ときどき考える。
脈絡もなく思う。
当たり前の日常の中で、祈るように思考するのだ。


“私”はどんな風に記憶され忘れられていくのだろう、と。







● メルヒェン・パラドックス  EPISODE 5 ●







「はい、どうぞ」


そう言ってアレンが差し出したのは、美しく咲いたピンクの薔薇だった。
驚いた顔のの手を取って握らせる。
刺を取り除いて滑らかになった茎は、少女の指先を傷つけることはない。


「君にプレゼントです」


アレンは満面の笑みでを見つめた。
花は彼女によく似合っていて、意識しなくても笑顔になる。
仄かに染まった頬もなんとも言えず愛らしい。
煉瓦の道と白い壁、丸く青い屋根が立ち並ぶ南国の街に、黒いコートを着た少女は場違いに見えるけれど、通り過ぎる人々が振り返っているのは何もその格好のせいだけではないだろう。
ゆるく波打つ髪は本物の黄金みたいに輝いているし、透き通る空色の双眸には太陽が抱かれている。
そういえば金髪碧眼というのは美女の代名詞だったか。
けれど薄紅の唇が開かれれば、その全ては台無しとなった。


「私、ピンク嫌いなの」


アレンは寸分も微笑みを崩さずにそれを聞いた。
内心では「そんな女の子いるんだ!」とか思っていたが、表情には出さない。
そもそもアレンの目には喜んでいるように見えたのだが……。


「それは、すみません。でもとてもよく似合っていますよ」
「この子に似合っても、私には関係ないわ」


は薔薇をアレンに突き返しながらそっぽを向いた。
仕方なく受け取りながら様子を観察する。
うん、やっぱり顔が赤いしチラチラこちらを見ているから、嬉しかったは嬉しかったんだろうな。
アレンは苦笑してに……否、彼女に取り憑いて今その体を動かしているプシュケに尋ねた。


「じゃあ、貴女の好きな花を教えてください」
「どうして?」
「遅れてきたお詫びだったのに、これじゃあ意味がありませんから」


アレンはピンクの薔薇を自分の胸元に挿すと、視線をプシュケに投げて促した。
彼女は思い出したかのように両手を腰に当てて睨めつけてくる。


「そう、あなた遅かったわ。完璧に遅刻よ」
「ここまで来るのに迷ってしまいまして」
「レディを待たせるなんて、駄目じゃない」
「だからお詫びですよ」


アレンは指先で薔薇を突っつく。
それを受け取らなかったプシュケは首を振ってみせた。


「まぁ、薔薇自体は好きなのよ」
「それは良かった」
「……何故?」
「女性へのプレゼントを、色だけでなく種類まで間違えて選んでしまったとあっては、英国紳士の名折れですから」


アレンが当たり前のようにそう言うと、何故だかプシュケは瞳の色を複雑なものにして伏せた。


「……薔薇は、赤が好き」
「なるほど。じゃあ、また後で」
「いいえ。恋人に貰うのなら青がいいわ」
「青?」


薔薇にそんな色あったかなと考えるアレンに、プシュケは俯いたまま口元だけで微笑んだ。


「そう、青が欲しいの。真っ青な薔薇が」


笑みを刻んだ唇が、“”では有り得ないほど紅い気がして、アレンは思わず目を瞬かせた。
けれど顔をあげたときにはいつもの色に戻っていて首をひねる。
陽か何かの加減で見間違えたのだろうか。


「それより、あなたがなかなか来ないから怖かったじゃない」
「え?」
「この子、あんまり一人でウロつくものじゃないわね」


プシュケはあっさりとそう言ったけれど、アレンとしては聞き流せない。
どういうことかと問い詰めようとしたところで、また別のことを口にされる。


「それにこの子、勝手にフラフラして」
「……フラフラ?」
「そうよ。私は約束の場所で待っていたかったのに、この子が無理やり足を動かしてくるから」


アレンはちょっと瞠目した。
それから吐息のようにして笑う。


「そう。迎えに来てくれたんだ」
「?何の話?」
「それで、お菓子はくれないの?」
「意味がわからないわ」


どうやら夜明け頃の会話をプシュケは聞いていなかったらしい。
彼女が怪訝に眉を寄せたので、アレンはそれ以上口にしないことにした。
体を乗っ取られた状態にも関わらず、があんな遊びみたいな約束を守ってくれたという事実だけで充分だった。
一気に気分を良くしてアレンは胸元に手を当てる。
腰を屈めて礼の姿勢を取った。


「何でもありませんよ。さぁ、お姫様。今日のデートはどこに行きたいですか?」


誤魔化されたような気分になったのか、プシュケは少しの間不満そうに押し黙っていた。
唇を尖らせて肩にかかる金髪を跳ね除ける。


「服が見たいわ」
「お買い物ですか?」
「だって、デートなのにこんな格好なんですもの」


先刻よりもますます顔をしかめて、プシュケはの団服を掴む。
漆黒のプリーツスカートを軽く持ち上げてみせた。


「見慣れないデザインだし、色が地味だわ。何よりスカートの丈が短い!」


そうかな?と思ったのが思い切り顔に出たらしく、アレンはプシュケに睨みつけられてしまった。


「男の人ってこれだから……」
がいつもそれを着ているので慣れてしまっただけですよ。確かに一般的に見れば短いかもしれませんね」


非難されたので自分でフォローを入れてみる。
思い出してみれば、初対面の頃は気になっていたような。
それをに言うのはシャクだから、リナリーに訴えたけれど、「そう?」という一言で終わらせられた記憶がある。
ちなみに団服のデザインをしたジョニーも同じ反応だった。
……あれ?僕がおかしいのか?いやいや、プシュケさんも短いって言っているから、やっぱり短いんだろう。
まぁ、それに見慣れてしまったんだから、結局はこの長さでいいと思っているわけで……。


「短いほうが好きなの?」


やたらと低い声で尋ねられて、過去を辿っていたアレンはびくりとした。
何となく冷や汗をかきながら片手を振る。


「いや、それは何と言いますか、……ミニスカートが嫌いな男なんていませんよねっていう!」
「………………………」
「い、一般論ですよ?」


窺うようにプシュケを見れば、彼女は大げさにため息をついてみせた。


「……もう、いいわ。行きましょう」
「お洋服を買いにですか?」
「そうよ」


プシュケはコートを翻しながら歩き出す。
いつものように結われていない髪がたなびいた。
長いそれを背に流したは、普段なら幼い雰囲気になるはずなのに、今日は大人びて見えるのが不思議だ。
恐らくその原因であるだろうプシュケが言った。


「早く行きましょう。……ロングスカートを買いにね」


アレンは舌を噛みたい気分で黙り込み、大人しく彼女の後ろについて行く他なかった。




















大通りの洋服屋に入ればプシュケの機嫌も改善されたようだった。
顔を輝かせてあれもこれもと衣装を探し回る様子を、アレンは珍しいものを見る目で眺める。
なにせとこういう店に来たことはないし、外見を装うことに関心を向けている彼女というのは珍しい。


「ふぅ……」


アレンは店内の壁際に寄ってプシュケが満足するのを待っていた。
女性物の店に男がいるというのは少々居心地が悪い。無意識に吐息が漏れる。
それにしても、お洒落をしてはしゃいでいる“”というのは、実際初めて見たのではないだろうか。
彼女は如何せん服装に興味がない。いや、極力自分を女の子らしくすることに力を注がない。
それでも、女性を口説くときにファッションの話題を出していたことはあるから、まったく無関心というわけではないのだろう。


(きっと、“女の子”になるのが嫌なんだろうな)


