっきり誰にも触れられたくないのかと」
「あー……。でも、あえて隠してたわけじゃないよ。聞いてあんまり楽しい話でもないから言わなかっただけで」
「そ、そっか……」
「これくらいじゃさんは怒らないって」
軽く笑っては片手を振った。
ホッと肩を落として座り込むラビから、視線を横に滑らせる。
何となく神田はぎくりと肩を揺らした。
「まぁ、つまりそーゆーこと。“私”はそんなに脆くはないのよ」
「………………っ、テメェ!どこから聞いてやがった!!」
「濡れ衣だ!“だから俺はお前が嫌いだ”あたりから起きてたけどっ」
「やっぱり盗み聞きしてんじゃねぇかよ!!」
「だって何だか声かけにくい雰囲気だったんだもの」
ごめんごめんと謝るに神田は青筋を浮かせて『六幻』に手をかけた。
ゆらりと立ち上がりながら唸る。
「テメェ、ちょっと本気で覚悟しろよ……!」
「ふふん、ダメダメ。神田ってば全然なんだもの」
「はぁ?」
「ユウちゃんは私のことを見くびりすぎよ。それにアレンのこともね」
その言葉に名前を呼ばれた二人は大きく瞳を開いた。
は顎を引いてにやりと笑う。
不敵な笑みで人差し指を振ってみせた。
「神田も聞いてたでしょ?あのときの通信」
「……ベルネス公爵家の地下通路でのことか」
「そうそう。まぁ電波悪かったからよく聞こえなかったかもしれないけど、それでも」
そこではアレンを見た。
真っ直ぐな眼差しだった。
純粋に綺麗だと思える瞳だった。
そして微笑み。
「アレンは私に応えてくれたのよ」
笑んだ声でそう言われて、アレンは思わず細く息を呑んだ。
何だか呼吸を忘れそうだ。
胸が苦しい。
見つめる先でが軽く首を傾けた。
「まぁいろいろ腹立つことごねられたけどねー」
「……な、っ」
「反論があるなら聞くけど」
「う……」
「私に一人で行けだの、自分はここに残るだの、さんざん」
「…………………………」
「でも、最後には私のわがままを叶えてくれた」
どうしてだろう、とアレンは思った。
どうして自分を死なせまいとしてくれた優しさを、彼女は“わがまま”と呼ぶのだろう。
この手を掴んで離さない掌の温もりを、僕はもうずっと感じているのに。
「だから、一緒に戦場から帰ってこられたのよ。ねぇ、神田」
の金色の瞳が瞬いて、神田のほうへと移動した。
「アレンは、私の仲間」
「…………………………」
「これからも一緒に戦う戦友だよ」
「……………………こいつはいつか、お前の一番嫌いな死に方をするぞ」
「そうはならないと言ってくれた。それにそんなこと、この私が許すと思う?」
「思わねぇよ。けどな……」
「望む未来を手に入れる方法はひとつ!それを自分の手で創り出す事よ」
明るくそう断言されては、神田も言い返すことができない。
けれどその黒い瞳にはいまだ不満そうな光が宿っている。
はやれやれと首を振ったが、何だかとても嬉しそうだ。
「ホントにユウちゃんは私をみくびってるね。だからさんはそんなに脆くないってば」
「別にそう思ってるわけじゃねぇよ」
「大丈夫。私はとても幸運なことに、孤独じゃないみたいなの。みんなの温もりや優しさを知っている。それを手放す気なんてさらさらないんだよね」
は肩の力を抜いて笑んだ吐息をついた。
「むしろそれが嬉しくってここにいるようなものなのに、それを全部捨てて生きたりするわけないじゃない」
「………………………」
「私に出来ることは破壊ばかりで、全ての終焉を望んでいるけれど。生き抜くための信念だもの。それで自分を壊したりはしないよ」
いつだって心に影を落としていた不安。
それをの微笑みが溶かしていくようだった。
奪われた視線の先で、金髪の少女は続ける。
「無茶はするけど、無理はしない。これでもめいっぱい努力はしてるんだから。だってちょっとがんばっただけで、ラビは不機嫌になるし、神田は怒鳴るし、リナリーは泣いちゃうし」
「オマエの無茶はちょっとってレベルじゃねぇんさ!」
「そうよ!」
「毎回血まみれで帰ってくるのはどこのどいつだ!」
不満気に呟いた途端、三人に一斉に言われては身を縮こませた。
怖い怖い!と声をあげるが、口元が笑っている。
「だからさ、そうやって皆が私を独りじゃないって思い知らせてくれるから。今日もがんばるよ。がんばって生き抜く」
そこで金色の瞳に決意の光が閃いた。
「この胸の信念を貫く。悲劇を破壊するために全力で足掻いてみせる。それでも力が及ばないときは…………」
は一人ひとりの顔を見渡した。
大きな親愛を込めて。
そしてびしりと指を突きつけながら、片目を閉じてみせた。
「なるべく手を貸してほしいな、って思ってるわけですよマイフレンズ!!」
角度を変えた太陽、夕暮れの光が差し込んできて、を照らした。
何だか綺麗で眩しくて、妙に肩の力が抜ける。
どんなときでも微笑むことのできるの強さ。
