泡となって消えたのは人魚姫の体か魂か。

いいえ、いいえ、愛でした。
あなたへの愛でした。


お うじ さ ま 。







● メルヒェン・パラドックス  EPISODE 6 ●







『で?初デートはどうだったんさ?』


浮かれたような、それでいて窺うような、奇妙な調子のラビの声に、は手を止めた。
横目でちらりとゴーレムを見やる。
無線の向こうで我が親友はどんな表情をしているのだろう。
考えなくてもわかってしまうから、今度は目の前の彼に視線をやれば、音速で顔を逸らされた。


「……どうもこうも、さすがのエスコートっぷりだったよ」


は何でもない様子でそう応えた。
気まずげなアレンの前髪を掻きあげて、額の傷をあらわにする。
消毒液を染み込ませたガーゼで血を拭き取ると、また新しいものを出してきて押さえつけた。


「英国紳士のデート語録、語ってあげようか?」
『うーわー、なんっか聞きたくねぇさ』
「いやいや、ラビは見習うべきじゃないかなぁ。本当にすごかったんだから!」
『マジで?どんくらい?』
「全身にもれなく鳥肌が立つくらい」
『それオマエが言うと意味合いが違うだろ』
「あはは、バレたか」


笑いながらラビと軽口をかわすけれど、アレンは黙りこくったままで、ちょっと居心地が悪い。
今のは突っ込んで欲しかったのに。


『……で?マジメな話、どうなったんさ?』


ラビが調子も変えずに訊きなおしてきたから、まで閉口してしまった。
何だろうこの空気。
ボケもツッコミも不在だなんて、やりにくいにもほどがある。
かといって、KYな神田や優等生なリナリーが加わっても、会話が弾むことはないだろう。


「……やっぱりここは私がノリ突っ込みでもするべき?」
『うん、相変わらずオマエは気の遣いかたが180度ずれてる』
「そう、ずれていたのよ。“私”を気遣ってくれちゃったの」
『んなもん、アレンがオマエ優先なのは当然つーか具体的には?』
「キスはできませんって」
『………………………』
「ね」


回りくどい説明を嫌ってずばりと言うと、ラビさえも黙り込み、アレンに至っては深くうなだれてしまった。
巨大なため息をつかれたので何だか慰めたくなって、晒された頭頂部に手をやる。
白髪をわしゃわしゃしてやれば、最近アレンの頭をよく撫でていることに気がついた。


「……よくもまぁそんな平然と」


アレンが低音で呻いたけれど、は彼の髪に指先を滑らせるのを止めない。
綺麗な色だ。
前から思っていたのだが、アレンは白髪なんじゃなくて、銀髪なんじゃないだろうか。
もちろん生来そうであったグローリアとは違う色味だ。
けれど、本人が気にしているように老人のそれと同じであるならば、こうやってランプの光に透けることはないだろう。


『い、いや、それ昨夜も言ってたし、アレンならテキトーにかわせるだろ?それも出来なかったってことか?えええええ、幽霊さん本気さね……』


のあっさりした口調にも騙されずに事を把握できるラビはさすがである。
アレンはまた大きな吐息をついた。


「……はぁ。もう、疲れました」
『ご愁傷様』
「意識しまくってるプシュケさんと、意識しなさすぎのが相手ですよ。落差ありすぎです。神経が擦り切れそうです」
『なぁ、女の子ってコワイさー。そこまでいったらキスだけで満足するんかい!って思うんだけど』
「試してみよっか?」


重々しい雰囲気の男二人が可哀想だったのでは提案してみた。
右の人差し指にアレンの髪を一房絡ませる。
ほら、やっぱり銀色だ。
こうすれば白銀の指輪みたいだ。


「………………………」
『………………………』
「……………………………………」
『……………………………………女の子ってコワイさー』
「?何が?」


二人揃って空白の時間のように黙り込んだと思ったら、珍しくラビに本気で責められた。
それと同時にアレンに手を振り払われる。
彼は椅子ごと身を引いて、からかなりの距離を取った。


「……あれ?私男の子を敵にまわすような発言した?」


行き場を失った自分の右手を見る。
アレンに思い切り弾かれたので少し赤くなっている。
それよりも、冷たくて滑らかな髪の感覚が遠のいたことが、の意識に残った。


『オマエ、わかってて言ってるだろ』


またラビが責めてくる。
声音に滲んでいるのはへの叱責と、アレンへの同情のようだった。


「この際わかってなくてもいいんだけど」
『おいコラ、だったら遠慮なくビッチって呼ぶぞ』
「どうぞ。ビッチビッチ!ってね」


包帯で膝を叩き、笑い飛ばしてみせる。
はアレンを手招いた。


「ほら、こっち戻っておいで」
「…………………なんで」
「ガーゼの上から包帯巻かなきゃ」
「……変なことしたら許しませんよ」
「変なことってキス?」
「…………………………」
「あのねぇ」