アレンはそう結論付けた。
という人は意地っ張りで、守られることが大嫌いだ。
さらには例の厄介な境遇も絡んでいるはずだった。


『“女性”として愛されることを拒んでいる』


昨夜、プシュケが語った言葉はアレンの胸に突き刺さったままだ。
本当に僕はの嫌がることばかりをしている。


「ねぇ!」


唐突に声をかけられて驚く。
アレンが顔をあげれば、すぐそこにがいた。
その口を借りてプシュケがきゃっきゃと楽しそうに笑う。


「どれがいいかしら?花柄が可愛いわよね。無地も色が綺麗だわ。リボンは何色がいい?」


興奮した調子で早口にまくし立てられたから、アレンは微笑を浮かべて彼女の腕から衣装を半分取り上げた。


「試着してきたらどうですか。ほら、店員さんに言って」
「こんなにたくさん?」
「それで一番気に入ったのを買えばいいんですよ」
「私はあなたの好みを訊いているのに」
「それは困りましたね」


服を探しているうちに乱れてしまった金髪を指先で梳いて、アレンは唇に苦笑を滲ませた。


「どんな衣装を着たって、あなたが魅力的なのは変わらないのに。ひとつを選べなんて難しい問いかけをしてくれますね」
「………………………」
「ひどい人だ。あぁ、でも、たくさん可愛い格好を見られるのなら嬉しいです」
「……、そう」
「最初はこれなんてどうですか?」


赤くなった頬を隠すように衣装を抱いたプシュケに、アレンは一着の服を差し出した。
白を基調としたワンピースだ。
ところどころ透ける素材で出来ていて、その下は肌が見えないように薄紅の布が当てられている。
派手すぎないフリルとリボンが散りばめられた、可愛らしい印象の衣装だった。
靴は踵の低いものがいい。
ワンピースと同じ白で、留め具に花のついたやつ。
胸元が開いているからの鎖骨が綺麗に出るだろう。
きっと僕があげたローズクォーツの首飾りがよく見える……。
アレンはそこまで考えて、プシュケが笑顔を消しているのに気がついた。


「どうかしたんですか?」


首を傾げつつ問いかけると、彼女はアレンの手から白のワンピースを奪い取って、さっさと棚に戻してしまった。


「これは嫌」
「あぁ、好みじゃありませんでした?」
「そうよ。ちっともね!」


プシュケは怒った口ぶりで言い捨てると、アレンに背を向けて更衣室のほうに駆けて行った。
置き去りにされてまばたきを繰り返す。
もう一度プシュケに却下された衣装に視線をやって、ようやくあぁと思い至った。


(しまった……。“”に似合うものを勧めてしまった)


アレンが何も考えずに選んだのは、の髪や雰囲気に合うと思ったもので、プシュケは敏感にそれを察したのだろう。
否、ワンピースの差し色に使われているピンクがいけなかったのかもしれない。
その色彩は彼女の持つローズクォーツとよく似たものであり、先刻アレンがプレゼントしようとした薔薇の花と同じだったからだ。


(別にのイメージってわけでもないんだけど)


本人がピンクを好きだと言ったことはないし、そんな色の私物を見たこともない。
ただアレンが“女の子っぽい”と思って選んだネックレスの石が、それだっただけだ。
つまりは自分があげた物と同じ色を身につけて欲しいと思ったのである。


(うわ……。無自覚でこんな独占欲って)


アレンは自分で自分に呆れて、プシュケが逃げ込んでしまった更衣室に近づいていった。
カーテン越しに聞こえる衣擦れの音に足を止める。
側の壁をノックしてそっと声をかけた。


「プシュケさん。すみません」
「……何が?」
「さっきと同じ間違いをしました。……貴女の好きな色は、赤と青でしたよね」


柔らかい口調で怒りを解いてくれることを願う。


「だったら、これとかはどうですか?」


プシュケの話し方や性格からイメージを膨らませて、アレンはまた何着か衣装を手に取る。
今の着替えが終わったら渡そうと思って腕に抱えたところで、ジャッとカーテンの開く音がした。
反射的に振り返って固まる。
プシュケは不機嫌そうな半眼をこちらに向けていた。


「どれかしら。見せて?」


促されるけれどアレンは動けない。
不審げに片眉をあげるプシュケの両腕は、胸の下で組まれていた。
そのせいで膨らみが強調されて目に悪い。
さらに上はキャミソール一枚、下はスパッツだけという姿だったので、驚きに硬直していたアレンは音速で顔を背けた。


「ちょ、ちょっと何て格好で」
「あなた、女性の買い物に付き合っておいてそれ?むしろ着替えを手伝って欲しいくらいなのだけど」
「そんなことできませんよ!」
「あら、恋人なら別に変じゃないでしょう?」


そういうものなのか。そういうものなのか?そういうものなのか!?
アレンは胸中で誰にともなく訴える。
もちろん返事はないから自分で応えた。


「すみません、お嫁入り前の女性の着替えを手伝うというのは、紳士として出来かねる行為ですので」


困ったときは満面の笑顔。これに限る。
そうやってアレンが辞退を申し出れば、プシュケは軽く肩をすくめてみせた。


「仕方ないわね」


服を寄越せという身振りをされたので、極力彼女を見ないようにしながら手渡す。
カーテンが閉まったのを確認してからアレンは拳を額に押し付けた。
頭痛と目眩を感じる。
相変わらずの苦行に疲労感が忘れられない。


アレンは深くうなだれて、此処に居るのが自分ではなく、神田やラビだったらどんな対応をしたかなという、どうでもいいことを考えて平常心を保つことに努めた。




















たぶんラビなら喜んでプシュケさんの相手をしただろうな。でへでへと笑って、鼻の下を伸ばしきって、お洒落や遊びに付き合ってやっただろう。
神田なら最初の時点で『六幻』を抜刀し、の中から出て行くよう脅したはずだ。それも逆らえないほど冷ややかな瞳で。


いや、あの二人も“”がこんなことになってしまったとなれば、相応に取り乱して、彼女のご機嫌を取ろうとするのだろうか。


アレンはそこに考えが至って、思わず狼狽する彼らを想像してしまった。
小さく吹き出して笑いを噛み殺す。
そして、そんな可笑しな状況に今自分が陥っていることに気がついて、どん底まで落ち込んだ。
絶対にあの二人には見られたくない感じである。
ただでさえが好きだと打ち明けてから、ラビはやたら突っついてくるし、神田はさらに威嚇してくるしで、面倒なことこの上ないのだ。
これ以上弱みを見せてたまるか。


「どう?」
「お綺麗ですよ」


更衣室から出てきたプシュケに、アレンは優しい微笑みで返す。
頭では鬱々としたことを考えていても脊髄反射で対応できるのだから、我ながらたいしたものだ。


「赤が似合いますね。好きな色をそこまで着こなせるだなんて、さすがだと言わざるを得ません」


正直の年齢にはきつすぎる色合いだったが、プシュケの雰囲気にはよく合っていた。
だからアレンは淀みなく口上を重ねる。


「フリルのたくさんついたブラウスも可愛らしいですよ。上着の赤が引き立てられています。あぁ、でも、スカートはそれでいいんですか?」


アレンは失礼にならないような仕草でそれを示した。
裾に刺繍のあるスカートも上とは違う色合いとはいえ、赤だ。
けれどアレンが言いたいのは色ではなく長さだった。


「プシュケさんには短いのでは?」


動けば膝が見えそうな丈を心配して訊けば、プシュケはつんと顎をあげてみせた。


「短いほうが好きなくせに」
「……どこまで引っ張るんですか、その話題」


アレンが思わず素で返すと、彼女は勝ったとばかりに胸を張る。


「これでいいの。これにしてあげる。嬉しいでしょう、あなたの見立よ?」
「はい。光栄です」


更衣室から出てきたプシュケに手を差し伸べる。
自然な流れで椅子に座らせて、その眼前に跪いた。
彼女が驚いたように体を強ばらせたから、アレンはなだめるようにして笑う。
そっと脚に触れて踵を掬い上げた。


