誰かこの胸に楔を打ち込んで。
求めてはいけない。
望んではいけない。
触れてはいけない。
それなの に 。
● メルヒェン・パラドックス EPISODE 4 ●
頭が痛い。
涙が出そうだ。
アレンは枕に顔を押し付けて意味もなく呻いていた。
どうにかしてくれと藁にもすがる思いで、ブックマンJr.であるラビに連絡を入れてみたのに、悲しいまでの空振りだった。
愚痴はどれだけ吐き出しても尽きない。
ぐちゃぐちゃに絡まった思考を解きほぐせなくて、アレンは通信を切ったあとも一人うんうん呻っていた。
(どうしよう……本当に)
好きだの何だの言って迫ってくる彼女をかわし続けるのは至難の業である。
だって見た目がだ。
正直何度もぐらりときた。
本人じゃないとわかっていても、“”の体で触れられると、ドキドキして仕方がない。
好きだと自覚して間もないというのに、これは何という拷問だろう。
そんな埒があかないことを考えているうちに瞼が重くなってきた。
やはり疲れが出たようだ。
今日一日神経をすり減し続けた結果とも言える。
ようやく訪れた穏やかさに、アレンは身を任せようとしていた。
だから気づかなかった。
“彼女”が部屋に入り込んできたことに。
エクソシストとして、否、男としての大失態である。
ぎしり、とベッドが揺れたから、アレンは眠気眼を開いた。
枕に突っ伏していたから見えたのは白いシーツの色だけ。
不意に寒気を覚える。
上掛けを持ち上げられたのだ。忍び込んでくる夜の空気と、それを埋めるようなあたたかな体温。
真っ白な視界に、金色の髪が揺れた。
「……!?」
そこでようやくアレンは覚醒した。
勢いよく体を反転させる。
仰向けになった瞬間に柔らかな肢体がぶつかってきて、そのまま完全にのしかかられた。
「ちょ……っ」
「しー!今何時だと思っているの?」
首尾よく馬乗りの体勢にもっていった“”が、人差し指を唇の前に立ててみせた。
けれどアレン的に静かにできる状況ではない。断じて、ない。
「ど、どいて!どいてください!!」
「だから、うるさくしないの」
「もがっ」
「ね?いい子だから黙って」
優しい微笑みで無理やり口を塞いでくる。
表情と行動が一致していない。
アレンもよくやることだけど、なるほどこれは確かに怖い。
いつもが涙目になっている理由がよくわかった。
「んーっ、んんー!」
とにかく“離せ”と手振り身振りで伝えようと試みる。
状況的に突き飛ばしてでも離れたい感じではあるが、女性相手に躊躇いは捨てきれなかった。
これがなら容赦なくベッドから叩き落としてやれたのに。
見上げた先の碧眼が何度か瞬いた。
「……騒がない?」
「んん!」
「静かに出来るのね?」
「ん!!」
「わかったわ」
アレンの必死の形相に感じるものがあったのか、彼女はそっと口から手を除けてくれた。
肩で息を吸って吐く。
今度こそ本気で泣きそうな気分で、自分の上に乗っかった“”を見つめる。
「あ、あの……」
「プシュケよ」
「ぷしゅけ?」
「私の名前。名乗らずにいたら、この子が付けたの。当面私のことはそう呼んで」
「はぁ……」
そうなった経緯も名前の由来もまったくわからなかったが、確かに呼び名がないと困るので、アレンは素直に頷いた。
「ええーっと。じゃあ、プシュケさん?」
「何かしら?」
「どいてくれませんか」
「嫌」
「ですよ、ね……」
予想通りの反応にアレンは半笑いになる。
これはどうしたものだろう。
深夜、明かりを落とした部屋。ベッドの上に若い男女。
非常にまずいシュチュエーションである。
しかもプシュケはアレンの腹の上に腰を落ち着けてしまっている。
さらには自分の纏っている夜着に手をかけたものだから、慌てて上半身を跳ね起こした。
「ス、ストップ!」
胸元のボタンを外そうとしていた手を掴んで止める。
体勢の変化で膝までずり落ちてきたの体は、腰に腕を回して支えてやった。
あ、しまった。
反射的に制止したけれど、断然距離が近くなってしまった。
