の嫌いなところ。
中身と釣り合わない容姿。
理解の範疇を超えた言動。
数え出したらキリがない。
けれど一番は声音だった。

馬鹿みたいに響くその声が、俺は何より気に食わなかった。







● 泡沫の祈り  EPISODE 4 ●







「………………………」


神田は何だか思い切りアレンから目を逸らしていた。
苦虫を噛み潰したような顔をしているあたり、これから言われることの予想がついているらしい。
だからアレンは遠慮なくその胸倉を掴んだ。


「神田」
「………………何だよ」


ぐいっと引き寄せても絶対に視線を合わせようとしない。
そんな神田を覗き込んで、アレンは引き攣った笑顔を浮かべた。


「神田は僕のことが嫌いだって言いましたよね?」
「言ったな」
「そしてに近づくなとも言いましたよね?」
「ああ、言った」
「その理由って何でしたっけ?」
「…………………………お前が他人を庇って死ぬ人種だからだ」
「君だってのこと庇ってるじゃないですか!!!」


アレンはそこで我慢できずに大声で叫んだ。
ちょっと本気でムカついたので神田の首をぐいぐい締め上げる。
いつの間にかソファーから立ち上がっていたが、そんなことはどうでもいい。
アレンは目元を凄ませて低く言う。


「言っておきますけど、僕はその時を助けなければよかったなんて思ってませんよ。むしろそこで君がこの人を見殺しにしていたら本気で許せませんでしたね。けれど!!」
「……………………」
「僕はグローリアさんが亡くなった理由を聞いて、ものすごく後悔したんですよ!ああ、あのとき彼女と同じように自分の身を犠牲にしようとした僕は、どれだけを傷つけてしまったんだろう、って!!」
「………………………………」
「なのに何ですかそれ!さんざん僕のことをけなしておいて、神田だってのトラウマをえぐるようなことしてるじゃないですか!自分のことを棚にあげてよくもそんなことが……っ」
「ああもう、うるせェ!!!」


胸倉を掴んでがんがん揺らしてやると、唐突に神田がキレた。
アレンの手を乱暴に振り払い、いつものように睨んでくる。
ただ少しだけ瞳が揺れていた。


「俺はお前と違って、コイツのために死んでやるつもりはこれっぽっちもなかったんだよ!!」
「それでもを庇って傷を負ったことには変わりないでしょう!?」
「だからどうした!」
「それだけでもう充分じゃないですか!」
「テメェなんかと一緒にすんな!!」
「何ですかそれ!!」


「あのさー」


そこで気の抜けた声が横から割り込んできた。
すでにイノセンスを発動させて火花を散らしていたアレンと神田は、鋭くそちらを振り返る。
翡翠の隻眼がこちらを見ていた。
ソファーの手すりに頬杖をついてラビは微笑んだ。


「そういうのを、五十歩百歩って言うんだぜ?」
「「………………」」


アレンと神田は思わず目を見合わせた。
そして互いに心底嫌そうな顔をする。
ひどい表情だ。
後ろからまたラビが言った。


「もしくはどんぐりの背競べ」
「「………………」」
「もしくは……」
「「もういい、黙れ!!」」
「ハイハイ」


アレンと神田が声を揃えて怒鳴ると、ラビはくすりと笑って肩をすくめた。
向かいのソファーでリナリーが呆れの吐息をつく。
その態度を見て、神田は普段とは少し違う仏頂面で言った。


「とにかく、俺はモヤシなんかとは一緒じゃねぇ」
「どこがですか」


納得のいく答えを求めてアレンが不機嫌に訊くと、神田は瞳に少しだけ真剣な色を滲ませた。


「俺は俺のために、体を張っただけだ」
「………………」
「妙な情けで自分を切り売りしたわけじゃねぇ。ただ、俺の筋を通すために必要だと思った。だからそうしたまでだ。それはだってよくすることだろう。いや、むしろコイツのほうがひどい。いつだって有り得ねぇ無茶をしやがる」
「確かにそうね……」


リナリーが少しだけ切な気に呟いて、隣で眠るの髪を撫でた。
わずかに陽が翳ってきたようだ。
彼女達の顔に影が落ちている。


はいつだって無茶をして、いつだって傷だらけだもの……」
「それでも死ぬつもりは毛頭ないんだ。その証拠に今でもこうして生きているだろう。こいつも、俺も」
「まぁ確かにとユウは、やり方っつーか、行動を起こすときの判断基準は似てると思うぜ」


そう言ったのがラビだったから、何となく説得力があった。
そして続く言葉がそれを確定的なものにした。


「自分の信念のためなら、躊躇いなく動く。例えば戦いに勝つためとか、生き残るためとか。そのために己の全てを懸ける……、けれど絶対に生命いのちと生きる希望を捨てはしない。そんな感じさ」


そんな強さを求めて、と神田は走っている。
死ぬつもりなんて欠片も持ち合わせず、生き抜くために戦場を駆け続ける。
それぞれが胸に抱く未来を目指して。
まるで気高い獣のようだと、アレンは思った。
彼らの生き方は強くしなやかだ。
その実、求める結末に辿り着くための力を得ようと必死に足掻いている。
心から望む己になるために、努力を絶やすことなど決して許しはしないのだ。


「でも、その時はちょーっとマズかったんじゃねぇの?」


ラビがため息混じりにそう言った。
口元は微笑んでいるが、目が呆れの色を見せている。
彼は指先を軽く神田の鼻先に突きつけた。


「そのころは、ユウの特殊な体質について知らなかったわけだし?常人なら死に至る毒を、自分を庇って喰らったのならば、そりゃあ衝撃だろうさ」


確かにそれでは自分のせいで死なせてしまったと思っても、なんら不思議ではない。
アレンはそう納得して頷いた。
神田はわずか眉を寄せたが、ラビはさらに言う。


の奴、キツかったろうなー。いろいろ嫌なこと思い出しちまったんじゃないかなー」
「………………っ」
「しかも“見殺しにする”とか言ってた奴がそんなことするなんて、ショックも倍増ってもんさ」
「……うるせぇよ!こいつがバカなのが悪ぃんだ!!」
「今度は責任転嫁ですか」


アレンが冷ややかに言ってやると、神田が恐ろしい目つきで睨みつけてきた。
けれどちっとも怖くは感じなくて、ふんっと鼻を鳴らしてやる。
向かいでリナリーが頬に手を当てた。


「でも思わずを庇ってしまったのは、何となくわかるわ。この子が本当に強いことも、それを望んでいないこともわかってはいるのに、身を挺してでも守ってあげたくなるもの」


言ってから彼女はくすりと微笑んだ。


「ごめんなさい。私の個人的な意見だったわね」
「いや、そうでもないさ」


ラビが後ろ頭を掻きながら応えた。
どうにも気まずいのかからは視線を逸らしている。


「コイツの無事のためなら他人は喜んで尽力すると思うぜ。それこそ危険な目に遭ってでもさ。会って間もない人間なら、この無駄に可愛い見た目のせいで」


確かには一見か弱い女の子だ。
並外れたその容姿は、安全に守り、無事な姿を見たいと思わずにはいられない。
保護欲を刺激してやまないだろう。
ラビは苦笑を浮かべて続けた。


「そんで、内面を知った人間ならば、守るために生きる、そのひたむきな姿に惹かれて……な。…………本人が知ったら本末転倒もいいところだ!って暴れ出しそうだけれど」


それを聞いてアレンは何となく瞳を伏せた。
そして思う。
の真っ直ぐな瞳と、救うための決意を知ったならば、願わずにはいられないのかもしれない。
どうか、生きていて欲しいと。
その姿はひどく眩しいものだから、守ってあげたくなる。
その光を消させたくないと、祈ってしまう。
それは憧れにも近い感情かもしれなかった。
だから例え拒絶されようとも、グローリア達は彼女のために犠牲となることを選んでしまったのではないだろうか。
神田もきっと、同じだ。
強い決意のもとに、ひたむきに生きるだからこそ、考えるより先に庇ってしまったのだろう。


