神様っていうのが本当にいるのなら訊いてみたい。
前々からずっと不思議に思っていたことだ。
そう、それこそ物心ついた頃からの疑問である。

すみません、神様。
こんなにも不幸な目に遭わせてくれるだなんて……、


何か僕に怨みでもあるんですかっ!?







● メルヒェン・パラドックス  EPISODE 3 ●







「あら、本当に綺麗な声」


そう言っては自分の喉に手を当てた。
敷き詰められた白い砂上でのことだ。
海底だったそこに座り込んで、嬉しそうにはしゃいでいる。
終いには聞き慣れない歌まで歌い出したから、アレンは耳を塞いでしまいたくなった。
ほら、だって、此処で歌声が聞こえてきたらそうしろって言ったのは、目の前の彼女なわけだし。


「うふふっ、いいわね。高すぎないし、澄んでいる。可愛らしいわ」


満足そうに頷いて、今度はロングスカートに手をかける。
それを無造作に捲りあげるとしげしげと両脚を眺め出した。


「足も合格点。色白ねぇ、脚長ねぇ、太ももなんて抜群よ」


指先でぷにぷに皮膚を突っつくその光景を、アレンは身を強張らせたまま見つめていた。
ちょっと頭が回らない。
思考も身体もうまく動かないものだから、硬直している他がなかった。


「……


とりあえず、何とかして声を絞り出す。


「なに……、自画自賛しているの……?」


半笑いになって問いかけると、彼女はちらりとアレンに一瞥をくれた。


「へぇ。この子、“”って名前なのね」


ちょっと本気で何言ってるんだろう、こいつ。
アレンは真面目にをどうしてくれようかと思い詰めた。
現状に理解が追いつかなさすぎたので、八つ当たりしたいという気持ちもある。
だってアレンをここまで混乱に陥れているのは、間違いなくその人なのだから。


「ねぇ。この子、歳はいくつ?」


そんなアレンのことなど気にもかけずに、眼前の“”が質問してくる。


「肌の感じからしても相当若いわよね?あなたと同じくらい?」
「…………………」
「金髪……は、この辺りじゃ珍しいし、外国人?」
「……………………………」
「あら、右腕が痛いわ。怪我をしているの?それで私と戦っただなんて」
「…………………………………………」
「嫌な子。顔だって腹が立つくらい綺麗だし、いろんな意味で敵だわ」
「………………………………………………………」
「でも、まぁ。しばらく体を借りるんだから、美しくて頑丈なのに越したことはないわね」


もう、もうもうもうもう、本当に言葉が出ない!!


ぺらぺらと一人で喋り続けるに、アレンは思わず頭を抱えた。
必死に否定しようとしてきたが駄目だ。
先刻視た光景が何よりの証拠である。
すでに残像は消え、アレンに見えるのはいつも通りのの顔だけなのだけれど、それでも。


彼女は、僕の知っている、“”では有り得ない。


「すみません……」


アレンは恐る恐る目の前の少女に向って言った。


「僕、幽霊とかそういうの信じてないんですけど……」


だから本当にちょっとこういうの止めてくれませんかね!
そんな気持ちを込めて微笑んでみせたのだが、案の定盛大に口元が引き攣ってしまった。
”はそんなアレンに呆れたような視線を向ける。


「あら。あなた私と目が合ったでしょう?私を捕らえていた、おぞましい機械の体が、この子に壊されたとき」


“この子”のところで彼女は自身の……、否、の胸元に手を置いてみせた。


「視ていたくせに」


現実逃避はよせ、と言外に責められてアレンは息を詰めた。
そして体中の酸素を乗せた大きなため息を吐き出した。


「…………………つまり、貴女は、先刻が破壊したアクマの、核となっていた魂なんですか?」
「そうよ」


結構勇気のいる質問だったのに、あっさりきっぱり首肯された。
もう嫌だ。帰りたい。今すぐ何もなかったことにして帰還したい。
けれどを放り出すことは絶対にできないので、アレンは必死に現状に耐えて口を開く。


「ということは、……その、…………すでに亡くなっていらっしゃるんですよね?」
「あの“アクマ”とかいう化け物にされたということは、そういうことなのでしょう?違うの?」
「…………違いません、けど。じゃあ、やっぱり幽霊なんですか貴女」
「肉体を失っているのだから、一般的にそう呼ばれる存在ではあるでしょうね」
「……………………、ああ、そうですか。そうなんですね……」


そこでやっぱり辛くなってきて、アレンは両手で顔を覆ってしまった。


「それで何で今こんな状況に……?」


何故、がアクマを破壊して、そのボディから開放してあげたのに、貴女は“”の顔をして喋っちゃってるんですか現在進行形で。


「これはアレか。世に言う、“幽霊が取り憑いた”っていう現象なのか……」
「その通りよ」


ずきずきと痛むこめかみを擦りつつひとりごちれば、当の本人が太鼓判を押してくれた。
全然嬉しくない。
しかし現状の把握はできた。
まったく理解はできていないけれど、そういうことにして話を進めることはできる。


「一応確認しますけど……悪ふざけしてるわけじゃないですよね、
「信用ないのね、この子」


一縷の望みさえも即座に打ち砕かれて、アレンはもう認めざるを得ない。
何となく引き腰になりながら微笑む。
冷や汗が止まらないのは“幽霊”なんて相手にしたことがないからだ。


