視界は血に染まる。
意識は闇に消える。
絶望にまみれたこの戦場で、お前は何を糧としているのだろう。

破壊を舞い続けるその姿に一般論は語れない。







● 泡沫の祈り  EPISODE 3 ●







尖塔が天を貫くような、高い高い時計台。
は雨にも負けずに顔をあげてそれを仰ぎ見ていたが、突然頭を殴られて驚いた。
振り返れば仏頂面の神田がいる。
彼は冷ややかな視線をこちらに向けていた。
そのまま後頭部を掴まれて、無理にうつむかされる。


「上ばかり見てるな。そうやって今度は目に雨が入った、とか言って痛いと騒ぎ出すんだろう」


不機嫌な声でそう言われて、は瞬いた。


「そんなヘマは……」
「お前がどんな馬鹿な目に合おうが知ったことじゃないが、二度と急に泣き出すなよ」
「………………さっきのはがんばって日本語を喋ったからよ。舌ぐらい噛んでも仕方ないじゃない……。あー、アレは痛かった」
「そのまま噛み切ってくれれば少しは静かになったんだがな」


いまだにじんじんする舌を小さく出して呟くと、神田は氷の冷たさでそう返す。
何か怒っているような雰囲気だが、に身に覚えがないので首をひねるしかない。
とりあえず目に雨が入ったら確かにまた痛い思いをするなと思って、素直に従った。


「………………静かだね」


そう囁いたの声ですら、雨音にまぎれてすぐに消えてゆく。
眼前にそびえ建つ赤煉瓦の塔からは物音ひとつ聞こえてこない。
不気味な静けさに包まれたその空間を裂くように、神田が歩みを進めていった。


「中にアクマが居れば嫌でもうるさくなるだろう」


破砕された樫の大扉をさらに殴り壊して時計塔に侵入する。


「行くぞ」


促されては前方で揺れる黒髪を追い、地面を蹴った。
音を出さないように靴裏で静かに床を踏みしめながら駆ける。
時計塔の一階は石造りの回廊だった。
窓から差し込む昼の明るさに、埃が何かの飾りのように煌めいている。
漂う塵埃と立ち並ぶ石柱だけが走り抜けるエクソシストたちを見ていた。


回廊の果てがくると、神田は壁に背をつけて立ち止まった。
油断なく気配を探り、待ち伏せの様子はないことを知る。
振り返らずに手だけで“後ろに続け”とに合図をした。
曲がった角の先には樫の大扉があり、神田が『六幻』を抜刀する。
斬り壊すつもりなのだと推察して、は無言でその肩を掴んで止めた。
怪訝そうに振り返った彼に、唇の前で人差し指を立ててみせる。
それから一歩先に出ると己のイノセンスを発動させた。
いくつもの黒い光刃が一瞬にして対象を切り裂き、残骸どころか音すらなく扉板をこの世から消し去る。
それは完膚なきまでの破壊だった。


わずかに起こった風が埃を撒き散らし、開けた視界に塔の内部の広い石床が映る。
それを見た途端、は息を詰めた。
一面に飛び散った赤の色彩。
かび臭い匂いに混じって鼻を突く、この酸臭。
思わず駆け出すと背後で神田の舌打ちが聞こえた。


「これは……!」


は素早く瞳を巡らせた。
血の海となった空間を見渡す。
視界は赤ばかりだった。
そしてそれ以外、何もなかった。


「どういうこと……?」


その奇妙さに眉を寄せる。
この出血量は尋常ではない。
けれど伴っているはずの人影がひとつも見当たらないのだ。
一瞬嫌な想像をしてしまったが、それにしても肉片すらないのは不可解だった。


この赤の持ち主たちは、一体どこへ行った?


その時は凄まじい怖気に襲われた。
ぼたり、と液体が落ちてきての頬を濡らしたのだ。
拭って確認する前に、匂いでそれの正体を知る。
は血が滴ってきた方向を垂直に見上げた。


そうしてグローリアに感謝した。
このとき悲鳴をあげずに済んだのは、ひとえに師匠の訓練のおかげだった。
そうでなければは戦場で不様に叫んで、気持ちを砕かれてしまっただろう。


見上げた先に広がる、吹き抜けの時計台の内部。
縦横に走る柱や梁が複雑な影を落としている。
周囲の壁を巡る恐ろしく長い階段は、螺旋を描いて遥かなる高みまで続いていた。
そしてその空中楼閣に、幾重にも張り巡らされた白銀の糸を視認する。
同時にそれに巻き取られた、多くの探索隊ファインダーの体も。


まるで巨大な蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、血をこぼすいくつもの肉体が宙吊りにされていたのだ。


空中に広がった惨劇に、は悲鳴こそあげなかったが、肉を破るほど強く唇を噛み締めた。
歪に壊れた人形劇を見ているようだった。
吐き気にも似た感情が体の奥のほうからぐるりと這い上がってくる。
探索隊ファインダーたちの体には大きな傷跡がひとつあるだけで、それ以外の喪失は見当たらない。
彼らは重症を負わされて宙へと引き釣り上げられたまま、血液を流し続けることによって絶命させられたのだ。
は震える吐息を漏らした。
あまりにむごいその仕打ちに胸がつぶれそうなほどの憤りを感じる。
その時ふいに奇妙な声が響いた。