はハサミを引き寄せて、包帯を適度な長さに切った。
そう、白とはこういう色だ。
単色で完成されていて、他には染まらないし、変化もしない。
アレンの色とはやはり違う。
限りなく似ているのに、どこかが決定的に違う。


「このままじゃ」


包帯のざらざらした感触。爪に引っかかる。


「プシュケさんはあなたに何をするかわからない」


意識の上を滑ってゆく。


『夜這いでも仕掛けてくるってことか?』
「それはもうしてた。昨日の夜」
『うっそ、展開早っ!マジで女の子怖いさー』
「怖いよねー。何がゴールかわからない」


はアレンが一向に戻ってきてくれないので、横手の台に頬杖をついた。
片手で包帯を弄び、通信ゴーレムに向って続ける。


「彼女の言う“恋”が何なのか。どうすれば満足するのか。目的がわからない。終わりが見えない。そもそも決着がつけられる話なの?」


はぼんやりと目を閉じた。


「“キス”が終止符になるのなら、それでいいと思っただけよ。別にアレンを軽んじているわけじゃないけど」


肩の力を抜けば小さな笑いが漏れる。


「……まぁ、嫌なものは嫌か」


瞼を持ち上げて見ると、アレンはひどく複雑な顔をしていた。
形容できるような感情ではない気がして開きかけた唇を閉じる。
私も疲れているのかなと、らしくもなく考えた。


「中央から南に二つ目の通り」


は立ち上がってアレンに近づきながら、知り得た事実をつらつらと吐き出す。


「クレマチスの蔓に覆われた屋敷。観光地なのに現代様式だったから、住んでいたのは古くても三世代くらいかな」


アレンは急に何を言い出したのかと怪訝そうにしていたけれど、無線の向こうのラビは当たり前のように相槌をうってくれた。
お互いが頭の中に同じ地図を描いて、具体的なイメージに照準を合わせる。


「足の悪い娘さんがひとり。まったく歩けなくて、車椅子に乗っていた」
『それがオマエに憑いてる幽霊さんか』
「そう。家族構成はわからないなぁ。私の勘では姉妹がいた気がする」
『姉?妹か?』
「お姉さんかな。プシュケさんのほうがね」


こちらのやりとりに気に取られているのをいいことに、はアレンの額に包帯を巻きつけた。
逃げる暇も与えずに手早く結び終える。
そのまま彼の眼前で考え込んだ。


「温室が、あったのよ」
『……そいつは変さね』
「でしょ?ここの気候なら、放っておいても草花は成長する。……つまりこの土地に合わない植物、もしくは栽培が難しい植物を育てていた」
『なるほど、金持ちの道楽か』
「……そう、薔薇よ」


ふと、思いついた口調では言った。


「青い薔薇」


その瞬間、自分の体が膨張したように感じられた。
薄い膜が内側から溢れ出て、周囲を襲い、空気を侵し、破裂するギリギリまで張り詰める。
反対に視界は狭まって縁が黒く塗り潰された。
ぐるり、と反転した眼前のアレンの顔。


!?」


咄嗟に横手の台にしがみついた。
治療道具がやかましい音を立てて、アレンの叫びと重なり合う。
彼の手が伸びてきて自分の両肩を掴んだけれど、何故だか他人事のように感じられた。


『オイ、どうした?』


ゴーレムから聞こえるラビの心配そうな声がやけに遠い。
血の気が引く。代わりに別の何かが這いあがってくる。
青い薔薇。
アレンがプシュケにプレゼントした、あのブローチだけが記憶の中で光っている。


「大丈夫ですか?」


覗き込んでくるアレンの眼はとても近いところにあるのに、は確かに彼を俯瞰していた。
何だこれは。
気持ちが悪い。
まるで自分の体が自分のものじゃないみたいだ。
そこに考えが至った瞬間、無理やり意識を叩き起こした。


「平気」


いつの間に床に膝をついていたのだろう。
は脚に力を込めて立ち上がると、多少強引にアレンから離れた。


「ごめん、驚かせて。大丈夫よ」
「どうしたんですか、急に。真っ青になって倒れこむなんて」
「ちょっと目眩がしただけ。もう治ったから」
『オイオイ、豆乳不足か?』
「きっとね」


ラビが茶化してくれたから、はそれに乗った。
不審を覚えているだろうに、何とも有難い親友である。
反対にアレンは騙されてくれないようで、もう少し距離を取ろうとしたの右手を捕らえた。
力を込めて握られる。
痛くはされていないのに、灼けつくようだとは思った。


