駆け引きには慣れている。
イカサマにだって自信があった。


だからこれがポーカーなら、カードを引き寄せるようにして簡単に君を助けられたのになんてくだらない話。
笑えるよね。






● 遺言はピエロ  EPISODE 2 ●






と離れてからどれくらい経ったのか、アレンも取調べや怪我の治療で病棟に閉じ込められていたから正確にはわからない。
けれど決して短くはないはずだ。
だから悪夢を見た。
あんな別れ方をしたから、いつまでも目の届くところにいないから、頭がおかしくなってしまったのだ。


「キミがいなければも“北の塔”などと、馬鹿なことを言い出さなかった」


目の前が回る。
真上から降ってくるリンクの声さえ遠い。
夜の廊下に響いて木霊する。
いいや、アレンの脳内でわんわんと鳴っているのだ。


「長官も無慈悲な方ではありません。彼女がキミを庇おうとしなければ、もっと軽い処罰で済んだかもしれない」
「………………」
「それなのにがいまだ拘束されているのは、キミの分まで尋問を受けているからです」
「………………」
「キミは簡単な取調べで終ったはずですよ。なにせコムイ・リー室長もブックマンも、彼女の味方は全てそちらについてくれたのだから」
「………………」
「まぁ、あの人がそう仕向けたのも当然といえば当然ですが。本来キミは部外者……巻き込んでしまったことを申し訳なく思っているのでしょう」
「………………」
「全ての責任はにあります。けれど少しでも感じるものがあるのならば、これ以上馬鹿な真似はやめなさい」


リンクは服の裾をつかむアレンの手をぞんざいに振り払った。
よろめきはしなかったものの、もう真っ直ぐ立っている感覚も遠い。
アレンが呆然としているからか、リンクが強く肩を掴んできた。
そうして無理に顔をあげさせるとこちらの瞳を見据える。


「今、自分がどれほど愚かなことをしているか理解しなさい。キミが幽閉されたに会おうとすれば、また余計な嫌疑がかかるのです。それもキミにじゃない、彼女にだ」
「……、っつ」
「そしてキミも捕らえられる。そうすれば一番に心を痛めるのは誰か、わかりますね?」
「…………………はい」
「だったら、もうの気持ちを踏みにじる行為はやめなさい。キミが拘束もされず、尋問にもかけられず、こうして出歩くことができるのは彼女の配慮あってこそなのです」
「………………」
「それがのせめてもの謝罪。馬鹿な真似をすると私も思います。けれど、だからといってそれを拒否し、さらに彼女を傷つけるのはキミだって不本意でしょう」


厳しい口調で語るリンクの言葉が正論すぎてどうしようもない。
確か彼はアレンより四つ年上なだけなのに、何故こんなにも大人なのだろう。
それに比べて、あんな夢に囚われ何も考えることなくここまで来てしまった自分は、どこまでも子供じみている。
アレンだってに会えないのはわかっていた。言葉を交わすなんてもっての他だ。
ただ、顔だけでも見たかった。
あまりにも恐ろしい夢を見たから、どうしても現実の彼女に触れて、存在を確かめたくて仕方がなかったのだ。


(僕では駄目なのか)


アレンは肩に食い込むリンクの強い力を感じながら思う。


(僕では君を守れない?こんな、傍にすら居られない僕では)


見上げる先のリンクの顔がぼやけてくる。
思考がぐるぐるする。視界もぐるぐるする。
気持ちが悪い。


(こんな、君を壊すことを夢見る僕では…………)


もう少しで意識を手放してしまいそうだった。
それほどまでに強い自己嫌悪がアレンを襲っていて、けれど倒れずにすんだのは、ひとえに彼女のおかげだった。


唐突に扉の内側からの悲鳴が聞こえてきたのだ。


「「!?」」


アレンとリンクは一緒になって飛び上がった。
深夜だから音がよく響く。
何かがなだれ落ちる騒音が激しく鳴った。
扉に近いリンクが勢いに任せてそれを叩き開け、大声で叫んだ。


!!」


「い、いったぁ……」


顔色を失くして名前を呼ぶ彼に、は涙声で返した。
リンクと同時に部屋に飛び込んだアレンは目を見張る。
室内に散乱しているのは医療道具と本の類。後は割れた花瓶と白い花。水浸しになった床の上に花弁が散っている。
点滴を吊るす棒も吹き飛んでいて、抜けた針が転がっていた。
ついでにその傍にも転がっていた。
病人服の裾を乱れさせて、床に仰向けに倒れて込んでいる。
薄暗い室内で白い脚が浮かんで見えるようだった。
…………………………それにしても、状況がよくわからない。
アレンとリンクが一緒になって呆然としていると、が後頭部をさすりつつ呻いた。


「あ、頭打った……痛い痛いいたいいい……」
「「………………」」
「やっぱり体鈍ってるなぁ……鍛錬したいなぁ……」
「「………………」」
「引き篭もりなんて柄じゃないのよ、まったく」
「「………………」」
「う、うわ……手ぇ切ってる血が出てる……」
「「………………」」
「うわぁんリンクー!ごめん、また怪我したぁっ」


床に倒れたままジタバタ痛みに悶えているに呼ばれて、リンクはようやく我に返ったらしい。
弾かれたように室内に駆け込み、彼女を助け起こす。


「何をしてるんだキミは!」
「あ、リンクだ。居た」
「居なくなるはずないだろう、私はキミの監査役だぞ!!」
「だって目が覚めたら姿が見えないから。何かあったのかと思ったのよ」
「……………まさかそれで様子を見ようとベッドから降りようとしたのか?点滴に繋がれていることも忘れて?」
「うん、もう見事に転がり落ちたよ!あんな落ちっぷりは他にないよ!きっと今世紀最高の前転落下だったね!!」


寝起きの微妙なテンションと全身を床に打ち付けた激痛のせいだろうか。
幽閉中だというに、があまりにいつも通りの調子だったからアレンはぽかんとする。
扉のところに立ったまま動けない。
そして金髪の人物から目が離せない。


「本当にごめん。棚ひっくり返しちゃった。花瓶も割っちゃったし……」
「それより針が外れた方が問題だ」


散らかった物を片付けようとするを引き止めて、リンクが点滴を繋ぎなおす。
ついでに破片で切った手の傷を見た。
血が出ているが深くはなさそうだ。
リンクは散乱した中からガーゼと包帯を探し出して手早く処置を施した。


「まったく……。真夜中に人騒がせな」
「うぅ、申し訳ない」


はリンクに謝罪すると視線をあげた。


「掃除しないと。明かりを……」


そこでようやく部屋の出入り口に佇むアレンの存在に気がついたようだった。
逆光で顔がよく見えないのか、一瞬は目を細めて検分するような仕草をした。
それからはっと息を呑んで身を乗り出す。


「アレ……ッ」


けれど途中で自分の口を塞いだ。
ちらりと視線を投げてリンクを見る。
監査役はを支えたまま頷いてみせた。
その指示を的確に読み取ってアレンは顔を歪める。
やはり自分達は言葉を交わすことすら許されないらしい。
すぐそこにいるのに。手を伸ばせば触れられるのに。アレンは敷居を跨げない。
扉は開いているけれど、体も、声も、そこを通ることを許可されていないのだ。
は目を伏せて、それでもリンクに頷き返す。
けれど次に見せた表情は笑顔だった。


「ねぇ、リンク」
「何だ」
「明日は何をしようね」


唐突に何を言い出したのかと、アレンは思った。
リンクも同じ気持ちらしく、怪訝そうに眉を寄せている。
だけが明るく言った。


「今日は本を読んだでしょ。題名は『魔王の心理』!なかなか興味深い文献だったよ。あれは勇者推薦図書に認定せざるを得ないね。リンクもぜひ読んでみて」
「………………いや、いい」
「あぁ、せっかくだし明日は二人で出来ることをしようか。チェスとか?でもリンクに勝てるわけないしなぁ。カードは?どこぞのエセ紳士にイカサマを習ったから、私も結構強くなったよ」
「……………………………………、どちらも駄目だ。右腕が完治していないだろう」


