毒薬も使わず胸を苦しめ、無傷のハートを真っ赤に染める。
彼女は無自覚殺人犯。
その気もないのに殺された!
● 迷子の告白 後編 ●
「今日で何日目だっけ?」
隣を歩くラビが訊いた。
アレンはそちらを見もせず短く即答。
「10日目」
どうせラビは覚えているくせに質問してきたのだから、余計なことは言わない。
無視すればうるさいから返しただけだ。
けれどそれはそれで面倒なことになった。
「へぇ、覚えてるんか。そんなにすぐに答えられるなんて、まさかカレンダーで数えてた?」
「……ラビってが絡むとやけに突っかかってきますよね。何なんですか?返答によってはお花畑に追放しますよ?」
「殺る気か!?いいぜ、受けて立つ!オレだって親友のためなら……っ」
「うん?」
「………………………………スンマセンでした」
アレンが必殺・黒笑顔を向ければラビは素直に謝った。
溢れ出る恐ろしいオーラに晒された彼は涙目でプルプルしているが、全然ちっとも可愛くない。
これがならもっと本気で苛めてやろうと思うのだが。
ラビなんて心底どうでもいいのでアレンは放置することにした。
壁にへばりついているのを置き去りにして歩を進める。
するとヘタレの赤毛は距離を置いてついてきた。
「だ、だからさぁ。もう随分経つじゃん、オマエが厨房立ち入り禁止になってから」
「そうですね。さっきも言いましたが10日も過ぎましたね」
「そんなこんなしているうちに今日が2月14日なわけだけど」
「だから今のところに向かってるんでしょう。そろそろクロス師匠へのチョコレートが出来上がっているはずですから」
「いや、オレが訊きたいのはまさにソコなんだけど」
そこでラビは呆れを含んだ吐息をついた。
「……いいんか?」
「何がです」
本当はわかっていたけれどアレンは知らないフリをした。
ラビを返り見ることもしない。
教団の廊下を進んでひたすら食堂を、のいる厨房を目指す。
後ろのラビがぶつくさ言った。
「オマエはホント損な性分だな」
「……わかってますよ」
「何でそんなんなんさ」
「知りません」
「惚れた弱み?」
そこでアレンは振り返ってラビの口元をぺしりと叩いた。
眉間に皺を寄せて鋭く睨みつける。
ラビは怒られる(むしろ殺される)と思って身を縮こませたが、アレンは不機嫌に顔を逸らしただけだった。
「充分自覚してるんでダイレクトな表現は遠慮してくれませんか」
「……………………」
「誰かに聞かれたらどうするんです。……一生恨みますよ」
それだけ低く告げるとアレンは再び歩き出した。
ぽかんとしていたラビが我に返り、追いかけてくる。
隣に並んだときには勢い込んで身を乗り出してきた。
「ジューブン!?“充分”自覚してんのか!?」
「うるさい。あと近いです」
「じゃあ何でなんさ!?」
「歩くのに邪魔なんですけど」
「好きな女が他の男にチョコをやろうとしてんのに、どうして止めないんだよバカ!!」
「はぁ……、ラビは僕にどうしろっていうんですか」
「そんなもん、こう、ムリヤリ壁際に追い込んでさぁっ」
このまま黙って聞いていたら過激なことまで口にされそうなので、アレンは先手を打っておいた。
「師匠にチョコレートを贈るなって言うんですか?それとも僕にくれって?どっちにしろみっともないですね」
「う……。じゃあ“他の男なんて見てんじゃねぇよ!!”って」
「がどういう反応をするか、君なら容易に想像できるでしょう」
「…………………………………………普通に“え、何で”って聞き返されるに1ペンス」
アレンもそう思うのだから賭けにならない。
しかもラビの“え、何で”の言い方が上手くて腹が立つ。
リアルにそんな感じで返されそうなのだから本当に腹が立つ。
アレンはため息をついて顔を背け、哀れみの視線を寄越すラビを見ないように努めた。
ついでに現実からも目を逸らしておく。
何だか猛烈に虚しい気分だ。
「あ、神田」
視線を転じた先に黒髪の青年を見つけて声をかけた。
彼は振り返ってアレンとラビの姿を確認すると、ちょうど良かったという顔をした。
いつもの舌打ちも仏帳面もなしだ。
珍しく普通に言葉を返してくる。
ただし冷や汗をかきながら。
「おい、聞いたか」
「え?何をです?」
「なんかあったんか?」
口々に訊けば、神田は神妙な顔つきで頷いた。
「バカ女の奴が……」
そうしてアレンとラビは目を見開き、互いの顔を見合わせた。
真っ白だ。
それが彼女を見て最初に思ったことだった。
あまりの異様さに食堂は騒然となっている。
アレンたちが駆けつけたときには、すでに多くの人々に取り巻かれていたのだ。
「ハイハイ、ちょっとごめんよー」と妙にオバちゃんくさいラビを先頭に分厚い人垣を掻き分ければ、そこにいたのは案の定だった。
その姿を一目見た瞬間、三人は言葉を失う。
は真っ白だった。
そして、燃え尽きていた。
食堂の真ん中に両手をついて座り込んでいる。
がくりとうなだれた顔は妙に儚い感じで、それがさらなる哀愁を醸し出す。
全身から放たれるオーラが凄まじい。
それこそ誰も傍に近づけないほどだ。
それは、彼女だけスポットライトを浴びているような錯覚を起こすほどの、見事な燃え尽きっぷりだった。
本人も、
「燃えた……、燃え尽きたよ真っ白だ…………」
とかブツブツ言っていてちょっと怖い。
ちなみに視覚的にも粉なのか泡なのか正体は不明だが、髪の毛から服から何まで真っ白に染まっていた。
「う、うわ……何さアレ……。声かけずら……」
あまりの惨状にラビがぼそりと呟くが、アレンは普通に口を開いた。
「ちょっと何を真っ白になってるんですか。髪までそんなんじゃ、僕とキャラがかぶるでしょう!?」
「一番に言うことがそれかよ!!」
神田が怒鳴るように突っ込んだがアレンは無視。
ずかずかとに歩み寄る。
そうすれば周囲から賞賛の声や拍手が起こった。
