いつだったかな。彼女が言ったんだ。
少し眼を細めて、唇を緩めて。
祈るように、言ったんだ。


「私がいなくなったあと、思い出すのは笑っている顔だけにしてね」


そのために、絶対、泣かないでいるから。







● メルヒェン・パラドックス  EPISODE 7 ●







白い。
白い月光、白い砂浜、白い夜着。
そして、白い両脚。


自身が取り憑いた少女の下肢を、プシュケは観察するように見下ろす。
可愛い足だこと。爪なんてまるで桜貝のよう。
これを意思のまま動かせていることが少しばかり不思議だった。
“歩ける”ということにまだ慣れていないのだ。
つま先で砂を蹴り上げる。素足で海岸を進む。いくつもの足跡を残して。
さぁ、彼は迎えにきてくれるかしら?
私を探し出して、抱きしめてくれるかしら?


「当然よね。だって恋人なんだもの」


プシュケはくすりと微笑んで、おもむろに歌を唄い出した。
童謡ばかりだ。だって流行の歌など知らない。誰も教えてはくれなかった。
優しいメロディはいつの間にか知っていただけのものだ。
両親は私に興味がなかったし、妹は自分のことだけに夢中だった。
お姉さまが役立たずだから、私が頑張らないといけないのよ。私が優秀なお婿さんを迎えないと、この家はお終いなのよ。
そう言っていつも私を責めていたわね。不満と憐憫、そして途方もない優越を込めて。


何だか楽しくなってきて、歌に笑い声を混ぜる。
プシュケはステップを踏むように先へ先へと歩んでゆく。
目指す場所はひとつだった。


真っ暗な洞窟を抜けて、唐突に視界に広がる、青・蒼・碧の世界。
プシュケが初めてとアレンに出逢ったところだ。
巨大な海水溜りの明るさは今日も変わらなかった。
否、満月のおかげで輝きを増している。
何度も見ているのに、その美しさに嬉しくなって、口ずさむ歌がアップテンポになる。


「うふふふふ」


微笑みも押さえきれない。
不意に飛び込んでみたくなって、プシュケは夜着に手をかけた。
どんな感覚がするのだろう。
この脚を海に入れたら、どれほど冷たいのだろう?どれほど気持ちいいのだろう?
水を掻く感触を味わいたい。
だって生きていたころはそんなこと出来るような体ではなかったし、死んでからは邪魔な皮に阻まれていた。
我慢できなくなって、肩紐を滑り落とす。
ぱさり、と足元に落下した薄いワンピースを蹴り飛ばして、残っていた下着も取り去ってしまった。
を産まれたままの姿にしたプシュケは、その全身に夜の空気と水の気配を纏いつかせる。
それだけでも素晴らしい開放感があった。


「プシュケさん!!」


背後から名前を呼ばれた。
よほど急いで走って来たのだろう、喘鳴混じりの声が問い詰めてくる。


「なにを……、何を、しているんですかっ!」


近づいてくる息遣いにも、反響する足音にも、本当は気がついていた。
けれど行動を急くことはしない。
だって私は彼を待っていたのだから。
プシュケは首だけねじって後ろを返り見た。


「あら、王子さま。ご機嫌よう」


プシュケはゆったりと微笑んでアレンを見つめる。
肩で息をする彼は、髪も乱れていたし、服装もいつものようではない。


「どうしたのかしら?そんなに慌てて」


言いながら体ごと振り向こうとすれば、アレンは引っ叩かれたかのような動きで顔を背けた。


「ど、どうして服を着ていないんです」


口調は責めているのか混乱しているのか判断しにくい。
きっと反射だろうけれど、頬が赤くなっていたから、プシュケはクスクス笑って前に向き直った。
こんなときでもの裸を見ないようにしているアレンが、とても可愛くて滑稽に思えた。


「人魚は水が恋しいものよ」


プシュケは片足を海に浸ける。
想像以上の爽快感だ。もっと感じたくなって、一気に腰の辺りまで入水した。


「待っ……、やめてください!」
「何よ、止めたいの?まともに見ることもできないくせに」
「……っつ、それでも駄目です。今が何月だと思ってるんですか?が風邪を引いてしまいます!」
「だから?この子のことなんて知らないわよ」


きっぱりと言い切ると、アレンは返答に詰まった。
プシュケは面白くなって続ける。


「そう、どうでもいいのよ。私には関係ないじゃない。こんな子、どうなったっていいわ」


プシュケは両腕を動かして水を跳ね上げた。
もはや水位は肩まできている。
金髪が広がってますます光り輝いた。


「……何故だかわかる?」


満面の笑みをアレンに向ける。


「あなたが好きだからよ」


水面で体が見えないからか、告げられた言葉のためか、今度はアレンも視線を逸らさなかった。
ただ痛いものを見るかのように瞳を細めてみせた。
その表情がプシュケの胸に灯る炎に油を注ぐ。


「……ねぇ、来て」


海水に身を沈めたプシュケは掌を差し出す。
濡れた白い肌が異様に艶かしい。


「この子が心配なら、こちらに来て。私を捕まえて。あなたが引っ張り上げればいいじゃない」
「………………………」
「できないの?だったらもっと、深いところに行ってみようかしら」
「……、わかりました」


