死を抱いて、命を生き抜く。
さぁ世界のあらゆる絶望たちよ。
我らが紡ぐ終焉に、鮮やかに燃えゆけ。
● 泡沫の祈り EPISODE 5 ●
「あーるーこー、あーるーこー、わたっしはーげんきー!」
神田は痙攣する瞼を閉じたまま、その歌を聞いていた。
耳元で響く、調子っぱずれなメロディに頭が痛む。
あまりに辛いので空いている右手で顔を覆うが、寄り添うように歩く金髪の馬鹿はそれでも歌い続けていた。
「あるくっのーだいっすきー!どんどんゆーこーうー!!」
神田はそこで何となく微笑んだ。
そして思う。
そろそろこのバカ女を階段の下に突き落としてもいいだろうか、否いいに決まっている、今すぐそうしてやろう、そうしよう。
神田はそう結論を出すと、瞳を開いて怒鳴った。
「テメェさっきからうるせぇんだよ、何だその歌は!!」
「やだ、神田ってば知らないの?すごく有名な歌なのにっ」
「そんなことはどうでもいい!とにかく黙れ!!」
「何でよ、この道のりを乗りきるためには必要なバックミュージックじゃない!!」
「いらねぇよ!うぜぇんだよ!激しく耳障りなんだよ!!」
「あーるーこー、あーるーこー!!」
「無視か!まるで無視か!つーか同じ歌詞ばかり繰り返すな!お前、本当はその歌ちゃんと知らねぇだろ!!」
「っあー……。痛いところ突かれたイタタタタ」
「もっと痛くしてやろうか、このバカ女が!!」
わざとらしく顔をしかめるの頬を、彼女の肩にまわした手で思い切りつねってやる。
痛みに悲鳴があがったが、神田はしっかりと無視してやった。
二人は延々と続く螺旋階段を登り続けていた。
もちろん警戒だけは怠らずに、先に進む。
冗談を言い合っているのは、それとは気付かれないように装った励ましだった。
が本当にさり気なくそうしてくるから、神田も自然にのせられてしまっているだけだ。
でなければこんな怪我で、普段と同じような振る舞いができるはずがなかった。
神田は血に掠れた声で言う。
「よし。わかった、バカ女」
「なにが?」
「ここから帰ったら決闘だ。思う存分、斬り刻ませろ」
「わぁ、神田ってば予想通り時代錯誤の塊だね!この現代社会のどこに決闘する馬鹿がいるの!?」
「安心しろよ。ただの決闘じゃねぇ。イノセンス使用可、お前が泣いて許しを請うまで終わらない、情けなしの真剣勝負だ」
「いたよ、そんな馬鹿がここにいたよ!目がマジすぎて笑えないっ」
「テメェ、神聖な一騎打ちを笑おうとはいい度胸じゃねぇか……。そこに跪け!俺が介錯してやる!!」
「神田こそいい度胸だなぁ、何を普通に胸倉掴んでるんだよ!歩きにくいからやめなさい!!」
めっ!と小さな子供を叱るような口調で言われて、神田は盛大に眉を吊り上げた。
けれど確かにそうしていては先に進めないので、しぶしぶ手を離す。
二人はしばらくむすっとむくれて睨み合っていたが、ふいにが相好を崩した。
「ねぇ、何だか神田とこういう風に喋るのって、初めてだよね」
「はぁ?いつもこんな感じだろ」
神田は怪訝に思って眉を寄せた。
こうやって斬るだの勝負だの言い合うのはいつものことだ。
けれどは微笑を深めた。
一段一段、確実に階段を消化していきながら口を開く。
「今までとはちょっと違う、よ。何て言うか……、神田の雰囲気が」
そう言われて、神田は黙り込んだ。
それはきっと、神田がを認めたからだ。
自分と同じ同士であると、その存在から目を背けることを止め、受け入れたから。
けれど何だかそうは口にしにくい。
神田が何も言わないでいると、が少しだけ声に出して笑った。
「教団に帰ったら、手合わせしようよ。決闘じゃなくてね」
「………………どう違うんだよ」
「全然違うよ。純粋に腕を競い合うの。私、一度でいいから神田と本気で戦ってみたかったんだ!」
「ハッ、冗談じゃねぇ」
神田は俯いたまま、の言を鼻で笑い飛ばした。
黒髪を揺らして彼女を見やる。
そしてにやりと微笑んだ。
「一度で終わるかよ。テメェとの決着は、そんなもんじゃ片付かねぇ」
「神田……」
「何度だって勝負してやる。それこそ真剣にな」
神田は言いながら、目を見張ったの後頭部を叩いた。
彼女は口を閉じていたが、すぐに笑みに体を震わせた。
「あはは、楽しみ」
「俺もだ。ようやくテメェを張り倒せると思うと、愉快で仕方がない」
「ねぇ、負けたほうは相手の言うことをひとつ聞くっていうのはどう?」
「何だそれは」
「あ。でも、聞いちゃダメなことは賭けの対象外ね。例えば、私の過去とか」
「そんなこと誰が要求するか。興味ねぇよ」
神田はあっさりとそう言い切った。
それは本心だった。
神田にとって重要なのは彼女が“”であるということだ。
今の彼女が信念のために生き抜くと誓っている同士ならば、その他のことはどうでもよかった。
の過去に何があろうと、その一点だけが確かならば、神田の気にすることではない。
は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。一応言ってみただけ。神田ならそう応えてくれるかなって思ってた」
「…………ふん」
「私も神田の体のこととか、“あの人”については聞かないからさ」
何気なくそう言われて神田はわずかに肩を揺らした。
気配で察したのだろうか。
神田がそれを他人に言うことを嫌っていることを。
もし、そうならば……。
妙な感情が胸の内に湧き上がってきた。
よくわからない。
どう思えばいい?
何もかもが初めてで、神田は考えることが無意味だと悟ると、自然と出てくる言葉を口にした。
「……話してやるよ」
「え?」
「話してやる。いつか。……………………気が向いたらな」
「何それ」
ぶっきらぼうに付け加えた神田に、はむくれた調子で答えた。
けれどそれはわざとだろう。
いい加減、彼女がそういう人間だということは思い知らされていた。
神田はまた少しだけ笑った。
「テメェの妙な歌のせいだ。気分が悪くて、くだらないことを口走った」
「へぇ。だったらもっと歌おうかな。神田にとってはくだらなくても」
言いながらは手を持ち上げる。
そして神田の唇を指差した。
「嬉しい。私は好きだよ」
そう言われて神田は無理に口元を引き締めようとした。
けれどそれは逆効果で、笑みは止まらないから、何となくの頭を小突いておく。
軽く悲鳴があがったが、特に文句は聞こえてこなかった。
遂に螺旋階段は終わりを迎えた。
天井へ続く扉の前で、二人は立ち止まる。
神田は支えてくれていたから身を離し、ひとりで起立した。
その一瞬に引かれた腕の感触を忘れない。
が神田を見ていた。
神田も彼女を見つめ返し、無言で頷いてみせる。
それだけでは迷いも恐れも不安も振り切ってくれたようだった。
本当は怪我を負った神田を戦わせたくはないのだろう。
けれどその胸に抱く決意が同じものだと知った以上、彼女は神田を止めることは出来ない。
また、そうする気もないだろう。
それは諦めではなく、選択した結果だ。
相手の意志を尊重し、認め合い、共に守り戦うと決めたのである。
「害虫退治は趣味じゃない。さっさと終わらせるぞ」
「うん」
は深く頷いた。
「約束はいらない。あなたと私が同じなら、そんなものは必要ない」
互いにそれと等しい決意をしているのならば、きっと。
「私にはこれだけしかないんだ。この心だけが、戦場に立つ“私”を形造る確かなもの。恐怖よりも、絶望よりも、強く戦いに駆り立てるもの。それが私達を繋ぐ絆よ」
「俺とお前の目指すものは違う。けれど互いにその誓いを守るため、生き抜くと誓ったんだ。ならば、それで充分だ」
神田は『六幻』を抜刀した。
刀身が光を弾いて煌めく。
「それだけでいい。俺とお前は、共に戦える」
認めた強さ。
激しい閃光のような想い。
それをが失わない限り、共に戦場を駆けられる。
彼女の一途さや綺麗さに苛立つこともあるだろう。
けれど信念を貫くための決意、その源を神田は誰よりも理解していた。
だったら、それ以上なにを望む?