「こいつは俺に馬鹿なことをさせる天才なんだよ」


神田は忌々し気にそう吐き捨てた。
もう普段の仏頂面だった。
腕を組んでを睨みつけている。


「思えば出逢ったころからそうだったかもしれない。関わるつもりなんて欠片もなかったのに、こいつは俺の傍まで来て、勝手にこの手を掴んでいた」


握られた手を幾度も振り払ったつもりでいた。
けれど気がつけば温もりはいつも隣にあった。
どれだけ突き放しても、決して消えてはくれなかったのだ。


「不愉快で仕方がないのに、そのまま続いて、結局今日までこのざまだ。俺はいつだってこいつに命懸けの馬鹿をやらされる。あの時だって……」
「あの時って?」


ラビが横から訊いて、神田は一瞬口を閉じた。
そして何だか面倒くさそうな顔をしたから、アレンが言う。


「話すのが嫌になったとかは止めてくださいね。まだ続きがあるんでしょう?」
「………………それが人にものを頼む態度か?」
「お願いします」
「……………………」


アレンがこだわることなくきちんと頭を下げて見せると、神田は言葉に窮したようだった。
苛立たし気な舌打ちをして、目を逸らす。
けれどラビはにこにこと笑いかけてくるし、リナリーは静かに話の続きを待っているから、口を開くしかなかった。


「わかったから、全員で見るな」


ぶっきらぼうなその声が、いつもより少しだけ親しみやすく聞こえた。




















アクマの眼球から血が迸った。
はそのままくうを駆けて追撃を仕掛けようとしたが、激痛に振り回される毒蜘蛛の足に邪魔をされる。
いくつかの爪が四肢に引っかかり、皮膚を切り裂いた。


「……っ!」


は怒りに燃える瞳でアクマを見据える。
掌に迸る黒光を集中させて、跳躍。
振りかざされるアクマの足と空中を蹴りつけ、宙を舞う。
撞球のような高速移動で敵をかく乱し、その意識の隙を確実に掴む。


「よくも……っ」


襲い来る凶器をくぐり抜けて毒蜘蛛の背に着地、そこに渾身の力で光刃を叩き込んだ。


「よくも神田をッ!!」


漆黒が爆発し、アクマのボディに大きな傷を穿った。
けれど刃は貫通せずに、その硬質な皮膚に防がれる。
いくらかのダメージは与えられたものの、致命傷にはなっていなかった。
は唇を噛むと再び腕を振り上げた。


その時アクマの咆哮が響き渡った。
口から吐き出された糸の大群が起動を変え、を襲撃する。
胸元を引き裂かれ、自分の血が噴き出すのを見る。
展開させた『守葬』ごと弾き飛ばされて、の体は回廊の壁に叩きつけられた。
肋骨が悲鳴をあげ、コンクリートが破砕される。
けれど痛がるのは後回しだ。
は無理に痛覚を遮断した。
そして吐血しながらも意識を集中させ、砕け散る破片の向こうに光刃を放つ。
迫り来る白銀を無に還し、アクマを切り裂く。
莫大な数の黒光が閃いて毒蜘蛛の巨体を下方へと叩き落した。


再び伸びあがってきた糸に身構えたが、それはの存在を無視して上空へと昇り、塔の天井へと張り付いたようだった。
重症を負ったアクマの体がそれに引きあがられ、遥かなる高みへと消えていく。
少しでも戦場を逃れて回復をする気か。
は血を吐き出しつつ思考した。
先刻の抜け殻から考えると、もしかしたら脱皮をすることで自切よりも確かな自己再生ができるのかもしれない。
そうはさせまいと、は壁に手を突き立てて身を起こし、アクマの後を追うために脚に力を入れた。


しかしそこで動きを止める。
わずかに聞こえた呻き声に振り返れば、神田の姿が見えた。
目はいまだに閉じられ、苦し気な表情をしている。
呼吸は浅く短い。
流れ続ける鮮血、その傷口を視認して、は息を詰めた。
嫌な色に変色した皮膚。
あれは毒が肉体を蝕んでいるときの症状だ。
は進むべき方向を変えて叫んだ。


「神田!!」













うるさい。
神田はそう思った。
声がする。
あいつが呼んでいる。
俺の名を綴る、声。


「神田!」


うるせぇよ。
響くんだよ、お前の声。


「神田!!」


俺を呼ぶ、声。


「……………………うるせぇ」
「神田……っ」


血で掠れた声で無理にそう言ってやったのに、また名前を呼ばれて神田は眉をしかめた。
重い瞼を持ち上げると眩しい金色が映る。
意識を取り戻して一番に見えたのがこの色だなんて、何だか妙に腹立たしかった。
有り得ないほど近くにの顔があったから、神田はその肩を突き飛ばした。


「うるせぇっつてんだろ……。耳元でわめくな、鬱陶しい」


咳き込みながらもそう言ってやる。
けれどは後ろに尻餅をついた姿勢のまま、揺れる声で囁いた。


「神田……」
「何だよ」
「よかった……」
「…………………………」


神田は思わず口を閉じた。
は神田を見つめたまま、浅い呼吸を何度か繰り返した。
瞳が潤んでいるように見える。
そしてそっと手を伸ばした。
神田の肌に触れ、命の温度を確かめるように滑ってゆく。
頬にかかった黒髪にの指先が触れる。
神田は言わずとも伝わってくるの気持ちに、わずかに瞳を細めた。
しかし次の瞬間、素晴らしい大音声に襲われる。


「起きるのが遅ぉい!!」


の怒声に耳が激しく痛んだ。
それこそ怪我の激痛よりもである。
そのまま髪をぐいぐい引っ張られては、朦朧としていた意識もはっきりするというものだった。


「なかなか目を開けないからどうしようかと思ったじゃない、この寝ぼすけさん!」
「テメ……ッ、おい!」
「もう少し起きるのが遅かったら鉄拳を叩き込むところだったよ!もしくは目覚めのちゅーだ!!」
「ふざけんな!誰がそんなおぞましいことするか!!」
「何をー!大怪我してるくせに生意気だね、ユウちゃん!!」
「うるせぇ、黙れ、触んな、ユウちゃん言うな!!」


しばらくはそのまま黒髪を引っ張っていたが、神田が抵抗して暴れようしたので、パッと手を離した。(一応こちらが怪我人だということはわきまえているらしい)
唐突の開放に、神田は壁にもたれこんだ。
文句を言ってやろうと視線をあげて、そこで目を見張る。
が数え切れないほどの怪我をしていたからだ。
酸の糸に焼かれて爛れた皮膚。切り裂かれて血を流す四肢。
胸元にも赤が滲み、彼女が決して軽症ではないことを知らせていた。
意識を失う前に見たと毒蜘蛛との激戦を思い出して、神田は体を強張らせた。
あの後にこれだけの負傷をしたのか。
神田は床に掌をつき、口を開いた。


「お前……、その怪我」
「え?ああ、これ?たいしたことな……」
「嘘をつくな」


言われる前に遮ってやるとが目を見開いた。
神田はそれを真っ直ぐに睨みつけた。
しばらくの沈黙の後、はわずかに視線を落として呟く。


「ちょっとしくじっただけ」
「どこをやられた」
「……………………あんまり突っ込まないでほしかったんだけどなぁ」
「ふざけんなよテメェ」
「うん。ごめん」


は吐息のように謝ると、少しだけ微笑んだ。


「肋骨が何本か折れてると思う。あと左腕に感覚がないかな」
「……、テメェたいした怪我じゃねぇかよ」
「神田のほうがひどいけどね」
「胸の傷は平気なのか」
「ああ、ちょっと皮膚を裂かれただけだから」


ちょっとどころではない気がすごくしたが、神田はそれ以上口にせずに壁面に背を戻した。
確かに神田のほうが出血も損傷も激しいので、言っても無駄だと思ったのだ。
神田は次に自分の怪我の具合を確かめながら訊いた。


「アクマはどうした」
「………………まだ破壊できていない」


一度唇を噛み締めてが応える。


「頭部も腹部も再生できない代わりに、バカみたいに頑丈に出来ている。私の刃じゃ致命傷にならなかった」
「俺の刀でも一撃では無理だ。けれど連続攻撃をしようにも糸が邪魔をする」
「そう……。私もさんざん手こずってこのザマだよ。………………悔しいけどアイツは簡単には倒せない」
「………………それで、あの害虫は今どこにいる?」