「おお、ようやく来たか。エクソシスト共」


はさらに視線を振り上げた。
縦横無尽に空間を走る白銀の糸の、そのさらに奥に、黒く蠢く巨体を発見する。


「待っていたぞ。我が宿敵」


十数本もある腕が糸を掻き分け、エクソシスト達の前にその姿を現した。
それはどう見ても異形だった。
一言で言うなら、毒蜘蛛だ。
鎧にも見える硬質な皮膚で外を固め、その頭部と背には赤い八つの目が光っている。
見上げると腹部に禍々しい文様が見えた。
顔には低レベルのアクマと同じような生気のない仮面が貼り付けられており、その表情が不自然に歪む。


「あまりに遅いから、ほれ、そんなに床が汚れてしまった」
「……っ、アクマ!!」


いまだに降り続ける赤の上に立ったは、苛烈な瞳で毒蜘蛛を睨み付けた。
アクマは愉快そうに笑って、傍に吊るされた探索隊ファインダーを指し示す。


「おお、おお、もしかして怒っているのか?なぁに、こんなクズ共など汝らから奪うつもりはないよ」


そうしてにぃと吊り上げた唇で、耳障りな奇声をあげる。


「イノセンスがあるやもと思って来てみれば、どうやらここはハズレのようでな。仕方なく目の前に居たこやつらを殺してみただけだ」


その言い分には強く奥歯を噛み締めた。
アクマの言葉にあるのは純粋な欲望と、殺人衝動だけだった。
毒蜘蛛はの表情を満足そうに眺めて、八つの眼球を細める。


「さぁ返してやろう。大切な仲間なんだろう、きちんと受け取れ!!」


叫びながらアクマは鋭利な爪をひとりの探索隊ファインダーに引っ掛けると、捕らえていた糸から引きちぎる。
そして大きく振りかぶり、その体をに向けて投げつけてきた。
かなりの高さだ、このまま落ちれば間違いなく肉体が潰れてしまう。
は床を蹴った。
同時に神田の怒声が聞こえた。


「放っておけ!どうせ死体だ!!」


その時にはもう、探索隊ファインダーの体を抱いていた。
イノセンスの能力で空気を切り裂き、足裏に爆発を引き起こして空中を蹴る。
何度かそれを繰り返して衝撃を和らげると同時に、毒蜘蛛が放ってくる糸を避ける。
地上に着地したが、さすがに大の大人を支えきれずに転倒した。
床に溜まっていた血が赤い飛沫をあげる。
けれど痛みを確認するより早く黒光の盾、『守葬』を発動させた。
体勢を崩したところを予想通りにアクマが攻撃してきたからだ。
振りかざされる鋭い爪が、光を紡いで創られた防御壁に弾かれる。
そして第二撃目は横から飛び出してきた神田の『六幻』に受け止められた。
神田は視線だけで振り返って怒鳴った。


「この馬鹿が!罠だとわかっていたんだろう!!」
「でもこの人はまだ生きている!!」


アクマに体を投げつけられる一瞬前。
探索隊ファインダーの指先がわずかに動くのをは見たのだ。
血だまりに手をついて身を起こし、抱きとめた体を横たわらせる。
『六幻』を振るいながら神田は容赦なく告げた。


「出血量を見ろ!そいつはもう助からない!!」


そんなことはだってわかっていた。
けれど仲間の肉体が無惨に潰されるのを黙って見ていられるわけもなかった。
助からないにしても、せめて安らかな最期を願わずにはいられなかったのだ。
は唇を噛み締めると、床に寝かせた探索隊ファインダーの手を労わるように握った。
薄っすらと開かれた瞳を覗き込む。
弱々しい光を宿したそれを、強く見つめ返す。
探索隊ファインダーの口唇が微かに動いた。


「ア、アクマ、は……?」


は即座に答えた。


「大丈夫。私達が必ず破壊する」


違える気など少しも含ませずにそう告げると、探索隊ファインダーはわずかに微笑んだ。
安堵にも似たその表情。
そして何かを言おうとしたが声にならない。
は床に手をついて、その口元に耳を寄せた。


「き……っ、来てく、れて、ぁ、ありがとう…………」


そして彼は最期に、きっと大切な人のものだろう、誰かの名前を呼んだ。
は思わずその団服を掴み、引き起こそうとした。
けれど息を詰めて動きを止める。
自分は彼の安息を願い、罠だとわかっていながら飛び出したのだ。
ならばその眠りを妨げることはできなかった。
静かに体を床に戻し、光を失った双眸を閉じさせてやる。


「こちらこそ、待っていてくれてありがとう。………………っ、ごめんなさい」


助けることができなかった。
出血量から考えて、達が連絡を受けたころにはすでに致命傷を負わされ、宙ずりにされていたのだろう。
どんなに急いでも間に合わなかったのはわかっている。
けれど、それでも。
は固く拳を握り締めると、その場に立ち上がった。
髪から滴る血を乱暴に拭う。


そして『守葬』越しに、全ての悲劇を睨みつけた。
燃え盛る怒りの炎をその金の瞳に宿らせて。













(バカ女には付き合いきれない)


神田は舌打ちと共に胸中でそう吐き捨てた。
まったく目眩のするような甘さだった。
死体同然の者のために自ら危険に飛び込むなんて、気が違っているとしか思えない。
確かに彼女は探索隊の体を受け止め、続く攻撃も自分ひとりで退けてみせたが、それにしても無茶としか言いようがなかった。
視界の隅で見た、血だまりに倒れたの姿。
あんなに赤にまみれては、しばらく血臭が取れないだろうに。
それすらも背負って彼女は戦場を駆けるというのか。