「ちょ……ちょっと落ち着きましょう、プシュケさん」
「私は落ち着いているわ」
「とりあえず離れ……」
「嫌だってば」
「……ですよね。ぬ、脱がないでくださいよ」
「じゃあ、あなたが脱がせて」
本当に近くで甘えるようにそう囁かれたから、アレンは咄嗟に後ずさる。
駄目だ。わかっているけど、やっぱり駄目だ。
の声というだけで脳を侵されるみたいになる。
身近に感じる肌の熱とか、柔らかさとかが、言動の不自然さを吹き飛ばそうとしてくる。
「」
アレンは張り付く喉で彼女の名前を呼んだ。
プシュケは構わない。
逃れようとするアレンの頬に指先を伸ばしてくる。
「無駄よ。彼女は眠っているわ。今ここにいるのは“私”だけ」
「………………………」
「そして、あなただけ。二人きりよ」
「……止めてください。その体は“”のものです」
「だから何?」
「あなたが勝手をしていいものじゃない。……僕が触れるわけにもいかないんです」
「好きなくせに」
唐突に言われて返す言葉を失った。
目を見張って見つめる。
すぐ傍にある碧眼は、まるであの洞窟で見た海面みたいに光っている。
「ねぇ、好きなんでしょう?“”のこと」
アレンは返事ができない。
の声で、の唇で、の顔で、それを口にされたことに、自分でも驚くくらいに衝撃を受けていた。
気づかれてはいけない。
もう隠せないとわかっていても、いつか抑えきれなくなると知っていても、“彼女”にだけは悟られてはいけなかったのに。
だって“彼女”は、“”は……、
「不毛な恋ね。この子はあなたを受け入れない。絶対に」
プシュケはいっそ慈愛に満ちた口調で、残酷な事実をアレンに語る。
「愛される資格がないと思っているのよ。ひとりの男性に、女性として想われることを拒んでいる。だから“”はあなたを好きにはならない」
「……………………………」
「愛したりしないわ」
凍りついた銀灰色の瞳にゆっくりと近づいてくる“”の口唇。
知っているよ。わかっているよ。
だから、僕は君にこの想いを伝えられないでいる。
「求められないと思っているから、自分にもそれを許そうとしない。馬鹿な子よね。これじゃあ、あなたが可哀想」
ずりっ、と体の重心を移動させて、プシュケはますますの体を密着させてきた。
太ももで両脇腹を挟まれる。
の腕がアレンの首に回って引き寄せられる。
鼻先が触れ合った。
「素直に言ってみて。好きでなんでしょう?」
「……っつ」
「愛しているのでしょう?」
呑み込んだ息を求めるように、アレンの唇に“”の唇が迫る。
「“私”を愛しているのでしょう、“アレン”」
理性、が。
崩れそうになる自分自身が、どこかで心地よいと感じている。
吐息に触れ、熱を感じ、このまま口づけで殺されるのかと思った。
死に至らしめる、キス。
「ちがう」
瞬きさえ許されない至近距離で、アレンはを見つめる。
否、その“碧い”瞳を。
「あなたは“”じゃない」
きっと金色の双眸だったなら逃れられなかっただろう。
そんな自分を心底情けなく思いながら、アレンは“”の腕を解かせて、プシュケを引き離した。
「好きも嫌いも、“”ではないあなたには伝えられない。……伝えたくない」
「………………………」
「すみません」
視線を逸らして謝罪を口にした瞬間、勢いよく押し倒された。
背中をぶつけてベッドが軋む。
わずかに跳ね上がった体を無理やり押さえつけられた。
「あなた、それでも男?」
低い低い声は怒っているような調子だ。
アレンは身を強張らせてプシュケを見上げる。
彼女は許せないという目つきで睥睨してきた。
「好きな女を好き放題できるっていうこの状況で、何バカなことを言っているのかしら?」
「いや、あの、好き放題って」
「何よ、違う!?時間を考えて、窓の外を見て、薄暗い部屋のベッドの上という状況を思い出して!これで何もしないなんて男じゃないわ!!」
「そ、そうですね……僕もそう思いますよ…………」
「じゃあ何で手を出さないの!!」
いや、それより何故こんなことを説教されなければならないのだろう。
