色鮮やかな衣装と化粧品の匂い。
幕内に並んだ緊張顔。
楽屋裏の喧騒が思い出を呼び覚ます。
ほら、始まるよ侵食セレモニー。
● 遺言はピエロ EPISODE 4 ●
最低だ、と罵ってやりたかった。
けれど声が出ない。言葉が続かない。
アレンを非難することが、リンクにはとても困難に思えた。
(ウォーカーは、自分の行動がを傷つけると理解している)
乾いた喉で空気を嚥下する。
(その上で、全ての非を背負うつもりでいる。私にそれを告げたということは……やはり覚悟を決めてしまったということか………)
では、何が彼をそうさせるのか。
少年を突き動かす原因に思い至ってリンクは片手で顔を覆った。
(あぁ、あの二人は引き離しておくべきだったのだ)
後悔の念が胸中に湧き上がってきた。
どちらのこともよく知っている自分が、中央庁にそう進言するべきであった。
アレン・ウォーカーというのは、自己を犠牲にすることすら厭わずに他人を救おうとする心優しい少年。
人間どころかアクマまで、全ての者を等しく思いやる博愛精神の持ち主だ。
そんな彼が“アンノウン”という存在を前にしてどうするかなんて、容易に想像できたではないか。
ましてや相手はあのだ。
彼女は特殊な境遇でありながら、必死の我慢と努力でここまで歩いてきた人間である。
弱さを許さず、絶望にも負けず、懸命に生きようとするそのひたむきな姿に心を打たれた者は少なくはないだろう。
ブックマンJr.や神田ユウがいい例だ。
滅多なことでは懐柔されないリンクですら似たようなものなのだから、アレンは当然だといえた。
彼らは仲間になってしまった。
それも教団やエクソシストという名目上のものではなく、信頼という絆で結ばれた本当の“仲間”にだ。
そんなを、アレンが放っておけるはずがない。
あのような少女がひどく扱われることを黙って見過ごすはずがない。
二人の性質を突き合わせれば、こうなることは目に見えていたのに。
(違う、それでも)
リンクはひとり首を振った。
(まさかの意思を無視してまで事を起こそうと言うだなんて)
アレンは優しい。
優しいからこそ、相手を傷つけてまで自分の気持ちを押し通そうとするなど考えられなかった。
今の彼は非常に身勝手である。
本人もそれを知っているようだったから、ますますリンクの予想の範疇を超えてしまっていた。
(まさかあのウォーカーが……)
一番に他人を想い、誰にでも心を砕く、慈愛に満ちた彼はどこへ行ってしまったのだろう。
あまりの事態にリンクは思わず呟いていた。
「信じられない」
「何が?」
思いがけず返答があって、少し肩を揺らす。
振り返ればが寝ぼけ眼を擦っていた。
そうだ、自分は彼女の部屋から引き上げるための荷造りをしていたところだった。
眠っている部屋主を起こさないように静かに作業を行っていたのだが、考え事にはまって手がおろそかになっていたらしい。
鞄に詰め込まなくてはいけないレシピ本はまだ半分も片付いていなかった。
「……何でもない」
リンクは視線を逸らしながら言った。
は相変わらずシーツの中で瞬いている。
まだ気だるそうだったから、作業を再開しながら声を尖らせた。
「いいから眠っていなさい」
「リンク」
「私を手伝いたいなどという寝ぼけた発言なら聞きたくありません」
「……何でわかるの」
「キミと違って馬鹿ではないからです」
「ねぇ」
「うるさいですね。いい加減にしないと強制的に眠らせますよ」
「二人きりなのにどうして敬語?」
「…………………」
ああ、そういえば。
そこで何となく取り繕うのが面倒になって、リンクは作業の手を止めた。
荷造りを完全に放り出してのベッドまで行く。
彼女が起き上がろうとしたから、片手で制した。
「……、もう察していると思うが。私の任は明日で解かれる。キミの監査役はお終いだ」
言いながらそっとベッドの淵に腰掛ける。