神田はわずかに身じろぎをしながら言うと、伸びてきたの両手に肩を掴まれた。
そのまま動きを拘束される。
目の前で薄紅の唇が告げる。


「塔の一番上まで逃げられた。かなりの深手を負わせたから、すぐには戻ってこないと思う」
「そうか……。おい、離せ。何なんだよ」


動こうとすれば制止するの手に力がこもる。
怪我を負っていても腕力では神田に分があるから振り払えないこともなかったが、彼女がひどく真剣な顔をしていたので何となくそれは出来なかった。
は神田が抵抗を止めたのを確認すると、無断でそのコートの前を開いた。
中のシャツを剥ぎ取って、歯と手を使って引き裂く。
そしてその布で心臓に近い止血点をきつく縛った。


「上空を取られたのは痛いけれど、おかげで時間ができた。手当てをするから神田はここにいて。塔の最上階には私ひとりで行く」


神田はそれを聞いて瞠目した。
が自分をまるっきり怪我人として扱う気でいることに驚いたのだ。


「ふざけんなよ、誰がテメェだけに任せるか」
「駄目。いいから大人しくしてて」


静かに、けれど強くそう告げられる。
神田が睨みつけると、彼女も睨み返してきた。


「時間がないの。悪いけれどあなたの意見は聞けない」


はそう言い切ると、神田の二の腕を掴んだ。
膝歩きで距離を縮める。
そして露出した肩の傷口に、唇を寄せた。
吐息が皮膚に触れたところで、神田はを無理やり引き剥がした。


「お前……、何をするつもりだ」
「治療よ。毒を吸い出すの」
「馬鹿か、毒だぞ。それを自分から口にするのか」


それでは神田がを庇った意味がなくなってしまう。
神田はを乱暴に突き放したが、彼女は引かなかった。


ウイルスじゃないのだから、すぐに吐き出せば問題はない。あなたがまだ生きていることがその証拠よ」
「……………………」
「毒虫に襲われた時の応急処置をするの。アクマの毒にも通用するかはわからないけれど、何もしないよりはマシなはずよ」
「どうだかな」
「ただでさえ毒が体内に入って数十分たっているんだもの。急がないと死んでしまう」


そこでの声が微かに強張った。
手が伸びてきてまた腕を掴まれたから、神田はそれを振り払う。
弾みで飛び散った血が彼女の金髪を染めた。


「本当は今すぐきちんとした手当てを受けて欲しいけれど、アクマを倒さない限りここから逃げられない……。せめてこれくらいはさせて。私がアイツを破壊するまで、毒がまわらないように安静にしていて」
「…………………」
「お願い」


真摯な瞳が神田を見つめていた。
からこんな眼差しを受けるのは初めてではない。
けれどその奥に滲む不安と恐怖が、それを見たこともない色に変えていた。
神田はわずかに睫毛を伏せた。


「…………お前は俺の怪我を自分のせいだと思っているのだろう」


だからこんなにも必死な目をしているのだ。
神田を安全に囲い、手当てを施して、その存在を救うために独りでアクマと戦おうとしている。
神田は声に出してそれを指摘すると、ふいに胸が燃えあがるのを感じた。
それは凍てついた炎だった。
冷たい笑みを唇に浮かべる。


「くだらねぇ。馬鹿もそこまでいくと才能だな」


吐き捨てるようにそう言って、神田は無理に立ち上がった。
制止しようと伸ばされたの手を弾き飛ばす。
痛みを無視して床に足を突き立てる。
傷口から鮮血が溢れて落下していった。
瞬く間に広がる赤い水溜りと、それを見るの表情。
神田は心底くだらないと思った。
あまりにも憎らしくて、その綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。
ただ猛烈に腹が立ったのだ。
彼女が自分を気遣い、救おうとしていることに。
もうこれ以上はいらなかった。
壊してやりたいと思ったのだ。
の中で、守るべき対象となった自分を。


「おい、バカ女」


冷ややかにを呼ぶと、彼女の金の瞳が見上げてきた。
神田は露出された自分の胸を指し示す。
そこに刻まれた、数あるうちの浅い傷跡を。


「見ろ」


はわずかに眉を寄せた。
それから徐々に瞳を見開いてゆく。
彼女の眼前で、神田の傷跡がゆっくりと消えていったからだ。
確かに深くはない怪我で、出血も微量だったが、こんな短時間で癒えるものでもない。
神田は指先で傷跡のあった部分を撫でた。
そこには治癒した桃色の跡さえなく、まるで初めから何事もなかったかのような滑らかな肌に戻っていた。


「俺はこういう体だ」


言う間にも、体に刻まれた傷は次々に治癒を始めていた。
驚異的な回復力を見せ付けて、神田は唇に冷笑を刻む。


「わかっただろう。テメェなんかに気遣われるほど、俺はやわじゃねぇんだよ」
「神田……」
「この体はいくらでも傷が負える。アクマの毒だろうが耐性がある」
「………………」
「いいか、よく聞けよ」


そこで喉がかすれたから、神田は一度顔を背けて口から血を吐き出した。
赤く染まった唇をぐいっと拭う。


「この怪我は俺のものだ。俺の取った行動の結果だ。テメェなんかがそれの理由になれると思うな」


神田はの見開かれた瞳を睨みつけた。


「自惚れるのも大概にしろ」


言い捨てながら、冷たい炎が燃え盛る胸の内で考える。


ようやくわかった。
俺がこの女と関わりあいたくないと思ったわけが。
こいつは他人のことばかりを考える奴だ。
いつも、いつだって他人を大切にして、その気持ちも存在も何もかもを受け止めて。
たった独りですべてを背負おうとする奴だ。


神田はそんなものにはなりたくなかった。
彼女の中で、大切に想われる存在になりたくなかった。
それになってしまえば、はその身も命も魂も犠牲にして、神田を守ろうとするだろう。


(ふざけるな)


怒りにも似た感情で指先をきつく握り締める。
のくだらない信念に付き合ってやる気はなかった。
この拳でぶっ潰してやる。
お前の中の俺をぶっ潰して、粉々にして、跡形もなくなるくらいに。


(重荷になんてなってやらねぇよ)


他人のために自分をすり減らして生きるは、なんて滑稽なんだろう。
もう何度目かの感情を抱く。
嫌いだと思った。
大嫌いだ。
誰かのために潰れていくなど。
そして彼女を潰そうとした自分自身など。
許せるはずもない。


「互いに好きにすると言っただろう。もしもの時は躊躇うな」


神田はを見据えて言い放った。


「俺のことなんか見捨てろ」


次の瞬間、神田は衝撃を受けていた。
背中が壁にぶつかる。
そして胸に温もり。
が神田の首に腕をまわして抱きついてきたのだ。
神田は目を見張った。
そしてすぐさま叫んだ。


「テメ……ッ、何を……!?」


肩に激痛が走る。
傷口から再び血が噴き出すのを感じた。
白い肌を赤が伝い、壁を、床を、そしてを汚した。


「おい、止めろ!!」


神田は再び叫んだが、は聞かなかった。
強く強くしがみついて離れない。
皮膚に固いものを突き立てられる。
また血が零れ落ちる。


は神田の肩に穿たれた傷跡に、その唇をつけて噛み付いていたのだ。


そのまま血液を吸い出し、すぐに床に吐き捨てる。
もう一度歯を食い込ませようとしたところで、神田はを突き飛ばした。


「テメェ……!」
「うぇ……、鉄臭い」


鋭い神田の視線など無視して、は血まみれになった口元をぬぐった。
それこそ本物の獣のようだった。
咳き込むように何度も血を吐き出して、はぁと吐息をつく。
そしてまた神田に向かってきた。
神田はわずかに身を引いた。
意味がわからなかった。
理解ができなくて、妙な衝動に襲われる。
目を逸らしたいような、背を向けてしまいたいような。
そんな感情を認めたくなくて、神田は怒鳴った。


「毒には耐性があると言っただろう!吸い出す必要は……」
「そのバカみたいな主張は引っ込めてくれる?」


が呆れたように言った。
その態度に神田は唖然とした。
自分の特殊な体について知らせてもこんな反応を示した者はいないし、言葉の内容も内容だ。
硬直してしまった神田をいいことに、は近づいてくると再び傷口に唇をつけた。
痛みに我に返った神田は彼女の両腕を掴む。
けれど頭が混乱していてうまく引き剥がせない。


