いつだって他人を想って、守って、守り抜いて。
そのくせ自分へと差し出された手は絶対に取ろうとしない。
彼女は飛び込んでくる愛情を一欠けらも受けとめることが出来ない存在だった。
だったらそんな人間みたいに苦しんでないで、
慈愛だけを注ぐ聖女でも気取ってろよ。
● 遺言はピエロ EPISODE 1 ●
赤い。
アレンはそう思った。
何だろう此処。世界は真っ赤で、同色をした天と地が迫ってくるようだ。
閉塞感に息が詰まる。
四方は一色に塞がれていてアレンを押しつぶそうとしている。
凄まじい重圧に耐え切れなくなって、脚を引きずりながら一歩を踏み出した。
此処は嫌だ。早く出たい。出口はどこだ。僕を帰してくれ。
何故だかこの場所が自分の居場所ではないことが理解できたから、必死に脱出することを望んだ。
けれど行けども行けども赤ばかり。
絵の具をぶちまけたような光景に変化は訪れない。
否、この赤は、この色彩は―――――――………。
「!?」
ふいにアレンは立ち止まった。
何故なら走り過ぎようとした視界の隅に、人影が映ったからだ。
それは黒い服を着た女の子だった。
向けられた背は小さくて、肩は細くて、まだ十歳にもとどいていないことがわかる。ほんの幼女だ。
彼女は長いスカートの裾を広げて、地面に直接座り込んでいた。
長い金髪には服と同色のリボンが可愛らしく結ばれている。
動くたびにわずかに揺れるそれ。
アレンは奇妙な既視感を覚えながら少女を眺めた。
「……ねぇ」
声をかけても彼女は振り返らなかった。
何かを夢中でしているようだ。
手元を見下ろして、時折クスクスという笑い声を漏らす。
「ねぇ、君」
アレンは体ごと少女の方を向いた。
ゆっくり近づいていけば不審が耳をつく。
くるくる、キィキィ。
何だ?
擦れあうような、軋むような、小さな音色が幼い少女の手元から聞こえてきていた。
笑い声。クスクス、クスクス。奇妙な音。くるくる、キィキィ……。
それらは不思議な旋律となってアレンを、世界を、緩やかに包み込んだ。
「ね……、何をしているの?」
問いかけたのがいけなかったのだろうか。
唐突に旋律は止んだ。
かわりにゴトリ、という鈍い音がする。
少女の手元から何かが転がり落ちた。
「……………っつ」
アレンは息を詰めた。
少女へと迫っていた足を止め、その場で硬直してしまった。
何故なら床へと落下してきたそれが、アンティーク人形の生首だったからだ。
一瞬、人間の頭部に見えた。
本物のそれよりずっと小さいのにそう思えて何故だか怖気立つ。
長い睫毛に覆われたガラス玉の目が、じっとアレンを見上げている。
「あーあ」
少女は悲しげなため息をついた。
「壊れちゃった」
どうやら彼女は人形遊びをしていたらしい。
あの奇妙な音はアンティークドールの関節が軋むものだったようだ。
少女は首の取れた胴体を掲げて、破損したことを残念がる。
けれどそこに真摯な様子はない。
子供ながらの残酷性だろうか、物を大切に扱わない子なのだろうか。
それよりもアレンは言葉を失っていた。
彼女の声は知り合いの者にそっくりだったからだ。
いや、本人と断言できる。
いくら幼くなったからといっても女性の声音だ。間違えるほどの変化はなかった。
そもそもこんなに見事な金髪は滅多にあるはずがないのに、どうして今までわからなかったのだろう。
「……?」
アレンが自分に愕然としながらその名を呼びかけると、瞬く間に幼い少女は見覚えのある背中へと変わった。
一瞬にして十年ほど時間が経ったみたいだ。
彼女はやはり黒い服……団服に身を包み、短いスカートを床に触れさせてそこに座り込んでいた。
「あーあ」
今度こそ現在のの声だった。
高いのに不快じゃない響くような音だ。
彼女はそうやって嘆きながら、首の取れた人形を眺める。
「壊れちゃった」
けれどやはり言葉に真剣さはない。
遊びすぎて服をドロドロにしてしまったとか、駆けっこをしていて転んでしまったとか、その程度の子供じみた気楽さがあった。
恐ろしいほど現実味のある人形の生首は今でもアレンを見上げているというのに。
「壊しちゃった」
そしてまた、クスクス笑う。空洞のような哄笑。
の様子は明らかにおかしかった。
だからアレンは弾かれたように駆け寄って、彼女の肩を掴んだ。
ぐいっと引っ張って自分のほうを向かせる。
そして声にならない悲鳴をあげた。
が抱いているのはアンティークドールではなかった。
頭部のない、幼女の体だった。
陶器でも革でもなく血肉を備えている。
その小さな身を包んでいるのは黒い服。見覚えのある長いスカート。そう、さっきまで見ていた。目の前に座りこんでいた、あの………。
アレンはゆっくりと振り返る。
見たくはないのに、体が勝手に動く。
そして床の上に転がった、幼女の生首と、目を合わせてしまった。
その金色の双眸。
赤を下敷きにして広がった金髪には、黒いリボンが蝶々のようにとまっていた。
幼いながらも整った“”の顔が、無造作にそこに落ちていた。
「…………………ぅ、っ」
言葉が出ない。
肉体から切り離された頭部が、“あの子”の首が、足元に転がっている。
見慣れた金眼が暗い光を宿して見上げてくる。
くるくる、キィキィ。
また関節の擦れる音がする。
「壊しちゃったぁ」
は首の取れてしまった昔の自分の体を前に、穏やかに微笑んでいる。
屍の手を掴んで躍らせる。
まるで人形を扱うように、欠落した己を弄ぶ。
けれどきちんと動かすこともできなくて、首なし死体はぱたりと倒れた。
「もう使いものにならないね」
「……」
「だったらいらないや。捨ててしまおう」
「っつ、」
「私が壊してしまったんだもの。ちゃんと処分しないと」
「!」
生首の淀んだ双眸に視線を絡め取られたまま、アレンは彼女の名前を叫んだ。
恐ろしいこの状況で何を言っているのだろう。
だって過去の君が死ねば、現在の君は………。
「もういらない」
の声は唐突に冷ややかになり、行動にすら氷を含ませて、抱いていた死体を投げ捨てた。
それは床に激突し、ぐしゃりと潰れる。
見るも無惨に死に絶える。
アレンと視線を合わせたままの“あの子”は、それに涙を流した。
同時に微笑んだ。
生首は泣きながら、とても嬉しそうに笑ったのだ。
途端、アレンは側面から温かいものを浴びせかけられた。
眼球まで真っ赤になる。