「すみません、お嬢さん。それともお姉さんでしょうか」


何で“”にこんなこと言わなくちゃいけないんだ、と思いながら続けた。


「貴女は、どちら様ですか……?」
「そんなことより」


予想外の展開にいっぱいいっぱいのアレンを、彼女は一蹴してくれた。


「早く此処から出たほうがいいんじゃない?」


指差されたほうを見れば、確かに海水が流れ込んできている。
今いる場所が沈んでしまうのも時間の問題だろう。
アレンはまだくらくらする頭を押さえつつ立ち上がって、それからちょっとどうしようかなと思った。
の姿をした彼女が、促したくせに動こうとしなかったからだ。
不思議に思って見つめていたら、当然のように両腕を差し出された。


「抱っこ」
「……は?」
「抱っこして。歩けないの」


どういう意味だろう。
アレンにはわからない。


「急いで。溺れちゃうわ」


けれどそうやって急かす彼女の言がもっともだったので、アレンはの体に手を回して抱き上げた。
何だか強制的に横抱きだった。
”じゃないのだからおんぶのほうがよかったのに、彼女の態度がそれを許してくれなかったのである。


「歩けないって、どういうことですか?」


砂地を蹴って縁にある岩まで跳び上がりながら訊くと、の腕でぎゅっと首に抱きつかれた。


「言葉の通りよ。私、足が悪いの」


思わず顔を見る。
彼女は少し哀しそうに微笑んだ。


「……生前の話だけれど。この体では関係なかったわね」


降ろして、と言われたのでそうしてやる。
少しふらついたけれど、彼女はしっかりとの足で起立してみせた。


「すごい!立てたわ!!」


子供のように叫んで、そのままアレンに抱きついてくる。
喜びを抑えない無邪気な様子に思わずこちらまで口元をゆるめたけれど、そこにキスをされそうになったものだから慌てて引き離す。
金髪が揺れてぺたんと岩肌に座り込んだ。


「あん、お礼だったのに」


拗ねた調子で呟くから、アレンはますます距離を取った。


「……っつ、止めてください。それはの体ですよ」


当然の訴えだと思ったのに、彼女はさらにむくれてみせた。


「いいじゃない。恋人なのでしょう?」


いや、よくないし。そういう問題でもない。
アレンは深々とため息を吐いて、目線を合わせるように膝をついた。


「僕とはそういう関係ではありません」
「嘘」
「本当です」
「じゃあ、どうして二人で此処に来たの?この洞窟に来るのは恋人だって決まっているのに」
「それは……」


どう言おうかと思って言葉を選んでいると、猛烈に虚しい気分になった。
何だっての顔に向って、“”と自分が恋仲ではないことを、説明してやらなければいけないのだろう。


「…………此処にはアクマがいるんじゃないかと思って来たんです。そう、言わば貴女を助けに来たんですよ」
「私を?」
「はい。貴女を捕らえて苦しめていた魔導式ボディは破壊しました。今度こそ安らかに眠ってください」
「嫌よ」
「え、即答……?」
「あなた、私を助けに来たって言ったわね」


見慣れた造作の中の、見慣れない碧い瞳が、下からアレンを睨み付けてきた。
その迫力に押されて頷けば、彼女は満足そうに微笑んだ。


「だったらそうしてちょうだい。私を助けて」
「はい?それならもう……」
「まだよ。あの化け物から開放されても、私は“安らかに”は眠れないの。察してちょうだい」


そんなこと言われても。
アレンが訳もわからずに冷や汗をかいていると、岩に両手をついてぐっと顔を近付けてくる。


「……ねぇ、本当にこの子と恋人じゃないの?」


え、何だろうこれ。
どうしてこんなことを繰り返さないといけないんだろう。
自虐趣味はないつもりなんだけれど、とアレンは思う。


「……恋人ではありません」


あぁ、自分で言っていてぐさりとくる。


「なぁんだ、残念。わざわざこの子に取り憑いたのに」
「え……?どういうことですか?」




「私、あなたが好きなのよ」




「……………………………」


アレンはそこで何となく笑顔になって固まった。
ん?何だか今、の顔での声でが絶対言わないような台詞を口にされなかったか?
それもアレンが願って止まない、心から欲している言葉を。


「ねぇ、好きなの。だから抱きしめたいし、キスもしたいの」


追い討ち。
そろそろアレンの中の何かがキレて猛然と暴れ出しそうだ。
それこそこんな洞窟くらい、一瞬で破壊し尽くせるほどに。


「聞いてる?」


鬱々と物騒なことを考えていたアレンは、袖を引かれてハッとした。
気がつけばまたの唇が目の前だ。


「離れてください」
「嫌よ。好きだもの」
「……僕と貴女は初対面だと思うのですが」
「あら、恋に時間は関係ないわ。一目惚れよ」


本当に、本当に、が死んでも吐きそうにない甘い囁きのオンパレードだ。


「ねぇ、私がこの世に残った理由がわからない?」
「……え」
「未練があるからよ」
「未練?」


幽霊である身に口にされると、それはなかなか説得力があった。
よくある話だ。もちろん信じてはいなかったが、曰く“心残りがあるから昇天できない”。
しかし彼女の言う“未練”とやらは、アレンの予想を大幅に上回ったものだった。


「私ね、恋がしたいの」
「……は?」


思わず女性に対してあるまじき反応をしてしまった。
さらに繰り返されても改められない。


「素敵な恋愛がしたいのよ」
「はぁ……?」
「恋人と結ばれることもなく死んでしまって、挙句にあんな醜い姿にされたのよ。やっと開放されたからといって、素直にあの世に行ける乙女がいると思う?」


断言されてもアレンは頷けない。
だって乙女じゃないし。


「魂を囚われた苦痛から私を解放してくれたんだもの。あなたならこの後悔も消してくれるのでしょう?」
「……すみません。アクマを破壊したのはであって、僕ではないんですけど」
「そんなの関係ないわ。私を救いに来てくれた“王子さま”。それでいいのよ」