(いつ壊れるか、わかったものじゃないな)


神田はそう考えながら強く床を蹴って跳び上がった。
と協力する気はもとよりない。
彼女のやり方は性に合わないし、互いに好きに動くと言った。
だから神田は『六幻』を振りかぶると、毒蜘蛛に向けて鋭く打ち下ろす。


「何だ、男の方が先に来たか」


アクマはその巨体に似合わない俊敏な動きで刀を避けた。
神田は階ごとに設けられている回廊に着地する。
振り返れば毒蜘蛛が残念そうにこちらを見ていた。


「私はの子のほうを先に殺したかったのだがな」
「……………………」
「男はもう殺し飽きた。あやつらときたら体は固く、声は耳障り。本当に不快だ」
「……知るかよ」
「女ならば肉も柔らかいし、悲鳴も心地良かろうに」
「ハッ、くらだねぇな」
「何だ。解せぬか?」
「勝手に言ってろ」
「餓鬼め」


会話など意味のないことは早々に切り上げて、神田はまた足場を蹴った。
アクマの眼前に飛び出し、『六幻』を旋回させる。
空を切り裂いて毒蜘蛛の体へと叩き込んだ。
アクマはそれを足の一本で防御したが、防ぎきれずに切断され、異形のそれが宙を舞う。
黒い血が迸り、神田の刀と胸元を汚した。


「動くのは口だけか」


神田は吐き捨てるようにそう言って、さらに『六幻』を振るった。
斬撃を迸らせ、刀を下から跳ね上がる。
息をつく暇もなく手を翻し、水平に斬り裂き、突きをあびせ、足元へと落とす。
その間に10もの足が毒蜘蛛から千切れ飛んだ。
刀身は嵐の激しさで荒れ狂い、瞬く間にアクマを血で染めたのだ。


「ほぅ。なかなか……」
「黙れ」


アクマが己の血液にまみれながらも感心したように呟いたから、神田は刃の鋭さで遮った。
同時にアクマの足を3本まとめて斬り伏せる。


「テメェの声こそ耳障りだ」


神田はぶんっ、と『六幻』を振って付着した血を払うと、その刀身に手を沿えて水平に構えた。


「これ以上俺の精神状態を乱すんじゃねぇよ」
「おやおや、随分と短気な男だ」
「消えろ」


短くそう告げて、神田は破壊の一撃を毒蜘蛛に向けて打ち放った。
その時。
突如として失われたアクマの数十もの足が、その切断面から波打つように生えてきた。
その完璧なまでの再生に神田は目を見張る。
わずかな時間もなく毒蜘蛛の足がうねり、鞭のようにしなって襲い掛かってくる。
神田は舌打ちをして『六幻』の刀身でそれを受けたが、いくつかの爪が団服を引き裂いた。
その下の皮膚から血が流れるのを感じて、さらなる追撃をかわしながら、間合いを取るべく後退する。
しかし足の一本が神田の脚に巻きつき、その動きを妨害した。
すぐさま斬り裂いたが、体勢を崩して空中に張り巡らされた蜘蛛の巣への着地を余儀なくされる。
アクマは癇に障る高い声で笑った。


「そぅら捕らえた。汝はもう逃げられない」
「…………!?」


神田は不快気に眉をひそめてアクマの言葉を聞いていたが、不意に瞠目した。
足場にした糸が急にたわみ、片足が沈み込んだからだ。
即座に引き抜こうとしたが、糸は意思をもっているかのように神田の脚を這い上がってくる。
このまま巻き取り動きを封じる気か。
神田は『六幻』を振り上げた。
足元の糸を切断するが妙に粘着力があって、気持ちが悪い。
刀身に付着したそれが腕の方まで侵し始めた。
アクマの笑い声はいまだに続いている。


「抵抗しても無駄だ。足掻けば足掻くほど糸は絡まる。断ち切ることなど…………」


その言葉は突然に消えた。
そして響き渡る苦悶の咆哮。
血が飛び散り神田の足元近くまでを汚した。
アクマは激痛にもがきながら赤の滴る目を押さえていた。
残りの足を振り回して塔の壁や石柱を破壊する。
同時に神田の周囲で黒い閃光が瞬き、一瞬にしてその体を拘束していた白銀を無に還した。
存在そのものを根本から消し去ってしまえば、武器などを伝って糸が這い上がってくる危険はない。
さらに彼女が操るのは飛翔する光の刃。
体や得物の一部が直接糸に触れることはないのだ。
神田はその機を逃さず大きく後退して蜘蛛の巣の上から逃れた。
そして視線を巡らせる。
向かいの回廊に金髪の少女が立っていた。
彼女に潰された4つの眼球を押さえながらアクマが呻く。


「おのれ……!」
「やはり目は再生できないようね」


はアクマを見下ろしてそう言った。
神田は微かに眉を寄せた。
その口調が普段の彼女からは想像できないような、硬質なものだったからだ。
は固い声音のまま続ける。


「さすが蜘蛛に似た姿をしているだけはある。何本もの足を自切するなんて」


自切とは節足動物などに見られる、危険に対して自らの体の一部を切り離し、後に再生することである。
はアクマが神田に切断された足を瞬時に生やしたことを指して、そう言っているのだ。


「けれどその他の器官はそうはいかない。眼球、腹部、そして頭部を破壊されれば、再生はできないはずよ」
「………………っ、はははははは!男の方だけかと思えば、の子の方も随分と冷徹だな」
「…………悪いけれど、破壊だけが私にできる精一杯の厚情」