「な、何?」


くすぐったかったのか、居心地が悪くなったのか、プシュケは戸惑いの声を出したけれど、アレンは優しく無視して彼女に靴を履かせてやった。
これも赤だ。甲のあたりに豪華な薔薇飾りがついている。
アレンは内心眉をひそめた。
うーん、踵が高い。ハイヒールと言っていいくらいだ。
こんなものを履いていたら、は一分も経たずに転んでしまうだろうけれど、プシュケは大丈夫なのだろうか。


「足が」


痛くなったら言ってくださいね、と口にしようとして止めた。
が相手ならずけずけ指摘できるけれど、今は別の女性が相手だ。
さり気なく気遣うほうがスマートだろう。
以上に痛みを堪えるのが得意な人がいるとは思えなかったので、アレンは首を振って立ち上がった。


「すみません、何でもないです」
「そう?」
「はい。さぁ、次は?お買い物を続けますか?」
「ええ、お化粧がしたいわ」


プシュケは弾んだ調子で言って、自身の横手に備え付けられたテーブルを見た。
そこには大量の化粧品が陳列してある。壁には一面の鏡だ。
他にもブラシや髪飾りなども置いてあって、どうやら此処は頭から足先まで一式揃えてしまえる店なのだと知る。
アレンはこういうものの相手はラビのほうが向いているのになぁと思ったけれど、いつもそれでに触られることが嫌だったので、その考えは内心で強く否定しておいた。


「うわぁ、たくさんあるのね」


プシュケは物珍しそうに化粧品を眺めている。
キラキラ光るパウダーに、咲いた花みたいなチーク。ボックスの中に並んだマニュキアは宝石箱を覗き込んでいる気分にさせてくれる。
プシュケが最初に選び取った口紅で、色味はやはり鮮やかな赤だった。
キャップを外して放り投げる。中身を目一杯出して唇に押し当てた。
その力があまりにも強かったので、アレンは驚いて片手を持ち上げた。


「待ってください、そんなにしたら……」


ボキッ、
と嫌な音がして、赤い塊がテーブルの上に転がる。


「……折れますよ、というか、折れましたね」


制止が遅かったことを悔いて眉を下げれば、案の定お叱りの言葉を投げつけられた。


「もう!何なのよ!どうして折れるの!?」


ぷんすかしているプシュケから口紅を取り上げる。
どうにも彼女は化粧慣れしていない。
自分達より年上のはずなのにとは思ったけれど、何よりの体に変な真似をして欲しくなかった。
口紅くらいと妥協できない程度には、アレンは独占欲が強い。
先刻自覚したばかりだ。


「プシュケさん。お化粧っていうのはこうするんですよ」


別の口紅のキャップを外し、その赤色に小さなブラシを這わせる。
プシュケの顎を掴んで仰向けさせると下唇に色を乗せた。
その感覚にか、少し体が震えたからアレンは言う。


「動かないで」


意識を奪われる。
触れてしまった唇。触れたいと思う唇。
そこに紅を引いていく。
なら絶対にさせてくれないその行為にアレンは集中していた。
ブラシを使って輪郭を取り、全体に色をつけたら、境界線をぼやかせる。
次はグロスを小指に落として膨らみに押し付けた。
艶やかに仕上がったそれに満足して、アレンは大きく頷いた。


「ほら、出来た」


視線をあげればまともに眼が合った。
碧い瞳。の貌。
ほんのわずかな間、気が取られただけで、取り繕うのを忘れてしまった。
綺麗だと誉めなければいけないのに、うまく言葉が出てこない。
何故なら“彼女”に触れてしまったからだ。
口唇を辿った指先の熱。


あぁ、駄目だ。僕は“君”に触れていたい。


アレンはの髪に結ばれたリボンにキスをした。
それだけで何とか自分を押さえ込むと、彼女から身を離して微笑む。


「かわいい、よ」


胸の苦しさを感じながら囁けば、プシュケは双眸を細めてみせた。


「唇にすればいいのに」


吐息のような声がアレンの笑顔を哀しくする。


「馬鹿な子」


そうだね、と心の中で返して、今度こそ綺麗に笑った。
仮面の微笑をはどう思っただろう。
答えは、聞けない。




















「そういえば、どうしてあなた、お化粧なんて出来るの?」


隣を歩くプシュケが首を傾げて訊いてきた。
大通りで見る彼女は、きちんと整えた外見のせいか、さらに大人びた雰囲気を纏っている。
ふわりと流れた長い髪から甘い香りがして、何気なくアレンは距離を取った。


「えーっと」


師匠が究極の女たらしだったので、幼いころから花街に出入りしていました。
そこの女性たちの見よう見マネをしただけですよ。
と、そこまで腹の中で呟いて、


「僕、昔サーカスにいたんです。そこで舞台化粧をしていましたから」


と続きは笑顔で声に出しておいた。
つまりその技術を掛け合わせただけである。
けれどプシュケは男のアレンが化粧上手なのに疑いを持っているらしく、横目でじとりと睥睨してきた。


「へぇ」
「あとは……そうですね、僕らの友達にラビっていうのがいるんですけど、彼がの外見をいじるのが好きなので。それを眺めていたら何となく出来ただけです」
「それだけで、こんなに?」


不愉快なラビの所業まで持ち出してみたのに納得してくれないから、アレンは哀愁を漂わせて俯いた。


「貴女がお美しいのを僕のせいにされても困りますよ」


大体その顔のおかげでこっちがどれだけ苦労していると思ってるんだ、馬鹿
可愛いは正義じゃない。余計な心配を増やす悩みの種だ。
八つ当たり気味に心中で毒づきながら片手を差し出す。
不思議そうにされたので、そのままプシュケの掌を取って握った。
あぁ、ほら、そうやって頬を染められると、男っていうのは簡単にぐらりときてしまうんだよ。


「手、繋いで歩きましょう」
「え、ええ……。デートだものね」
「はい。デートですから」


あと虫除けね。
何せの容姿に加えて、今はプシュケのせいで外見年齢以上の大人らしさだ。
それは色気と呼んで差し支えないものであり、先刻からやたら道行く人の視線を感じる。
正しくは、男性陣の注目を集めている。
もしかしての無駄な明るさとバカっぽさは、見た目の中和にそこそこ役立っているのかもしれない。


買い物に夢中になり過ぎたのか、時間は昼をまわっていた。
プシュケの選んだやたら可愛いカフェで食事をすることになったのだけど、当然ながらアレンの満足する量のメニューはない。
おかげでプシュケに


「この子が何か言いたそうよ?」


と怪訝そうにされてちょっと困った。
、あのね。デートでいつも通り爆食するほど僕は空気読めなくありません。


「大丈夫です」
「何が?」
「大丈夫なので、大人しくしているように。交代しなくて結構ですよ」


前半はに、後半はプシュケにそう告げておく。
アレンの食事量は大概の人に引かれるし、それが女性ともなると「見ているだけで気分が悪くなる」と言われることは知っている。
もちろん、体重の増加をものともせずに食べまくる姿が、彼女達の気に障ることも。