「おい、やめろ……っ」
「…………………」
「やめろ!!」
「感覚から目を逸らさないで」


皮膚から口を離して、唐突にが囁いた。
神田は構わずに彼女を突き放そうとしたが、間近で見上げてきた金の双眸に動きを封じられる。
彼女の瞳は強かった。
けれど同時にひどく揺れていた。


「他のことみたいに正直に言ってよ」
「何を……」
「言え!」


叫んだときにはもう、泣きそうだった。
そう思ったのは神田の思い込みだったのだろうか、がすぐに噛み付いてくる。
本当に激痛が走ったので、神田は怒声を放った。


「痛ぇんだよ、何なんだよテメェは!!」


力尽くで引き剥がし、突き飛ばすと、は数歩よろめいて床に膝をついた。
そのまま四つん這いになり、神田から吸い出した血を吐き出す。
毒が少しでも体内に残らないようにしばらくそれを続けた。


「……っ、言ったな。ホラ、やっぱり痛覚があるんじゃない」


ほとんど聞こえない声では呟いた。
げほげほと苦しそうに咳き込んで、最後に強く袖口で口元を拭う。
そして立ち上がると自分のコートを脱ぎ、イノセンスで切り裂いた。
それで臨時の包帯を作って神田の肩にきつく巻くと、軽やかに身を翻す。


「それじゃ、神田は大人しく寝ていてね!」
「…………っ」
「さぁ塔のてっぺんまで登るぞ、いってきまーす!!」
「おい!」


神田は咄嗟にの腕を掴んだ
けれど彼女は無視して歩みを進めていく。
力は思いの外に強く、神田はそのままずるずる引きずられていった。
螺旋を描く階段に、の華奢な脚がかけられる。
それが酸で焼かれた右足だったから、神田は怒鳴った。


「待てよ!!」
「…………待てないよ。だって言ったじゃない」


は遥かな高みまで続く道を見上げて、囁くように告げた。


「“守るよ”」


金の瞳が確かな光を宿していた。
けれど掴んだ腕は震えている。
握りこんだ拳は決して開かれることはないようだった。
言葉を返せない神田を振り返って、は苦笑する。


「……なんて、私を庇ってくれたあなたに言えたことじゃないか」


わかってるんだ、とわずかに乱れた呼吸の下で呟く。


「助けてくれてありがとう。けれど、悔しくて仕方がない。あなたを傷つけた弱い私が許せない。…………だから、ごめん。もうこれ以上、私は私を裏切りたくないんだ」
「……………………」
「言えた立場じゃないのはわかってる。けれど、“守るよ”。もう二度とこんなひどいことにさせてたまるもんか……!」


言葉の最後で強く噛み締められた唇が、ぎりっと音を立てた。
そこに付着した血は、神田のものだけなのだろうか。
胸中で燃える氷の炎が呼吸を苦しくさせた。
神田はひどく乱暴にの体を自分の方に向けさせた。


「………………ふざけるなよ」


呻くように言い、神田はをきつく見下ろした。
胸に鉛が落とされたみたいだった。
重くなったそこに己の爪を立てる。


「いい加減にしろ。お前の自己満足に俺を巻き込むな」
「……そうだよ。自己満足だよ」
「わかっているなら……っ」
「私は私の想いのために動く。それを貫くために自分の全てを懸ける」


神田はそれを聞いて口を閉ざした。
が言っていることが、とてもよく理解できたからだ。
神田も彼女と同じだったのだ。
いや、この世に生きる全ての人間がそうであるだろう。
自らの強い想いに突き動かされる。
決して譲れないものを心に持っていたのならば、きっと。
は真っ直ぐに神田を見つめた。


「ごめんなさい。けれどこの信念は、あなたにだって壊させない」


駄目だ、と神田は思った。
この瞳は駄目だ。
恐らくこちらの言うことなど聞き入れはしない。
胸に突き立てた爪が、そこに刻まれた凡字を傷つけた。


「いい加減にしろと言うのがわからないのか」
「……………………」
「俺はこういう体だ。傷だろうが毒だろうが自分で背負える。“守る”だなんて、ふざけるな」


そんな言葉はいらない。
そんな気持ちはいらない。


「俺がどれだけ傷つこうが、お前には関係ない!!」


神田の怒声が空間に響き渡った。
余韻は糸を引くように辺りを漂い、ゆるやかに消えていった。
はしばらく沈黙した。
ただじっと神田を見ていた。
そして呟く。


「それ、本気で言ってるの?」
「本気じゃなかったら何なんだよ。お前だって見ただろう」
「……何を」
「俺の体が特殊なのを見ただろう」
「だから……?」
「そろそろ理解したらどうだ、バカ女。どれだけの傷を負おうが、どれだけの毒を喰らおうが、俺は平気なんだよ」


すべてはこの呪いにも等しい証のために。
神田は忌々しげにから顔を背けた。


「だから、テメェの手なんて必要じゃねぇ……!」
「オマエは反抗期の少年か」


突然バッサリとした口調でそう言われた。
神田は一瞬理解が追いつかなくて硬直する。
がため息をつく気配がした。


「何をいきがってるのか知らないけれど、よくそんな強がりばかりが言えるなぁ」
「な……っ」
「どれだけ傷つこうが平気だって?何その最高に呆れた主張。引っ込めろと言ったはずだよ」
「お前……、やっぱり頭が悪いんだろう」


神田は目眩を覚えて額に手をやった。
自分の驚異的な回復力を見せて、ここまで言ってやって、どうしてこの女は理解しないのだ。
けれどはぎゅっと手を握り締めて、神田を見上げた。


「痛いって言った」
「は……?」
「神田は痛いって言った!」


強く言われて神田は思わず後退した。
壁に背がぶつかり、が目の前に塞がるように立つ。
彼女の小さな拳が、神田の右胸に乱暴に置かれた。


「ちょっと人より回復が早いからって、なに調子に乗ってるんだか。そんなので怪我も毒もどーんと来いって?ふざけるなはこっちの台詞よ!!」
「何だと……」
「そんなことで平気だって言うのなら、いくらでも見捨ててあげる。勝手にアクマの攻撃を喰らってればいい!好きなだけ傷ついていればいい!!」


ひどいことを口にしていると思っているのだろう、はどこまでも張り詰めた表情をしていた。
細く息を吸い込んで続ける。


「けれどあんたは“痛い”って言った。真っ赤な血が出てる。皮膚が変色して毒に侵されている。だったら止血をして、毒を吸い出すのが当たり前じゃない……!」
「……だから何度言わせるんだ。俺の体は普通とは違う。手当てなんかしなくても、すぐに治る」


の剣幕に押されながらも、神田はそう言い含めた。
けれどそれが彼女の感情に深く触れたようだった。


「それが何よ……、それがどうしたって言うのよ!」


は強く首を振って、もう一度神田を振り仰いだ。
眼差しは震えていた。
けれど決して視線は揺らがなかった。




「痛みは人それぞれだけど、“痛い”って感情はみんな同じでしょう!?」




声が、響いて。
神田の胸の奥を強く突いた。
黒い双眸を見開くと、その胸倉をが掴んだ。


「あんたは“痛い”って言った……。そうだよ、誰だって痛いんだよ。傷つくんだよ。そこにどんな隔たりがあるの。普通って何?私と神田はどこが違う?」
「……………………」
「みんな傷つけられたら痛いんだ。血が流れて、苦しくなるんだ。それを知っていて、どうして怪我をした神田を黙って見ていられると思うの……?」
「お前……」


神田は小さく呟いて、の腕を握った。
はそれには逆らわずに必死に続ける。


「神田が特殊な体なのはわかった。けれどそれはあなたの痛みを見過ごす理由にはならない。苦痛を負うと知っていて、その傷を見ないフリなんかできない。…………放っておけないよ」


言葉の最後は囁くような声だった。
胸倉を掴むの手からゆっくりと力が抜けてゆく。
吐息をついて彼女は告げた。


「お願い。守らせて」


それは懇願だった。
心からの祈りだった。
それが叶えられないのならば、はそれこそ途方もない痛みを負うことになるのだろう。
今体に刻まれた肉体の傷など比べ物にならないくらい、残酷な苦痛を。
感覚でそう悟って、神田は掴んだの腕を揺さぶった。