はわずかに瞳を細めた。


「囚われた魂を開放して、死んでいった仲間達の手向けにさせてもらう」


少しも表情を動かさずには凛然と告げた。
その姿は髪も顔も服も他人の血で汚しているにも関わらず、空恐ろしくなるほど美しかった。
口調や態度こそ静かなものの、その底に迸る闘志は凄まじい。
倒すべき相手をじっと見据える様子は、黄金の獣のようだった。
怒っているのだと神田は思った。
は怒っている。
街を襲い、人々を死なせ、探索隊ファインダーにむごい仕打ちをしたアクマに対して、胸の内に高熱の炎を燃やしているのだ。


「………………なるほど、良い目をする。やはりの子から殺そうか。いやいや男の方もそれなりに面白い」


アクマはくつくつと喉の奥で言うと、唐突に跳び上がった。
神田とのいる位置から数階高い回廊、時計塔の真ん中辺りに着地し、そこに再び糸を張り巡らせる。
瞬く間に広がる白銀の巣の向こうで毒蜘蛛は嗤った。


「さぁここから見学してやろう。真紅の血をぶちまけ、心地良い悲鳴を聞かせておくれ!!」


その声を合図にするように闇に染まっていた時計塔の最高部からアクマ達が降るように湧いて出てきた。
レベル1から数十体。
上はどこまでいるかわからない。
空中を埋めつくほどのアクマの大群に、神田は舌打ちをした。
は一度自分の掌に視線をやった。
そこにこびりついた赤、命の色。
血の跡をきつく握り締める。


そして二人は同時に跳躍した。













耳元をかすめるミサイルの唸り声を聞きながら、石柱を盾にして回避、続く攻撃をかわしながら走る。
迫り来る弾頭の間をすり抜け、神田は回廊から飛び出した。
『六幻』を振るい三体のアクマを斬り伏せ、振り向きざまに一文字の斬撃をもう五体に刻み込む。
その起動上にあった照明が砕かれ下方へと落ちていった。
石床に辿り着き、そこに溜まっていた血を跳ねさせる音がする。
破壊したアクマの爆煙の向こうから、今度は十数の影が一斉に躍りかかってきた。
神田は空中で体勢を立て直すと、『六幻』を水平に構えた。
そしてイノセンスを発動させる。


「六幻、災厄招来!」


神田は刀身を横一線に振り抜いた。


界蟲、『一幻』!!


『六幻』から飛び出す、青白い光を帯びた剣気。
それはいくつもの眼球を持つ、奇妙な蟲たちの連なりだった。
一幻は鼓膜に響く声をあげながらアクマたちに襲い掛かってゆく。
具現化した斬撃が空間を駆け抜けて、次々と敵を貫いた。
ボディに潜り込み、食い破り、その存在を破壊する。
神田はさらに上空のアクマを討とうと視線を振り上げた。
そこに金髪を発見する。
は二階分上の回廊を疾風となって駆けていた。
引き寄せられるようにアクマが接近し、空間を黒い煌めきが飛び交う。
吊り下げられていた燭台と共にアクマは一瞬で解体され、破片すら残さす消失した。
が間髪入れずに躍り出ると、アクマ達は彼女に向けて一斉にミサイルを撃ち放った。
その球体に備え付けられた大砲の筒がピタリと死の照準を合わせ、憎悪の塊のような弾丸が嵐の激しさでを襲撃する。
凄まじい集中砲火だ。
塔全体が揺れたように感じるほどの振動と轟音。
けれど神田は冷静にそれを見ていた。
爆煙の向こうで漆黒のスカートが翻る。
はまるで踊るように宙を舞っていた。
放たれるミサイルの旋回動作で回避し、空中へと駆ける。
重力に従って落ちゆく体を、足裏で引き起こした爆発でもって上昇させ、さらなる攻撃もかわして見せた。
そして梁の上に身軽に着地すると、胸元に手をかざす。
ロザリオの黒玉が光を放ち、イノセンスの開放を世界に知らせた。


黒死葬送こくしそうそう、空の儀」


天葬てんそう閃光墜せんこうつい』!!


目が眩むほど強い光が天を貫き、大気を震わせながら地に落ちた。
空が砕け散ったように硬質な音が響き渡る。
放射される輝く柱の群れ。
鋭く研ぎ澄まされた黒光の円錐が、より下方にいたアクマを全て貫き滅ぼした。
この世で一番鋭利な雨が対象空間の敵を完全に破砕したのだ。
神田はが技を発動する寸前で回廊の中に身を引いたから無事だったものの、目と鼻の先にある手すりは霧となってこの世から消えていた。
相変わらず殺傷能力に溢れたイノセンスだと思う。
神田の知るどんな対アクマ武器よりも破壊力に特化している。
武器の形が定まらない光の刃というところがまた、相手の対応を妨げるという利点になっていた。
千年伯爵やノア達があの娘をつけ狙うのも頷けるというものだ。


(今はどうでもいいことだがな)