今まで直視するのも可哀想なくらいのに近づける者は、ひとりとしていなかったのだ。
「まったく、せっかくの金髪をこんなにして」
「……………………」
「顔も汚い。何くっつけてるの?小麦粉?洗剤?」
「……………………、あれ?」
「とにかくお風呂に入って着替えを……」
「アレ、ン?」
ぼんやりとしていたがそこでアレンの顔に焦点を合わせた。
腕を掴んで立たせて、髪を引っ張って、顔をぐいぐい拭って、そこでやっと気がついたらしい。
どこまで意識を飛ばしていたんだと思って、アレンは憤然とした。
目の前にいたのにしばらくわかっていなかったとなると少しムッとなる。
「まったく、君は何をやってるんだ」
怒った口調で言えば、は何だかぐったりとした笑顔を浮かべた。
「燃え尽きました」
「はぁ?」
「やりきった感に溢れております」
「何言ってるの?」
「体力的にも精神的にも限界点を突破しましたので、此処からさらなる高みに羽ばたいていこうと思う所存でございます」
「……神田、ラビ、助けてください。がいつも以上にぶっ壊れてる」
アレンは盛大に顔をしかめて二人を振り返った。
けれどラビには「ガンバ!」と言われ、神田はそれに頷いただけだった。
傍観を決め込んだのか、彼らが頼りにならないので仕方なくに向き直る。
彼女の唇からは力ない笑いが漏れていたので、正気に戻させるために頬を軽く叩いておいた。
するとそこに付着していた白い何かがアレンの指先に移る。
ふと気になってこすってみると、出てきた肌の色は真っ青だった。
驚いて目の下を拭うと今度は幾重にも重なった黒だ。
思わず声をあげる。
「ちょ……っ、!?」
「10日間よ」
アレンの嫌な予想を厨房から這い出してきたジェリーが肯定した。
「その子、ずっと徹夜でがんばってたのよぉ」
「ええ?一睡もしてなんですか!?」
どうりで顔が蒼白で目の下にクマができまくっているわけだ。
ジェリーは重々しく頷いて、涙ながらに言う。
「食事もそっちのけで延々と料理の練習をしていたわ。厨房を出たのはお風呂や着替えのときくらいかしら……」
「あとは怪我の手当てのときだね」
そう続けたのは食堂の椅子に深く腰掛けたラスティだ。
めったに医療室から出ない彼がいることにアレンが吃驚していると、肩をすくめて言われた。
「ここにいた方が面倒が少ないでしょ。即座に治療しないと君って死にそうだし」
「……周りの人も、ですよね」
「いや、君を呼吸困難にしてからは誰も巻き込まないように気をつけてたよ」
「……………………」
「自分の火傷や切り傷は相変わらずだったけどね。さんざん仕事をさせられた」
「ど、どれだけ……」
アレンは愕然と呟くが、ラスティの傍らにある氷の山や輸血道具が全てを物語っていた。
本当にどれだけ怪我を繰り返したんだ、この馬鹿。
「なんて無茶を……。!」
「はい、私はそろそろ無我の境地に目覚める予定です」
「ボケてないで!もうこんなことはお終いです!!」
「いえいえ悟りを開くまでは終われませんとも」
「いいからお風呂入って着替えてご飯食べて寝てください、今すぐに!!」
「………………食べる?」
そこで虚ろな目をしたが反応した。
奇妙はウフフフ笑いもなくなる。
無表情になって、いきなり双眸を見開いた。
そして勢いよくアレンに掴みかかる。
「た、食べてくれる!?」
「は……?いや、食べるのは君で……」
「無理強いはしないよ。しないけど!」
「と言いつつお皿を構えないでください、思い切り口に突っ込むつもりですよねソレ」
「たたたべ、食べ、食べて……!」
「ちょっとこの人、本当におかしいんですけど!」
アレンが悲鳴をあげたところでの体から力が抜けた。
そのままへたりと床に座り込む。
俯いて死にそうなため息をついた。
「ホント、私の料理の腕はおかしいと思う……」
「そんなのは今更でしょう」
「うん……今回のも傑作よ」
は真っ白になった指先で厨房の奥を示した。
人類未踏のカオス的空間に、アレンはそれを発見する。
「………………ウェディングケーキ?」
アレンがそう呟いてしまうほど、巨大な茶色の山が存在していた。
皿からして大きい。
たぶんくらいならすっぽり入る面積の器に、うず高いそれが乗せられている。
どうやら今年はチョコレートケーキらしい。
ちょっと黒の教団のシルエットに似ているような。
それにしてもこの威圧感。普通の人間には耐えられたのではない。
形容不可能な雰囲気を醸し出すチョコケーキのタワーに、アレンは言葉も出なかった。
それが出来上がる壮絶な過程を見守っていたであろうジェリーとラスティが言う。
「死ぬ気で作った成果がそれよ」
「まったく、本当によくやるよね」
確かに。
そう思いながらもアレンが呆然としていると、ラビと神田が両隣に来て感嘆のため息を吐いた。
「すっげぇ……過去最高の出来じゃね?」
「厨房の天井に届いてるぞ、あれ」
それぞれが青い顔で言う。
何せの力作は馬鹿にできる領域を遥かに超えてしまっているのだ。
これはもう賞賛する他ないではないか。
アレンは左右にそれを聞きながらを振り返った。
「な、何てものを作って……」
目眩を覚えながらも彼女の肩を掴む。
「とにかくチョコレートは作り終わったんでしょう。早く部屋に帰って休んでください」
「やだ」
即答されて吃驚する。
今までぼんやりしていたのに、急に明確な口調になって言い切られた。
は当たり前みたいな顔で続ける。
「まだ出来てない」
「あんなにあるじゃないですか!」
「おいしいの、まだ出来てないもの」
やり遂げられない自分が情けないのかは少し顔を歪ませた。
ひどく切なそうで、何だか泣くんじゃないかと思った。
有り得ないのにそう見えたことが腹立たしい。
そんな顔をさせたのがクロスだということに苛立って、アレンは思わず口を開く。