気持ち悪い感触、この匂い、吐き気がこみ上げてくる。
再びアレンの体はその意思を無視して、緩慢な動作で現在の“”へと視線を向けた。
「もう“私”なんて、いらないのよ」
も微笑んでいた。
幼い彼女と同じようにとても穏やかに、喜びに満ち溢れた表情をしていた。
その全身から流れ落ちる赤、吹き出す血飛沫。
アレンを頭から濡らしてゆく。
あぁ、その胸に刻まれた傷がどんどん広がっていってを呑み込もうとしているのか。
アレンはそう理解した。
死へと引きずり込んで、絶望に落とし込んで、彼女を殺そうとしている。
この世界が赤いのはの血で染まっているからだ。
「いらないいらないいらないいらない。誰もがそう言う、世界が望む、“私”は壊れた“私”が壊した。不要の者。廃棄物。さぁ、消えなくちゃ!」
は明るくアレンに微笑みかける。
その胸の傷からは相変わらずどばどばと血が吹き出していた。
確実に致死量を超えているのに、痛みも苦しみも感じていない様子の彼女に、アレンは堪らなく戦慄した。
「さぁ」
の笑顔がゆっくりと迫ってくる。
美しい金色の瞳。
床の上から見上げる二対と、眼前にある二対がアレンを追い詰めてゆく。
何を懇願されているのか理解したくはないのに悟ってしまった。
「さぁ、アレン」
「……………だ」
「お願い」
「…………っ、嫌だ」
「どうして?あなたが望んだことよ」
「違う、僕は……!」
「あなたが心から欲したことよ」
「僕は君を消えさせたりはしない!!」
近づいてくる美しい微笑みに向って、アレンは泣きだしそうに叫んだ。
するとは今度こそ本当に慈愛に満ちた顔で笑った。
片手が伸びてきてアレンの頬を優しく撫でる。
「でも、願ったでしょう?」
指先。
爪が少し引っかかる。
額を伝って呪いの傷を撫で、顎を通って下りてゆく。
「“私”を破壊したいと、激しく思ったでしょう」
アレンは息を呑み込んだ。
恐怖のあまり喉が変な音をたてる。
空気がちゃんと吸い込めなくて苦しい。
の白い手に導かれて、銀灰色の瞳はそれを見下ろした。
胸に突きたてられた腕。
アレンの左手が、の心臓を、完全に刺し貫いていた。
まったく覚えがないのに、アレンはその行為を納得する。
僕の左腕、イノセンスの宿った手が、彼女の胸の傷を突き破っている。
まるでを囚えていた悪夢の中で見た、あの男のように。
愛しているよ愛しているよ愛しているよ、だから殺させて。
狂気に満ちた囁き声がアレンの脳を滅茶苦茶に掻き乱す。
僕の醜い欲望はを取り返しのつかないまでに傷つけたあいつと同じなのか。
乱れた自分の呼吸音。耳障りだ。けれど止める術もなく全身まで異常なほどに震え出す。
はそれでも暖かい笑顔を消そうとはしなかった。
「あなたは、“私”を壊したくて壊したくて、堪らないんでしょう」
違う。
いいや、その通りだ。
僕は“君”を破壊したいと思ってる。
だって、この左眼が、どうしようもなく疼くんだ。
「壊して」
そう告げる唇が近い。
薄紅のそれから漏れる吐息さえも、真っ赤に染まっている。
は自身の胸を貫くアレンの左手に、そっと触れた。
大切なものを扱うように柔らかく撫でた。
「“私”を壊して!」
その懇願する表情が、どこまでも幸せそうな笑顔が、アレンを確実に狂わせた。
左手は宿主の意思など無視して勝手に破壊を遂行する。
いいや、これこそがアレンの“意志”だった。
アレンの左手は、をズタズタに引き裂いた。
胸を貫いた状態から、鋭い爪が肉体を縦に横にと蹂躙する。
腹が裂け骨が砕け臓物が飛び散る。
アレンの世界はさらなる深紅へと染まった。
絶命したの肢体は床へと落ち、そして、
「ぅ、………………っぁ」
千切れ飛んだ首が、
「あぁ…………っつ」
まるでマナにそうしたように、自分では制御できない何かが、“”を破壊した。
そして胸元へと飛び込んできた金色の双眸に、アレンは絶叫した。
悪夢の終わりは唐突だった。
現実に帰還したことがわからなくて錯乱状態のまま悲鳴の続きをあげようとする。
けれど呼吸は止まっていたようだった。
必死に空気を吸おうとすれば激しくむせ返り、吐き出しても苦しい咳にしかならなくて、アレンはベッドにしがみついて喘いだ。
死んでしまうかと思うくらいの恐怖と絶望と苦痛が、世界を染める闇より黒く意識を覆っていた。
僕は何をした?
の胸の傷を左手で突き破って、そして、
(破壊した)
まるで宿敵にそうしているように、養父にそうしてしまったように、この手で彼女を粉々に打ち砕いた。
(壊した。僕が)
悪夢の内容を思い出せば思い出すほど吐き気がこみ上げてくる。
堪らずアレンはベッドから転がり降りて、室内に設置された洗面台に嘔吐した。
その際、脇にあった台を引っくり返してしまう。
上に並んでいた医療道具が激しい騒音を立てて床に散乱した。
アレンは構わず胃の中のものを吐き出し続ける。
止まらない。一度口にしたものを出すだなんて一番嫌いなことなのに、今はそれどころではなくて、胃液まで自分の外へと追いやった。
(ぼくが……っ)
あまりに吐くから同時に涙まで流れる。
この痛みを夢だと笑い飛ばすことは絶対にできそうになかった。
今でも体に染み込んでいる気がする。
血の匂い。生首の視線。金色の双眸。“壊して”と幸せそうに願う彼女。
最終的に血液まで吐いて、アレンは洗面台からずるりと崩れ落ちる。
()
もはやまともに物も考えられなかった。
アレンは自分の内側を全て吐き出してしまうと、這うように扉へと進んでいった。
蹴倒した机から落ちた薬瓶が床の上で割れている。
その硝子の破片すらも素足で踏みつけて、アレンは部屋の外へと向かう。
()
今が真夜中だとか、自分は絶対安静中だとか、隔離病棟に入れられているとか、そんなことは全てどうでもよかった。
ただ吐き気のあまり声の出ないアレンは心の中で一つの名前を呼びながら、孤独の密室から這い出していった。
()
堪らなく、彼女に会いたかった。
時刻は深夜をまわっていた。
こんな夜更けに女性の部屋を訪ねるだなんて、本来ならば失礼にあたる。
けれど今は自分も彼女も普通ではない状況に置かれているからいいだろう、と勝手な結論を出す。
そもそもそんな常識を考えられるほどアレンは平静ではなかった。
部屋の外に見張りの姿は見えない。医療班の人間もすでに自室へ引き上げたようだ。