そんなの理由は全部プシュケにあるというのに。
「信じられない!女の名誉が傷ついたわ!!」
「はぁ……それは何というか……、ごめんなさい」
「……謝るなんて、ますます最低」
「どうしろっていうんですか」
冷ややかに言われてアレンはげっそりと返した。
正直プシュケは苦手なタイプだ。
外見がなので言動の違和感に耐えられないというのもあるが、基本的にこういう自分の世界で生きている人は扱いに困る。
英国紳士の口先で丸め込もうにも、理解できない部分が多すぎるのだ
自由奔放なのはクロス然り、セルジュ然り、然りなのだけれど。
何が違うかというと、結局は相手のことを考えているかいないかという点に尽きた。(師匠は……まぁたまに本気でひどいけどね!)
彼らは周りに負担をかけることを厭うて、自分勝手に“振舞って”いるだけにすぎない。
対してプシュケは本当に“ワガママ”な部分が強い気がするのだ。
「プシュケさん」
アレンは自分に体重を預ける少女に向かって言った。
「……もったいないと思いませんか?」
あくまで冷静に、静かな調子で告げてやる。
「貴女がしたいのは“恋愛”なのでしょう?それなのに、こんな夜中に、一気に話を進めようとするなんて」
「…………………………」
「これじゃあ後のお楽しみは結婚くらいなものです」
「私はそれでもいいけど」
「駄目です無理です勘弁してください!……じゃなくて。せっかくだからもっと満喫しましょう?」
とにかくこの窮地から逃れるために、アレンは必死になって頭を働かせていた。
どうかこれで納得してくれますように!
そうじゃなかったら僕が死ぬ。精神的に死滅する。
「お互いのことを話したり、手を繋いで歩いたり、並んで花や空を眺めたり。一緒に美味しいものを食べるのなんて最高ですね」
「…………………………」
「ねぇ、可愛い格好をしてみせて。髪を撫でて褒めてあげるから」
検分するように眺めてくるプシュケの手を、アレンは優しく握った。
「同じものを見て、同じものを感じて、幸せな気持ちを分け合う……“恋”ってそういうものでしょう?」
見つめ合う。
銀色の瞳と、碧色の瞳。
無表情のプシュケを促すように微笑を浮かべる。
少し眉を下げて、軽く小首を傾げて、訊いてみる。
「僕は貴女とそういう風に過ごしたい。…………駄目、ですか?」
問いかけるときにきゅっと掌に力を込めた。
そうすれば女性はいとも簡単に頬を染めて、アレンの希望に頷いてくれるのだ。
「……、いいわ」
「本当?嬉しいな」
アレンはにこっと笑って、プシュケの手にキスをした。
人差し指だ。ほとんど爪先に唇を付ける。
洞窟の中でしたのとは違って目は閉じない。
下から掬いあげるようにして、じっと見つめる。
「ありがとう。僕のお姫様」
ますますプシュケが赤面したから、アレンは満足して笑みを深めた。
それは見るものに妖艶な印象さえ与えるようなものだったが、本人にその自覚はない。
何とか事がうまくいって心の中で大喜びしているところだった。
(よっし、うまくいった!これで失敗したら本当にどうしようかと思ったよ貞操的に!のもだけど僕も負けず劣らず大ピンチで)
「じゃあ、明日ね」
「……はい?」
ひとりで万々歳していたら突然プシュケに宣言された。
聞き返す前にもう一度言い渡される。
「明日、デートをしましょう」
「…………………はいぃい?」
思わず気の抜けた声を出すと、頬をつままれた。
ぷにっと引っ張られて口を封じられる。
プシュケはの顔を近づけて、意地悪に笑ってみせた。
「お互いのことを話しましょう。手を繋いで歩きましょう。並んで空や花を見ましょう。もちろん、美味しいものを食べましょうね。それが“恋愛”なんでしょう?」
「…………………………」
「それって、デートでしょう?」
いやはや、まったくその通り。
そのつもりで喋っていたからね。
アレンは思うけど首肯できない。
だってそれは必死にプシュケから逃れようとしただけでそんなデートって。
デートって!