「そんなこと言ったって君の腕じゃ一生むりむぐっ」
言葉の最後で不明瞭になる。
後ろから手が伸びてきて思い切り口を塞がれたのだ。
「アーレーンー」
耳元で低く名前を呼んだのはラビだ。
確かに弾みでひどいことを言いそうになったけれど、開放すると同時に「妬いてんじゃねぇよ」と囁かれたから礼を告げるのは絶対に無理な話だった。
神田まで同情したようにの頭に手を置いたものだから、アレンはカッと頬を赤らめる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っつ!わかりましたよ!!」
ヤケになったように言って厨房に入る。
椅子を何脚か引きずってきて乱暴に積み上げた。
「美味しいのがあればいいんでしょう!?」
「え?ちょ……、アレン?」
「何するつもりだ、モヤシ」
「10日間も作り続けたんです、奇跡的にも上手く出来上がっているのがひとつくらいあってもおかしくないでしょう」
「「………………で?」」
「全部味見してそれを捜します」
「「はぁ!?」」
「そりゃあ、の作ったものですから期待値はゼロですけど。かろうじて食べられるレベルのものならあるはずです。……たぶん。見つけます!」
アレンは途中でちょっと自信なさげにしたが、最後は力強く断言した。
ラビと神田は何を言い出したんだと呆れている。
周囲は止めに入っていた。
必死に呼びかけられたがアレンはどんどん椅子を積み上げていって、その上に身軽に飛び乗る。
ナイフと大皿を手に、チョコレートケーキのてっぺんを目指した。
「ア、アレン!」
下からが呼んだ。
けれど彼女が何か言う前にアレンが返す。
「いいですか。僕がまだマシなチョコレートケーキを見つけたら、即刻ベッドに入って休息を取ってください」
「いや、あの……!」
「捜す間もじっとしててくださいよ。それ以上、体力も精神力も削らないように」
「だから、それは全部失敗作でっ」
まで制止しようとしてくるから、アレンはもう聞かないフリをして茶色の山を切り崩しにかかった。
ナイフを入れてワンホールサイズを皿に移す。
とにかく一刻も早くマシなチョコレートケーキを見つけてクロスへの贈り物とし、の気持ちを満足させてやらなければいけない。
そうでなければあの頑固者は絶対に自分の言うことを聞かないからだ。
(何で僕がこんなことしてるんだろう……)
ちょっと冷静になって考えてみると本気で意味不明だ。
好きな人が他の男にあげようとしているものを、この舌で選ばなくちゃいけないだなんて。
まぁどうだっていい。
クロスは10日間もをがんばらせたのだから、僕はすぐさま眠らせてやる。
アレンは死ぬ覚悟でケーキを食べようとして、ふと動きを止めた。
フォークを持ってくるのを忘れたのだ。
手で食べるのは行儀が悪い。
アレンはひらりと椅子の上から飛び降り、厨房の台の上に転がっていた食具を手に取った。
そして四方八方から飛んでくる制止の声を無視して、ぱくりと一口。
「……………」
作のケーキを食べた瞬間。
「…………………」
「あ、あの、アレン……?」
「……………………………」
「アレンさーん」
「…………………………………………」
「やっぱり、不味い?」
「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
そこでアレンは倒れた。
正しくは倒れそうになって、思い切りよろけた。
吃驚したが両腕を伸ばして、それでも支えきれないから、後ろからラビと神田が手を貸す。
反動でアレンは厨房の台に突っ伏すように崩れ落ちた。
「アレン……?」
「ああ、これは……」
「相当マズかったみたいね……」
たちは顔を見合わせてうなだれる。
そう判断する他ないアレンの様子だった。
フォークを握る手は力の入れすぎで真っ白になっているし、いかった肩はぶるぶる震えている。
その反面、脚には一切力が入っていない。
意識を失って痙攣しているんじゃないかと心配になった。
「アレン、大丈夫?」
が近づいていって顔を覗き込む。
目は開いていたけれど、信じられないというような表情をしていたから背中を撫でた。
「ごめん、やっぱり作り直すよ」
「……………………」
「心配してくれるのは有難いけど、もうちょっとがんばらせて?」
「……し……」
「それと……、食べてくれてありがとうね」
「…………しい」
「ん?さっきから何ブツブツ言って……」
「おいしい」
そこでようやく聞き取れたけれど、やっぱりにはよくわからなかった。
あまりにも不味いものを食べたので頭が変になったのかと思う。
真剣に申し訳なくなってもう一度謝る。
「アレン、ごめ……」
「おいしい、よ」
何だか子供みたいな顔でアレンが繰り返した。
これは末期だ限界だ。クるところまでキている。
は慌てて医療班班長に助けを求めた。
「ラスティ班長、今すぐ診て!アレンがおかしくなった!!」
「なってない!本当に美味しい!!」
「「「「…………………………………………」」」」
そこでどころかその場に居る全員が絶句したけれど、アレンはようやく我にかえったようで一気にまくし立てた。
「な、何ですかこれ……!どういうこと!?ものすごく美味しい……!!」
そんな馬鹿な、と音にならない声が重なる。
みんなの心はひとつだった。
唯一人アレンだけがおかしなことを口走る。
「味は甘すぎず、苦すぎず、まさに絶妙。クリームは濃厚なのに舌の上でとろける軽やかさ。スポンジは口当たりしっとりで中はふわふわ。後を引くこの味はオレンジピール?しかもよく見たらホワイトチョコとブラックチョコのふたつを生地に練りこんでるじゃないですか!すごい、こんなに美味しいもの初めて食べた……!!」
そんな、馬鹿な。
全員が同じことを考える。
今のアレンには誰も触れたくない感じだ。