アレンはあまり考えることなく頷いたように見えた。
海に入ったときの反応で、プシュケは何となく悟っていた。
恐らく、“”は泳げない。もしくは水が苦手だ。
だったらそんな彼女の体を、アレンがこのままにしておきたいはずがない。


「ふふっ」


プシュケは指先でアレンを招く。


「さぁ、こちらへ」


アレンは手に持っていたコートを地面に落とすと、ブーツを引っ張り脱いだ。
裸足で岩肌を歩いてくる。


「服は?」
「このままです」
「濡れるわよ」
「……僕まで裸になってどうするんですか」


うんざりした様子で呟いて、アレンは海に入ってきた。
衣服を身につけた状態だというのに素早く近づいてくる。
すぐに腕を伸ばせば届くという位置まで来たから、プシュケはパッと手を引っ込めてやった。
思ったとおりアレンが睨んでくる。


「駄目。ここまで来て」


小首を傾げて笑う。
囁く声で誘う。
アレンは仕方なくといったふうに、プシュケの目の前までやってきた。
さすがに身長差があるから、の体では肩まである水位も、アレンの体では胸あたりまでだ。
リボンタイの端を濡らしながら、アレンはプシュケの手を取った。


「捕まえましたよ。さぁ、これで観念して帰……っつ!?」


ため息混じりのアレンの台詞は、最後で音のない悲鳴に変わる。
わずかによろけた足を踏ん張って、バランスを取ってみせたけれど、両腕は宙に浮いたままだった。


「プ、プシュケさん……!」


面白いほどアレンの動揺が伝わってくる。
心臓が跳ねて、鼓動が暴れ出す。
プシュケはそれをアレンの胸に耳を押し当てて確認していた。
彼の背にまわした両手に力を込め、ますます素肌を押し付けてやる。
今やの柔らかい乳房は、アレンの固いそれに押しつぶされて、完全に形を変えていた。


「ちょ、ちょっと!ちょっと待って……!は、離れてください!!」


あまりに感触が鮮明なのだろう、今度こそアレンは真っ赤になって、必死に少女の体を遠ざけようとしていた。
けれど突き放せはしない。
ここは水の中だ。下手をすると“”は溺れてしまう。
強硬手段に出られないアレンを間近に見上げてプシュケは言う。


「本当はね、嫌いなの」


アレンの好きなの笑顔を真似て、微笑んでやる。


「大嫌いなのよ」


可愛い顔に浮かべる優しい表情。
プシュケは子守唄でも歌うように続けた。


「私はねぇ、この子が嫌い。大嫌い。何だってこんな子に取り憑いたのかしら?それしかなかったからだけど、そんなの無視したくなるくらい嫌いで大嫌いで。本当に吐き気がするわ。どうにかなっちゃいそう」


口調に騙されなかったアレンが目を見開いたから、その視界いっぱいにの顔が映るよう、プシュケは身を乗り出した。
彼の全身に、少女の全身を感じさせる。


「だってねぇ、この子とっても馬鹿なのよ。理屈で恋ができると思っているの。理性で感情が制御できると信じているの。お子様すぎて笑っちゃうわよね?ふふっ、うふふふふふっ」


穏やかなのに狂気を含んだその笑いに、アレンが後退しようとしたから、プシュケは両手で彼の顔を挟んで引き止めた。
睫毛が頬を掠める。歪な傷が目の前だ。


「それでねぇ、私あなたも嫌い」


ねっとりと絡みつくような、甘い甘い告白をする。


「こんな子を想っているあなたが嫌い。好きだと思っているくせに。他は眼中にもないくらい愛しているくせに。こんな馬鹿な子に甘えきって、何ひとつできやしない怖がりなあなたが、大大大大大嫌いよ」


爪を立ててアレンの頬を辿る。
どうして血が出ないのかしら?傷跡をえぐってやっているのに!


「ねぇ、私ずっと不思議だったの。何故『人魚姫』は泡になったのかしら?」
「……プシュケさん」
「なんで?どうして?おかしいじゃない」
「プシュケさん」
「彼女が報われないなんて変だわ。そう、愛が在ったのなら人魚姫は死ななかったはずよ」
「プシュケさん!」
「そうよ、人魚姫は王子さまを愛してはいなかったんだわ!だって本当に想っていたのなら短剣を捨てられるはずがないもの!!」


確信を持ってプシュケは頷く。
右手を素早く下ろして、アレンの腰元を探る。
ほら、あった。
だってアクマとかいう化け物以外に、あなたはその奇怪な左手は使えないものね。
こんな時間に、何も持たずに、行方のわからない女の子を探しにきたりはしないわよね。
それともこれは、の持ち物だったのかしら?
ほら、この手にぴったりと納まってしまったわ。
プシュケはアレンの持っていた、護身用のナイフを引き抜くと、満面の笑顔のままそれを振り上げた。


「そう、本当に愛していたのなら、人魚姫が王子さまを手放せるはずがない!こうやって殺したはずなのよ!!」


海面の光を弾いた刃が銀灰色の眼に映り込む。


「それこそが“本当”でしょう?」


楽しいわ。嬉しいわ。だから笑いが止まらないの。
夢を見るような気持ちでプシュケはアレンを抱きしめる。


「さぁ死んで、王子さま」


の顔で、の声で、の唇で、プシュケはアレンへと想いを告げた。




「愛してるわ、“アレン”」




そのときの哀に満ちた彼の表情が、プシュケをこのうえもなく幸せにした。




















蒼に支配された空間に、目も覚めるような赤が散った。
それを見てプシュケが歓声をあげる。心からの笑顔を浮かべる。


アレンは息もできないほどの冷たさを感じていた。
水温は低い。
衣服に染み込んだそれがどんどん体から温もりを奪ってゆく。
抱きついてくるも似たようなものだ。
滑らかな肌は血の気を失って、今や紙のような白さだった。
そこに降りかかる深紅。