「……ねぇ」


パステルカラーのお皿に乗せられた、ハート型の小さなライスを突っついていたら、プシュケがわずかに身を乗り出してきた。
下から上目遣いに見つめてくる。


「随分容赦なくものを言うけど。どうしてあなた、この子には優しくしないの?」


何だかとんでもない質問をされた気がして、アレンは肩の力を抜いた。
そうか。プシュケさんから見ても、僕はに冷たく接しているのか。


「それと。あなたが私に優しくしてくれると、決まってこの子が鳥肌を立てるのは何故?」


続いた問いかけにますます脱力して、アレンは手にしていたスプーンを置いた。
どっちにしろこのカレーは甘すぎる。
食事を放棄したアレンは、信じられないほどちまちま食べるプシュケを見やりながら頬杖をついた。


「……まぁ。そもそもが友好な関係じゃなかったんですね、僕達」
「ええ?嘘でしょう?」


アレンの返答を聞いたプシュケは大げさまでに目を見張る。


「それは有り得ないわ」
「断言されても」
「あのね。言っておくけど、少なくともあなたはバレバレよ?」
「……………………」


そういえば彼女にはへの恋慕を見抜かれていたのだった。
しかもバレバレ?本当に?


「……そんなすぐに分かるほどなんですか?」
「だってあなた、顔が真っ赤だったじゃない」


いや、普通異性にキスを迫られたら赤面しませんか。
アレンはそう思ったけれど、あえてプシュケには伝えなかった。
あまり言葉にするとが察してしまいそうだし、頬を染める以上に狼狽していた自覚はある。
プシュケが言いたいのは、そういったアレンの反応すべてなのだろう。


「あと、あなたの断り文句とか。本気じゃなかったらあそこまで私を拒む理由が」
「わかりました。わかりましたから、それ以上は勘弁してください」


昨夜のベッドでのことにまで話が及びそうになったので、アレンは片手を上げてプシュケを制した。
彼女はちょっと黙って、それから続ける。


「誠実よね。あんな状況だったんだから、四の五の言わずにやってしまえばよかったのに」
「だから勘弁してくださいって」
「でも、そのくせ優しくはしないのね」
「………………………」
「どうして?」


細められた瞳には、窓から差し込む陽の光が入っているのに、何故だか色を暗くしていた。
問いかけは無邪気だ。表情にも他意は滲んでいない。
それなのに詰問されている気分になるのは、向かい合っている顔がのものだからだろうか。


「……よ、……」
「なぁに?」
「よゆう、が」
「余裕?」
「………………………ない、んですよ」


沈黙がおりた。
アレンはちょっと死にたくなってきたので、頬を支えていた掌で顔を覆った。
間接的(?)にしろに聞かれてしまった居た堪れなさと、口にした内容の情けなさに耳が熱くなる。
案の定プシュケは吹き出した。


「ぷっ、……ふふっ、うふふふふ!なるほど、余裕がないのね!?」
「…………大声で繰り返すの止めてくれませんか」
「だって、おかしいんだもの!」
「……っ、つまりなんかに優しくする余地なんてないってことですよ!!」


苦し紛れに言い放って、皮肉に唇を吊り上げる。
から目を逸らして、はんっと笑ってみせた。


「だから言ったでしょう?僕達は友好的な関係じゃないって」
「そうね。あなたがそんなだから、優しいあなたを見るとこの子は引いてしまうのね」
「……………………」
「優しく、というよりは、女性扱いしたときかしら」
「……でしょうね」
「自覚があるなら改善したら?」
「今更、……」


咄嗟に拒否しかけたけれど、こんなのはただの言い訳だ。
思わず口をひん曲げていたらプシュケがまた吹き出した。


「拗ねた顔」
「そんなことはありません」


アレンはわざと完璧な笑顔を浮かべると、プシュケがもう食べる気がないのを見て取って、席を立った。


「出ましょう。デートの続きです」


その一言での話を打ち切ったつもりだったのに、プシュケは腰掛けたまま優雅に指を組んでその上に顎を乗せた。


「ちなみに、さっきの会話を聞いたこの子の反応だけど」


思わず動きを止めたアレンを楽しそうに見やって、“”の顔が艶やかに微笑む。


「疑問符だらけよ。あなたの真意が掴めないみたいね」


それを聞いたアレンは、とりあえず何か手近に八つ当たりで壊してもいいものはないか、急いで探し始めたのだった。




















優しく、ねぇ。


アレンは繋いだ手を意識しながら考えた。
楽しげに話すプシュケに相槌を打ちつつ別のことを思考する。
優しく。
に、優しく。
具体的にはどうすればいいんだろう。
アレンの思いつく“優しい”行為といえば、例えばプシュケに対する態度そのものだった。
それを間接的に受けてが鳥肌を立てているのだから世話がない。
女性として好きなのに、他の誰よりもそう扱いにくいってどういうことなんだろう。


「ねぇ、こっち」


プシュケに腕を引かれてハッとする。
彼女は大通りから少し外れた道に片足を踏み入れていて、アレンもそこへと導こうとしていた。


「こっちに行きたい場所があるの」
「行きたい場所?」
「そう。すぐそこなんだけど」
「どこです?」


建物のせいで少し陽が陰る。
南国特有の濃い黒の中で、化粧をした唇が弧を描いた。


「私の生家よ」
「―――――――」


何となくアレンは言葉を失った。
生家。プシュケの生まれた家。彼女が人間として存在していた場所。
正直アレンは彼女のことを捕らえ損ねていた。
最初に認識にしたのはアクマとしてだし、その後も“幽霊”としてしか見ることができなかった。
前者はエクソシストとして当然で、後者はの方に気持ちが傾きすぎていたためだ。
そんな彼女が確かな実体を持って生きていた証を、これから目の当たりにすることになる。
不思議な気持ちだった。
少しだけ、哀しくなった。
そしてそれを、が望まないことも知っていた。


(助けられない)


もう、プシュケは死んでいる。
どれだけ力を尽くそうとも、アクマを破壊するだけのエクソシストには、救うことができない。覆せない事実だ。
そのことで悲哀に沈むアレンを、はきっと見たくないだろう。
……自分だって切ないくせに。


「ここよ」


囁く程度で言い差された場所にアレンは目を向ける。
大きな屋敷だった。
白亜の壁に鮮色の屋根。
門扉に絡まった蔓草は見たこともない種類で、恐らく南国特有の植物なのだろうと検討をつける。


「……もう、誰も居ないのね」


プシュケの言葉通り、すっかり荒んでしまった敷地内を、アレンは見つめた。
打ち捨てられて数年といったところか。
所有者のいない屋敷は空虚な気配をたたえていた。
人の手が入らず、その温もりを失った建物というのは、どうしてこうも見ていて寂しい気持ちになるのだろう。


「中、入りたいのだけど」


無理かしら、と言い終わる前に、少女の体を抱き上げて跳躍する。
あっという間に塀を乗り越えれば、思い出したかのように腕の中で悲鳴があがった。


「あ、あなたね!そんな急に……っ」
「すみません」


にこやかに謝りながら地面に降ろしてやる。
続けて手を差し出したのに、プシュケは赤い顔を背けると、さっさと前進し始めてしまった。


「プシュケさん。足場が悪いので転びますよ」
「平気よ」


アレンはプシュケが意地を張っているのだろうと思って、どうなだめようか考えたけれど、続いた言葉が後を追う足を緩めさせた。


「……歩いてみたいのよ。自分が育った家なのに、ずっと、車椅子からの景色しか知らなかったから」


長い髪から垣間見えた横顔が、一瞬ではない別人に見えた。
不自由という意味ならアレンも知っている。
マナを破壊した絶望の日まで、この左手は機能していなかった。
それがどれほど心を磨耗させるのか。
気づけないほど緩やかに、そうしてある日唐突に、思い知らされるのだ。
自分ではどうにもできないやるせなさを。
草に足を取られてよろめいたプシュケを、アレンは背中から抱きとめた。
そっと耳元で告げる。