必死に生きようとする気高さ。
黄金の決意が宿る瞳が、目の前にあった。
何故だろう、アレンを含む全員は思わずそこで微笑んでしまったのだった。
「…………ばっかだな、。そんなの言われなくってもだって!」
「そうよ。私たちは“仲間”ですもの」
「えっへへ。私も皆がしんどいときは全力で助けるからね。どどーんと任せてよ!」
胸を叩いてそう言うと、はアレンを見た。
アレンはその眼差しを真正面から受け止めた。
彼女の唇がにやりと弧を描く。
「あのときの約束、忘れさせはしないから」
「……忘れられるわけがないでしょう」
あんなに鮮やかな記憶を、失えるはずがない。
アレンも同じように微笑み返すと、は本当に嬉しそうに口元をゆるめた。
「それはよかった」
「絶対に、忘れないよ」
「だったらせいぜい私に頼り、頼られることね!」
「望むところです」
応えながらアレンは思った。
過去の己を棄てた“”は孤独だった。
だからこそ独りの怖さ、辛さを理解している。
そして今、信頼できる仲間を得、その尊さを抱いている。
守るために生き抜く決意をし、共に歩む大切さを知っているのだ。
“強さ”というのは本当はこういうことなのではないだろうか。
信じ、信じられる仲間がいること。
それは戦場に生きる者の確かなる支えだった。
手を差し伸べる優しさと、力を借りる勇気を得ることは、本当は意外なほどに難しい。
余裕は徐々に失われ、自尊心が邪魔をする。
そんななか、当然のように背中を預けられる相手がいることは何と心強いことか。
それさえあればどんな窮地でも乗り越える気がした。
が手にするその力を、アレンは今、確かに感じているのだった。
「君も」
アレンは自然と微笑んで言った。
「せいぜい僕に頼り、頼られればいいですよ」
そうだ、あのとき決めたはずだった。
もう何も諦めないと。
全てを守るために、命を捨てはしない。
繋いでくれるの手の優しい力。
同じだけの力で応えて、この生を生き抜くのだと誓った。
だから二度とあんな恐怖とは出逢うものか。
を傷つけることも、自らを後悔することも絶対に許しはしない。
金色の瞳を見つめると、が口を開いた。
「言うじゃない」
「が相手ですからね」
「モヤシのくせにー」
「そのあだ名で呼ばないでください。不愉快です!」
怒ったフリをして言ってやると、は声をあげて笑った。
釣られてアレンも笑った。
先刻まであんなに恐怖を感じていたのに、嘘みたいに胸の内が明るい。
はやっぱり未確認生物だとアレンは思った。
だって、こんな魔法みたいなことができる人間を僕は他に知らないのだから。
「………………相変わらずバカだな、バカ女」
大量の呆れを含んだ声が隣から聞こえてきた。
アレンが視線を向ければ、神田がソファーから立ち上がるところだった。
緩んでいた唇を引き締めて、彼はを見下ろす。
「そうやって、どんなことでも笑い飛ばしやがって」
「能天気に生きているつもりはないけれどね。…………これが私なんだよ」
「いつか本当に傷ついても知らねぇぞ」
「……、それはアレンのことで?」
「こいつを含めた全てだ」
「大前提ですか。あんた達なんでそんなに仲悪いの」
「お前がそれを聞くか」
くだらなさそうに言い捨てて、神田はアレンの前を横切った。
テーブルを迂回し、ずかずかと歩き出す。
どうやらもう行ってしまう気らしい。
長い黒髪がなびき、の隣を通過していった。
去り行く青年の背を振り返りもせず、少女は言葉を投げる。
「神田」
呼び声に、彼は足を止めた。
けれどやはり振り返りはしない。
背を向けあったまま、二人はそこにいた。
続けては唇を開いたが、アレンにはそれを聞き取ることができなかった。
リナリーも驚いたように目を見張っている。
何故ならの口から飛び出してきた言葉が、聞き慣れないものだったからだ。
思わず隣を見ると、ラビが肩をすくめてみせた。
「日本語さ。あいつら二人でたまに喋ってるんだよ。…………ナイショ話みたいにな」
少しだけ不満そうなラビの声と、の声が重なる。
「私たちの誓いを覚えてる?」
今はもう流暢になったの日本語が、神田の耳に静かに響いた。
彼女はあれ以来、独自に勉強を続けて、神田の母国語をマスターしたのだ。
完璧な発音のそれに、瞳を伏せて応える。
もちろん、日本語で。
「ああ。俺たちの信念だ」
そして、俺たちの絆だ。
「これがなくっちゃ、私たちじゃないもんね」
「失うときは、死ぬときになるだろう。………………何故そんなことを訊く」
「だから私は大丈夫なのだと、そう伝えたかったからよ」
神田はに背を向けたまま、目を見張った。
背後からの声に意識を奪われるようだ。
がわずかに微笑んだ気配がする。
「私は守る。守るために、戦う。そうやって生き抜くんだ。あなたとの誓いがある限り、私はエクソシスト…………“”なのよ」
「…………………」