「どうしてそこまで必死になるんだ。他人のために。…………俺のために」
「………………だって私は、守るためにエクソシストになったんだもの」


うなだれるようにうつむいたまま、が言った。
それだけでは納得できなくて、神田は捉えた彼女の腕を強く握った。
上体が揺れて、金の前髪が神田のむき出しの胸に触れる。


「目の前のあんた一人助けられなくて、何が世界を救うよ」
「……………………お前はそんなもののために戦っているのか」
「そんなもの……?」
「とんだ甘さだな。綺麗事を吐くな」
「…………………」
「他人のため、世界のため。テメェ自身はどこに行ったんだよ」


神田は苛立ちを込めて吐き捨てた。
けれどははっきりと首を振った。


「違う。自分のためよ。私は自分のために、誰かを守りたいのよ」


強く腕を掴む神田に負けないとでもいうように、がその胸元を握った。


「目の前で死なれるだなんて、こんなにひどいことってない」
「……………………」
「私は自分のために戦ってるの。少しでも多く生きるためにね。そのために逃げられないだけ。苦しくても痛くても、立ち向かって勝つんだ。絶望に負けたら死んでしまう。だから、守るの。私が生きるために」
「…………生きるために、戦っているのか?」
「そう。私はこの生を貫かなくちゃいけないから」


その言葉は、義務だった。
“生きたい”という当然の願いと共に、“生きなければならない”という逃れられない責務が見えた。


「だって夢を見るんだ」


ぎゅっと神田にしがみついて、が言う。


「死んでいった皆が私を見ている。血の匂いに染められて、恐怖に動きを封じられる。全身を満たす絶望が死を誘う。けれどそれは許されない」


死にたがっているのか、と神田は漠然と思った。
この娘は心の底では自らが朽ち果てることを望んでいるのかもしれない。
それは今まで決して見せることのなかった一面だった。
強気な笑顔の裏側。
吐き出される声。


「許されるものか。私は今までどれほど人を守れなかったと思っているんだ。どれだけの犠牲を払って、どれだけの悲劇を産んで、どれだけの命を踏み台にして生き残っていると思っているんだ……っ」


の体がぶるりと震えた。
彼女は暗い瞳で床を睨みつけていた。
神田にはその姿がひどく危ういものに見えた。
思わず捕らえている手に力を込める。


「私は死に損ない。だから、守らなくちゃいけない。死に損なったぶんを、果たさなくちゃいけない。消えていった命よりも多く、魂を救わなくちゃいけないのよ」


その時、不意には全身の力を抜いた。
そこにはいつもの顔があった。
強くしなやかな、表情。
は凛然と告げた。


「これ以上の悲劇を許さない。だから、私は“守る”の」


先刻までの、自分を責めるような口調とはまるで違っていた。
何かの隔たりを越えたように危うさも消えている。
これは“”だ。
神田はそう思った。
ならばあの暗い瞳をしていた少女は誰だ?
この娘は心の内に何を抱えているのかという疑問が、胸の中に突きあがってくる。
その強い感覚に耐え切れずに、神田は口を開いた。


「お前を責める、それは何だ」


が金の瞳をあげた。
その唇が動く前に、神田は尋ねる。


「生きるために、自分を殺そうとする絶望を破壊する。そのための方法が“守る”ことなら、その絶望はどこから来た」
「………………、言えない」
「例の重要機密……、隠蔽した過去か。お前はそれに囚われているんだな」
「………………………………」
「それに縛られて、今度こそ全てを救うために自分自身を犠牲にするつもりか」


低く訊いてやるとが目を見張った。
硬直した双眸を見下ろして、神田は言う。


「くだらねぇ。そんなのがお前の信念か?“守る”だと?笑わせるなよ」


神田はするりとを離した。
彼女を支えるように握っていた腕を開放し、その体を突き放す。
は危なげに数歩後退した。
二人の間に出来た距離。
それは神田の拒絶だった。


この娘の信念は強すぎる。
隠蔽した過去、その中の何に囚われているのかは知らないが、壊れそうなほどの強さで命を救うことを誓っている。
それでは駄目だ。
神田は唇を噛んだ。
それではは“守る”ために躊躇いもなく自分自身を捨ててしまうだろう。
想いに命を懸けて、己を犠牲する愚かな潔さ。
はそれを持った人間なのだと、神田は理解した。
目の前の金色の瞳を睨みつけて、刃のような言葉を放つ。


「自己犠牲に酔うのはさぞかし気持ちいいだろうな。そこに存在意義でも見出したつもりか」
「神田……」
「仲間に依存するな。死ににいく言い訳を他人に押し付けるな」


ぶん殴ってやれば、は泣くだろうか。
神田は何故かそんなことを考えた。
再び破壊衝動が沸きあがってきたのだ。
けれど今度壊したいと思ったのは、自身だった。
神田の大嫌いな、優しく甘い心を持つ少女を粉々に砕いてやりたかった。


右手を振り上げる。
『六幻』の刃をの首筋に突きつける。
刀身は寸分のぶれもなく停止し、彼女を捕らえていた。
息をするだけで薄皮一枚が斬れるような近距離だ。
命を握ったまま、神田は氷の声で告げた。


「自分自身も守れねぇ奴が、他人の命を守れると思うなよ」


「………………っ、はは」


そこでが小さく笑ったから、神田は目を見張った。
眼前で泣きそうな笑顔を浮かべた少女を見つめる。


「なんだ……。違うじゃない……」


彼女は目の脇に浮いた涙を拭いながら呟いて、神田を見上げた。


「ごめんなさい。あなたのことを笑ったわけじゃないの」
「……………………」
「ただ、あなたはあの人とソックリだと思っていたのに、どうやら違うみたいだから」
「あの人……?」
「グローリア・フェンネス。私の師匠よ」


その名は神田も聞いたことがあった。
『黒の教団』に所属する者ならば知らない者はいないだろう。
数年前に殉職した、有能なエクソシストだ。
元帥になる資格を有しておきながら、そんな役職は面倒だと一蹴し、最期まで戦場を駆け続けた戦士である。


「お前……、あの女の弟子だったのか」


神田が呟くと、は頷いた。
そしてわずかに視線を落として言う。


「はじめて会ったときから、神田は先生に似ていると思っていたんだ」
「俺と、グローリアが?」
「うん。口が悪いところとか、すぐに人に喧嘩を売るところとか、対応が主に暴力なところとか」
「……………………」


考えるまでもなくひどいその言い草に、神田は黙り込んだ。
けれどは微笑む。
心から愛おしそうに。


「冷たく突き放しておきながら、本当は最後まで私を見捨ててくれなかったところ……とか」


金の瞳が言葉にならない感情に揺れた。
神田はが泣くのではないかと思った。
殴る必要もなく、涙を流すのではないかと。
いや、もう泣いているのかもしれない。
それを誰にも見せないだけで、彼女はいつだって心から哀しみを零していたのかもしれなかった。


「先生は厳しい人だった。弱みを見せれば罵倒され、甘えを見せれば殴られた。どんなに痛みを負っても、心配してもらえた記憶はない」


グローリアが亡くなったのは5年前だ。
そのころのは10になるかならないかの歳だろう。
そんな子供に、彼女はそこまで厳しく接していたのか。


「でも、私は知ってたよ。いつだって向けられていた背の温かさを。そのぬくもりを」
「…………そんな女のどこに」
「冷たく聞こえた言葉は、嘘をつかない証拠だった。拒絶する手は、本当だけを求めていたからだった。弱さも甘えも認めてくれなかったのは、私を強くするためだった」
「それは……、お前の都合のいい理由付けだろう」
「そうかもね。グローリア先生は私のことが嫌いだと、“いつでも見捨ててやる”と言い続けていたもの。けれど、神田」


