私は馬鹿で弱い人間だ。
だから逆境には立ち向かえても、優しくされたら負けてしまう。
心を砕かれて、立っていられなくなる。
縋ってしまう。
差し出された、その暖かい手に。


嗚呼、なんて駄作トラジコメディ。
貴方は私を笑ってくれる?






● 遺言はピエロ  EPISODE 3 ●






「……っつ」


重い一撃だった。
は左腕でアレンの拳を受け止め、間髪入れずに振り払う。
打撃は骨にまで響いてじんじんと痛んだ。


(本当に本気か……)


わかっていたことだけど、身をもって再認識する。
手加減などしないと知っていたし、実際されたら嫌なのだけど、考えずにはいられなかった。
アレンは全力でを負かしてやるつもりらしい。
左眼を失った状態で、しかも退院したばかりの怪我人なのに、随分と豪気なことだ。
まぁ自分も人のことは言えないのだが。


は再び襲ってきたアレンの拳を回避し、そのまま旋回動作で蹴りを繰り出す。
すると同じ勢いで脚をぶつけてこられた。
痛い。地味に痛い。
の方が細いし筋肉もないからダメージは大きいだろう。
アレンは何かを怒っていて、だからこそこの喧嘩じみた鍛錬に持ち込んだようなのに、やたらと冷静で怖いほどだった。


(何がしたいんだろう……)


文句があるなら口で言えばいい。
アレンはいつもそうしていたはずだ。
それなのに……。


(快楽のノアと戦って以来、どうにもよくわからない)


は少年の銀灰色の瞳を見つめながら、心の中で問いかけた。


(あなたは何を考えているの?アレン……)
「君は余計なことを考えすぎだ」


思いがけず返事のように言われては吃驚した。
アレンはやはり冷たい顔をしていて、苛立つように拳を叩きこんでくる。
風を切る速さで咄嗟にマズイと判断したは、両腕を交差して脚を床に突き立てた。
クロスガードの上に強い衝撃を感じる。
触れたアレンの左手が熱い。


「!?」


その瞬間、目の前が真っ暗になった。
咄嗟に何が起こったのかわからなくて、とにかく攻撃から遠ざかろうと後方跳躍する。
するとそのわずかな間に黒は晴れた。
すぅっと闇の中に滲み出るように、元の光景が戻ってきたのだ。


(なに……?)


けれど異常はそれだけでは終らなかった。
急に心臓が、がくんっとずれたような感覚に襲われたのである。
早鐘のように鳴り響く自分の鼓動。
体を巡る血の音が耳の奥でうるさい。
視界は真っ暗ではなくなっていたが、少しだけ明るさを失ったようだった。


(何なの、この感覚……)


思わず胸を押さえて上半身を折る。
けれどそんな体勢になっていても、有難いことに長年戦場に立ってきた体は反応してくれた。


「オイ!」


焦ったようなラビの声と同時に、アレンの脚に蹴り飛ばされる。
無意識に身を引いたから衝撃は少なかったし、きちんと受身も取れた。
床についた掌を弾いて側転し、すぐさま立ち上がる。
胸に置いた手はまだ外せなかったが。


「ちょっと待ったアレン!何だかの様子が変さ……!」


ラビが慌てた様子でこちらに近づいてこようとする。
アレンはそれを一瞥して、無感情な声で告げた。


「言ったはずですよ。口出ししないでくださいって」
「オマエな……っ」
「大丈夫よ、ラビ」


は大きく深呼吸をすると背筋を伸ばした。
目を合わせて微笑むと、ラビはぐっと言葉に詰まる。
少しの間黙り込んだあと、踵を返して元いた場所へと戻っていった。
背中をぶつけるように壁にもたれこんで不本意さをあらわにしてみせたが、それでもの意思を尊重してくれたのだ。
たった一言でこちらの気持ちを汲んでくれるなんて、本当に有難い親友である。
けれどアレンはそれを見て眉間に皺を刻んだ。
彼としても思い通りになっただろうに、何故かはよくわからなかった。


「大丈夫」


もう一度、今度は自分に向っては呟く。
とりあえずはこの現象の正体を見極めなければならない。
異変が起こったのはアレンと戦い出してからだ。
ならば、と思っては床を蹴った。


向っていけばアレンも同じだけの速さで飛び出してくる。
狙い通りなのでは最速までスピードをあげて、彼の背後を取った。
腰を使って脚を打ち放つ。
難なくかわされたけれど、それも読んでいたから床に着いたほうの足を跳ねさせた。
戻した方を軸にして、連続蹴りを繰り出す。
長い金髪が綺麗な弧を描いた。


「……、っ」


さすがのアレンもこれには対応できなかったようだ。
左腕を持ち上げて、腹に食い込もうとするの蹴りを受け止める。
そのとき、また変化が起こった。
今度は視力を奪われるほどではなかったが、世界が明滅して意識が揺らぐ。
全身の血管の中を、神経の隙間を、何かが蠢き這い回っている。


「ぁ、……」


くらり、と眩暈がした。
その隙にアレンに脚を打ち払われた。
するとたちまちに違和感は、消えた。


(まさか……)


そこでようやくは悟った。
身を退いて、自分の右腕を押さえる。


(これは、まずいなぁ)


感覚だけで何となく理解した。
先刻からの奇妙な現象は、アレンに触れた瞬間に起こっていたのだ。
否、正しくはアレンの左手……そのイノセンスと接触した瞬間、の体は異常を訴える。
ざわざわと騒ぎ立てて内側から外に出ようとする能力。


それは、漆黒の光。
先日のノアとの戦闘で『刃葬じんそう』と神経を接続する際に、自らの腕に突き立てた刃の群れ。
無理矢理に体の中に取り込んだイノセンスの一部だった。


(何てこと……発動を解いたら、能力だって体内からロザリオへと戻ってくれるものだと思っていたのに)


違ったのだ。
その考えは甘かった。
いったん体内に侵入させたイノセンスは、決して元には戻らない。
二度と外側へと出て行きはしなかったのだ。


つまり、あのとき取り込んだイノセンスの能力は、今もの体の中に残っている。


アレンのおかげでそれがわかった。
彼のイノセンスに触れた瞬間、体内に残留した自分のイノセンスが反応した。
外界にあるアレンの能力と惹かれ合うように、その存在を主張してきたのである。


これは結構ショックな事態だった。
イノセンスと外側から繋がることだって無茶だったのに、それが内側に残ってしまうなんて、どう対処すればいいのだろう。
これでは常にイノセンスに侵されていることになる。
同じことをしない限り濃度は増さないだろうけれど、それでも危惧するべき状況だった。
寄生型は産まれつき制御の仕方を知っている(ように見える)が、は装備型なのでまったく勝手がわからない。
そもそも先天的に宿っていたわけでもないのに、ずっと神の物質を内に入れていて大丈夫なのだろうか。
答えは簡単だ。考えるまでもない。
脆弱な人間の器では、イノセンスの力を支えきれない。
狭い肉体の中で魂とせめぎ合うことになる……。


(これは、本当にまずい……)


はどうしようもなくて少し笑った。
アレンが怪訝そうに見てくるけれど、答えてやれる余裕もない。
体内にイノセンスを取り込んだこと。
後悔はしていなかった。
その理由は今、自分の目の前に立っている。
アレンを守ることができたのだから、悔やむ理由などひとつもなかった。
けれど、これからのことを考えると頭が痛い。


(私はただの人間。その体の中に、イノセンスを留め続ければ……)


死ぬだろうなぁ、と思った。
導火線に火の点いた爆弾を抱え込んでいるのと同じだ。
凄まじい能力を得た、これが反作用。
内に留まったイノセンスが魂を磨耗し、消滅させたとき、自分の命は終るだろう。


(死ぬ、か)


それは容易く予想される結果で、だからこそ難なく受け入れる。
別に悲観するほどのことでもない。
戦士として生きる以上、戦いのために命を落とす覚悟はしていた。
しかし、まだ“死ねない”とも誓っていたから、頭痛が止まらない。
体が、命が、保つだろうか。この戦争を終らせるまで。


(“保つだろうか”……?)


そこでは自分の考えを嘲笑した。


(保たせればいいだけの話じゃない)


そうやってもう一人の自分が抱いた暗い不安を笑い飛ばす。
頭痛を振り捨てながら、右腕に指を這わせた。
ちらりと見てみるけれど、特に変化はない。
イノセンスにダイレクトに侵されていたときのような、奇妙な文様はどこにも浮かんでいなかった。


「大丈夫」


三度声に出してみる。
今度こそ確信が持てた。
それによくよく考えると好都合でもあった。


(イノセンスが内にある。……つまり、この状態のまま平気で戦えるようになれば、封印を解いた『刃葬じんそう』も難なく扱えるようになる!)


結局はどちらもイノセンスを……自分の能力を手なずけるということだ。
長時間戦闘が出来るようになりたいとしては願ってもないことだった。
だが、そこでふと気が付く。
それは小さな矛盾で確かな疑問だ。


(あれ……?でも、どうしてアレンのイノセンスにだけ反応するの?)