リンクはの意図を悟ったようで、仕方なく会話に付き合っている様子だった。
呆れ顔で彼女の体を抱え上げ、ベッドに戻す。
その間もはべらべら続けていた。


「大丈夫。集中治療は終わりだってラスティ班長が言ってたもの」
「それは……この部屋から出られるという意味だ。まだ退院ではない」
「あの人はわざと時間をかけて診察したのよ。……無茶な尋問をされないように、本当よりずっと重症だと言ってくれただけ」
「医療に素人の私でも、あながち嘘ではないように見えたのだが」
「とにかく!もうすぐ監禁生活は終わり。怪我も順調に回復中」
「……………………」
「明日の予定を考えられるほど、元気いっぱいです」


だから心配するなとは告げたいようだった。
話している相手はリンクだけど、その実アレンに言っているのだと考えるでもなくわかった。
会話を禁止されている状況で何とか伝えようと、このような遠まわしな方法を取ったらしい。
とはいうものの、それに付き合わされたリンクは盛大に嫌な顔をしていた。
そんな彼の腕から離れては囁く。


「…………ごめんなさい。ありがとう」
「いいから眠りなさい。もう二度とベッドから転がり落ちないように」


怒っているわけではないと伝えるように、リンクはの頭を撫でた。
それから彼女に上掛けをかけてやって、アレンを振り返る。


「キミも自室に戻りなさい。これ以上はさすがに見過ごせません」


言いながら近づいてきて部屋の外へと追い立てる。
アレンはドア枠に手をかけて踏ん張った。


「ちょっと待って、リンク」
「何です。早く出て行ってください」
「待ってって言ってるでしょう。これ……、これを」


ぐいぐい押してくるリンクに抵抗して、アレンはポケットの中を探った。
そして取り出してきたものを監査役の手に押し付ける。
しっかりと握らせて頼んだ。


「これ、に返しておいてください」
「…………?」
「別に問題はないでしょう?」
「まぁ接触を図る媒体ではありませんし……。でも何ですか、これ。どうしてこんなものを……」


リンクは不思議そうに掌の上でそれをあらためる。
そちらに気を取られている隙に、アレンはもう一度部屋の中を覗きこんで言った。
監査官に応えるフリをして、金色の双眸を見つめながら。


「ただの落し物ですよ」


そうして少し微笑むと、に告げた。


「おやすみなさい」


彼女は言葉でなく、視線で同じ言葉を返してきた。
顔を見られただけ。声を聞けただけ。いつも通り「大丈夫」だと伝えてきただけ。
当たり前だと思っていたそんな些細なことでも自分を取り戻すことの出来るなんて、僕はかなり単純だ。
もっと複雑な人間だと思っていたのに、おかしいな。
それでも少しだけ凪のきた心を抱えて、アレンは自室に向かって歩き出した。
床は冷たい。脚は痛い。廊下は暗い。


けれどきっとすぐに黄金の太陽が昇るのだと知っていたから何もかも耐えることができた。
たったそれだけの話。













アレンを見送ったリンクは、もう一度自分の掌に視線を落とした。
白髪の少年があずけていった小さな品。何だこれは、と首を傾ける。
静かに扉を閉ざすとベッドに居るに近づいていった。


「どうぞ」


声と共にリンクは物を差し出す。
暗がりの中でもにぶく光る銀色。
は目を瞬かせながらもそれを両手で受け取った。


「これ……?アレンが私に渡してって言ったのは」
「そうだが……」
「何で?」
「私が聞きたい。何故そんなものを」


リンクはしかめっ面を浮かべた。


「どうして、ただのボタンなんかをキミに?」


も同意見で頭をひねる。
アレンがリンクにあずけたものは、銀製のボタン。
エクソシストの団服にいくつもついているあれだった。
アレンは“返してくれ”と言っていたから、きっと自分のものなのだろう。
先日の戦闘での団服はティキに破かれ、ボタンも一つ残らず千切り取られていた。


「落し物……ってことは、あのときの?」


アレンはハンガリーの廃教会でこれを拾ったのだろうか。
でも、どうして?
わざわざそんなことをしなくても、科学班が新しいものをくれるのに。
不思議に思いながらボタンを眺める。
何気なくひっくり返して、そこでは瞠目した。
全身が強張った。
有り得なくて、ある意味恐ろしくて、息を呑む。
ボタンの裏側、エクソシストの中で自分だけが何も刻まれていない綺麗な銀色。


何もないはずのそこに ―――――――“私”の名前があった。
間違いなく『』と書いてあった。
紳士的な見た目に反して汚い筆跡。アレンの文字で。


「…………………………」


何だこれは、と思う。
そこに名前が刻まれていないことが、逆に自分のものだという証だった。
名無しの女。ネームレス。千年伯爵やノアはそう呼ぶ。
教団上層部や中央庁での呼称はアンノウン。
絶対に形として残せない名前“”。
それなのに今、確かにそれが現実となって見える。


「なんで」


呆然と呟いて、指先で撫でてみる。
表面は細かな傷があって、アレンが最初なんとかして彫ろうとしたことがわかった。
けれど銀加工はそううまくいかない。
試行錯誤した結果、結局ペンで書いてしまったらしい。
でかでかとボタンの裏一面に『』の名前を。


「……………相変わらず、すごい字」


最初は唖然としていたけれど、見れば見るほど何だかおかしくなってきて、は噴き出した。
やっぱり彼は偽ジェントルマンだ。
絵も下手だし、字も汚い。
それに何て自己主張の激しいものを書いてくれるんだ。


「しかもこれ、油性ペンじゃない」


手で擦るけど、どうにもならなさそうだ。
以前にも彼には油性ペンで描かれたことがあった。確か顔にチョビヒゲだ。
あれも相当手ごわかった記憶がある。
そのときは死ぬ気で何とかしたけれど、今回はインクが細かい傷のせいで表面に染み込んでしまっていた。


「あーあ。もう落ちないよ」


はクスクス笑う。
指先でなぞって、その文字が擦れもせず、滲みもせず、そこに鎮座しているのを確認する。
何度も、何度も。


「落ちないよ」


クスクス、クスクス。
お腹の底が暖かくて、笑いが止まらない。震えが止まらない。
リンクが何とも言えない表情で見ているから、は立てた膝に額を押し付けて顔を隠した。
見下ろしたアレンの汚い文字は絶対に変化していないはずなのに、何故だかますます歪んで映る。
瞳に少しだけ浮かんだ涙がの睫毛を濡らしていった。
笑顔のまま、目を閉じる。


この部屋には窓がない。
だから見ることはできないけれど今宵も闇を照らす月をは感じていた。
掌の中にある、白銀の光。




















「馬鹿、阿呆、間抜け。さぁどれがいい?」


開口一番にそう言われて、アレンはちょっと泣きたくなった。
そして今後の展開を予想してもっと泣きたくなった。
がっくりとベッドの上でうなだれるが、相手はそんなこと構ってくれない。


「好きな言葉で罵ってあげるよ。いやぁ本当に役得だよね、医者って。怪我人の君に何を言っても許される」


いや、一般的には許されることではない。
ただ黒の教団という特殊な場所では有り得てしまうのである。
何故なら自分は彼の医療技術にお世話になりっぱなしだからだ。しかも生命いのちレベルで。


「ねぇ、アレン君。どうやって罵倒されたいの」
「いやもう……、本当に勘弁してくださいラスティさん……」


淡々とアレなことを訊いてくる医療班班長に涙目で訴えた。
けれどそんなことでラスティが動じるはずもなく、手振りだけで上着を脱げと指示してきた。
相変わらずの無表情だったが、どうやら機嫌は最悪のようだ。
アレンはシャツのボタンを外しながらため息をついた。