そこでは震える息を吸い込んだ。
それだけで、これから言う言葉がどれほど彼女にとって重いことなのか察することができた。
わずかに色を失った唇が、そっと声を紡ぐ。




「あの人は私を庇って死んだのよ」




妙な衝撃があった。
空気が振動して神田を硬直させる。
ゆるく、鋭く、言葉が世界に食い込んでゆく。


「私を守って、アクマに殺された。“見捨てる”と言っていたくせに。私を嫌いだと言っていたくせに」


の肩が喘ぐように大きく動いた。
そして涙の溜まった瞳で神田を見据えた。
呼吸が乱れて言葉が溢れ出る。


「嘘つき。どうして私を庇ったりしたのよ……!」


はグローリアを責めている。
苦痛と絶望に悲鳴をあげながら。
そして同時に神田を睨みつけていた。
彼女の言う通り、神田とグローリアは似ていたのだ。
”を突き放しておきながら、見殺しにすると告げておきながら、その存在を庇ったところが。
己の身を盾にして、彼女を救ったところが、同じだったのである。


「さんざん拒絶の言葉を放っておきながら、最後には駆けつけてくれた。私を助けてくれた。嬉しかったよ、そうまでして守ってくれたこと。それだけ私を想ってくれたことが。けれど……っ」


の拳から血が流れていた。
強く握りこむことで、爪が皮膚を突き破ったらしい。
床に落ちてゆく鮮血を眺めながら、神田は彼女の声を聞いていた。


「けれど、本当はちっとも嬉しくなかった。そんな優しさはいらなかった。私のために命を捨ててほしくはなかった。自分を投げ出さないでいてほしかった。どうか生きて……っ」


はそこで顔を両手で覆った。
彼女がそんなことをするのは初めて見た。
その声を聞いているときに金の瞳が見えなかったことは、今までになかったのだ。


「生きていて欲しかったよ……!」


それこそ命がけだった。
命がけの願いだ。
途方もなく強く切ない祈りが、世界に響いている。
何度か荒い呼吸を繰り返した後、が囁く。


「あなたの言う通りだと思う。自分すら守れない奴が、他の誰かを救えるものか」


神田はそっと、頷いた。
そうすることしかできなかった。


「何かを守るために自分の命を捨てるのなら、それは本当の救いじゃない」


が首を振れば、その金髪が揺れた。


「それは守られた相手を、死ぬより辛い後悔と絶望の底に叩き落す行為よ」
「…………………」
「守ろうとしてくれた優しさは愛おしい。けれど同じ想いを抱いていた者はどうなる?誰よりも何よりもその人を救いたかった、果てしない願いはどこへ行けばいい?………………大切な人を犠牲にして生き残っても、幸せだと笑えるはずがないのに」
「お前が……、そうだったんだな」
「…………そうだよ。だから私はグローリア先生の守り方を認めるわけにはいかないんだ」


は両拳を胸まで下ろすと、その上できつく握った。
団服に寄った皺が、まるで心のひび割れのように見えた。


「死ねない理由はたくさんあるんだ。大切な人の命を盾にして生き残った私は、この生を貫かなくちゃいけない」


恐怖や絶望に屈して、安楽な死に逃げるわけにはいかないのだ。
戦争の終焉を創り出すことが、彼らの遺志を継ぐ者としての使命なのだから。


「そして守らなくちゃいけない。もう二度と同じ悲劇を繰り返さないために」


そこでは神田を見上げた。
神田はびくりと目を見張った。
他人に、こんなに真っ直ぐに見つめられたのは初めてかもしれなかった。
否、いつも神田が目を逸らしていただけだ。
目障りだと決め付けて、本当の意味での視線を真正面から受け止めようとしていなかっただけだ。


「私は守るために己の全てを懸ける。けれど、決してこの命を捨てはしない」


神田はを見ていた。
視線が逸らせない。
今度こそ囚われたのだと思った。
これがきっと、一番気に食わないと知っていたから、避けてきたのに。


「中途半端は嫌いなの。守ると決めたのなら全部そうする。誰かの命も、自分の命も守ってみせる。身体だけじゃない。心だって壊させはしない」


ひたすらに見つめてくる、金色の瞳。


「グローリア先生に生きていて欲しいと願っていた私が、同じように守るために命を捨てるわけにはいかないのよ。それでは本当の意味で救われないと、苦しいほど思い知っているから」


いつの間にか息まで止めていた。
けれどどうにもならなかった。
今、神田の意識を支配しているのは、目の前の少女だけだった。


「だから私は違う道を掴み取る。あの悲劇を拒絶する。自分はそんな方法を選ばないし、他の人間にも選ばせない。…………それだけの強さと能力ちからを手に入れてみせる」


はぎゅっと拳を固めた。
そんなに強く握り締めては、また掌に傷がつくだろう。
そう思ったけれど、どこまでもしなやかに強い存在を前に出てくる言葉はまだなかった。


「大切なものを、もう何も失わないように、こぼさないように……」


そして、囁きが世界を揺らした。


「“これから”を守り抜いてみせる」


神田の手が震えた。
『六幻』の刀身にまで伝わって、突きつけたの皮膚にぴたりと触れる。
このまま引き裂けば彼女は死ぬだろう。
それは何よりも確かな事実であるはずなのに、そんなことは有り得ないように神田は感じていた。
は、死なない。
“守る”と決めた心が砕けない限り、絶対に。
それは彼女を形創る確固たる信念、その存在の真ん中を真っ直ぐに貫く一本の柱だ。
神田はほとんど無意識のうちに囁いていた。


「お前は“守る”と誓ったんだな。本当に、すべてを」


は確かに頷いた。
神田はようやく理解する。
彼女の本当の決意を。


命を“守る”。
それは死から、恐怖から、絶望から。
この世のあらゆる悲劇からだ。


アクマの脅威だけではない。
それに伴う哀しみや後悔を産み出さないために、戦い、“守る”。


そしてそのために決して自分の命を捨てはしない。
己の身を犠牲にはしない。
それは、そうやって守られた者の死ぬよりも辛い苦痛を知っているからだ。
は自分を庇って死んだグローリアに、生きること望んでいた。
いや、今もそう祈っているのだろう。
もう過ぎ去ってしまった過去なのだと、どんなに想っても叶わないと知っていても、はグローリアに生きていて欲しかったと願い続けている。
ならば彼女は師と同じことはできないのだ。
もう二度と同じ悲劇を、後悔を許さないと誓うと同時に、“守る”ことに命を捨てることは許されない。
どれだけ苦しくとも、死に逃げたくなろうとも、“守る”ために生き抜かなくてはいけないのだ。


「“生きる”ことは、責め苦なのか」


神田はに問いかけた。


「“生きて”、“守る”ことが、師匠を死なせたお前の贖いなのか」


それではあまりにむごすぎる。
神田はの信念を途方もなく強いと思いながらも、そこに一種の恐怖を感じていた。
失われた温もりをひとつ残さず纏って生きるは、それ自体を罪の償いにしているように見えたのだ。


「私が守れなかったのは、グローリア先生だけじゃないよ」


はわずかに微笑んで答えた。
その笑みは影を落として、そっと刻まれる。


「でも、そうだね……。私はこうやって生きることで、死なせてしまった人たちに償いをしたいのかもしれない」
「……………………」
「けれどそれだけじゃなくて。それ以上に、わがままでもあるのよ」
「わがまま……?」
「そう。私は人間だから、綺麗ごとでも何でも、やっぱり思ってしまう。どうしても願ってしまうんだ。大切な人に生きていて欲しいって」


が一歩、神田の方へと足を踏み出した。
首筋に突きつけた『六幻』はそのままだ。
けれどやはり彼女はそれを恐れなかった。
神田を、恐れなかった。


「同じ場所に産まれて、出逢ったのならば、大切だと思うことができるかもしれない。そんな目の前の希望を見限るほど、私はまだ世界に絶望していないんだ」


また足を運んで、は神田に近づいた。
そうやって動くから、触れた刃が彼女の白い肌をわずかに傷つける。
滲んだ血。
決意の赤。


「私はたくさんのものを失った。けれどここにはまだ、消したくない想いが、慈しみたい人がいるんだ。だったら“守る”しかないでしょう?“戦って”、“生きて”、そうして大切なもの達の“幸せ”な笑顔が見たい」