体内のイノセンスが別のイノセンスに触発されて、外に出ようと騒ぎ出すのは理解できる。
けれどは今の今まで神田やラビ、その他大勢のエクソシストと手合わせをしていたのだ。
他人のイノセンスに触れたのは、何もアレンのものが初めてではない。
それなのに、の中に在るイノセンスが反応したのは、彼の“左手”だけだったのだ。


(そんな……、まさかね)


喜んだのもつかの間、はやはり頭がひどく痛むのを感じた。


(まさか、まだアレンと私のイノセンスが共鳴している……なんてことはないよね?)


問いかけてみたいけれど、答えられる者がいるとは思えない。
そんなことをつらつら思考していたら、動かないに業を煮やしたアレンが距離を詰めてきた。


「だから、何をごちゃごちゃ考えているんです」


吐き捨てながら腕を振るう。
は驚いて回避しながら蹴りを入れるが、虚しく空ぶった。
アレンが身を低くして足払いをかけてくる。
跳んでかわしたけれど、間髪入れずに右足が襲ってきて弾き飛ばされた。


「……、っつ」


わずかに苦鳴を漏らした自分を叱咤して空中側転、体勢を立て直して着地をする。
それを走って追ってきたアレンが迎えた。
二人は何度も拳を打ち合わせる。
アレンの左手が触れるたびに体がおかしくなるから、は思うように反撃ができない。
痛みがあるわけではないし、苦しいのもすでになくなっていた。
けれど不利なことに違いなかった。
何故なら奇妙に視界が暗くなるのだ。
照明を抑えた夜の廊下のように、ぼんやりとしか見えなくなる。
そうかと思ったら色が反転して混乱させてくる。
そんな不明瞭な映像の中で、唯一はっきりと見えているものがあった。


(何、これ……?)


正体はわからない。
けれど線だ。
いや、帯かもしれない。
とにかく仄白く光る直線や曲線が、あらゆるところに浮かんでいるのである。
それは鍛錬場の床に、壁に、天井に、無尽蔵に走っていた。
当たり前のように、アレンの上にも。


「今日は随分と集中力がないんですね」


組み合った腕の向こうで、アレンは言った。
内容は皮肉のようだが口調がいつものそれと違う。
どうせそのままでいても力負けするので、は体重を抜いて後方に跳んだ。


「長い監禁生活で心身ともに萎えましたか」


が答える前に、アレンが言葉を継ぐ。


「……まぁ、あんな扱いをされれば当然ですけど」


そこで銀灰色の瞳に感情の光が揺れたのをは見た。
調子は言って捨てるようだし、声音も冷ややかなほどなのに、それだけでわかってしまう。
は肩の力を抜くようにして笑った。
実際にそんなことをしたら吹き飛ばされるので、必死にふんばってアレンの拳を受け止めながらだったが。


「中央庁が下した処遇に、怒ってくれているの?」
「…………………、当然じゃないですか」


アレンは少し黙ったが、結局頷いた。
それからちらりと視線を投げる。
壁際で観戦している神田とラビを横目で見やった。


「僕には彼らがわかりません。君が殴られたり閉じ込められたりするのには怒りの感情をみせるのに、中央庁……ひいては“教団”そのものに不満を感じてはいないようだ」
「それはそうよ」


はアレンの攻撃を捌きながら応えた。
視界はチカチカするが、必死に慣れようと試みながら続ける。


「これが集団の在り方で、上層部は当然の対応をしているだけだもの」
「……何だって?」
「感情に流されて規約を歪めてしまえば、統制が失われる。国民には法律を。教団には軍規を。誰もがそれに従わなければならない」
「じゃあ君は、自分がああやって罰せられるべきであったと?」
「そうね。連絡を怠った私が悪い。“私”の落ち度よ」
「……、好きで監視下から外れていたわけではないだろう」
「大切なのは事実よ。理由も原因も要らないの。上の人達にとって重要なのは、結果だけ」
「だから君は暴力も非難も抵抗することなく受け入れるんですか」
「…………感情論を戦わせたいのなら、平行線よ。アレン」


は右手を固めてアレンの顔面へと強襲させた。
それは彼の左掌に防御される。
光る線が、また濃くなる。
心臓がどくどくと脈打って……、


「私は彼らに生かされている」


掴み合った二人の手の向こうで、アレンの表情が揺れた。
それは悲しみのようでもあったし、怒りのようでもあった。
どちらにしろ傷つけてしまったのだろう。
はその切なさに微笑んだ。


「“”は、教団以外では生きられない。だから規律を守らなくては。命令に従わなければ。……“私”はまだ、死ぬわけにはいかないのだから」


アレンはこちらを見つめていた。
瞬きさえ惜しいように、眼差しを送ってくる。
それはの表情に何かを発見しようとしているようだった。


教団でだけこの世界で生存を許可された。ならばそれに伴う決まりを守るのは、当たり前のことでしょう」


探るようなアレンの視線に、は微笑を深めてみせる。


「団員としての義務で、人間としての責任よ」
「上層部は君をそう見てはいない」


返答は叩きつけるように。
受け止めたの右拳を左手で握りこんで、アレンは言った。
それを口にすることで彼も傷を負っているのだろう、瞳はどこか泣き出しそうな色をしていた。


「君のことを団員だと思っていない。人間の扱いをしていない。……“”は教団に利用されている」


囁き声ほどの音量で告げられた言葉には驚いた。
アレンはいつどこでそんなことを知ったのだろう。
考えついたのは快楽のノアだった。
彼はアクマの赤薔薇を、アレンにも見せたのだろか。
それに奪い取られた、私の過去の記憶を……。
思わず慰めるような調子で言葉が口を突いて出た。


「それは私も同じよ」
「…………………」
「教団は私を戦わせたい。私は自分の誓いを守りたい。利害が一致している。私も彼らを利用しているのよ。……生き続けるためにね」


視界が揺れる。
アレンの上に走る光の帯が、目を眩ませる。
おかげで彼の表情がよく見えなくなった。
ずっとその左手で触れられているからだ。
それでもはアレンに伝えたかった。
「それに」と呟いた声はかすれていたから、もう一度息を吸い込んだ。


「強がりじゃない。どんなことをされても平気だと思えるのよ。生きているのなら、私は此処にいたい。“仲間”と一緒にいたい」


心の底から愛おしいと思った人達。
“私”という存在を形造る光の在り処だ。


「あなた達と一緒にいたい」


そのために課せられるのなら痛みも苦しみも感じないのだとは知っていた。
本当はもう何年も前から理解していることだ。
最初は教団に愛着などなくて、ただ此処しか居られないからというだけだった。
彼らは私に生を許し、その代わりに戦いを強要した。


“私”は兵器として教団に飼われたのだ。


そして唯一の後悔が壊すことだったから、それを承諾しただけという話。
対等な立場ではないけれど、取引に違いはなかった。
けれど此処で過ごすたびに思い知らされる感情はあまりに鮮明すぎて記憶の中で息が詰まる。
親愛も友愛も、知らなかったわけではないのに、すでに無縁だと思っていたそれらをもう一度手に入れてしまったとき、私は浅ましいほどに飢えた。
今度こそ失いたくないと、願ってしまった。
何とも身勝手で醜いことだ。
本当は殴られるのも蹴られるのも嫌だった。
実験に使われて苦しんでいる姿を笑って見られるのにも耐えられない。
肌を暴かれて体を弄られたときの嫌悪感だって一生忘れることはないだろう。
それでも、


(それでもみんなと笑っていたい。みんなに笑っていて欲しい。そんな世界を、守りたい)


だから現在の“私”は、教団にいる。
どんな苦痛や絶望とだって戦える。
アクマにもノアにも、中央庁にだって負けはしない。
その気持ちを告げたくて、だからアレンがそんなに思いつめる必要はないのだと伝えたくて、は口を開いた。
けれどふいに手が離される。
ようやく視界が元の明るさに戻ったけれど、それに反応する時間を彼は与えてはくれなかった。


「だから……」


呻き声がしたかと思ったときには、は猛烈な衝撃を受けていた。
そして鍛錬場に響き渡る怒声。


「君のそういうところが腹立つって言うんだよ!!」


はそれを真上に吹っ飛ばされながら聞いた。
遠くでラビが悲鳴をあげる。


「掌底ー!?」


しょうてい……平たく言えばアッパーだ。
ただし拳ではなく、掌の付け根で顎を叩き上げる攻撃を言う。
それをまともに受けたは目から星を散らしていた。
痛い。これは猛烈に痛い。
喋ろうとしていたときなので、よく舌を噛まなかったものだと思う。
天井高く飛ばされながら、遠くにラビのあわあわした声を聞く。


「アレ……ッ、アレン!オマエ女の顔に何するんさ!!」


ごもっとも。
けれど相手が自分なので、女だから云々はどうでもいい。
腹が立つのは別のことだ。


「こ……っ、の!」


は吹っ飛ばされて仰け反った体勢から空中後転、さらに高くまで跳んで両手を天井についた。
そしてそこを思い切り押して、バネのような勢いで飛び出す。


「いきなりキレるなー!!」


怒りを叫びながら急下降。
凄まじいスピードでアレンを真上から強襲した。
さすがに顔面は避けられたが、重力を味方につけた強い蹴りを右肩に食い込ませる。
アレンが後方に体勢を崩したところで腰をひねり、床に足をつけることもなく追撃をしかけた。
回転蹴りは綺麗に決まり、アレンは壁際まで弾かれた。
その吹き飛びっぷりは先刻のといい勝負だった。