だから医者のラスティが代表として口を開いた。
「あのさ、アレン君。ちょっと落ち着こうか」
「無理です!これを食べて平静でいられるわけがない!!」
「いやいや、君は今あまりの不味さに味覚と脳みそがやられているだけだよ」
「不味いだなんて……!そんなこと、冗談でもひどいですよ!!」
「真面目に言ってるんだけどね。何?本当に大丈夫……?」
「大丈夫じゃないのはのほうです!!」
そこでアレンはに向き直ると、その肩をがしりと掴んだ。
銀灰色の瞳からは感動のあまり惜しみない涙が流れている。
「こんなに美味しいものが作るなんて、どうしたんですか!!」
「………………」
「いつの間に上達したの!?すごい快挙だ!!」
「……………………」
「今までさんざん不味いものを食べさせられてきましたけれど、そんなことは帳消しです。本当に……っ」
感極まったのか、そこでアレンはを思い切り抱きしめた。
我慢できないように笑い出す。
「本当に美味しい!ありがとう!!」
心の底から楽しそうなその言に、一同は顔を見合わせた。
何故ならアレンがどう見ても嘘をついているように思えなかったからだ。
けれど周囲は騒ぎ出す前に、が思い切りアレンを突き飛ばした。
「………………っつ」
跳ねるようにして立ち上がる。
そして厨房の台の上に置かれていた皿をひったくった。
アレンが一口食べているので変に欠けたチョコレートケーキを睨みつける。
「……?」
尻餅をついたアレンが驚いた顔で名前を呼んだ。
何だかの顔が真っ赤だ。
怒っているようにも見えるし、泣き出しそうにも見える。
強張った体が震えた。
「う……っ」
「……?」
「うそ……!」
「何が?」
「嘘つきー!!」
それだけ怒鳴るとは皿を抱えたまま、一目散に駆け出した。
意味不明な雄叫びをあげながら人垣を突っ切って食堂から走り去っていく。
一同はまたしても唖然となった。
唯一ラビだけが平然と言う。
「親友のオレが解説すると、あれはの癖さ。アイツは混乱が最高潮に達すると意味もなく走り回る」
「……?何で混乱してるんですか?」
「そりゃあ、オマエ……」
「それよりバカ女はどこへ行ったんだ。放っておいていいのか」
「あぁ、ダイジョブさ。いつも教団を一周したら帰ってくるから」
「変な習性……って教団を一周!?10日間寝てない体で!?」
半眼になって呆れていたアレンは、そこで飛び上がった。
は体力的にも精神的にも限界だ。
しかもこの教団を一周するとなるとかなりの距離で、相当な時間がかかる。
元気なときでも遠慮してほしい行動だ。
「あの馬鹿はどっちに行ったんです!?」
アレンは厨房から走り出て周りの人々に尋ねた。
一斉に指差された方向に体を向けて床を蹴立てる。
その直前でラビが腕を掴んだ。
「待てって。アイツはちゃんと戻ってくる」
「でも……っ」
「言っとくけど、混乱マックスのは話が出来る状態じゃねぇぞ。手負いの獣みたいに凶暴さ」
「………………」
「噛みつかれたくなかったら大人しく待ってろよ」
「………………触らぬに祟りなし、ってことですか」
アレンは目を伏せて呟いた。
彼はこういう状況には慣れているらしい。
本来ならばの大親友であるラビの言葉に従うべきなのだろう。
彼女が落ち着くまで放置しておくのが一番うまいやり方で、たぶん本人もそれを望んでいる。
そこまで理解して、けれどアレンは言う。
「でも僕は、祟られても放っておけないんで。行ってきます」
真っ直ぐ瞳を見つめてにやりと笑えば、ラビは少し驚いた顔をした。
わずかな沈黙があって、アレンを掴む力が抜ける。
彼は自らの意思でその手を離した。
「………………ホント、損な性分さな」
「惚れた弱みです」
ラビが苦笑するから、アレンも同じ表情になって小さく言った。
次の瞬間、思い切り肩を叩かれる。
「は廊下を突っ切って窓から中庭に飛び出す。そこからしばらく外を走って、回廊から中に戻るはずさ。迷子になるなよ!」
アレンは背を押されるままに駆け出した。
ラビが指差した方向に向って全力疾走を開始。
拳を握り締めると固いフォークの感触がした。
それを手に持ったまま出てきてしまったらしい。
持ち上げて、指先でくるりと回す。
アレンは心の中で不敵に宣言した。
待ってろ、最高に美味しいチョコレートケーキ。
待ってろ、最強に面倒で可愛い。
僕が頭から全部食べてやる!!
いくら疲弊しきっていても、相手はあのだ。
広い教団内を走り回られたら追いつくのは難しいだろう。
未確認生物の行動は予測不可能だし、暴走したら手に負えない。
加えてアレンは方向音痴だ。
だから気合充分で追跡を開始したのだが。
「あのモヤシめ……エセ紳士め……万年迷子め……大食漢め……!」
「…………………………」
居た。
何か普通に居た。
呆気なく発見してしまったアレンは脱力しつつを見下ろす。
彼女は中庭に出たところで豪快にすっ転んだようで、花壇にうつ伏せになって倒れていた。
手に持ったケーキ皿だけは水平をキープし、他はすべて投げ出している。
どうやらもう起き上がるだけの気力もないらしい。
とにかくお花畑に埋もれたその姿は無様なことこの上なかった。
半分以上は土にめり込んでいるように見える。
しかもぶつぶつ言っている呪詛の言葉が怖すぎる。
「ちくしょう、あんなこと言うなんてイイ子ちゃんキャラが……!オマエは何だ聖人君子か!蛍の光で本を読んで、雪明りで勉強してるのか!まったく、目ぇ悪くするなよー!!」
悪口なのか首をひねりたくなる内容を言って、しかも最後にはねぎらわれた。
ちなみに完全にの妄想である。
アレンは現代人らしく思い切り電気を使っている。
「もうやだ、アレンに気遣われるなんて……!」
「あの……」
「腹黒魔王のクセに!いつも通りにしてよ、定番ぐらいクリアしてよ!!」
「ちょっと」