「だから、大丈夫。心配しないで」
「誰が心配なんて……」
「否定しても無駄だよ。だって、私は知ってるもの。神田は短気で怒りっぽくて不器用で、人から勘違いしかされないお馬鹿さんだけど」
「テメェな……!」
「実はすごく優しいって」
そんな、こと。
他人に言われたのは初めてだった。
あまりに慣れないその言葉に、神田は一瞬、本気で思考が働かなくなった。
全身が硬直してままならない。
感覚が戻ったときには、考えるより先に振り返っていた。
ソファーの背の向こうに金髪が見える。
どうやら彼女は目を閉じているようだった。
「口にしないけれど、いつも私を案じてくれているんだってこと」
「…………………………」
「嫌がられるってわかってたから、今まで言わなかっただけで。そんなこと、私は知ってる」
「……………………………………、お前」
「知ってるんだよ。神田」
そこではこちらを見た。
金の髪が翻って、瞳が神田を捕える。
「安心させてあげられない私でごめんなさい。それと」
そしてはいつものように微笑んだ。
「ありがとう。大好きだよ、神田」
それを聞いた途端、神田はしばらく時間を感じなくなった。
意味がわからなくて固まる。
いや、それは嘘だ。
言葉を理解しているけれど、動けない。
いつもは不意打ちばかりで、こうやって人を驚かせる。
嘘や偽りのない瞳で、何の躊躇いもない唇で。
どうして、そんな、言葉を。
「……………………っ、テメェ!!」
一気に頬に熱が上った。
最初に動き出したのは心臓で、気がつけば怒鳴っていた。
けれどそこで何とか口を閉じる。
日本語のわからないアレンとリナリーが、急に声をあげた神田を驚いた顔で見つめていたからだ。
ここで変な様子を見せれば、何かを悟られてしまうかもしれない。
それは絶対にごめんだ。
ああ、そして嫌な笑顔でこちらを見ているラビが不愉快で仕方がない。
日本語のわかるアイツさえいなければ、今すぐ言葉を返せたかもしれないのに。
神田は大きく息を吸った。
知らない感情が胸の中を暴れまわっていて苦しい。
どうにも怒鳴り散らしたいような気分だった。
「………………っ」
神田は一度目を閉じると、再び歩き出した。
先刻までとは方向を変えて、に背を向けず、ただ彼女のところへ。
ソファーの横で足を止める。
金色の瞳を見下ろす。
気配が近い。
『六幻』に添えた右手を握り締める。
アレンとラビはに斬りかかると思ったのか、制止の言葉を口にしている。
けれどそんなことはどうでもいい。
の身を案じたリナリーが彼女を引き寄せようとしたので、神田は刀から手を離して腕を伸ばした。
この女はいつも馬鹿なことを言う。
馬鹿な台詞を馬鹿みたいに笑って、けれど本当の気持ちを込めて。
そして一緒にいる俺はいつだって、こいつに馬鹿をやらされるのだ。
本当の馬鹿を。
指先が金髪に触れた。
片腕をの後頭部にまわして引き寄せる。
ソファーに座っていた彼女は少しだけ腰を浮かせる体勢になった。
神田は前に身を屈めて寄り添う。
「……俺は死ねない」
神田はあの日の決意を口にした。
怒鳴りつける代わりに、殴りつける代わりに、の小さな頭を抱きこんで。
「あの人と再びあいまみえる日まで、死ぬわけにはいかない」
「…………、うん。知ってるよ」
「けれど、今はもうそれだけじゃないんだ」
「え……?」
が驚く気配を感じながら黒の瞳を伏せる。
決して熱度を落とさない、炎のような想いがあった。
「バカ女、お前は…………」
神田はの華奢な体を抱きしめた。
耳に唇を寄せて囁く。
アレンにもリナリーにもラビにも、他の誰にも聞こえないように。
ただ、“大好き”などと屈託もなく言うを見返してやるために。
彼女だけに思い知らせる。
その耳元で言葉を贈る。
「お前は俺の、死ねない理由のひとつだ」
あの日の誓いを忘れるものか。
心に誓った信念を叶えるために、この命を生き抜いてみせる。
それは同時にお前との約束を守るということだ。
俺はお前の前から絶対にいなくなったりはしない。
それと等しい決意をして、強く前に進んでいく“”。
同じ速度で駆けながら。
ずっと隣で戦い続けよう。
それが、お前への誓いだ。
、俺はお前のために死んではやらない。
絶対に、死んでなんかやらねぇよ。
それは二人だけの秘密。
他の何者も知ることのない声。
触れている細い肩が震えた。
息を呑むかすかな音が聞こえて、すぐに笑い声になる。
は笑顔で神田を抱き返した。
「あは、あははははははっ」
「……………………」
「信じられない!」
「………………、そうかよ」
「神田がそんなこと言ってくれるなんてね」
「もう、二度と言わねぇ……」
「ええ?何で!?」
「……………………お前がそうやって笑うからだろ」
「………………………………っ、あははははは!あははははははははははっ」