「いきなりじゃない!」


アレンは痛む脇腹を押さえつつも、間を置かずに駆けてくる。
は彼の右拳を頬に掠めさせながらも回避。続く左も腕を叩き付けて軌道を逸らす。
ついでに言葉も返しておいた。


「どう考えたっていきなりでしょ!?」
「ふざけるなよ、どう考えたって前からだよ!!」
「アレンの脳内状況なんて知らないってば!」
「あぁもう腹立つ腹立つ腹立つ!みんな腹が立つ!!」


怒鳴りながらむちゃくちゃに拳を繰り出された。
あまりに速いのでどちらに集中していいのか判断に迷う。
アレンは右利きだからそっちの拳に要注意か?
それともイノセンスの宿っている左?今触れられたら、意識を揺らがしている隙に床に沈められそうだ。
それに話もちゃんと聞かないといけない気になる。
アレンの右眼はもうずっと、薄い水の膜を張ったみたいに潤んでいた。
強い感情に支配されている証拠だ。


「リナリーもラビも神田も、皆だ!みんな頭にくる!」


蹴りを放てば軸足を狙われたので、は体を横にすり抜けさせた。
床に手をついて側転で回避。ついでに右脚をアレンの頭部に走らせる。
しかしそれはやけに的確に防がれて、足首を鷲掴みにされた。
げっ、と思ったときには世界が反転。


「君がそんなんだから、誰もがわかったような顔をして、納得したふりをして、その意思を尊重するんだ!意地っ張りを認めてやってるんだ!僕はそれに腹が立って仕方がない!!」


投げ飛ばされ、思い切り床に叩きつけられた。
怒りでパワーアップしているのか威力が凄い。
は痛みにちょっと涙目になりながらも跳ねるように起き上がり、肘をアレンの右胸に強襲させた。
そこから左脇腹に打ち落とす。
アレンは打撃に顔を歪めながらも声を抑えなかった。


「今までずっと、こんな馬鹿を許してやっていただなんて!」


それは自分ではなく神田やラビに言われた言葉だとわかっていたけれど、は応えずにはいられなかった。


「それが皆の優しさで、私は感謝してる!いくらありがとうって言っても足りないくらいよ!!」
「あんなの無理に大人ぶってるだけだ!本当は腹ワタ煮えくり返っているくせに!そうでしょう!?」


そこでアレンはの拳を押さえながら、彼らのいる方向を振り返った。
鋭く睨みつけられて赤毛がびくりと震えた。
縮こまってしまったラビの隣で、神田は動揺もせずに返す。


「答えてやる義理はない。テメェには関係ねぇだろ」
「そうだよ、僕には関係ない。だから口出しもしない。けれど苛立ちも止められないんだ」


アレンはそれだけ吐き出すと、またへと視線を戻した。


「僕は皆みたいには出来ない。そうする気も、今はもうない。……大人ぶることは誰よりも得意だと思うけど、したくないからしない」
「…………………」
「だからが殴られたなら怒るし、閉じ込められたなら助け出すし、どんなに君が自分に落ち度があるって言っても僕がそう思わなかったら上層部にだって楯突いてやる!」
「いや、それは……!」


アレンが教団での立場を悪くするだけだ。
何だか子供みたいなことを言い出した彼を宥めようと口を開けば、また拳が飛んできて無理に黙らされた。


「本当は……」


声は低くて喉の奥から絞り出すようだった。


「本当は、皆のほうが正しいってわかってる。君を想うなら今のやり方が最善なんだ。どんなに苦しくても我慢して、見守っているしかないんだって……。一番に痛いのは“”なのだから」
「……、そうね。私のことで、みんなが辛い顔をするのは絶対に嫌」


は言いながら捕らえられていた手を取り戻した。
そして振り上げる。
アレンがガードする前に、彼の頬を叩いた。
ぺちりと軽く。


「あなたもよ。アレン」
「…………、だから」


頬肉をちょっとつまんでやると、アレンは辛苦の表情を引っ込めてくれた。
けれど代わりに微笑みもしなかった。


「だから僕は自分のやり方を見つけるよ。リナリーにもラビにも神田にも、なれやしないから……」


腹が立つと言いながら、彼は皆を羨望するような口調だった。
そして“自分には出来ない”ことを悔やんでいる様子だ。
どうしてだろう。
彼は彼で、申し訳なく思うほどにの助けとなってくれているのに。
可愛い笑顔でささくれた心を癒してくれるリナリー。
他人にどんなに痛めつけられようとも、ずっと隣で手を繋いでいてくれたラビ。
お前の境遇なんて興味はないとばかりに、私を一番の仲間だと呼んでくれた神田。
事あるごとに気遣いを見せてくれるコムイやミランダ、クロウリー達。
それぞれ色は違えども、与えてくれるぬくもりには本当に感謝していた。
もちろんアレンにもだ。
だから彼が「皆みたいには出来ない」と言うわけがわからなかった。
“皆”だって同じじゃない。
一人ひとりが、その人独自の優しさをくれた。
だから今のままで充分なのに。
それでもアレンは言う。


「僕は、僕だけの方法で」


あなたはもう、ずっとそうしてくれているでしょう?
けれど見つめてくる瞳がひどく真剣だからの言葉は声にならない。
アレンの囁きは自分にしか聞こえていなくて、だからこそ二人きりの世界に堕ちてしまったような気分になる。
頬に触れたの手に、彼の左掌が重ねられた。
そして、


「そのために今は君をボッコボコに叩きのめしてやる!!」
「何でー!?」


前後が繋がってないことを叫ばれて、は悲鳴をあげた。
けれどアレンは完全無視で手首をひねってぶん投げてくる。
は背中を床面に強打する前に身を翻して膝を彼へと向けた。
床に足を戻せばまた拳の応酬だ。


それからしばらく二人の全力闘争は続いた。
止められる者はもちろん、いない。













「こ……これで終わりですか……!」


ぜいぜい言いながらアレンが訊いてきた。
呼吸がうるさすぎて発音が不明瞭だ。
はアレンに片腕をひねりあげられ、後ろから押さえつけられる体勢に追い込まれていた。
背中に圧し掛かられているので床しか見えない。
全身で息をするたびに汗が頬を伝って落ちていった。
は酸素不足に朦朧としながらも自分の状況を確認する。
利き手。背の上で完全に固められている。
左手。動くけれど右が不自由なのであまり役には立たなさそうだ。
そうすると……。


「僕の勝ちです!」


誇らしげにそう宣言された瞬間、は左足だけで跳ねた。
そして体勢を崩すのを承知で腰を回転させ、右足を蹴り上げる。
踵をアレンのこめかみを狙って振り抜いた。


「う、わ!」


アレンの驚愕した声。
咄嗟にから手を離し、後ろに身を引くが、もう跳躍する元気はない。
そのまま尻餅をつくように床に座り込んだ。
も背中から落ちて鍛錬場の天井を仰ぐ。
どちらもしばらくは立ち上がれないほどに疲労困憊していた。
時間にすればたった一時間ほどなのに本気で暴れすぎたようだ。


「わ……私の、……負け?」



喋ろうとすれば途中で咳き込んだけれど、何とか問いかける。
するとアレンも同じような調子で返してきた。


「こ、の……っ、負けず嫌い……!」
「筋金、入り、なんだ……っ」
「知ってるよ!!」


怒ったように言って、アレンも床にひっくり返ったようだった。
気配でそれを感じるがもう目も開けていられない。
心臓が全速力で脈打っている。
ちょっと速すぎて気持ち悪いくらいだ。
そのまま死体のように転がってぜーはーしていると唐突に何かが降ってきた。
感触でそれがタオルであることを知る。
ついでのように、それの上から額を叩かれた。


「さすがにやりすぎだ」


声は神田のものだった。
彼にしては言葉の内容がらしくなかったので、は一瞬聞き間違いかと思ったけれど、触れてくる手の感覚がそれだ。
指先はすぐに離れていって、入れ替わるように別の掌を感じる。
それが乱暴にの汗を拭ってくれた。


「このバカ」


呆れ返った声はラビである。
ちょっと痛かったのでは悲鳴をあげて、顔の上から布地を取った。
目を開いて見てみると、神田はそっぽを向いていて、ラビはアレンに別のタオルを投げつけていた。


「この大バカ」


同じ調子で言い捨てる。
けれどアレンに対する言葉のほうが棘のあるようだった。
アレンもそれを感じたようで、床に手をついて起き上がると、ラビを横目で睨む。


「……僕は謝りませんよ」
「聞いてねぇよ。オマエがに対してだけは紳士面を脱ぎ捨てて、全力アタックなのは知ってるからな。でも掌底だけは許せん」
「まぁ……顔に当ててしまったことだけは悪いと思ってます。こんなのでも一応女の子なんですから」
「そんなのいいよーもう」


何を言い争っているんだと思ってはため息をついた。
実際の戦闘ではそんなこと気にしていられないし、女扱いはいらないと言った以上非難することでもない。
ラビとしては仲間内だからこそなのだが、にはわからなかった。
ついでに言うと、アレンが仮にも“女性”にそういうことをしたという意外さを気にしているのだが、それはもっと理解の及ばないところである。