胸中でそう呟いて、神田は跳んだ。
階ごとの回廊を足場にどんどん上へとあがって行く。
豪雨のように降り注ぐミサイルを前に、が隣に来て黒光の盾を展開した。
『守葬』が神田をも包み弾丸を防ぐ。
爆煙が晴れる前に神田はその盾を足場にして跳躍した。
そしてそこにいたアクマの群れを、横薙ぎの一線で破壊する。
開かれた視界、その後ろに潜んでいたアクマ達は、背後から飛来したの光刃に切り刻まれた。
アクマを一掃しながら共に上を目指すに、神田はちらりと視線をやった。
確かに足手まといにはならないようだ。
それどころか単独でも協力でも攻撃に無駄がなく、見事な動きだと言っていい。
今までの経験上、自分に合わせて戦える者はいないと思っていたのだが。(こちらから合わせる気は毛頭ない)
感情に任せて突っ走ると思っていた神田は、半ば感心にも近い感情を抱いていた。
怒りに流されては隙ができる。
それではアクマを破壊することはできない。
もし邪魔になるようだったら蹴り落としてやろうと考えていたのだが、その必要はなさそうだ。
神田が残りのアクマをまとめて叩き斬ると、右上空で猛烈な光が輝いた。
敵を破壊した爆風に乗って、は一気に毒蜘蛛のところまで跳び上がる。


「高みの見物は終わりよ」


金の瞳を光らせて、彼女は言い放った。


「今すぐ引きずり下ろしてあげる!」


その途端、漆黒の流星が空間を駆けた。
刃を圧縮して破壊力を高めた閃光だ。
それは大気すらも引きちぎる速さで飛翔し、毒蜘蛛の傍を固めていたアクマ達を次々と破壊した。
同時に周囲に這い巡らされた糸を切断する。
白銀は漆黒に断ち切られ、蜘蛛の巣が瓦解した。
足場を失い、くうをかいた巨大なアクマに、下方から神田が斬りかかる。
振るわれた『六幻』を毒蜘蛛はその鋭利な爪で受け止めた。
衝撃に甲高い音が響き、火花を散らす。
弾かれた互いの刃が翻って、互いの顔面を狙い放たれ、また組み合う。
神田は『六幻』を開放することで剣気を具現化させ、交差したアクマの足に数え切れないほどの裂傷を走らせた。
衝撃に蠢く巨体。
アクマは5本の足で神田の『六幻』を押さえたまま、残りの足を振り上げた。
そしてその爪で黒髪のエクソシストに死を与えようと旋回させる。
しかしそれらはの放った光刃に根元から切断され、狙いを果たすことなく宙に舞った。
すぐには再生できないほどの深手だ。
血が飛び散らなかったのは、あまりに鋭く、そして素早い刃に切り裂かれたせいか。
神田がさらにそのボディに『六幻』を突き入れる。
毒蜘蛛の腹部に刀身が埋まり、手首を回して引き裂く。
アクマは一瞬妙な動きを見せて、渾身の力で神田を弾き飛ばした。
神田は衝撃を殺すために自ら後退し、身をひねって回廊へと着地する。
向かいにあるそこにも降り立ったところだった。
アクマの巨体は少し下の階段に落ち、大きな穴を穿った。
石柱の影に隠れてよく見えないが、恐らくもう動いてはいない。


「終わりだな」


完璧なる破壊のために神田は跳躍し、鋭い斬撃をアクマに叩き込んだ。
毒蜘蛛は真っ二つに斬り裂かれる。
これで任務も完了だと、内心吐息をついた。


そこで神田はふと眉を寄せた。
妙な手ごたえを感じたのだ。
刀身が、やけに軽い。
アクマの右半分が傾いで、ずるりと滑り、階段の下へと落ちてゆく。
影から光に晒されたそれを見て、が息を呑んだ。


「中身がない……!?」


露出された断面図。
その内側は空洞になっており、虚ろな色を見せていた。
そこにあったのはアクマの外側、分厚い皮膚だけ。


神田が斬ったのは巨大な蜘蛛の抜け殻だったのだ。


「おぉ、残念。糸が切れてしまった」


頭上からそんな声が聞こえてきた。
エクソシスト達が振り仰げば、遥か高みから何かが降りてくる。
闇から姿を現したのは太い糸に釣り下がったアクマ、毒蜘蛛の本体だった。
その足に微かに煌めく細い糸が絡んでいる。
ほとんど不可視のそれは、たった今斬り裂いた抜け殻、その幾本もの足へと繋がっていたようだった。
神田は事態を正確に悟って舌打ちをする。


「糸で自分の抜け殻を操っていやがったのか……!」


この毒蜘蛛は己の抜け殻に糸を吊るし、それをあたかも操り人形のように操作していたというわけだ。
いつ入れ替わったかはわからないが、に潰された眼球はそのままだから、恐らくふたつ目の巣を張り巡らせた時だろう。
自分達が偽者と戦わされていたことを知り、神田の双眸が怒りに燃える。


「ふざけやがってッ!!」


このままにしておくことはプライドが許さなかった。
アクマ如きの掌の上で踊らされた屈辱は、晴らさなければならない。
神田は強く足場を蹴って跳んだ。
けれど待ち構えていたようにアクマはにやりと笑った。


「よしよし、まずは汝からか。さぁ悲鳴をあげてみろ!!」


言葉と同時に吐き出される白銀の群れ。
毒蜘蛛の放つ糸だ。
それは柱のような太さの束になって、神田に襲い掛かった。
空中では避けることができないから、舌打ちをして『六幻』を構える。