「……プシュケさんは噂話が嫌いみたいね」
「やっぱり彼女が原因なんですか」
「タイミングの話よ。私には貧血としか言いようがない」



アレンに叱咤を込めて呼ばれたから、は顔をあげて笑った。


「部屋で休んでくる。それできっと良くなるわ」
「…………………………」
「ラビ、お願い」
『……わかった。調べとくさ』


だからゆっくり寝て来い、と苦笑まじりで言われたから、はお礼と共に頷いて踵を返した。
アレンは手を離してくれたけれど、あの感覚は消えなかった。
手首に灼け付いた指先。
熱に、しびれる。




















『なるほど、な……』


が扉を閉めると同時に、雑音に混じってラビの呟きが聞こえてきた。
アレンは少し苛立つ。
この親友達は本当によく似ているのだ。
状況を冷静に見極めて、豊富な知識で分析し、納得のいく答えを導き出す。
しかしそれは彼らの胸中での出来事であり、必要がなければ態度にも出さないし、誰にも教えようとしない。
完全な“自己完結”なのである。
とラビは自分達の性質が同じだと承知しているから、互いに知っているていでいつも話を通用させてしまうけれど、他の者が相手ではそうもいかない。
こちらの知らないところで、それぞれが同じ本を手にし、読んだと口にしないうちから感想を語り合い出されるようなものだ。
目の前でやられてみろ。そのときの疎外感といったら。


おかげでアレンは、とラビが話しているのを聞くといつも苛々する。
嫉妬とはまた別の感情で胸がじっとりと炙られる。
断続的としか思えない言葉で、核心のある会話を交わしてしまうのだから、それも無理がなかった。


「何が、“なるほど”なんですか」


おかげで思わず質問に険がこもってしまった。
ラビはハッと息を呑んで、それから長く吐き出した。


『アイツ、試したんだよ』
「試す?」
『幽霊さんをさ。あっちの情報を出して、オレに調べるよう頼む。そうすることで自分の正体がバレるかもしれないと思った幽霊さんが、どういう反応を示すか見たかったってことさ』
「………………………」
『どっちにしろ相手を探らないことには話が進まない。でもまぁ、正直に“調べてます!”ってアピールする必要はないだろ。いくら取り憑かれてるからって、アイツなら幽霊さんに気づかれないようオレに依頼することもできた』


そうですよね。君たちの仲ですもんね。
きっと僕が傍で聞いていたって、絶対にわからないような口調で、言葉で、話し運びで、はラビに調査を願い出ることもできたのだろう。


『そんで確信したかったんだろうな。なんでアイツが引っかかりを覚えたのかはわかんねぇけど。“青い薔薇”、か。そいつがキーワードさ』
「青い、薔薇……」
『あとは“キス”も、さね』


その単語を聞いた途端アレンは感情の色が変わるのを自覚した。
今までは淋しさを含んでいたのに、一気に熱を帯びて燃え上がる。


「そう、キスですよ。僕はキスを終止符とかいう女の子、許せないんですけど!!」


アレンは噛みつくように言うと、乱暴に腰を落とした。
椅子の脚が床に擦れて嫌な音を立てる。それでも構わずに片足を引っ掛けた。
燻ぶっていた怒りが普段の自分を少しばかり忘れさせる。


のやつ、僕がどれだけ……!」
『まぁまぁ、アレン。そうは言うけど、実際“キス”は終わりを意味してるんだぜ』


白髪を掻き乱していたアレンはラビの言に眉をひそめた。
何だか嫌な予感がする。
物知りと話していると、たまにこういう気分になる。


『もちろん良い意味の終わりさ。解決って言ったほうがいいかもな。童話なんかでよくあるだろ?王子がキスをすれば、悪い魔法は解けてめでたしめでたし!ってさ』
「知りませんよ。興味もありません」


アレンがにべもなく応えると、ラビは肩をすくめたようだった。
悪いけれど、今はキス談義だなんて聞きたくもない。


『ま、そうさな。幽霊さんが人魚姫を名乗ってるんなら、キスじゃ救えねぇもんな』
「僕も!救われません!!」
『それも確かに。……ついでにもっと救いがたい話を思い出したさ』
「これ以上、僕を追い詰める気で?」
『昔が言ってたんさ。“人魚姫”の物語はハッピーエンドだと思うって』