「で?結局何がしたかったんだお前は」


腕を組んだ神田が上からアレンに問いかけた。
否、質問というよりは詰問に近い口調だ。
アレンは神田を見上げて、すぐに床へと視線をやる。


「……半分はラスティさんからの依頼です。をボコボコにしてきてくれって」
「ハァ?」
「何だそれは」


もそう思ったが、友人達が先に口にしてしまったので黙ったままでいた。
アレンはタオルでさっぱりと顔を拭いてから続ける。


「彼が8年間も面倒を看てやっているこの馬鹿は、いつも監禁から開放されたあと鍛錬場に閉じこもって動かなくなるって」


それは古い付き合いのラビや神田も知っていることだった。
今日だってそうだ。
ようやくルベリエに言動の制限を解かれ、隔離フロアから出られたことをコムイやブックマンに報告した後、その足で此処にやってきた。
すると当たり前のように鍛錬着に身を包んだ二人が立っていたというわけだ。
そして「どうせ引き篭もってたぶん体を動かすんだろ付き合ってやるよ」という、毎度のノリで手合わせが始まったのである。


「ドクターストップを出しても、どうせ部屋で筋トレや体力作りに励むのは目に見えている。だから」


アレンはため息まじりに言った。


「もういっそのこと立ち上がれないくらいに叩きのめして、ふん縛って、ベッドに放り込んできて欲しいと頼まれたんですよ」
「な、なんつー……」
「荒療治にもほどがあるだろ……」
「けれど、こうでもしないとは大人しくならないでしょう」


ラビと神田は冷や汗をかいたが、アレンはそう言い捨てた。
それからを睥睨する。


「このあと君は麻酔薬で丸一日は眠らされることになっています。僕との勝負で疲れ切っていて逃げられないだろう、ざまぁみろ」


はちょっと青ざめた。
アレンもラスティもやってくれる。
確かに自分は、監禁時期が明けたあとはいつも以上に鍛錬場に入り浸る。
それは体力の衰えや戦いの勘を取り戻すと同時に、焦りの感情からくるものだった。
今度は大丈夫だろうか、今度はどう扱われるのだろうか、今度こそ……。閉じ込められるたびにそう思う。
もう二度と、外には出られないのではないかと。
中央庁がそれを決断すれば、自分はすぐにでも囚人へと堕ちる身だ。
だからこそ狭い密室から開放された瞬間、体を動かしたくて堪らなくなる。
自由があるうちに、外界へ出られるうちに、少しでも強くなって目的に近づかなければならない。
そう考えるあまり、今までも随分と無茶をしたものだ。
部屋にも戻らず休憩室で仮眠を取って、目が覚めればすぐに鍛錬……というスタイルを取ることも珍しくはなかった。
もちろんラスティはいい顔をしなかったし、婦長に至ってはかんかんだった。
けれど一度焦燥に負け、縋りつくように懇願して以来、みんな強く止めるようなことはしなくなったのだ。
事情を察してこちらの気持ちに心を寄せてくれたのだろう。
そんな優しさに甘えてもう何年も過ごしてきた。
そして今、そのワガママはお終いだと告げられたのだ。


「それにしたって、これはちょっと乱暴さ!」


ラビが言いながら立ち上がった。
そのときには神田はもう踵を返していた。


「奴に事情を聞いてくる」
「オレも行く」


短く言い合って二人は鍛錬場を出て行った。
は止めたかったけれど、自分も結構ショックを受けていたのでそれが遅れた。
バタンッと閉ざされた扉を見て、仕方なく口をとじる。
しばらくの沈黙のあとアレンが言った。


「僕も、それはどうなんですかって訊いたよ。本当に君を止めたいのならこんなことをするべきじゃない。動けなくなるほど全力で闘り合うなんて、結局体に無理をさせるだけだ」
「わかってる」


は遮るように肯定を発した。
思わずタオルで顔を覆いながら。


「わかってるよ……」


医者でありながら、体そのものを気遣うよりも、無茶な振る舞いを止めさそうと仕向けたところに、ラスティの真意が見える。
彼はアレンに頼んで、文字通り実力行使に出たのである。
これで随分前に出て行ったリンクがいつまで経っても戻ってこないのにも納得がいった。
きっと医療室でラスティが足止めをしているのだ。
アレンがを立ち上がれないくらいにボコボコにする時間を稼ぐために。
……神田やラビと違って、真面目なリンクはいくら頼んでもアレンとの勝負を認めてはくれないだろうから。


「もう甘やかす気はないってことね。あの人は私の勝手を許さなかった。許してくれていなかったのよ……今までずっと」
「………これは、医者としての判断じゃない。ラスティ・デフォンさん個人の依頼だ」


アレンは床の上で片膝を抱えたようだった。


「本当は、自分でぶん殴ってやりたかったんだと思うよ」


けれどそれは出来ない。
どれだけ個人になろうとしても、ラスティ・デフォンは“医者”なのだ。
特にという少女の前では、そうあると決めている。
怪我人に手をあげることはタブーで、破れば二人の関係はたちまち色を変えてしまうだろう。


「ラスティ班長は」


はタオルの上から両目を押さえつけた。


「私が知る誰よりも、医者としての誇りを持った人よ」
「…………………」
「そんなひとに、こんな、矛盾だらけの方法を取らせてしまっただなんて」
「……本当に、随分と甘やかされてきましたね」
「…………、そうね。それがよくわかった。ううん、ずっと知っていたはずなのよ」
「ボッコボコにされて、痛い思いをし尽くして、もう無茶なんて出来ないようになればいい。……何かしたくても、何も出来なくなればいい。そう言ってました」


あぁ、とは思った。
それこそがラスティの気持ちなのだろう。
「何かしてあげたくても、何も出来ない」。
疲れ果てて、怪我が痛んで、動けない今の状態が、きっと8年間が彼に味合わせていたものだ。
ラスティはエクソシストではないから、神田やラビのように戦場に立つものとしての覚悟を分け合い鍛錬に付きあってやることもできない。
さらに医者という身分と知識がそれを許さない。
体に負担をかけて動き回る自分を、彼はどれほど歯がゆい思いで見つめていたのだろう。


「……やり方が、グローリア先生っぽい」


が呟けば、アレンが頷いた。


「本人も言っていましたよ。君には効果抜群だから、グローリアさんの方法を真似たって」
「秀逸すぎる。大ダメージよ」
「体にも効くけど、心にも痛いだろう」
「それもラスティ班長の台詞?」
「もちろん」


力強く肯定されて、何だかは笑ってしまった。
泣き笑いみたいになったが構うものか。
顔にはタオルを被せているからどうせ誰にも見られやしない。
胸が苦しくて少し咳き込むと、ゆっくりと身を起こした。


「部屋に戻る。麻酔薬なんて注射されなくても、……もう無茶なことはしない。きちんと静養します」


は一度タオルで顔をぐいっと拭うと、アレンを見た。
けれど彼はしばらく反応してくれなかった。
長いような沈黙のあと、そっと唇を動かす。


「……僕なら」
「え」
「僕ならいいって思ったそうなんです」
「何が?」


アレンは自分の片膝をぎゅっと抱きこんだ。


「もうずっと、君のことを何とかしたいって……ラスティさんは思っていたらしいんだ。けれど、怪我人をボコボコにしてくれだなんて誰にでも頼めることじゃない」


それはそうだろうなとは思った。
医者としても人間としても、ちょっと憚られる依頼だ。
自分の気持ちを理解し、なおかつよほどに信頼できる相手でなければ、託すことのできない事柄である。


「それが、アレンならいいって?」
「うん……」


そこでアレンは曖昧に頷いた。
は首をひねる。
何故だろう?
別に神田やラビだって話せば分かってくれないこともないだろうに。
それなのにラスティは、8年をかけてようやく“アレン”という少年を選んだようだ。
本人はその理由を承知のようで、何だか少し頬を赤くしていた。
けれど口では憮然と言う。


「僕だって、最初は怪我人に手をあげるなんてとんでもないと思ったよ。けれど事情を聞いて俄然気が変わった」
「どう?」
「“君の無茶苦茶っぷりには腹が立つ”。そういうことです」


そこで思い切り睨みつけられた。
本当に今日のアレンは怖い。
はちょっとだけ身を引いた。


「ラスティさんのその言葉に、僕は同意した。それから考えてみたんだ。自分の気持ちも」
「……それで、どういう結論になったの?」


過程の話を聞くのもアレなので、はずばりと訊いた。
少し怯えながらだったがアレンは気にしなかったらしい。
応えもずばりとしたものだった。


「もう本当に、遠慮するのは止める」


は?と声には出さずに口を開く。
その顔をアレンは横目で見やった。


「何だかんだ言って、僕も君をいろいろと気を遣っていたみたいです。それを一切やめることにしました」
「は、はい?ちょっと意味が……」
「何かもう君の厄介な境遇とか複雑な立ち居地とかどうでもいいなって」