女性が横たわっている寝台に座るなど、リンクの常識的には有り得ない。
けれどが相手だから平気でそうすることができた。
そんな自分に何となく微笑を浮かべる。
「せいせいした気分だ。これほど厄介な仕事は他にない。ようやく、開放される」
「そう言われると胸が痛いなぁ。お詫びに今日ずっと掴まえていてやろうかな」
「だったらいつも通りにしていればいい。……どうせ私は、キミから目を離せない」
「そんなに危なっかしい?」
「ああ」
が拗ねたような顔をしたので、リンクは手を伸ばして頭を撫でてやった。
指先を滑らせて前髪を掻きあげる。
髪のなめらかさと肌のすべらかさを楽しんでいたら、妙な感触がして動きを止めた。
確認してみると小さな傷だった。
地下水路の船着場で鴉の一人に殴り倒されたときに切った箇所だ。
もはや血の赤もなく、桃色の跡だけが残っていた。
けれど刻まれた痛みは消えないだろう。
そしてこれを付けたのは、自分の同類である。
リンクは思わず体を強張らせた。
「リンク?」
が名を呼んでくるけれど、返事が出来ない。
言葉を失くす。
だからこそリンクにはアレンを糾弾することが不可能なのだ。
(を傷つけているのは私も同じだ。私は中央庁の人間……“鴉”なのだから)
この傷を付けたのは己の分身。
場合が場合であれば、に手を上げていたのはリンクだった。
理解していたはずなのに、わかっていなかったのだろうか。
唐突に触れていてはいけない気がして手を引いた。
背筋がぞわりとする。
次いで胃の腑が縮むような不快感に襲われた。
(私にはウォーカーを非難できない。“私”は彼の戦うべき相手……、つまり)
「どうしたの、リンク」
急に手を引っ込めて硬直してしまったリンクの顔を、金色の瞳が覗き込んでくる。
それを半ば呆然と見つめながら唇を動かした。
「私はキミの敵だ」
そう、初めて逢った日からそれが明確な事実だった。
自分はを傷つけてきたし、これからもそうするのだろう。
『ハワード・リンク』という人間は、中央庁の者で特殊部隊“鴉”でルベリエ長官の部下なのだから。
にしてみれば、上の言葉は何の前触れのないものだっただろう。
けれど彼女は驚いた素振りを見せなかった。
ただ不思議そうに首を傾けた。
「そんなの今更でしょう」
あっさりしたものだ。
リンクはちょっと両肩を下げた。
「言うことはそれだけか……」
「だって本当に今更じゃない。リンクは初対面からそれの一点張りで」
「……………………」
「私も同意している。お互いが了解していることよ」
「では、キミは敵と馴れ合うのか。こうやって」
自分勝手な話だが、リンクはだんだん腹が立ってきて眉を寄せた。
敵だと言っても平然とされていたのでは、自分達の仲が疑わしくなる。
リンクは目を細めて冷たい視線を送った。
「だったら私も考えを改めなければいけませんね。平気で敵を友人と呼ぶような人間を、放ってはおけません」
そこでが起き上がったので、咄嗟に腕を掴んだ。
ベッドに戻そうとしたが抵抗される。
リンクは苛立った声で呼んだ。
「アンノウン。従いなさい」
するとはぴたりと抗うのを止めた。
顔をあげてリンクを見やる。
「私を“アンノウン”と呼ぶ人は敵よ」
「……………………」
「そして滅多なことでは逆らわないと決めている。我がままも言わない。聞いてはくれないと知っているから」
「……、私は」
「たぶんね、私は甘えているのよ。あなたに」
別の解釈をしていたリンクは、そこで本気で呆気に取られた。
何を言っているのだろうこの娘は。
相変わらず言動が読めない。
唖然としている間にがまた唇を開く。
「私はハワード・リンクという“個人”としてのあなたに甘えている。敬語を取って話して、親しげに名前を口にして、面と向かって友人と呼ぶ」
「…………………」
「けれど、中央庁の人間で“鴉”でもあるあなたには、そんなことしない。……出来ない」