貴女が良くてもこっちは良くない。
第一この人の言っていることはちょっと滅茶苦茶だ。


「少しの間でいいから、あなたと一緒に居たくて、この子の中に入り込んだのに。まさか恋人じゃないなんて」
「……そんな」


そんな理由で、は、取り憑かれたのか。
アレンは驚きとか怒りとか呆れとか色んな感情が混ざって、とても微妙な表情になってしまった。
とりあえず鼻先が掠めそうだからの肩を掴んで彼女から離れる。


「……あのですね、そんなこと言われても僕には何とも」
「ひどいわ、私のこと捨てるのね!」
「いや、そういう話ですかこれ……」
「壊すだけ壊して後は知りませんってちょっと無責任じゃないの!?」
「そ、そんなこと初めて言われた……」


何気にショックを受けつつ、いきり立つ金髪を抑えようと試みる。


「とにかく、このままじゃ困ります。から離れてもらえませんか」
「お断りするわ。望みが叶わない限り、私はこの子から出て行かない」
「……っ、お願いですから!」
「それにこの子の中はとても心地がいいんだもの。このままでいたいの」


思わず語調を荒げたアレンだったが、その言い分を聞いて続きを失った。


「心地いい……?」


の中が?
理解しかねて尋ねると、彼女は微笑んだ。


「ええ、とっても。何か素質があるんじゃないかしら。そう、確かこういう子を霊媒体質って……」


そこで不自然に言葉が途切れた。
アレンは目を見張る。
何故ならの右手が急に動いて、喋る自身の唇を無理やり塞いだからだ。
碧い眼が瞬きをくり返して驚きを示す。
わずかな間の後、ゆっくりと掌が離された。


「吃驚した……、意識を取り戻したのね」


その呟きにアレンは思わず飛びついてしまった。


「それって“”がですか!?」


彼女はアレンの反応に一瞬不満そうに眉を寄せたが、すぐに表情を取り繕って頷いた。


「ええ。ずっと気を失っていたのだけれど、たった今起きたようよ」
「よかった、無事なんだ……」
「代わりましょうか?」


普通に訊かれて固まる。
のものではない碧玉の瞳をじっと見つめる。


「そんなことできるんですか……?」
「たぶんね。私が引っ込めばいいのでしょう。意識の交代よ。ほら」


言っているうちに瞼が閉じられる。
睫毛が頬に影を落とす。
数秒の沈黙。
アレンにはひどく長く感じたその時間の後、ゆっくりと双眸が開かれた。
そうして彼女は思い切り嘆息した。


「やっちゃったー……」


その表情、口調、何より金色に輝く瞳。


!!」


ちょっと本気で感動してアレンは名前を呼んだ。
これは間違いなくだ。
だってものすごく見覚えのある顔をしている。
そう、例えば神田の髪にイタズラしようと思ったのにリボンもカーラーも忘れてしまったり、ブックマンから借りた文献をラビのエロ本の中に埋めてしまったり、豆乳の賞味期限が過ぎていることに気がついてしまったときのような。
つまり、心底後悔している表情である。


「やっちゃったよー……、やっちまったよー……」
……!良かった……っ」
「何だってこんな……」
「平気なんだね、何ともないんだね!?」
「とんでもない失態よ……」
「気分は?痛いところとかない?」


嘆くに構わず全力で心配していたら、下がり眉の笑顔を見せられた。
あぁだ。
そんな小さな仕草ですら、彼女だとわかって安心する。


「ごめん、アレン。いろいろ大変だったでしょ」
「いや、いいけど。いいんだけど。ど、どうなってるのコレ……?」
「“彼女”が話さなかった?」
「……何か、君に取り憑いたって。未練があるからあの世へ行けないって」
「うん」
「…………その未練ってのが恋で。相手に僕が選ばれたらしいんだけど」
「うわぁアレン、モテモテだね!」
「嬉しくない」
「喜んでおいてよ。こうなったら」
「そのせいで君がこんな目に合ってるんだろう!?無理言うなよ!!」


やっと本来のが戻ってきて同じ気持ちを共有できるかと思ったのに、本人があまりにも平静だったから、アレンは思わず怒鳴りつけてしまった。
脳内がぐしゃぐしゃで気が変になりそうだ。
右手で痛む頭を押さえると、左手をに握られた。


「ちょっと落ち着いて。大丈夫よ」
「………………だから、無理言うなよ」
「てゆーかアレン、幽霊とか信じてたっけ?」
「……信じてない、けど。状況的に」
「信じざるを得ない……か。まぁ彼女がさっき壊したアクマの、核となっていた魂であるのは間違いないと思う」
「……うん。左眼で視てたから」
「あぁ、そうよね。それで今その人が私の中にいるもの本当よ。俗に言う“憑依”状態ってことかな」
「……………ねぇ、何でそんなに冷静なの」


というのは非常時において基本的に取り乱したりしないのだが、それにしてもこれはあんまりな気がする。
アレンだったら幽霊に取り憑かれた状況で、平然とその事実を語れる自信がない。
そう思ってじと目で見やると、は困ったように首を傾けた。