不本意そうに呟く神田の言葉を聞いて、はますます声をあげて笑った。
黒髪の青年はそれに大変気分を害したらしく、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「だから笑うなよ!!」
「むーりー!だってすごく嬉しいんだ!!」
「馬鹿にされてるとしか思えねぇ!!」
「まっさかぁ。だって私、神田のこと大好きだものっ」
「…………………………っつ、だからテメェは!!」
神田はまた怒鳴ろうとして、けれど途中で止めて吐息をついた。
本当に嬉しそうなの笑い声。
力が抜けて、それでも離したくはないから、喜びに震える肩を抱きしめる。
神田は両腕でさらにを引き寄せた。
その唇には見たこともないような笑みが浮かんでいたから、アレンは思わず叫んだ。
「ちょっとラビ!今、神田はに何て言ったんですか!?」
「うええ!?そんなんオレだって知りたいって!全然聞こえなかったさ!!」
「私は少しだけ聞こえたけれど……、日本語だったからさっぱり……」
悔しそうに眉をしかめるリナリーの言葉を聞いて、アレンとラビは顔を見合わせた。
そして一瞬後、同時に口を開く。
「神田!」
「ユウ!」
「何だよ、うるせぇな」
神田はに抱きつかれたまま、横目で視線をよこしてきた。
言葉はもう英語だ。
はまだ日本語で何か言っていて、それに返すときだけ切り替えている。
彼女の背中に添えられた青年の手が何だか無性に憎らしい。
アレンは神田を睨みつけて怒鳴った。
「さっき、に何て言ったんですか!?」
「はぁ?そんなことテメェには関係ねぇだろ」
「それはないだろ!気になるさー!!」
「知るか」
「……………………っ、!!」
「なぁ、!ユウはお前になんつったんさ!?」
神田では話にならないと、アレンとラビは問いかける相手をに代えてみたが、それより先に言われてしまう。
「バカ女。わかってるだろうな」
「もちろん。二人だけの秘密なんでしょ」
「ひみつ、って……!!」
「何さソレー!!」
非難の声をあげてみても、それは抱き合ったままの二人に華麗に無視された。
「コムイに押し付けられた仕事はもう片付いたのか」
「うん、バッチリ!ここしばらく鍛錬に付き合ってあげられなくてごめんねー」
「まったくだ。なら、今すぐ……」
「鍛錬場に行く?」
「……………………、いや」
「え?やらないの?」
「日が暮れてからでいい。もう少し寝てろ」
「……やだ神田ってばホントに優しい」
「アホか。寝不足のお前と戦りあっても面白くねぇだけだ」
「照れんなってー!」
「照れてねぇよ!!」
そのままがぎゅうぎゅう抱きついてくるものだから、神田は力尽くで彼女を引き剥がした。
両肩を押さえつけてソファーに戻す。
アレンは二人に距離があいたのを見て、何だか妙に安堵した。
けれどやっぱり気になるから言う。
「いいからさっきのこと教えてくださいよ、二人とも」
「誰が。死んでもごめんだ」
「それはみんなのご想像にお任せってことで!」
「何さケチ!サイテイ!この鬼畜どもー!!」
「うるせぇよ。それよりお前ら……」
憤然とするアレンとラビ、悔しそうにこちらを睨みつけるリナリーを見渡して、神田はひとつため息をついた。
から手を離しながら訊く。
「いつまでもこんなところで話こんでいていいのか?」
「「…………………………」」
そう言われてきょとんとしたのはアレンひとりだった。
ラビとリナリーは同時に顔色を失くすと談話室の壁時計に目を走らせる。
時を告げる針は残酷なまでに正確に、それを知らせていた。
ここに陣取ってからかなりの時間が経過していたのだ。
「ああああああああああっ、やっべぇ!オレまだ報告書とか記録地のまとめとか……っ」
「大変!兄さんに頼まれた仕事があったのに!!」
「じじいに殺される!!」
「早く戻らなきゃ!!」
二人は自分の都合を口走ると、わたわたと立ち上がった。
その間に神田はに普通に告げる。
「日没と同時にはじめるぞ。場所はいつものところだ」
「オッケイ」
「遅れるなよ」
「わかってるって」
それだけ会話をかわすと、神田は他を全て無視して談話室から出て行った。
続いてラビとリナリーも反対の扉から飛び出していく。
「ごめんなさいアレンくん、!」
「ちょっと行ってくるさ!また夜に遊ぼうぜ!!」
「うん、待ってる!二人ともお仕事がんばってね」
慌しく去っていく彼らを、は手を振って見送る。
それから大きく息を吐いた。
一気に人が減ったからだろうか、談話室は不思議な静けさを得ていた。
おかげでまた眠気が襲ってきたので、はそれを首を振って追い払う。
そのとき真正面にいる人物が居心地悪そうにしているのが映ったから、思わず笑った。
「アレンくんはまだ私とお話がしたいようで」
「……………………ひとりだけ暇で悪かったですね」