他は何ひとつ必要ないではないか。
自分達は、同じ場所に立っているのだから。
「行こう、神田」
が強く言い放った。
「この命を生き抜くために!」
そしてぱしん、と小気味よい音が鳴る。
と神田が、それぞれの背を叩いたのだ。
戦場に赴く合図。
同じ決意のもとに交わされた約束。
どちらも顔は見なかった。
けれど知っていた。
互いの唇には、笑みが刻まれていたことに。
それは不敵に素敵に、表情を彩っていたのだった。
天井に備え付けられた扉を跳ね上げ、一気に最上階に躍り出る。
二人を出迎えたのは仄かな闇と冷やされた空気。
そして辺り一面に広がる殺意だった。
そこにあったのは時計を動かすための空間だった。
巨大な歯車が複雑に噛み合い、いくつもの柱がそれを支えている。
迷路のように入り組んだ機関室を見渡して、神田は舌打ちをした。
「やはり面倒なことをしてやがったな……」
視界を巡らせて全貌を確認する。
どこを向いても瞳に映るのは白銀だった。
巨大な機関室に、同じく巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされていたのだ。
糸は縦横無尽に宙を渡り、殺意を煌めかせて獲物を待っている。
それは自分達を屠るためだけに仕掛けられた罠だ。
空間を支配する膨大な糸の群れ。
その一番低い位置、中央の部分に二人は立っていた。
は顔をあげて、遥かなる高みにいる毒蜘蛛を見据える。
「待たせてごめんなさい。機関室をこんなにしちゃうなんて、随分ヒマだったみたいね」
アクマは巨体を震わせた。
どうやら笑ったようだった。
「なぁに、気にすることはない」
眼球を一つ残らず破壊されているからだろうか、それともかなりのダメージを与えられているからだろうか。
喉が潰れたような声でアクマは言う。
「二度ほど殻を脱ぎ捨てたのだがな、まだこの傷は癒えぬ。時間などいくらあっても足りぬよ」
「へぇ。慌しくしてたんだ」
はわざと明るく請合って、腰を落とした。
油断なく身構える。
「でも大丈夫。そんな憂いは今すぐ私達が晴らしてあげる」
「テメェを破壊して、何もかも消してやるよ」
神田もそう言って、『六幻』を握りなおした。
迸る戦意。
アクマを狩る獣と化した二人を見下ろして、毒蜘蛛は嗤った。
「愚か者共め。ここはもはや私の世界。白銀の糸が支配する領域だ」
あくまで戦う気でいるエクソシスト達を嘲笑する。
「どれだけ足掻こうが、汝らの末路はひとつ。抵抗できぬほどに囚われ、私にじわじわといたぶり殺されるだけだ!!」
確かにその通りなのだろう。
予想できていたことだが、先手を打たれてしまったことが悔やまれる。
機関室はすでにアクマの罠に染まっていた。
ここを戦場としなければいけない以上、こちらが不利になるのは火を見るより明らかだ。
けれど、それはアクマに屈服する理由にはならない。
少なくとも、今ここにいる二人はそう考える人間だった。
喉が掠れて耳障りな笑い声を聞きながら、神田が口を開く。
隣のを見ずに訊いた。
「どれくらいだ」
「え?」
「どれくらい時間があれば、この蜘蛛の巣を破壊できる」
は意識をアクマから逸らさずに、言葉を返す。
「……どういうこと?」
「このままでは満足に戦えない。糸に捕まればそれで終わりだ」
「確かに。どうがんばっても数分が限界……かな」
「だったらまず罠を壊すしかないだろう」
神田はキッパリと言い切った。
「俺の『六幻』では無理だが、お前の刃ならあいつの糸を完全に消し去ることが出来る。アクマに支配された空間など、全て壊してしまえばいい」
「……………………」
「罠は目に見えている。ならばすることはひとつだ」
「そうだね。でも」
「奴の注意は俺が引きつける。お前はこの罠を破壊することだけを考えろ」
それを口にするということは、信頼の証だった。
以前の神田ならば、決してこんなことを言わなかっただろう。
他人に何一つ任せずにひとりで戦う。それが神田のやり方だった。
けれど今、の能力を信じて問いかけているのだ。
この戦いを勝ち抜く方法を。
はわずかに瞳を細めた。
「けれどこれだけの糸を切り裂くとなると、かなりの時間がかかる……。部屋ごと破壊する?ううん、それじゃあ完全じゃない。だったら…………」
そこまで呟いてリスタはふいに口を閉ざした。
ほんの一瞬の思考。
そして微笑んだ。
「5分」
「…………それだけでいいのか」
「ううん、3分よ。お願い、神田。それだけの時間を稼いで」
「言われるまでもねぇ」
「任せたよ。その間に私は……」
そんな会話を交わす間にもはイノセンスを発動していた。
胸元のロザリオから煌めく光が放たれ、空ろな空間を飾る。
しかしそれはいつもと違い、いくつもが集まって結晶と化した。
ターゲットへ目にも止まらぬ速度で飛翔するのではなく、の周囲を直線的な動きで駆け巡る。
まるで意思を持つ光の群れを従えたは、確かな宣言を空間に響き渡らせた。
「アクマに代わり、この戦場を支配してみせる!」
声は波動となり、力強く空気を打った。
同時に聞く者の心も揺さぶる。
そこに宿る確かな真実に、神田はまた神経が震えるのを感じた。
まったく、どこまでコイツは俺の気分を叩き上げれば気がすむのだろう。
神田は逸るような気持ちを胸に、勢いよく床を蹴った。
「しくじるなよ、バカ女!」
「そっちこそね!」
強気に言葉を交わして、二人は決着に向けて奔り出した。
そして鬨の声が響き渡る。
3分。
が神田に望んだ時間は、たったそれだけだ。
だがこの殺意がひしめく空間では、それすらも難しい。
張り巡らされた罠が命を絡めとろうと煌めき、その存在を主張している。
あの糸に捕まれば最後、待つのは“死”のみ。
足場すらほとんどない戦場に、それでも神田は挑もうとしていた。
何故なら確かな想いを背負っているからだ。
自分と同じ決意を持った人間の、心からの信頼を。
3分……、たったそれだけの時間が稼げなくて、どうして彼女に罠の撃破を委ねることができるだろうか。
神田は『六幻』を片手に、アクマへと踊りかかった。
「汝も懲りぬ男だな」
嘲笑の滲む声で毒蜘蛛が言う。
「無駄だと言うのがまだわからぬか」
それを聞いて、神田も同じく嘲笑で返した。
「くだらねぇ。そんなことわかってたまるか」
「愚か者め」
「好きなだけほざいてろ」
振りかざした刃。
黒い刀が空気を灼いて奔る。
閃光が炸裂した。
「思い知るのはテメェの方だ!!」
組みあい火花を散らす、鋭い刃と獰猛な爪。
何度も絡んでは離れる凶器。
弾き返された『六幻』を両手に握って、神田は宙で身を前方に回した。
さらに威力を増した上空からの回転斬り。
体全体を乗せた斬撃がアクマを強襲する。
鈍い音が響き渡り、毒蜘蛛の爪が粉々に砕け散った。
そのまま刃は進み、足を切り裂いてボディへと達する。
その直前、神田は横薙ぎに振るわれた別の足を見た。
それは鞭のようにしなって襲い掛かってくる。
まともに食らえば肋骨が砕けてしまうだろう。
けれど今から『六幻』をそちらに向けていては遅すぎた。
(このまま攻撃を受けても、死にはしない)
神田はそう考えた。
せいぜい折れた骨が肺に突き刺さって、出血多量の危険があるくらいだ。
己の特殊な体ならば何とかなる。
けれど。
(バカ女にわめかれるのはごめんだ)
どこまでも鬱陶しい、の涙の滲んだような怒り顔が脳裏をかすめた次の瞬間。
神田は咄嗟に脚を振り上げて、迫り来る太い凶器を両足裏で受けた。
あまりの衝撃に骨が軋むが、それに乗るがまま身を任せる。
アクマの攻撃、その威力をも利用して、ボディに突き立てていた『六幻』をさらに深く振り抜いた。
響き渡るアクマの絶叫。
神田はそのまま吹き飛ばされる。
空中で側転をし、着地の場所を探すが、そこで盛大に舌打ちをした。
苦悶を訴えていたアクマの声も、この事態に狂ったような哄笑に変わる。
「落ちろ、落ちろ、そのまま糸の上に落ちてしまえ!!」
そうなれば殺意の白銀に神田は囚われ、死の淵へと引きずり込まれてしまうだろう。
考えていた以上に足場のない戦場は不利だった。
思うように動けず、また攻撃も防御もままならない。
紡がれた絶望が自分を待ち受けている。
けれどこんなところで捕まるなど、絶対にあってはならないことだった。
だから神田は落ちゆく空間で『六幻』を発動させた。
「六幻、災厄将来!」
そして刃は波動を纏う。
界蟲、『一幻』!!