「私だって驚いてはいるよ?」
「……………………」
「だって、まさか、アクマを破壊したっていうのに取り憑かれちゃうなんてねぇ……」


くしゃりと髪を掻きあげるに、アレンは何となく思いついたことを口にしてみた。


「もしかして、君」
「ん?」
「こういうの、初めてじゃない?」
「……………………」


あ、黙った。
しかも結構驚いている。
けれどすぐに苦笑を浮かべられる。


「こういうのって?」
「だから、幽霊とか、ひょうい?とか、そういうの」
「そんなわけないでしょ」
「……本当に?」
「アレンくん、人を疑うのはよくありませんよ」
「だっておかしいだろう。いくらでもこんなの」
「平気よ」


言い募ろうとするのを遮って、が繋いだ右手に力を込める。
もう片方の手も重ねるとなだめるように包み込んだ。


「安心して。別に心配するようなことじゃないから」


これが?この状況が?
アレンはの笑顔に二の句が繋げなくなって、ただ黙って彼女を見つめるしかない。


「本来の肉体を失った魂は、長くこの世に留まれない。それは知っているでしょう?」


そう、それこそ千年伯爵の造り出す、アクマの体でも得ない限り不可能だ。


「だから大丈夫。時間がたてばそのうち彼女は天に召される」
「……放っておけと言うのか」


アレンはまだ呆然としながらも訊き返す。


「僕のせいで取り憑かれたっていうのに?何もしないで放置しろと君は言うの?」
「そうよ」


は確かに頷いて、アレンの手を離すと立ち上がった。
捲れあがっていたロングスカートを直しながらティムキャンピーを呼ぶ。
ゴーレムの口からランプを受け取ると、洞窟の出口があるほうに視線をやった。


「そもそも、あなたが責任を感じることじゃない。これは彼女の問題よ」


細められた金色の瞳に、少しだけ冷たい光が閃いた。


「……自らの意思ではないとはいえ、何人もの人を殺している。それなのに、彼女だけ未練を断ち切る機会が得られるのはおかしな話でしょう」
「……………………」
「同情はするわ。冥福も祈りたい。けれど、それ以上は、アクマを破壊するエクソシストとしては出来ないことよ」


の声はとても静かだったから、かえって毅然とした口調が耳に残った。
やっぱり彼女は神田の戦友だなと思う。
強く正しくて、真っ直ぐに自分を貫いている。
“聖職者”としての自分自身を。


「でも……!」


アレンは溢れ出る気持ちのまま口を開いた。


「……っつ、駄目だ。やっぱり放っておけないよ」
「……まぁ、アレンならそう言うかな」
「だって、こんな」


本当はだって彼女に救いの手を差し伸べたいんじゃないだろうか。
ただエクソシストとして己を律している、それだけなんじゃないだろうか。
少なくとも僕にはそう感じる。
だって君は今、表情を出さないようにしている。人形みたいな顔で喋っているよ。
アレンが苦渋の思いで見上げれば、は淡く微笑んだ。


「前にも言ったでしょう?あなたは優しい。優しすぎるのよ。……それのために傷つかないで」
「……もしか、して」


アレンは何故だか不意に思いついて身を強張らせた。
もしかして、君は。
は、自分の中の彼女と、一対一で向き合うつもりなんじゃないだろうか。
気のせいかもしれない。そんなつもりはないのかもしれない。
けれど一度そこに考えが至ってしまえば、を知るアレンとしては否定しきれないものがあった。


「もう帰ろう。すっかり夜よ」


が普段と同じ様子で歩き出したから、アレンは慌てて立ち上がってその肩を掴んだ。
引き止めようと力を込める。
すると唐突に彼女の体が倒れこんできて、アレンの胸元に後頭部を打ちつけた。


「い……っ、……?」


それなりに痛かったので呻きつつ覗き込めば、奇妙に歪んだ唇が見えた。
そしての左手は何故だか自身の首に当てられている。
そのままぐぐっと力が込められ、指先が白い皮膚に食い込んでゆく。


「な、何をして……っ」
「この子が余計なこと言うんだもの」


喉を圧迫されて潰れた声が、それでもせせら笑った。
アレンはぞっとする。
じゃない。
瞳を確認してみると、案の定金色ではなく碧色と出合った。
また幽霊の彼女と入れ替わったようだ。


「冷たい子ね。同じ女だとは思えないわ」


器官が塞がれて息苦しくなったのか、の膝が折れて岩の上に崩れ落ちる。
それでも左手はぎりぎりと首を絞め続けていた。


「放っておくだなんて、そんなひどいことを言わないで。構ってくれないと悲しいわ。寂しくて寂しくて……」


ついに爪先が皮膚を突き破って、赤い血を滲ませた。




「あなたのこと、壊してしまいそうよ」




苦しげな息の下でくすくす笑う彼女にアレンは戦慄した。
その手首を掴んで無理やりの首から引き剥がす。
白い肌には鬱血の跡まで残っていた。


「……っつ、やめろ」


アレンは奥歯を噛み締めて、もう一度告げた。


「止めて、ください。に危害を加えないで」
「……いいわ。あなたが私の望みを叶えてくれるなら」


彼女は先刻までの残忍な様子を消すと、にっこりと明るく微笑んでみせた。


「今のはちょっと脅かしただけよ。この子があまりにも冷たいんだもの。許してね?」


その言をどこまで信じていいのか判断しかねてアレンは黙った。
そして考える。
魂が、壊れているのかもしれないと。
先刻までアクマの体内に内蔵されていたのだ。
囚われの苦痛と恐怖、さらに殺人への後悔が彼女を歪めてしまったのか。
の首に浮かんだ血と痣を見て、アレンは暗い気持ちで考えた。


「それより、ねぇ。私の恋人になってくれるでしょう?」


そんな心情など知りもしないで彼女は嬉しそうに訊く。
少しの沈黙のあと、アレンが無言のまま頷くと、ぱっと顔を輝かせて抱きついてきた。
こうなれば仕方がない。
も納得してくれるだろう。……してくれるかな?説得するしかない。
だって怪我をさせられるのは絶対に嫌だ。