止めてくれと訴えたつもりだったのに、ラビは勝手に話し出した。
わずかに声が低くなる。いつもと違う平坦な口調。
アレンは面食らって無線ゴーレムを見上げた。


「“人魚姫”がハッピーエンド?どこをどう解釈したらそんな結論になるんです?」


だってあの物語は、疎い自分でも知っているほど、世界的に有名な悲劇だ。


「人魚姫は泡になって消えてしまうし、王子は本当に愛すべき人に気づかない。結ばれない二人なんですよ?」
『結ばれないからこそ、さ』


訳がわからず首をひねる。


「どういう意味です?」
『見た目や声が美しかろうが、人魚は所詮人魚。人間とは違う化け物さ。決して王子と同じものにはなれない』


ラビは淡々と語る。
アレンは不意に悟る。
これは、怖い話だ。
の親友は、今なにか恐ろしいことを、自分に聞かせようとしている。


『どうしたって人魚姫の恋は報われない。万が一王子に愛されたとしても、彼の元に行くために魔女の力を借りているから』


この考えをラビに伝えたとき、はどんな顔をしていたのだろう。
本にじっと目を落として?
それともどこか遠くを見つめて?
普段からは想像もできないような、醒めきった少女の横顔が、アレンの脳裏に浮かびあがってきて消えない。


『婚約が決まっても、結婚には至れない。すべては式で暴かれる。正当なる方法ではなく、妖術を使って王子を手に入れた彼女は、教会に魔女として罰せられるだろうさ。そして神によって地獄に堕とされる』


それが、異端者の末路だ。


『……結局、空気の精霊となって天に昇っていったことが、人魚姫にとっては一番の幸福だったのかもしれない。―――――――形はどうあれ、人魚姫は王子に結婚をもたらした。愛する男の傍で生き、その幸せを見届けることができたのだから』


ラビはそこで一瞬、言葉を切った。


『……ってゆーのが、の言う“人魚姫”はハッピーエンド説さ。さすがのオレもビックリしたぜ。十代の女の子が考えることじゃねぇもん。なんつーか、夢がない。シビアとかそういうレベルじゃなくて……なぁ、アレン?』


名前を呼ばれる。
反応を待たれているのだとアレンは気がついていた。
ラビは確信犯で今の話を僕に聞かせた。
の抱いている、絶望を緩やかに通り越した諦めを、思い知らせたくて。


「人魚姫は」


アレンは自分の膝を見下ろした。
両拳を握り締めれば、衣服にひび割れのような皺が寄る。


「……人魚姫は、自分自身の幸せを願わなかったと?」
『…………………………』
「自分はどうせ異端者で、幸せになれるはずもない。だから、愛する人の幸福だけを叶えたい。その後は独り泡のように消えても構わないって?」


唇は痺れたようになっていた。
感覚はひどく静かだ。むしろ何も感じない。
何故こんなにも心が凪いでいるのだろうと、アレンは我ながら不思議に思った。


『……それがアイツの本心さ。きっと、な』


笑いたくなった。
実際にアレンは微笑んだ。
顔を俯けたまま、唇の端を吊り上げる。
けれど喉から転がり出てきたのは笑い声ではなく、空虚に乾いた確信の吐息だった。


「でしょうね」


全身の力を抜いて、横にある台の上に側頭部を乗せる。
消毒液の瓶が目の前にあったせいで、その向こうの扉が歪んで見えた。
つんっと鼻を刺す清潔で不快な匂い。


「僕がを好きだと言ったからですか」


アレンは何の感情もこめずに問いかけた。


「わざわざそんな話をするなんて」
『アレン』


応えるラビの口調はとても穏やかで、どうせならもっと責めるとか慰めるとかしてくれたらいいのにと思う。
男友達って意外とひどい。さすがはの親友だ。


『オマエが王子なら、どうする?』
「…………………………」
『これからのことなんて誰にもわからんさ。でもな、アイツはきっと“人魚姫”になりたがる。オマエが本気だというのなら、どうか覚悟をしてくれ』
「……覚悟」


アレンはその音を繰り返した。
重い響きだ。
ラビの封じ込めた想いが、ますます鉛を沈ませる。


『頼む。親友なんさ。……“アイツ”に幸せになってほしいんだよ』


もしかしたらラビも感じているのかもしれない。
確かな予感に胸を疼かせているのかもしれない。
快楽のノアが引き金となり、アレンの欲で促し続けてしまった、の変化を。その向う先を。


先刻、彼女は真っ青な顔で微笑んでいた。
大丈夫、と。平気だよ、と。―――――――いつものように。
きつく目を閉じたアレンの耳に、ラビの祈るような囁きが滑り込んできた。