の片手が持ち上げられた。
近づいてくる温もり。


「今度こそ、そんな姿が見たい」


もう二度と、グローリアの笑顔を見ることは出来ないけれど。
それでも“これから”は、今を生きる大切なものを守るために、走り続けたい。


「それまで死ねるもんか。諦められるもんか」


『六幻』を握る神田の手に、の指先が触れた。
それはずっとずっと、神田を捕らえていた暖かさだった。


「不幸だと今を嘆くのは嫌。これ以上の後悔はごめんよ。だったらやるしかないじゃない」


刃。
伝う赤。
血の流れる白い首筋。
握る凶器を冷たさと、それを包み込む温もり。




「どんな闇の中でも、全身全霊をかけて足掻きまわってやろうじゃない!」




それを聞いた途端、神田は自分の肩が震えるのを感じた。
見つめてくる金の瞳が眩しすぎて視線を落とす。
片手で顔を覆った。
震えが止まらない。
何だ、これは。


「神田……?」


が呼んだ。
そして心底驚いた調子で訊く。


「わ、笑ってるの?」


その声に何だか力が抜けて『六幻』を下ろす。
小刻みに揺れる体を無理に押さえ込んで、神田は顔をあげた。
それでも唇には感情が滲んでいた。
いつも浮かべる冷笑ではない、限りなく笑みに近い何かが。


「本当に……、馬鹿もそこまでいくと才能だな」
「え……」


目を瞬かせるの前で、神田は『六幻』を帯刀した。
妙な衝動が止まらなかった。
笑いが込みあがってくる。
可笑しかった。
初めて見る、他人の信念。
いつもは興味がないと放り捨ててしまうそれが、今は神田をどうしようもなく揺さぶっている。
こんなに強いものを壊せると思って、本気で怒っていた自分が可笑しくて仕方がなかった。
ああ、くだらない。
俺は今までコイツの何を見ていたのだろう。


「肩を貸せ」


神田は無理に笑いをおさめると、短くそう要求した。


「最上階まで登るぞ。早くしろ」
「ちょ……っ、ちょっと待って!」


一方的に言って肩に手をかけてくる神田を、は慌てたように制止した。


「なに言ってるの!私は“守る”って言ったんだよ!?」
「馬鹿にしてんのか。ちゃんと聞いていた」
「だったら大人しくここにいてよ!そんな怪我で……っ」
「もう塞がった」


神田はが巻いた布の上から、肩の傷を押さえた。
塞がった、というのは言いすぎだが、それでも毒の浄化が終わるくらいには回復している。
けれどの目は納得していなかった。


「そういうことじゃなくて……」
「何だよ」
「…………“自分を守れない者が、他人を守れるはずがない”。そう言った神田は、グローリア先生とは違うと思う。けれどその身を平気で傷つけるでしょう。すぐに治るからといって」
「自分の体質を理解している俺のほうがマシだ。お前はその体で無茶をするつもりだろう」
「違いはないはずよ。痛みも、苦しみも」
「だったらお互い様だ。お前も俺も、好きに動けばいい」


そう言ってやると、掴んでくるの手が強張った。
唇が動くが、出てくる声はない。
神田は代わりに口を開いた。


「お前がわからず屋なぶん、俺が理解してやったんだよ。これは何を言っても無駄だってな。だから放っておくことに決めたんだ」
「放って……?」
「ああ。誰にもお前の信念は壊せないんだろう」


“守る”だなんて。
そんな言葉を口にする人間を、神田は今までたくさん見てきた。
言うことは簡単だ。
優しさを振りかざし、自己満足に浸っているだけでいい。
けれど、それはただの綺麗事でしかない。
実際に戦場に出れば、一人の人間ができることなどたかがしれている。
そんなものは、戦いを知らない甘い人間が語る、くだらない夢物語としか受けとることが出来なかった。
今までは。


見つめてくる金の双眸に神経が震えるのを感じる。
認めたくはないが、神田はに気圧されていたのだ。


彼女はエクソシスト。
常に死線に立ち続ける者である。
生ぬるい幻想に浸っていられる境遇ではなかった。


けれど、だからこそは、戦うことでその信念を貫こうとしていた。
神田は見たのだ。
血にまみれ、絶望と恐怖に懊悩する少女の姿を。
罪悪に声にならない悲鳴をあげながら、それに負けないようにひたすら起立し続ける、その存在を。
薄暗い時計塔の中で、鮮やかに光る金色。
気高く崇高な心に触れた。
神田は目を細めてを見つめた。
彼女はこの未来をも知れない、希望の在処さえ定かではない戦いに、膝を屈せず立ち向かっている。
現実を見据えたうえで、それでも強くそうさせるものを、しっかりと胸に抱きながら。
その信念の源には、確かな真実があったのだ。
考えや理想ではなく、他人の意見でもない。
自身が感じた、身を切るような痛みと息が止まるほどの苦しみ。
何よりも確かなその真実が、彼女の信念をこれほどまでに強く形造っている。
心を貫く、“本当”をは持っているのだ。
だからこそ、こんなにも真っ直ぐな決意が存在するのだ。
それを止める術など、一体誰が持っているというのだろう。
そんなもの、この世のどこにもあるはずがなかった。


「だったら好きにしろ。お前は勝手に俺を守っていろ」
「それは……、言われなくても」


戸惑ったように、それでもはっきりと頷くに、神田は大きなため息をついてみせた。


「ちょっと黙って聞いていろよ」
「へ?」
「この……っ、強情っ張りが!頭が悪いのは知っていたが、ここまでとはな。さすがの俺も驚いたぜ。こんな凄まじい馬鹿は初めて見た。いや、そんな言葉で片付くものか」
「は……?」
「本当にどうしようもねぇ女だな。こんなに俺の予想を裏切った奴は今までにいなかったぞ。何もかも思い通りに動きやがらねぇ……!」
「え……、いや、ちょっと……?」
「思いつく俺の嫌いなあらゆるものにあてはまらねぇのに、どうにも腹が立つ。何なんだ……、馬鹿なら馬鹿なりに馬鹿をやっていればいいものを、お前はそれすらもできねぇ馬鹿なんだな。ああ、そうか。最強馬鹿だからか」
「あ、あのー……?」
「最悪だ、不愉快だ、気分が悪い!!」


それからしばらく神田はを罵り続けた。
思いつく限りで罵倒する。
さんざんに言ってやってから眼前を見ると、が何とも言いがたい表情をしていた。
それに満足して神田は言う。


「お前は他の誰とも違う。その信念も、強さも……。俺がどれだけ言っても、お前は守ることに、自分の持つ全てを懸けるんだろう」
「……………………」
「止められないのはわかった。けれど、それだけでは許せないと思うのは俺の自由だ。守られるだけだなど冗談じゃない」


神田はの手を掴んだ。
自分の胸元を握る小さな拳を、掌で覆う。


「借りは返す。お前が俺を守るというのならば、俺は同じものをお前にくれてやる」


の目が見開かれた。
神田はそれを真っ直ぐに見つめ返す。
鮮烈な黒が金の瞳を射抜いた。


「いや、くれてやるしかねぇだろう」
「……………………」
「安心しろよ、それはお前のためじゃないぜ。誰がお前みたいな女のために体を張るものか。けれど守られているだけなど、俺は認めない。お前が勝手に俺を守るから、俺もお前を守るしかねぇんだよ。そうでなければ、俺のプライドが許さねぇ」
「…………、でも」


そこでがわずかに視線を落としたから、神田はその顎を掴んだ。
無理に持ち上げて仰向かせる。


「バカ女。俺を見ろ」
「……………………」
「俺はグローリアじゃない。“先生とは少し違う”?ふざけんな、完璧に違うだろう。俺は俺だ。そんな女にどれかひとつも似ているものか」


言葉を強めてそう言ってやった。
神田にはわかっていた。
が師匠の死を話したわけを。
いつもの強気な笑顔を一時でも隠してしまうほど、必死になっているわけを。
彼女は神田をグローリアと重ねて見ている。
その胸の中の思い出と、神田の言動が似ていたために。
潰さなければいけないのは、それだった。
神田が本当に壊してやらなければいけないのは、今でもを縛る、暗いグローリアの死の影だったのだ。


