水が変容するように、彼女は姿を変えてゆく。
時には怪物。時には乙女。
正体を知りたいのならその歌を聴いてみて?


どうぞ、お気の済むままに。







● メルヒェン・パラドックス  EPISODE 2 ●







「暗……」


アレンは思わず呟いた。
予想外の闇の濃さに声の調子も言葉通りとなってしまう。
背後にある海は黒を混ぜた橙々色に染まっていて、宵が迫りつつあることを示していた。


「これは、早まったかな」


半眼でため息をつくと、隣のが肩を落として言う。


「どっちかっていうと遅かった、かな」
「……まぁ、確かにあんな話を聞いたままでは帰れないし」
「放っぽいて一晩も眠ってられないしね」


二人揃って覗き込んでいるのは、老婆が語った伝説の洞窟だった。
入り口は狭くてでも天井に手が届きそうだ。
しかし奥は広く長く続いているようで、先のほうはまったく視認できない。濃密な黒が空間を満たしている。
これから夜になるというのに危険な暗さだった。
すぐさま来るべきではなかったか……と思った結果の会話が先のものである。
何だかんだいってもやはり放置は出来なかっただろう。
もっと早くに話を聞きだして動けばよかった。の言う通り、少し“遅かった”ようだ。


「うーん」


足元で金髪が首を傾げているので、アレンも傍にしゃがみこんだ。
彼女からマッチを奪い取りながら訊く。


「何?どうかしたの」
「いや、何か……」


がランプの傘を外し、アレンはその中に火を灯す。
淡い光に照らし出された横顔はじっと洞窟の闇を見つめていた。


「……寒気がする」
「まさか風邪でも引いた?馬鹿だから気のせいじゃないですか」


アレンはいつも通り皮肉ったけれど、が反応しないので怪訝に思った。
金色の瞳が少し揺れている。
それはランプの炎のせいだろうか。
は自身の体を温めるようにして抱きしめた。


「嫌だなここ……、たぶんいる………」
「何が?アクマがってこと?」


アレンの問いには少しだけ微笑んで首を振った。
それが否定なのか、“わからない”という意味なのか、判断しかねる。
アレンは眉を寄せたけれど、は立ち上がって歩き出してしまった。


「とにかく行ってみよう。本当に陽が暮れちゃう」
「……待って」


何だか様子が変だ。
アレンは先に立つを引き止めた。
大股で近づいて傍をすり抜ける。その一瞬で腕を掴んで引っ張った。


「わっ」
「転んで怪我でもされたら迷惑ですからね」


嫌味を言い訳にして手を繋ぐ。
ランプも勝手に受け取り、引きずるようにすることで、自分が先行する体勢にもっていった。
今は無理やりでも何でも、を庇っていたほうがいいような気がしたのだ。


「僕も嫌な感じがしますよ、ここ」


洞窟に入りながら言ったから声が反響する。
踏みしめるのは黒い岩だ。
闇のせいでそう見えるのかもしれないが、昼間に居た白い砂浜とは色彩がまったくの正反対だった。


「こんなところ、来たくなかった」
「そ、そりゃあ私と二人じゃ不満な場所だろうけど」


何となく漏らした言葉にがとんちんかんな答えを返してくれたものだから、アレンはますます不満に思って口元を歪める。
冷笑を浮かべて言ってやった。


「そうですね。できれば今、君と一緒は嫌でしたね」
「まぁ、機会があれば本命とまたおいでよ」
「……ごめん、訂正する。できればじゃなかった。本当に。本気で。心の底から。こんなところ、君と来たくなかった!!」


さすがにイラッとして吐き捨てると、やたらと大きく聞こえて自分でも吃驚した。
当然も驚いたようで口を閉ざしてしまう。
気まずい。
非常に気まずい。


「……そ、そういえばさぁ!」


沈黙に耐え切れなくなったころ、が明るい声を出して、アレンの隣に並んできた。
横目で見てみるといつもの笑顔だ。
彼女のこういうところには多々救われてきたのだが、男としてはどうにも好きになれなかった。
だってふがいない。
あとここでは前に出ないで欲しい、何となく。


「もし。もしもだけど、歌が聴こえてきたら耳を塞いでね」
「……歌?何の話です?」
「だって人魚が居たところなんでしょ、この洞窟」


に言われて思い出す。
そうだ、此処は人魚伝説が残る場所だった。


「えーっと。何でしたっけ?人魚って確かあれですよね」


結局はの気遣いに助けられた気分で、アレンは話を合わせる。


「ジュゴン?マナティ?と見間違えたんでしたっけ?昔の人は随分目が悪かったんですね」
「おいおい、アレンくん。それを言ったら身も蓋もないんだけど」


海に生息する魚類だか哺乳類だかの姿を思い浮かべていると、呆れ顔のに突っ込まれた。
おかげで想像が霧散する。何か間違っていただろうか。


「まぁ確かに、長い航海や漂流の末に目にしたジュゴン、マナティ、アザラシなんかを人魚だと思い込んだっていう説もあるけれど」
「正直、とんでもない話ですよね。あの巨体と美女を見間違えるだなんて」
「女性の味方、英国紳士としては許せませんかー」
「君もでしょう」
「学説としてはありだと思うけどね」