『アレン。“人魚姫”は、“キス”じゃあ、救えやしないんさ』


知っているよ。
分かっているよ。
だから僕は探している。ずっとずっと探し続ける。


“あの子”を救う、その方法を。




















『人魚姫』は嫌いだった。


この物語を知ったのはいつだろう。
もしかしたら“読んで”はいないのかもしれない。
母か、姉たちか、それとも近所の奥さま方かが、幼子だった私に語り聞かせてくれたのかもしれない。


とにかく初めてのその時、私は泣いた。


涙をぼろぼろとこぼして泣いた。
悲しかったのではない。自分で言うのも難だが、私はそんなに感性豊かな子供ではなかった。
“どうして?”、“なんで?”、そればかりを思った。
何故、私は泣いたのだろう。
涙を止めることができないことを、ただひたすら不思議に思いながら、一生懸命頬を拭ったのを覚えている。
理解のできない出来事は恐れへと変わり、私は当然のように『人魚姫』を敬遠した。
絵本はいつだって家の本棚に立てられていたけれど、決して自分から手を伸ばそうとはしなかった。
そんな私とは対照的に、芸術家肌だった上の姉は、『人魚姫』を好きだと言っていたっけ。
「だって美しいじゃない」、そう言って微笑んだ知的な瞳が、今も記憶の彼方から私を見つめている。


次にきちんと『人魚姫』を読んだのは、教団に入ってからだった。
親友の散らかりきった部屋の中、乱雑に詰まれた本の山から発掘したのだ。
ラビにメルヘン趣味があったのかと訊けば、即座に否定された。
だったらじーさんが?こんなに可愛い装丁の童話を読むの?怖くて尋ねることができなかったけれど、まぁ世の中には知らないほうがいいこともある。
私は『人魚姫』を手にして、捨て去った過去を思い出していた。
だって美しいじゃない。だって、美しい、じゃない。美しい。うつくしい。ウツクシイ。
何が?
問いかけるかのように本を開いた。次々とページを捲っていった。
ねぇ、姉さん。何が美しいというの?
私は泣いたのよ。泣いて、泣いて、泣き続けたのよ。
およそ“”ではないことを、まるで怒るかのように考えながら、私は姉の好きだった物語を再読した。
今度は泣かなかった。涙一滴、出てこなかった。


代わりに私を襲ったのは、ひどい絶望だった。


顔を覆ってしまいたくなった。
頭を抱えてしまいたくなった。
膝をついて、身を伏せて、静かに目を閉じてしまいたかった。


私は本を抱いてラビのベッドに横たわった。
今こちらを覗き込まれても、上の段が影になって表情はわからないだろう。それが有難かった。
顔を見られそうになったら枕に押し付けてしまえばいい。
本を読んでいたら眠くなったのだと言えばいい。
それでも今はどうか、このままで。
誰に気づかれずに、激しく巻き起こる感情の波へと、静かに身をゆだねていたかった。


姉さん。
そうだね、姉さん。
『人魚姫』は、とても美しい物語だね。
「あら、今更わかったの?」と、思い出の中で姉が笑った。
呆れたように、褒めるように、微笑んでくれた。
「可愛い○○○、さすが私の妹だわ」
名前を呼んで広げてくれたその両腕に、“私”が抱かれることはもうない。


「悲しい物語じゃない。私はそう思うの」


童話とはさまざまな論説の元となる。
ラビといるとそこに及ぶ機会がないわけでもなくて、ふとしたきっかけに私は親友に『人魚姫』の話をした。
いささか唐突だったのか、驚いたように見開かれた翠の隻眼が忘れられない。
ただ、口にしたかっただけなのかもしれない。
”としての考えを、誰かに覚えていて欲しかったのかもしれない。


「美しい物語よ。『人魚姫』はとても美しい」


どこが?と親友は下唇を突き出した。
オレは可哀想だからあんまり好きじゃないさ。


「だって、声も尾も家族も故郷も、生命いのちさえ捨てて人魚姫は王子さまを愛したのよ。私にはまだ“愛”ってよくわからないけれど」


苦笑しつつ続けた。


「人魚姫は自分のすべてを懸けて王子さまを求めた。叶わないとわかっても、愛し続けた」


それにはどれほどの力が必要なのだろう。
15歳の娘がどうやってやってのけたというのだろう。
いいや、きっと彼女は当たり前のように“愛して”しまったのだ。


「……どんな努力も実らずに、想いが破れてしまったとき、人魚姫は現実に苦悩し自分に絶望したんでしょう。けれど彼女は短剣を捨て去った。自身のではなく、彼の幸せを選んだ」


私はぼんやりと宙を見つめた。
漂う波が見える。白い泡。上へ上へと昇ってゆく。


「ねぇ、美しいと思わない?苦しみの極限にあっても、人魚姫は他者への想いを貫いたのよ。彼女は己の幸せを必要とはしなかった。利害や駆け引きを超えて、遂げようとしたのは愛。相手を慈しむ優しい気持ち」