「まったく、最近の若者は普通から外れたことばっかりしたがるんだから!そんなんならアレンなんてバナナの皮で転んじゃえばいい!いまどき新鮮な王道を極めちゃえばいい!!」
「そんなベタな展開は嫌ですよ」
だんだん冷静になってきたアレンはそう言ったが、はまだまだおかしかった。
「だいたい私の料理を食べて正常でいられるわけがないのよ。そう、アレンは自我が崩壊したのね。どうしよう、どうやったら元に戻るのかな。ナナメ四十五度の角度で殴れば治るかな」
「何ですか、その50年くらい前の電化製品に対する処置法」
「じゃあ脇をしめて脇腹に拳を打ち込み、手首をひねって床に倒す。首に打撃、鳩尾に膝を埋め、最後に頭部を強打。ここまですれば大丈夫かな」
「ええ、完璧に死にますね。全力で殺すつもりですよねソレ」
「だって一度まっさらにしないと、もうどうしようもないじゃない……っ」
「どうしようもないのは君の頭だ、馬鹿」
そこで意外と気の短いアレンは限界を向かえ、花を掻き分けてに近づいた。
途端に短い悲鳴があがる。
靴裏がやけに柔らかいから、それで彼女の尻を思い切り踏んでしまったことを知る。
故意ではないけれど、全然気をつけていなかったからワザとでもあった。
アレンはそれでの位置を正確に把握する。
しかし何か言う前に涙の滲んだ金色の瞳が睨みつけてきた。
「何でアレンがここにいるのよ……!」
「さっきからずっと居たんですけどね……。君は誰と会話していたつもりだったんですか。脳内にお友達でも住んでいるんですか」
「内なる自分ならたくさんね!天使と悪魔はもちろん、ナイス熟女や筋肉野郎までご在住よ!さぁ、どのさんがいい?選び放題よ!?」
「道理で君は人格が破綻しているわけだ、全部嫌ですよ!!」
アレンは全力で拒否して嘆息と共に願い出る。
「普段通りでいいです。どうせ全部おかしいんだから、一番慣れているのがいい」
「……………………」
「……僕は、いつものがいいよ。ほら、立って。とにかく室内に戻りましょう」
言いながら手を伸ばせば威嚇された。
特に声はなかったのだが仔猫が全身の毛を逆立ててフーッというのに似ている。
これは確かにラビが言っていた通り凶暴で、手負いの獣にそっくりだ。
触ったら引っかかれるのかなと思う。
怖いもの見たさで腕を掴もうとしたら、すぐさま逃げられた。
「」
名前を呼ぶ短い間に彼女は花壇を這って出て、近くの木にすがりつく。
幹に背中を押し付けてこちらを睥睨した。
あまりに体を強張らせているから、皿から危険な角度になっている。
彼女が両腕で抱えているそれを見ながらアレンは言う。
「チョコレートケーキが潰れますよ」
「べ、別にいい。どうせ私が食べるんだから」
「自分で食べるの?師匠に贈るんじゃなくて?」
「失敗作だって言ってるでしょ。こんな不味いもの誰にも渡せない」
「不味い?不味くないよ、すごく美味しい……」
「うそつき!」
アレンはが逃がさないようにじりじり接近していたのだが、大声で言われて動きを止めた。
眉を寄せて木の根元にいる金髪を見下ろす。
「随分と失礼な言い草ですね」
「だ、だって……っ」
は思わず叫んでしまったようで、続きの声を詰めた。
そこでアレンはちょっと無表情になる。
うわぁ何だこの人、と思う。
は顔を真っ赤にしていて、痛いのを我慢するような顔をして、全身を強張らせていた。
少しだけ頬が震えているように見える。
何故だかよくわからにけれどアレンは無性に笑いたくなった。
けれど口元を緩めたら本気で怒られそうだから堪える。
そうすれば自然と表情がなくなる。
そのままを観察していると、胸の中にむくむく沸いてくる感情があった。
嗜虐心だ。
アレンは一気に距離を詰めるとの眼前に座り込んで、その頬をぺたりと掌全体で触れた。
はぴぎゃ!か、ぺひゃ!か、その中間くらいの奇妙な悲鳴をあげる。
うーん面白い。
何だろう、この生き物。
がぷるぷるし出したので、もう我慢できなくてアレンは意地悪に微笑んだ。
「誰が嘘つきですって?」
「……だ、だってそうでしょ。私の作ったものがおいしいだなんて、嘘に決まってる!」
「自分で言うのもなんですが、僕は食べ物に対しては誠実ですよ。いつも美味しいものを求めていますからね」
そう、いつだって求めている。
お腹が減るのは自然現象で、それを満足させるのは美味しいものがいい。
気分が楽しくなるし、幸せだ。
生きているという感じがする。
そんなことを考えながらアレンは片手で持っていたフォークを回転させた。
切っ先がの方を向く。
食具を人に向けるのは危険だし、行儀がよろしくない。
普段のアレンなら絶対にやらない所業だが、になら無性にしてやりたくなって困る。
彼女は自分の頭を変にさせる天才だった。
「食べたいんですよ。……いつだって」
「だったら食べていればいいじゃない。誰だって、私よりは上手に作ってくれるはずよ」
光るフォークの切っ先をチラチラ見ながらも、は強気に返した。
怯えているとは死んでも思われたくないらしい。
そういうところがアレンを煽るのだが、本人はまったくわかっていないようだ。
「そんなことないよ」
「そんなことあるの!しっかりしてよ。アレンはあまりに不味いものを食べて、感覚がおかしくなってるだけ」
「違うって言っているのに。どうしてそう思うんですか」
「だって、そうじゃないと変だもの」
言いながらはアレンから目を逸らした。
どうにも混乱しすぎて苦しそうだ。
困っているのは彼女も一緒なのだと悟った。
「アレンが私の料理を、お……おいしいだなんて、言ってくれるはずがないもの」
「………………」
そこでアレンはちょっと絶句した。
あれ?もしかしてを混乱させているのは僕……?
だから食堂でラビも神田もジェリーさんもラスティさんも、呆れたような目でこっちを見てたのか?