「じゃあ、今度こそしてくれる?」


間近に見上げてくる碧の眼がねだっている。
何を?とアレンが返す前に、ずばりと言われた。


「キス、してくれる?」
「……………………」


アレンは何となく笑顔になった。
反応に困るとこの表情になるらしい。今日の新発見だ。
あたりならすでに見抜いていそうな、そんな癖を全力で発揮させつつ、アレンは頭を振った。


「そ、それは……」
「して」


命令だ。
ここで断れば、またの首を絞められるかもしれない。
アレンは寒気を感じて目を閉じた。
深く大きく呼吸をして、瞼を持ち上げる。


そうして彼女の右手を颯爽と攫うと、その甲に唇を押し当てた。


音は立てない。
あくまでスマートに口づける。
長くもなく短くもない時間の後、わずかに腰を屈めて、礼をするような姿勢のまま、アレンは微笑んだ。
それも満面の笑みだ。
英国紳士と謳われて久しい、柔らかな微笑を浮かべてみせる。


「これでよろしいですか?お姫様」


そう尋ねてやれば、まるで花が咲くように少女の頬に朱が走った。


「え、ええ……!ありがとう!」


彼女は満足そうに頷いて、潤んだ瞳で飛びついてきた。
その体を受け止めつつ、アレンはこっそり肩を落とす。
精神的にも肉体的にもとんでもない疲労を感じていた。
それは自分の胸に顔を埋めた彼女の呟きによって、最高潮に達したのだった。


「あら?どうしてこの子、全身に鳥肌を立てているのかしら」


の腕や首筋に手をやる彼女は、心の底から不思議そうな表情をしている。
アレンとしては、言葉も、ない。




















部屋でひとり文献を読んでいたら、襟首からゴーレムが飛び出してきた。
どうやら誰かから通信が入ったらしい。
ちょうど文章的にいいところだったので、ラビは本に釘付けになったまま手を伸ばした。
探るようにして通信を繋ぐ。


「誰さー」


ページを捲りながら適当に訊けば、随分と控えめな返事が耳に届いた。


『…………えーっと。僕、です。アレンです』
「アレン?」


ちょっと予想外だったのでラビは顔をあげた。
通信の繋がったゴーレムをまじまじと見やる。
アレンは我が親友と教団を出たままになっていたはずだ。
ノアとやりやった船での一件のあと、ラビは神田と共に任務を完遂し、つい昨日帰還したばかりである。
報告書を提出したのも記憶に新しい。
同じ頃に旅立ったアレンとも戻ってきているかと思いきや、まだだというから淋しく感じたことも鮮明に覚えている。
何でも気になることがあるので、念のため調査をしてから帰るとか……。
それにしても、とラビは思う。


「珍しいな。オマエがオレに連絡してくるなんて」


この年下の少年は何かにつけて他人に遠慮している節が見られる。
当然ラビもその対象で、任務中に個人的な通信が入ったのは、これが初めてのことだった。
それを指摘してやれば、アレンはちょっとだけ言葉を詰めた。


『す、すみません……』
「いや、別にいいけど。むしろどんどんしてくれて構わんけど」


だって友達じゃん、オレら。
そう続けようとして何となく止める。
相手はそんな風に思ってくれてないんじゃないかとか、そんなネガティブな理由からではなくて、単にそれを口にしたらアレンが照れるんじゃないかと心配になったからだ。
彼は大人しそうな外見を裏切って怒らせると怖い。
感情的に突っつかない方がいいだろう。勢い余って通信を切られてしまったら事だ。
あの礼儀正しいアレンが、着任中にも関わらず、わざわざ自分に連絡を入れてきた。
これは結構興味のそそられる出来事だった。


「で?どしたんさ?何かあったか?」


なるべくいつもの調子で問いかける。
アレンはやはり遠慮が働いているのか、少しの間唇を閉ざしていた。
ラビは特に急かさずに彼が話し出すのを待つ。
ちょうど二ページほど文献を読み進めたところで、アレンが小さく尋ねてきた。


『あの、…………』
「んー?」
『ラビ、今どこにいます?』
「どこって。自分の部屋だけど」
『……ブックマンは?』
「ジジイならコムイのとこさ。大事な話があるから戻るのは遅くなるとか言ってたな」
『そう……、ですか』
「何なんさ、オマエ。ジジイに用事か?」
『いえ……』


また沈黙。
今度は四ページ読み進めたころで、アレンが口を開いた。


『…………こんな夜遅くに申し訳ないんですけど』
「うん」
『ラビに、相談があるんです』
「相談?」


ラビは驚いてオウム返しに訊いた。
アレンは居心地悪そうに呟く。


『他にこんなこと言える相手いないし……』


おおーっと、これは思った以上に自分に対して友情的なものを抱いてくれているようだ。
それなりに嬉しくてラビは椅子の背に体重を預ける。
乱雑に積み上げた本と、一面に散らばした資料に埋まった自室で、ラビは一人にやにやと笑う。


『……何か今、不愉快な顔してません?』
「なっ……、何でそう思うんさ!」
『勘です。どうにも君が馬鹿面にニヤけた笑みを浮かべているような』
「き、気のせい!気のせいさ!!」


妙に鋭いアレンの指摘をかわして、ラビは無理に話題を元に戻した。


「それで?相談って何さ?」


にっこりと微笑みを浮かべてみる。
通信なのだから顔は見えないにしても、察しの良い彼に怪しまれないように、邪気のない表情でいることにしよう。
そう考えながらラビが促すと、アレンはまた歯切れの悪い調子になった。