現状の回避には成功したが、別の方向で面倒なことになってしまったと気づいたアレンの顔色は蒼白だ。
それでもプシュケは容赦なく命令した。
「いいわね。明日よ」
アレンの頬から“”の指が離れる。
「私をエスコートして頂戴。王子さま」
プシュケはそこを撫でて、軽くキスを落とした。
「っつ…………!」
押し付けられた唇の柔らかさ。
アレンは驚いたのと恥ずかしかったのとで身を退こうとしたが、それより早くの体から力が抜ける。
咄嗟に起き上がりながら受け止めて、怖々と様子を見やる。
穏やかな表情。閉じられた瞼。
先刻自分に触れた口唇からはかすかな寝息が漏れていた。
「戻った……のか」
ようやくプシュケは引っ込み、本人となってくれたようだ。
アレンは一瞬安堵したけれど、すぐに何倍も狼狽した。
プシュケに襲われる心配はなくなったが、今度はアレンが襲ってしまう危険性が出てきたのだ。
だって深夜、ベッドの上、無防備に眠るが腕の中だ。
プシュケも言っていたじゃないか。
これで何もしない男なんて、男じゃない!
「ぅ、……ううん」
寝苦しい体勢だったのか、が息を吐いた。
それがアレンの首筋にかかって思い切り鳥肌を立てる。
寝返りをうとうとしてさらに密着してきた体は熱くて柔らかかった。
体温が絡むみたいだ。甘く、優しく、ゆっくりと。
だからアレンはに手を伸ばす。
掌で肩を覆って、腰を掴んで、そのまま一気にベッドに押し倒した。
否、ベッドに叩き倒した。
そして自分は部屋の壁際まで全力で逃げ出す。
ほぼ転がり落ちるようにして床に這うと、大きく息をして顔を覆った。
何だこれ。何なんだこれ!何の拷問だよこれ!!
あまりのことに無言で悶えていたら、いつの間にか起きだしたティムキャンピーがその羽根で頭を撫でてくれた。
アレンは瞳に大量の涙を溜めて、金色のゴーレムを引き寄せる。
胸に力いっぱい抱いて、しばらくめそめそした。
瞼に透ける光の色。
白に混じって黄金が見えたから、は不思議に思った。
自分の髪ではない。もう少し色が濃い。
何だろうと考えながら瞳を開けば、視界いっぱいにティムキャンピーがいた。
枕に頬を埋めたの横で、同じく柔らかなそこに体を沈めている。
挨拶のように尻尾で手を撫でられたから微笑んだ。
「おはよう、ティム」
でも、どうして私の部屋に?