「悪くはないんじゃない。でもホントに用事とかないの?」
「別に……。帰ってきたばかりだから任務もないし」
「トレーニングは?」
「…………今、神田が行ったみたいなんでやめときます」
「だから何でそんな仲悪いの、あんた達」
「さっきも言われてたけど、僕も言わせてもらいますね。君がそれを聞くな」
「はいはい、ゴメンね。私が悪いです」
は苦笑を浮かべて肩を落とした。
アレンと神田の不仲に一役かっているのは理解しているのだが、どう言ってもそのわだかまりを解消することはできなさそうだ。
神田はこれまで通りアレンを嫌い続けるだろうし、それに反発してアレンも神田に険悪な態度しか取れない。
そう考えて思わずため息をつくと、アレンがばっさりとした口調で言った。
「そうです。ぜんぶ君のせいです」
それがあまりの断言っぷりだったから少しだけ落ち込んだ気持ちになって、は唇を尖らせた。
「ご、ごめんってば……」
「本当に、全部、君が原因だったんですね」
今度は何だか噛み締めるような調子だった。
不思議に思って顔をあげると、アレンは片手で肘を押さえて瞳を伏せていた。
笑顔のようではあるけれど、同時に切ないような淋しいような気配を含んでいて、は驚く。
思わず抱えていた膝を下ろして身を乗り出した。
「アレン?」
「もう何もかもです」
呼びかけるを無視してアレンは言った。
「リナリーが君を溺愛しているのも、ラビと無駄に仲がいいのも、あの神田と対等な関係を築けているのも、全部ぜんぶ……君のせいだったんですね」
は瞳を見開いて、目の前の少年を見た。
すると彼は顔をあげて見返してくる。
まるで懐かしむように細められた目が、を眺める。
「君が……、君の言葉や行動が」
「…………………………」
「一生懸命がんばった結果が、今なんですね。だから皆、あんなにも……」
「ア……」
「ごめんなさい。ちょっと勘違いをしていたみたいだ」
名前を呼ぼうとすれば囁き声に遮られた。
銀灰色の瞳が伏せられて、顔を逸らされる。
はソファーの上で拳を握った。
「どうしよう、アレン」
「…………………」
「せっかく腹黒魔王が自分の非を認めたっていう感動のシーンなのに、何を謝られているのかさっぱりだよ」
「……………………、そう」
「というわけで受付拒否です。そんなんじゃ、勇者は勝った気がしないんだから」
「………………………………やっぱり馬鹿だなぁ」
「ハイ、いつも通りの暴言きた!」
「そんな風に馬鹿だから、僕は」
アレンは笑みを含んだため息をつくと、もう一度を見た。
「僕は、……君のことが苦手だった」
こんなことを他人に言うのは初めてだから、アレンはわずかに唇が震えるのを感じた。
けれどは特に表情を変えずに目の前にいる。
真っ直ぐな瞳が“本当”を求めているから、アレンは続けた。
「初めて逢ったとき、なんて非常識な人なんだろうと思ったし。あまりに個性的で、やることなすこと突拍子がなくて、馬鹿丸出しで。こんな変人、見たことないなぁって」
「そーゆーのも聞き飽きたな。よく言われるから」
「でしょうね。………………君はそうやって戦ってきたんだから」
「………………、みんなはどこまで私のことを話したの……」
気まずそうに呟いて、はうなだれた。
アレンは少しだけ笑った。
「ごめん。僕は君のことをどこまでも楽観的に生きている人だと思ってた」
はわずかに反応したようだったけれど、顔をあげることはなかった。
だからアレンは続ける。
「馬鹿なことを言って、馬鹿みたいに笑って。思い悩むこともなく、自分の道を走っている人なんだって……。その姿はとても強いから、皆に慕われている……それだけなのだと勘違いをしていた」
「………………………」
「本当は違ったんですね。たくさん悩んで、たくさん苦しんで、それでも負けずに一生懸命戦った結果が、今で」
聞かされた話がアレンの胸に蘇る。
必死に過去を駆け抜けて生きてきた少女が、目の前にいる。
「だから今、君は笑っていられるんですね。」
アレンがに感じるのはいつだって“本当”の感情で。
それは彼女が産まれ持っていたもののように感じていた。
けれどそうじゃない。
は多くの傷を負いながら、死に物狂いで戦ってきたのだ。
アクマを相手にだけじゃない。
その特殊な境遇に向けられる不信や侮蔑、理解しあえないと思っていた相手。
そんなものたちから逃げずに立ち向かって、信頼を得る努力をした。
それは真正面からぶつかって、心をさらけ出す強さがなければなし得なかったことだろう。
はいつだって真っ直ぐだった。
苦痛も絶望も喜びも笑顔も。
ぜんぶ偽りのない真実で、だからこそ“本当”を手に入れることができたのだ。
「だから皆、君が好きなんだって……よくわかったよ」
涙を見せないその強さを、リナリーはいつか溶かしてあげたいと言った。
孤独に生きるしかない運命を、ラビはもう二人なんだと笑った。