『いや、あの。ちょっと他の人に聞かれたくないんで……。ラビ、自室に一人きりなんですよね?』
「ああ。だからダイジョブだって」
『じゃあ、えーっと。…………思い切って言いますけど』
「うん」
『ちょっと今困っていて』
「うんうん」
『その……ですね。あまりに想定外の展開に頭がついていかなくってですね』
「うんうん、うん?」
『対処法というか、撃退法というか、君なら知ってるんじゃないかって思ったんですが』
「……ごめん、アレン。話が見えんさ」


前置きの長さに思わずそう言うと、通信の向こうで重い息を吐く音が聞こえた。
続けて同じ分だけ吸い込む気配。


『だからですね、ラビ』


アレンは低く小さな声で、ラビにそれを告げた。


『女性に迫られて困ってるんですが、どうすればいいですか?』


「爆発しろ」


完璧完全に反射でそう返して、ラビは思わず通信の電源を叩き切ろうとしてしまった。
それを感じ取ったのか慌てた口調でアレンが叫ぶ。


『ちょ、待っ、違う!そういう意味じゃない!!』
「じゃあどういう意味だっつーんさ!何だよ、どんな相談かと思えば自慢か!モテモテ青少年の贅沢な悩みか!!」
『だから違うって!そんなこと君に言うはずないでしょう!?』
「あーそうだな、オレに言っても意味ねぇもんなぁ!相談のしがいがねぇもんなぁ!どうせどうせ」
『何勝手に僻んでるんですか!?真面目な話してるんですよ、僕!!』
「オレだってマジメさ!マジメに羨ましいんだよ、この女に大人気の英国紳士が!!」


バンバンと本を机に叩きつけながら文句をたれると、再びアレンがため息をついた。
今度はそれに乗せて言う。


『…………ラビ。これはかなり複雑な問題でして。ちょっと茶化すの後にしてもらえる?』
「いや、オレだって真剣に聞いてんだけど?」
『いいから』


反論を却下されて唇を尖らせる。
その間にアレンはさっさと口を割ることにしたようだった。
もう余計な茶々を入れられるのが嫌なのだろう。
やはり声量は小さかったが一息にまくしたててきた。


『だからつまり女性に迫られているんですけど、それ自体は光栄なんですけれど、問題は相手が幽霊ってことなんですよ。幽霊ですよ、幽霊!僕初めて見ましたよオバケなんて!本当に信じられない信じたくない。しかもそれがに取り憑いて、未練を晴らすまで離れないと主張してきたんです。さんざん説得したんですけど無駄でした。僕の言うことなんか聞きやしない。それなのに僕に一目惚れしたとか好きだとか連呼してくるんだ、キスしてとか抱きしめてとか恥ずかしい要求ばかりしてくるんだ、どう思います?言っておきますけどの顔でですよ?に憑依しているものだから当然彼女の体で誘惑してくるんですよ?あああっ、耐えられない!本当に耐えられない!!何だって別人に、好きな女の子の姿で、延々と口説かれなきゃいけないんだ僕にはもう耐えられない!!!!』


アレンは最終的に全力で叫んで、ぜいぜい息を切らせて、それから黙り込んだ。
雰囲気で察するに顔面を押さえてどこかに突っ伏してしまったらしい。
布か何かでくぐもった声が言う。


『ラビ、聞いてる?』


聞いてる。
聞いてはいる。
ラビはそう思う。
完全に硬直したまま、ゴーレムを凝視しながら、ぐるぐると思考する。
結論はこうなった。


「意味がわかんねぇ」
『でしょうね!!』


口に出した途端、猛烈な勢いで同意された。
通信の向こうで何かを殴っているような音が聞こえる。
まさか頭でも打ち付けてないだろうな、と冷や汗をかきながらラビは宥めにかかる。


「お、落ち着こうぜアレン。な?オマエ言っていることが意味不明さ……」
『僕は落ち着いてます。あと、意味がわからなくて困ってるのは僕の方です』
「そ、そうか。そうさな……。えっと、何?何だって?恋煩いで変な妄想しちまったって?」
『………………だから、茶化すのは止めてくれませんか』


そこでアレンの声に本当の殺気が混じったので、ラビは自室の椅子の上で縮みあがった。
もう本を読んでいられるような状況ではないのでそれを放り出す。
代わりにゴーレムを掴んで引き寄せた。


「わ、わかった!わかったさ!つまり、何だ、え?なに?どういうこと?がなんだって!?」
『だーかーらー!が幽霊に取り憑かれちゃったんですよ!』
「あ、悪ぃ。もうそこから意味わかんねぇ」
『意味わからなくても、そういうことにして話を進めてください。僕もそうしました』
「む、無茶言うよなぁ……」


切って捨てるようなアレンにラビは半眼になる。
どうやら彼はそこで躓いている場合ではないと言いたいらしい。
強引にでも自分自身を納得させろ。そんな圧力を言外に感じる。


「……はぁ。まぁ、それで?何だっけ?」
『その取り憑いた女性はアクマの核となっていた魂なんです。それがの中に入り込んでしまったみたいで……。成仏するよう勧めたんですけど聞く耳持たずなんですよね』
「…………ふぅん?」
『何でもまだ未練があるから嫌だって。その未練というのが、その……恋愛らしいんですよ』
「…………………………へぇ?」
『彼女はそれに付き合えと言ってきてるんです。僕に、恋人になれって。気が済むまでからは離れないと豪語されました』
「……………………………………………ほう?」
『しかもですね、もし望みを叶えてくれないようなら、の体を傷つけることも躊躇わない様子でして』
「何だって!?」