プシュケの振り下ろしたナイフをアレンは避けなかった。
抱擁を受けたときから感じていた、凄まじい力。
渾身の一撃が肩に突き立てられる。
刃が皮膚に食い込んで、あたたかな血が噴き出した。
絶えず聞こえてくるプシュケの哄笑が、まるで漣のようにアレンへと打ち寄せてくる。


「大丈夫よ。幸せにしてあげる」


頬にべったりと血をつけて、“”の顔が虚ろに微笑んだ。


「愛してあげる。この子はあなたを愛さないけれど、私が代わりに愛してあげる。あなたはこの子を殺せないけれど、私があなたを殺してあげる」


もう一度同じ箇所にナイフを刺し入れられた。
痛みに顔を歪める。脂汗が浮かんでくる。
襲ってくる力は少女のものとは思えなくて、いくらアレンでも敵いそうになかった。
本気を出せばどうなるかわからないが、“”の体に乱暴な真似はできない。
同時にプシュケを傷つけるのも嫌だった。
だからアレンは悲鳴もあげずに刃を受け入れる。


「……っつ、く、プシュケさん」
「馬鹿な人魚姫。愛しているのなら、殺さないといけなかったのに」
「……、何故です?」
「何故?おかしなことを訊くのね。馬鹿な王子さま。頭の悪い魚娘とお似合いよ」
「そうですか、ね……」
「好きだったから短剣を捨てた?愛していたから殺せなかった?献身的で一途な想い?相手が幸福ならそれでいい?綺麗事はやめてよ」


プシュケはアレンに突き刺したナイフをぐるりと回し、えぐるように一気に引き抜いた。
美しい水面に流れ落ちる血。
即座に薄まってアレンのシャツをピンク色に染める。


「好きだったらね、離れられないわよ。本当に愛していたら、他のことなんてどうだっていいの。……それなのに人魚姫は何?魔女に声を売ったくせに。痛いだけの足を得たくせに。家族も故郷も全部ぜんぶ捨ててしまったくせに!」


プシュケはアレンを睨みつけた。
否、睥睨しているのは別のものだろう。
喉から絞り出すようにして呻く。


「自分なら切り売りできるくせに。自分の痛みなら耐えてしまうくせに。自分のものなら平気で放り投げてしまえるくせに。相手のこととなると途端に尻込みしてしまうなんてね」


それをの声で聞くのは、アレンにとって非常に奇妙なことだった。


「どうして恋敵と戦わなかったのかしら?どうして縋ってでも王子さまを引き止めなかったのかしら?本当に好きならそのくらいしなさいよ。たくさんのものを犠牲にしたくせに、人魚姫は他人に対して甘すぎる」
「……それは、優しさなんじゃないですか」
「違うわ。臆病なだけよ」


プシュケはきっぱりと言い切って、再びアレンにナイフを突き刺した。
今度は胸に近い。
痛みもひどくなって、アレンは意識が揺らぐのを感じた。


「自分のことならどんなことだってやってのけるくせに。別の“誰か”が絡むとてんで駄目ね。どうせ自分を受け入れてもらえる自信がないんでしょう」
「………………………」
「馬鹿な人魚姫。馬鹿な。そんな女が愛するなんて、愛されるなんて、おかしな話でしょう?」
「そんな、ことは」
「だから殺すの」


吐き捨てるような口調が再びうっとりとしたものに変わる。
ナイフの柄を持つ手に力がこもる。
刃が骨に当たって、アレンは悲鳴を噛み殺した。


「この洞窟に来た恋人たちもそうよ。私が殺してあげたの。だって愛し合っているのでしょう?それなのに生き続けているなんて変でしょう?いつかは死が二人を別つというのに」


プシュケの腕。感覚はの手。アレンを抱きしめて離さない。


「駄目よ。離れては駄目。ずっと一緒にいなくっちゃ。生きていたらそんなのは無理だわ。絶対に不可能なの。だからね、二人で死ななくちゃ!」
「……あなたが、そうだったんですか?」


アレンは激痛を無視してポケットを探り、震える指でそれを掴み出した。
プシュケの目の色が変わる。
もどかしさ、淋しさ、切なさ、叫び出したくなるような哀情を感じる。
眼前の悲しい女の子にアレンはブローチを差し出した。


「青い薔薇」


の部屋に残されていた、アレンからのプレゼント。現実には存在しない花。


「あなたが欲しかったのは、僕からじゃないんでしょう?」
「……いいえ。アレンからよ」
「“アレン”?」
「そう。同じ名前だったの」


アレンはプシュケの見開いた瞳に映っているのが、自分ではないことをとっくに承知していた。
そうか、“アレン”というのか。
彼女を殺した、彼女の恋人の名は。


「……彼は庭師だったわ。私の生家で働いていた。お父様も住み込みで同じ仕事をしていたから、ずっとずっと一緒に育ってきたの」


空虚な穴みたいだ。プシュケの双眸も、開閉する口も、揺れる声音も。


「一日のほとんどをベッドで過ごす私に、彼は毎日花を持ってきてくれた。溢れるほどたくさんの花を。私に彼の優しさや健やかさが疎ましかった。外の世界を自慢されているようで、どうしても我慢がならなかった」