からかうように言われたから同意を求めたのに、は軽く肩をすくませただけだった。


「もっと現実的な話をすると、漂流した異国人を人魚だと決めつけたって説もあってね」
「決めつけた?」
「そう。髪や瞳の色が違う、言葉が通じない、所作も異なる……ってなると、海の底にある国から来た者、つまり人魚なんじゃないかって」
「それはかなり強引な気がしますけど」


だって足があるのに?
アレンはそう思ったけれど、の口調が滑らかだったので、訊くタイミングを逃してしまった。
まぁ何となく後で教えてくれそうだからいいけど。
はこういうとき大体においてこちらに疑問が残らないようにしてくれるから、アレンは黙ったままでいることにした。


「人魚姫には原型となる伝説があるのよ。それと照らし合わせると、なかなか見えてくるものがあって、ね」


けれど、そこでは言葉を切ってアレンを見上げてきた。


「……っていう話には興味ないか」
「え?何で?聞くけど」
「つまらなくない?神田なら30秒で黙れっていう話題よ」
「僕とあの単細胞を一緒にしないでくれませんか」
「こういうのは、ラビとじゃないと続かないから」


はフォローのよう親友の名前を出したけれど、正直アレンにとっては神田と大差がなかった。
他の男と比べて欲しくないと思うのはたぶん間違ではないはずだ。


「……それで、何?人魚姫の原型って?」
「ああ」


アレンが不機嫌ながらも促すと、はひとつ頷いた。
それからちょっと疑わしそうにこちらを見てくる。


「ちなみに訊くけど童話の『人魚姫』は知ってるよね?」
「さっきから馬鹿にしてるんですか。それくらい……」


アレンは即座に反論して、少しの間黙った。
視線を泳がせながら記憶を辿る。
何せ童話なんて読み聞かせてもらった覚えはないし、男だからかあまり興味もなかった。


「……グリム兄弟の作品でしたっけ?」
「アンデルセンの作品です。ちなみにグリム兄弟は、物語にかなり手を加えたとはいえ、それらの収集・編纂という学術的目的を前提とすれば、童話の作者とは言いがたいところがあります」


思いついたことを口にしてみたら、あっさり首を振られた。
苦しまぎれにまくしたてる。


「に、『人魚姫』はアレですよ!何か人魚のお姫さまが人間の王子に一目惚れして、その美しい声と引き換えに二本足を得るんだけど、失恋したから海の泡になってしまったっていう!愛する女性を間違えるだなんて王子の目は節穴かって感じの!!」
「あーうん、大体はあってるよ……。それだと情緒も何もあったものじゃないけど」


は半眼になっていたけれど、今度は否定されなかったのでアレン的にはガッツポーズだ。
ひとりで拳を握り締めているときちんとした説明が入る。


「『人魚姫』はデンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの作品よ。海の底にある王国には6人の人魚の姫がいて、とりわけ美しかった末娘は15歳の誕生日に海の上に昇っていくことを許されたの」
「確か、成人の儀式みたいなものだっけ?」
「そう。子供のうちは危険だからと、安全な海底から出ることは許されなかったんだけど。地上に憧れていた人魚姫は待ちに待ったその日に、海面に顔を出して新しい世界を見た。そして豪華船に乗っていた人間の王子さまに恋をしたの」


何となくの口から“恋”という単語が出るとドキドキした。
意識しすぎだと自分を嗤って、アレンは話の続きに耳を傾ける。


「けれど唐突に嵐がやってきて船は沈没。人魚姫は溺死寸前の王子さまを浜辺まで運んでたすけるんだけど、彼が目を覚ます前に姿を消したの。人魚は人間に見られてはいけないという掟があったから」
「そこに偶然通りがかった女性が介抱したことで、王子は人魚姫ではなくその人が自分を救った命の恩人だと勘違いするんだよね」


いくらアレンでもこのくらいは知っている。
確認するとは首肯してくれた。


「うん、そうよ。それでも人魚姫は王子さまのことが忘れられずに、海の魔女の力を借りて人間の足を手に入れる。このとき人魚姫は自らの美しい声を失い、同時に海底での暮らしを捨ててしまったの」


そこで彼女はどこか遠くを見るように瞳を細めた。
なにを思ってそうしたのかアレンにはわからない。
何となく手を引くと、変わらない調子で続けてくれた。


「人魚姫は愛する王子さまの傍に居られて幸せだった。自分が彼を救ったことを話せなくても、歩くたびに刃物で抉られるような痛みを感じても、満ち足りた毎日を過ごすことができたのよ。けれど魔女は警告していた。『もし王子が他の娘と結婚するようなことがあれば、お前は海の泡となって消えてしまうだろう』って」
「……結局、そうなってしまうんですよね」