そこで激しく投げやりに言われたので、は絶句した。
自分が8年間抱えてきた問題を一蹴されたのだ。
言葉を失うのも無理はなかった。


「僕なりにさんざん悩んだんですけど。いい加減に考えるのも面倒になりました」
「………………」
「どうせ、君は“君”なんだろう」


不意に声の調子が変わったので、はぽかんと開けていた唇を閉じた。
アレンは瞳を伏せて言う。


「どうせ今まで何をしてきたって、これから何をしでかしたって、君は僕の仲間だ。だったらそうやって扱う。いくら“”が他の皆とは違う立場にいても」


言葉を途切れさせて、彼は息を吸った。
それから一気に言った。


「僕は構わない。特別扱いなんてしない。君がないがしろにされるのは嫌だから、教団とだって戦うよ」


は何故だか顔を覆いたくなった。
無性に笑いたくなったのだ。
もしくは床に泣き伏せたかったのかもしれない。
それほどまでに強い感情が、ひどくゆっくりと胸中を襲ってきていた。


「他の皆が君の強がりを許しても、僕だけは認めない。ぶん殴って、文句を言って、さんざんに叱ってやる。……今回の事だって半分は自分のためにやったんだ」


そこでアレンは、ラスティに頼まれたからだけではないと明言した。


「僕はリナリーみたいに優しくないから、君を可哀想だと思って泣いたりしない。ラビみたいに物わかりがよくないから、君に笑って見守ってやりはしない。神田みたいに割り切れないから、君の強さばかりを認めたりしない」


目を逸らしてしまいたい。
そんな暖かい言葉はいらない。
だから顔を覆ってしまいたいのに、はアレンから視線を背けることができなかった。
石像のように固まって、ただ彼の横顔を見つめた。


「君はいつもはちゃめちゃで、誰にも止められなくて、本当に突っ走り一直線だ。それを僕は怒るよ。怒るから……だから、喧嘩をしよう」


他人が聞いたら度肝を抜かすかもしれない。
あの優しいアレン・ウォーカーが、女を相手に“喧嘩をしよう”と告げたのだ。
本人は特別扱いをしないと言ったけれど、このほうが随分とそうだと思えた。
特別だ、こんなの。
だって彼は他の誰にもこんなことを言ったりはしない。


「君なんて僕と言い争って、殴り合って、疲れきって、ぶっ倒れればいいよ。そうしたら」


アレンがを見た。
真っ直ぐに見つめて、それが吐息をつくように笑った。
何だか優しい諦めに似た表情だった。


「そうしたら、僕がベッドまで運んであげる」


言葉と同時に手が伸びてきて、後頭部にまわされた。
そのまま引かれて体を倒される。
額がアレンの膝にぶつかった。
そこに頭をあずけて、は床に寝転ばされた。


「ちゃんと休めるところまで連れて行ってあげる。……君は、本当に限界までこないと付け入る隙さえ見せてはくれないから」


つい先日のハンガリーでのことを言っているのだろう、アレンの声が少し震えた。
は自分の醜態を思い出して目を閉じた。


「だから、そこまで追い込んであげる。僕の手を借りるしかなくなるまで……ね」


言葉を額面どおり受け取れば、アレンは随分とひどいことを言っていた。
が無茶苦茶するのなら、自分だって力にものをいわせて、強引に言うことを聞かせようというのだ。
けれどわかっている。
ラスティだって同じだ。
自分を心配してくれているからこそ、本気でそうしてくれるのだ。


はラビや神田に心から感謝していた。
彼らは胸の奥では怒りや苛立ちを感じていながらも、自分の行いを許してくれたからだ。
その理由は容易に理解できる。
“私”たちは、根本の部分で酷似しているのだ。
三人とも生きるうえで苦しい秘密を抱えている。
それに伴う感情を、が無茶としか思えない形でも克服しようとしたのだから、文句も言わずに付き合ってくれたのだ。
反対にも彼らに対してそうしてきた。
どれほど心配に思っても、ラビのブックマンとしての仕事に口を出したことはない。
神田の胸の内を暴くような真似は死んでもしでかさないと決めていた。
何があっても笑って冗談をやって、ただ心を寄せ合ってきた。
それは諦めや見捨てたのとは違って、互いのことを認め、尊重した結果だ。
けれどアレンはそれらを面倒だと切り捨てて、真正面からぶつかってきた。
彼はラビや神田と同じ陰がないばかりか、と正反対の性質を持った人間だったのだ。


(性格は全然違うけれど……ラビと神田は、私に似ている。踏み越えてはいけない一線を知りすぎている。そのうえで、傍にいてくれる優しさが嬉しかった)


黙って隣に並んでいてくれた。
三人なら何も言わなくても感じ取れてしまう。
誰もが同じような闇を持っているから、沈黙したままで互いの苦難に付き合ってやると決めていた。
それこそが、自分達の絆だった。


(アレンはそういう次元とは別の人なんだ……)


白の少年はそれが嫌だと言ったのだ。
黙ったままだなんて冗談じゃない。
無茶をすれば怒るし、隠した気持ちだって知りたいと願う。
ひどく無体なそれは、彼の優しさだった。


(本当の破壊者ね)


そうすることでしかアレンにはを理解する術がないのだろう。
ラビや神田と違って、彼と共有する暗がりはほとんどない。
それでも知りたいと思ったのならば、体当たりで関わってゆくしかないのだ。


(私は壊される)


8年間作り上げてきたものが瓦解する幻覚を見た。
怖いと思った。恐ろしいと感じた。
けれど同時に初めて与えられたぬくもりに、たまらなく胸が熱くなった。


(あなたはそれでいいと思ったんですね。ラスティ班長)


そうでなければアレンにこんな依頼をしなかっただろう。
わざわざ“彼”を選んだりはしなかっただろう。
あぁ本当に全身が痛い。
呼吸も辛くて視界が狭い。
苦しい。


?」


黙ってしまった自分の頭上から、アレンの声が降ってくる。
そういえば膝枕も懐かしい。
ほんの何回かだけ、グローリアがしてくれたことを思い出す。
はアレンの膝にぎゅっと頬を押し付けた。


「……疲れた」


その一言を発しただけで酷く甘えた気持ちになる。
こんなのは“”じゃないと思うけれど、触れる体温の優しさに泣き出しそうになるのを止められない。
アレンは吐息をついた。


「部屋に戻ろう。連れて行ってあげるよ」
「お姫さまだっこで?」
「……お望みならば顔が判別できなくなるまで引きずりまわしてあげますが」
「それってどういう運び方!?」


悲鳴をあげればアレンは笑った。
の嫌いな笑顔は、間違っても出てきそうにない表情だった。


「そうやって、しんどかったら言って。どうせ僕はいつも傍にいるんだから」


ほとんど無意識みたいにそう告げられて、は何だか本当に涙が滲むのを感じた。


「こんなときくらいは、僕の手でも借りてよ」
「……いいの?」
「うん」
「じゃあ」


はごろんと転がってアレンを見上げた。
それから両腕を持ち上げる。
恥ずかしいから無言で頼んでみたけれど、アレンが瞬きをしているので小さく言った。


「おんぶ」
「……………」
「お、おんぶして」
「…………………………」
「いや何かまだ歩けそうもないのでしてくれたらありがたいなーと思わなくもないこともなかったり!」
「どっち」


しばらく言葉を失っていたアレンにさえ突っ込まれたけれど、それよりは内心いろいろ大変だった。
あぁもうこんなドロッドロに甘ったれたことをいう奴は大嫌いだ!!
頭を抱えて悶えたいほど自分で自分をそう思う。
けれどアレンは本当に嬉しそうに微笑んだのだった。


「仕方ないですね、まったく」


文句を言うフリをして、意気揚々と自分の背中に乗せてくれる。
身軽に立ち上がって歩き出した。
はおんぶをされながら、彼の耳が朱に染まっているのを見た。
こんな子供っぽいことをねだって、ここまで喜ばれるとは思っていなかったから、驚きを隠せない。
何だか本当に恥ずかしくなって、次に口を開いたときには妙につっかえてしまった。


「へ、……っ、部屋に戻る前に、医療室に連れて行って」


囁けばアレンがびくりとした。
吐息が耳に当たってしまったらしい。
今度は頬まで赤くなった。
は気にしないふりで続ける。


「ラスティ班長に謝らなくちゃ」
「あぁ……」
「それにリンクにも」


今頃はきっと修羅場になっていることだろう。
だたでさえリンクは怒っていたし、神田やラビだって不満気な様子だった。
ラスティならあの三人でものらりくらりとかわすだろうけれど、心労には違いない。
早く行って止めてやらなければ。


「……ごめんなさい」


はアレンの肩に額を押し当てた。
金色の前髪が潰れてくしゃりと音を立てる。
アレンは不審そうに言った。


「まだ医療室に着いてませんよ」


そう返されたけれど、は構わなかった。


「ありがとう」


そこまで告げると、アレンにもわかったらしい。
が口にしたそれは、彼への謝罪と感謝だった。


「最近そればかりですね」


アレンがまともに受け取ってくれない様子を演じたので、は彼の首に強く抱きついた。
この人は破壊者だ。
虚勢も意地も壊されて、私はどんどん弱くなる。
それは許されないことのはずなのに、受け止めてくれる者もいるのだと知ってしまった。
背負ってもらっているからアレンの左手はにずっと触れていた。
視界が揺れて目も開けていられないのは、それのせいにしてしまいたかった。