プシュケはアレンの掌から、青い薔薇のブローチを毟り取った。
ますます瞼を押し広げてぐるりと目玉を動かす。


「だから、言ってやったの。青い薔薇を持って来てって。赤や黄色じゃ嫌よ。青い青い、真っ青な薔薇をプレゼントしてちょうだいって。……そうやって追い払ったつもりでいたのよ」


唇にわずかながら笑みを浮かべたかと思うと、プシュケは手を翻してブローチを放り投げた。
ぽちゃん、と嘘みたいに軽い音がして水面が揺れる。
それもすぐにおさまって青い薔薇は海底へと消えていった。


「……あの人は諦めなかったわ。子供のころの約束を守ろうと、必死の勉強と研究を繰り返した。独学で花の改良を進めて、紫の花弁を生み出すところまでいったのよ」


華奢な肩が何度も揺れるからプシュケが笑っているのだと知れた。
それでもアレンには迷子の子供が途方にくれて、震えているようにしか見えなかった。


「青い薔薇の花言葉を知っている?それはね、“不可能”よ。この世では絶対に有り得ない色彩なの。そんなものを生み出そうとしたなら、どれだけのお金が必要なのかしらね?」


アレンは視線を投げてプシュケが沈めてしまったブローチを探した。
一面の蒼だ。
どう足掻いても見つけられそうにない。
そのことがとても悲しかった。


「研究費が彼の生活を食い潰し、人生を破綻させたわ。家族に見捨てられ、友人に裏切られ、それでも言うのよ。“待っていてくださいね、お嬢さま。いつか必ず青い薔薇を差し上げますから”って」


アレンとは正反対に、プシュケの目はもう、そんな花など探してはいなかった。


「私は産まれたときから重い病気で、歩くことすら叶わなかった。成人まで生きられないだろうと医者に言われ、両親は出来損ないの娘を無視することに決めたわ。家のことは健康な妹に任せればいい。あとはお荷物な姉が早く死んでくれればいいって……」


ゆらりと顔をあげた、彼女の瞳は碧ではなかった。
アレンは息を呑む。
光る海面と同じ色をしていたプシュケの眼は、もはや朽ち果てた薔薇のように濁っていた。


「病状が悪化すると、家族は私を施設に放り込み、さっさとこの地を離れていった。置き去りにされたの。見捨てられたの。使用人もすべていなくなったわ。……彼だけを除いて」


ナイフを握っていない方の手が伸びてきて、アレンの頬をそっと撫でた。
途端に全身に鳥肌が立つ。
触れた掌はあまりにも冷たかった。


「アレンだけが傍にいてくれたの。私の手を握って、瞳を見つめて、微笑んでくれたの。死に損ないの女に、同情したのかもしれない。子供のころの約束を守ろうと、意地になっていただけなのかもしれない。……とても優しくて強情な人だったから。ねぇ?“アレン”」


死者の指先がアレンの肌を辿ってゆく。
体温を奪い取り、生命いのちを蝕んでゆく。


「愛しているわ、アレン」


ゆっくりと、頬を撫でる動きと同じ速度で、プシュケはナイフを引き抜いた。
痛みが遠い。感覚が鈍い。駄目だ、意識を囚われる。


「あなたもそうよね?だから私を殺したのよね?」


何度目かに振り上げられる刃は、血に雲ってもはや輝くことはない。


「死期を悟った私は、薄情な家族が寄越したお金も、残していった身のまわりの物も、全てあなたに譲ったわ。生活を立て直して、幸せな人生に戻ってほしかったから。……それなのに、あなたは。あなたは…………」


ナイフを握る手がぶるぶると震え出すのを、アレンは無心で見つめていた。
プシュケから発せられる、愛と哀に圧倒されて、何も考えることができなかった。


「あなたは私をここに連れてきた。人魚伝説の残るこの洞窟に。最後の思い出作りだと信じて喜ぶ私に、あなたは微笑んでこう言ったわよね?“死んでくれ”と」


いろんな感情を混ぜ合わせて、色を失った双眸から、涙がこぼれ落ちた。
濁流だ。
堰をきって溢れ出す、死してもなお消えない想い。


「病に冒された私の喉は、悲鳴すらあげられなかった。私も“愛している”と返せなかった。それでも名前を呼ぼうとした私の唇を、あなたはキスで塞いだわね」


プシュケの死因は紛れもなく“愛”だった。
アレンは堪らない恐怖を感じる。
薄々気付いていたことだけど、確かに愛は凶器になり得ることを、はっきりと証明されてしまったからだ。
一歩間違えれば、“アレン”がプシュケを殺したように、自分もを死に至らしめるだろう。
それが肉体を滅ぼすことになるのか、心を殺すことになるのかは分からないけれど、すれ違った感情が、受け入れられなかった想いが、確実に彼女を屠ろうとするはずだ。
間違ってしまった愛。
行き場を失ってしまった愛。
己からはぐれてしまった愛は、相手を癒す薬から、息の根を止める猛毒へと姿を変える。