だんだんと思い出してきてアレンは呟いた。
そう、これは哀しい物語だ。胸が切なくなるから、子供心にあまり好きではないと感じた気がする。


「……王子さまは浜辺で介抱してくれた娘に恩義を感じ、彼女に結婚を申し込んだ。娘のほうに断る理由はないわ。悲嘆に暮れる人魚姫の前に、5人の姉たちがナイフを持ってやってきて、王子さまを殺せと言ったの。それは美しい髪と引き換えにして魔女からもらい受けたもの……」


ちらちらと揺れるランプの明かり。
アレンは目の前の闇よりも、隣ののほうがよほど危うい気がした。
きっと話している内容のせいだ。
そう思うけれど目が逸らせない。


「そのナイフで王子さまの心臓を刺し、飛び散った血を脚にかければ、人魚姫は魚の尾を取り戻せる。そうして海の世界に帰っていらっしゃいと姉たちは懇願した」
「……それでも、人魚姫は王子を殺さなかった」
「愛していたから」


どきりとするような言葉を口にして、はアレンを見つめてきた。
真っ直ぐに注がれる視線。
蝋燭が燃える音、反響する足音、そして小さな吐息。
は哀しげに微笑んだ。


「愛していたから、殺せなかった。人魚姫は海に身を投げて泡となり、最終的には空気の精霊と化して天に昇っていったのよ」


胸を刺すこの痛みは誰のものだろう。
叶わない恋をしているのはアレンも同じだ。
眼前で悲哀の笑みを浮かべるこの人を抱きしめて、キスをして、自分のものにしてしまいたい。
“愛している”から。
…………人魚姫はそれで死んだのに?


「「……………………」」


奇妙な沈黙が二人の間に流れた。
正しくはアレンが何も言わないから、も黙っている様子だった。
繋いだ手をぐっと握り締める。
その直後、


「う、わっ」


唐突にが前のめりになった。
アレンは咄嗟に腕を差し出して支える。
体が密着して彼女の心臓が脈打っていることが伝わってきた。


「び、びっくりした……」


は大きく息を吐いて、アレンにお礼を言う。
身を離しながら長いスカートを摘み上げた。どうやらそれのせいで蹴つまずいたらしい。


「足場の悪いところにロングスカートは不向きね……」


苦々しく呟いて、その裾をたくし上げたものだから、アレンは悲鳴に似た声を漏らした。
だって白い脚が太ももまで丸見えだ。


「ちょっと!何て格好するんですか!!」
「だって動きにくいんだもの。破いちゃうわけにもいかないし」
「だからって……っ」


頭痛と目眩が一度に襲ってくる。
いや、景気よく脱ごうとしなかっただけマシかもしれない。
ロンドンの公爵家では、ドレスを返すと称してそれを完全に取っ払ってしまっていたので、これは成長と呼べる気がしないでもないのだ。
一応借り物の衣装ということで遠慮も働いているらしかった。
まぁどちらにしろ、ほとんど真っ暗といっていい場所で、二人きりのときに、こういう拷問めいたことはやめて欲しい。


「ティム」


アレンは吐息と共に黄金のゴーレムを呼んで、その口にランプの取っ手を咥えさせた。
それからの肩を掴むと、問答無用で引き寄せる。
そのまま横向きに抱え上げた。


「ぎゃあっ」
「ぎゃあって何ですか、ぎゃあって。もう少し可愛い悲鳴を希望します」
「いや、無理だから!悲鳴云々もだけど、何でまたお姫さま抱っこ!?」


相当混乱した様子のがわめくけれど無視だ。
アレンはランプを持ったティムに先行させて、どんどん洞窟の奥に入ってゆく。


「ア、アレン……!」
「何ですか」
「いや、あの」
「君が手を繋いでいても転ぶんだから仕方ないでしょう。大人しく抱っこされててよ」
「……この体勢で、万が一戦闘になったときはどうするの」
「そのときはそのとき」


はまだ何か言い募ろうとしたけれど、アレンが断固として引かない構えを見せたので、結局は黙り込んだ。
ちょっと悔しそうだ。
拗ねたような顔をランプの光が淡く染めている。


「それで?結局『人魚姫』の原型って何なの?」
「……あ、あぁ、うん。えっとね」


アレンが気にしないフリで催促すれば、はそっぽを向いたまま口を開いた。


「水の精霊の伝説よ。ウンディーネっていうの」
「うんでぃーね?」


聞き慣れない名前を復唱すると、思った以上にたどたどしくなった。
顎のすぐ下で髪が揺れる。笑ったようだ。


「Undine、よ。英語だとオンディーヌかな」
「どっちにしろ言いにくい……」
「まぁとにかく、そういう名前の精霊がいてね。大体が美しい乙女の姿をしていて、湖や泉に住んでいるの」
「へぇ」
「見た目は人間と変わらないとされているわ。けれど、彼女たちには欠けているものがある」
「欠けているもの?」
「“魂”がないのよ」


アレンは言葉の意味を飲み込むために瞬きを繰り返す。
つまりは人間とは決定的に違う生き物ということか。
いや、魂がないのだから生きていると言っていいのかもよくわからなかった。