「無に還れ!!」


刀身を降りぬき、一幻を放つ。
召喚された蟲たちは迫り来る白銀に、真っ直ぐに突っ込んでいった。
互いがぶつかり合い、光が炸裂する。
そこで神田は目を見張った。
一幻が悲鳴に似た奇声をあげたからだ。
蟲たちは糸の束を切り裂いたが、それに触れた瞬間、ボロボロと崩れ出したのである。
腐り落ちるようにしてその存在が消失してゆく。
朽ち果てた一幻を飲み込んで、白銀の一端が神田の片腕を捕らえた。


「ぐ……っ」


途端に走った激痛に顔を歪める。
嫌な臭気が立ち込めた空間に、の声が響いた。


「神田!」


神田は『六幻』を振り上げて糸を断ち切った。
その途端に断面から液体がこぼれ、嫌な臭いを放つ。
いまだに絡みついてくるそれをの光刃が完全に消し去ってくれた。


(くそ……っ)


神田は胸の中で悪態を吐き出して、糸の纏わりついていた左腕に視線をやった。
団服を破り、露出した腕。
のぞいた皮膚が、見るも無惨に焼け爛れていた。
人肉が蒸発する悪臭に息が詰まる。
一幻で威力を減らしたからこの程度ですんだものの、まともに食らっていたら全身が溶かされていたかもしれない。


「酸の糸か……」


神田が呟くとアクマが嗤った。


「そうだよ、そうだ。蜘蛛のようにただの糸だけを吐くと思ったら大違い。私はアクマだ。様々な効果のある糸を吐き出せる」


そこでアクマはひどく残酷な表情を見せた。
口が耳まで裂け、尖った歯をむき出しにして微笑む。


「さぁ、どうやって殺して欲しい?酸を含んだ糸に抱擁され、骨の髄まで溶かされてみるか?それとも毒を含んだ糸に貫かれて、苦しみに呻きながら朽ち果ててみるか?」
「ハッ、どれもごめんだ」
「だったらよかろう!私が決めてやる!!」


アクマは吠えるようにそう言うと、再び膨大な糸の束を吐き出した。
神田は跳躍して回避したが、白銀の群れは意思を持っているように起動を変え、跡を追ってくる。
糸から飛び散った液体が時計塔を形作る石を溶かし、瞬く間に腐敗させた。


(逃げ切れない、か)


神田は冷静にそう判断すると、回廊に降り立ち背後を振り返る。
そして『六幻』を構えた。
恐らく神田の技では糸の束の威力を軽減させられても、完璧には防ぎきれない。
それならば本体、毒蜘蛛自身を叩くしかなかった。
白銀を斬り裂けるだけ斬り裂き、肌を焼かれながらも奴の元へと突っ込むしか方法はないのだ。
ほとんど捨て身の策だが、神田には恐れなどなかった。
特殊な体を持っている強みもあるが、基本的に死への恐怖はない。
何故なら絶対に死なないと誓っているからだ。
訪れることなどない結末を、どうやって怖がればいいのだろう。
神田は口元に薄い笑みを浮かべた。


「来いよ、害虫!!」


吐き捨てた皮肉に反応したように、唸り声をあげながら白銀が迫ってきた。
猛烈なスピードで空を駆け、神田へと襲い掛かる。
神田は『六幻』をかざした。
そしてイノセンスを開放した、その時。


視界の中を金髪が舞った。


空中で回転し、神田の眼前に降り立ったが、そこで黒光の盾を発動させたのだ。
二人は六つの宝石を模した壁に覆われ、そのまま白銀の濁流に飲み込まれた。
『守葬』の向こう、視界の全てが一色に塗りつぶされる。
そのあまりの威力に、盾を生成するの足が地面をこすって後退した。
神田は目を見張ったまま叫んだ。


「お前……!どうして出てきた!?」
「神田がドロドロに溶かされる姿を見たくなかったからよ!!」


返事も叫ぶように返される。
視線だけで振り返った彼女の瞳は微笑んでいた。


「特にその髪の毛は絶対に死守するべきだと思うんだよね。私の憧れだってわかってる?このキューティクル星人が」
「そんなこと言っている場合か!ここからどうするつもりだ!!」


神田は声に苛立ちを込めて怒鳴った。
この女は何を考えているのだ。
自分ひとりならともかく、二人でこんな風に糸の波に飲み込まれてしまっては、対応のしようがないではないか。
あらかじめ己の特殊な体のことを話しておくべきだったと、神田は思った。
この身は酸に焼かれても平気なのだと。
そのまま毒蜘蛛のところまで突っ込んで行くことだってできるのだと。
それさえ告げていれば、もこんな無茶はしなかっただろうに。
けれど彼女は言った。


「ここからどうするのかって?そんなの決まっているじゃない。強行突破よ!」


普段どおりの口調。
けれど、真剣そのものの声。


「私がこの糸を全て消し去る。アクマところまで、道を開いてみせるよ」


内容が内容だが、冗談を言っているようには聞こえなかった。
神田は低く訊く。


「……………できるのか?」
「できる。と言うか、やってみせる」
「何も考えずに飛び込んできたわけではないんだな」
「具体的な方策も出さずに“守る”だなんて言えるわけがないでしょ」


ごく当たり前のことのようには告げて、話を続けた。


「私がこの糸を散らすから、神田はアクマのところまで飛んで」
「……………………」
「後ろから援護する。あなたに迫る脅威はすべて叩き落としてみせるよ」


そのとき襲い掛かってくる糸の威力が増して、は言葉を途切らせた。
『守葬』にかざされた両腕がぎりぎりと押されている。
わずかに黒光がほころび始め、生じた隙間から酸の液が進入し、の肌を焼いた。
団服から爛れた皮膚が覗く。
微かによろめいたその背を神田は片腕で支えてやった。