そう続けようとしたけれど、別方向から飛んできた声に遮られる。
「オハヨウゴザイマス」
何だか妙に強ばった口調で言ったのがアレンだったから、はがばりと身を起こした。
瞬きながら見やると、知らない部屋だった。
他人の家に泊まっていたのだから見慣れているはずはないのだけれど、昨晩眠った時と場所が違うのはおかしな話だ。
しかも何故だか室内にアレンがいる。
そしてもっとおかしなことに、彼はベッドから一番遠い場所に椅子を据えて、その上で膝を抱えていた。
腕に半分くらい顔を埋めて、じとりとこちらを睨みつけてくる。
「よく眠れましたかってゆーかよく寝てたよね、本当にぐーすか寝こけやがってコノヤロばかばかばか、馬鹿」
「起き抜け早々けなされる意味がわからない!」
低音でぶつぶつ言われては冷や汗をかいた。
アレンの声は掠れている。銀灰色の眼の縁には、幾重にも隈ができていた。
これはどう見ても寝不足、下手をすれば徹夜をしていたのではないだろうかと思うような様子だった。
は訳がわからないながらもそれが気になって、ベッドの上で身を乗り出す。
「アレン、顔色悪いよ。大丈夫?」
「誰のせいだ、誰の」
「ん?あれ?そう言うってことは、私?」
「……いいから上着を着て。あと早く自分の部屋に戻って」
「てゆーか、何がどうなっているの?」
面倒そうにアレンはベッドの脇にある上着をに示してみせたけれど、どうにも状況が理解できなくて頭に手を添える。
室内を見渡して考える。
「……ここは、アレンの部屋?」
「……………………」
「どうして私がここにいるの。私は自分の部屋で寝たはずよ」
「……………………」
「それが何で、部屋主を差し置いて、アレンのベッドで眠っていたわけ?」
アレンは答えない。
視線を逸らして、大きな欠伸をした。
口にしてみればにも察せられるものはあって、確認を取りたかっただけだから、今度はずばりと訊いた。
「プシュケさんね?」
アレンは目を閉じて、不機嫌そうに頭を掻いた。
は肩をすくめる。
「どうやら彼女は年上みたいだけど。私だって、添い寝してもらわなくちゃいけないほど、子供じゃないんだけどな」
「子供じゃないから来たんだろう」
思わずといった風に反論されて、はアレンを見た。
そのテの話題が避けたくて言ったのに。
苦笑が滲んだ。
「つまり、迫られた?」
仕方ないから、せめて茶化してみたけれど、アレンは気に食わなかったらしい。
彼はバツが悪そうな、腹を立てたような、複雑な表情で問い返してきた。
「だったら、なに?僕たちが何かしたかって、気になるんですか?」
「そりゃあ、まぁ。自分の体だからね」
「………………………」
「嘘。気になるのはアレンのほうよ。変なこととかされなかった?」
当たり前みたいに言って、ずり落ちてきた夜着の肩紐を引き上げる。
アレンはその言葉と行動、どちらにも眉をひそめたようだった。
「……あのさ」
「なに?」
「自分の知らない間に、男の部屋にいて、そのベッドで寝てたっていうのに。何で僕の心配をするの?」
「?だって……」
「どう見たって危ぶむべきなのは君の貞操だろう」
真剣にそう告げられて、は何度かまばたいた。
ちょっと頭が真っ白でよくわからない。
首を傾げると、寝乱れた髪がぱさりと落ちてきた。
「だって」
は考えるまでもないことを口にする。
「そんな部屋の隅っこまで逃げて、徹夜で私が起きるのを待っていた人を、どう疑えっていうの」
「……………………いや、まぁそうなんですけど」
「てゆーか、アレンってほんと紳士だね!別にそこまで気を遣ってくれなくてよかったのに。大体私をそんなに女の子扱いするなんて珍し……」
そこまで言ってハッとする。
あぁ、そうか。
「…………中にプシュケさんがいるからか」
呟いてみて、何となく俯く。
そうしてしまった自分に疑問符を浮かべた。