「唯一魂が得られる方法は、人間の男性と結婚することだけ」
「あ、確かに人魚姫の話と似てますね」


あの物語も恋をした相手である王子様と結ばれれば、本当の人間になれるという設定だったはずだ。
なるほど、原型というのはこういうことか。
アレンはそう思ったけれど、の話はまだ終わらなかった。


「ウンディーネも人魚姫と同じで、悲恋に終わるんだけど。魂を得る方法が恋愛の成就ではなく“結婚”であるところが、伝承の生まれた時代の価値観を表しているのよね……」
「どういうこと?」
「愛されるだけなら人魚姫は充分だったのよ。どこから来たのかもわからない者を、それも口も利けない、奇妙な行動を繰り返す娘を、王子さまは傍に置いていたのよ?破格の待遇じゃない」
「……言われてみれば」
「それでも魂を手に入れることはできなかった。……結婚っていうのはね、つまり教会で“神の許し”を得るということなの。魂がなければ神の元へは行けないから」


ここから先は宗教が絡むからとは前置きして、少しだけ言葉を濁した。


「漂流者を十字架の前に連れて行って、祈りの素振りを見せなかったとき、その人は海の底に住む人魚だとされたの。別世界からやって来た、人ではないもの……これは暗に異教徒を指しているわ。そして物語上では、誰が見てもわかりやすい“結婚”という方法でもって改宗させようとした。これでようやく“人魚”は“人間”になれるというわけ」
「…………………」


アレンはどう返すべきか迷った。
個人的には無宗教だからいいのだけれど、『黒の教団』に所属している以上は気にしなければいけないこともある。
さらにいえば、こういった価値観は自分達がとやかく言うべきことではない気もするのだ。


「“人魚”には魂がないから、死ぬと泡になる。……跡形もなく消滅するのよ」
「消滅……」


アレンは自分の口で繰り返してみて、背筋に冷たいものを感じた。
異教徒。異端。神の意に添わぬ者。
それは何の痕跡も残さずに排除されるべき存在。
……まるで“”みたいではないか。
思わず肩にまわした腕に力を込めると、彼女は間近に見上げてきて笑った。


「今のは一番現実的な話よ。童話の『人魚姫』は作者であるアンデルセンの失恋を元にしているって説が有力だから」
「……………………」
「そうでなくても、人魚については似たような伝説が世界中にあるしね」


は明朗な口調で指折り言った。


「ウンディーネからはじまって、セイレーンやローレライ、ルサルカっていうのもいるのよ。ヨーロッパ各地に伝承は残されている。アジア地方にもあるけど……あそこまでいくと人魚は“姫”っていうより怪物だしね。猿の上半身と魚の下半身を繋ぎ合わせたような姿をしているんだって」
「……それは怖い」


アレンはに調子を合わせようとしたけれど、まだ表情が強張っているのが自分でもわかった。
気遣いだと悟られたくないのか、彼女は怪談話をするかのようにわざと声をひそめてくる。


「そう言うけれど、人魚は本来恐ろしい存在なのよ。美しい容姿や歌声を持つ反面、男性を誘惑して海に引きずりこむの。溺れさせて殺した挙句、死肉を喰らうとまで言われてるんだから」
「そこまでいくと本当にホラーだ」


アレンはようやく少し苦笑してみせた。
はホッとしたような様子を見せたけれど、その件については何も触れずに耳を指差してくる。


「だからもし、この先で歌が聴こえてきたら耳を塞いでね。人魚の声に魅了されるのは男性って相場が決まってるんだもの」


あぁ、ここで話が冒頭に戻るのか。
アレンは納得したけれど、まだ不思議に思うことがあった。


「でも、人魚なんて本当にいるわけないでしょう?いるとしたらアクマだ」
「それはどっちでもいいのよ。伝説が残っているくらいだからアクマが人魚の姿を取ってきてもおかしくないかなと思っただけで」


首をかしげているとは何でもない様子で断言した。
足を封じられて、アレンの腕に抱かれて。
まるで浜に打ち上げられた人魚のような不自由さの中で、それでも口調はいつも通りエクソシストとしてのものだった。


「人魚でもアクマでも、ここに何か居るとしたら、その正体は同じ」


金色の瞳が洞窟の先、漆黒の闇をそっと射抜いた。


「―――――――人殺しよ」




















そこに辿り着いたとき、アレンは思わず足を止めてしまった。
自然と感嘆の声が漏れる。
それは腕に抱き上げているも同じだった。


「綺麗……」


暗い洞窟の先、その奥に広がっていたのは、数十メートルはある広大な空間だった。
踏みしめた岩は相変わらず暗い色をしていたけれど、それよりも美しい色彩が二人の目を眩ませる。
蒼、だった。
数歩先に広がるのは外壁から進入してきた海水で、まるで泉のような形を取っている。
その底にあるのは昼間に見た砂浜と同種のものらしい。
陽は沈んでいるはずだから光源は月だろうか。
白い砂に乱反射を起こして、水面を深い蒼に輝かせているのだ。