アレンは今更なことを自覚して黙り込んだ。
その間もは取り留めのない口調で言う。
「確かにちょっと寝てないけど、平気だもの。全然だいじょうぶ。まだがんばれる」
「………………ちょっと?10日間徹夜が?」
「だから嘘つかないでよ。“おいしい”って言ったら、私が満足して休むと思ってくれたんでしょ?」
「ええ、まぁそれは」
「そんな気を遣わなくてもいいから!いつもみたいに本音でいてよ。心配してくれるのは嬉しいけど、私はアレンに嘘つかれるほうが……」
「……………………」
アレンは黙って続きを待ったけれど、は言葉にしなかった。
代わりに顔をあげて真っ直ぐに睨んでくる。
「私は正々堂々、自分の実力であんたに“美味しい”って言わせてみせるんだから!嘘の誉め言葉はいらない!」
彼女は超然と言い放った。
「それよりも、とびっきりの笑顔を用意して待ってなさい!!」
響く声で宣言されて、アレンは目を見張った。
言っていることはちょっとアレで、顔は真っ赤で、ぜいぜい肩を揺らしているのに何だろうこの気迫。
あまりに一生懸命言い過ぎてちょっと涙ぐんでいるのがおかしかった。
腹の底から愉快な気持ちが沸いてきて、アレンは俯いた。
それを怒ったのと勘違いしたのか、若干声のトーンを落としてが続けた。
「あ、……えーっと。その。待っててください」
敬語に直せばいいというものでもないのにそう言うから、ますます笑えてきてアレンはの肩口に額を押し付けた。
駄目だこの人。面白すぎる。
「う、嘘じゃありませんよ……」
笑い声を必死に抑えて言った。
「嘘なんかついてない。本当に美味しかったんだ」
「……………………ひーひー笑いながら言われてもね」
「本当に、ほんとう」
「……、うそ」
「自分でも吃驚するけど、本当だよ」
「びっくりって何」
「何でもいいだろう。の料理が美味しかった。それだけなんだから」
そこでまで言えばが沈黙した。
触れているところも目に入る部分も硬直しているから、アレンは身を離して瞳を見る。
もう一度ぺたりと頬を覆ってみたけれど、今度は無反応だった。
は完全に固まっていた。
ふと思い至ってアレンは自分の表情を確認してみる。
そうして心の底から微笑んでいることに気がついた。
きっとこれが、の言う“とびっきりの笑顔”だ。
アレンはとどめとばかりに言ってやった。
「これでもまだ、信じてくれない?」
途端に触れていた掌が熱くなって、ますます笑う。
の体が火照っているのだ。
可哀想なことに、彼女は料理関係で誉められたことがないものだから、嬉しくて仕方がないらしい。
しかも相手が不味い不味い連呼していたアレンだというのが追い討ちのようだ。
今度こそ本当に泣きそうになったに、アレンはまた嗜虐心が燃え上がるのを感じた。
潤んだ金色の瞳は効果抜群すぎる。
「食べたいな……」
「な、何を」
「君の作ったチョコレートケーキに決まってるだろう」
「食べたじゃない、誰よりも先に!」
「あんなにちょっとじゃ足りない」
「う……。いや、でも女の子たちからいっぱい貰ったんでしょ?あんまり食べるとその分が入らなくなるんじゃ……」
「他の人の話はしてない。君のがいいんだ」
「………………っ」
「とても美味しかったから」
言いながらアレンはフォークをの服の上で滑らせた。
「食べたい。」
「……………………」
「ねぇ……」
「〜〜〜〜〜〜〜っつ、そんな風に迫らなくてもあげるってば!!」
じりじり追い詰めれば限界のきたに突き放された。
同時に皿を押し付けられたから即座に受け取る。
本当に美味しいなぁ、いろいろな意味で。
ほくほくした笑顔で小首を傾ける。
「ありがとう」
「……素直にちょうだいって言えばいいのに」
「嫌だよ。みっともないから」
「食べたいって連呼するのはいいの?」
「うん。チョコレートのことだけを言ってるんじゃないからね」
あっさり言えばは頭の上に疑問符を浮かべた。
意気揚々とケーキにフォークを刺すアレンに訊く。
「他に何があるの?」
「わからない?」
「え。ええ?……えーっと」
は考えながらもがっつくアレンに目を奪われていた。
さすがの食べっぷりだ。
ワンホールサイズが見る見るうちに小さくなってゆく。
一口食べるたびに感動の涙が溢れている。
今までのひどい実績があるから、さらに美味しく感じるらしい。
そのチョコレートケーキを求めて迫ってきた様子といったら……。
凄まじい食への情熱を目の当たりにしてが呟く。
「アレンって本当に食べ物大好きだよね……。さっきまでは獲物を見つけた獣みたいだったし……」
「そう?」
「私まで食べられるかと思ったくらいよ」
「そう」
「……………え?」
「君も、食べてやろうかと思った」
「……………………………………」
それは。
つまり。
ようやく思い至ったは限界まで顔を、
青くした。
「じ、人肉まで食べちゃう気なの!?こ、怖!どれだけお腹空いてたのよ!!」
「……………………」
「血みどろグロテスク反対ー!!」
震えながらも拳を振り上げるに、アレンは呆れて物も言えなかった。
彼女は色恋沙汰に無関心なだけで鈍感というわけではないから、この反応は相手が悪いのだろう。
つまり、アレン自身がそういう目で見られていないのが敗因なのだ。
「まぁ、わかってましたけどね。………………見てろ、いつか絶対に食べてやる」
「ひ……っ。アレン、ここは近代国家よ!カ二バリズムなんて流行らないんだからね!!」
「うるさいです、ごちそうさま」
「あ、お粗末さまです」
唐突に現実的なことを言われても平静に戻る。
アレンはきちんと手を合わせ、空になったお皿を片手に立ち上がる。
「はぁ、美味しかった……。また作ってね」
「……う、うん」
余所行きではない満面の笑みで言われたから、は何だか直視できなくて目を逸らした。
それでもきちんと頷いておく。
美味しいものを食べたアレンの幸せオーラは半端ではなく、そんな顔をしてくれるのならいくらでも作ってあげたくなる。
そう思う理由はわからなかったけれど、ある意味当たり前すぎた。
「じゃあ中に戻ろうか」
緩みきった笑顔でアレンが言って手を差し伸べた。
は不覚なことにその微笑みに釘付けになっていて、反応が遅れた。
アレンは不思議に思って促す。
「ほら、おいで」
無意識のうちに言ってから、ふたりしてハッとなる。
顔を見合わせたまま沈黙する。
アレンは手を引っ込めようかどうか悩んで、は次の行動を考えた。
結局結論を出したのは性格的な問題での方が早かった。
差し出されたアレンの手は取らない。
その代わり飛び上がるように立ち上がって腕に抱きついた。
「あ、あの……色々ごめんね、ありがとう!!」