「……では、どうぞ」
「え……?」
「好きなだけ歩いてください」


驚いたように振り返ってきた碧眼はとても近かったけれど、今は避けずにアレンは微笑した。


「大丈夫。転びそうになったら、僕が支えますよ」


そうしてあげたいと、思った。
だって、ねぇ、両手が使えれば、たくさんの芸ができたし、家事だって手伝えた。
オレはもっとあんたの役に立てたんだろう?マナ。
今更、後悔とも呼べないことを考える。


至近距離で見つめ合えば少し時間が止まったようになった。
冷たい秋風だけが二人の間を流れていって、それを合図にしたようにプシュケがゆるく瞬く。
支えた体をより安定させようとアレンは彼女の腰に左手をまわした。
自然と引き寄せる形になり、プシュケは甘えるようにアレンの肩に頬をつけた。


「……ねぇ、“優しさ”って何だと思う?」


問いかけは先刻の話の続きなのだとわかったから、アレンは咄嗟に押し黙る。
プシュケは苦笑した。


「きっとね、見返りを求めずにいられる人なんていないのよ」
「………………………」
「あなたが私に優しいのは、この子を守りたいからでしょう?」
「……今、僕が支えたいと思ったのはあなたですよ。プシュケさん」
「どうかしら」


プシュケは掌をアレンの胸に添えると、そっと押して自分の身を引き離した。


「あなたがこの子に冷たいのは、自信なのかもしれないわね。優しくなんかしなくても、嫌われたりしないっていう“自信”」


言われてみて、そうかもしれないと思った。
初めて逢ったころからだ。
にはどれだけ無作法なことをしても嫌われる気がしない。


「自信じゃなくて……、甘えですね。それは」


だって、どうせ、許してくれる。
許せないときは、面と向かって怒ってくれる。
アレンのほうも容赦なく言ってやれるから、罵り合って、殴り合って、そんな大ゲンカを乗り越えれば大抵のことは笑って終えられる。
だから僕達に決別は来ないと、頑なに信じていられるのだ。


「そう。でも、駄目よ。女の子に甘えていては」


大気の動きが目に見える。
金髪が舞い上がって、木の葉が渦を巻く。
足元に咲く白い花が彼女の表情と同じように揺れた。


「嫌いにはならない。でも、“それ以上のこと”も、ありはしないのよ」


アレンはハッと体を強張らせた。
プシュケの口元は笑んでいるのに、双眸はまるで睨みつけるようだ。


「優しくしたいんでしょう?そうやって守りたいんでしょう?でも、出来ないのね。それを彼女のせいにするのは簡単なことだわ」
「……………………」
「彼女もね、それを望んでいるから。いけないわね。あなたはますます動けない。悪い癖を直せない」
「プシュケさん」


アレンは眼前の女性の名を呼んだ。
それで続きを遮ったつもりだったけれど、プシュケは自分を置き去りにして歩き出してしまう。


「自覚しなさい、甘えん坊さん。あなたが私に優しくするのは、全部ぜんぶ、“私”にではなく彼女にしたいことなんでしょう」


遠ざかってゆく背中は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。
引き止めようと口を開く。
同時に反論しようとして、喉が機能しないことに気がついた。
あ、ぁ、……。
見開いた銀灰色にモノクロの世界を映す。
アレンはプシュケの言うことを半ば認めてしまったことを自覚した。
そうだよ、わかってる。
余裕がないのだって本当だけど、もっと汚くてずるい真実があるんだ。


は僕を嫌わない。ずっと好きでいてくれる。
だって仲間だから。友達だから。同士だから。
けれど、同じくらい確かなことに、愛してもくれないのだ。
は自身を“女性”としないから、アレン・ウォーカーを異性として見ることはない。


「……っつ」


荒れ果てた庭園に真ん中でアレンは両の拳をきつく握り締めた。
愕然とするようで諦めにも似た感覚がする。
あぁ、嫌だ。ついに気づいてしまった。いや、認めるしかなくなってしまった。
僕はに優しくできないんじゃなくて、“しない”のだ。
自らの意思でそれを選択していたのだ。
優しく接して、女の子として扱って、そうすれば好きだと言うことも出来るけれど、彼女がそれを頭から拒むことを知っているから。


(何度も何度も、何度だって、わざとらしく考えてきたのに)


どうして他の女性のように、親切にすることができないんだろう。
どうして口を開けば皮肉を言ってしまうんだろう。
どうして遠慮もなく拳を出せてしまうんだろう。
その全てをのせいにして逃げていた。
原因は彼女にあったとしても、責任を負わせることなどできやしないのに。


「ほんと……、どれだけ甘えて……」


失笑が浮かんで消える。
下を向きかけた頭を強く振った。
情けない思いを多分に引きずってはいたが、いつまでも立ち尽くしてはいられないし、プシュケを放置することは気が咎めた。
その指摘は図星でもあったけれど、気持ちの上では彼女にだって優しくしたいと思っている。
同情や偽善と呼ばれても、やはりアレンはそう考えてしまう人間だった。


「どこに行ったのかな……」


とにかく辺りを見渡してみたけれど、目の届く範囲に少女の姿はなかった。
奥のほうまで入ってしまったのだろうか。
アレンはため息一つと共に足を踏み出した。
途端、


「きゃあっ!!」


甲高い悲鳴が聞こえてきて驚いた。
声音はのものだ。ということは、叫んだのはプシュケだろう。
アレンは何か思うより先に地面を蹴りつけて駆け出した。
走る間にも声が響いてくる。
どうやら言い争っている様子だ。
怒った口調のプシュケと、それを嘲るような複数の哄笑。
嫌な予感を抱いたアレンが辿り着いたとき、“”は下卑た表情の男たちに取り囲まれていた。


「プシュケさん!」


アレンはほとんど砕けてしまっている硝子戸を押し開けた。
天井が高い。
壁と同様すべてが硝子張りだ。
薄汚れヒビの入ったその内部には、土と植物の残骸に溢れていた。
どうやらかつては温室だった場所のようだ。
奥のほうに据えられた白いテーブルセットに、アレンより少し年長の男達がたむろしている。
その内の一人が少女の手首を掴んで無理やり引き寄せた。


「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
「俺達に何か用事かな?」
「可愛いじゃん、歓迎するよ」


無遠慮に触れられて身をすくませたプシュケだったが、何とか気丈な声を張ってみせる。


「あなたたち誰なの?勝手に私の家に入らないで!」
「はぁ?私の家?」
「ここがか?」
「お嬢ちゃん、ここは何年も前から空き家だぜ」
「そうそう。そんで、俺達の遊び場だ」


言いながら一人の男が足元の柵を蹴り飛ばす。
今度は悲鳴に近い怒声があがった。


「やめて!出て行ってよ!!」


怒りに頬を赤らめ、瞳に涙が浮かべたプシュケを見て、男たちは止まるどころか他の物にまで当たり始めた。
必死なプシュケをからかっているつもりらしく、企むような視線とタチの悪い笑みがかわされる。