居たとしても関係なかったが、アレンはそれをいいことにまんまと病棟から抜け出した。
吐き気を抱えたまま廊下を歩く。壁伝いに這うように進む。
踏みしめた床が痛い。
何度か咳き込みながら階段を登り、下り、いくつもの角を曲がる。
ようやくのいるフロアに辿り着いたころには、夜が体を冷え切らせてしまっていた。
「おい!」
唐突に肩を掴まれた。
そうしてやっと声をかけられていたことに気付く。
何度か繰り返されていたようで、口調には苛立ちと不審が滲んでいた。
「何をしている」
「ここは立ち入り禁止だ。戻れ」
目の前に立っていたのは赤と青と黄色の縞という特徴的な制服を着た、ヴァチカンの傭兵だった。
少なくとも中央庁ではないと知って安堵する。
しかし傭兵二人は明らかにアレンを邪魔者と認識し、排除しようとしていた。
「お前、アレン・ウォーカーだろう」
「長官の命令を無視して来たのか」
警戒を顕わにし、四本の手がアレンを拘束しようと伸びてくる。
「やはりこいつも尋問に……」
「それは私が引き受けましょう」
割って入った声は、開かれた扉の内側から放たれた。
アレンはゆらりと顔をあげてそちらを見る。
細く釣りあがった目が自分を睨みつけていた。
「彼にはいくつか質問したいことがあります」
三つ編みを揺らすこともなく、無音で部屋から滑り出てくる。
蜂蜜色の前髪の下には特徴的な二つのホクロがのぞいていた。
もう夜も遅いのに相変わらずきちんと着込んだ制服、そして胸元のタイに刻み込まれた中央庁のシンボルが、目に付いて仕方がない。
アレンよりいくつか年上の青年は傭兵たちに義務的な口調で言った。
「あなた方は下がってください」
「はっ、しかしルベリエ長官の命令がありますゆえ」
「此処を離れるわけには……」
「機密に触れる可能性もあります。同席は許可できません」
食い下がる彼らにわずかに鋭くなる双眸。
「私もあなた方と同じく長官に命じられた身です。“彼女”について一任された、監査役の言葉では動けませんか」
「………失礼いたしました」
「それではお任せいたします。ハワード・リンク監査官」
どこまでもルベリエに忠実なリンクの言動に、傭兵達も納得させられたようだ。
顔を見合わせ、戸惑いながらも敬礼をして退いていった。
リンクも彼らに敬礼を返し、その姿が角も向こうに消え、気配が完全に途絶えたのを確認してから大業なため息を吐き出す。
無理にひそめた怒りの声をアレンに投げつけた。
「キミは馬鹿ですか」
「…………………………」
「こんな真夜中にやって来て。普通に考えたとしても非常識です」
「…………………………」
「それに状況を考えなさい。いくら監視の目を逃れたからといっても、キミは自由に出歩いていい立場ではありません」
「…………………………」
「だいたい何をしに……」
ぶつぶつ説教を始めたリンクはそこで言葉を止めた。
目の前に立ったアレンが靴も履いておらず、素足から血を流していることに気付いたからだ。
リンクは今度こそ呆れ返ってハッと笑った。
「ウォーカー。キミは本当に馬鹿だ」
「………でしょうね」
「自覚はあるのですか。では改善してはどうです?」
「すみません」
「謝罪するくらいなら最初からしないでいただきたいものですね」
「リンク」
「何です」
「は?」
尋ねればリンクは露骨に嫌な顔をした。
それでもアレンはもう一度繰り返す。
「は……?」
視線をリンクが出てきた部屋の扉に向ける。
彼女はこの中だ。
すぐそこにドアノブがあって、回して押し開けば会うことが出来る。
けれどアレンとの間には、物理的ではない、途方もない隔たりがあった。
「眠っていますよ。この時間ならば当然でしょう」
リンクは面倒くさそうに答えた。
アレンは咄嗟にその服の裾を掴む。
「じゃあ……」
ほとんど懇願のように言った。
「眠っているのなら、顔だけでも………」
「キミは馬鹿よりも酷い。愚か者だ」
行動ではなく言葉でリンクはアレンを拒絶した。
突き放されてよろめくようだ。
それでも現実は今も二人は同じ位置に立っている。
リンクは冷ややかな目でアレンを見下ろした。
「何故 彼女が此処にいるのかわかりませんか。何故 彼女の傍に私が居るのかわかりませんか。何故 彼女がキミと会えないのか、わかりませんか」
わかってる、そんなこと。
リンクを掴む手が震える。視界が回る。思考が途切れる。
苦しい。
「全てキミのせいでしょう」
冷たい現実を叩きつけられて、アレンの意識は完全に塞がった。
その脳裏を覆う漆黒に数日前の記憶が駆け巡る。
急に手を掴まれた。
別に強い力ではなかったのだけど、あまりに唐突だったので驚く。
振り返る前にの額がアレンのコートの背に押し付けられた。
「……?」
「……………………」
「どうしたの。これじゃあ船から降りられないよ」
アレンは目を瞬かせながらもそう言う。
ハンガリーから陸路を経て地下水路を小船で辿り、ようやく本部に帰り着いたところだ。
今まさに立ち上がって下船しようとしていたアレンは、に引き止められて中途半端な位置にいた。
後ろから繋がれた手の力がぎゅっと強くなる。
「アレン」
「……何?」
「しばらく会えなくなるけど、心配しないでね」
「え……?」
意味がわからなかった。
は一体なにを言い出したんだろう。
教団に帰還した途端だ。彼女はいつもの明るい様子を全て消して囁く。
「……怪我、早く治してね」
どうしてそんな言葉を告げるのだろう。
アレンは問いかけようと思ったけれど、それより先にが傍をすり抜けて先に船から降り立った。
漆黒のコートが翻り、包帯だらけの両脚が目に入る。
それでも危なげもなく真っ直ぐに起立すると、毅然と言い放った。
「ただいま戻りました」
「お帰り、アンノウン」
返答は氷の声。
それに呼応するように地下水路に一斉に明かりが灯される。
薄暗い空間に浮かび上がった光景にアレンは息を呑んだ。
こちらを取り囲むように整列した黒い影たち。
漆黒の衣装に頭からつま先まで覆われた不気味な姿は、中央庁の暗部 特殊戦闘部隊「鴉」だ。
そして彼らを引き連れ立っていたのは、口髭をたくわえた壮年の男性だった。
その名をマルコム=C=ルベリエという。
特別監査役長官は階段を登った先にある空間から船着場を見下ろしていた。
「久々の自由はどうだったかね」
ルベリエは高みからに向って微笑む。