「おい、お前……」
「この盾も長くはもたない。……でも、このまま負けるなんて冗談じゃないでしょ?」
「…………、ああ」
「じゃあ一発ハデにやりますか!」


は斜め上にある神田を見て、強気な笑みを見せた。
神田は答えなかった。
代わりに支えていた彼女の背を強く押した。
の唇に浮かんだ微笑が深くなる。


そして彼女はイノセンスを解放した。
キィン……!と耳鳴りのような音が響き、『守葬』の外側に、それと同じような盾が幾重にも重なって出現した。
糸の激流は押し返され、黒光の壁が現れるごとに飛び散り、消失する。
『守葬』が五重に張り巡らせたとき、神田はの背中が震えていることに気がついた。
これだけ膨大な力を使えば当然だろう。
彼女の神経が灼かれてゆく様が見えるようだった。
ただ無言でその細い肩を支えてやる。
は声を張った。


「奔れ黒光!悪意の糸を断ち切り、白銀に逆巻け!!」


溢れる漆黒の光が爆発した。
重なった盾が一気に弾け、噴きあがる。
守りがその本質を変える。
光が乱舞し、刃と化して縦横無尽に荒れ狂った。
漆黒の本流が白銀の本流を真っ二つにし、その存在を消し飛ばす。
神田はその時すでに空を駆けていた。
飛び散る直前で一番奥にあった『守葬』を蹴りつけ、飛翔。
によって開かれた道をひたすらに飛ぶ。
神田が手を離せばは倒れるかと思ったが、背後でその気配はない。
けれど飛び出す元気はないのだろう、代わりに鳥か蝶の群れのような燐光が、いまだ迸る糸を切り裂いて、神田を守ってくれた。
神田は白銀など気にせずに漆黒だけを信じて、『六幻』を開放した。


「六幻、災厄招来」


“二幻刀”


右手の本体が輝きを増し、左手へとそれを渡す。
光を織るようにして出現する、もう一本の刀。
青白い剣気を纏った二刀流がそこに誕生した。
アクマの姿が近くなる。
迫り来る神田に狂ったように糸を吐くが、それらはすべての光刃によって叩き落された。
確かにあの時ひとりで突っ込むよりも、効率的であったと言える。
神田はそう思いながら『六幻』を構えた。


『二幻、八花螳螂』!!


振り抜いた刀身から斬撃が迸った。
輝きを放ちながらアクマを襲撃、そのボディに破壊を刻み込む。
花びらが咲き開くように、八つの傷跡が鮮やかに浮かび上がった。
毒蜘蛛の絶叫が響き渡る。
しかし、


(チッ……、やはり一撃では倒れないか)


神田は舌打ちをしながら思考した。
先刻斬ったアクマの抜け殻。
中身がないにも関わらず、ひどく硬かったことを思い出す。
本体となればなおさらだろう。
どうやら再生できない頭部や腹部はどこまでも頑丈に出来ているらしい。
さらに言えば神田の負傷した左腕、足場のない空中からの攻撃では威力が軽減されてしまう。
統一性のない動きで襲い掛かってくる糸の群れを、の刃の群れが迎え撃つ。
神田はアクマを飛び越え回廊に降り立ち、第二撃目を放とうと身構えた。
しかしそこで瞠目した。
の金の瞳がこちらを見ていた。
彼女の黒光はいまだに周囲を舞い、襲い掛かってくる糸から神田を守ってくれている。
だから気が付かなかったのだろう。
ほとんど不可視の細い糸がぐるりと回り、背後から自分を狙っていることに。
を守る盾はもうなかった。
そんな余裕がないのだ。
彼女は今も光刃をこちらに放ち、操り続けているのだから。


(あの馬鹿……っ、俺のことばかり守っているから!)


神田はに向けて叫んだ。


「跳べ!!」


鋭い裂帛の声に、は弾かれたようにその場から跳ねた。
同時に寸前まで立っていた床が、背後から忍び寄っていた糸に破壊される。
可視になった白銀の大群がを襲撃した。
アクマの狂ったような笑い声が木霊する。
その巨体は三度張り巡らせた蜘蛛の巣へと後退し、赤い目で神田を睨みつけていた。


「っ、ははははははははははは!よくもやってくれたな、返礼だ!汝を守護するの子を、その目の前で殺してやろう!あの金の髪も目も、顔も!ドロドロに溶かしつくしてやる!!」


神田へのあてつけに、攻撃を援護するから先に始末しようというわけか。
そう悟って神田は舌打ちをした。


(クソ……ッ、害虫のくせに頭がまわりやがる!)