「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか……」
「知ってる?入院患者に怪我されるほど、医者にとって不名誉なことってないんだよ」
「だから何度もすみませんって……!」
「これ以上俺の仕事を増やさないでくれ。ただでさえ君の治療で忙しいのに」
「…………………」
「あと、彼女の名前を出した途端に黙り込むのもやめてくれないかな」


ラスティはあまり音も立てずにベッドサイドの椅子に腰掛けた。
そして視線だけで背後に控えた医療班員に合図を送る。
彼らは一礼すると全員で部屋から出て行った。
ラスティはそれを見送る様子もなく聴診器を取り出しながら続ける。


「ガラスを踏みつけたら皮膚が裂けるに決まっているだろう。しかも薬瓶だったっていうじゃないか。中身が劇薬だったらどうする気?」
「………………」
「しかもその脚で隔離フロアまで歩いたんだってね。まったく馬鹿で阿呆で間抜けな話だ」
「………………」
「まぁとにかく自業自得なんで、そっちの手当ては後回しにさせてもらうよ。ハイ息吸って」


本格的に不機嫌らしい彼だが、やはり治療の手は優しく的確だった。
見るも鮮やかに検査を終えると素早く脚に包帯を巻いてくれる。
何だかんだ言いつつ、ただ心配してくれているだけらしい。


「………………ありがとうございます」
君、元気だったでしょ」


目を伏せてお礼を言うアレンに、ラスティは応えずそう返した。
俯いたまま思わず体を強張らせる。
こんな話をしていいのかと横目で窺うが、ラスティは何も気にしていない様子で続ける。


「あの子の右腕、ね」


カルテに書き込む筆跡は素早く、そしてやはりいつもより乱暴だった。


「下手をすると一生動かなくなるんじゃないか、ってくらいにズタズタにされてたんだよ。でも壊され方が良かった。たいした強運だよ、本当」
「…………………」
「いや、自分で致命傷を避けたのかな。動体視力と勘の良さは相変わらずだ」
「…………………」
「そして馬鹿さ加減も相変わらずだ。俺はいつまであの子の面倒を看ないといけないんだろうねぇ、ホントめんどくさい」
「……ラスティさん、は」
「うん?」
の主治医なんですよね」


改めて訊くとラスティは少しペン先を止めた。
顔には出していないが思うところがあったようだ。
視線をアレンに投げて頷いた。


「そうだよ。もうかれこれ5年だ。俺の青春は君の世話で終ってしまった」


ラスティはため息をついたが、アレンは構わずに言葉を重ねる。
憂いを帯びた表情は冗談ではなく別の意味が込められているのだと、何となく悟りながら。


「それは、つまり、貴方にしか彼女の治療は出来ないということですか」
「……………………、婦長や上位医療班員の手を借りることもあるよ」
「けれど検査データを見ることができるのはラスティさんだけ。……違いますか?」


アレンが目を見て尋ねれば、ラスティは今度こそきちんと答えた。
カルテを脇のテーブルの上に伏せて置く。


「まぁ、ね。彼女の血液型とか、DNAの型とか、外部に漏らすわけにはいかないからね」
「それは、中央庁の命令なんでしょう?」
「もっと上からの指示だよ」


あっさり言われてアレンは瞠目する。
もっと上?大元帥か?それともまさか、ローマ教皇が……?
考えにはまり込みそうになる寸前でラスティが話を進めた。


「他の医者は基本的に駄目だってさ。言い方が悪いけれど、俺も君のせいで監視対象になっているんだ。一部でも彼女の個人データを知ってしまっているから、教団から離れられない」
「……っ、それを、は」
「もちろん承知してる。というか、俺は彼女の目の前で主治医に立候補したんだよ」


え、と声にならない言葉で驚きを示すと、目の前の男性は口元を緩めた。
それはこれから話す内容について心を静めるための動作のようだった。


「昔はね、そりゃあひどかったんだよ。人間に対する扱いをされてなかった。どの医者も異端に触れることを恐れて、彼女の治療を行わなかった。だから君の手当てはいつもグローリアさんが一人でしていたんだ」
「……………………」
「医術っていうのは、傷ついた全ての者に与えられるべきものなのにね」


そこでアレンはハッと息を呑む。
ラスティの穏やかな顔を見つめながら呆然と呟いた。


「その言葉、グローリアさんが言ったものですよね」


それはドリーの昔語りの中で銀髪の彼女が口にしていた台詞だった。
ラスティはちょっと驚いた様子になって、すぐにまた目を細める。


「そう。よく知っているね。じゃあグローリアさんが医学を志していたっていうのも?」


問われて頷く。
それを受けて、医療班班長は長い脚を組むとそこに頬杖をついた。


「あの人はね、君の先生だけど。俺の師匠でもあったんだよ」
「……医術の、ですか?」
「厳密に言うと違う。彼女を知り合った頃、俺はもう医者だった」
「……?」
「俺ねぇ、弟がいたんだ」


アレンが疑問符を浮かべると、ラスティは気楽に話し始めてくれた。
薄茶色の眼がちらりと見てくる。


「ちょうどアレン君くらいの歳だったかな」
「随分歳の離れた弟さんですね……ん?だった?」
「うん、過去形。故人だから。もうずっと前にアクマに殺されたよ」


普通に言われて反応に困る。
エクソシストでもないのに教団に所属している面々には、そういった事情――――家族や恋人をアクマに殺害されたという過去を持っている者が多いが、何となくラスティは違うと思っていた。
なんというか……標準装備されている無表情のせいで、あまり感情で動く人間に見えないのだ。


「たったひとりの家族でね。俺は親代わりみたいなものだったから……死んだときはショックが大きかったな」


ラスティはやはり表情もなく、唇だけを動かしている。
淡々とした口調はそれでも壮絶な過去に違いはなかった。


「あのときほど人間が脆いと感じたことはない。大切なものを失えば自分だって終るんだ。比喩的表現ではなく、俺は呼吸ができなくなった。戦場のど真ん中で弟の死体を抱えて、ただ呆然と泣いていた」
「……………………」
「そしたら、いきなり胸倉を捕まれてさ」
「……え」


突然話が飛んだ気がしてアレンは伏せていた目を見開いた。
ラスティを見るやと、彼は自分の頬を軽く撫でてみせる。


「横っ面を思い切り張り飛ばされたよ。“お前医者だろう、何を座り込んでいるんだ!立て!走れ!這いずってでもいい、怪我人を助けろ!それが医者の仕事だお前の役目だ!!”って」
「…………………」
「もう言うまでもないと思うけど。そう怒鳴り散らした人がグローリアさんでね」
「はぁ……。言われるまでもなく、わかりました」


アレンはゆるく瞬く。
グローリアの人物像は、そろそろ予想できるくらいには掴めてきている。


「俺は大切な弟を亡くして絶望のどん底にいたんだよ?その死体を抱えてボロッボロに泣いていたんだよ?そんな相手を引きずり出して、今すぐ働けというんだ。ひどい話だろう」
「それは……」


ひどい話ですね、と同意を示そうとしてアレンは首肯した。
ラスティも首を上下に振る。


「うん。惚れたね」
「はい。惚れますよね……ってえ?惚れ……?」


ん?今なんか変な単語が聞こえたような?
アレンがそう思ってラスティを見れば、彼は当たり前のように繰り返した。


「まさしく恋に突き堕とされたね」


そんなこと一本調子で言われても。
アレンは絶句して思う。
息を吸おうと口を開けば、妙に狼狽した自分の声が漏れてきた。


「え?は?なに?こい?恋ですか?」
「恋だね。そのときから俺はグローリアさんにベタ惚れだ」
「ええ?なんで?どういう展開?一目惚れですか?」
「いや。物凄い衝撃を受けたのは事実だけど。重要なのは見た目より中身だったな」
「ええええええ?ちょ、よくわからないんですけど……」