暖かなぬくもりに触れるたびに、死体と変わらぬこの身が鼓動を刻む。
どくどくどくどく血が巡る。
ほら、また。




こうやって今日も“”は誰かの熱に生かされている。




















「教皇は彼女に同情しています」


リンクは唐突に何を言い出されたのかと思った。
教団の一室、そこで報告を終えたばかりの事だ。
語った内容は隔離フロアに幽閉していた“アンノウン”の様子。
リンクは監査役として、がとても大人しく、こちらの命令を素直に聞き入れ、従順に従ったことをルベリエに報せた。
まぁ監禁から開放された瞬間にあんなことをしでかしてくれたが、それは言わなくていいだろう。
尋問は終った。
今の報告で恐らく規定もクリアした。
そうなれば自分の任も解かれるはずだ。
リンク個人としては淋しく感じることだが、のためを想ってそれを告げられることを期待して待っていた。
しかし投げられた言葉が上のものだったから、目を見張るしかない。
戸惑いを声に出さないように気をつけながら問いかける。


「ルベリエ長官、それはどういう……」
「言葉通りですよ。慈悲深い我らの長は、あの娘を哀れんでおられる」


ゆったりとソファーに腰掛けたルベリエはこちらを見ない。
ただ穏やかな口調で続ける。


「その心のままに、自由にしてやってはどうかとおっしゃるのです」
「それは……」


教皇の情けが現実となれば、はあらゆる制約から解き放たれる。
国家権力を使えば人権を復活させることだってできるだろう。
本当の名を名乗り、戸籍を得、普通の人間として暮らしていけるはずだ。
リンクはそれを想像して胸が明るくなるのを感じたが、態度には出さなかった。
それが夢想にしか過ぎないことを知っているからだ。
自分の所属する組織は、“彼女”の自由を決して認めはしない。


「偉大なる御方はこうでなければなりません。そう、裁きは許される者のみに与えられる。…………異端を罰するのは我らの仕事です」


それは排除だ。
神の代理人の御前を、異端で穢すわけにはいかない。
陽の下に晒すより先に葬るべきである。
許されざる者を一掃することこそが中央庁の役目だった。


「この世に“光”が存在するために必要なものは何か。わかりますか?リンク監査官」


尋ねられてリンクは首を振った。
本当は推測できたけれど、自分から言うのは躊躇われた。
脳裏をよぎる金髪の少女。
彼女がリンクの口を閉ざさせる。


「“闇”ですよ」


ルベリエは簡潔に答えた。


「光が輝くためには闇がいる。眩い白ほど濃い黒が必要となるのです」
「光とは……教皇のことですね」
「もちろん。そして彼女は闇だ」


ずばりと言われてリンクは肩を揺らした。
彼女とは誰だと考えてみたいけれど、理解できないふりをしたいけれど、そんなことは不可能だ。
ルベリエが闇と呼んだのは紛れもなく、“”だった。


「彼女は美しく彩られた敵であり、逃れられぬ業であり、破滅への誘惑であり、欲望をそそる災い。必要悪なのですよ」


ルベリエの声は歌うように響いた。
リンクの脳裏にの姿がチラつく。
彼女の特徴はなんといってもその金色に煌めく髪と瞳だ。
間違っても闇とは結びつかない。
思い出すのは笑顔ばかりで、ルベリエの言う正反対の光そのものみたいだった。


「必要悪……?」


唇だけで繰り返す。
声が掠れた。
リンクの中にいる金髪の少女は、今度はこの喉を締め上げてきた。
何とか言葉を絞り出す。


「それは、どういうことなのですか」
「人間は愚かな生き物です。失わなければ大切さに気付けない。不幸がなければ幸福を感じ取れない。敵がいなければ……」
「……平穏の素晴らしさがわからない?」
「そうです。戦うものがなければ堕落する一方。重力に従うように、下へ下へと落ちてゆく。そんな世界では真に光の尊さがわからないでしょう」
「……………………」
「だから闇が必要なのです」


つまりこの上役は、我らとが対極となる存在だというのだ。
光と闇。白と黒。聖者と異端。正義と悪。
一方が強ければ強いほど、もう一方も力を増す。
それこそ全世界に覆うほどに。


「教皇の威光を知らしめる。我々にはそれが必要なのです。……伯爵を倒すために」
「お言葉ですが」


そこでリンクは思わず口を挟んだ。
どうしても尋ねずにはいられなかった。


「あの娘が、どれほどのものだというのです」


理解できない。
いつまで経っても、リンクの中では“”でしかなかった。
馬鹿で元気でたまに暴走してしまう、十代の少女。
ふざけてばかりかと思ったら、急に大人びたことを言ってくる生意気な子供。
誰もが意識を逸らした隙に、泣き出しそうなほど切ない眼をしている小さな女の子。
そんな彼女が我々と対極に位置する?
成人にも満たない、たったひとりの女性が?
有り得ない話だ。


「彼女は普通の……、いえ少し変わってはいますが、ただの少女です。言葉も通じるし、頭も悪くない。異端と呼べる思想を持っている気配もありません」


それは短くはない期間、彼女の傍にいたリンクだから言えることだった。
は少々奇抜だが、人間としてはまともだ。
中央庁に、そして上層部に、これほどまでに危険視される理由がまったくと言っていいほどわからない。


「長官のおっしゃりようでは、アンノウンが“光”に匹敵する力を持ち得ているように聞こえます。そんな馬鹿な話が……」
「あるのだよ」


疑問が先走って言葉を選べなくなっていたリンクだったが、それでもそこで沈黙した。
こうもあっさり肯定がくるとは思っていなかった。
おかげで思考はますます混乱する。
ルベリエはリンクを振り返り、淡く笑った。


「彼女には世界を脅かす力がある。……そう言ったらどうしますか?」
「……、信じられません」
「でしょうね。そう思わせるために……、真の“暗闇”とならぬように、我々が正体を隠蔽したのだから」


リンクはもはや呆然としていた。
ルベリエが言っていることの半分も理解できない。
否、言葉はわかるのだが、意味合いがうまく受け取れないのだ。
ルベリエもそれは承知のようで、何ひとつ明言しようとはしなかった。
ただ独り言のように声を紡ぐだけだ。


「アンノウンの正体が明るみに出れば、保たれていた秩序は崩壊するでしょう。彼女は彼女の意思を離れ、ただ在るがまま牙を剥く。世界を混乱に陥れる害悪と成り果てる」
「…………………」
「そうさせないよう過去を秘匿とし、身柄を確保したのです。けれどただ異端を飼ってやるほど私達もお人よしではない」
「…………………」
「そう……利用価値があるから命を保障してやっているだけのこと。出自を隠してもなお、彼女から闇の匂いは消えない。“”にはせいぜい暗がりを振りまいて生きてもらいますよ」


そこでルベリエはソファーから立ち上がった。
体の向きを変え、信頼する部下に向きなおると、瞳をすがめて微笑む。
そうして力強い笑顔を浮かべたのだった。


「我らの“光”を輝かせる、ほの暗い“闇”として……ね」


恐ろしい人だ、とリンクは思った。
けれど同時に胸が高鳴るのを感じる。
全身が粟立って、自分が興奮しているのを知った。
リンクはルベリエに恐怖を感じながら、同時に尊敬の念を抱いていたのだ。
その圧倒的な存在感。
正義のために何ひとつ躊躇うことなく行動する激しい心。
リスクも非難も承知で自分の信念を貫く気高さ。


そう、まるで色は違うけれど、ルベリエの強さはとよく似ていたのだ。
まったく一致しない方向でありながら、同等の輝きを放っている。
それがリンクを惹きつけて離さない。
彼らは心から畏敬すべき人々だ。


それを改めて思い知ったリンクは身の引き締まる思いがした。
そしてこうも自分を揺さぶる者たちに出逢えたことを、神に感謝せずにはいられなかった。


いつもの敬礼はしない。
リンクは目を閉じると、自然とルベリエに頭を垂れたのだった。













思考がまとまらない。
自分の予想以上に、彼女が“アンノウン”であることに意味があるようだった。
上官として信頼するルベリエの言なのだから、疑うまでもないだろう。
彼にあそこまで言わせる存在。皆の呼ぶところの、“”。
先刻のルベリエの語りが忠告であったのだと、リンクは後になって気がついた。
「あまり彼女に入れ込みすぎるな」と言外に告げられたのだ。
それはルベリエなりの優しさだといえる。


(所詮は相容れない者だから……、か)


ルベリエの前から辞したリンクは、教団の廊下を歩きながら思う。
上官は彼女を自分達の敵だと告げた。
世界に害を及ぼす可能性を秘めた、忌むべき者。
闇。悪。異端者。
排除されるべき存在。


が?)