けれど表情と言葉に込められているのは冷酷なる非難だった。
「キミが監視の目を逃れたのは5年ぶりだ。我々から開放された気分は格別だったのではないですか」
冷ややかに告げるルベリエを見上げながら、アレンはの隣に降り立った。
遠くから騒々しい言い合いが聞こえる。
あの声はラビとリナリーだ。
どうやら地下水路への道が塞ぐ中央庁の兵士たちと押し問答になっているらしい。
通せよというラビの怒声と、お願いというリナリーの懇願。
はルベリエよりもそちらに目を伏せたようだった。
「申し訳ありません、ルベリエ長官」
「よくそのまま逃亡せずに戻ってきたものです。そこだけは賞賛に値しますよ」
「私の居場所は此処だけです。……逃げ出しはしません。絶対に」
「…………いい覚悟です。そう言うのならば、私がわざわざキミなどを出迎えた理由もわかっていますね?」
「はい」
わけのわからないアレンをよそに、は躊躇いもせず頷くと左手を自分のうなじへと回す。
そこにあった結び目をほどいて吊り下げていた右腕を解放した。
砕かれたそれはまだ固定していなければならない状態だ。
それなのには右手に左手を添えて無理に持ち上げ、前方へと差し出した。
ルベリエは唇の片端を吊りあげる。
「それでいい。……………やりなさい」
言葉を合図に鴉が動いた。
呪文と同時にへと紙帯を放ち、雷のような火花を纏ったそれで彼女の両腕を拘束する。
それでもまだ足りないとでもいうように、制御の札がその上に叩きつけられた。
強い束縛を受けて、わずかにがよろめく。
当たり前だ。彼女はノアに重症を負わされた身であるのだから、こんな乱暴な真似をしてはいけない。
驚きに硬直するアレンには少しだけ微笑んでみせた。
そうして「大丈夫」と伝えてくる。
「アンノウン」
ルベリエがに呼びかける。
何だその名前は。
アレンは呆然と思う。
先刻からあの男はを“アンノウン”と呼ぶ。
Unknown……不明の者と。
「キミの唯一の美点は物わかりがいいことです。抵抗は無意味だと知っていますね」
「はい。ルベリエ長官」
「よろしい。では、このまま身柄を拘束します。今より外界との接触は一切禁止。我々の監視下に戻ると同時に尋問を受けてもらいますよ」
「了解しました」
「尋問……!?」
状況が把握できなくて言葉を失っていたアレンは、そこでやっと声を出すことができた。
ルベリエへと顔を振り上げて否定を求める。
けれど彼の目に自分は映っていないようだった。
近寄ってきた鴉たちがを連れて行こうとするから、アレンは飛び出していって彼女を庇おうとした。
「尋問ってどういうことですか!何でを……っ」
驚愕と怒気がアレンの口を突いて出る。
けれどすぐさま腕を捕らえられて動きを阻まれた。
「っつ!?」
そのままから引きずり離されて、両脇から押さえつけられる。
アレンも大怪我を負っているからそんな風に扱われては全身に激痛が走った。
はその様子に目を見張って叫んだ。
「ルベリエ長官!」
「何ですか、アンノウン」
「アレン・ウォーカーを解放してください。彼は怪我人です。手荒な扱いは……」
「それは聞けませんね。彼も拘束の対象なのですから」
「な……っ」
今まで従うままだったは、そこで脚を踏ん張って鴉の導きを拒んだ。
前に進み出てルベリエに訴えかける。
「何故ですか。そんな必要などないはずです」
「それを判断するのはキミではありませんよ」
ルベリエを前にして初めて感情らしい感情を見せただったが、その言葉は無下に切り捨てられる。
アレンは痛みを振り払って彼女を見た。
視線の先で美しい顔を真っ青にしながら言い募る。
「監視下に置かれるべきは“私”だけではないのですか。彼には何の非もありません。どうか拘束を解いてください」
「彼はキミと行動を共にしていた。立派な共犯者ですよ」
「共犯者だなんて……。私たちに邪な企みなど一つも」
「誰がそれを証明できますか。疑いが晴れない限り、彼もキミと同じ処遇を受けてもらいます」
「調べていただければすぐにわかることです。その尋問を受けるべきは彼ではない。私ひとりで充分のはずです」
「それでは分からないでしょう。彼が“キミ”のことをどこまで知ってしまったのか」
「………っつ」
「それを問いたださない限り自由は許されない。……連れていきなさい」
ルベリエの無慈悲な命令で、アレンを捕らえていた鴉たちが動き出す。
無理に両腕を捕らえたまま連行しようとする。
アレンは抵抗した。
けれどさすがは特殊部隊の人間といったところだろう、びくともしない。
さらに怪我の痛みがアレンの邪魔をする。
「待ってください!」
がルベリエに叫ぶ。
まったく動じない長官の様子に、焦れたように矛先を変えた。
両腕の機能を奪われたまま、アレンを連れてゆく鴉に追いすがろうとする。
「待……っ」
「……」
その状態で無茶をしないでと言おうとしたけれど、切羽詰った金色の双眸が声を封じてくる。
は捕縛された手を強引に動かしてアレンへと伸ばそうとした。
「待って!!」
瞬間、にぶい打撃音が響き渡った。
アレンの視界の中で華奢な肢体が傾く。
金髪を残像にして、が床に倒れこんだ。
彼女は腕を縛られているから支えることも受身を取ることもできなくて、体をひどく打ちつける音がする。
アレンは愕然とそれを見ていた。
完全に伏したの傍らには鴉が立っていた。
そいつが彼女に手をあげたのだ。
アレンの目の前で、の白い頬に拳を打ち据えて、床へと殴り倒したのだ。
「な、にを……っ」
信じられない光景に、アレンは喘ぐように叫んだ。
「何て事を……!!!」
今度こそ本気で拘束から逃れようともがく。
しかし鴉は数を増やし、そんなアレンを床に跪かせ上から押さえつけた。
同時ににも群がって無造作に体を転がす。
殴られたときに唇を、倒れたときに額をひどく切ったようで、赤い雫がいくつも落下した。
「これは珍しい」
ルベリエはが抵抗の様子を見せたことに驚いているようだった。
それでも血を流す少女に注ぐのは、まるで地面に落ちた物を見るような視線だ。
「しかしこれ以上暴れられると面倒ですね。どうせしばらくは任務にも出せません。脚の骨でも折ってしまいなさい」
あまりに普通の口調で告げられたので、アレンは一瞬意味がわからなかった。
限界まで見開いた目でルベリエを凝視する。
この男は、一体、何を言っている?