「おおーっと、足が滑ったぜ」
「花壇が壊れちまったなぁ」
「別にいいだろ、元から荒れ放題だ」
「そうそう、たいして変わらねぇよ。なぁ、お嬢ちゃん?」


「やめ……っ」
「おおーっと、足が滑っちゃったぜ!」


見かねたアレンが止めに入ろうとした瞬間、やたらとワザとらしい調子でプシュケが言った。
否、意識が入れ替わったのだろう、絶対にだった。
何故なら言葉と同時に、目の前の男に思い切り蹴りを入れたからだ。
不意をつかれた相手は痛みのあまりうずくまっている。
それを普通に見下ろすのはどう見ても金色の瞳だった。


「やっぱりハイヒールは攻撃力が高いなぁ。特に踵とか最強だよね」


とか何とか呟いているくせに、早々にそれを脱ぎ捨てる。
指に引っ掛けたまま担ぐようにすると、もう片方の手を腰に当ててみせた。


「で?お兄さん達は何を堂々と犯罪行為をしているの?今の立派な器物破損だよ?ついでに言うと不法侵入ね」
「な……っ、おまえ!」
「まぁ、私たちも勝手に入っちゃってるけど」


軽く舌を出したに一人の男が腕を伸ばす。
それを身を屈めて回避すると、低い姿勢のまま足払いを仕掛けた。
彼女がハイヒールを放り出すのと、相手の男が地面に転がるのは、まったくの同時だった。

「うわっ」
「この女……!」
「何しやがる!!」


「―――――――出て行きなさい」


それは命令だった。
不意に放たれたそれに、男達の動きが止まる。
表情もなくは告げた。


「ケンカがしたいなら外で。私が相手になってあげてもいいわ」



アレンは吐息混じりで今度こそ割って入った。


「どういうこと?」
「殴り合いをしていたのよ、この人たち」


はあっさりと応えたけれど、アレンには意味がわからない。
目線で説明を求めるとため息をつかれた。


「言葉通りよ。遊びなのかな?もっと楽しいことすればいいのにね」
「あぁ、なるほど。だからプシュケさんが悲鳴をあげていたのか」


つまり男達はここで腕の競い合いのようなことをしていたみたいだ。
アレン達の言う“鍛錬”に近いのかもしれない。
もちろんもっと野蛮で遠慮のないものだったのだろう、プシュケが怯えるのも無理はなかった。


「外でやったら警察がうるさいだろうが」
「それに喧嘩じゃない。モノマキアだ」
「最近流行っている遊びだよ」


男達の反論にアレンは首を傾げ、は半眼になる。


「モノマキア?って何ですか?」
「決闘って意味よ。仲間内でルール作って戦って、お金でも賭けてるってことかな」


ちらりと視線をやると、なるほどテーブルの上は金品で埋まっている。
他にも食べ物や酒が散乱していて、男達が此処で好き勝手をしているのは明白だった。


「危ないお遊びね」
「うっせぇな」
「何だよ、生意気な女だな」
「どうでもいい。顔が可愛けりゃ楽しめるだろ」
「おい、捕まえろ」


うまく事が運ばないことに苛立ってきたのか、男達は再びに取り囲んだ。
今度こそ本気で彼女をどうにかする気のようだ。



「大丈夫」


名前を呼べば即座に返された。
アレンもそこは疑っていない。
けれど「黙って見ていられると思うなよ」とも言いたい。
どうしてくれようかと眉を寄せたけれど、不意にの動きが鈍ったから驚いた。


「う……、っ」


まるで目眩に襲われたかのように額に手を当てる。
不規則に動く瞼から見えた瞳の色。
金と碧が交互に瞬いた。


「プシュケさん……っ」


は頼むように呼んだけれど、次の瞬間同じ口から転がり出てきたのは悲鳴だった。


「いやっ、怖いわ……!」
「何を今更!」


相手はその隙を逃さない。
また金色の眼が光ったが、すぐさま碧色に掻き消されて、少女の体は男達に楽々と押さえ込まれてしまった。


!!」
「小僧は来るなよ」


咄嗟に駆け寄ろうとしたアレンは阻まれる。
腕をねじあげられたプシュケが痛みに苦鳴を漏らした。


「嫌、いやっ、触らないで!」
「何だコイツ」
「さっきまでの威勢はどうした」
「しょせんは女ってことだろ」
「やめて……っ、離してよ!!」


恐怖に震えるプシュケに、男達は優位を取り戻し、アレンは焦燥を抱いた。
様子を見る限りが戻ることもなさそうだ。
こちらとしても、これ以上は我慢できそうもない。


「彼女を離してください」


アレンは極めて平静な調子で言った。
内心腹が立って仕方がないから自然と音程は低くなる。
プシュケに群がっていた男達が振り返ってきたので、アレンはにっこりと満面の笑みを浮かべた。


「その人は清廉潔白、品行方正な女性ですよ。乱暴なことは大の苦手なんです」


平気で嘘を吐きながら、ばさりと上着を脱いだ。


「だから離してあげてください。モノマキア……でしたか?そのお遊びの相手は僕がしましょう」


というか、正直殴りたい。
だってあいつらプシュケの生家で好き勝手するわ、に乱暴しようとするわで、あぁもうイライラする。
殴りたい。


「はぁ?格好つけてんじゃねぇよ、ガキが」
「その細腕で何が出来るってんだ」
「そうだぜ、モヤシは引っ込んでろ」
「モヤ……ッ、…………………いいから早く彼女を離してくださいよ」


神田みたいなことを言われて一瞬キレそうになったアレンだったが、超人的な自己抑制力で何とか笑顔を保ってみせた。
プシュケが不安そうにしているので少しだけ種類の違う笑みを見せる。
するとその眼差しを遮るようにして一人の男が前に出てきた。


「まぁいい。お前邪魔だし。ぶん殴って追い出すか」
「それは僕の台詞です」
「よく言う。……ほら、一応ルールだ。こっちは金賭けてるんでね」


男は顎をしゃくってアレンにその場を示した。
地面に目を落とすと白線が引いてある。
どうやらこの内側でモノマキアとやらは行われるらしい。


「ルールは簡単、この線から出た方が負け。あとは何でもアリだ」
「へぇ……。目潰しや武器の使用も?」
「おっと、顔のわりにエグイこと言うねぇ。使いたきゃ使えよ」


男は馬鹿にしたように笑いながら線内に入る。
アレンも普通に歩いて行ってそこへと立った。


「ま、そんなもん使う暇なんてやらねぇけど……なっ!!」


言葉の最後に力を込めて、男がアレンに殴りかかる。
なるほど、距離の詰め方は悪くない。まったくの素人ではなさそうだ。
もしかしたら此処にいるのは考えていたより危ない連中なのかもしれない。


(どこにでもいるよなぁ、こういう腕と時間を無駄にしている人達)


アレンはため息を吐きたい気分になりながら男のパンチを掌で受け止めた。


「なっ……!?」


驚愕した相手の顔。
そこにもう片方の拳を叩き込んだ。
骨と骨がぶつかり合う音が響いて、プシュケが悲鳴をあげる。
それが過ぎ去れば残ったのは静寂だった。
アレンが両手から力を抜けば、男の体が地面に転がる。
何気なく転がすと鼻血を出した間抜け面が見えた。


「あ、しまった」


アレンはひとりごちてから、プシュケの周りにいる男達に訊く。


「すみません、気絶させちゃった場合どうすればいいんですか?線の外まで引きずっていけば?」
「……………………」
「ちょっと、聞いてます?」


誰もが言葉を失って、ぽかんと線内を見ているから、アレンは仕方なく倒した男の足を掴んだ。
わずかに腰を落として勢いをつけると、そのまま「よいしょ」とぶん投げる。
男の体は線外に転がった。
下は土だから大丈夫だろう。それなりには痛かったろうけど。