「ねぇ、アレン。どうしてあなたはを殺さないの?」


心底不思議そうにプシュケは尋ねた。
心を読まれた気になって、アレンはびくりと身を震わせる。


「実らない恋よ。叶わない愛よ。だったら殺すしかないじゃない。この世で結ばれないのなら、二人で死ぬしかないじゃない」


アレンはプシュケと目を合わせたまま首を振った。
強張った筋肉を無理やり動かして、彼女に否定を示してみせた。
今ここで明確に宣言をしないと、自分も“アレン”と同じようになってしまうと、漠然ながらも理解できたからだ。


「……殺しません」


プシュケはくるりとナイフをまわすと、“”の首筋に突きつけた。
アレンは咄嗟にその手を押さえる。
自分に刃を向けられるよりも、ずっとずっと怖いと思えた。


「プシュケさん。僕はを殺したくはありません」
「偽善者」
「違う。もっとひどいかもしれない。……破壊したいんです」
「殺すのと、どう違うの」
「僕は彼女の全てを壊したい。けれど、それは」


方法なんて全然わからない。
上手いやり方なんて見つからない。
それでも、僕は探し続けるよ。


「それは、死のためではないんだ」


プシュケが目を見張った。
アレンはその隙にナイフを受け取ったけれど、うまく握れなくて海へと沈めてしまう。
ブローチよりもずっと大きな波紋が広がり、水面にじわりと赤が浮かぶ。


「愛したのは、此処にいるだ。愛してしまったのは、この僕だ。どちらも生きているんです。……これはせいがあるから、生まれた想いでしょう?」


僕は少し異常なのかな。
“殺したい”と“壊したい”は紙一重で、事実何度もそれを夢見た。
鮮明な想像でなくても、心のどこか暗い部分で、ひたすらに願っていた。
どうしてだろう、たった一人の人間に、これほど執着してしまうなんて。
けれど、が好きで、大好きで、愛しているから、そう自覚してしまった瞬間にもっともっと、欠片だって失いたくなくなった。
強い信念を持って、弱い自分を隠しながら、ひたむきに生きてきた彼女。
いつかその時が訪れると知っているのに、本当は望んでいると感じ取っているのに。
“死”にすら奪われたくない。
僕は、おかしいのかな。


を殺しても、彼女は僕のものにはならない。自分の手で、この世界から、愛する人を消すだけだ」


手に入れた瞬間、失うだけだ。
アレンはプシュケを真っ直ぐに見つめながら告げた。




「僕には、愛でせいを、否定することなんて出来ない」




だって僕は、どうしようもないくらいを愛している。
“生きている”をも、愛しているのだから。


空白の時間があった。
プシュケの顔からは表情が拭われ、流れていた涙も涸れ果てる。
真っ青になった唇が“アレン”と動いたように見えた。


「!?」


次の瞬間、凄まじい力で首を圧迫された。
衝撃によろけた足を撥ねられる。
アレンの体はバランスを崩して水面に叩きつけられ、強引に海の中へと沈められた。


「だったらどうして私は殺されたのよ!?」


悲鳴のような叫び。
くぐもって聞こえる。
水が耳を、口を、目を覆う。
プシュケはの体では出し得ないような力で、アレンの気道を塞ぎ続ける。


「私は殺されたの!こうやって首を絞められて殺されたの!“愛しているよ”と囁きながら、優しく微笑みながら、殺されたのよ!!」


息が出来ない。
襲ってくる水の暴力に、アレンの抵抗は無意味だった。


「そうしたのはあなたでしょう、“アレン”!それなのにどうして?どうして、あなたが、そんなことを言うの……!?」


首を掴まれたまま引き上げられる。
足りない酸素を吸えば肺が震えて、血の味がする咳が出た。
苦しい。
絞殺されるのと溺死するのでは、どちらが苦痛を伴うのだろう。


「私は殺された!愛されていたから、殺されたの!間違っているのはそっちよ!!」


精神の歪みを露呈するようにプシュケは金切り声でわめく。
笑い声が混じり始めたそれは、何故だか悲しい歌にも聞こえた。


「自分を押し通す勇気もなく、短剣を捨て去った愚かな人魚姫」


プシュケは何度もアレンを海へと沈める。
首に絡みついた指は奇妙な音をたて、の肉体をも破壊しようとしているようだった。


「私は違う。泡になんかならない。消えたりしないわ。そして殺し続けるの!」


あぁ。
血を失い、呼吸を奪われ、それでも瞼を開いたアレンは見た。
その呪われた左眼で確かに感じた。
これが、アクマに内蔵されてしまった者の、行き着く先なのだろうか。
―――――――――魂が、壊れている。


「あなたの愛を証明するために、私は殺し続けるの!!」


最初からそれが目的だったのだろう。
プシュケはアレンを殺したかった。他の誰でもない、の手で。
愛する者によって、愛した者を葬り去る。
そうすることで、彼女は自分を殺した恋人を、必死に肯定しようとしていたのだ。


「……生きたかったんですね」


アレンはプシュケに抗いもせず、己の首にかけられた彼女の手に、自分のそれを重ねた。


「あなたは、死にたくなかったんですね。彼と……“アレン”と共に生きたかったんですね」
「……だったら何だと言うの」
「プシュケさん。あなたはひとつ思い違いをしている」


喉を押さえつけられているから、吐息ほどの声しか出やしないのに、苦しくて苦しくて仕方がない。
巡りの悪くなった血が、遅くなってゆく鼓動が、頭の芯を痺れさせる。
アレンは思考することもできずに続けた。


「彼はあなたを殺すことで、愛を伝えたわけじゃない」


揺れる視界。
揺れる瞳。
あれ?見つめた先の双眸にチラチラと光るものは何だろう?