「そうすれば口答えする元気もなくなるでしょう。後に尋問が控えているのですから問題は……………、随分と騒がしいですね」
言葉の途中でルベリエは背後を振り返った。
音だけは聞こえたのだろう。
頬を打った打撃音と床に落ちた衝突音に、遠くでリナリーが悲鳴をあげたのだ。
ラビも我慢の限界がきたようで中央庁の兵士達に容赦なく怒声を叩きつけた。
けれど一番に通路の封鎖を破ってきたのは神田だった。
「どけ」
今の今までリナリーやラビと一緒にいるとも悟らせなかったくせに、が殴り倒されたのと同時に短くそう告げて兵士達を突破してくる。
何とか制止しようとする彼らを押しのけて後の二人も続いたようだ。
アレンの視界の隅に黒髪の青年が飛び出してきた。
「此処は立ち入り禁止だと言っておいたはずですが?」
ルベリエは言葉を投げるが、神田は応えずにわずかに息を吸い込んだ。
足を止め、遠くに倒れたを見つめる。
金髪の下からじわじわと流れ出てきた血の色に漆黒の瞳が見開かれた。
神田はに視線を落としたまま問う。
「これはどういうことだ」
「キミ達には関係のないことです」
ルベリエが答えると同時に、神田に続いてラビが姿を現した。
そして一瞬で現状を把握するとリナリーの前に出て彼女の視界を塞いだ。
「見るな」と鋭く告げ、唇を噛み締める。
「長官……っ」
呻くようにルベリエを呼んだ。
「ブックマンの“規約”はどうした」
ラビはリナリーを無理に通路に押し戻すと神田の隣に並んだ。
そして腹の底から怒りの声を吐き出した。
「“ブックマン”の許可なく、中央庁が勝手な真似をするな!!」
「勝手な真似をしたのは彼女が先です」
激怒するラビにさえルベリエは冷淡に返した。
視線をへと戻し、当たり前のことを言う様子で続ける。
「破損した監視ゴーレムをそのままに行方をくらませた。そうしたときの対応はすでに取り決めてあったはずですが?」
「…………っつ」
「拘束、尋問、監禁。どれも“規約”通り。キミに非難される覚えはありませんよ、ブックマンJr.」
「だからってこんな……!」
「問題があるのなら“ブックマン”を呼んでくるといい。キミでは役不足だ」
その言葉がラビの心を深く傷つけたことはアレンにも読み取れた。
ルベリエを非難する言葉もを守る手段も、“Jr.”にはないと明言されたのだ。
色を失った唇が震えて、翡翠の隻眼に激しい自己嫌悪の色が浮かぶ。
ルベリエはそれに一瞥すらやらずに肩をすくませた。
「あの老人が出てこないということは、止める気もないということでしょう。キミ達も退っていなさい」
「何故ですか……」
アレンはいまだ呆然とした声しか出せない。
口を開けば鴉の手が頭部に置かれ土下座のような格好を強要させられた。
それでも見開いた目をルベリエから逸らさずに繰り返す。
「何故こんなことをするんです。拘束?尋問?監禁?どうしてを?」
「部外者が揃いも揃って……」
「彼女が何をしたと言うんだ!」
外野に構う気のないルベリエの様子を見て取って、アレンは声を荒げた。
そうすればようやく瞳がこちらを向く。
そしてアレンに冷笑を浴びせた。
「“何をした”?問いかけて答えるとでも思っているのですか」
「……………っつ」
「彼女の過去は最重要機密。よってその身柄は教団が完全に押さえておかねばならない。それなのに」
アレンはの持つ黒いゴーレムを思い出す。
あれは四六時中彼女を見張る冷たい目。
ドリーの元にいる間、破損していた中央庁の情報源。
「数週間 監視から逃れていた、から……?それだけで?」
「キミが考えるほど軽い問題ではありません。不測の事態が起こったのだとしても限度があります」
「…………………………」
「これは立派な規約違反ですよ。原則として彼女は我らの目が届く範囲でしか、行動することを許されていないのですから」
言われて思い出す。
快楽のノアがアクマを使って暴いた彼女の記憶。
直視することが辛くて仕方がないような、教団の冷ややかな仕打ち。
そういえばはアレンのことさえなければ、何ひとつ抵抗することなくルベリエに従う気でいたようだった。
彼女はわかっていたのだ。
中央庁の監視下から外れれば、帰還した際にこのような対応を取られることを。
(だから“しばらく会えなくなる”、なんて言ったのか……)
今更それを悟って、けれどとアレンは思う。
監視ゴーレムが破損したのは不可抗力だ。
はきちんと考慮して教団に連絡を入れようとしていた。
それが叶わずハンガリーに滞在する期間が長くなったのは、ノアとの戦闘で負わされた怪我の治療のためである。
何もが望んで監視から逃れようとしたわけではない。
アレンは鴉の手に反発して、無理に顔をあげた。
「は……!」
「弁解は結構ですよ。彼女のことは本人に訊きます。尋問して一切を吐かせ、その後は……」
「閉じ込める気か」
ルベリエの言葉を切り捨てたのはアレンではなく神田だった。
彼の漆黒の瞳はいまだに倒れたに据えられている。
「こいつの事情なんて俺には関係ない。中央庁もブックマンも知るか」
感情を顕わにしたラビとは違って、彼の声は普段とまったく変わらなかった。
「“規約”だってどうでもいい。考えてみれば、殴り飛ばされたのもモヤシを庇っただとかどうせそんなくだらない理由だろう」
「ご明察ですよ、神田ユウ」
「非は馬鹿なこいつにある。その程度のことでお前たちを責めるつもりはねぇよ。……………俺が知りたいのはひとつだけだ」
口調は平坦なのに、徐々に濃厚になってゆくものを感じる。
感情が迸るようだ。
神田は顔をあげてルベリエを見据えた。
「まさか、また“あそこ”に閉じ込める気じゃないだろうな」
“あそこ”?