顔を振り上げて笑ってみせる。
「いや、でもさ。本当にそこまでしてくれなくてよかったんだよ」
「…………っつ」
「プシュケさんが引っ込んだのなら、同じベッドで寝てくれても……」
「冗談じゃない!!」
アレンは急に怒鳴ると、椅子から飛び降りるようにして立った。
ずかずかと近づいてきて自分の上着を鷲掴む。
そのままの勢いでに投げつけた。
「……ちょっとは!」
遮られた視界、布地の向こうでアレンが呻く。
「ちょっとは、考えてみたらどうですか」
何を?と問い返す前に続けられた。
「恋をしたいって言うプシュケさんが、“君”に取り憑いた理由」
そんなのは知らない。
まだわからない。
訊いてはみたけれど、彼女の真意は掴めていない。
けれどアレンが言っているのはそういうことではなかった。
「君がどれだけ意識していなくても、僕は男で、君は女だ」
は頭から被せられた上着を取ろうとしていた動きを止めた。
その手首を掴まれる。
ぐいっと引かれてみれば反動で布地が落ちた。
二人を隔てていたものがなくなって、アレンの双眸がすぐ近くで強く光る。
「いい加減、自覚したらどうだ。“”」
名前を呼ばれたのが自分だったから、は少なからず驚いた。
さらに驚愕したのはアレンの瞳に宿る感情だ。
読み取れない。こんなのは知らない。
けれど怖いほど胸に迫ってくる想いは、間違いなく己に向けられている。
「………………………」
は沈黙した。
ただ黙ってアレンを見つめ返す。
あまりにも無心にそうしたものだから、相手は不審に思ったようだった。
「……?」
疑問の声に呼ばれる途中で、は唐突に動いた。
掴まれていた左手は力を抜いたまま、右手でアレンの腕を捕らえる。
そのまま全力で引いて、傾いた彼の体、その軸足を思い切り跳ね飛ばす。
「な……っ」
驚きと抗議の滲む悲鳴は黙殺。
は自身の体を翻すと、その勢いのままアレンをベッドに引きずり倒した。
即座に起き上がろうとした頭の横に腕をつく。
顔を寄せて無表情に見下ろした。
「きみ、っつ……」
「………………………」
「…………、だよね?」
「さぁ」
わかっているくせに確認してくるアレンに、はにっこりと微笑んだ。
少し意地悪だとは思うけれど、最初に突っかかってきたのはアレンの方だ。
だからそのままの表情で言ってやる。
「あなたこそ自覚したらどう?」
瞼をおろす。
今はこの眼の色を見られたくない。
「こちらが“女”だからって、いつでも勝てると思わないことね」
アレンに指先を突きつける。
手遊びのキツネの形にして、それでちゅっと唇を弾いた。
「はい、奪っちゃったー!」
は冗談めかして言って、一人であははと笑った。
身軽に起き直ってベッドから降りる。
傍にあった椅子に腰を下ろせば、ティムキャンピーが肩に乗ってきた。
ゴーレムに頬を寄せる振りをして、何となくアレンから目を逸らしておく。
何故なら彼の顔が赤く染まっていたからだ。
ベッドに倒れたまま、喉から絞り出すように言われた。
「……っつ、何だかものすごく不本意だ」
「こちらこそ」
「なんで君が」
「プシュケさんに取り憑かれているからって、体は私のものなのよ?スペック考えてよ」
「…………力じゃ敵わないくせに」
「だからこその回避方法も知ってる。たった今奪われたのはどっち?」
「………………………………、死ぬほど不本意だ」
アレンは顔面を覆ってこちらに背を向けてしまった。
はテーブルに頬杖をついて笑う。
「それに、あなたは力任せなことができる人じゃないもの。ね、英国紳士」
「君相手ならできる」
「“プシュケさん”は、腕力でねじ伏せられないでしょ?ほら、どう考えてもアレンのほうが不利よ」
「…………っつ、君に心配されるのは嫌いだ!」
アレンは枕に突っ伏したまま、拳でベッドを殴りつけた。
スプリングが軋んで嫌な音を立てる。