「さて、まだやります?」


アレンが適当な口調で訊くと、男たちはハッとしたように顔を見合わせ、それから目を泳がせた。
現状に理解が追いつかないのだろう。おかげで次の行動も決まらない。
けれどそれはアレンが構ってやることではない。


「もういいですよね。プシュケさん、こちらに」
「ま……待て待て待て!」


アレンの手招きに応じて駆け出そうとしたプシュケの腕を、傍にいた男が乱暴に掴む。
混乱していて力の加減ができないのか、五指が手首に食い込んで見るからに痛そうだった。
当然プシュケは激痛に身をよじる。


「は、離してよ!」
「待てって言ってるだろ!何なんだよお前ら!突然現れてさ……!」
「と、とにかく女はこっちだ!」
「早くしろ!!」
「嫌っ!!」


無理に連れて行かれそうになったから、プシュケは一際強く抵抗する。
そのとき不意に力の拮抗が崩れた。
がむしゃらに暴れたせいで男たちの手が緩み、反動でプシュケの体が大きく傾いたのだ。
倒れゆく先にあったのは、腐った植物が並ぶ大きな棚。
それに少女の肩がぶつかった瞬間、ガラスの砕ける音と、木組みが折れる音が重なった。


「プシュケさん!!」


そのときどう動いたのかアレン自身にもわからなかった。
気がつけば一気に距離を詰めていて、体勢を保てないプシュケを引き寄せる。
強引に金髪を胸に抱き込んだのと、ガラスや木の破片が全身を襲ったのはまったくの同時だった。
近くて遠いところで激しい音が響き渡る。
プシュケが悲鳴をあげたから、ますます強く抱きしめた。


「……………っつ」


ようやく轟音がおさまったころ、アレンは左腕で支えていた太い木を押し飛ばす。棚の一部だったものだ。
倒壊したそれは木片となって深々と地面に突き刺さっていた。
もっと厄介なのがガラスで、棚が倒れると同時に破壊された壁面が、細かな凶器になって降り注いでいた。


「プシュケさん」


アレンは痛みを声に出さないようにして呼んだ。
腕の中で震えている。なだめるように背中をさする。


「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」
「……あ、……」
「無事ですね?」
「あ、あなたは……」


ようやくプシュケはアレンの胸から顔をあげて、それから一気に蒼白になった。
タイミング悪くぼたりと血が落ちてくる。
アレンは内心忌々しく思いながら、片手でそれを拭い去った。


「平気ですよ」
「そんな……!血が出ているわ!」


うろたえるプシュケを開放して、アレンは肩や背に降りかかった破片を払いのける。
綺麗に砕けたおかげであまり体には刺さっていない。
多少痛くはあるが、一番の問題は頭だった。
棚を構成していた木の裂け目でやってしまったのか、こめかみの皮膚がばっくり切れてしまったのだ。
場所が場所だから出血量が多い。
強く押さえてみたけれど、手を汚すだけで止まらなかった。


(まぁ、いいや。打ちどころは悪くないから大丈夫だろう)


冷静にそう判断して立ち上がる。
するとプシュケと同じような顔色をしていた男たちが後ずさった。
チラチラと互いを見やって逃げる算段をしているようにも見える。
でも、駄目だ。もう逃走は許さない。
アレンは乱暴に赤を拭うと、にっこりと笑ってみせた。


「よくもまぁ、これだけ女性を危険に晒してくれますね。いい加減僕も温厚な自分を忘れてしまいそうですよ」
「ひ……っ」
「い、今のは俺たちのせいじゃないだろ!」
「この期に及んでどの口が言うんですか」


血にまみれた顔で優しく微笑むアレンに、男たちはいっそ面白いほど狼狽した。


「な、何なんだよ!お前は!!」
「僕ですか?」


白髪まで汚れてしまったから片手で掻きあげる。
ペンタクルが見え隠れして異様な雰囲気を作り出す。
それでもアレンは優美な表情で笑った。


「―――――――彼女の恋人ですよ」


その背後でプシュケが息を呑んだときには、アレンは容赦なく男たち全員を殴り飛ばしていた。




















「だ、大丈夫ですよ……」
「駄目よ、動かないで!」


アレンは冷や汗をかきながら逃げようとしたけれど、ぴしゃりと却下されて動きを封じられる。
どうにも女性の叱り声には弱い。
それは旧友のパトリシアのせいだった。
幼い頃を曲芸団で過ごしたアレンにとって、サーカスの姉さんであった彼女の教えは絶対だったのだ。
そういえばは意外と頭から叱りつけるということはしないなぁ、とか考えていたら、傷口をぐいぐい拭われて悲鳴を噛み殺す。


「プシュケさん……っ」
「なに」


涙目で名前を呼ぶけれど、当の本人は聞いていなさそうだ。
真剣な顔つきでアレンの怪我の手当てをしている。
アレンは彼女にバレないようこっそりため息をついた。


プシュケの生家から男たちを叩き出した後、二人は近くの公園を訪れていた。
というかプシュケに無理やり引っ張って来られたのだ。
アレンはそこにあるベンチに座らされて、怪我の止血を強要されている。
こんなのは放っておいてもそのうち止まるのに。
いくらそう言っても彼女は納得してくれなかった。


「痛いでしょう?痛いわよね?」
「いや、あの……」
「あぁ、ほら、痛いのね!早く血を止めないと!!」
「だ、だから大丈夫ですって……!」


やたらと傷口を触ってくるプシュケにアレンはほとんど泣き出す寸前で呻く。
どうやら彼女に医術の心得はないらしい。
これでは傷に塩を塗りこんでいるようなものだ。
仕方なくアレンは多少強引にプシュケの手を取った。


「いけませんよ。あなたの白い指先を、僕の血なんかで汚しては」


包み込むようにして握って、関節の部分にキスをする。
案の定プシュケは真っ赤になって動きを止めてくれたから、微笑だけを残してパッと開放しておいた。


「あとは自分で出来ますから」
「でも……、私のせいなのに」
「本当は無傷であなたを守りたかったんですよ。だからこの怪我には構わないで。自分が情けなくなる」


プシュケから受け取ったハンカチで額を押さえながら、アレンは少しだけ本心を吐き出した。
だってこれ、絶対に微妙なことになる。
あとでと微妙なことになる。
それでもアレンは心配そうな“”を見つめて微笑んだ。


「そんな顔しないでください」


デートで女性の笑みを陰らせるなどあってはならないことだ。ジェントルマンの名がすたる。
アレンは片手を自分の胸元に差し入れた。


「プシュケさんは、青もお好きでしたよね?」
「え?ええ……」


質問の意図がつかめていないプシュケの顎にアレンは指をかけた。
そっと持ち上げて仰向かせる。もう一方は胸元へと伸ばした。


「やっぱり、似合いますね」


そう言いながら彼女の襟首にブローチを留めてやった。
沈み始めた陽に輝くそれは、驚いたように見下ろすプシュケの瞳と同じ色だ。
楕円形の中に光る真っ青な花。


「ご所望の青い薔薇ですよ」


アレンは優雅な囁きと共にプシュケを覗き込んだ。


「さぁ、これでどうか、その笑顔を曇らせたことを許してください」


切なげな瞳でプシュケの頬を撫でれば、そこは綺麗な朱に染まった。
両手は胸元に添えられている。
彼女はアレンの贈った青薔薇のブローチを握り締めて俯いた。


「……こんなもの、いつの間に買ったの?」
「内緒です」


くすりと笑って金髪に触れれば、そのままこちらの胸に額をつけてくる。
寄り添った柔らかい体にアレンはちょっと緊張したけれど、何でもない振りで頭を掌で覆ってやった。
プシュケには怖い思いもさせたし、心配もしてもらった。
申し訳なさと感謝を込めて呟く。