私も上へいきたい。
いつかは天に昇りたい。
だってそこには家族とグローリア先生がいるのだから。


「幸福という後ろ盾がなくても、愛は涸れない。優しさは失われない。どんな苦境にも負けずに生き永らえる。それこそが“本当”よ」


ゆっくりと目を閉じて、ほとんど囁くように言った。


「……海に身を投げる直前、哀しみと苦しみに苛まれながら、人魚姫はどんな表情で王子さまの寝顔を見つめていたのかな」


本物の愛を抱いて彼女は何を思ったのだろう。
私は今でも時々夢想する。


「笑っていたいな、私は」


心を引き裂かれ、闇に目を塞がれても、真の強さで微笑んでいたい。
“私”は。


「『人魚姫』は美しい。苦難に直面したとき、自分の弱さに負けず、運命を呪わずに、私も彼女のように在りたいと思うの」


私は決意のようにそう告げて、双眸を開いた。
途端にぎょっとして本を取り落としそうになった。
親友が今にも泣きそうな眼でこちらを見つめていたからだ。
可哀想だ、と彼は言った。
誰が?人魚姫が?ラビにとってはやっぱりそうなんだね。
なだめるように微笑んでも、いつものように笑い返してはくれなかった。
違う。可哀想だ。


“オマエ”が、可哀想だ。


哀しい光をたたえた瞳を、私は今でも鮮明に覚えている。


『人魚姫』は、やっぱり好きにはなれなかった。
もちろん、彼女のようになりたいと思うのは嘘ではない。
私は遅かれ早かれ、自分ではどうにもできない未来に直面する。
そんなとき心を捻じ曲げてしまわずに、愛した人たちの幸福だけを願って消えたい。
けれどそれは同時に残してゆく者を傷つけてしまうのだろう。
少なくともラビは泣く。私のために泣いてくれる。
……それすらも嬉しいと思うのは、ひどいことなんだろうか。


『人魚姫』を読んで、私は泣いた。ひどく絶望した。
幼いころは、ただただ純粋に、苦しみに枯れない愛に圧倒されて。
二度目は、自分の弱さと醜さを思い知って。
私はいつか、殺したはずの過去に殺される。
そのとき何を思うかなんて、嫌というほど考えてきた。
血を憎むだろう。境遇を嘆くだろう。なんで私が?どうしてこんな目に?
そんなくだらないことよりも、どうか心から祈りたいのだ。
愛を貫いて、優しさをもって、大好きなみんなの幸せな未来を。
私は絶望した。そして切望した。
そんな人間になりたいと、人生を懸けて願ったのだ。


『人魚姫』は嫌いだった。
大きくなってからも好きだと言い切ることはできなかった。
でもこれだけは確かである。


私は、“人魚姫”になりたかった。




















『人魚姫』は苦手だった。


正しくは“人魚”という存在が苦手だった。
童話のほうは読んだか読んでないかと首をひねるくらい曖昧なものだ。
けれど“人魚”は、15年間の記憶の中で、かなり強烈な印象がある。


サーカスといえば一般的に華やかで楽しいイメージだが、裏を返せば後ろ暗くキナ臭い場所だった。
もちろんセルジュ達が属していたような健全な集団も存在するので一概には言えない。
僕だって断言できるのはマナと出逢うまで居たサーカス団だけである。
あそこは僕のように特殊な体を持つ者や、身寄りのない少年少女を気まぐれに拾ってみては商品にしていた。
自分だってさんざん苛め抜かれたし、病気や怪我で取り返しのつかなくなった子たちだって少なくはなかった。
……けれど食事や寝床を与えてもらっていただけマシだったのかもしれない。


そう自覚したのは団長が見世物小屋を呼び寄せたときである。
拾いものでは飽き足らず、より珍しい商品を求めてのことだろう。
そのとき僕は偶然にも目にしてしまったのだ。
暗いテントの奥、狭い檻の中で蠢く、“人魚”を。


その醜悪さはいまだに記憶から消えていない。
少女、だったのだと思う。
水に浸かりすぎたのか、髪は藻のように広がっていて、未発達の上半身に絡みつく。
ほとんど裸のようなものだ。
そしてその下半身は、厳重に重なり合った、鱗のような“何か”で隠されていた。
それの正体が僕には一瞬わからなかった。
思考が止まって、呼吸を止めて、次の瞬間弾かれたように駆け出していた。
そして近くに生えていた木の元に嘔吐した。