召喚された青白い剣気。
いくつもの眼球を持つ奇妙な蟲たちが、群れを成して飛び出した。
神田は背後を振り返り、それを下方に向かって放つ。
『一幻』は一部を糸に巻き取られながらも数で押し切り、炸裂。
そうして巨大な歯車を破壊した。
時計を動かすためのその道具は大小様々な形に砕け、蜘蛛の巣の上に散らばる。
あるものは酸の糸に白い煙を上げ、ある物は毒の糸に表面を侵された。
神田は咄嗟の判断に任せて、まだ大分形を残している残骸の上に降り立った。
それは歯車を支えていた柱だ。
“足場がなければ作ればいい”、そんな単純な発想のもとにやってみたが、考え通りうまくいったものだ。
酸に焼かれて溶けてゆくその上を一気に駆け抜ける。
そして瓦礫が完全に溶解する寸前で跳躍した。
目指すところは決まっていた。
黒髪をなびかせながら、驚愕に凍りついたアクマのもとへと飛ぶ。
「この程度で決着がつくと思ったか」
神田は冷たく言い捨てた。
「さすがは姑息な罠しか考え付かない頭だな」
「な、何だと……?」
「低能だって言ってんだよ」
言いながら『六幻』を振りかざす。
腕を叩き斬り、落下していくそれを足場にしてさらに刃を振るった。
口にするのは挑発だ。
生来の口の悪さでアクマを皮肉る。
「害虫如きが俺の前に立ちはだかるな!」
そう吐き捨ててやれば、アクマの潰された眼球がさらにどす黒く染まった。
わかりやすく激昂したその姿に神田は心中で微笑む。
本当に単純で助かる。
こうやって神田ばかりに目を向けてくれれば、もずっとやりやすくなるだろう。
自分の役目は毒蜘蛛の意識を3分間、きっちりと捕らえておくことだ。
「………………今の言葉」
アクマは低く呻くように言った。
「必ず後悔させてやる」
「ハッ、やってみろよ」
「私が支配するこの戦場から逃れられると思うなよ!!」
アクマはそう吠えると、一本の足を伸ばした。
神田は空中で身構えたが、それは脇をすり抜けて、糸の奥に隠れていた機械郡を破壊した。
何かのスイッチらしき物やレバーが砕け散り、轟音が響き渡る。
それはまるで目覚めの雄叫びだ。
「何だ……?」
神田は目を見張った。
脈動する機関室。
回り出した歯車。
そして蠢く白銀の糸。
部屋に溢れる巨大な機械郡が、起動したのだ。
支えとなっている軸が動き出し、連結した部品が回る。
あらゆる歯車が噛み合い、縦に横にと回転する。
同時に部屋を支配していた白銀の糸も移動を始めた。
歯車に張り付いた部分が連動しているのだ。
それはまるで糸が意思を持ったかのような光景だった。
墓をさ迷う亡者のように、神田の命を捕らえようと、空間を這いずり回る。
千切れながらも絡まりあい、蜘蛛の巣が作り変えられていく。
それは遅々としたスピードだったが、厄介なことには変わりない。
ただでさえ足場のない戦場なのだ。
加えてこの動く罠ときたら、常に避け続ける必要があった。
糸に捕まらぬよう気を配り、同時に足場を確保しなければならないのである。
それはどれほどの空間把握能力を要する局面だろう。
考えただけで頭が痛んだ。
神経がどうにかなってしまいそうだ。
もともとごちゃごちゃ考えながら戦うことが苦手な神田には、悪夢のような戦況だった。
けれど弱音を吐く気は欠片もない。
今は呪いのように長く感じられる時間を、自分は最後まで稼ぎとおさなければならないのだから。
神田は不敵な笑みを口元に刻んだ。
そして胸中で言った。
(早くしろよ、バカ女。さもなければ……)
ゆらゆらと揺らめいて襲い来る白銀の群れを、身をひねって避ける。
(俺が先にこの部屋を破壊しつくしてしまうぞ)
本当は時間的にそんなこと不可能だ。
けれど足場を作るために部屋を破壊し続けなければならないことは事実だった。
だからそんなくだらないことを、猛烈に回転させている頭の隅で考えてみる。
神田は新たに砕いた瓦礫の上に降り立つ。
視界の端には金髪がいた。
けれどアクマには彼女を見せてはやらない。
意識をそちらにやらせはしない。
戦場を支配するのがならば、今アクマの殺意を支配するのは自分だ。
神田は唇に浮かべた笑みを、さらに深めた。
そして再び『一幻』が放たれる。
3分。
が神田に要求した時間は、たったそれだけだ。
否、“たった”などと間違っても言えなかった。
このアクマの殺意で染まった空間で、なんという難題なのだろう。
けれどこれが最短で罠を撃破する方法なのだ。
互いに無茶をする気なのはわかっていた。
けれど無理はしない。
例えばわざと自分を傷つけたり、その体を盾にしたり、間違っても命を捨てるようなことは、絶対に。
二人はそれを知っていたから、今を別々に駆けているのだった。
(破壊、破壊、破壊……。結局、私ができることはそれだけか)
イノセンスを発動させながら、は目を伏せて考えた。
蜘蛛の巣の中心で一人、まるで立ち尽くすように。
しかしその唇は笑みの形を取っていた。
(けれど今はこの呪われた能力に感謝します)
祈るようにそう思った。
それを捧げたのは神ではなく、唯一を導いてくれた人物だった。
(エクソシストは破壊者であり、救済者。滅びの能力でも救える命があるのだと、私はもう知っている。…………私は貴方とは違う道を選びます、グローリア先生)
心の中で、もうこの世にはいない師に告げる。
(せいぜい天国から弟子が必死に駆けずり回る姿を見ていろ、バカ師匠!!)