アレンは混乱して頭を抱えた。
どうして胸倉を捕まれて頬を殴られて、それでその相手を好きになる?
しかも弟を失ったショックで愕然としている者に、働けと強要してくるような人間を?
断然意味がわからない。
けれどやはりラスティは当然みたいに言う。


「だって俺ホントに気が狂いそうだったもん。弟が死んだのなら生きている意味もない。真剣にそう考えて、自殺でも何でもしていたかもしれない」
「…………………」
「でもあの人が立てと言った。走れと命じた。這いずってでもいいんだ、誰かを助けてやれと……。わかるかな?死にたいと願うことしかできない俺に、そこにいるだけの意味を与えてくれたんだよ」
「…………………」
「弟は俺の腕の中で死んでいった。助けられなかった。兄なのに、親代わりなのに、……医者なのに。助けてやれなかったんだ。その無力感は俺を殺すのに充分だったよ」


ラスティは口を動かしながら、もう一度自分の頬を撫でた。


「そんな俺をグローリアさんは別の意味で殺した。絶望している暇があるなら一人でもいい、誰かを治療しろって。無理だ、弟を助けられなかった俺に、そんなことが出来るはずもない。そう返したらあの人……」


“あの人”、とラスティはグローリアを呼ぶけれど、そこに込められた感情はアレンにも感じ取れた。
無表情は相変わらずなのに、何故だろう。
理由はわからなかった。


「あの人、もう一発俺を殴り飛ばしたんだ。“腰抜けめ、だったらせいぜいそこに座り込んでいろ。そして死ね”ってね。……一応言っておくけど、一字一句間違ってないからね」


よくそこまで言えたものだとアレンも思わなくはない。
けれど非難する気には到底なれなかった。
その気持ちは続きを聞けばさらに強くなった。


「“お前が生きるなら助かる者もいる。けれど死ぬのならそれは無駄死にだ。救えるはずの多くの命を道連れにして、死んでゆけ”」


ラスティは何の感情も込めずにグローリアの言葉をなぞる。
彼の目には今も、銀髪を振り乱して激昂する女性の姿が、見えているのだろうか。


「“その哀れな弟と同じく尊い命を殺して、お前は死んでゆけ!”……うーん、本当に一字一句間違わずに覚えてるなぁ」


自分で自分に呆れたような声を出して、ラスティは肩をすくめた。
頬杖をついたままアレンを見つめる。


「……医者っていうのはね、生きなくちゃいけないんだ。患者を救うために、存在し続けなければならない。命を尊ぶのならなおさらね」


技術がある。能力を持っている。
そして、まだ生存している。
ならば救える可能性を放り出して、勝手に死ぬことなど許されない。
その考え方はに通じるところがあった。
アレンは切ない想いでラスティを見つめ返した。


「俺は絶望のあまり医者としての役割を放棄しようとした。とても無責任に、多くの命を投げ出そうとしたんだ。……そんなことグローリアさんが許してくれるはずもない」
「……同じ、医術を志すものとして?」
「そう。目が覚めるというか……我に返るというか……現実的に言うと、背中を蹴り飛ばされて、俺は走り出した。泣きながら戦場を駆けずり回った。たくさんの人が死んだよ。でも助けられた命も確かにあったんだ」
「…………………」
「それは、あそこで諦めていれば、決して救えないものだった」


そこでラスティは少し息をついた。
頬杖をついているのに体勢を傾けるから掌に圧迫されて顔が歪む。
それはまるで自嘲するような表情に見えた。


「全部終ったあと、ボロボロの俺のところに、もっとボロボロになったグローリアさんがやってきた。弟は自分が葬っておくからもう休めってさ。後にも先にも彼女が“よくやった”なんて言ってくれたのはあのときだけだ」


続ける声にも嘲りの色が滲んだ。


「そこで、ぶつり。意識が途切れて。次に起きたら俺は、こんなになってた」
「……こんな?」
「何て言うのかな……気持ちが表に出ない。嬉しくても悲しくても、無表情のまんま」
「あ……」


アレンはちょっと絶句する。
まさか、彼の乏しい感情表現にこんな過去が隠されていたなんて。
わずかに肩を揺らすけれど、ラスティの口調に変化はなかった。
いつも通り、平坦な声で。


「激しい哀しみに支配されて、そのまま我を忘れて駆けずり回って。長時間無茶をしすぎた。……弟と一緒に、感情の一部が死んだんだと思う」
「…………………」
「ちなみにこれ、君も知らないこと」
「……何で、僕に話してくれるんです?」
「それはまた後で」


アレンの疑問を流して、ラスティは足を組みかえた。


「俺がこんなになってしまって、グローリアさんも思うところがあったのかな。教団に来いと誘ってくれた。そこまで面倒看てくれなくてもよかったんだけどね」
「それで、ラスティさんは入団したんですか」
「そう。グローリアさんに遠慮する反面、その申し出がありがたかったのも事実だよ。だって彼女の傍にいられる」
「………………」
「今ちょっと不純だと思っただろう」
「い、いえ。別に」
「まぁ俺は否定しないけど」


ずばりと聞かれてアレンは焦ったが、ラスティは平然としていた。
特に恥じ入るものはないようだ。
というか、彼は基本的に取り乱したりしない性格だった。


「グローリアさんが好きだったから、それが嬉しかったのも事実だよ。けれど何よりも俺はあの人を尊敬していたからね。医術を志す者として、そして人間として、生きる道を示してくれた人だ。単純に傍で働きたいと思った」
「あ……だからグローリアさんはラスティさんの師匠ってわけですか」


納得してアレンは言う。
技術云々ではなくて、つまり生き方としての師ということだ。
ラスティの人生に決定的な影響を与えた人物、それがグローリアなのだ。


「うん。で、働いてみたんだけど。ひどいところだよね教団ここって」


これまたいつもの調子で言われたからアレンはどうしようかと思った。
止めたほうがいいのだろうか。
なにせ自分達は一応団員で、所属する団体を非難するということは憚られる。


「ラ、ラスティさん……」
「殴るわ蹴るわ、乱暴しようとするわ、実験に使う薬だってほとんど毒だ。後遺症が残らないように俺がどれだけ苦労したか」
「……………………」


控えめな制止の声もそこで失った。
それはラスティが語っているのがのことであると、考えるより先にわかってしまったからだ。
アレンは顔を強張らせたけれど、ラスティは普通に続ける。


「そういう俺も、あの子がグローリアさんの弟子じゃなかったらここまではしてあげなかったと思うけど」


感情論だ。何とも言えない。
アレンは続くラスティの話に耳を傾ける。


君は初対面から血まみれでね。グローリアさんが大怪我を負った彼女を抱えて“治療に手を貸せ”と言ってきたんだ」
「ああ、アクマとの戦闘で……」
「いや、修行の一環で 。グローリアさんがちょっとやりすぎたらしい」
「…………………」


ええーそれはどうだろう、とアレンは思う。
冷や汗が滲むから軽く頬を擦った。


「鍛錬と称してグローリアさんがをボコボコにしてたっていう、アレですか……」
「そうそれ。一般人の俺には理解できないくらいの激しさでさぁ。事実君は何度も死にかけてたしね」
「…………………」
「他に協力してくれる医者が、教団にはいなかったから。あの人は俺を頼ってきた。それからはアレン君が言ったように、任務で負った傷の治療にも手を貸すようになったよ」
「そう、だったんですか」


随分前にとラスティが8年越しの腐れ縁だと言っていたのを思い出す。
確かが入団したのも8年前だ。
ラスティはそれ以前から教団にいて、彼女の面倒を看てやっていたようだ。
……ん?けれど主治医になったのは5年前だと言っていなかったっけ?
アレンはそう思い至って疑問に口を開こうとしたが、それより早くラスティが応えてくれた。