はティムキャンピーと顔を見合わせて、やれやれと嘆息してみせた。
「アレンくん、ご機嫌斜めなところ悪いんだけど」
「斜めどころじゃありません。すでに傾斜など失って見事な垂直です」
「最悪だね!」
「おかげさまで」
完全に拗ねてしまったアレンの背中を突っつくようにしては訊く。
「で、結局プシュケさんに何されたの」
「……別に。昨日と同じようなことを言ってきて、挙句の果てにデートの約束を取り付けられただけです」
「そっかそっか、なるほどねー……ってデート?」
「はい。夜中に不法侵入され、襲われたかけた上に、君を人質に取られて脅されるという心温まる一夜のアバンチュールでした」
「いやいやハートフルじゃないよね、それむしろハートフルボッコだよね!」
「僕のがね」
「本当にね!!」
は本気でアレンに同情しながら勢いよく立ち上がる。
彼の寝そべったベッドに両手を突いて覗き込んだ。
「デートって何それ!」
「はい?もしかして知らないんですか?辞書でも引け、馬鹿」
「知ってるよ!知ってるけど……」
「けど?」
「何がどうなって、そんなランラン・ランデブー?」
「人の窮地を楽しそうに歌い上げるな」
ようやく赤面がおさまったらしいアレンは、ごろりと寝返りをうってこちらを睥睨する。
その最強に不機嫌そうな表情を見て、語呂の良さに思わず音程をつけてしまったは身の危険すら感じた。
「ひ……っ、ごめんなさい、でも今ちょっとプシュケさんに代わって欲しいとか思っちゃったじゃない……!」
「あぁ、すみません。あまりにも君が鬱陶しいからって、殺りたい気持ちを表に出しすぎましたか」
「ダメよ、そんな!もっと大切にして!今この体は私だけのものじゃないんだからね!!」
「君は妊婦さんか」
思わずいつもの調子でボケとツッコミを演じてしまったが、そんな場合でもない。
は気を取り直すと、きちんとベッドに座って尋ねた。
「デートって、どういうこと?プシュケさんが言いだしたの?」
「いや、彼女というか。会話の流れ的にね」
アレンはふぅと息を吐いて目を閉じた。
「そんなわけで、君には大変残念なお知らせですが。今日は僕とデートです」
「残念すぎるよ、何その強制イベント!」
「強制イベントって」
「どう考えてもアレンルート入っちゃってるじゃない!このまままんまと攻略される気!?」
「本当に僕はどこで選択肢を間違えたんだろうね」
ゆっさゆっさと揺すってくるの手を、アレンは思い切り払いのけた。
上掛けを頭まで引きかぶろうとする。
その裾をが掴んだ。
「待って。本気で恋人ごっこするつもりなの?」
「……うるさいな。僕だってしたいわけじゃ」
「やめてよ。お願い」
今までと同じように言おうと思ったのに、想像以上に真剣な調子になってしまった。
アレンが動きを止める。
その瞳を見つめる。
「……まだ彼女の思惑が読めないの。そんなうちから話に乗らないで。危険よ」
「危険ならとっくにだろう。君はもう首を絞められている」
「私のことなんて」
咄嗟に出た台詞に自分でも呆れる。
続きを打ち切って「ごめん」と告げれば、アレンが軽く手を握ってきた。
「……いいから。君は可愛い格好をして、約束の場所に来るように」
「…………、外で待ち合わせしてるんだ」
「一緒に出たんじゃデートっぽくないからね」
「でも、アレン一人でそこまで辿り着けるの?」
「どういう意味だ」
「だってあんた、絶っ対に!迷うじゃない」
「言い切ったな……」
「実は迷子になるの好きなんでしょ?迷子センターでお菓子もらえるもんね」
俯いたまま明るく言うと、アレンの手が頬に触れた。
さらりと撫でてシーツに落ちる。
やはり寝不足が祟っているのか、彼は眠そうに瞬いた。
「僕は」
少しあどけない口調でアレンが囁く。
「君みたいに上手にできないから、はっきり言うけど。一人で全部やろうとしないで」