強気にそう言い放つと、は腕を持ち上げた。
ゆっくりと、まるで空間を確かめるように、全てを把握するように。
白い手が円舞のような優雅さで宙を切り裂いてゆく。
同時に周囲を直線的な動きで舞っていた黒光が、スピードを増した。
いまや煌めきが尾を引いて、結晶同士を結ぶ線のように見える。
一度目を閉じて短く息を吸った。
そして靴裏で爆発を起こし、一気に跳躍した。
(この技は反動が大きい……。発動時間もかかる。失敗は許されない!)
集結させ、研ぎ澄ませた刃を使う術だ。
のイノセンスは、もとより特化した破壊力のために神経や体への負担が大きい。
それをさらに激化させるというのだから、リバウンドを起こして当然だった。
ましてや今は怪我を負った身である。
しくじれば次はないのだ。
は飛び出す前に確認していた空間、その記憶通りに黒光を操る。
結晶はすでに形を変えていた。
煌めく球体から突出する、黒い光の剣。
それは一見鳥の羽根のようであり、鋭いナイフのようであり、歪に切断された鉄屑のようにも見えた。
大きさも形も様々で、歪曲した小さな刃をひとつ備えたものから、真っ直ぐで巨大な刃を幾本も生やした結晶もある。
黒光は凶器である片翼を煌めかせながら駆け巡り、残光を残しては互いを繋ぐ。
宙を舞うを取り囲む、剣の群れ。
腕を振るえば、ある法則を持って立ち並ぶ。
空間に広がる黒。輝く閃光。
羽根のような刃が舞い、群れとなり、縦に横にと宙を切り裂いてゆく。
は今、呼吸も忘れて空間を駆けていた。
凄まじい集中力で、灼ける神経も全身を蝕む痛みも意識にのぼらせない。
口の端から血が流れていたが、全く気がつくことはなかった。
(間に合って)
心の中でそう念じる。
は再び空中を蹴りつけ、引き起こした爆発に乗って飛翔。
糸の死角、安全な側壁に着地。
反転し、また空中へと戻る。
その際、そこに黒い刃を打ち込んだ。
楔は壁面に深く飲み込まれ、固定される。
次に目指すのは天井、続いて床。
何度も何度も跳躍して、糸の張られていない部分に杭を突き立ててゆく。
同時にできる限り蜘蛛の巣を切り裂いた。
少しでも神田が動きやすくなることを祈って。
(間に合って……っ)
本当は3分では無理のある作戦だった。
けれどやるしかないのだ。
それがの誓い。
“守る”と言った、神田への誠意なのだから。
(間に合え……!)
そして眩い黒剣が、破壊を奏でながら世界を奔る。
金髪の少女が、宙を飛ぶ黒剣を操っている。
意識の端で輝く光。
羽根のような形を取ったそれはまるでひとつひとつが鼓動しているかのようだ。
が罠の死角に破壊の楔を打ち込んでいることは、神田も気がついていた。
けれど意味がわからない。
蜘蛛の巣を撃破するための行動なのだろうが、あんな小さな杭をいくつか埋め込んだところで、どうなるわけでもないだろう。
(何か考えがあるのはわかるが……)
そう思って、神田は首を振った。
いくら思考を巡らせてみても意味はない。
今はを信じて、自分のやるべきことをするだけだ。
神田はそう結論すると、『六幻』を握りなおした。
そうすれば微かに四肢が痛む。
何とか糸を回避し続けてきたものの、飛沫となって飛んだ液体が神田の体を侵していたのだ。
皮膚は酸に爛れ、傷口から毒が入り込む。
どんなに虚勢を張っても息が乱れるのを止められない。
襲い掛かってくる毒蜘蛛の足を空中側転で回避。
鋭い爪が背後の柱を粉砕し、破片を散らせた。
神田はそれのひとつに降り立ち、間合いをはかる。
もちろん張り巡らされた罠を避けることも忘れない。
再び強襲する足を『六幻』で迎撃すると、糸に溶かされていく瓦礫の上から跳んだ。
高い位置にいるアクマに下段斬りを仕掛ける。
その一線は周囲の罠を切り裂いたが、飛び退がった毒蜘蛛にはかわされた。
そして凶々しい口から吐き出される白銀の悪意。
糸の群れが神田に押し寄せる。
(くそ……っ)
思わず胸中で悪態をついた。
それが顔に出たのだろうか、アクマが糸の向こうから飛翔し、連続攻撃を仕掛けてくる。
神田は咄嗟に『六幻』を一閃し、糸を振り払った。
そのまま無理に突き進んで毒蜘蛛に斬りつける。
アクマの足の付け根を穿孔し、『六幻』を叩き込む。
迸る黒い血液。
しかし半ば切断されたその足が唐突に、普通では有り得ない方向に跳ね上がった。
生物学的には説明のつかないその動き。アクマだけが成せる業。
凶器が神田の胸を貫こうと奔る。
即座に反応した神田はアクマの体を蹴って後ろに逃れた。
そして着地の場所を確保しようと視線を巡らせる。
その刹那、ほんのひと時。
それでも神田の意識が自分から逸れたのを、アクマは見逃さなかった。
醜い異形の腹がうねって盛り上がり、糊口が膨らむ。
狙われたのは着地の瞬間だった。
吐き出された細い糸が猛烈なスピードで神田に迫り、その腕に深く絡みついた。
「!?」
そのまま有り得ないような力で引きずられて、柱に体を叩きつけられる。
腕が拘束され、きつく縛り付けられた。
「ははっ、捕らえた!捕らえたぞ!!」
「ほざけ!!」
けたたましく笑うアクマの声に怒鳴り返して、神田は瞬時に『六幻』で糸を断ち切る。
それで柱に磔にされた状態からは何とか抜け出せた。
しかしいまだに巻きついてくるそれが体の自由を少なからず奪った。
襲い掛かってくる毒蜘蛛を回避することしかできなくなる。
いや、それすらもいつまで持つか……。
(まだだ……!まだ……っ)
神田は舌打ちをして、己に絡みつき、這い上がってくる糸を掴んだ。
「……っ、この!」
「無駄だ!!」
声と同時に空気を切り裂いて襲い掛かってくるアクマの足。
『六幻』で防ぐが堪えきれずに弾き飛ばされる。
「いつまでも汝だけに構っていられぬ!私はあの女の子を捨て置くほど甘くはないわ!!」
だから早々に決着をつけようというわけか。
望むところと言いたいが、今は断じて受け入れられなかった。
罠が張り巡らされた現状ではこちらの勝機は薄い。
それに奴の意識を自分から逸らさせるわけにはいかないのだ。
神田は胸の中で呻った。
(まだ、だ……!)
まだ、終わるわけにはいかない。
この時間を守り切ると言った。
同じ決意を胸に秘めた少女に誓った。
だから。
「まだだ!俺はまだ、終わらない!!」
裂帛の声と同時に、拘束された腕を無理に動かした。
神経が悲鳴をあげている。
血管が千切れる感覚がした。
鮮血が迸り、四肢を滴る。
意識が揺らぎ、唇から苦鳴が漏れそうになった。
けれどそんなことはどうでもいい。
今はただ、との約束を守る。
それだけしか頭になかった。
神田は空中で身をひねると、『六幻』を発動させた。
「六幻、災厄招来!二幻刀!!」
「無駄だと言うのがわからぬか!!」
アクマの絶叫と共に糸の群れ、そして幾本もの足が強襲した。
神田は青白い閃光を紡いだような刀を両手に握り締める。
負けるものか。
そう思った。
こんなところで、立ち止まっている暇はない。
俺には目指すものがある。
叶えるべき信念がある。
他の何者にも、負けてやるものか!