「すごいね……」


アレンは呟きながらを降ろした。
視線はまだ神秘的な光を放つ海面に奪われたままだ。


「本当に……。人魚がいても不思議じゃないくらい」


けれどがそんな相槌をうったので、アレンは脊髄反射で言葉を返す。


「何て似合わないメルヘン発言」
「……あのさ、アレンくんは私のこと何だと思ってるの?」
「え?超進化した異常生物」
「何その当たり前のこと言ったよ!みたいな顔。いやいや、私これでも女の子だから。どんどんメルヘンなこと言ってもいいはずだから」
「いつまでそんな迷信信じてるつもりですか。もう子供じゃないんですよ、現実を見てください」
「……ん?あれ?迷信ってもしかして私の性別のこと?何かすごく真っ当な台詞に聞こえるけどそれっておかしいよね!?」



ショックを受けたような顔をするの肩に、アレンはそっと両手を置いた。
真正面から向かい合う。
そして満面の微笑を浮かべてやった。


「いい加減、目を開けたまま夢を見るのは止めましょうね?」
「優しく諭されたー!」


輝かんばかりの笑顔に向ってが叫ぶものだから、今度こそアレンは半眼になって口元を歪めた。


「だぁれがメルヘンなこと言っちゃえる女の子ですか。ここまで来るのにさんざん人魚姫のイメージをぶっ壊してくれたくせに」
「いやあの、あんまり反論はできないけど、一番に夢のないこと言ったのはアレンだよね?ジュゴンとかマナティとか!」
「まぁ、そんな間違った自己認識してるくらいだから夢見がちなのは認めますけど」
「おいコラ聞いて!」
「そろそろ女の子の皮を被るのは止めたらどうです?見ていて非常にイタいです」
「痛いのはアレンのその発言だよ!!」


よっぽどぐさぐさ突き刺さったのか、は胸を押さえて数歩よろめいた。
アレンから距離を取りつつ瞳に浮かんだ涙を拭う。


「うぅ……私のガラスのハートに大ダメージ……」
「大丈夫です。君のは防弾性だって信じてます」
「いらない信用!!」


今度は真顔で断言してあげたのに、やはりのお気に召さなかったらしい。
彼女は肩をいからせて足早に歩き出してしまった。


「もうっ、さっさと調査するよ!」
「はいはい」


何となく一人で動いて欲しくない気持ちは残っていたのだけど、いろいろ口にしてしまった手前それも言いづらい。
アレンは遠ざかっていく華奢な背を見送ってから、その反対方向に足を向けた。
視線を巡らせながら考える。
うーん、どうにもを前にすると皮肉を口走ってしまう。
もうこれは癖だ。
馬鹿だの何だの貶して、その乙女だという主張を却下して。
……本当は誰よりも女の子として見ているくせに。


(馬鹿みたいだ)


そんな自分にちょっと嘆息する。
仮にも恋をしている相手に、ここまで素直になれないものなのだろうか。
いや、口の達者すぎる自分が悪いのだろうなとアレンは思った。


「!」


そこでぺちりと頬を叩かれたので驚く。
横を見てみるとティムキャンピーがその小さな手を振りかぶっていた。
何度も連打されては苦笑するしかない。


「わかってるよ。今は調査に集中……だろ?」


アレンが小声で囁くと、ティムキャンピーは首肯するみたい上下に動いて、すいっと前に飛んでいってしまった。
後を追って歩を進める。


洞窟はそこで行き止まりのようだった。
海水の溜まっている奥を迂回して、アレンとは左右に別れて進んでゆく。
周りを見渡してみても、黒い岩と蒼い水面以外、特に目に映るものはなかった。


!暗くない?」


ランプを持っているティムキャンピーがこちらに付いてきてしまっているので、アレンは対岸にいる彼女に呼びかけた。
応えはすぐに返ってくる。


「大丈夫!見えなくはないから」
「そう。でも気をつけて。転んで水に落ちないようにね」
「うん、さすがにもうずぶ濡れになるのは嫌よ」
「というか、君泳げないから。全然。まったく。これっぽっちも!」
「ひ、人の弱点を強調しないで!」


ちょっと焦った様子のに、アレンが声をたてて笑った。
その時だった。


「!?」


背後に妙な気配を感じた。
唐突に出現したそれは今までどこに潜んでいたのだろう。
答えは殴りつけるようにして触れてきた手で知った。


首に絡み付いてくる五指。
冷たい。濡れているのだ。
まるでつい先ほどまで、“水の中”に居たかのように。


「……っつ」


そのまま凄まじい力で引き倒されて、アレンは岩肌に思い切り背中をぶつけた。
途端に鈍痛が走るが首を絞めてくる圧迫感のほうが強い。
上に圧し掛かられては骨が折れそうなほどだった。


「アレン!?」


遠くにの声を聞く。
暗がりでよく見えないから刃を放てないようで、彼女は黄金のゴーレムに向かって叫んだ。


「ティム!照らして、相手の手元よ!!」


その指示に従ってティムキャンピーがアレンの顔の方に飛んできた。
ランプの炎が視界を染めたかと思うと、すぐさま黒い閃光に眼を奪われる。
地面に倒れたアレンと、その上に跨る何者かの間で、の光刃が弾けた。