「けれど状況が変わってね。グローリアさんが、死んでしまったから」


…………そう、だった。
それが今から5年前の話だ。


「あの人は君を守る盾であったと同時に、唯一の癒し手だった。それが失われてしまったんだ。相変わらず彼女の治療を渋る医者ばかりで、このままでは危険だと俺は感じたね」
「いざというときにを助けてくれるお医者さんがいない……ということですか」
「その通り。だから俺は、リスクを承知で彼女の主治医になることを決めたんだよ」


考えるよりも肌で感じて、アレンはぞっとした。
だったら今まで、本当に、ラスティがいなければはどんなにひどい怪我を負っても見捨てられていたかもしれないということか。


「そんな……」
「欺瞞でも自惚れでもなく言うよ。俺がいなければ彼女はとっくに死んでいた。これからだって、その可能性が高い」
「……………………」
「俺がいなければ、だよ。もう大丈夫。解決してる」


目に見えて青ざめてしまったのだろうか、ラスティがゆっくり繰り返した。
ついでのようにアレンの頭を撫でてくる。


「……あの子は、グローリアさんが残していったものだから。俺が守らなければと思った」


それこそがラスティの戦いなのだ。
彼はエクソシストではないからアクマを破壊することはできない。
戦場でを守ることは不可能だ。
けれど、言うならば治療室が彼の戦場であり、治療具が武器だった。
他の誰にも出来ない方法で、ラスティはを守ってきたのだ。
5年間も、ずっと。


(だったら僕は?)


自分には何が出来る?


「アクマより先に教団に殺される……なんて、もう冗談にしてしまいたいんだよ」
「ラスティさんは、が大切なんですね」


本当に大切にしてあげられている。
アレンは切なくも羨ましく思って、そう言った。
するとラスティはちょっとだけ眉をひそめてみせた。何だかすごく嫌そうな雰囲気である。


「……俺に、ロリコン趣味はないからね」
「そんなこと聞いてませんよ!」
「今でもグローリアさん一筋だから。生前も片思いだったけど、これからもずっと想い続けるつもりだから」
「どれだけ一途なんですか!!」


どうでもいいことまで突っ込んで、アレンはうなだれた。
これだけ真摯にグローリアを想っていたラスティが報われなかったのは、恐らくクロス師匠のせいだから、ちょっとだけ申し訳なくも思う。
でも弟子が謝るのも変だ。
黙っているとラスティが言った。


「でも大切っていうのは正解。俺は君に感謝してるからね」
「……感謝?」
「これでもマシになった方なんだ、俺の無表情。それが彼女のおかげってこと」
「ああ……」


即座に理解してアレンは少し微笑んだ。
確かにといると自然と表情が動いてしまう。
怒ったり笑ったり、ハラハラドキドキして忙しいことこの上ない。
それが少なからずラスティの心の薬となったのだろう。


「弟のこととか、グローリアさんのこととか。君も知らないって言ったけれど」


ようやく先のアレンの疑問にラスティは答えてくれるつもりらしい。
双眸を小さく瞬かせた。
これは、照れているのかもしれない。


「どちらかというと、彼女だけには言えないことだ。俺でも気恥ずかしいと思うから」
「そうですね。まさかそんな、君のおかげだなんて」
「アレン君は言ってあげるべきだけどね」


唐突に話を切り返されたので、アレンはゆっくりとまばたいた。
ちょっと意味がわからなくて固まる。
ラスティは唇を結びなおした。
これが無表情の彼の、笑顔である。
と過ごすたびに取り戻した、“今”の彼の微笑みだ。


「入団したばかりの笑顔は、ニセモノだったんだろう」
「……………………」
「ああ、表現が悪いね。本心から笑ってなかっただろう、って言いたいんだ。相手に合わせた社交辞令の笑顔」
「……………………」
「君みたいな子供が浮かべるには不自然なものだ。けれどそれと気付かないほど、あの微笑は完璧だった」


何を言われているのか頭がついていかない。
ただただラスティを眺める。
緩んだ唇が語りかけてくる。


「でも、俺にだってわかるくらい、最近の君の笑顔は違うよ。入団当初と全然違う。別ものだ」
「……なに、が」
「“今”の君は何の気構えもなく、本当に笑いたくて、笑ってる」
「………僕が?」
「気付いているくせに」


無意識にとぼけようとしたのに、ラスティに一蹴される。
表情ではなく薄茶色の瞳で微笑みかけてきた。


「それ、君のおかげだろう」


図星を突かれるというのはどんなときでも居心地の悪いものだった。
アレンは咄嗟に否定しようとして、けれど素直な熱が頬にあがってくるのを感じる。
これは何を言っても空々しいなと思って顔を膝に押し付けた。


「……っ、そんなの、ラスティさんだって同じじゃないですか」
「うん、お揃いだ」
「だってあの人が吃驚するようなことばかりするから」
「そうだね、いつだってドギマギさせられる。良くも悪くも心を動かされて」
「その通りです」
「おかげで俺は、まだ自分の感情が生きてるんだって信じられたよ。……弟と一緒に居た頃の気持ちとか」
「………………………」
「幸せとか、……笑顔とか。全部が壊れてしまったんじゃないってわかった。彼女が、教えてくれた」


ラスティの手はアレンの頭に置かれたままだった。
指先が滑って髪を弄ぶ。
吐息の音が聞こえた。


「俺は弟を愛していた。グローリアさんを慕っていた。そして君が好きだよ。今度こそ、失くさずに守ってあげたい」


大切な人を、この手で。
それはきっと誰もが願うことだ。
この世に生きる全ての者が望む、単純で簡単で、とても難しいこと。


「医者としても、人間としてもね」


最後にそう言ってラスティはアレンの頭をぽんっとした。
それから手を伸ばして脇に置いていたカルテを取る。


「ま、そんなわけで俺は言わないけれど。アレン君はあの子に言ってあげなよ。素直に笑えるようになった理由」
「……話が繋がってません。何でラスティさんは言わなくて僕だけ」
「関係が違うだろう。俺と君は、医者と患者。でも君は」
「仲間という点では同じでしょう」


アレンはいまだに赤い頬を隠しながら、横目でラスティを睨んだ。
けれど見えた顔の様子から、自分が見当はずれなことを言ってしまったことを悟る。
だって瞬きの回数が増えた。
ラスティはしばらく沈黙した後、独り言のように呟いた。


「…………………………あれ。意外と鈍感?というか、自覚ないの?」
「はい?何のことです」
「君、君のことが……」


そこで言葉が止まる。
反射で応えようとしたらしいラスティは、やっぱり止めて口をつむぐことにしたらしい。
片手を軽く振って誤魔化した。


「あぁ、いいや。この手の話題は俺のキャラじゃないから」
「?」
「気にしないで」


そして改めてラスティはアレンを見つめた。


「ところでアレン君」
「はい、何ですか」


相変わらずだるそうなラスティながらも、これは何かあるなと悟ってアレンはベッドの上で姿勢を正した。
ラスティは手にしたカルテで自分の肩をとんとんと叩く。


「何で自分にこんな話をするのか、って訊いたよね」
「はい」


アレンは迷わず頷いた。
には言えないことだというのは理解できたが、過去の事……しかもラスティという人物の根幹に関わる話を自分にしてくれたというのはどうにも不思議だ。
思い出を暴露してくれるほどの理由がわからない。
そうして与えられたラスティの答えはこうだった。


「頼み事があるからなんだ」
「え?僕にですか?」
「そう。俺にはどう頑張ってもできないことだからね」


ラスティにできなくて、自分に出来ること。
何だろう?考えられる自分の特技といえば……。
アクマ退治。個人的に頼まれることではない。
愛想笑い。請われてするものでもないだろう。
大食い。これはまったく利点皆無。
…………駄目だ、ちっとも思いつかない。
アレンは予想を巡らせるのを放棄し、手っ取り早く本人に尋ねた。