わからない。
立場上、ルベリエの言葉には疑問を挟まず従うのが筋だ。
けれど冷静になればなるほど困難になる。
先刻は彼の気配に呑まれてしまったが、こればかりはリンクも気持ちが追いついていかなかった。


(彼女と分かり合えないとは思えない。長官は何を危惧しておられるのだろう)


リンクは俯いたまま黙々と進む。


(それに、入れ込みすぎるなと言われても遅い。私は彼女を……)


ちょっと考えて、ひとりで首を振る。
頬に熱があがったようだが気付くものか。


(……まぁ、友人のようには思っている)


とりあえずはそう誤魔化して、考えを続けた。


(そもそもを嫌えない理由は長官にもあるのだ。二人とも私が尊敬するに値する、意志の強さを持っているのだから)


リンクはそういう人間にめっぽう弱かった。これは自覚のあることだ。
どうしても傍にいたい、力になりたいと思わずにはいられないのである。
一種のカリスマ性だといえるだろう。
だからこそリンクはルベリエを仰ぐと同時に、にも心を寄せていた。
矛盾しているように思えるが、抗えないほどに素直な気持ちだった。


(長官は、今後をどうにかされるおつもりなのだろうか……)


今の自分には知り得ないことだが、考えずにはいられなくて思考を巡らせた、その時。
俯いていたリンクの視界にひとつの影が飛び込んでくる。
歩みを止めて顔をあげれば、一人の少年が廊下の角から姿を現したところだった。


「ウォーカー」


リンクはその名前を呼んだ。
それから嫌なことを思い出して、盛大に眉を寄せる。
彼はつい昨日、リンクが目を離したわずかな隙に、怪我人であるをボッコボコにしてくれたのだ。
おかげで彼女は今も自室で眠り続けている。
そりゃあ体に無理をさせていたのだから、リンクとしても大人しく休んでくれるほうが嬉しい。
けれどやり方が乱暴すぎるだろう。
主治医の許可があったといっても、実行するなんてどうかしている。
そんなわけで彼に腹を立てていたので、次に口を開いたときには険のある声しか出せなかった。


「何をしているのです。ここは中央庁のフロアですよ。部外者がうろうろしないでください」
「歩き回ってはいませんよ。ずっとここにいました」


アレンは特に表情もなくそう返した。
標準装備されている笑顔はどうしたのかと思って、リンクはますます眉をひそませた。


「だから、キミはここで何をしているのです」
「待っていたんです」
「誰を?……あぁ、私をですか」


そこで何となく合点がいって、リンクは肩の力を抜いた。
再び歩き出しながら言う。


のことを聞きにきたのですね。安心しなさい、私の任は解かれました。明日から彼女は元の生活に戻れます」


アレンはこの言葉が聞きたくて、ルベリエの指示を得て出てくる自分を待ちぶせていたのだろう。
リンクはそう判断した。
でなければこんな角に隠れて突っ立っている理由が見当たらない。
アレンも不安だったのだろうと思って、リンクは少し溜飲を下げた。
安心させるようにもう一度言う。


「中央庁も本部から引き上げます。もう私達に見張られることはありませんよ」


けれどアレンの反応は予想外のものだった。


「知っていますよ」


喜ぶでもなく、安堵するでもなく、平然とそう言ってのけたのだ。
リンクとしては言葉の意味がわからない。
彼の横を通り過ぎようとしていた足を止め、まじまじと顔を見やる。


「知っている……?どういうことです。私はたった今、ルベリエ長官にそう告げられてきたばかりですよ」


疑問を投げかけると、アレンは片手を持ち上げた。
そして自分の左耳に下げたイヤリングを弾く。
涼やかな音を立てたそれはただの装飾品にしか見えないが、正体は教団の開発した無線機だ。
リンクは軽く目を見張った。
同時に上着の中に違和感を覚える。
何かが服の内側で蠢き、暴れまわっているのだ。


「これは……」
「出て来い、ティム」


アレンがそう言った途端、リンクの襟首から金色の球体が飛び出してきた。
それはさもスッキリしたとばかりに翼をはためかせ、アレンの元へと飛んでゆく。
少年の手に着地したのは、呼ばれた通りに、どこからどう見てもティムキャンピーだった。


「まさか……っ」


リンクはようやくそれを悟って顔色をなくした。
自分の服の中にティムキャンピーが潜んでいた。
そしてアレンは耳に無線機をつけいる。
さらにはまだリンクしか承知していないことを「知っている」と言い切ったのだ。
これは、間違いない。


「私と長官の話を盗聴していたのですか……!?」
「ええ」


非難を込めて訊いたのに、またもや平然と返される。
アレンは飛び跳ねるゴーレムを自分の肩に乗せてやった。


「言ったでしょう。僕はここで待ってたんですよ。リンクの服に忍ばせた、“ティムキャンピー”をね」


あまりにもあっさりと認められたものだから、リンクとしては絶句するしかない。
この少年は何を言っているのだろうか。
そして自分が何をしたのか、わかっているのだろうか。


「……クロス元帥が作ったゴーレムです。それはよく私達の声を拾ってくれたでしょうね」


口元を引き攣らせながら皮肉れば、アレンはティムキャンピーの頭をちょいと撫でた。


「ええ。おかげでリンクは信頼されているのがよくわかりましたよ。明言は避けたとはいえ、ルベリエ長官があれほど“”について語ってくれるだなんて」
「本当に全て聞いていたのですね?」


アレンの言葉の最後に被せるようにして、リンクが呻った。
質問というよりは確認だ。
アレンは何も答えずに、もう一度ティムキャンピーの頭に指先を滑らせる。
それを肯定と取って、リンクは拳を握り締めた。


「規則違反です。先刻の会話が機密に関するだということは考えなくてもわかる。キミが聞いていいものではなかった……!」
「………………」
「私の忠告が理解できなかったようですね、ウォーカー。懲りもせず馬鹿な真似をして……これでキミの立場は」
「部外者じゃなくなりましたか」


今度はアレンがリンクの声を掻き消すように言った。
見据えてくる銀灰色の瞳は静か過ぎる。
まったく揺らがない眼差しに貫かれて、リンクは体を強張らせた。
アレンはやはり平坦な調子で続ける。


「そう判断してくれて嬉しいですよ。その呼ばれ方は、とても不愉快だったので」
「……ウォーカー?」
「僕は」


訝しげに呼びかけるリンクに、アレンはゆっくりと瞬いた。


「これから中央庁が“”をどう扱う気なのか知りたかった。それだけです」
「……そんなこと、キミには関係ないでしょう」
「仲間なのに?」
「仲間だからこそ、です。他の者を見なさい。リナリー・リーも神田ユウもブックマンJr.だって沈黙を守っている。下手なことをすれば余計にの立場を悪くすると知っているからです」
「僕らがそう騒ぎ立てなくても、貴方たちは彼女に乱暴な真似をするでしょう」
「そんなことは」
「頬を殴りつけて、髪を鷲掴んで、無理に引きずりあげた。すでに腕を拘束しているのにも関わらず。血が出ているのも気にしないで」
「………………」
「……それは」


ぐっと言葉を詰めたリンクを、アレンは目を細めて見やった。
そして落ち着いた声音で続ける。


「もう過ぎたことです。けれどこれからは許さない」
「……、どうすると言うのです」
「それを決めるために、中央庁の考えが知りたかったんですよ」


アレンの右掌はずっとティムキャンピーの上に置かれていた。
その理由は簡単だ。
先刻からずっと、金色のゴーレムはジタバタと暴れていて落ち着かない。
リンクが思わず見つめているとアレンは少しだけ笑った。


「ティムはのことが好きだから。心配なんでしょう」
「……キミも同じですか」
「こんな可愛らしいものではありませんよ」


アレンは宥めるようにティムキャンピーに頬を寄せる。
微笑した唇が何故だか恐ろしく見えた。


「リンクはのことをただの少女だと言った。言葉の通じる人間。頭だって悪くはない。……けれどそれこそが、中央庁にとっては目障りなんでしょう」
「………………」
「“”は自分の立場を理解し、規約を守って生きている。無意味に逆らうような愚行は犯さない。それは状況を正確に読み取り、冷静な判断を下す頭をもっているからです。馬鹿にはちょっとできない芸当ですよね」


アレンはそこで自分のこめかみを指先で叩いた。
そう。はバカだが、馬鹿ではない。


「『もっと愚かな子供だったら、憚ることなく弾圧できたのに』。それが上層部の本音だ」
「………………」
「地下水路で長官が“扱いにくい”と言ったのは、のそういうところでしょう。確かに中央庁としてはやりづらい相手だと思います」
「………………」
「共感しますよ。けれど同情はしない」


アレンはキッパリと言い切って、口元だけの笑みを深めた。
持ち上げていた手を下ろして胸の上で強く握る。


「中央庁が危惧しているのは“”という人間の本質……特殊な境遇に置かれているにも関わらず、多くの人に好かれ、信頼を寄せられている……、そんな彼女がとても厄介だ。そうですよね?」


言葉は問いかけのような形を取っていたが、リンクには返す答えがない。
声を出そうとするけれど無駄だ。
いつの間にか喉がひどく渇いている。


「教団はの孤立を願っていたはずです。でなければ過去は完璧に隠蔽したくせに、その“事実”を一切隠そうとしなかった理由がわからない」


考えてみれば妙な話だったのだ。
過去を抹消したからといっても、そのことを素直に話す必要はどこにもない。
その事実すらも隠してしまえば―――――嘘をつくことにはなるが―――――は“”という名の人間として周囲に受け入れられただろう。
個人データを全て消したうえで、新たに『彼女』という存在を造り上げてしまえばよかったのだ。
本当に世間から隠そうとするのならばそうするのが妥当だった。
けれど教団はそれを実行しなかった。


「むしろ“アンノウン”と呼んで憚らず、彼女が秘匿とされるべき人物であると印象付けた節があります」
「……わざと触れ回ったと言うのですか。が、普通の少女ではないということを」
「そう考えればしっくりくるんですよ。偽名を名乗り、出自を隠した人間。皆は奇異の目で見る。疑問と不審は恐れに変わり、揃ってを敬遠する。……ね?完璧な筋書きでしょう?」