固い表情と口調で告げられたから、アレンは反対に力が抜けた。
医療室を去るときに“また言わせてね”と約束してくれたのはこの言葉。
真っ赤な頬は照れ隠し。
だって掴んでくる手が温かい。
アレンは腕を伸ばしてを抱きしめた。
彼女はしばらく黙っていたが、胸に顔を押し付けたままぼそりと呟く。
「鼻水が出た……」
「嬉しくて泣きそうってこと?」
「……知らない。アレンのせいよ!」
断言されたからアレンは声をあげて笑った。
ひどく甘い幸せを感じながら。
「つまり、どういうことですか?」
アレンはこめかみを押さえつつ尋ねた。
激しい頭痛がする。
先刻まですごく幸福だったのに、何てことだろう。
ため息をつくアレンの質問に、ラスティが淡々と答えた。
「つまり、彼女にはどちらかしかないなんだよ」
二人はカウンターに並んでもたれて、会話を続ける。
「君の料理は殺人的に下手だ。もうフォローの仕様がないくらい不味い。これは知っているよね」
「ええ、身をもって」
「けれど彼女は生来の努力家。必死に練習を重ね、限界点を突破し、他人には計り知れない何かを凌駕したとき、奇跡は起こる」
「奇跡……確かにあれはそう呼んで差し支えありませんね」
「結論はこうだ」
重々しく頷きながらラスティは告げた。
「ある一線を越えると、君の料理は殺人的不味さから奇跡的美味しさへと変貌する。彼女にはいつだって底辺からスタートし、真ん中を通り越して、一気に天辺へと到達するんだ」
「な、なんて極端な……!」
アレンは愕然と叫んだ。
それはあまりにも極端すぎる。
最初は人類を絶滅させられるほどの食物兵器。
しかし死ぬ物狂いで訓練を重ねるうちに未知の領域に達し、魔法のように絶品の腕前になるというのだ。
「そ、そんなことが有り得るんですか!人類的に!!」
そんな変な人間いてたまるか!と思いながらアレンが問うと、ラスティは薄っすら微笑んだ。
顔に影をつくり、双眸を細める。
俗にいう遠い目というやつだ。
「アレン君だってわかってるだろう。これが現実だよ」
そっと諭されてアレンは頭痛の原因に視線を転じた。
見渡す限り、人・人・人。
数え切れないほどの団員達が、食堂中に倒れ伏している。
誰もが真っ白に意識を失い、微動にしない。
完全にの料理に殺られていたのだ。
此処に帰ってきたらこの惨状だったのだから、甘い気分も見事に吹っ飛んだ。
二人がいない間に皆はアレンの感極まった様子を思い出して興奮し、作のチョコレートケーキに殺到したそうだ。
そしてそれを食した瞬間、卒倒した。
その見事な倒れっぷりに感動したと、ラスティは語ってくれた。(いつも通りの淡白な顔で)
ちなみにはというと、あっちこっちに走り回って皆の介抱に当たっている。
それを遠くに見ながらアレンは全身の酸素がなくなるほどのため息をついた。
「僕が食べたのは本当に、本当に、ほんっっっっとうに!美味しかったのに……。どうして」
「お前が食ったのは一番上の段だったからな」
唐突にそう言われて見れば、神田が腕を組んで立っていた。
どうやら彼は無事だったらしい。
「神田……。君はのチョコレートケーキを食べなかったんですか?」
「いいや、食べた。生死の境は14段目だ」
「……はい?」
「13段目を食べたラビを見ろ」
意味がわからなくて半笑いになるアレンに、神田は背後を立てた親指で示してみせた。
背伸びをして彼の肩の向こうに顔を出すと、そこには赤毛の青年が倒れている。
が必死に揺すったり叩いたりしているがまったくの無反応だ。
「……………………綺麗に死んでますね」
どういうことです?と視線で問いかければ神田はしかめっ面で答えた。
「あのケーキの山は、13段目までが死ぬほど不味くて、14段目から驚くほど美味くなってんだよ」
アレンはしばらく沈黙して、一生懸命その言葉の意味を飲み込んだ。
勢いよくラスティを振り返る。
彼はやつれたような笑顔で肯定した。
「13段目と14段目の間に、常人には理解できない革命的な何かが起こったんだろう。君の料理の腕は急激に上達して、そこが生死の分かれ目になった」
「そ、そんなことが……!?」
「言っただろう。これが現実だよ、ってね」
ラスティの視線はぴんぴんしている神田とぐったりしているラビに向けられていて、それがの極端な料理の腕を示していると語っていた。
突き詰めるところ、彼女というのは最悪に不味いものか最高に美味しいものか、どちらかしか作ることができない不思議な人種なのだ。
いや、もう人じゃないかも。
やっぱり未確認生物だとアレンは思う。
「それにしても……。神田が助かってラビが死んでるのって……らしいですよね」
「うん、そうだね。ある意味でお約束だね」
「俺がバカ女ごときに殺られるかよ。ラビは……ラビだからな」
「ラビですからね」
「ラビ君だからね」
「ああ、ラビだからだ」
本人が聞いたらひどいと泣き喚きそうなことを言って、アレンとラスティ、神田の三人は頷き合った。
疑問が解決されると何だが脱力した。
アレンはカウンターに寄りかかる。
話すことを話し終えた神田がどこかへいく気配を背後に感じながら、ため息をつく。
すると厨房からジェリーが顔を出してきた。
「アラん。何だか憂鬱そうね」
「え?ええ……まぁ……」
「君が食べたチョコレートケーキは絶品だったんだろう?どうしてそんな浮かない顔をしてるの」
隣のラスティまで不思議そうな顔で見てくるから、アレンは言葉に詰まった。
視線を落としてもごもご言う。
少し顔が赤くなっている自覚がある。
「いえ、その……。美味しかったんですけど。結局はそれって……師匠のためにがんばったからなんだなぁと思って……」
「「…………………………」」
アレンはそう言ってしまってからものすごく後悔した。
大人ふたりの視線が猛烈に痛かったからだ。
ジェリーはにやにや笑っているし、ラスティは呆れたように首を振っている。
けれど仕方がないじゃないか。
あれだけ不味いものしか作れなかったが、あんなに美味しいものを作れるようになったのは、全部ぜんぶクロスのおかげなのだ。
彼への気持ちが奇跡を起こしたとなると、嫉妬も通り越して落ち込んでくる。
アレンが本気で暗くなっていると、ジェリーにぽんぽんと肩を叩かれた。
「アレンくん、アレンくん」
「……………………何ですか」
「ウフフ。これ見て」
満面の笑みでジェリーが差し出してきたのは綺麗にラッピングされた一本の瓶だった。
その正体を悟った瞬間、アレンは反射的に顔をしかめる。
「お酒ですか」
「あったりー!そぉよん」
「すみません、僕お酒は苦手で……」
「未成年に飲ませるつもりはないわ。でも聞いて。これを用意したのは」
「君だよ」