『二幻、八花螳螂』!!
神田が振り抜いた刀身から斬撃が放たれる。
世界を斬り裂いて、敵へと駆けていく。
それは迫り来る白銀の糸を消し飛ばし、獰猛な爪を完膚なきまでに破壊した。
アクマの足は幾筋にも引き裂かれ、千切れ飛び、宙を舞う。
鮮血が水のようにぶちまけられた。
糸の張り巡らされた床に、切断されたいくつもの足が濡れた音をたてながら落ちる。
ほとんど胴体だけになった毒蜘蛛の姿は、醜いの一言に尽きた。
もはや音にすらならないような、凄まじいアクマの絶叫が空間に響いていた。
神田は会心の笑みを浮かべる。
しかし同時に自分も反動を受けていた。
空中から攻撃を放ったため逆の力がかかり、後ろに吹き飛ばされる。
このまま行けば、壁に仕掛けられた罠に囚われてしまう。
神田はそう判断して回避しようとしたが、先刻の無理な攻撃が痛みとなり動きを鈍らせた。
「こ、今度こそだ!汝はもはや我が手の内!逃がしはせぬ!!」
神田に八つの斬撃刻まれて、絶叫の中、それでもアクマは狂気じみた声をあげた。
悲鳴が歓喜に変わる。
その執念。
ぞっとするほどの悪意の塊。
人間には到底理解できない領域だった。
死に物狂いで吐き出した糸が、再び神田に襲い掛かる。
酸のそれは迎撃したが、細い糸が腕に足にと絡み付いた。
死に追いやろうと罠の方へと引きずり寄せる。
「く……っ」
「あがくな!もはや抵抗は無意味!私は今度こそ汝を……」
「「捕らえた!!」」
重なった声。
異口同音に放たれた言葉。
アクマの狂気に少女の響きが打ち勝った。
そして、漆黒の光が悪意の白を完全に破壊した。
神田は一瞬、空中にいるのにも関わらず、地震が起こったのかと思った。
時計塔が―――――――――世界が揺れている。
空気がビリビリと振動し、涼やかな音がそこを貫いた。
この音は鈴?
否、鎖が擦れあう音だ。
黒く輝く光の帯が視認できる速度を遥かに上回って駆けていく。
一瞬にして、空間を支配していた白銀を消し飛ばす。
アクマが張り巡らせた罠は熱に溶かされたように、黒光の前に消失していった。
そうして花のような燐光を飛び散らせながら、それは具現化した。
光で構成された留め具と輪。
美しくも恐ろしい漆黒の連なり。
「黒死葬送、鎖の儀」
『鎖葬、拘縛鎖』!!
が技の発動を宣言すると同時に、数え切れぬほど鎖が毒蜘蛛を貫いた。
容赦なく、無慈悲なまでにアクマを拘束する。
わずかに残っていた足はもちろん、あれだけ手こずった硬いボディもそれは難なく貫通していた。
神田はその事実に目を見張った。
同時に背中に温もりを感じる。
飛翔したが、神田を後ろから掴んだのだ。
彼女は神田を抱いたまま空中を蹴って跳躍、空間に張り巡らされた黒い鎖の束の上に二人は降り立った。
どうやら自分の役目は終わったらしい。
約束を果たすことができたとわかった途端、限界がきた。
神田は荒い呼吸のまま片膝をつく。
するとそれを支えるようにの腕に力がこもった。
「お疲れ、神田!」
耳元そう言われて神田は気が抜ける思いがした。
一応は真剣な口調なのだが、何となく。
けれどまだ戦闘中だから、表情を引き締めたまま視線だけで振り返る。
「それより先に説明しろ。あれはどういうことだ」
囚われの身となったアクマを顎で指す。
無数の鎖に貫かれ、縛られ、繋がれたその姿。
それは一幅の絵に見えた。
同時に処刑台を見ている気分にもなった。
黒鎖は見惚れるほど美しくもあったが、戦慄を感じざるを得ない恐ろしさを内包していたのだ。
尋ねれば、はわずかに微笑んだようだった。
「『鎖葬』って技よ。私のイノセンスの特殊系」
「…………お前のイノセンスはもとから特殊系だろう」
「その中でも、ってこと。これは本来、あらかじめ戦場に仕掛けておく技なの」
神田はわずかに目を見張った。
「つまり、罠か?」
「その通り。卑怯くさいからあんまり好きじゃないんだけどね」
は苦笑の滲む声で続けた。
指で天井や床を指し示す。
「前もって楔を打ち込んでおいて、敵がその領域に入ったら技を発動させる。そうすれば楔から鎖が放たれ、敵を捕らえるの」
それから空間にわずかに残った白銀の糸を眺めた。
「どんな障害をも打ち破り、対象を捕縛する技――――――――――それが、この『鎖葬』。捕まれば決して逃げられない。…………聞こえた?逃げられはしないのよ!」
言葉の最後はアクマに向けて言ったものだった。
毒蜘蛛は鎖に囚われながらも必死にあがき続けていたのだ。
「解せぬ、解せぬぞ……!」
毒蜘蛛は潰された眼球で、それでもを睨みつけた。
「何故だ!私の体は貫かれているというのに、何故痛みがない!?」
「何だと……?」
これには神田も眉を寄せた。
アクマの疑問はもっともで、その体は確かに幾つもの鎖が貫通しているのだ。
痛みどころか、よく考えれば絶命していなければおかしい。
神田がを見れば、彼女は平然と応えた。
「だからこれは捕縛の技なんだって。攻撃性はないの。……けれどどんなものでも捕らえられる。さっきも言った通り、光の鎖は何もかもに阻まれることなく敵を完璧に拘束するのよ。そう、お前のようなバカっ硬いボディでもね」
なるほど、と神田は納得した。
『鎖葬』は発動準備・発動時間がかかる技だ。
けれどそれは膨大な量の黒光を集結させて鎖を創り出すからであり、一度発動してしまえば相手がどうあがこうと無意味である。
何故なら鎖は光で出来ている。
光には誰にも触れられない。
どんな物理的干渉も受け付けはしない。
ましてやこれはイノセンスで創り出されたものだ。
持ち主以外の意思に影響されるはずがなかった。
は口元に笑みを浮かべた。
「少し時間がかかるけれど……。早々に決着を着けようと思えば、これが一番効果的だったのよ。罠の撃破と同時に敵の動きを止められる、この『鎖葬』がね」
「確かにな。アクマを破壊するには手っ取り早い状況だ」
神田は瞳を細め、身動きを封じられたアクマを眺めた。
自分ももすでに怪我を負った身である。
長期戦は禁物、出来るならばすぐさま戦闘を終わらせて病院に走ったほうがいい状況なのだ。
ならば多少無理があろうとも、この方法に賭けたほうが良かった。
まったく、このバカ女はバカのくせに、こういうところはきちんと頭が回るようだ。
戦場に立つものにはこのような判断力がなければならない。
それはの信念に、その根本にある“守る”という想い。生き残るために、何よりも必要なものだ。
は続けてアクマに言う。
「それに、考えなくてもわかることでしょ?糸と鎖がぶつかり合えば、どちらが勝つかだなんて」
そう、アクマの糸が酸を含んでいようが毒を孕んでいようが関係なかった。
速さも強度も、の光鎖がそれを遥かに凌駕しているのだ。
「ここはもはや私の世界。黒鎖が支配する領域よ。お前が丹精込めて作り上げた罠は、全て破壊させてもらった」
の宣言通り、空間は彼女の黒鎖に支配されていた。
神田は視線を一周させた。
いまや張り巡らされているのは黒い鎖であり、白銀は残骸ほどしかない。
の創り出した鎖が強襲し、アクマの罠をこの世から葬り去ったのだ。
わずかに残り垂れ下がったそれが鎖に触れて冒そうとしているが、光で出来たそれに酸も毒も効果はなかった。
アクマは現状に屈辱を感じたのか、喉の奥で呻いた。
は表情を変えて続ける。
「お前は探索隊の人たちに残酷な仕打ちをした。その報いは受けてもらう」
金色の瞳の奥に、怒りの炎が煌めいた。
「同じ囚われの身のまま、破壊されることね」
彼女がそう告げた、直後だった。
虚ろなアクマの眼球がこちらを向き、そして、
「「!?」」
その糊口から飛び出してきた白銀の糸に、エクソシストは咄嗟に反応した。
アクマの最期のあがきだ。
どうやらの『鎖葬』は敵自体を捕らえることには成功したが、その戦意までを拘束することは出来なかったらしい。
神田は避けようと脚に力を入れたが、その動きが鈍る。
全身の傷、そして千切れた神経に激痛が走ったのだ。
体をかすめるかと思った糸は、しかし、一瞬にして遠のいていた。
が神田の体を力いっぱい突き飛ばし、その軌道上から外したのだ。
「テメ……ッ」
「ごめんっ、着地はがんばって!」
そう言ったときには、彼女も跳躍していた。
助けてくれたのは感謝しないこともないが、方法がいただけない。
何故なら着地の場所を、やはり自分で探さなければいけなかったからだ。
幸いそれはすぐに見つかった。(もわかっていてやったのだろう。そうでなければ許せない!)