あまりに頭がついていかないものだから半分上の空で話を聞いていたラビも、そこで大いに驚いてアレンに詰め寄った。
現実的には彼と通信が繋がっているゴーレムにずいっと顔を寄せる。


「つまり何だ、が危ないってことか!?」
『……君の食いつくところはそこだけですか。僕の揺れ動く心情は総無視ですか』
「恋っつーもんは悩んで苦しんでこそだろ混ぜっ返すなよ!!」


ちょっと不満気なアレンを叱って、ラビは再度確認をした。


「そいつはにとって、危険な存在なんだな?」
『……はい。本人は彼女に構う気がないんです。それを口にしたら、首を絞められました』
「そいつが?の?……違うな、ややこしいな。の体で、の首を、その幽霊とやらが絞めたってことか」
『そうです。力尽くで止めさせましたけど、血が出て……痣も』
「……何さ。予想以上に深刻な話じゃんか」
『僕は最初からそう言ってましたが』


頭痛を感じてラビが額を押さえると、アレンが突っ込みを入れてきた。
それを流して眉間の皺をぐりぐり押しながら考える。
幽霊。憑依。未練。恋愛。
キーワードを頭の中に並べ立てる。
そして現状。
女の幽霊が、“”の体に入り込んで、アレンに好きだと迫っている。


「何さソレ……厄介な……」
『ええ……』
「つーか、オマエ可哀想。何が悲しくて片思いの相手と恋人ごっこしなくちゃいけないんさ」
『う……っ』
「しかも結局中身じゃねぇし。外見だけとかますますキッツー。それでキスしろとかハグしろとかお願いされるとかさぁ、オレだったら本気で死にたくなるな」
『だ、だから、死にたくなってるんですよ……!』


どうやらアレンはベッドか何かの上で暴れているらしい。
ジタバタするような音が聞こえて、次第に静かになってゆく。
精根尽きたような脱力した声で呻いた。


『しにたい』
「マジで言うな。こっちまで同情で泣きそうになる」
『だって、どうしろっていうんですか……』
「……仕方ねぇだろ。その幽霊さんの言うとおりにして、穏便にの中から出て行ってもらうしか」
『僕の心中はまったく穏やかじゃありませんが……』
「まぁ、なぁ。好きな女と恋人ごっこはなぁ……」
『何とかなりませんか?』
「何とかって?オレらは聖職者でもアクマ退治専門のエクソシストさ。除霊なんかできっこねぇって」


どうやら自分はとんだ期待はずれだったようで、アレンはその返事に言葉もない様子だった。
こうなれば気が済むまで愚痴を言わせてやるしかない。
けれどそれを促す寸前でアレンが呟いた。


『れいばいたいしつ』
「ん?何だって?」
『霊媒体質、って何ですか?』


前後関係のない問いかけに、ラビは首を傾げた。
疑問に思っている間にも頭は反射的に答えを弾き出している。
とにかくそれを伝えてやることにする。


「霊媒っつーんは、神霊や死霊と人間との間に立って、意思疎通の仲介をする者の呼称さ。要するに霊的存在と交信できる人さね」
『…………それが体質ってことは』
「幽霊とかに憑依されやすい人間、ってことになるな」
『………………………………』


そこでアレンが完全に黙り込んでしまったので、ラビはますます不審に思う。
しかしそれから何をどう訊いても要領を得ない答えばかりが返ってきた。
アレンも相当混乱しているのだろうと思って、結局ラビは夜遅くまで彼の嘆きに付き合ってやったのだった。
自分の親友が幽霊に取り憑かれた、だなんて信じたくもない話を、延々と。




















照明を落とした部屋の窓辺には一人佇んでいた。
昼間に出会った老婆の家、その一室である。
あの後、じゃれついてくるこの身―――――――幽霊に取り憑かれたの体―――――――を何とか引き離しつつ、アレンは此処へと戻ってきた。
このままでは教団に帰還できないし、何よりもう夜が更けている。
一晩泊めてもらえないかという不躾な願いを、老婆は快く聞き入れてくれたのだ。
礼儀正しく申し出たアレンのおかげもあるだろう。
それをぶち壊そうとしてくれたのは、他でもない“”の口だった。


「泊まる?こんな“納屋”に泊まるの?冗談でしょう?」


硬直するアレンと老婆に向かって、彼女はさらに言い募った。


「そもそもここは本当に人の住まいなの?私は今までひと目で見渡せる建物を家と呼んだことはないわ」


その後も客間はどこだだの、使用人を呼べだの、彼女の文句はアレンがその唇を無理やり塞ぐまで続いたのである。
ちなみに老婆の住居は一般的な大きさだ。
今は一人で住んでいるというのだから、広すぎるくらいかもしれない。
アレンは“”の暴言を「洞窟でちょっと頭を打っておかしくなった」という、かなり苦しい言い訳で誤魔化した。
それから一緒に寝たいと主張する彼女を此処に押し込んで、逃げるように隣の部屋へと入っていったのだった。


は窓ガラスを掌で撫でた。
アレンの傍を離れたからか、今は彼女も意識を返してくれている。
寝支度の間もまったくの無反応だった。
としてはアレンと今後のことを話したいのだが、彼の近くに行くとまた精神を乗っ取られそうでそれも出来ない。
仕方なくひとり夜の闇を見つめている。
否、注視しているのは窓ガラスに映った自分の姿だった。
顔の輪郭を辿って、眼に指先を当てる。