「彼はあなたをアクマにした。それはつまり、千年伯爵の言葉に応じたことを示している。……伯爵は、彼に、こう言ったんですよ」


碧、じゃない。
他の色でもない。
あれは、何色?


「“愛した者を蘇らせてあげましょう”、と。プシュケさん。“アレン”はあなたに死を望んだわけじゃない。―――――――――願ったのは、せいだ」


首を絞める力が、それを留める力に、負けようとしていた。
アレンは少しばかり自由を取り戻す。
痛む肩を無視して両手を伸ばし、冷え切ってしまった少女の頬を包み込んだ。


「よく聞いて」


“アレン”は間違った。
家族にも友人にも見限られ、最愛の女性に死期が訪れたとき、絶望の中でしてはいけない選択をした。
千年伯爵の甘美な囁き。
“彼女を病と死から救ってあげまショウ。魔導式ボディに魂を入れれば、永遠に生きられル。ずっと、ずーっと二人で一緒にいられマスヨ”
そのために、プシュケを殺せと、唆されたのだ。


そして、結末が、これなのか。
アレンは聖職者エクソシストとしても、人間としても、深い悲しみを感じて抑えきれなかった。


「愛しているから、殺したんじゃないよ。愛しているから、二人が共にある道を必死に掴み取ろうとしたんだ」


それこそ、どんな方法を取ってでも。
愛する人を、この手にかけてでも。


絡みつくプシュケの五指から完全に力が抜ける。
落ちてゆく両手をアレンは繋ぎとめた。
今度こそ見えた。
彼女の瞳の色が、美しい金に染まるのを。


「僕の想いは君を殺さない。君を壊すんだ」


プシュケさん。
僕はあなたの“アレン”じゃない。
けれど、とてもよく似ている。
取るべき方法が違うだけで、願ったことは同じなのだから。
僕は殺すのではなく、壊してあげたい。
過去から続く罪も罰も。その胸に巣食う苦痛も絶望も。
ひとつ残らず、この手で。


「――――――――― 一緒に生きてゆくために」


腕を引き寄せて覗き込む。
あぁ、ほら、やっぱり。





アレンは金眼の少女にキスをした。
空気が欲しかったのだ。
ずっと首を絞められていたから、何度吸ったって足りやしない。
君だってこれからは、僕の呼吸で、生きていけばいい。


“アレン”は囁いた。




(愛しているよ)




唇と唇が触れ合って、ぬくもりが戻ったとき、白い光がアレンの眼前で爆発した。




















アレンに呼吸を戻された。
正しくはプシュケの息を止め、自分へと吹き返されたのだ。
同時に血が熱くなる。
水に奪われ続けていた体温が一気に戻って、は激しい衝撃を受けた。
体の内側で火花が散っている。
バラバラに光っていたそれは、徐々にひとつに集まって、やがて大きく弾け飛んだ。


光。
人口のそれではない。
けれど太陽や雷とも違う。
普段は目に見えていない、人間が発するエネルギーを寄り集めて、可視できるまでに増大させたようなものだ。


の目が白を認めた。
砂だ。海底に積もった白砂。
水は全て消し飛んでいた。当たり前だ。あれだけの熱量を発したのだ。
随分長い時間海水に浸かっていたのに、体どころか髪の毛一本も濡れてはいない。
全てを蒸発させた熱は、それでも納まってはくれなかった。
ぐるぐると体中を巡って内からを灼いてゆく。





アレンに呼ばれた。
すぐ近くだ。彼の手が、自分の腕を掴んでいる。


「今、何を」


愕然とした声が、問いかけてくる。


「何をしたんだ?イノセンスは、持っていないはず」


はゆっくりとアレンを見た。
困惑に瞬く瞳。出血と暴力に疲労した顔。緩慢にしか動かせない視線。
ナイフで刺された肩がひどく痛々しい。
それでも彼は自分のことなど気にもかけずに、こちらの様子を認めると息を呑んだ。
そうよね、驚くよね。
燃え盛る力を感じながら、一方で水のように冷静に、は思う。
ごめんなさい、でも目を閉じられないの。
まばたきすら出来ない。
限界まで見開いた金色の瞳は、その奥に光源でもあるかのように、自ら光り輝いていた。
色が深い。瞳孔が広がっている。
はアレンを見ているつもりでも、彼からしたら我を失っているようにしか思えないだろう。


「イノセンスはいらない」


アレンを安心させたくて声を出したのに、我ながら妙な感じだった。
私はいつもどんな風に喋っていた?
少なくとも、こんな無機質な口調ではなかったはずだ。


「必要ない」
「何を……」


引き止めようとするアレンの手をすり抜けては立ち上がる。
衣服を身につけていないから動きが軽い。
近しい間柄とはいえアレンは男性だから、本当ならば羞恥を感じなければいけないのに、そんな余裕もなくて、ただ邪魔が入らないことを喜んでいた。
それはの中から湧き上がってくる熱も同じだ。
早く早く、とやたらに急きたててくる。