「………………」
「ちゃんと助けるよ」
「……、うん」
「じゃあ、僕が迷子になったら迎えに来てね」
「お菓子を持って?」
「もちろん」
が小さく微笑めば、アレンも同じような表情になった。
随分と眠そうだから、もう引き止めずに上掛けをかけてやる。
胸のあたりに手を置いた。
「ごめんね。……ありがとう」
幼子をあやすようにぽんぽんと叩くと、アレンはくすぐったそうに目を閉じた。
何度かそれを繰り返しているとすぐに寝息が聞こえてくる。
やはり徹夜がきつかったようだ。
彼はラビほど睡眠を愛していないにしても、規則正しい生活を心がけているのだから当然だろう。
眠ってしまったアレンの顔を覗き込んで、はその白髪を撫でた。
「おやすみなさい」
眠っていると年相応か、それより少し幼く見える。
最近では、の前では起きていてもそんな感じではあるが、それにしても。
何となく見つめていると、不意にアレンの寝顔が陰った。
漠然と理解する。
これは自分の影だ。
指先が彼の前髪を分けて、額を撫でる。
そうして見えたペンタクルの上にキスをした。
唇に傷跡の感触と熱を感じて、は数秒息を止めた。
落ちてきた金髪がアレンの頬を撫でる。
それがこそばゆかったのか、彼が身じろぎをしたので、弾みで体を離すことができた。
「………………」
はしばらく沈黙して考えた。
今のは無意識だった。
いや、意識はあったはずだ。
私は“私”の行動を眺めていた。どこか遠くから、ぼんやりと。
「……プシュケさん?」
今のキスはあなた?
問いかけに返ってくる声はない。
アレンが寝返りをうって、寄り添うようにしてきたから、咄嗟にベッドから降りる。
は自分の唇に手を当てて、もう一歩後ろに下がった。
(今、アレンにキスをしたのは誰?)
プシュケさん??それとも私の中で死んでいる“あの子”?
わからない。
わからないことが恐ろしくて、けれどそれを自覚してはいけないから、わざと別のことに思考をやる。
アレンから眼を離して天井を見上げた。
「今日はデートかぁ。可愛い格好してきてって言われたけど、私団服しか持ってないんだよなぁ」
そのまま視線を戻さずに扉へと向かった。
「あ、しまった。待ち合わせの場所聞いてない。時間も」
ティムキャンピーが飛んできたから、手招いて傍に来てもらう。
今は誰かと話していたかった。
アレンでもプシュケでもない、誰かと。
「そもそもアレンとデートとか、高確率で死亡エンドになっちゃうよね!」
ゴーレムは答えない。
当たり前だけれど言葉を話さない。
それでもは今、自分を笑って欲しかった。
「……まぁ、デートするのは“私”じゃないからね」
扉を引き開けて廊下に出る。
振り返りもせずに空間を閉ざすと、ティムキャンピーは室内に留まって、は一人きりになった。
笑って。笑って。笑ってよ。
誰か私の傍にいて、“私”を笑い飛ばしてよ。
ラビなら「バカ」と微笑んで頭を撫でてくれるかな。
神田なら「くだらない」と吐き捨てながらも、隣に座っていてくれるかな。
そんな二人が遠いから、は扉板に背中を預けて、いつもの笑顔を浮かべてみせた。
「デートとか、初めてなんだけどなぁ」
声に自嘲が混じっているように聞こえたのは、きっと気のせいだ。
悩み多きお年頃ですね。(違)
実はアレンが思っている以上に、ヒロインは今回の件に参っています。
幽霊は怖くないけど、対応もできないし、したくない……ってところですかね。
さらに恋愛的な意味でもアレンより不安定なので、現状かなりキツイ感じです。
いろいろあってアレンみたくラビに相談もできませんしね。
よし、どっちも可哀想!(どんな話だ)
次回は残念なデート回です。微妙な雰囲気をお楽しみくだされば嬉しいです。^^
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