「何ですか?」
「君ならと思ったんだ。君に対する俺の気持ち云々を話せば、絶対に協力してくれるって」
「ええ?本当に何……」
「“医者”のタブーだよ」


つまり、と言いつつラスティは立てた親指をアレンに突き出してきた。
グッジョブを期待する、の意か?
そう首をひねったアレンに医療班班長は告げた。


「怪我人をボッコボコにぶん殴ってきてくれ」


同時に手が上下反転、立てられた親指は床へと向けられた。
あぁ、何だ。地獄に堕としてこいの意か。
そう理解した途端、アレンは間抜けな声をあげていた。


「えええええええええっ?」




















「いい加減にしてください!」


鍛錬場には馴染みのない声が響き渡る。
同時には組み合った『六幻』を思い切り弾き返した。
反動で神田は黒髪をなびかせながら大きく後退する。
チッと聞こえるほどの舌打ちをされたが、むしろのほうがそんな気分だった。
不満気に右手でくうを切る。


「神田、手加減しすぎ」
「当たり前でしょう。そうでなければ許しませんよ」


けんけん言うのは先刻と同じ声で、視線をやれば見えたのはやはり鍛錬場に不似合いのかっちりとした制服。
ハワード・リンクがその裾を揺らして足早に近づいてきた。


「神田ユウですらキミの状態がわかっているというのに。どうしてそう聞きわけないのですか」
「俺ですらって何だよ」


神田は不機嫌に突っ込んだがリンクは普通に無視した。
腰に手を当てて金髪の少女を睨みつける。


「隔離フロアから出られたからといっても、退院ではないと言ったはずです。さぁ、部屋に戻りましょう」
「鍛錬中よ、リンク」
「今すぐ止めなさい。キミはまだ安静にしているべきなんです」
「あまり近づかないで。イノセンスの気に当てられてしまう」
「……発動を解くんだ。エクソシストではない私でも分かる。それは、危険だ」


片手を挙げてそれ以上の接近を阻むに、リンクは声の調子を落とした。
睥睨するのはその金の瞳ばかりだが、実質注意を払っているのは彼女の右腕だった。
そこに纏うのは、第2開放をして籠手の形状に転換したイノセンス。
手の甲に輝く黒玉から突出した大型の刃。
刃葬じんそう』と呼ばれる手刀である。
放出される気は凄まじく、わざわざ言われなくても接近は困難だ。
あまりに近づけば刹那のうちに破壊されてしまいそうな、そんな正体不明の恐怖が存在していた。
もそれを承知なのだろう、先刻から右手を押さえ込むような仕草をしていて、発動の抑制を試みているのが見て取れた。


「禁術、なのだろう。それは」


ぼそりと呟く。
リンクとしては、そんな危険なものをまだ全快していない体で扱うのは許しがたい。
さらに言えば、『刃葬じんそう』を装備させた右腕はまだ完治していないのだ。


「私もティムキャンピーに記録されていた映像を見ました。さすがに今はイノセンスと神経を強制的に繋ぐなどという、破滅的に馬鹿な真似はしていないようですが……」
「手厳しいなぁ。相変わらずの辛口評価だね、リンク」
「それでも体への負担が大きすぎる。封印を施していたグローリア・フェンネスとクロス・マリアンの意思に従いなさい。その術は、使ってはいけない」
「……中央庁に知られたことでしょう。今更」
「…………………」
「使わない、なんて言えないし、言わないつもりよ」


そう、術の存在を知られた以上、中央庁がそれを利用しないはずがなかった。
今後は『刃葬じんそう』の使用を強制されるだろう。
戦争に勝利することを一番に考える彼らが、こんなに素晴らしい武器をみすみす放置するはずがなかった。
そして本人も、能力がありながらそれを眠らせておくことなどできないと思っている。
彼女は、生粋の戦士なのだから。
思わず顔をしかめたリンクに、は明るく笑ってみせた。


「大丈夫だいじょうぶ。検査してもらった結果、使用しても命に別状はないって言われたし」
「命には、だ。どれだけ精神と魂が削られるか分かったものじゃない」
「そうそう。オレも今回ばかりはホクロふたつに賛成さ」


背後から声を投げられては振り返る。
鍛錬場の隅だ。
床にへばっているのは赤毛の青年で、翡翠の隻眼が見上げてくる。
ラビはを力いっぱい睨みつけた。


「ソレ、すごく嫌な感じがする……。荒々しいっつーか、禍々しいっつーか。オマエの制御下になければ何もかも全部破壊しちまいそうさ」
「同感だな」


今度は向かいからだ。
視線を投げれば『六幻』を肩にかけた神田がため息をついた。


「封印を施したのが“あの”二人だというのも気になる。元帥クラスが危険視していたものとなると、威力だけでなく反動も桁違いのはずだ」
「だったらなおのこと、鍛錬を通して制御に慣れておかないと」


は真剣に危惧する二人に軽い調子で返した。
けれどそれは口ぶりだけで、本心は違うのだと何となく悟る。
付き合いが長いとそれも簡単だった。


「……万が一にでも暴走したら洒落にならないでしょ」


わざと付け足すように言って、はバッと仁王立ちになった。
刃葬じんそう』を振るって構えを取る。
そして神田に高らかに告げた。


「さぁ、勝負の続き続き!」
!!」


怒ったリンクの声が響く。
ラビのブーイングがそれに重なった。


「オマエどれだけやれば気がすむんさー。オレを叩きのめして、デイシャ、マリ、カザード、チャーカー、グエン、ソルにその他多数。その全員をKOしちまってさ」


ラビが半眼でそうぼやくのも仕方がなかった。
なにせはここ数時間で大人数のエクソシストに勝負を頼み込み、その全てに勝利するという快挙(暴挙?)に出ていたからだ。
イノセンス同士の戦闘とはいえ、圧倒的破壊力を誇る『刃葬じんそう』の相手は荷が重かったのか、次々とダウンしては「もうお前の相手は嫌だ」と逃げられてしまったのである。
ちなみに半数は泣きながら、半数は疲弊しきっての逃走だった。
ラビはというと両方で、半泣きでもう疲れた勘弁してくれと頼み込んだのだ。
そのまま床にへばってまた数時間。
いい加減、無茶が過ぎるぜマイベストフレンド。


「教団内のエクソシストを全滅させる気かっての」
「まさか。科学班の助手で忙しいリナリーと、補助系イノセンスのミランダ、ブックマンのじーさんには頼まないつもりよ」
「相変わらず女とジジイには優しいさな」
「あと寄生型もね」
「え。何で」
「危ないから。私のこれ、骨や細胞まで破壊しちゃうのよ」
「………………」
「イノセンスなら修復可能だと思うけど。やっぱり痛いでしょ。怪我させるわけにはいかないからね」
「あー……だからスーマンやクロちゃんには頼まんかったんか」
「そういうこと」


なるほどな、と思ってラビは頷く。
顔を上下に振ったら後頭部が痛んだ。
にフルボッコにされた名残だ。ちょっと泣きたい感じがする。


「ま、結局オマエの相手してくれんのはユウだけになっちまったけどな……」


ため息と共に呟いて後ろの壁にもたれかかる。
即座に神田本人から不満の声が聞こえてきた。


「俺だってもう付き合いきれねぇよ」


そういう彼の顔には微量ながら疲労の色が浮かんでいた。
禁術と闘り合ってこの程度なのだから、さすがといえばさすがなのだが。
神田は視線で『刃葬じんそう』を指し、忌々しげに言った。


「それはイノセンスの気が強すぎる。組み合ってると異様に疲れるんだよ」
「ユウにも強化系の『三幻式』があるじゃん。使えば?」
「そう簡単に命削ってたまるか」
「ん?今なんて言ったんさ?」
「別に」