「プシュケさん」


はアレンに背を向けて、海底の中央に立った。
顔を向けた先では女性が蹲っている。
初めて明瞭に見る、プシュケの本当の姿だ。
自身の中から追い出した彼女を、は例の光る眼で眺めた。
髪は黒い。肌は白く、透明感に溢れている。もっとも霊体だから本当に透けているのだけど。
彼女は顔に恐怖を浮かべて、碧い双眸を震わせていた。


『あなた、どうして……』
「“どうして”?何を不思議に思うことがある?これは私の体。主導権は私のもの」
『そんなはずはないわ!だったら、あなたは私がその人を傷つけるのを、黙って見ていたって言うの!?』
「……いいえ。ほんの少し前まで、眠りに落ちていた。ひとつの体にふたつの魂を入れておけば、ひどい疲労を負うことになる。久しぶりの感覚に耐え切れなかっただけ」


は視線だけでアレンを振り返った。


「私が休息を取っている間に、随分と好き勝手をしてくれたね。あなたの壊れた魂をなだめようと、私も譲歩し協力したつもりだったけれど」
『………………………』
「もう、駄目。あなたは生者を傷つけた。本来ならば不可能なことを、成してしまった。もはやどんな謝罪も無意味。懺悔は届かない。絶対に許されない」
『何を、言って……』
「もっと早くにこうすればよかった」


低く呟いたに、プシュケが嘲笑をあげた。


『何よ、その言い方!それじゃあまるで、その気になればいつだって、あなたは自分の体から私を追い出せたみたいじゃない!!』
「そうだと言ったら?」


ヒステリックな女の笑いを、少女はあっさりと切って捨てる。
はわずかに視線を落とし、普段に近い口調になるよう願った。


「ごめんね、アレン。この力を使いたくなかった。だから私はプシュケさんを放置しようとした。自然な方法で、昇天してもらおうと思ったの。……それが間違いだったわ」


彼の肩を刺したとき、手に伝わった衝撃。血を浴びて吊り上げた唇。流れてゆく赤を感じた頬。
すべてが生々しくの身に残っていた。
きっと一生消えないだろう。
アレンを害したのはプシュケの意思だけど、それを実行したのはの体なのだ。


「ごめんなさい」


思えば私は、彼を傷つけてばかりだ。


「でも、もう終わらせる」


は屈みこんで、砂に埋まったナイフを拾い上げた。
アレンの血は残っていない。水が全てを洗い流している。
刻み込まれた罪は、消えることなどないのに。


「さぁ」


は両手を持ち上げた。
腕を広げて、脚を開く。
体の中で暴れていた熱が、瞬く間に外に流れ出て、砂浜の上に陣を敷いた。


「あなたは人を殺め続けて、歪んでしまった。血を吸って穢れた魂は浄化されなければならない。決して、門の向こうまで持って行ってはいけない」
『何……何なの……?』
「あなたを縛るのは罪。この世へと残した贖い。それを全て、私が取り祓う」
『あなた、何なのよ!!』


プシュケが悲鳴をあげる。
その身に感じているのだろう。
襲い来る力の波動を。少しずつ緩め、解き、消し去ろうとする流れを。
の瞳に光が強くなる。
陣は数を増やしてゆく。
指揮をするように広げてゆく白光は、空気をどんどん磨いて尖らせ、触れれば皮膚が裂けそうなほど張り詰めさせる。
あぁ、嫌だ。久しぶりだから加減が出来ない。
どうか、アレンに方陣の文様が見覚えのあるものだと気づかれませんように。


「Domine」


本当は何語でもよかったのだけど、アレンにもプシュケにも聞かれたくなくて、は古い言語を選んだ。
懐かしい音律。
そう、あの人はいつもこれを唱えていたっけ。


「De profundis clamavi ad te, Domine」


繰り返す。
自分が楽器になったかのような錯覚に陥る。
全身から音が力に乗って放たれ、波のように空間に広がってゆく。
張り巡らせた陣の上で、プシュケはもう動けもしない。


「Domine, exaudi vocem meam」


光に照らされた自分の手、脚、顔、そして髪。
ふわりと浮き上がる金糸を視界の隅に捕らえた。
眼光はますます強くなって、もはや人間離れしていることを自覚する。
だからこそは嫌いなのだ。自身の容姿を人外に例えられることが。


「Fiant aures tuae intendentes, in orationem servi tui」
『やめて、やめて!!』


プシュケが叫ぶから、は瞳を細めた。


「エクソシストはアクマを破壊する。そうすることでしか、魂が救われないから。これも同じ。あなたは浄化され、消えなくてはいけない」
『そんなの知らないわ!』
「私はあなたを消さなくてはいけない」
『こんなの人殺しと何が違うの!?私を非難しておいて、あなたは一体何なのよ!!』
「そう、私も人殺し。けれど、他の誰にも私の罪は消せない。肩代わりをすることはできない。何故なら、あなたの罪も私が背負うから」


は腕を振ってもうひとつ陣を描いた。


「その罪は、私が貰う。さぁ、あなたは行きなさい。安らかに眠りなさい。肉体の苦痛も、死の恐怖も、殺人の咎も、すべて譲り渡して」
『いや……!』
「あなたに残るのは愛。死して手にした、愛だけ」