「離れなさい!」


彼女は鋭く命じたけれど、どうやら攻撃したわけではないらしい。
アレンは自分の首を絞めてくる手が、離れるのではなく緩む程度だったので、そうと知る。
襲ってきた者の正体がわからない状況で使用するには、のイノセンスは殺傷能力に優れすぎているのだ。


「……っ、誰だ!!」


とにかく喉を開放されたアレンは強襲者を下から睨み付ける。
ティムキャンピーの持つランプに照らし出されたのは歳若い男性のようだった。
神田やラビと同じくらいか。
その長身を活かして、アレンを地面に組み敷いている。
どう見ても人間である彼の姿に、はちょっと戸惑った素振りを見せた。
きっとこの暗闇も一役買っているのだろう。
決断力のある彼女にしては珍しい口調で問いかけてくる。


「ええーっと……何かあんまりお目にかかったことのないような体勢なんだけど?」


まぁ確かに男が男に押し倒されている状況なんて滅多に見ないですよね、とアレンは腹の中で思う。


「あ、あの、それってアレンくん的にはどうなのかな?嬉しい?照れる?」
「なんで」
「思春期にありがちな暴走というか逆走というか」
「何言ってるの?」
「アハハ来いよ!俺を追いかけて来いよ青春!みたいな?」
「おい馬鹿、いい加減に」
「あ、もしかして私お邪魔だったり……?」


いくら相手の正体が判断できないといってもすっとぼけた発言だ。
というか、何でそんなに混乱してるんだ。
男に馬乗りにされているという状況と、それを前にして妙に慌てるの態度に、アレンは容赦なくキレてやった。


「そんなわけあるか!こいつは……っ」


左手の手袋を引き抜く。
それでようやくも行動を決めたらしい。
今度こそさすがの素早さで放たれたの光刃と、発動したアレンの左手が男の体に炸裂するのは同時だった。


「アクマだ!!」


ぐらり、と長身が傾いてそのまま水の中に落ちる。
跳ね上がった飛沫から顔を庇いつつアレンは立ち上がった。
先刻まで美しいだけだった海面が、いまや不気味な気配を称えて眼前に広がっている。
全身を濡らしていたアクマ。
恐らく奴は水中を自由に行き来できるのだろう。


「アレン、怪我は?」


がこちらに駆けてくる気配を感じながら、アレンは左眼の能力を頼りに敵の姿を探していた。
どこだ。
どこにいる。
ハッと息を呑んで振り返った。


!!」


名前を叫んだ瞬間、海面が山のように膨れあがり、天井近くまで昇った頂上から人影が飛び出してくる。
それはアレンの元へと走り寄ろうとしていたへと真っ直ぐ襲い掛かった。


「お邪魔虫は排除するって?」


上空からの高速襲撃を受けても、まだそんな冗談を口にしてみせる。
が後退すれば、一瞬前まで彼女が立っていた岩が粉々に砕け散った。
降り注いだ破片を光の刃で弾き返してそのまま攻撃へと繋げる。


「嫉妬深い人魚姫ね。……どう見ても男性だけど」


そんなことを呟くの刃を受けたアクマは、猛烈な勢いで後ろに吹き飛び、再び水の中に落ちた。
警戒を緩めずに彼女はこちらに向って言う。


「それでアレン、首は大丈夫?」
「平気だよ。それより君のほうが心配だ」
「……あぁ、完璧にライバル認定されちゃったみたいね」


肩をすくめるを庇うように、アレンは数歩前に出た。
何故なら蒼く輝く海面から呪いのような呻きが聞こえてきていたからだ。
それは明らかに金髪の少女に向って発せられている。


『声……、綺麗な声……、女性の声……』


「ん?何か誉められてる?」
「喜ばないの。どっちにしろ狙われてるんだから」
「というか本当にホラーなんだけど!」


ちょっとはしゃいでみせただったけれど、そんな馬鹿もやってられないほどアクマの様子は恐ろしかった。
海面から顔を半分だけ出して、爛々と光る双眸でこちらを凝視している。
瞼が裂けそうなほど見開かれた目に恐怖するなというほうが無理だろう。
ずっと水に浸かっていたからか、ボディに被っている人間の皮膚も、腐ったような色を晒していた。


『脚……、白い脚……、女性の脚……』


「いや、これもう年齢制限かけたほうがよくない?軽くR15はいってるって……!」
「何言ってるんですか、僕たちの喧嘩だっていつもそんなもんですよ」
「確かに15歳以下には見せられないほど激しく殴り合ってるけどさぁ!」
「というか、ちょっと意外なんだけど。怖いの駄目な人?」


半泣きで身を寄せてくるからアレンが訊くと、大げさなまでに金髪が跳ねた。
即座に距離を取られる。
何だこの反応。


「……?」
「……………怖くは、ない」
「けど?」
「あんなに熱視線送られたら普通ビビるでしょ!?」


力強く訴えられて、指差されたほうを見る。
まぁ確かに。
でもそれ以前にやっぱり怖がってないか?