心に誓った同じ信念を、神田は共に戦い抜こうと決めた。
そう思わせたのは全てせいだ。
いつだって弱さに震えながら、それでも逃げずに挑み続けた彼女の。
強さと、力。
「ごめんなさい。僕は勝手に君を決め付けて、苦手だと思っていたんだ」
アレンは細くそう告げた。
吐息が一緒にこぼれて声がかすれる。
何だかのほうを見れないから、銀灰色の瞳を伏せた。
「ホントに勝手だね」
間髪入れずに向かいから飛んできたのはそんな言葉だった。
「だから“ごめん”は受付拒否だってば」
そこに滲んだ感情は怒りでも苛立ちでもなく、まったく別のもののようだった。
アレンが思わず目を見開くと、視界の隅からの脚が引っ込む。
どうやらソファーの上で膝を抱えなおしたらしい。
「別に謝られることじゃないでしょ、ソレ」
「……………………」
「判断は人それぞれじゃない。アレンがそう思ったんなら、それがその時の正解!」
「………………あっさり言いますね」
「言いますよ。それに私、明るく生きてるって言われるの嬉しいもの」
そう告げられて、アレンはゆっくりと顔をあげた。
は抱えた膝の上に顎を乗せてこちらを見つめていた。
唇の端が吊り上がる。
ああ、やっぱり。
彼女は何て魅力的に笑うのだろう。
「私の夢はね、楽天家を極めることなの。弱ってることを誰にも悟らせない、潔い生き方をしてやるんだから」
「ええ?何ですかソレ」
「それで、“あぁもう人生すっごく楽しかったサイコウ!”って叫びながら死ぬの」
「……すごい人生設計」
「ステキな人生設計でしょ」
アレンが思わず苦笑を漏らすと、もっとと促すようには笑みを深めた。
「だから、私にはアレンに謝られる覚えがありません。よって謝罪の言葉は完全に拒否します!」
「……………………ばか、じゃないですか」
「どーせっ。それにさ、アレン。あんたが勘違いしてるのは私のことじゃないよ」
少しだけ怒ったフリをした後、は目を閉じた。
唇がまた微笑みを刻む。
切なくなるような温もりを感じて、アレンは彼女を見つめた。
「私のせいで今があるんじゃない。全部みんなのおかげなんだ」
は膝を抱えた腕をぎゅっと握った。
「みんながいたからここまで来れたの。みんながいつだって私の意地を支えてくれた。自分勝手なそれを、信念へと変えてくれた」
素性は何ひとつ明かせずに、それでもエクソシストとして生きると決めた。
信用されなくて当然だった。
こんな特殊な相手を、“仲間”と呼べるはずもない。
許されたのは、“”となって必死に走り続けることだけだった。
弱さを捨て、涙を禁じ、別の人間になりきること。
疎まれても蔑まれても、ただひたすらに戦い抜くこと。
最初は孤独に生きるしかないと思っていた。
誰ひとり、本当の意味で“私”を理解してはくれないだろう。
けれど、それなのに。
「みんなのぬくもりが、絶望に殺されそうな私をいつだって生かしてくれたんだ」
私のために泣いてくれた、優しい少女がいた。
“ひとりじゃないよ”と微笑んでくる、大切な親友ができた。
同じ決意のもとに生き抜くと誓い合った、心強い同士を得た。
だから、“私”は。
「みんなのおかげで、“”は今日も笑って生きています。そういうこと」
は瞳を開けて、微笑んだ。
アレンは彼女が何故こんな笑顔を浮かべることができるのか、考えるまでもなく理解する。
綺麗なのは顔がいいからで、当たり前のことだから、そんなのは問題じゃない。
そうじゃなくて、のそれは見ているこちらまで自然と笑顔にさせるものだ。
胸の内に光を落とされたみたいな気分になる。
体を構成する細胞すべてに心地良い熱を与えられた気がして、アレンはやっぱり笑ってしまった。
「本当に、君たちは“お互いさま”……ってやつなんですね」
アレンがそう言うと、は少しだけ頬を赤くした。
どうやら今になって恥ずかしくなってきたようだ。
意味もなくソファーに座りなおし、スカートを調えたりする。
それから笑顔を引っ込めて、拗ねたように訊いた。
「ねぇ、………………みんなは私のこと何て言ってた?」
「なんて、って……」
アレンは小さく吹き出した。
「気になるんだ?」
「べ、別に!ただマズイこと喋られてたら早急にアレンを始末する必要があるでしょ、それだけっ」
「ははっ、まぁ確かに色々アレな話も聞きましたけどね」
「何!?なにを知ってしまったのアレン!!」
必死の形相でが身を乗り出してくるものだから、アレンはまた声に出して笑った。
それからしばらく彼女を相手に語ってやった。
あの三人に聞いたことをかいつまんで伝えると、その度には百面相を披露するので、やっぱり笑いは止まらない。
最初は変な唸り声をあげてしきりに恥ずかしがっていたが、しだいに静かになっていった。
照れているだけなのか、それともいろいろと考えることがあるのか、アレンにはわからないから特に突っ込まずに続ける。