少女には脚がなかった。
否、機能を失った脚を削り取るかのように、鱗を模した凶悪な鎖で、隙間なく締め上げられていたのだ。


あれではもう、二度と歩けない。
立つことも叶わないだろう。
拘束を取ればそこには、もはや人体とは呼べない二本が繋がっているだけだ。
見世物小屋の主が“人魚”と称していたから、きっと彼女はあの姿のまま水の中に放り込まれるのだ。
僕はそれを想像して、背筋が冷たくなるのを感じた。
頭の後ろにあるテントから基地外に明るい声が聞こえる。
面白いでしょう、これは水中で芸をしますよ。足が使えませんからねぇ必要ないかと思いまして、ホラ人魚のように仕立ててみました。いかがです?いい演出だとは思いませんか……。


結局、団長は“人魚”を買うことはしなかった。
その理由は至極簡単だった。
「あれはもう駄目だ。近いうちに死ぬ」……それだけのことだった。


『人魚姫』は苦手だった。
その名を聞くだけで、両脚を、自由を、生命いのちを奪われた、あの子のことを思い出すから。


“人魚”が死んでしまうとわかっていても、何もしてあげられなかった自分の無力さが、今でも堪らなく苦しい。



















アレンは奇妙な既視感に襲われていた。
過去に見たあの子。人間に仕立て上げられた“人魚”。
あぁ、みたいだ。本当に似たようなものだと思う。
鎖は制約。がんじがらめにされては動けない。
自分のものは全て取り上げられ、檻に繋がれたまま、見世物めいた生き方を強いられるのだ。
それは死ぬまで続く、強制労働。


考えれば考えるほど、言いようのない不安がのしかかってくる。
空気すら質量を得たようで呼吸をするたび肺が重く濁ってゆく。
ラビはが“人魚姫”になりたがっていると言った。
アレンもそれには賛成である。
疑うまでもなくすんなりと納得してしまった、そこに問題があった。


(どうすれば)


どうすれば、彼女を過去や現状から開放できるのだろう。
そして、諦めてきった未来を再び手渡すことができるのだろう。
アレンは明かりを落とした室内で独り首を振った。
今はそんな途方もないことを思案している場合ではない。
とにかくプシュケをの体から引き剥がす。それだけに集中しないと。


は本格的に具合が悪いらしく、夕食もそこそこに部屋に引き上げてしまった。
いつも通りを装ってはいたけれど、いい加減アレンも騙されなくなってきている。
元から白い肌がさらに透けるようになって、遠目から見たら病人みたいな顔色をしていた。
アレンはしばらく時間を置いてからの様子を伺い、きちんとベッドに入っているのを確認してから夜の街に出かけていった。
もちろん、プシュケの正体を探るためである。
ラビに任せっぱなしというわけにはいかない。ちょっとした意地でもあった。
に知れたら自分も行くと言って聞かないだろうから、足を潜ませ気配を消し、宿主の老婆にも見つからないよう細心の注意を払った。
街の大通りまで出られたときは大きく胸を撫で下ろしたほどだ。


ところが、である。
調査を開始してすぐに問題にぶち当たった。
声をかける人、話を聞く人、誰もが口を開きたがらなかったのだ。
プシュケの生家を伝えて、住人のことを教えてほしいと頼んでも、皆顔を見合わせ首を振った。
「関わらないほうがいい」、「蒸し返すのはやめなさい」、同じような言葉を嫌というほど繰り返されて、元より沈んでいた気分は最低だ。
結局聞き出せたのは、あの家には姉妹がいたこと、そして温室で珍しい植物を育てていたことのみだった。
どちらもが推測していたことなので確認が取れただけと言っていい。
夜も更け観光地といえども店が締まりきった頃、ようやくアレンは老婆宅に戻ったが、心安らかに寝付けるわけもない。
ベッドに寝そべって延々と考える。
街の人たちの様子からすれば、プシュケの家で何かがあったことは確かである。
その“何か”とは……何だ?
彼女の身に何が起こったというのだ?
あぁもう誰か答えを教えてくれ!
苛々してきて枕を思わずぶん殴ったその時だった。


『アレン!!』


あまりに突然名前を呼ばれたので、アレンはベッドの上で飛び上がってしまった。
発生源はティムキャンピーだ。
どうやら通信が入ったらしい。


『オイ、起きてるかアレン!!』
「ラビ?何ですか、こんな夜中に」


怪訝に思いながら壁掛け時計に目をやる。
時刻は午前2時。いくら友達といえども、連絡を寄越していい時間とは言えない。
そんな常識を考えていたアレンに、ラビはひどく焦った調子でまくしたてた。