アレンは疑問に思ったが、神田にはとても尋ねることができそうになかった。
爆発する一歩手前の怒りを見せ付けられて気分だ。
神田は激昂こそしていないが、ギリギリのところでそれを押さえ込んでいるだけなのだ。
そんな彼の鋭い眼差しを受けてもルベリエの態度に変化は訪れない。
「その可能性も否定はできませんね」
双眸を閉じて応える。
「なにせ彼女はノアと接触した」
「「!?」」
神田とラビの驚愕が重なった。
二人に視線を投げられたからアレンは動こうとしたけれど、やはり鴉に制止されてそれは叶わない。
その様子を尻目にルベリエは続けた。
「アクマに精神を侵され、過去を暴かれたそうです。途中で喰い止めたと彼女直々に報告を受けましたが、どこまで真実か……」
疑惑を感じているのだと隠し立てもせず、鼻を鳴らしてみせた。
「機密が漏れた可能性がある。これはゆゆしき事態です。伯爵側にアンノウンの素性を知られるのは大変不本意でしてね」
「…………………………」
「監視の目を逃れていた時期にそんなことがあっては、“あそこ”に閉じ込めたくもなるでしょう。それくらいキミ達にもわかるはずですが?」
「…………………………」
「優先すべきは漏洩情報の把握。アンノウン及びアレン・ウォーカーの身柄を拘束し、尋問、監禁します。異論は認めません」
予想以上の事に絶句する神田とラビを放置し、ルベリエは鴉に手で合図を送った。
一人がの腕を引くがそこは呪札で縛られていてうまく掴めない。
仕方なく別の者が金髪を掴んで引きずり起こした。
乱暴に揺さぶられてまた血がこぼれ落ちる。
アレンはやめろと叫び出したくなる。神田やラビも同じように思ったのを感じた。
けれど三人の誰より早く、金色の球体がそれを実行した。
「!?」
驚いた鴉が思わずから手を離す。
それでもゴーレムは何度も体当たりを続けて、さらにそいつを遠ざけようとしていた。
「ティム……」
アレンはホッとしてその名を呟いた。
快楽のノアにも同じようなことをしていたと思い出す。
本当によくを守ってくれるゴーレムだ。
ティムキャンピーは大きく口を開けて威嚇すると、再び転がり落ちた金髪へと降りた。
短い手を伸ばして頬を叩き、の意識を引き戻したようだ。
わずかな苦鳴をこぼして彼女は這うように肘を床に押し付ける。
何とか自分の力で身を起こしてみせた。
「……………ルベリエ長官」
乱れた金髪で頬を覆いながらが言った。
少し気を失っていたからか、声が掠れている。
それでも口調は強く、いつもの彼女そのままだった。
「申し訳ありません。取り乱しました」
「……………………」
「今後は一切の抵抗も致しません。謹んで尋問をお受けいたします」
「殊勝な態度は好ましいですよ。アンノウン」
「けれど……アレン・ウォーカーへの処遇については、考え直していただけませんか」
その言葉にルベリエはぴくりと眉を動かした。
アレンは自分で意見しようとしたが、即座に口を塞がれる。
鴉の黒い手が体だけでなく言葉まで拘束してきた。
呻き声を漏らすが、は振り返らない。
彼女は誰も見ない。
アレンも、神田も、ラビも、一切見ようとはせずに、ただルベリエだけを射抜いていた。
「彼は何も知りません。ノアも同じです。暴かれたのは教団に来てからの記憶のみ」
「私はキミを信用していない。言葉も同じです」
「存じております。だから」
そこでティムキャンピーがの肩に乗った。
殴りつけられて色の変わった頬に擦り寄って、すぐに膝へと降りる。
少し羽根を動かして合図を送った。
は感謝を込めてゴーレムに微笑みかけた。
そうして再びルベリエを見上げる。
「証拠をお見せします。ノアとの戦闘は全てティムキャンピーに記録されている。ご自分の目で映像をお確かめください」
「…………………………」
「そうすればすぐにお分かりいただけるはずです。私の言葉が事実であると」
「…………………………」
「機密は守り通しました。伯爵側に“私”の情報は一切漏れておりません。そしてそれを防げたのはひとえに彼のおかげです」
アレンのことを口にしながらも、は一瞥すら寄越さない。
まるで瞳を向けることすら罪であるように頑なにそれを守っていた。
「アレン・ウォーカーの行動に感謝こそすれ、非難するなど矛盾の極み。最優先事項は“漏洩情報の把握”……つまり機密保持なのでしょう?」
「………彼のおかげでそれが成された。だから処遇を譲歩しろと言うのですか」
「恐れながら。彼の功績を考慮すれば拘束するなどもっての他というものです」
はそこでようやくルベリエから視線を外し、頭を垂れた。
「アレン・ウォーカーにおいては、コムイ・リー室長及びブックマンを同席のうえ、厳正なる処遇をお願いいたします」
それを聞いてルベリエは少し沈黙した。
いくら言葉を重ねようと、ノアとの戦闘に立ちあったアレンが事情聴取を免れることはできない。
はそれを明確に理解している。
だからこそ声を荒げて制止するのをやめ、エクソシスト最高司令官と裏歴史の記録者の同席を望んだのだ。
その二人がいれば、中央庁といえども滅多なことはできないと知っているのである。
信頼する彼らの前で事実が明るみになれば、アレンはすぐさま解放されるだろう。
現状を考えれば得策だった。
どうやらは完全に冷静さを取り戻したようだ。
しかしルベリエとしては下手に反発されるより、そんな考えあっての態度を取られたほうが忌々しい。
わずかに唇を歪めたところで、自らの膝を飛び立ったティムキャンピーがやってくる。
ルベリエは鬱陶しそうにそれを手で軽く払った。
彼の代わりに鴉が捕まえたゴーレムに向って、が小さく「ありがとうティム」と囁いた。
「…………アレン・ウォーカーについては、まぁいいでしょう。しかし、キミへの処遇は変わりませんよ。アンノウン」
何とか床に手をついて立ち上がるを、氷の瞳で見下してルベリエが言う。
「ええ。わかっています」
が頷く。
弾みで髪が揺れて横顔が見えた。
アレンは痛みに表情を歪めた。
何故なら彼女の白い頬に真っ赤な血が落ちかかっていたからだ。
流血は額から。倒れたときに切った箇所だろう。
赤が目に入らないように、は片方の瞼を閉じていた。
「連絡を怠り、ノアの罠にかかった私の落ち度です。ご迷惑をおかけいたしました。心から謝罪申し上げます」
そして深々と頭を下げると、そのまま静かに告げた。
「これより“北の塔”に入ります。そこでどうぞ裁きを」
その瞬間、神田が舌打ちをした。
を睨みつける瞳に殺気が混じり、罵倒しようと開いた唇がわななく。
ラビは真っ青になって言葉も出ない様子だった。
“北の塔”……………その単語が二人に決定的な変化を与えたのだ。
ルベリエも少し驚いた様子で言う。
「自らは“あそこ”に出向くと?…………これはまた随分と自虐的な」
「“私”は此処から逃げ出す考えなど欠片もないのだと、あの牢獄に留まることで証明したいのです」
「必要と判断すれば、我々はすぐにでもキミを囚人とする気ですがね」