「……無事でよかった」


「それは“私”が?それとも“この子”が?」


首の下から質問が……、否、詰問が飛んできて目を見張る。
窺ってみるとプシュケはアレンよりずっと緊張している様子だった。
答えを恐れているようにも見えた。
だからアレンは幼子をあやすように言う。


「あなたが、ですよ。プシュケさん」


油断していたわけではなかった。
返答に気を遣いすぎたわけでもない。
それなのに一気になくなった距離に呼吸を止める。
不意をつかれたにしても近すぎるところに、“”の顔があった。
少しでも身じろぎをすればキスをしてしまいそうで、アレンは完全に硬直してしまう。


「……そうよね。あのときあなたは“私”を呼んだわ」


プシュケが囁く。の唇から吐息が触れる。
白くしなやかな指先がアレンの頬を這ってゆく。


「“私”の名を呼んでくれた。走ってきてくれた。庇ってくれた。代わりに怪我を負ってくれた」
「……………………」
「“この子”じゃなくて、“私”のためにね」
「……っつ」


また少し二人の間が縮まったから、アレンは反射的に身を引こうとする。
それをプシュケの腕が阻んだ。
しだれかかる体が熱い。


「ねぇ、今度こそいいでしょう?」


駄目だ。触れる。


「キスして。“アレン”」


夕日が眩しすぎて瞳の色がわからない。
金色なのか、碧色なのか。
確かなのは声。のものだ。ぬくもりも、感触も、香りも、全て。
アレンは固く目を閉じた。
そして抱きしめようと伸ばした手で、


“彼女”を突き放した。


「駄目だ」


強引に奪い取った空間の向こうで、彼女は呆然とした顔をしている。
アレンは吐き出しそうな思いでそれを見つめた。


「駄目だ。できない」


だって、瞳の色も見えなくて、感じる全てがそうでも、わかっているんだ。
何もかも確かじゃなくても、これだけは真実なんだ。


「“”は、僕に、そんなことを望まない」


望んでは、くれないんだよ。
自分で口にしておきながら、とっくに理解しておきながら、言葉にした瞬間ひどい絶望がアレンを襲って泣いてしまいそうになった。
けれど向かい合っている“”はすでにそれ以上のもので、振り上げられた片手を見ていることしかできない。


「ごめんなさい」


アレンが掠れた声で謝罪したのと、プシュケが叫んだのは同時だった。


「意気地なし!」


肌を打つ音を聞いた。
平手が風を切るのも感じた。
それなのに痛みはなくて、アレンはゆっくりとまばたく。
の右手を、の左手が掴んで止めていた。


「……それは、ちょっと、理不尽でしょう。プシュケさん」


吐息と共に言ったのは本人だった。
彼女はアレンに一瞥を投げるとすぐに起立する。
沈んでゆく太陽に目を細めて、掌をかざしてみせた。


「意気地なしどころか、意気地ありまくりじゃないの。ね?」
「…………………」
「ちょっと強情すぎ、ってくらい」



アレンは深いため息をついて、金髪の隣に並んだ。


「プシュケさんは」
「……奥に引っ込んじゃったみたい。もう話をするのは無理だと思う」
「……、そう」
「……………………」


何となく二人とも黙り込んだ。
今までになかった空気がお互いの間に流れていて、それをどうしていいのか判断しかねていた。
プシュケが掻き乱した場でアレンとは沈黙の中に立つ。


「……キスくらい、たいしたことじゃないわ」


唇からこぼすようにが囁いた。
アレンは彼女の横顔を振り返って、ぎこちなく息を吸い込んだ。
喉が痛い。瞼も痛い。瞬きをすることが苦痛だ。


「あなたは今日、プシュケさんの恋人だったんでしょう?だったら“私”に構うことなかったのに」


アレンの視線を感じたのか、は顔をこちらに向けて苦笑した。
何だか哀しく苦しげな笑みだった。


「“私”なんかに、構う必要はなかったのに」
「構うよ」


どうして、こんな、当たり前のことを言わせるんだろう。
、君は。


「僕は、“キスなんてたいしたことない”、なんて言えないから」


切なくてどうしようもなくて、ただじっとを視界の中におさめる。
彼女は一瞬だけショックを受けたような表情を見せた。
口元を引き結ぶ。握り締めた拳が微かに震える。


「じゃあ……」


お互い睨みつけるようにして見つめ合う。


「じゃあ、どうして、あのとき」


アレンにはが言いたいことがわかった。
“あのとき”……セルジュとエニスの墓前でのことだ。
触れた唇の熱を、僕も彼女も覚えている。


「…………………」


の口からぷつりと続きは出てこなくなった。
尋ねるのが恐ろしいのか、訊いてしまってはいけないと思っているのか。
言葉を探すように揺れた視線を絡め取るように、アレンはへと一歩を踏みだした。


、僕は……」


ぐぅぅぅぅうううう………。


「…………………」
「…………………」


二人はまったく同じ顔で動きを止めた。
数秒の間、そのままでいた。
次に聞こえてきたのはが吹き出す音で、そのまま声をあげて笑い出す。


「あ、あはは!あはははははははっ」


アレンはというと自分の腹の音の空気の読めなさを全力で嘆いていた。
何故!今!この時!お腹が鳴るのか!!本当に勘弁してくれ!!!!
半泣きでそんなことを思っていたら、まだ笑いながらが言ってくる。


「お昼ごはん少なかったもんね。そりゃあお腹も空くか」
「すみません、本当にすみません、今回は僕が全面的に悪いです」
「悪くはないけどおもしろかったなー」
「それが一番悪いんですよ!!」
「はいはい、よしよし」


はいきり立つアレンの頭を撫でると、その手に紙袋を押し付けてきた。


「何ですか、これ」
「迷子のボクにプレゼントよ」


茶化すように言われて先に立って歩き出される。
アレンはの後姿を見ながら紙袋を開けてみた。
中には溢れるほどのお菓子が詰め込まれていたから目を見張る。


あぁ、なるほど。
は迷子みたいな僕を、お菓子を持って迎えに来てくれたんだ。
夜明け前の約束の通り。
いつもの、通り。


暖かな気持ちになって、自然と笑みがこぼれる。
同時に胸の奥がひどく締め付けられた。
僕を見るプシュケさんの顔、呆然とした双眸、その碧色。
僕の見たの表情、切なく微笑んだ瞳、その金色。
真っ赤な陽を背に、大好きな女の子が、こちらを振り返って笑ってくれた。


「帰ろう、アレン!怪我の手当てをしなくっちゃ」
「うん。それからお菓子だ。一緒に食べよう」


アレンは正しく微笑むと、彼女の隣まで駆けていった。










はい、残念なデート回でした。
英国紳士をここまでたくさん書いたのって初めてな気がします。
当サイトのアレンの扱いがよくわかりますね!(すみません)
ちなみにアレンがプシュケinヒロインを庇ったのは完全に反射です。
彼の中ではヒロイン=守りたい、プシュケ=女性だから守らなければ、って感じなので当然の行動なんですよね。
最後それを正直に言っていたらあんな微妙なことにならなかったかもしれませんね……。

次回でラストかな?
プシュケの本当の目的は?アレンとヒロインの仲は進展するのか?ってところをお楽しみください!