『頼む、今すぐの部屋に行ってくれ!』
「はぁ?何言ってるんですか?こんな時間にできるわけ……」
『アイツのゴーレムが通じないんさ!!』


アレンは硬直した。
瞬時に事を悟る。
のゴーレムは監視用の特殊製。それが通じなくなるなんてことは有り得ない。
そう、四六時中“あってはならない”のだ。
アレンはベッドから転がり落ちるようにして走り出した。
扉を引き開けて廊下に飛び出し、ノックもせずに隣の部屋に乱入する。


「な……っ!?」


思わず絶句した。
室内に人の気配はない。
シーツの乱れはそのままに、眠っていたはずの少女は姿を消していた。
さらに床に散乱した機械片が背筋を粟立たせる。
アレンは膝をついて、羽根であったその部品を拾い上げた。


「……っ、ラビ。のゴーレムが破壊されています」
『クソッ、やっぱりそうか!』


ラビは毒づいた。


『電波が悪いわけはねぇからな。繋がらなかったのは元から壊されていたからか……。アレン、は?』
「いません。探しに行きます!」


彼女に不測の事態が起こったのか?
自分にも告げずに動かねばならないような、そんな出来事が?
アレンは焦燥を胸に、考える間もなく廊下に取って返した。
けれど、その一瞬で視界の隅をかすめたものに急停止する。
どくんっ、と心臓が大きな音を立てた。


「…………………」


逸る鼓動と躊躇う体。
相反するものに真っ二つにされたアレンは、それでも室内を振り返えらずにはいられなかった。
眼が吸い寄せられたのはたった一点。
ベッドの横に据えられた小さなテーブル。
飾られていたのは陶器の一輪挿しで、老婆が生けたであろう花が咲いている。
その脇に、それは在った。


窓からの月光を浴びて輝く黒玉、白銀のロザリオ。


アレンは空気を嚥下した。
乾いた喉は張り付いて、動かせば当然のように掠れてしまう。


「ラビ」
『何さ、どうした!』
「イノセンスが」
『……何?』
のイノセンスが、部屋に残されてる」


急かすばかりだったラビも、そこで続きを失った。
アレンはもう一度部屋に足を踏み入れ、月明かりが照らす空間に腕を伸ばす。
テーブルの上に落ちた花弁が指先に触れてくすぐったい。
そして掴んだ十字架は、確かに現実のものとして、アレンの手の内に納まってしまった。


「……が、イノセンスを置いて、どこかに行くはずがない」


彼女の姿が消えていたときから、本当は予測していた最悪の事態。


「っつ、ここから出て行ったのはではなくプシュケさんの意思か……!」


アレンはテーブルを拳で打つと、一直線に駆けて階段を下る。
後ろのティムキャンピーからラビの舌打ちが追ってきた。


『チッ……、のヤツ挑発しすぎたな!それとも幽霊さんが短絡的すぎるのか……』


家から飛び出すと満天の星空が見えた。
今夜は満月だ。
澄み切った空気が冬の近づきを知らせている。


『アレン、気をつけろ!どうやったかは知らんが、教団の造ったゴーレムを壊したんさ。並みの力じゃねぇ』


とにかく走り出す。
プシュケが行きそうな場所。どこだ?生家か?それとも……?


『おまけにの体が人質みたいなもんさ。幽霊さんが追い詰められちまったんだとすれば、何をどこまでやらかすかわかったもんじゃ……』
「ティム!お前は街のほうへ行け!を探すんだ!!」


アレンはとても聞いていられなくて、金色のゴーレムに命じると、それとは反対方向に足を向ける。
途端にラビが叫んだ。


『待て、アレン!オマエに言っておくことがある!!』


こんな時に何を。
そう思ったけれど、無線から滲む真剣さは、とても無視できるものではなかった。


『急いで調べたから詳しいことまではわからない。けど、この情報は確かさ』


ラビはわずかに躊躇した。
それでもの失踪が焦りとなったのだろう、どうにもできなくなった隠し事のように、彼はアレンに告白した。
大きく目を見張る。
銀灰色の瞳の中で月光が揺れる。


『あの屋敷に住んでいた車椅子の娘……。それがきっと幽霊さんの正体だろう。彼女は産まれたときからずっと患っていた。生命いのちに関わる重い病気さ。そして、今からちょうど一年前に亡くなった』


いいや、とラビは続けた。


『病で死んだんじゃない』


意識して感情を削いだ、ブックマンJr.の声。
真実がアレンへと突き立てられる。






『―――――――――恋人だった男に、殺されたんさ』












終わらなかったー!いつも通りですみません……。
次回でラストです。今度こそ!

さてさて、失踪したヒロインはどうなるのか。次回もお楽しみ頂ければ光栄です。