「私の意思表明だとお考えください。勝手な振る舞いの代償として、あなた方に与えられた権利をお返しいたします」
「……………………」
「教皇に忠誠を。教団に服従を。異端を罰し、聖なる判決を」
そこでは面をあげた。
そして傍に立つ鴉すら寄せ付けない凛然とした態度で、金髪の少女は明言したのだった。
「この身、この命、全てを従わせましょう。私は“エクソシスト”。此処でしか生きられない人間なのですから」
そう囁く瞳には熱度のない炎が燃えていた。
冷たくも熱くもない、ただ炎上する意志。
両目が開いていたならばきっとルベリエもすぐには声を出せなかっただろう。
彼が言葉を失ったのは数秒だった。
ハッとしたように目を瞬かせ、そのまま睫毛を伏せる。
「だからキミは扱いにくいというのだよ……」
「え……?」
「何でもありません。その覚悟、確かに受け取りましたよ。アンノウン」
ルベリエは頷いて鴉たちに合図を出そうと視線を向ける。
その所作に我に返ったラビが叫んだ。
「ま、待て!いくら本人が望んだからって、中央庁の独断で“北の塔”行きを決定するな!!」
神田はもとよりルベリエに反応を期待していないらしく、に向って荒い足取りで歩き出す。
すぐさま鴉に阻まれたが構わずに怒鳴った。
「テメェ何を自分からバカなこと言ってんだ!あそこは尋問施設じゃねぇ、ただの拷問部屋だろうが!!」
「………………………」
「何度閉じ込められれば気が済むんだよ!今度こそ本当に廃人にさせられるぞ!!」
「………………………」
「おい、聞いてんのか!!!」
「………………………」
はやはり無反応だった。
アレンに対してもそうだが、神田に直接怒声を浴びせられても、何ひとつ応えようとしない。
それがすでにルベリエによって“外界への接触は一切禁止”と命じられたからなのだと気付くには、時間と余裕が足りなかった。
アレンは何とか声を出そうともがくけれど、鴉の手はいっこうに緩まない。
ついに神田まで取り押さえられたから左手が反応してしまった。
人間にイノセンスを向ける気はないが、感情が先走ってどうしようもできなくなりそうだ。
そんな危惧を抱えたとき、
「ルベリエ長官」
を連れて行こうとしていた鴉たちの前に、ひとつの影が立ちふさがった。
聞き覚えのある声だ。
彼はやはり鴉の衣装を纏っていて、その黒の下からルベリエに進言した。
「このままでは問題が起こりかねません」
ルベリエは目線で合図を送る。
その鴉は一礼すると、頭から漆黒の布を剥いだ。
現れた容貌にアレンはやっぱり、と思う。
蜂蜜色の髪をうなじの後ろで編んだ歳若い男性は、中央庁に所属するハワード・リンクその人だった。
リンクは鴉の衣服を全て脱ぎ去るとルベリエを見上げて言う。
「アレン・ウォーカー、神田ユウ、ブックマンJr.。そして室長を兄に持つリナリー・リーまでがアンノウンへの処遇に不満を持っています。放置すれば余計な火種になるやもしれません」
「エクソシストが三人にブックマンの関係者……。確かにこれ以上騒ぎ立てられては厄介ですね。士気に関わります」
「そこで、僭越ながら私に考えが」
「言ってみなさい。リンク監査官」
ルベリエが促せば、リンクは生真面目に敬礼をしてから改めて口を開いた。
「アンノウンを幽閉してはいかがでしょう」
「………彼女の処遇まで譲歩すると?」
「元より“北の塔”は最終手段。尋問が終るまで隔離フロアに閉じ込めるのです。それでも教団おいては厳重処罰に相当します」
「確かに」
「しかし“北の塔”に監禁されるよりは随分と待遇も違いましょう。…………まさかこれでも不満だとは彼らも言わないと思いますが」
そう口にしながらリンクはアレン達に一瞥をくれた。
その目が確実に「黙っていろ」と告げている。
神田は舌打ちをしたものの抵抗をやめ、ラビも沈黙を守る。
指示に従ったのを見て取って、リンクは続けた。
「アンノウンへの処遇緩和と引き換えに、緘口を命じるのです。彼女を“北の塔”に入れたくなければ、これ以上の口出しは無用。黙って身を引けと」
「なるほど。しかし、やはり甘い気がしますね」
ルベリエはリンクから視線を滑らせ、を見下ろす。
もっと重い罰を望んでいる長官に監査官は忠誠を示した。
「ご安心を。私が監視に当たります」
「キミが?」
「はい。このハワード・リンクがアンノウンに四六時中張り付きます。尋問に立ち会い、監禁を行い、不穏な動きをすればすぐさま処罰いたしましょう」
「ふむ……」
「彼女の監査役を経験したことがあるのは、鴉の中でも私だけです。どうぞ任をお命じください」
「的確ですね。彼女の傍に置いても問題がないのはキミくらいでしょう。……それが妥当か」
ルベリエなりの精一杯の温情だったようだ。
わずかに頷くとその場に居る全員に聞こえるように、リンクへと命令を下した。
「それではハワード・リンク監査官。これよりアンノウンを幽閉し、その監視を行ってください。少しでも不審があればすぐさま対応するように。その場で拷問を加えても構いません」
「はっ」
「決して情にほだされることのないように。…………信用していますよ」
「承知いたしました。ルベリエ長官」
リンクは真っ直ぐにルベリエを見上げ、完璧な敬礼をした。
ルベリエはやはり不満が残るのかため息を吐き出して何度か首を振る。
そしてアレン達に告げた。
「聞いた通りです。“北の塔”行きは免れたのですから満足でしょう。早々に口を閉じて役務に戻りなさい」
それだけ言い捨てると、コムイとブックマンに通達するためだろう、踵を返して歩き出した。
鴉がそれに付き従う。
アレンや神田を捕らえていた者たちも急に興味をなくしたように拘束を解き、ルベリエに続いていった。
ラビは彼らに道をあけたが追う視線は鋭い。
リンクは敬礼をしたままルベリエを見送り、その後姿にが一礼をする。
後に残されたのは重圧を伴った沈黙だった。
鴉が消えた地下水路は妙に明るく感じる。
通路の向こうからはリナリーの押し殺した泣き声が聞こえてきていて、誰もが居た堪れない思いになった。
頭を下げたままのの額から、涙のように血が落ちてゆく。
そして完全にルベリエの残した余韻が消えると、その沈黙を壊すようにリンクがため息をついた。
「どうしてキミはそう馬鹿なのですか」
体の向きを変えて、真正面からを睨みつける。
「“北の塔”などと言い出して。確かに自分からあそこに入れば従順さが証明できます。けれどそれだけではないでしょう」
「…………………」
「アレン・ウォーカーから処罰の目を逸らしたかっただけでしょう」
ずばりと言われてよりもアレンのほうが動揺した。
彼女はルベリエに処遇の考慮を求め、その分も自分で背負い込もうとしたのか。
より重い罰を求めることで、アレンをこの問題から突き放そうとしたのか。
やはり彼女は“”なのだと感じた。
いまだに独りで己の境遇と戦おうとしている。
アレンは怒鳴り出したくなったけれど、今はそうする資格すらないように思えて喉が詰まる。
そんな自分がひどく不様だ。