「……どっちにしろあいつは君のこと見つめすぎですね。早いところ破壊しましょうか」
「そうしたいのはやまやまなんだけど」


冷や汗をかきながらは恐ろしい感じのアクマへと刃を放つ。
しかし鋭い切っ先が直撃する寸前、水面から覗いていた頭が消えた。
派手にあがる飛沫が納まってから、またひょっこりと出現する。
何となくアレンとは半眼になった。


「ああやって水の中に逃げ込まれると……」
「攻撃のしようがありませんね……」


自然界のものを操作できるラビの『木判』か、水上でも戦えるリナリーの『水枷』でもない限り、あのアクマを捕らえることは難しそうである。
うーん、困った。
アレンはどうしたものかと頭を悩ませたけれど、性格的にも経験的にも、の方が結論を出すのが早かった。


「まぁ、仕方ないか」


ため息と共にそう呟いてロザリオに掌をかざす。
そうして右手に4本、左手に4本の十字剣を造り出した。
アレンが何をするつもりかと訝しむ暇も、止める時間さえも与えずに、すたすたと水辺へと近づいてゆく。


「観光名所らしいからしたくはないんだけど……。他に方法がないのよね」
?何を……」
黒死葬送こくしそうそうほむらの儀」


問いかけるアレンに被せては技の発動を宣言、両手の十字剣をアクマに向けて一気に投擲した。
それはまるで意思を持っているかのように、空中で円状に静止したかと思うと、その切っ先を水中へと潜らせる。


灼葬しゃくそう焔舞撃えんぶげき


の唇がそう綴った瞬間、アレンはあまりの熱さに両腕で顔面を庇った。
それでも逃れられない灼熱。
水に触れていた十字剣が膨大な熱量を放出しながら一気に爆ぜたのだ。
立ち昇るのは普通のそれとはまったく異なる黒い炎で、アレンには嫌というほど見覚えのあるものだった。


(ハンガリーで快楽のノア相手に使ったやつか……!)


そんなことを考えているうちに、は鈴のような音が鳴り響かせて、ロザリオを自分の右手に落とした。


「イノセンス、第2開放」


追悼ついとう無式むしき


開放の声を合図にロザリオが溶け出すように形を変え、螺旋を描いてその細い腕に装着される。
籠手の形状となったイノセンスを携えたは一気に駆け出した。
向う先はもちろんアクマだ。
とんでもない熱量を発生させた灼葬しゃくそうのおかげで、奴の潜んでいた水はものの見事に蒸発していた。
あんなに美しかった蒼い海面も今や見る影なしだ。
が技を使う前に、此処が観光名所だということを気にしていた意味を、アレンはようやく理解する。
同時にその有り得なさも。


(確かに僕らは水中じゃ戦えない……。けれど、だからって水を消すか普通!!)


恐らく底のほうで海と繋がっているから、時間がたてば元に戻るだろうが、それでも。
のとんでも作戦に呆然としている間に、彼女はまだ黒い陽炎の立ちこめる中を走り抜ける。


黒死葬送こくしそうそうつるぎの儀」


刃葬じんそう破魂刀はこんとう


右腕に纏った白銀の籠手、その甲に光る黒玉から長い刀身を生み出して、は晒された砂地に立ち尽くすアクマへと踊りかかった。


斬ッ!!


空気を叩く破壊音。
はまだ青年の姿をしたままのアクマを、高い跳躍のもとに一刀両断した。
着地と共に右手をひと振り。
刀身に付着した血を払って振り返る。


「……ちょっと。僕の出番ないんですけど」


アレンは思わずぼやいたが、意識は左眼に集中していた。
まるで水を失って動けない人魚のように、海底で硬直したままのアクマを見つめる。
その姿はゆっくりと、崩れるようにして霧散していった。


「おしまいみたいね」


が吐息をついてイノセンスの発動を解いた。
アレンが頷いてみせると、消えゆくアクマの傍を通り過ぎて、こちらへと足を向けてくる。
そのとき、ふと、違和感を覚えた。


「?」


原因を探れば呪いの眼球だ。
アレンは咄嗟に手をやったけれど、視界を遮ってみても変化はなかった。
痛くはない。疼くわけでもない。
それでも何かを訴えている。


「なんだ……?」


覆っていた掌を外して視線を転じる。
自分の元へと戻ってくる
その姿が、唐突に、ぶれた。


『いや……』


風の音のように、今にも消え入りそうに聞こえてきたのは、女性の声だった。
ではない。
彼女以外この場には誰もいないのに、別の少女がアレンに語りかけてくる。


『消えるはいや……っ』


ぞくり、と全身に鳥肌がたった。
同時にが足を止めて背後を返り見る。
その動作はまるですぐそこまで天敵に迫られた獣のような俊敏さだった。


「な……っ、そんな!?」


は驚愕して後退しようとしたけれど、甲高い絶叫が響き渡るほうがわずかに早かった。


『いやぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!!!』


アレンは鼓膜と共に脳みそまで揺すぶられて、わずかによろめいた。
左眼がおかしい。
有り得ない光景を映し出す。


破壊されたアクマのボディから出てきた白いもの―――――――女性の姿を取っている―――――――、それが消失を拒んで近くにいたへと掴み掛かったのだ。


「どうして……!?」


ここまで困惑したは初めて見たかもしれない。
自分へと迫ってくる女性から逃れようと、慌てて後ろへと身を引いた。
けれど一瞬指先が頬を掠める。
それだけで充分だった。