低く呟いた言葉はラビには聞こえなかったようなので、神田はそのまま流した。
事情を知っているは「それはしなくていい」と身振りだけで伝えてくる。
そして口ではこう依頼してきた。


「でも本気は出してくれない?神田ってば、さっきから防御と回避ばっかりで全然打ち込んでこないんだもの」
「……………………」
「おーい。何だからしくないぞー」
「だから、それは当たり前です」


むくれるよりも不機嫌な顔をした神田だったが、答えたのは彼ではなくリンクだった。
怒りは納まることがないようで、いまだにぷんすかしている。


「鍛錬を開始して何時間経っていると思っているんです。キミは自分が怪我人だということを忘れているんじゃないんですか」


リンクは今度こそ腹をくくったようで、イノセンスの気にも負けずに前進してきた。
あまりに強いそれに顔を歪めたが、足は止めない。
片手で神田を示しながら言う。


「彼はキミの体の具合を見抜いているんです。攻撃をしかけてこないのはそのためでしょう」
「違う」


神田は即座に否定したがリンクは無視した。
しかし事実として手を抜いているつもりはなかった。


「ただ単に、『刃葬じんそう』とやらの正体が掴み切れねぇからだ」


わけもわからず突っ込むほど馬鹿ではないし、本能的にそれは危険だと察知している。
しかしいつもより見極めに時間がかかってしまっているから、には手加減しているとふくれられ、リンクには不愉快な勘違いをされてしまったというわけだ。


「別にバカ女なんて気遣ってねぇよ。こいつが無茶苦茶やるのは今にはじまったことじゃないからな」


リンクは思わず足を止めて神田をまじまじと見た。
それからに視線をやったが、特に反応はない。
これが普通だといわんばかりのノーリアクションだ。
ラビが苦笑して背後から声を投げてきた。


「無理するのはの癖みたいなもんさ。オレ達はもう諦めてる」
「……それは、見放しているという意味ですか」
「いんや?ただ、最後まで付き合ってやるって決めてるだけ」
「…………………」


リンクにはそのニュアンスの違いがよくわからない。
ラビと神田のに対する気持ちはどうにも量りきれないし、彼らの間ですら差があるように感じる。
どちらも自分の中で勝手に“”との関係を確立しているような。
友情?親愛?それとも……。
何であれやはり思うところがあったから、リンクは半眼で言った。


「……彼女は怪我人で、女性ですよ」


もう少しいろいろ気にしてやるべきではないのか。
言外にそう非難するけれど、二人の反応は期待外れもいいところだった。


「なぁ、まだ完治してないってのによくやるさー」
「こんな奴、女じゃねぇよ」


一方は困り顔で笑い、もう一方は嫌そうに吐き捨てた。
口では心配したり文句を並べたりしているが、つまりはを止める気はないということである。
リンクは呆れ返って肩を落とし、次にそれを持ち上げると、勢いよく振り返る。
音がでそうなほどきつく睨みつけてやれば、は吃驚してちょっと跳び下がった。
リンクは構わず低く唸るようにして言う。


「……………………キミはどうあっても部屋に戻るつもりはないんですね」
「う、うん。だってまだ動けるし」
「どういう判断基準ですか」
「先生の言いつけよ。鍛錬は足腰が立たなくなるまでするものだって」
「グローリア・フェンネス……。余計な教えを……!」


軽く唇を噛んで、リンクはに指先を突きつけた。


「わかりました。そこまで言うのなら私にも考えがあります」
「え、リンクが鴉の術で相手してくれるの?」
「何でそうなる!」
「だって、あなたならイノセンス相手でも大丈夫でしょ。知ってるし、信用してる」
「……、違う」
「あぁ、うん。さすがに禁術はマズイかな。じゃあ何?」
「今すぐラスティ・デフォンを呼んできます!!」


大声でそう宣言したリンクに、は瞳を真ん丸に見開いた。
ラビと神田は一足先に理解したようで、何となく目を逸らして「あぁ……」と呟く。
妙案だがいただけない、といった雰囲気だ。
リンクはを見下ろして早口にまくしたてた。


「怪我人は怪我人らしく寝ているべきだと、医者であるあの人に言ってもらいます」
「ちょ、ラスティ班長にドクターストップを要請する気……!?」
「キミなど、せいぜい苦い薬と痛い注射で治療されればいい」
「ダメよリンク!そういう育て方をするとますます意固地になって、もう二度と病院になんて行かないー!!っていう手のつけられない子供になっちゃうんだからっ」
「知りません。私はキミの母ではないので知りません」
「私のトラウマを増やす気!?幼少の思い出は心の闇になりやすいんだよ……!?」
「自業自得です。あと私を怒らせたので今日はおやつ抜きです」
「そんなの酷いよママン!!」
「食後のコーヒーだってブラックで出してやります」
「スミマセンごめんなさい、午前中に作ってた美味しそうなスコーンください付け合わせはジャムを6種類とクロデットクリームがいいです、そしてコーヒーはお砂糖とミルクたっぷりでお願いしますふわふわのクリームもいいね、とにかくおやつ抜きとブッラクコーヒーだけはやめてぇぇええ!!」


は本気で泣きながらリンクに訴えかけ、あまつさえは縋りつきそうな勢いだった。
けれどイノセンスを発動させているので飛びつくことが出来ない。
それをいいことにリンクは素早く身を翻すと唇の端を吊り上げて笑った。


「そこで大人しく待っているんだな!!」


そう言い残して彼は鍛錬場から駆け出していった。
それも蜂蜜色の三つ編みが水平になるほどの全速力だ。
今まで見たことがないほど楽しそうなその様子は、ラビと神田は一瞬「あれが本当にあの真面目で仕事バカの監査官、ハワード・リンクだろうか」と我が目を疑ってしまうほどだった。
は引き止めようとした手をそのままに、微妙に青くなって呟く。


「リ、リンクのやつ……私がラスティ班長には逆らえないのを知ってて……!」
「あいつはあれでも医者だからな」
「さすがにドクターストップは撥ね付けらんねぇさぁ」


確かに有用性のある案だとばかりに神田とラビも言った。
けれどやっぱりそこには呆れの色が滲んでいて、リンクの強硬策に揃ってため息をつく。
どうやら彼は全力でを止めてやる気らしい。
それでもようやく監禁生活から開放されたにとっては、この鍛錬はやっと巡ってきた絶好の機会なのだ。
早く『刃葬じんそう』に慣れておくに越したことはない。
そして誰にも打ち明けていないことだが……封印を破ってしまったイノセンスはあまりに強力で、長く制御するには随分と骨を折ることがわかっていたからだ。
これを長時間、自由自在に操れるようにならなければ、戦場では役に立たない。
いちいちリバウンドを起こしていては簡単に命を落としてしまうだろう。


(破壊力に特化しすぎなのよ、私のイノセンスは)


この8年間、何度も思ったことを繰り返す。
原因は自分の好戦的な性格ゆえだろうか、それとも……。
はそこで考えを打ち切り、軽く首を振った。
表情をいつものものに戻すと神田を振り返る。


「こうなったらリンクが帰ってくるまでにもう一戦!お願い、神田」


「その相手は僕がしますよ」


そこで声が割って入った。
あまりに突然だったのでその場にいた者は揃って目を見張る。
とりわけは驚いた。
何故なら、いつの間にか近づいてきたのだろうその人物に、ぐいっと右手を掴まれたからだ。


「……っつ」


は咄嗟にイノセンスの発動を解いた。
バチィッと黒の閃光が弾けて痛いほど握ってくる相手の手を振り払う。
そのまま跳び下がれば、向かい合った彼との間に白銀のロザリオが転がり落ちた。