神田はそのまま転がり落ちた状態から何とか持ち直し、いくらか下方にある別の鎖の束の上に降り立つ。
アクマの哄笑が聞こえる。
今までもそうとう狂気じみていたが、今度こそ本当に狂ったようだった。
めちゃくちゃに糸を吐き出し、鎖から逃れよう暴れまわる。
は神田の怪我を考慮したのだろう、アクマの意識が自分に向くように前面に飛び出した。
「すごいネバーギブアップ精神ね!そういうの嫌いじゃないけど」
言葉と同時に光刃を放つ。
強襲する糸を撃ち払い、敵本体に確実にダメージを刻む。
「今は全力でやめさせるだけよ!」
スカートの裾を翻し、宙に張り巡らされた鎖の上に着地。
その時が胸を押さえたのを、神田は見た。
添えられた掌が赤い。
黒い団服の胸元が深紅に染まっていた。
「バカ女、お前……!」
止血したはずの胸の傷が、再び開いてしまったのだろう。
けれど攻撃を喰らったわけでもないのに何故。
そう考えて、神田はハッと息を呑んだ。
(リバウンドか……!)
『鎖葬』はあらかじめ仕掛けておく技。
特性上そうなのはわかる。
けれどそれ以上に、大量の黒光を集結させなければならないという理由がある。
ならば体に負荷がかかって当然だった。
この戦場を支配するだけの黒鎖をわずか3分で創り出したのだから、反動はどれほどのものか。
は神田と二人で生き残るために、ギリギリの無茶をしでかしていたのだ。
せりあがってくる何かに耐え切れなくなったように、が口から血を吐いた。
けれども唇には笑みがある。
まるで全身をさいなむ激痛に負けないように、彼女は不敵に微笑んでいた。
そして再び跳躍。
迫り来る糸の波を刃の群れで迎え撃つ。
黒光は鳥か蝶のように舞い、白銀を蹴散らした。
けれど神田はそれを見て声を張り上げた。
「避けろ!後ろから捕縛の糸が来る!!」
本当は飛び出していきたかったのだが、怪我を負った体が言うことを聞かない。
それはも同じだったのだろう。
体をひねるが回避しきれずに足首を捕らえられた。
そこに巻きついた糸に振り回されて、猛烈な勢いで投げ捨てられる。
行き着く先には壁。
そしていまだわずかに残った、蜘蛛の巣の残骸があった。
アクマの狙いを悟って神田は舌打ちをした。
あれに囚われたらお終いだ。
あの金髪も、白い肌も、白銀に冒されて朽ちてゆくしかない。
避けきれない!
そう判断した瞬間、神田は『六幻』を投擲していた。
戦場でこのようなことをするなど、考えられなかった。
けれど気がつけば刀は手を離れていた。
神田はほとんど無意識の内に、を救うために敵の前で武器を手放したのだ。
『六幻』は空間を裂いて飛翔。
放物線上に落ちてくるより一瞬だけ早く壁に突き刺さる。
空中でが目を見張った。
そして微笑んだ。
小さな少女の身が見事な宙返りをきめる。
そうして『六幻』の刀身の上に着地。
瞬きの間に両手で刀の柄を掴み、側転。
黒刃を放って壁面に張り付いた糸を消し去ると、そこに両足を突き立てる。
そのまま突き刺さっていた刀を一気に引き抜くと、今度はこちらに向かって『六幻』を投擲した。
その時にはもう神田は駆け出していた。
獣のような速さで鎖の束の上を疾走する。
傷口から血が迸り、四肢が悲鳴をあげる。
けれどそれには構わない。
は馬鹿だ。
神田はそう思った。
命を捨てないと言ったくせに、本当のギリギリまでそれを懸けている。
それこそ本当に、“守る”ために全てを懸けている。
犠牲にしているのとは違うから文句は言えないけれど、何だか腹が立つのも事実だった。
そしてこんなことをしている自分にも腹が立つ。
ああ、どうして俺はあんな命懸けの馬鹿に付き合ってやっているのだろう。
走る速度もそのままに、そちらを見もせず飛んできた『六幻』を受けとめる。
掌に馴染む感触。
ぎゅっと握り締めた。
煌めく刃。黒い刀身。
襲い来る糸を身を低くして回避し、さらに駆ける。
右手で武器を強く持ち、左手を柄に添える。
足場を強く蹴って跳躍。
そして神田は『六幻』でアクマの体を完全に貫いた。
渾身の力で刃を叩き込む。
全身でその黒い血を浴びる。
叩きつけられる絶叫。
けれど、まだだ。
神田は血に染まる視界を巡らせて、を見た。
彼女はやはりわかっていてくれたようだ。
体勢を立て直し、胸元に手をかざした。
イノセンスが発動し、いくつもの閃光がを取り巻く。
しかしそこで彼女はぎくりと動きを止めた。
不審に思って神田が眉を寄せた瞬間、腕に何かが絡みつく嫌な感覚に襲われる。
不快の原因は刀身を伝って、アクマの体内から出現していた。
穿孔された腹から白銀の糸が顔を出し、『六幻』ごと神田を捕らえていたのだ。
咄嗟に離れようとすれば無理に引きずり寄せられる。
腹部を貫かれた凶器もそのままに、アクマは神田を拘束したのだ。
「に、逃がしはせぬ……っ、今度こそ、今度こそ……!」
このまま自分まで道ずれにする気か。
そう悟って、神田はようやく先刻のの表情の意味を理解する。
ああ、だから彼女は戦闘中にも関わらず動きを止めてしまったのか。
「躊躇うな!!」
結論は早かった。
神田は視界を汚すアクマの血を必死で振り払い、を見つめた。
囚われた両手、『六幻』をそのままさらに深く敵の体に埋める。
完全に拘束し、拘束されながらも力を込めて言い放つ。
「攻撃しろ!俺に構うな!!」
アクマを完全に破壊するには個々の一撃では無理だ。
そんなことは今までの戦闘で理解している。
ならばとどめを刺すのは、しかいない。
例え神田自身が盾に取られていようとも、遂行しなければいけない絶対事項。
それが、エクソシストの任務というものだった。
そして、自分達の絆だった。
「早くしろ、バカ女!」
「でも……っ」
は金髪を振るって叫んだ。
「私は“守る”って言った!あなたを傷つけるわけにはいかない!!」
「だからテメェは馬鹿だって言うんだよ!!」
神田は間髪いれずに返した。
「俺は死ねない!だから、死なない!」
「………………っ」
「互いの誓いは知っているだろう!」
そんなことはもう知っていた。
そしてそれを、俺は信じている。
揺ぎ無い事実であると思い知っている。
「そしてお前は俺を死なせない!違うのか!?」
「……違わない!!」
「ならば躊躇う必要はないはずだ!!」
こんなことで躊躇するは馬鹿だ。
神田はまたそう思った。
けれどそれが彼女なのだろう。
誓いを真っ直ぐに貫き通す、純真な心。
強く綺麗で、弱くもある。
馬鹿すぎて腹が立つ。
馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。
それでも、そんな彼女に嫌でもなく付き合っている自分も、やはり命懸けの馬鹿なのだろう。