強張った脚が絡まり、後ろへと倒れ行く。
なびく金髪と長いスカート。
そして打撃音。
海底の砂に埋まっていた岩へと後頭部を打ち付けたのだ。
受け身を取ってみても無駄だった。
何故ならそこは昼間に一度強打している箇所なのだから。


!!」


とっくに駆け出していたアレンは、声の限りで名前を呼んで、素早く彼女を助け起こした。
そのときにはすでにアクマのボディから出てきた女性は消えていた。
肉体のない魂は消滅するのが理だ。
囚われの鎖から開放されて、天に昇っていったのだろう。
考えるまでもなくそう思って、アレンはとにかくを揺さぶる。


!大丈夫ですか、!!」


彼女は目を閉じていた。
頭を打ったように見えたけれど、痛そうな素振りもなく、まるで眠っているかのような穏やかな顔をしている。
それでも後頭をさすってみれば、瘤はひどく大きくなっていた。


ってば……!くそっ、起きろ!!」


少々頬を張ってみてもびくともしない。
焦燥に駆られるアレンは急に聞こえてきた水音に反応して首をまわした。
見てみると外壁から海水が浸入してきている。
この場が元の状態に戻ろうとしていることに気がついたアレンは、とにかく気絶したの体を抱き上げた。


「まったく、どれだけお姫さま抱っこされれば気がすむんだ!!」


前回二回は自分からしたくせにそんな言葉を吐いて、アレンは足早に歩き出す。
寸前で、ぐんっと妙な力を感じた。


「え、……うわ!?」


視界がぐるんとまわって背に衝撃。
砂地だから痛くはないけれど、驚きに息を詰める。
何故なら全体重をかけて無理やり押し倒してきた相手が、今の今まで気を失っていただったからだ。


「な、何して……っ」


心配してやったのにとか、今は遊んでいる場合じゃないとか、いろいろ文句を並べ立てようと口を開く。
その唇を塞がれた。


「…………………」


アレンは絶句した。
肩に手をかけられたから体勢がわずかに傾いて、それが触れたのが口元ぎりぎりの頬だったけれど、言葉を失わずにはいられなかった。
むしろ息の仕方も忘れそうだ。
それほどまでに唖然として、アレンは自分に圧し掛かる少女を見上げた。


「……?」


今、僕に、キスしようとした……?
問いかけようとした唇にまた唇が迫ってきたので悲鳴をあげる。
だってこんなのは意味がわからない。


「ちょ、待っ、何!?何するんだ急に!!」


全力で怒鳴って逃れようとするけれど、はアレンの上に跨ると、ぴっとりと身を寄せてきた。
またこの体勢か。
しかし先刻の男とはまったく違う柔らかい感触。アレンの胸板で乳房が潰れて、腹の上に尻が乗せられる。
垂れてきた金髪がさらりとアレンの肌を撫でた。


「ふふっ……」


吐息のような微笑が耳をくすぐったから、アレンはもう限界がきて、力にものをいわせてを自分から引き剥がした。
だっておかしい。
混乱と羞恥で爆発しそうな頭でも、それだけはわかる。


「何のつもりだ……!」


頬を真っ赤にして問い詰めると、海底に崩れ落ちたが顔をあげた。
アレンに視線を投げて微笑む。
ゆっくりと、無邪気に、それでいて妖艶に。
まるで化粧をしたかのような薄紅の口唇に、アレンは限界まで目を見張った。


……?」


返されたのはさざめくような笑い声。
アレンは頬に集中していた熱が一気に引くのを感じた。
くらり、と先刻とは違う意味の目眩に襲われる。
本当に、意味が、わからない。


アレンはよく見知った金髪の少女に、掠れた声で反問した。


「誰だ……お前……」


アレンを見つめるの瞳は、いつもの金色ではなく碧色に光っていた。
そしてその顔にぼやけるようにして重なっていたのは見たこともない女性の微笑。




否、それはアクマのボディから開放され、昇天したはずの彼女のものだったのだ。




目を疑うアレンに向かって、女性はの口でこう言った。


「泡になりそこねた“人魚姫”よ。王子さま」


そんな言葉、徐々に戻ってきた海水、それが注ぎ込んでくる音で、掻き消えてしまえばよかったのに。
では有り得ない誘惑するような笑顔を前に、アレンは思わずそんな現実逃避をしてしまったのだった。










はい、ヒロインが大変な目に遭ってますよ!
……って前回予告しておいたのに、どっちかっていうとアレンの方が大変そうですね。
『遺言はピエロ』からこちら、何とかアレンにいい目をさせてあげようとしているのですが……。
何か書けば書くほどダメになっていっている気がします。何故だ!
本当にすみません。

次回もアレンが可哀想ですよ!(爆)よろしければ見守ってやってください。