「あなたは、誰?」


囁くほどの音量だったけれど、孤独の室内にはよく通った。
暗がりで光る金色の瞳。
ガラス面から見つめ返してくるそれが、不意に碧色に染まった。


『“人魚姫”よ。お嬢さん』


くすくす笑う声は直接頭の中に響いてくる。
は目の前に映し出された自分の顔、その碧眼を睨みつけた。


「なぜ私に取り憑いたの?恋が未練だとか、恋愛をしてみたいだとか、本心から言っているわけではないのでしょう?」
『嫌だわ、どうして?』
「質問に質問で返すのは良くないことだと思わない?」
『他人を疑うのも良くないことだと、あなたは言っていなかったかしら?』


揚げ足を取るようなその言に、はわずかに瞳を細めた。


「……ねぇ、プシュケさん」
『プシュケ?何その名前。私のことなの』
「そう。こちらが聞いても名乗ってくれないのだから、勝手に呼ばせてもらおうと思って。いいでしょ、プシュケさん」
『……どういう意味?』
「古代ギリシャ語で“魂”」


が言うと、彼女は少しの間の後、またくすくすと笑った。


『私にぴったりね』
「気に入ってくれて嬉しい。……さぁ話の続きよ。あなたのどこの誰?目的は何なの?」


喜ぶプシュケには少し微笑んでみせたけれど、言葉の後半は真剣さを帯びていた。
尋ねる間も意識を探る。
自分の中の、“魂”を捕まえようとする。


『何度も言わせないで。私は“人魚姫”。目的は恋をすることよ。素敵な恋愛をするの。あの白髪の王子さまとね』


王子さま、ねぇ。
は何となくため息をつく。


「……アレンを巻き込むのは止めてくれないかな」
『私は彼が好きなのよ?巻き込むも何も、話の中心人物じゃない』
「だって、相手は誰でもいいんでしょ?」
『失礼ね。私はあの人がいいの。あの人でなければダメなの』
「他を当たったほうがいいと思うけどな。アレンは絶対になびかないから」


当たり前のように言って、さてどうやって白状してもらおうかなと考えたの耳に、プシュケは楽しそうに囁いた。


『どうしてそう言い切れるの?あなたは彼の何を知っているの?』
「何を、って」
『彼も男よ。女性を愛しく想わないはずはないわ。そしてそれが、“私”ではないとなぜ断言できるの』
「……こんな状況で恋ができるほど、アレンは神経図太くないから」
『あなた、お子様ね』


プシュケは笑みに嘲りを混ぜて続けた。


『恋の理由なんてわからないものよ。いつ、どこで、誰に、どんな状況で墜ちるかなんて、その時になってみないと……ね』


そういうものなのだろうか。
恋と呼べる恋をしたことのないには判じかねる問題だった。
けれどやっぱり、アレンはそんなことにならないと思うのである。絶対に。


「あのね、プシュケさん。アレンがあなたのことを好きになる可能性はあると思う。でも、私の体に取り憑いている以上は無理よ」
『どうして?』
「……あの人は」


はガラスに映る碧眼を見つめるのを止めて、そっと視線を足元へと落とした。


「アレンは、“私”を、好きにはならないから」


プシュケは黙った。
はその沈黙を破るようにして続ける。


「見た目でもう負け確定よ。私の姿をしていたら、想いは永遠に叶わない」
『………………………』
「彼は“私”を愛さない。愛されないだけの理由があるから」
『……そう考えているのは、あなただけじゃない?』


その言は慰めかとも思ったけれど声の質は固かった。
まるで強張ったかのように音程を下げたそれにも、ははっきりと首を振る。


「“私”は恋をしない。特定の誰かを想わない。……そういう立場にはないの。アレンはそれを知っているのよ。わざわざそんな私を好きになるわけはないし、恋愛対象としても見ないでしょうね」


は今更だと笑って、俯けていた顔をあげた。


「だから、アレンは“私”を、好きにはならない。……取り憑く相手を間違えたね、プシュケさん」
『信じられないほどお子様ね』


唐突に吐き捨てられた。
叩きつけられた台詞の意味がわからずに、は瞬きを繰り返す。
再び見つめ合った窓ガラスの碧眼は、真っ直ぐにこちらを睨みつけていた。
瞳の奥に燃える炎。
燃料は怒りのようだった。


『そんな理屈で感情を制御できると思っているなんて。あなたは無理に大人ぶった本当の子供よ。タチが悪いったらないわ』
「……プシュケさん?」
『あなたがそんな風ならば、私は本気で彼を手に入れる。いいわね?』
「それは私に聞かれても」
『嫌な子!』


プシュケは甲高い声で怒鳴って、さっさと意識下に潜っていった。
何を怒らせたのかわからないとしては首をひねるしかない。
結局、聞きたい答えも満足に得られなかったのでため息が漏れた。


『それに』


不意にまたプシュケが口を開いた。
心のどこか奥の方から、そっとその言葉だけを伝えてくる。




『私が“あなた”にしか取り憑けなかったことくらい、わかっているくせに』




は思わず窓ガラスから手を離して、自分の右腕を押さえた。
ぎゅっと抱きしめるようにして力を込める。


『嫌な子!!』


プシュケの非難はの体中に響いて、他の誰にも届くことなく消えていった。










もう開き直った!アレンは可哀想路線でいきます。(笑)
だって本当にどう書いても可哀想なことになるんですよ、このお方……。
原因は彼の性格なのか、状況なのか、私の書き方が悪いのか。すみません、謎です。

そんなわけで次回もアレンが可哀想です。(ヒロインもかな?)よろしければ引き続きお願い致します。