アクマはの守護下にある神田ではなく、守りの薄くなっているその術主を狙ったのだ。
その方が効率的であるし、それさえ叶えば、攻撃を放つ神田だって始末しやすくなる。
神田は視線を巡らせた。
その先での展開した黒光の防御壁が盾になる前に破られる。
弾き飛ばされた彼女の体が空中でくるりと側転、壁の上に横向きに着地した。
けれどそこから跳躍する前に、上空から奔って来た糸が肩に食い込み、白銀の尾を引きながら2階分下の回廊へと落ちていく。
はそれに抗いながらも、いまだに金の瞳を神田に向けていた。
有視界になければ光の刃を操ることができないからだ。
こんなときでもはまだ、神田の身を守っていたのである。


「………………っ、のバカ女!!」


神田は腹の底から怒鳴ると回廊から飛び出した。
自分に向かってくるその姿に、が目を見張る。
その華奢な腕に絡みついた糸を『六幻』で斬り裂き、しっかりと手を掴んだ。
二人で落下しながらが呟く。


「神田……、何で」
「いいから自分の身だけを守ってろ!!」


神田はの肩に纏わり付いた糸を素手で剥がし取った。
酸に触れて掌が焼け爛れたが、今はどうだっていい。
さらに追ってくる糸の大群を『六幻』で受ける。
の放った光刃も手伝ってそれを迎撃し、下方の回廊へと着地する。
その際神田は片腕での体を抱きこんだ。
彼女の右脚が酸の糸にやられていたからだ。
そしてアクマの哄笑を聞く。


「二人まとめて苦しみ悶えながら死ぬがよい!!」


神田は視線を振り上げた。
すぐそこまで白銀の糸が迫っていた。
着地の瞬間を狙われていたか。
けれどそれを考えるより先に、神田は糸から迸る悪意の液体に目を見張った。
今までと違う悪臭。
空間に散る、黒い霧。
これは…………………………、


(毒!!)


そう判断したのは一瞬。
その時にはもう神田は力の限りでを突き飛ばしていた。
回廊に転がる彼女の華奢な体。


そして黒光の防御壁が砕け散る。


素晴らしい反射神経で生成していたの盾も、やはり不完全だったのだ。
襲い掛かる毒牙を止めることは叶わず、硬質な音を立てて破砕された。
宙を舞ったその欠片の上に咲く、赤い花。
鮮血が噴き出し、神田の、そしての視界を染めた。


貫かれたのは神田の左肩。
肉を破って、心臓に限りなく近い胸の辺りまで食い込む。
その他にも四肢や脇腹などを数箇所、皮膚を裂いて壁へと突き刺さる。


神田は激痛に見開かれた瞳をゆっくりと細めた。
舞い上がった黒髪がぱさりと胸元に落ちる。
視界の隅に、がいた。
限界まで開いた目で自分を見ていた。
その顔に広がった恐慌から彼女の心情を察して、神田はそっと思う。


違う。
これはお前のせいじゃない。
お前がいなければ、この程度ではすまなかっただろう。
そのロザリオから放たれた盾が、不完全ながらも俺を守ってくれた。
軌道はずらされ、致命傷にはなっていない。


そこで神田は口から血を吐いた。
が悲鳴のようにその名前を呼んだ。


神田は大丈夫だ、と言ったつもりだったが、うまく声にならなかった。
それは嘘ではなかった。
防ぎ切ることできなくても、の防御壁には確実に救われている。
そしてこの痛みを受けるのは神田でなければいけなかった。
を追い詰めた原因が、神田を守るためだったからではない。
そんなのはが申し出たことだから、責任は彼女が取るべきだ。
ただは普通の人間だから、この攻撃を受ければ死んでしまう。
例え糸自体が致命傷にならなくても、毒を含んだこれを彼女の肉体に刻ませるわけにはいかなかったのだ。


神田は血の混じる吐息を吐き出して、壁に磔にしてくる糸を断ち切った。
そして次の瞬間には完全に自由になっていた。
側面から飛来した黒い閃光が、神田を捕らえる全ての白銀を消し去ったのだ。
それでも支えだったそれを失って、神田は血の跡を引きながら壁面を滑った。
とても遠くで、しかし本当はとても近くで、の怒声が聞こえる。
今までギリギリのところで押さえ込んでいた彼女の怒りが、一気に爆発したのだ。
視界の中を再び金髪が舞った。
白い炎のような激情を放つ人影が、アクマに向けて駆けて行く。


ああ、どうして。
神田は思った。
激痛と毒に侵されてゆく意識の中で、それだけを思った。


(見殺しにすると言ったのに……)


今になってから考えることはいろいろあった。
その結果、この行動に後悔はなかったと言える。
けれどそんなのはすべて後付けだった。
咄嗟のことだったとか、先刻の守りの借りを返しただけだとか、毒に耐えられるのは自分しかいないとか、ただそれだけで。


(どうして俺は)


それだけじゃ、なくて。


(躊躇いもなくお前を庇ったのだろう……)


答えられる者など誰もいないことを神田は知っていた。
アクマの苦痛の絶叫と、怒りに燃えるの声が聞こえる。
うるさい。
どんなに怖くても辛くても声をあげなかったお前が、そんな簡単に感情を叫ぶなよ。
耳障りで仕方がなかった。


(ああ、やっぱり俺はお前が嫌いだ)


そう胸中で吐き捨てたところで、神田の意識は黒に消えた。
最後に囁いた言葉は、彼女に向けての皮肉だった。


(いつだって俺の調子を狂わせる、お前が大嫌いだ…………、バカ女)


罵り言葉はに届くことなく、闇の底へと落ちていった。










神田がえらいことになったところで、次回に続きます。
バトルシーンは毎度のことながらしんどかったです……。(涙)
ところで今回の話で困ったことがありました。
それは神田の『二幻、八花螳螂』って技です。
私のPCでは正しい漢字が出ませんでした。書くときものすごく困りましたよ〜。
部分的に公式と漢字が違いますがご了承ください。(平伏)
ところで神田はこの技の漢字を知っていて使っているのだろうか……。ちょっと気になりますね!^^
次回は血まみれのぶつかり合いです。もれなく流血注意報です。