そしてこの言葉で締めくくった。
「…………と、いうようなことを延々と聞かせてもらったわけですよ」
「んー……、なんてゆーか……お疲れさま?」
「うん、でも別に。面白かったし。………………君のことが知れてよかったし」
皆の話を反復している内に改めてのとんでもなさを確認して、アレンは小さな声でそう付け足した。
本当、何てとんでもない人なんだろう。
あらゆる意味ですごいと思う。
呆れるところも、尊敬するところも、人並みじゃない。
「いやいや、お疲れさまだって皆。何時間喋ってたの。そして私は何時間寝てたの」
「爆睡でしたよね。ええと、どのくらいだろ……」
アレンは請合って時計を見ながらそれを計算しようとした。
けれどふと気がついてに視線を戻す。
金の瞳が何だか緩慢に瞬いていた。
「もしかして、まだ眠いの?」
思わずそう訊くと、は驚いたように顔をあげた。
よく見れば確かに顔色が戻りきっていない。
まだ全快してはいないような。
そう言えば、神田が“もう少し寝ていろ”と言っていたっけ。
それはつまり彼のほうがのことをわかっているということだから、アレンは猛烈に面白くない気がした。
顔をしかめて額を押さえる。
「馬鹿。まったく仕方ないな……」
「ちょっとアレン、私のこと馬鹿って言うのクセになってない?」
が何だか文句のようなことを言っていたけれど、アレンはそれを普通に無視した。
ひとつため息をついて片腕を持ち上げる。
差し出すのは左手。
に向けて。
「おいで」
指先で彼女を招く。
「肩を貸してあげるから」
そこでが限界まで目を見開いたから、アレンは不思議に思った。
何か変なことを言っただろうか。
だってリナリーばかりに寄りかかって、ラビとは馬鹿みたいに笑い合って、あの神田とまで引っ付いていたんだから。
僕がこのくらいしたって悪くはないだろう。
僕だって君の“仲間”なのだから。
はしばらく呆然と差し出された掌を見ていた。
それから顔を見上げてくる。
じっと見つめられて、アレンは何となく頬を染めた。
「な、何ですか……」
「………………………………、アレンって生命線めちゃくちゃ長いね」
「何見てるんですか」
「手相。私も長いんだよ、見る?」
「いりませんよ」
「まぁ確かにこうしたら見えないか」
言いながらはアレンの掌に自分のそれを重ねた。
彼女の白い甲が赤い左手に映える。
指先が絡んで、温もりを感じた。
はアレンの手を取ると、思い切り微笑んだ。
その笑顔に見とれている内に、はソファーを蹴る。
野生の動物みたいな動きだ。
というか、室内ではしてはいけないレベルの勢いだ。
彼女は身軽にテーブルを乗り越えてくる。
スカートが翻る。
ああ、今うしろから見たら絶対に中身が丸見えだ。
そんなことを考えながらアレンは空いているもう片方の腕を伸ばした。
金の光が突っ込んでくる。
空気が動いて、輝きが残る。
アレンは弾丸みたいに胸に飛び込んできたを、全身で受け止めた。
勢い余ってそのまま抱きしめ合う。
折り重なって深くソファーに身を沈める。
頬と頬がかすめて、アレンは何だか胸が高鳴るのを感じた。
「ナイスダイブ!ナイス受け止め!!」
首に抱きついたが明るく笑う。
アレンは他にどうしようもなくて、途切れ途切れに言った。
「な、なにを、……急にっ」
「おいでって言ってくれたから来てみました」
「飛び込んでくる必要なはいだろ!?」
「だって早く行きたかったんだもの」
「………………っつ」
「ああ、でもごめん。ビックリした?」
「………………そりゃあ」
「すごいドキドキしてるもんね」
「ちょ、ばっ、耳を当てるな勝手に聞くなっ!!」
「ありがとうアレン。お言葉に甘えてベッドにさせてもらいますオヤスミ」
「この体勢で寝る気!?いやいや駄目だから、起きろ!!」
アレンはジタバタと暴れてを引き起こそうとした。
何故なら彼女は自分の膝の上に跨って、抱きついている状態だからだ。
さすがにこれはマズイ。
というか男として困る。
がこちらの肩に顔をうずめて目を閉じてしまったから、アレンはせめて脚を閉じさせようと膝裏に手を入れた。
「ス……スカートでっ、こんな格好しない!」
「え、ヤダ。どかすの?気持ちいいのに」
「……う、っつ、そういうことも言わない!!」
「何で」
「何でって……っ」
「人間ベッドってかなり寝心地いいんだよね。ラビとよくやる」
「知りませんよ!!」
「あとで交代してあげるから」
「いりません!そんなの絶対にごめんだ!!」
「何をー!ベッドは至上最高の気持ち良さだって言うのに!!」
胸を張ってそんな馬鹿なことを言うから、アレンはの体の向きを変えさせると、容赦なく膝の上から払い落とした。
悲鳴があがったが、まぁいつものことだ。
アレンは顔を真っ赤にして怒鳴る。