そこでラスティが口を挟んだ。
カウンターに背をあずけたままアレンを振り返ることもなく言う。
「ちなみに品名は『魔王殺し』」
「………………………………えっと。ここは僕怒っておくべきですかね?」
「銘酒だよ」
「聞いてませんよ!!」
相変わらず淡々と返すラスティにちょっと八つ当たりをする。
けれど彼は気分を害した様子もなく、むしろ少し微笑んだ。
「どうして今日、君がそのお酒を用意したかわかる?」
首をかしげるアレンの向かいで、ジェリーが嬉々とした声をあげた。
「憧れの人に贈るんですって」
「バレンタインデーのプレゼントってことだね」
「こんなに素敵にラッピングして」
「カードに添えるのは柄でもないピンクの薔薇だ」
「相手は、そう」
「アレン君のよく知っている」
「「クロス元帥」」
二人の調子は正反対なのに、声はピッタリと揃っている。
そしてきっと、そこに込められた想いも。
わざとらしく大人たちの会話は続く。
「ねぇ、ちゃんはクロス元帥にチョコレートをあげるって言っていた?」
「言うはずがないよ。だって彼への贈り物は銘酒『魔王殺し』だ。どれだけ苦労して手に入れたか、俺は知ってる」
「アタシもよん。でも、もっと知っているのはあの子がどれだけ必死に料理の訓練をしたかってこと」
「きっと“ごめん”も“ありがとう”も言葉だけじゃ足りないと思ったから、一生懸命がんばったんだ」
アレンは言葉を失ったまま、を振り返った。
意識のない団員の額に冷やしたタオルを乗せて、顔を仰いでやっている。
顔色は壮絶。目の下のクマがひどい。
10日間も寝てないのだから当たり前だ。
手も腕も火傷と切り傷でズタボロだった。
滅多に笑わないラスティの、微笑んだ声がアレンの耳朶に響く。
「最初は、ただバレンタインをきっかけに料理下手を克服しようと思っていただけなんだろうけど。その訓練に、不味い不味いと貶しながらいつまでも付き合ってくれる最悪に優しい子がいてね」
「その人を“美味しい”と笑わせるために、ぶっ倒れるほど努力して、奇跡だって起こしちゃうのがちゃんよ!」
そこでジェリーに思い切り背中を叩かれた。
呆然としているうちに今度はラスティに頭を撫でられる。
面倒くさそうな手つきだったけれど、それでも指先が髪を滑ってゆく。
「よかったね、アレン君」
「………………………」
「あのチョコレートケーキの山は、ぜんぶ君のだよ」
「……………………………………」
「ひとつ残らず、彼女から君への贈り物だ」
アレンはしばらく黙ってラスティを見上げていた。
どちらも無表情だったからジェリーはちょっと面白いと思う。
会話の内容が内容なのだから笑えばいいのに、男というものは複雑だ。
乙女の心を持つ彼には理解できない領域だった。
「食べたんですよね」
唐突にアレンが言った。
ジェリーはきょとんとする。
「え?」
「のチョコレートケーキ。ジェリーさんもラスティさんも、食べたんですよね?」
「うん、美味しいところをね」
あっさりと頷いたのはラスティで、ジェリーも彼に調子を合わせる。
「ええ、あれは料理人のアタシからしても素晴らしい出来で……」
「僕のなのに、食べたんですよね!!」
そこでアレンが大声で言った。
吃驚して見ると彼の顔は真っ赤だった。
照れているのかと思えば、どうやら怒っているようだ。
「あれ全部僕のものだったのに!皆して食べたんですよね!ひどい……、酷いです!!」
ぷんすか言って食堂中を見渡す。
そこに倒れ伏している全員さえも、アレンにとっては恨むべき存在だった。
「よくも僕のものを勝手に食べたな……!」
「いや、13段目より下は不味いんだから、食べてくれてよかったんじゃないの」
冷静なラスティの突っ込みにさえアレンは吠えた。
「の作ったものなら不味くたって僕のなんですよ!!」
怒鳴るだけ怒鳴ってアレンは一目散に駆け出した。
死に絶えている団員達を蹴散らし、を目指す。
彼女の膝枕で寝ていたラビをとどめとばかりに思い切り踏みつけた。
そこからアレンとは他人には止めることのできない喧嘩を始めて、食堂はさらなる惨劇に見舞われた。
遠くからその激戦を眺めつつジェリーとラスティは呆れた声を揃える。
「「……結局、彼女が作ったものなら何だっていいんじゃない」」
あれだけ騒いどいてそれかよ、という突っ込みは否めなかった。
しかしその後、が上手くなったのはチョコレートケーキだけだということが判明する。
他のメニューは今まで通りひどい出来だったのだ。
そうしてアレンは鬼コーチと化し、地獄の特訓が幕を開けたのだった。
「作れ、作り続けるんだ!そうすればいつかは劇的に美味しくなる!安心して、失敗作は全部僕が食べてあげる!!」
「うわぁん!この人マジだよ目が怖いよー!!」
容赦なくビシバシしごくアレンと、泣き喚きながら料理をするの姿が当たり前のものになるのに、そう時間はかからなかった。
カウンターに頬杖をついてそれを観戦しながら、ラビは隣にいる神田に言う。
「あの不味い料理を上達するまで延々と食べ続けられるのは、大食漢のアレンだけだろうなぁ。そう思わね?ユウ」
「…………ふん。それだけじゃないだろう」
おやおやオマエまで気付いていたか、と思ってラビは瞬く。
神田は不愉快げに、けれど否定するでもなく呟いた。
「いくら大食いでも耐えられるものか。いつ美味くなるともわからない、あんな殺人料理」
「ああ、だからアレンだけなんだろうさ」
ラビは翡翠の瞳を細めて厨房を見やる。
まだ不味いと叱咤するアレンと、涙目で包丁を握り締めている。
殺伐としているわりに、どうしてこう楽しそうに見えるのだろう。
その答えをラビは知っていた。
微笑みにのせて言う。
「こんなこと、美味しいものとが大好きな奴じゃなきゃ絶対に付き合ってやれねぇもんな」
そしてそんな彼の名前を呼んだ。
「なぁ、アレン!」
脅された。殺された。心も魂も、ひとつ残らず持っていかれた。
だからいつか教えてあげよう。
君のその、唇に。
今はまだ行方不明の言葉、迷子の告白を。
はい、バレンタイン夢でした〜。
ついにヒロインが進化しましたね。
殺人的料理(不味い)から殺人的料理(美味い)に成長です。
途中経過をすっ飛ばしているところがらしいと思います。(爆)
普通のもん作れんのかい。ええ、作れません!
他の料理はこれからうまくなっていくんじゃないでしょうか。アレン先生の指導の元で。^^
といってもアレンは料理できない(私的設定)なので、不味いか美味いかしか教えてくれませんが。
ヒロイン自力でがんばれ!!(笑)
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