「な、に、するの」


は驚きのあまり切れ切れに問いかける。
視線は素早く相手の手に走らせていた。
素手である右だろうがイノセンスの宿った左だろうが、『刃葬じんそう』に直に触れて無事だとは思えない。
幸いなことにの反応が早かったようで、刃が皮膚や細胞、骨を溶かして破壊する前に突き放すことができたようだ。
わずかに爛れた程度の掌を見て、ホッと息をついた。
その間にラビが彼に声をかけている。


「アレンじゃん。オマエも、もう退院か?」


すると少年はにこりともせずに返した。


「僕“も”ではなく、僕“は”です。そこにいる馬鹿はまだ療養中のはずでしょう」


ラスティにそうハッキリ言われたわけではないのにアレンは決め付けた。
そんなことより彼が怪我をしなかったことに安心したは、今になって腹が立ってきて怒った口調で言う。


「いきなり何てことするのよ、アレン。『刃葬じんそう』に触れればどうなるかわかっているはずよ。どれだけ危険なものか、その目で見たでしょう」
「へぇ……。“危険”だっていうのはわかってるんですね」


アレンはに応えず小さく呟いた。
それは独り言のようだったけれど、何だか揶揄するような響きがある。
少し、様子がおかしい?
は眉をひそめてアレンを見つめた。
すると彼は冷ややかにこちらを一瞥し、自分の左手を握る。


「鍛錬、するんでしょう?僕が相手になりますよ」
「……ありがたいけど」


はますます不審を強くして、首を振った。


「寄生型は……」


傷つけてしまうから、と断ろうとして、それより先にアレンに言われる。


「僕となら、怪我のリハビリだってことでリンクもラスティさんも見逃してくれるかもしれませんよ」


は一瞬それが素晴らしいことのように聞こえたけれど、結局さっきよりも強く首を振った。
やはり第一前提として寄生型は遠慮したい。
それでもアレンは食い下がる。
無感情なのに強い口調だった。


「何だったらイノセンスなしでも構いません」


それじゃあ意味ないんだけど、と思ったが口には出さない。
それに、断る理由はそれだけではなかった。
アレンの左眼、ティキに潰された眼球は、まだ回復し切っていないのだ。
根本から破壊されてしまったので、再生には随分時間がかかるとの診断だった。
ラビじゃあるまいし、片目に慣れていない彼と闘り合う気は毛頭ない。
は包帯の巻かれたアレンの左眼を見つめながら、もう一度断りの言葉を口にしようとした。
けれどそれはまたもや遮られる。


「まぁ、僕はどちらでもいいです。今の君になら素手でだって勝てるし」
「…………………」


はちょっと固まってしまった。
表情もなく当たり前のような調子で、そう吐き捨てられたからだ。
意味がわからない。
見守るラビと神田もひどく不審そうにしている。
アレンはどうしてこんなに淡々と突っかかってくるのだろう。


「……喧嘩を売ってるの?」


は半眼で首を傾けた。
アレンはまた冷たく言う。


「まさか」
「じゃあ機嫌が悪いのね」
「それは、そうでしょうね」


そこでようやくアレンは表情を動かした。
右目をすがめ、唇を吊り上げ、にっこりと微笑んだのだ。
はぞくりとした。
背中を氷の塊が滑っていったみたいだ。
肌が粟立ち、直感的に悟る。
もう考えるでもなくわかること。


それは、アレンのニセモノの笑顔だった。
が“気持ち悪い”と称して憚らなかった、例のあの表情である。


「僕は、馬鹿が嫌いなんですよ」


をひたと見据えたまま、微笑したアレンが囁く。
不自然なそれはある意味完璧に美しかった。


「だから君に腹を立てています」
「……………………」
「わかりやすく言うと、“ムカついたので殴らせろ”ってことですね」


そんな場合ではないけれど、は懐かしいなと考えた。
思い出すのは彼との初めての手合わせだ。
女性相手に乱暴なことはできないと渋るアレンを勝負に引きずり込むために、わざとが使った台詞。“ムカついたので殴らせろ”。
これを言われては逃げられる気がしないのが不思議だった。
じっと見つめてくる瞳はあの日から何も変わっていない。
否、変わってしまったのは……。


「……、わかった」


は頷いた。
どうせアレンからは逃れられない。
彼の瞳が、言葉が、雰囲気が、それを許してくれない。
確かな思いを悟れないほど、は鈍くはなかった。
だったら真正面から受け止めるだけだ。
承諾の意を示したのに、アレンは当然とばかりの顔をしていて特に何の言葉も返さなかった。
代わりに床に落ちたロザリオを拾い上げて、へと投げる。
それを片手で受け取って胸元へと戻した。


「イノセンスはなしよ」
「別にいいけど。僕に気を遣っているのなら余計なお世話ですよ」
「残念だけど、自分のためよ。怪我なんてさせたら私が婦長に怒られる」


はいつもの意地っ張りでそう返したが、アレンは鼻でせせら笑った。


「怪我をさせる?君が、僕に?冗談でしょう」
「…………やっぱり私は、鍛錬ではなく喧嘩の相手にならなくちゃいけないみたいね」
「怒ってくれて構いませんよ。ただし僕は、監禁から解放された足で鍛錬場に駆け込むような馬鹿に、謝罪する言葉なんて持ち合わせていませんけど」
「アレン」


そこでさすがにラビが咎めるように名前を呼んだ。
口論はいつものことだけれど、あまりに雰囲気が違っているのだ。
笑ってすませられない何かに警戒を抱く。


「よくわかんねぇけど、に当たんなよ」
「……正直、僕は君達にも腹を立てているんですよ」


そこでアレンは小さく囁いた。
水を向けられてラビは目を見張り、神田は眉をひそめる。
特に神田はどういうことかと問いただそうとアレンに向き直った。
場合によってはこの二人の間に争いが起こりそうだったが、その前に首を振られる。
アレンは白髪を揺らして言った。


「でも、それは僕が口出しすることじゃない。解決すべきは僕自身のことだ」
「何の話だ」
「それも、口を出されることじゃありません。下がっていてください神田」


やはり平坦な言葉をアレンが投げたから、神田は目に見えて苛立った。
向っていきそうになるところをが寸前で掴まえる。
言葉は発さない。視線だけで頼む。
瞳の訴えと手首を掴む力だけで、きっとこの戦友には伝わるはずだ。
案の定しばらく睨み合いになったが、結局はラビの隣まで身を引いてくれた。
盛大な舌打ちが聞こえてきたし、抜き身の『六幻』はそのままだから、何かあったら介入するつもりではあるのだろう。
それでも神田はその場をに譲ってくれたのだった。


「………………」


は神田に目礼をし、ラビにちらりと微笑んだ。
そしてアレンに向き直ったときには、全ての表情を消していた。


「始めましょう」


もう言葉を交わす必要もないだろう。
が開始を宣言すると、アレンは少し口元を緩めた。
陽の具合で影ができていたから、そう思えただけかもしれない。
それでもには、アレンがいつものように笑ったように見えたのだ。
ほんの少しだけ淋しさを混ぜて。


「君のそういうところが、僕は」


続きは聞こえなかった。
代わりにの耳に入ってきたのは空気を切る激しい音。


アレンの拳がのガードの上で炸裂した。










ラスティの暴露話でした〜。
彼はヒロインの主治医です。この人以外には基本的に治療してもらえません。
任務先などで医者に掛かった場合は、中央庁がカルテを押収し、国家権力にものを言わせて緘口を命じます。
それが面倒だなぁってことで、ヒロインは応急処置くらいは自分できるように教えられています。
ちなみにラスティは今でもグローリアのことが好きです。ぞっこんラブ(古い)です。
それが祟って延々とヒロインの面倒を看る羽目に陥っている可哀想な人……。
さらに生前のグローリアには相手にもされなかった設定なので、ますます可哀想ですね。^^

次回はアレンとヒロインが全力でボコり合います。
もう性別無視の本気勝負なので、ご注意を。(笑)