俺達は同士だ。
どこまでいっても、何があっても、そうなのだ。
初めて出逢った本当の“仲間”。
神田は蜘蛛の糸に囚われ、命を握られたまま、それでも全力で怒鳴った。
唯一認めた、金髪の少女に向かって。
「臆するな!俺もお前も、自分の信念を諦めたりはしない!ならば結果はひとつだ!!」
そして声が響き渡る。
「やれ!バカ女ッ!!」
瞬間、漆黒の花が咲いた。
それは神田の目の前だ。
アクマの体が内側から弾け飛び、黒い光が花開くように広がっていった。
ああ、やっぱりと神田は胸中で呟く。
あの時だ。
を救うために投擲した『六幻』。
それを返すとき、彼女は神田に加護を与えた。
何故かはわからない。
いや、本当はわかっている。
その理由なんてもう知っている。
それはただ、自分達が“仲間”だから。
あの時は、『六幻』の刀身に漆黒の光刃を纏わせた。
まるで剣を鞘におさめるが如く、銀色の刀を黒光の刃で覆ったのだ。
毒蜘蛛の硬質なボディを貫けるよう、武器の鋭さを増すために。
それが今、アクマの腹に突き刺さった『六幻』を離れた。
内部で舞い上がり、敵を破壊したのだ。
「黒死葬送、華の儀」
『華葬、狂散華』!!
発動への宣言に、目眩がするようだった。
の声は支配力がある。
世界は彼女の能力に染まり、残酷な美しさに魅せられる。
戦慄が全身を駆け巡った。
至近距離で破壊が巻き起こる。
内からアクマの体を打ち破り、咲き誇った漆黒の光。
幾重にも重なった花びら。
それが一気に舞い散った。
神田は幻想と死の世界を見た。
眼前で眩しいほどの黒い花弁が散り狂う。
内側より爆破し、さらにアクマの全身を切り刻んだのだ。
圧倒的な力だった。
毒蜘蛛の硬い体も、最後の抵抗もねじ伏せる絶対的な破壊。
完全にアクマを消滅させた刃は、花吹雪となって静かに下方へと落ちていった。
何て鮮烈な終焉だろう。
そう考えずにはいられない。
けれど神田自身も衝撃を受けていた。
あまりに近くでの技は発動されたのだ。
散った刃が神田の四肢をかすめ、頬から血を迸らせた。
そしてその長身をまるで紙のように軽々と吹き飛ばす。
神田は時計塔の壁を背でぶち破り、外界へと投げ出された。
目が眩む。
薄暗い場所から急に外に出されたものだから、光に網膜を灼かれる。
視界が一瞬真っ白になって、次に見えたのは曇天だった。
雨はいまだに止んでいない。
大気が逆巻き、神田を包んだ。
今度は足場がない、なんてものじゃなかった。
本当に何もなかった。
ただ重力従って落ちてゆくしかない、絶望的な空間。
時計台の最上から放り出された神田は風を切って落下を始める。
このままでは死ぬ。
それは考えなくてもわかった。
けれど焦りはない。
恐怖もない。
そんなものを抱く必要はない。
何故なら、神田はこれから先の展開を知っているからだ。
「神田!!」
ほら来た。
史上最強のバカ女の登場だ。
神田はにやりと微笑んだ。
そしてぐんぐん離れていく天に向かって手を伸ばす。
その先にはなびく金髪。
それは穴の開いた時計塔の壁から、欠片も躊躇することなく飛び出してきただった。
彼女は同じように落下していく瓦礫に逆さまに着地、そこを蹴りつけて下方飛翔。
何度もそれを繰り返しながら神田を目指す。
伸ばされた互いの手がまるで引き合うようだった。
「今回は“どうして出てきた”って訊かないの!?」
「訊いてどうする!当たり前のことに文句をつける意味はねぇだろ!!」
「それもそうだね!!」
「馬鹿なこと言ってないで早く来い!お前と心中は絶対にごめんだ!!」
そう、二人でなければこの窮地は乗り越えられない。
だから叫ぶように言い合った。
耳元で空気が逆巻き、唸り声を上げている。
髪も服も千切れるほどにはためいている。
下を向いているは風が目に痛いのだろう、上空に涙を飛ばしながら迫ってくる。
神田はその金色の瞳を見つめながら精一杯腕を伸ばした。
そして触れる指先と指先。
神田は強引にの手を捉えた。
そのまま無理に引き寄せて胸の中に抱きこむ。
全身を包む空気は冷え切っていて、彼女の存在だけがひどく暖かかった。
灯った希望はひとつ。
それを叶える力はふたつ。
空中でをきつく抱きしめて、神田は言った。
「俺達はまだ死を受け入れられない」
「受け入れてたまるものか」
が同じだけの力で抱きしめ返してくる。
「…………だから、絶対に一緒に帰ろう。手合わせ、するんでしょ?」
「ああ……」
頷けば少女の唇が笑みを刻む。
神田はそれに微笑み返した。
一瞬後、鋭い瞳で眼前を睨みつける。
猛烈なスピードで通り過ぎていく時計塔の壁。
赤煉瓦でできたそれを見据え、左手だけで強くを抱きこんだ。
そして右手で『六幻』を振りかぶる。
ガツンッ!と鈍い音がした。
壁面に突き立てようとした刀が弾かれたのだ。
反動で肩の傷口に激痛が走る。
それでも諦めるわけにはいかなかった。
神田はもう一度『六幻』を握り締めて言い放った。
「……生き残るぞ。力を貸せ!バカ女!!」
「言われなくても!!」
このために飛び出してきたのだとの口調は語っていた。
彼女はしっかりと神田に体を支えられながら、片手をイノセンスにかざす。
その胸元に刻まれた傷口から鮮血が玉のように溢れて宙を舞っていた。
それをかき消すような強さで出現した黒光。
赤と黒が天に向かって降ってゆく。
しかし黒は赤とは違い、統一性を持った動きを見せた。
流星のように空を駆けたと思うと『六幻』の刀身に纏いつく。
銀色が隠され、黒く染まる。
二人の刃が再び一つに重なる。
神田はの光刃を纏わせた『六幻』を、渾身の力で時計塔の壁へと突き立てた。
刀は赤煉瓦を貫通。
けれど落下は止まらない。
失速はしたものの、『六幻』は外壁を斬り裂きながら、どんどん下へと落ちてゆく。
その衝撃に神田の肩は外れそうだった。
目の前で煉瓦が砕け、粉塵となって降り注ぐ。
「ぐ……っ」
神田は苦鳴をかみ殺すと、声に出して言った。
「止まれ!」
それは命令。
世界に対する自分の意思。
迫ってくる地上に、激突などしてたまるかと思う。
ふと、掌に温もりが触れた。
それはの体温だった。
彼女はこの状況で必死に腕を伸ばし、『六幻』を掴む神田の手に、自分のそれを重ねたのだ。
ぎゅっと握って、がさらなる命令を世界に与える。
「止まれ!」
絶えず襲ってくる衝撃に二人で耐える。
きつく柄を持って死への落下に抗う。
重なった手と能力。
「「止まれ!!」」
二人同時に言い放った瞬間。
ガクンッ!と凄まじい振動がきた。
『六幻』の角度が急に変わり、神田はが振り落とされないように咄嗟に強く腰を抱きこむ。
また振動がきて、ずるりと『六幻』が下を向く。
失速した……?