「ば……っ、かじゃないですか!?」
「だからそれ言うのクセになってるんじゃないかって」
「人類語が理解できない君は馬鹿に決まってるだろう!貸すと言ったのは肩だ!!」
「膝に変更してくれると嬉しいんだけど。だめ?」
「……っ、駄目に決まってる!!」
「ちぇー」
は唇を尖らせるとソファーに座りなおし、アレンの肩にこてんと頭をあずけた。
不満そうなフリをしているが口元の笑みが隠せていない。
それを見て、アレンはだいぶ溜飲を下げた。
思うには人の温もり好きなのだ。
触れられるのも躊躇われていた子供時代を考えると、当然のことかもしれない。
けれどそれだったらアレンだって同じだった。
しばらく憤然と睨みつけていたけれど、どうしても惹かれて、膝を曲げて隣に座ったの肩にかかる金髪を指先で梳く。
さらりと心地良い感覚。
薄紅の唇がくすぐったそうに笑う。
触れた指は左のものだったけれど、彼女なら大丈夫だろうと知っていた。
熱を感じる。柔らかい。
そのまま頬をつまんでみると、が文句を言った。
手を伸ばしてこちらの頬を掴み返してくる。
指先が左の傷痕に触れたけれど、アレンは気にしない。
ああ、こんなに何の躊躇いもなく異形で触れて、触れさせることが出来るだなんて。
もしかしたら今、とても幸せなんじゃないかなとアレンは思った。
は当たり前のようにこうだから、わかりにくいだけで。
本当はずっと幸福を与えてくれていたのかもしれない。
初めて逢ったときから感じていたこの不思議な感情の正体は、それだったのだろうか。
だって息をするのを忘れそうだ。
不思議な想いが胸の中に芽生えて、溢れて、世界を染め上げる。
まるで内側から輝くように。
そのまま頬を引っ張り合っていたら、互いに変な顔になった。
元が良いだけにすごく不細工に見える。
思わず目を見合わせて笑った。
「可愛いね。最高だよ」
「アレンも男前よ。すごくカッコイイ!」
馬鹿なことを言い合えばもっと笑えた。
頬を引っ張るのをやめても笑っていた。
それからアレンはふいに切なくなって、それでもやっぱり嬉しいから微笑んだままで、の頭に額を寄せる。
吐息のように言った。
「ねぇ、いつか」
今日のことを思い出す。
教えてもらったことはきっと全部忘れない。
そしてこう思うよ。
「いつか僕にも、君との思い出を誰かに話す日が来るのかな」
その時は笑っていればいいな、なんて。
そんなことは決まっている。
その証拠にがこちらを見上げて告げる。
「いつか?私は今すぐでもいいくらいよ」
光に満ちた、微笑み。
「あんたとの思い出なんて、もう語りつくせないくらいたくさんたくさんあるんだから!」
言われた言葉が。
近くに感じる温もりが。
その存在の全てが嬉しかった。
アレンはさらにの頭を引き寄せた。
ああ、何だか本当に幸せみたいだ。
笑いが止まらない。
「うん、僕だって。語りつくせるものか」
「出逢った瞬間からアレだったもんねー」
「その後は本気の殴り合いで」
「いつでもどこでもケンカばっかり」
「ああ、何だか強烈な思い出しかない」
本当は思い出す必要もないくらい、鮮明にこの胸に残っている。
アレンはそれを自覚して、も同じだったらいいなと思った。
いつか彼女がラビやリナリーや神田や他の大切な人に、僕の話をしてくれるといい。
そのとき僕と同じように笑っていてくれればいい。
幸せに満たされていたら、それだけで嬉しかった。
心が躍るようだ。
そして出来ればその時、君の隣にいたいと願うよ。
「アレン。私たちは“仲間”よ」
が笑んだ声で言った。
アレンも同じ調子で応える。
「そう。“仲間”だ。もうどれだけ仲が悪くても、喧嘩ばかりでも、絶対に付き合いが長くなるに決まっている」
「うん、だから」
「“よろしく”?」
「ううん。…………これからもばんばとんでもない思い出が増えていく予定なので、“よろしく”!」
の変な宣言を聞いて、アレンは一瞬目を見張った。
けれどすぐにこみ上げてくる感情に支配される。
夕暮れの談話室。
たくさんの思い出が語られた場所。
そこに新たな加えられる想いがあった。
アレンは心の底から微笑んで、の手を握った。
「こちらこそ、よろしく!」
『泡沫の祈り』、別名ヒロインとの思い出話神田編が終了です。
話数的にはラビの方が多いんですけど、文章的には神田の方が多いです。
書いてみたらそうなりました。不思議……。
たぶん神田は感情表現がわかりにくい(表に出してくれない)ので、そのぶん心理描写が増えたんだと思います。
これで長かったアレン以外のキャラによるヒロイン語りもお終いです。
次回から新章スタートです。
今までの話でアレンはヒロインの強さを知ったので、今度は弱さを知ってもらおうと思います。
結構ひどい目に合わせるつもりなので、がんばれヒロイン!(笑)
よろしければお付合いお願いいたします〜。
|