アレンはにっこりと微笑んだけれど、それは冷笑だった。
冷たい光で瞳を光らせながら言葉を継ぐ。


「皆の輪から外れていれば万が一にもの正体がバレる心配はない。同時に、中央庁の望む形で周囲に影響を与えてくれる。彼女は異端者。集団における負の感情の捌け口としては最適だ」
「捌け口……」


そう言われて反論できないのがリンクの辛いところだった。
確かにはさんざんにその任を背負わされてきたと言っていい。
長く続く共同体の中で、さらには戦時であるという状況で、人間の心は不安定になりやすい。
あってはならない方向に傾くこともあるだろう。
そこに居る“得体の知れない少女”。
こいつならばひどく扱っても、どこからも文句はでない……事実としてそう考えた者も少なからず存在するのだ。


「殴って、蹴って、乱暴しようとして。ひどい実験に使っていたのは知っています。彼女という蔑むべき存在がいることで、集団心理は平穏を保てる。“”はまさしく人身御供にされてきたんだ」
「そんなのは全てキミの憶測でしょう……!」


本当は怒鳴りつけてやりたかった。
これ以上、自分の帰属すべき団体を非難されることは許せない。
けれど口から出てきた自分の声はかすれていて、想いの半分も強さを伴っていなかった。
記憶の中にいる金髪の少女はどこまでも“ハワード・リンク”の心を締め付けて開放してくれない。
せめてもの反抗にアレンを睨みつける。


「……どちらにしろ」


相手も同じような視線を返してきた。


が本当の“仲間”を勝ち得てしまったことは想定外だったはずですよ。これではいつ彼らを味方にして歯向かってくるか、わかったものじゃない」


アレンの冷笑はいつの間にか消えていた。
今はただ、何の感情も表に出すことを拒否しているように見えた。


「リンクが無害だと評した部分……卑屈になろうとしない性格と、事を見抜く聡明さこそが、中央庁の恐れるところです。他人を惹きつけてしまう“”という人間は邪魔者でしかない」
「……全員が全員、に感化されたわけではありません。数の上では彼女を嫌う者のほうが多いでしょう」


リンクは胸が痛むのを感じながらも口を動かした。
もしそれがアレンの言うとおり、中央庁の仕向けた結果なのだとしたら……。
今は考えることを止めて言い募る。


「何より自身がここに居たいと望んでいる。彼女が団員たちと共に反逆行為を犯すだなんて考えられないではないですか」
「貴方にはね」


アレンはずばりと言って捨てた。


「リンクがそうでも、他は違う。がそう主張しても信じたりはしないでしょう」
「…………信頼を得ようとする努力を、反徒仲間を集めているのではないかと疑う。そういうことですか」
「ええ。……話が早くて助かります。まぁ僕でも考え付くことが、リンクにわからないわけないか」


後半は独り言のように呟かれた。
一応賛辞のようだが、リンクは強く首を振る。


「いいえ、わかりません。今更そんなことを邪推して、キミはどうするというんです」


真っ直ぐにアレンを見据えて声を低めた。


「まさか“”の扱いについて異議を申し立てるつもりではないでしょうね。そんなことをすればキミも彼女もただでは」
「とりあえずは中央庁も行動を起こさないようですね」


またもやリンクの声は遮られた。
まるで続きは聞きたくないとでも言うように、アレンただ自分の言葉を重ねる。


「規約を破ったを尋問・監禁し、さらにその事実を団員たちに知らしめることができた。それできっと長官は満足したんでしょう」


アレンの肩の上でティムキャンピーがガシガシと歯噛みしている。
彼はその音にちょっと耳を塞いだ。


「長官がリンクに語ったのはこれまでのことだけ。つまり、すぐには対処の方法を変える気はないということです。悪化の可能性がないのなら僕も無闇に事を起こしたりはしませんよ」
「………………」
「今回はまだ、ね」
「……、キミのそういう考えが、それに伴うであろう行動が、余計にを追い詰めることになるのだと何故わからないのです」


リンクは思うままにアレンとの距離を詰めた。
彼がやろうとしていることは、あまりにも危険だ。
一歩間違えばを北の塔へ追いやる原因にもなりかねない。
何故ならアレンこそが、中央庁に“アンノウンに与する反徒”と見なされるであろう思考の持ち主なのだから。


は自分の立場に不満を持っていません。それを知っているからこそ、友人達も黙して見守っている。それなのに、どうしてキミは……キミだけは」


苛立った声で言って、リンクはアレンの肩を強く掴んだ。


「そんなにを傷つけたいのですか、アレン・ウォーカー!」


「ええ」


返答はあまりにも意外だった。
アレンは瞳を揺らしもせず、表情を変えもせずに、肯定を口にしたのだ。
限界まで目を見開いたリンクに、アレンは恬淡と繰り返した。


「その通りです」
「なに……、何だって……?」
「どうせ彼女は“”でいる以上、誰かに傷つけられる。アクマに、ノアに、中央庁に……この世界に。だったら僕が一番に傷つけてやりますよ」


リンクにはアレンが何を言っているのか理解できない。
目の前の少年があまりにもそう決意してしまった顔をしているから、言葉が出ない。


はどうしたってズタズタにされるんだ。だったら僕が、彼女を害する全ての敵と戦ってやる」
「…………………」
はそれを嫌がるでしょうね。心を痛めて、苦しむはずだ。でも、だから何だって言うんです?」
「…………………」
「守れるのならば、そんなこと構うものか」
「…………………」
「僕は、を傷つけるものを許さない」


そこでアレンは掴んでくるリンクの手を振り払った。
先日リンクがそうしたように、確かな拒絶を持ってそれを行う。
片方だけになってしまっている瞳は、今や銀色に発光しているようだった。


「他の誰にも傷つけさせない。そうすることで、僕だけが彼女を傷つける」


そうしてアレンは唇に笑みを刻んだ。


を痛めつけるのは、僕だけの特権にしてみせますよ」


リンクは愕然とした。
という人間は、守られることを拒絶する。
身の丈に合わないほどの重荷を背負って、それでもただひとり凛と立っている。
自分の敵は自分で倒すと言い切り、実際にそうしてきた。
溢れるほどの負の感情でも決して他人には渡そうとしない、気高くも強い人間だった。


けれど目の前の少年は、そんな彼女の辛苦を無理やり奪い、それを相手取ると宣言したのだ。
自分が倒すべき敵と戦われること。
そして、その背に守られること。
考えるでもなく、が断固として拒むことだ。
それは彼女の意志と誇りをないがしろにした行為。完膚なきまでに傷つける行いだった。


は仲間を大切に想っている」


気がつけばリンクは自然と口を動かしていた。


「それなのに」


そんな彼はを守りたいと言う。
その存在を傷つける全てと戦ってみせると笑う。
けれどそうすることで、彼女はさらに苦痛を負うことになるだろう。


「あの人はとても馬鹿で、自分よりも他人の傷を痛いと感じてしまう……。キミのやろうとしていることは、やはり彼女を追い詰めるだけです」


無駄にその苦しみを増やすだけだ。
本当にアレンは、他の何からも守ってやる代わりに、一番にの心を害そうとしている。


「キミは……っ」
「最低でしょう?」


リンクの言葉を攫うように、アレンが言った。
いつの間にか彼の笑みは自嘲に変わっていた。


「それでも、が傷つけられるのは嫌なんです。どうせ痛いのなら、僕が……僕だけがそれを与える」
「……どうして、そんなことを」
「仲間だからですよ」


それだけ告げると、アレンは踵を返した。
「すみませんリンク」と囁かれたけれど聞こえないフリをした。
謝罪などいらない。
そんなものは必要ない。
ただリンクは去ってゆくアレンの背中に向かって呻く。


「違う、そんなのは……っ」


そして此処が廊下であることも忘れて怒声を投げつけた。


「そんなのは“仲間”ではない!!」


アレンは返事をしなかった。
足を止めることなく先に進んでゆく。
肩に乗せたティムキャンピーが、彼を気遣うようにして身を寄せているのが見えた。


そう、リンクは知らなかったのだ。
誰にも聞こえないようにアレンがこう呟いたのを。


「そうだよ、違う。こんなのは仲間なんかじゃない」


こんな、自分だけが破壊するほど傷つけたいと、願うなんて。
けれど言っても伝わらないし、伝える気もないから、アレンは世界の暗がりに向って吐き捨てた。




「僕が望んでいるのは、仲間“以上”のことだ」




白い包帯の下、潰された左眼。
そこから滲み出た血が一筋、涙のように頬を滑り落ちていった。




胸の内を暴れまわる感情の名は、いまだにわからなかった。










今回はアレンばかりの話でしたね〜。
後半からはヒロインすらも台詞なしという……。(汗)
この章は開始からずっとアレンが怒っているというか苛々しているというか、何だか書いていて可哀想な感じでした。
だかしかし!ヒロインの境遇について突っ込んでくれるキャラは彼しかいないので。頑張って頂きたいです。


次回からようやく『遺言はピエロ』の本題に入ります。
少しは明るくなるのかな?アレンがフィーバーしてくれることを祈りましょう。^^
どうぞお楽しみに!