いや、
「と、止まった……?」
腕の中でが呟いた。
神田が見上げてみると、『六幻』の刃が頑丈な鉄の窓枠に引っかかっていた。
刀身を確認すればの光刃は消え去っている。
さらに『六幻』の発動も解けていた。
ここまで失速させるのに能力が全て吹き飛んでしまったらしい。
そしてただの刀に戻った『六幻』が、窓にはめられた鉄格子に突き立ち、落下を止めていたのだ。
刀一本にぶらさがりながら、神田とは何だか呆然と言う。
「たすか、った……?」
「みたい……だな」
それを頭がきちんと認識した途端、力が抜けた。
血を失いすぎているから目がまわる。
酷使した全身が悲鳴をあげ、何だかとても寒い。
だからこそ触れる互いの温もりが、生きていることを実感させた。
「私たち、勝ったんだ……」
「ああ……。アクマは破壊した」
「二人とも生きてる」
「完全に俺たちの勝ちだな」
「……っ、かんだー!」
が声をあげながら首に抱きついていた。
鬱陶しいとも思ったが、何故だろう、悪い気分ではなかった。
だから腰を抱く手に力を込めて、それに応えてやる。
「おい、なに泣きそうな顔してんだよ」
「だって……っ、神田が自分に構わず攻撃しろとか言うからー!」
「はぁ?それの何が悪いんだ」
「結果ノーロープバンジーしちゃったじゃない!」
「……怖かったわけでもないだろうが」
「怖かったよ!!」
強く断言されて神田は瞬いた。
馬鹿と何とやらは高いところが好き、という言葉にぴったり当てはまるこの暴走娘が、まさかと思ったのだ。
そしてやはりその予想は外れていなかった。
「神田が落ちてくのを見たとき、心臓が潰れるかと思ったよ……っ」
「…………………………」
神田はわずかに目を見張って、それから吐息をつく。
抱きついてくる背をそっと撫でた。
そんなことを他人にしたことはなかったからきっとぎこちないだろうけれど、それでも出来るだけ優しく、あやすように。
「俺は少しも怖くなかったがな」
「………………」
「お前が来るとわかっていたから、恐れる必要はなかった」
微かにの肩は震えていて、神田は瞳を細める。
彼女はいつだって恐怖と戦っているのだ。
その崇高な心ゆえに、無力さに傷つきながら、絶望に怯えながら。
それでも誰かを“守る”ために。
「大丈夫だ。俺は生きている。死んでやるつもりは欠片もない」
「わかってるよ……」
安堵の息を吐き出しながら、は少しだけ微笑んだ。
震えを残したまま、それでも必死に笑って見せた。
終わった後だから言えること。
そして同士として口に出来ること。
「それでも緊張と恐怖で胸が張り裂けそうだった……。うまくできて、よかった…………」
「…………ああ。お前が俺を死なせなかった」
「そして、あなたが私を死なせなかった」
「それだけで充分だろう」
こういう時、うまく物を言うにはどうすればいいんだろう。
多くの他人を拒絶して生きてきた神田にはわからない。
気持ちは声にならずに、舌の上で凍る。
歯がゆくて仕方がなかった。
けれど、それでもは微笑んでくれた。
「充分すぎる……。ありがとう、神田!」
笑顔と共に再び抱きつかれた。
温もりは優しくて、胸の中が熱くなる。
こんな気持ちは初めてだ。
といると世界が新しくなるようだった。
冷たい心が知らない何かに触れて溶けてゆく。
神田はを抱きしめ返した。
これほどまでに自然に微笑んだことなど今までにあっただろうか?
そんなことを考えている神田に、がふいに呟いた。
「…………ところで」
「何だ」
「ここからどうしよう?」
そう言われて、神田は硬直した。
固まった首を無理に動かして、視線を巡らせる。
眼下に広がる街は遠い。
足元には遥か彼方に地面が見える。
ここは空中。
いつまでも『六幻』にぶら下がってはいられない。
「…………………………テメェ、考えてなかったのかよ!!」
神田は完璧なる八つ当たりで、に怒鳴りつけた。
当然のことながら怒鳴り返される。
「神田だって考えてなかったくせに!ああ、どうしよう!?ま、窓!窓から這い上がれば……」
頭を抱えながらもがぐんと伸び上がる。
『六幻』の刀身が引っかかっている鉄枠を備えた窓に腕を伸ばすが、どうにも届かない。
ぴょこぴょこと手をかざすに神田は思わず言う。
「この、どチビが!!」
「……っ、私が最も傷つく罵り言葉を口にしたなー!」
「うるせぇ、いいから早くしろ!」
「わかってるよ。いつまでも支えてもらうわけにはいかない……っ」
なにせ神田は腕一本で二人分の体重に耐えているのだ。
いくらが小柄だろうと、怪我を負った身でこれは辛い。
は唇を噛み締めると脚を時計塔の壁に突き立てた。
そこから跳躍して上にあがろうとしたが、神田に腰に腕をまわされて止められる。
「やめろ。酸にやられている足をそれ以上使うな」
「でも……」
「いいから俺の肩に乗ってあがれ」
「それこそやめてよ。神田の肩はかなりの傷なんだから」
「お前な」
「だめ」
「……っ、わがまま言ってんじゃねぇよ!」
「どっちがだ!」
叫び合って、互いを睨みつける。
どちらも一歩も引かない構えだ。
額をくっつけるようにして鋭い視線が交わす。
ガンコ者同士だとこういうとき困るのだ。
どちらも譲らず、そしていつも通り膠着状態へともつれ込んでゆく。
その直前、頭上で窓ガラスが破砕された。
降り注ぐ破片からかばうため、神田はの頭を抱え込んだ。
咄嗟に戦闘体勢に入る。
まだアクマがいたのかと警戒し、視線を振り上げる。
しかしすぐに目を見張った。
同じように瞠目していたが、肩の力を抜くようにして笑った。
彼女は囁くように告げる。
「ああ、そうだった。神田、私たちはたった“二人きり”の仲間なんかじゃないんだよ」
そうしては、差し伸べられた救いの手を取ったのだった。
長かった戦いもやっと決着です。
ヒロインが神田と共闘しましたね。
アレンとは『永遠の箱庭』、ラビとは『心情の定義』で協力技を出しましたが、一番最初に考えていたのは神田との連携です。
『六幻』の刀身にヒロインの光刃を纏わせて、アクマにぶっ刺して、内側から破壊ってヤツです。
書くの楽しかったですけど、やっぱりバトルシーンは大変ですね。(汗)がんばります。
さて、今回ラストでヒロイン達を助けてくれたのは誰なのでしょうか。次回をお楽しみに!^^
次でようやく神田編終了、そしてヒロインとの思い出話まとめになります。
よろしければ最後までお付合いくださいませ〜。
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