アレンは何度かぎこちない呼吸を繰り返して立ち上がった。
鴉に押さえつけられていたから体のあちこちが痛む。
震える息を吐き出せばようやくが視線を向けてくれたけど、労わるように見つめてくるだけで何も言わなかった。
そんな彼女をリンクが頭から叱りつける。
「自分の問題から仲間を庇いたいのはわかります。愚かなことですが、キミはどこまでもそういう性分だ」
「………………………」
「しかし、限度というものがあるでしょう。また実験に使われたいのですか。殴られ蹴られ薬を飲まされ、非人道的な扱いを受けたいのですか」
「………………………」
「私が長官に進言していなければどうなっていたか……。キミは本当にわかっているのですか」
「わかっています」
は視線をリンクへと向けて彼に告げた。
「申し訳ありません、リンク監査官。ご温情に感謝いたします」
思わずといったようにリンクは口を閉じた。
何か言おうと唇を動かすが言葉にならない。
額に手を当てると、先刻よりも大きなため息をついた。
「……………相変わらずだな。」
結局そういう結論に辿り着いたようで、諦めたように口元を緩めた。
するとも眉を下げて微笑む。
「そっちもね。久しぶり、リンク」
「嫌な再会だ。まさか血で染まった顔を見せられるとは」
もう中央庁はいないから、リンクは取り繕うことを止めたようだ。
呼応しても敬語を取り、義務的な態度を脱ぎ捨てた。
リンクはただ心配するように彼女の前髪を掻きあげる。
皮膚の切れた箇所を確認して三度ため息。
「もう馬鹿な真似はしないでくれ。場合が場合であれば、私もキミに手をあげなくてはならなくなる」
「うん……」
は頷きながら目を閉じる。
リンクが上着からハンカチを取り出してきて、血で汚れた彼女の左顔面を拭った。
そして傷のある額にそれを押し付ける。
「ただでさえ重症だというのに、傷を増やして……」
「たいして痛くないよ。額だから出血量が多いだけ」
「それを婦長の前でも言ってみるといい」
「う……っ。わ、わかった。ごめんなさい。反省します」
ちょっと顔色を失くしたにリンクは微笑む。
血を全て拭い去ると軽く金髪を撫でた。
「私は二度と監査役としてキミの前に立つ気はなかったのだが……」
「ううん。庇ってくれて本当にありがとう。“北の塔”のことは」
そこでは表情に切ないものを混ぜた。
「……長官の前では、ああ言うしかないと思った。それしか守る方法はないと信じてしまった」
続いた言葉は、誰に向けられたものなのだろう。
はリンクしか見つめてはいけないのだと思い込んだように、彼に視線を据えている。
アレンを振り返りもせずに言う。
「やっぱり此処での私は“”なのよ。8年間で作り上げたものが大きすぎる。咄嗟の判断に従えばああやって……」
「……何を言っているんだ?」
目を瞬かせたリンクを前に、は気にしないでと首を振った。
そして表情を引き締め、いまだに拘束されたままの両腕を差して無抵抗を示した。
「あなたに従います、リンク監査官。どうぞご指示を」
「…………………」
リンクはわずかに黙したが、すぐさま中央庁の人間に戻りに命じた。
「それではこれよりキミを幽閉します。私が許可するまで何者とも接触は禁止。もちろんそこにいる彼らとも」
「……はい」
「隔離フロア収容後、主治医ラスティ・デフォンの治療を受けてください。その怪我では尋問もできない」
「医療班班長との会話は?」
「許可しましょう。しかし問われたことに答えるのみです」
「了解しました」
言動に介入され、自由を奪われても、の様子は変わらない。
ただアレン達と言葉を交わすこともできない状況に目を伏せただけだった。
そして体の向きを変えて歩き出そうとする。
それをリンクが背後から引き止めて、横向きに抱き上げた。
「……、リンク監査官。自分の足で歩きます」
「行動の制限です。従いなさい」
驚いた顔のにリンクはあくまで監査官として返した。
それでもそこに気遣いを感じたのだろう、そのままでいることにしたようだ。
どうせ足元はおぼつかない。
鴉に殴られた頬は今や痛々しい色に変わっていた。
その衝撃が残っているのか、ようやく胸を撫でおろしたのか、の視線が揺れる。
金の双眸がアレンと神田、ラビの間でさ迷った。
四人とも何も言えなかった。
はきっとそうと命じられているからだ。
けれど少なくともアレンは、ただ声が出なかった。
何と言えばいいのかわからない。無力すぎて言葉が浮かばない。
の瞳が細められる。
何か言いたげに唇を震わせたが、リンクの掌がその目元を覆って隠した。
耳元で静かに囁く。
「もう余計なことは考えなくていい。お休みなさい」
そして何か術を使ったようだった。
瞬く間にの四肢から力が抜け、完全にリンクへと体をあずける。
両目を覆っていた手が退けられると、もう金色の瞳は白い瞼に覆われていた。
流れる金髪に照明の光が踊る。
意識を失ったを抱きかかえて、リンクがアレン達の傍を通り過ぎてゆく。
「“ただいま”と“ごめんなさい”だそうですよ」
すれ違う瞬間、彼はため息と共にそう吐き出した。
「眠りに落ちる前に彼女が言ったんです。どうせキミたちに向けた言葉でしょう」
アレンは目を見張ってリンクを見た。
いや、その腕に抱かれたを見つめた。
“ただいま”はいい。神田やラビに向けた帰還の挨拶だ。
けれど“ごめんなさい”はアレンへの言葉だった。
ごめんなさいって、何が?そんなのわかってる。
「どうして……っ」
ようやく喉から転がり出た声は、には届かなかった。
リンクはもうアレンを見ることもせず、彼女を隔離場まで連れ去ってゆく。
言葉は響かない。
追いかけても無駄だ。
の境遇が、性分が、無知な僕を庇うという愚かな行為に至らせた。
彼女がそういう人だということは知っていたくせに、何も言えず、何もできず。
そして今や『黒の教団』までもがアレンの敵だった。
自分と彼女を阻む、確固とした障害として立ちはだかっていた。
それ以来、の顔は一度も見ていない。
『遺言はピエロ』、始まりです。
初っ端からエグいわ暗いわで申し訳ありません。(汗)
教団とヒロインの不和はじわじわ書いてきましたが、ようやくおおっぴらに出すことができました。
絶対避けては通れない問題ですからね。丁寧に書き進めていけたらと思います。
ちなみに今回初登場のルベリエ長官。大好きキャラなのでノリノリで書かせていただきました。(笑)
連載開始当初から考えていた流れが、彼のおかげで表現しやすくなって嬉しい限りです。^^
あといろいろ言っているリンクですが、彼は公私混同はしていません。
あくまで任務優先で、そのなかで出来る限りヒロインを気遣っている感じです。(彼は自分の立場を悪くしてまで庇ってもヒロインが喜ばないことを知っているので)
次回はオリキャラのラスティがいろいろ暴露してくれるかも?お楽しみに!
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