頭を抱え、首を振るプシュケは、それでも抗い切れないようだった。
徐々に全身が弛緩し、眠るように目を閉じる。
彼女は今何を感じているのだろう。
愛する人の囁きに鼓膜を、恋しい人の鼓動に胸を、ひたすらに震わせているのだろうか。


「物語はおしまい。ラストシーンよ、人魚姫」


声が掠れた。
情けないことに、はプシュケを羨んでいた。
全ての罪科から開放されて、想い人のいる場所へと逝ける彼女を、心の底から羨望していた。


「“人魚姫は何故泡になったのか?”……彼女は愛に殺されたんじゃない。愛に人間としてのせいを与えられて、愛と共に浄化されたのよ」


童話はいつだって矛盾している。
唐突の悪意。娘に嫉妬する母親。何もしてくれない父親。努力せずに救われるお姫さま。
王子さまなんてこの世にいない。
意味や教訓なんて後付で、人びとの無意識にこそメルヒェンは潜んでいる。
愛すべき人間の善と悪、そして美しい世界の慈悲と無慈悲を内包して。


「De profundis clamavi ad te Domine.Domine, exaudi vocem meam」


私もいつだって矛盾している。
生きることを固く誓いながら、いつか死ねる日を待っている。
強くなりたいと願いながら、忘れ去ろうとしていた力がある。
”と“あの子”。
黒光と白光。虚言と真実。使徒と魔女。
本当の私はどっち?
今だって、ねぇ、プシュケさんの救いのために、彼女を追放しようとしているのよ。


“人魚姫は何故泡になったのか?”


その最期を、体の喪失と取るのか、魂の開放と取るのか。
そもそも“人魚”という存在自体が矛盾しているのだ。
男性を魅了する上半身と、決して受け付けない下半身。歌声は美しさに反して、死に至らしめる恐ろしいもの。
男性を惹きつけ、拒み続ける、永遠の女性像だ。
彼女は決して王子のものにはならずに消えていった。
救済のために破壊を続けるエクソシストだって、もしかしたら似たようなものかもしれない。
私たちは矛盾した生き物。
だからこそ、互いを憎みながら、愛しながら、生きている。
憎悪と愛情に燃え尽きて、生命いのちは死んでゆけるのだ。


(主よ)


信じてはいない神に助けを請うという滑稽さ。
は自己嫌悪に唇を噛み締めると、手にしていたナイフを白光の陣にかざした。
刃が煌めく。変化が起こる。
手向けの花だ。
は青薔薇へと変えたナイフを、プシュケの心臓の真上へと落した。


「Mors e locis emissum summis. Abi nunc ex oculis meis!」


限界まで洗練された空間に、退去の命令が響き渡る。
白い光に満ち、聖が降り立って、魔は破れ去った。
最後にプシュケの声が聞こえた。
“アレン”と。
愛を込めて、彼の名前を呼んだ気がした。


「…………………………」


終えたときの脱力感まで、昔と何ら変わるところがなかった。
方陣を消し去り、光を収束して、空へと中和する。
寒い。
自分を抱くように腕をさすれば鳥肌が立っていた。


「あぁ」


失望の呻きが唇から漏れる。


「まだ、使えるのね。私はまだ……」


この力を。





名前を呼ばれて振り返る。
頭を動かせば意識が揺らいだ。
アレンの表情は見えなかった。金髪が邪魔をして、それを退かす前に強い目眩に襲われたからだ。
寒い。とても寒い。
暖かな胸に抱きとめられて、はようやく楽に呼吸することができた。
自分がひどく消耗しているのがわかる。
このまま眠ってしまいたい。
それでも何とか目を開けると、青ざめた顔のアレンが見えた。


「内緒よ」


ほとんど吐息だけでは告げる。


「今見たことを言っては駄目。約束してね、アレン。でないと」


涙が出そうになった。
アレンを煩わせ、傷を負わせ、さらには自分の秘密にまで巻き込んでしまった。
プシュケに殺されかけた彼をどうしても助けたかったけれど、そのために悪夢のような場面を目撃させる羽目になってしまった。
それは罪への加担だ。いくら謝ってもきっと足りない。
唇を動かすのすら困難なほど疲労したは、それでも必死にアレンに願うしかなかった。


「でないと、あなた―――――――――殺されてしまう」


「しなないで」と囁いたのを最後に、の視界は黒に染まった。
泥のような睡魔に引きずり込まれながら繰り返す。
しなないで。


死なないで、アレン。
あなたは。




泡となって消えるのは、“私”ひとりだけでいい。










『メルヒェン・パラドックス』終章です。
あれ?何だか思ってたより恋愛色が強くならなかった……!(汗)
敗因はたぶんアレです。ヒロインがアレンの告白をスルーしたからです。
まぁなりふり構わずアレンを助けたことが一番の答えな気がするんですけど ね !

Q.何故、人魚姫は死んだのか? A.愛のために。
それを抱いたまま昇天したいと思うのがヒロインで、だったら一緒に生きよう障害なんて壊すから!と思うのがアレンです。
生死観と恋愛観がまったく逆なお二人さん。
正しくは、ヒロインがアレンの生死観を変えてしまったので、ヒロインを前にした恋愛観も変わってしまったということですね。

次回から新章です。オリキャラ出ますので、ご注意くださいませ!