「俺は、神田だ。グローリアじゃない」
「そんなのわかって、……」
「わかってない。俺はグローリアとは違う。同じことなどするものか」


神田はグローリアの生前の姿を知らない。
それでもの瞳に自分の姿をよく映し出させた。
刻み付ける。
長い髪、漆黒の双眸、その眼差し。


「誰が他人ために死んでやるかよ。よく聞け、バカ女」


ぎゅっとの顎を掴んで、神田は彼女に顔を近付けた。


「俺は死ねない。“あの人”を見つけるまで、死ぬわけにはいかない」
「………………、それがあなたの誓いなの」
「ああ。お前は俺とグローリアが似ていると思っているのかもしれない。けれど、違う。かなり不愉快だが、この一点だけはお前と同じだ」
「私と……?」
「俺は、お前と同じだ」


神田は確かに頷いて、告げた。




「俺は、俺の信念のために生き抜く」




それだけ口にすると、神田はの肩に腕をまわして引き寄せた。
小さな頭を自分の左胸に押し付ける。
そうすれば二人の心臓の音がひとつになって聞こえた。


「俺は生きる。そうしなくてはいけない理由がある」
「……………………」
「まだ死ぬわけにはいかない。だから、絶対に死なない」
「神田……」
「言っても聞きはしないのだろう。だったらお前は勝手に俺を守れ。けれど忘れるな。俺は、何かのために命を捨てて、お前の前からいなくなったりはしない」
「……本当に?」
「ああ」


神田は短く肯定した。
そしてを抱き寄せる手に力を込めた。


「お前が守るというのなら、俺はその借りを返す。それだけだ」
「……うん」
「お前は、俺のために死んだりはしないだろう」
「うん」
「だったらその逆もない。あるわけがねぇだろ」
「神田だもんね」
「ああ。俺とお前なら、そんなくだらねぇことは起こりはしない」


どちらかを庇って死んでしまうことなど、その絶望と苦痛を背負わせることなど、ありはしない。
何故なら自分達は“同じ”だからだ。
互いに強い信念のために、生き抜くと誓っているからだ。


神田はの肩を掴んだ。
そして互いの体を少し離した。
金色の瞳を見下ろす。
真っ直ぐに見つめあうと、自然と言葉が唇から産まれてきた。


「馬鹿は死んでも治らないと言うだろう。だったらお前は、生きろ」


言わなくてもいいことのように感じた。
こんなことを言わなくても、は勝手に生き抜くだろう。
その強い信念のもとに。
けれど、それでも口にしてしまったのは、きっと。
きっと神田が彼女の生き方を信じてしまったからだ。
そうやって生きるのならば、どうか最期まで。
最期まで強く起立する存在でいてほしいと思った。
それはが自分と一緒だったからだ。
神田とグローリアが似ているのではない。
神田とが同じなのだ。
自分達は、己の信念のためにひたむきに生き抜く、同士なのだ。




「生きて、その信念を貫いてみせろ」




は大きく目を見張った。
神田を映す、金色の双眸。
睫毛が震えて、ゆっくりと閉じられる。
は静かに頷いた。


「………………、うん」


神田はそれを見ると、すぐさま要求した。


「ほら、肩を貸せ。早くあの害虫を破壊しに行くぞ」
「私と同じ……、ということは、やめろと言っても聞かないんだよね」
「当たり前だろう。こんなところで寝ていられるか。俺は任務のためにここに来たんだ。それでいて、誰がテメェだけに戦いを背負わせるかよ」
「本当、同じだ」


はくすりと微笑んだ。


「あなたはグローリア先生に似ていると思っていたけれど、完璧に違っていたみたい」
「ようやくわかったか」
「うん。ごめんね」
「まったくだ。見ず知らずの女と重ねて見られるなど、死んでもごめんだ」
「もう言わないよ。―――――――――、神田」


は神田の名前を呼んで、その腕を掴んだ。
それを自分の肩にまわさせ、背負うように支える。
神田も素直にそれを受け入れた。
そして二人は一緒に階段を登り始めた。


しばらくしてから、がそっと口を開く。


「………………ねぇ、ひとつ訊いてもいい?」
「何だ」
「“見殺しにする”と言っていたのに、どうして神田は、あのとき私を庇ってくれたの?」


目が眩むような螺旋を辿りながらそう尋ねられて、神田は一瞬答えに詰まる。
その一番の理由はただ単に彼女に守りの借りを返したからだった。
それにアクマの毒に耐えられるのは、特殊な体の自分しかいない。
けれどそれだけのことをあの時に考えたかというと、正直には頷けない。
自分でもよくわからなかった。
だから思いつくままを口にする。


「声が」
「声?」
「声が聞こえた……。うるさいほど、お前の声が」


命懸けの願いが聞こえた。
が決して言わない、心からの祈り。
口にするのはひどく簡単だから、言葉にせずに心に誓った。




“死なないで”




ずっと、そんな願いが聞こえていたのだ。


「だから、俺は」


思わず同じことを願ってしまった。
考えるより先に、彼女の“死”を拒絶した。


本当はいつだって聞こえていた、強い強い想い。
の言葉。
うるせぇんだよ、お前の声。




心に響いて、消えない。




「……………………いや、声だけじゃないな。お前は存在そのものが不愉快なまでに強烈なんだよ」
「え。あれ?また暴言モード?」
「視界に入ると目がチカチカする。気配がしただけで落ち着かなくなる。テメェのせいで俺の日常はめちゃくちゃだ」
「ひ、ひどっ……、私は神田を笑わせようと必死に……!」
「けれどもう慣れた」


神田はそう言い切った自分に少なからず驚いた。
けれど本当のことだった。
他人を拒絶して生きてきた神田の目の前に、は何よりも鮮やかに躍り出てきたのだ。
世界は色を持ち、くだらない毎日が劇的に様子を変える。


「思い返すまでもなくさんざんだったな」
「ううっ、そんなに迷惑だったのか……」
「だから、勝手にいなくなるなよ」


神田は動くたびに走る痛みに耐えながら、囁いた。
そうすれば、支えてくれているの肩が震えた。
それをぎゅっと握って言う。


「もうこれ以上の変化はいらない。お前がかき乱した生活にやっと慣れたんだ。二度ともとに戻すんじゃねぇぞ。また順応するのが面倒くさい」
「……………………」
「くだらない信念を貫いて生きる馬鹿なお前は、どうせいつだって俺の視界の中にいるのだろう。だったら……」


神田はそっと唇を緩めた。
誰にもわからないように、気付かれないように、微笑みに近い表情を浮かべる。
触れた温もり。
自分とよく似た存在、同じ決意を胸に生きる人間。
こんな奴、初めて出会った。
強い想いを秘めた少女だ。
認めることが出来たのだから、きっと背をあずけることも出来るだろう。
彼女となら、一緒に戦えると思った。
だから。


「勝手に消えたりするなよ……」


神田は心の声を囁いた。
本当は知っていた。
は、どんなことがあっても目の前からいなくなったりしない。
同時に自分も彼女の世界から消えたりはしない。
それを事実として、疑いもなく信じることができた。


欲しかったものを手に入れた。
きっと神田もも求めていた。
強く確信して揺らがないもの。
“絶対に、自分の前から消えたりしない存在”。
同じ決意を交わした相手。
それはあの人とも、グローリアとも違う結果を選ぶ人間だった。


互いにその体温を感じながら、と神田は階段をのぼってゆく。
失った約束、千切れた小指。
けれどきっともう一度、結ぶことができるだろう。
二人なら。




落ちた影はひとつになって、決して消えない誓いを世界に刻み込んだのだった。










ヒロインと一番気が合うのは、実は神田なのでは……と思っています。
二人とも在り方というものが似ている気がするんですよね。
モロに野良猫タイプというか……。
しっかりと自分を持っていて、弱さを誰にも見せたがらない。
けれど本当に淋しいときは傍にいてくれるような。(絶対に傷を舐めてはくれませんが)
慰めるでもなく、ただ自分の力で立ち上がるのを隣で待っていてくれる……、そんなイメージがあります。
人懐っこいか、そうでないかの違いで全然似てない気もしますけどね!(笑)
まぁ、そんな彼らもようやく互いを戦友と認めた合ったようです。
この二人は“仲間”や“友人”というよりも、“同士”だと思います。
次回はこのまま突っ走りますよ!戦闘・流血描写にはご注意を。