してもらっては困る、とリンクは思った。
応えることはできないし、だって咎められてしまうだろう。
困ったように瞬くと何故だか微笑まれた。
「立場とか外聞とか面倒だけど、大事なことだもの。あなたはあなたのために、私の敵で在り続けなければならない。それでいいのよ」
「……よくはないだろう。敵であり、友人だなんて、矛盾している」
「その矛盾を許してくれているのが、あなたでしょう。だから私はあなたに甘えているというの」
「……………………」
「あなたは私に優しいから」
「優しくなどしていない」
これは本音だ。
優しくした覚えなどない。
現にリンクは仲間がを殴り倒すのを、制止もせずに黙って見ていたのだから。
「長官の命令があれば、私はキミに刃を向ける。そういう人間だ」
「知っている。自分の信じるものに忠実な“ハワード・リンク”。それがあなた。私の好きな人間よ」
「自分を害する者に好意を向けるのか。……私が敵でも構わないのか」
リンクが苦々しく訊けば、は頷いた。
確かに首肯したのだ。
リンクが自分でも驚くくらい落胆するのを感じる。
けれど視線を逸らした矢先に言われた。
「あなたは敵よ。けれど信頼できる敵だもの」
「…………………」
「あなたが私を害するのならば、その非は私にある。責は負うべきものよ。どんどん罰してちょうだい!」
「……何だか今、物凄いことを言われた気がするのだが」
ちょっと頭がついていかなくなって、リンクは痛む額を押さえた。
は胸を張っている。
拳でそこをどんっと叩いた。
「いけないことをしたのなら、叱られるのが筋でしょう。私は受けて立つ。あなたからも逃げたりなんてしない」
「そんな生易しい話ではないだろう……」
「言い方の問題よ。……あなたはあなたの成すべきことをして。きっとそれが正しい」
「何故そう言い切れる」
「友達だからね」
「…………………」
「私はあなたが好きよ。監査対象だっていうのに無意識に気遣ったり、とことん世話を焼いたり、真剣に叱ってくれる、あなたという人間が好き」
そう簡単に好き好き言わないでほしい。
けれど声に込められている気持ちがとても暖かなものだったから、リンクは黙って聞いていた。
聞いていたいと思った。
「敵なのに友人のように思ってしまったんだもの。今更どちらだけになると言われても大丈夫。私はあなたの判断を信じる」
「……私は命令には逆らわない。それがどんなものでも遵守する」
「それもあなたの意思でしょう。同じよ」
「私はキミを傷つける」
「その場合はそうするだけのことがあなたにあって、そうされるだけのことが私にあった。それだけのことね」
がまったく悲観した様子を見せないので、リンクは逆に苦しくなった。
この娘は本当に自分の境遇に関して不平・不満を言わない。
一切も漏らさないそのいじらしさが急に切なく感じられた。
まだ子供のくせに、どうしてそんな風に振舞える?
何故諦めではなく、友人が敵になる可能性を受け入れられるのだ?
リンクはもう一度繰り返した。
「私はキミの敵だ」
「知ってる」
「私はキミの味方にはなれない」
「言い方を変えても答えは一緒よ」
「私は、キミの友人でいいのか」
「……………………」
「私は今までも、これからも、キミを傷つける。そんな者が友でいいものか」
それはもはや問いかけではなく否定だった。
世間では自分達の関係を良好なものとはみなさないだろう。
何よりリンク自身がそう思うことが出来なかった。
気持ちはどうあれ、自分は彼女から様々な権利を取り上げた組織の一部なのだから。
「けれど」
リンクは深いため息をついた。
「そう考える一方で、どうしようもなく諦めている。……間違えたのだとしたら、キミと出逢った二年前だ」
胸が苦しいからそこに掌を当てた。
そう、どうせどれだけ敵対しようとも彼女は此処に居続ける。
あのとき交わした言葉が、笑顔が、約束が、今もリンクの心に暖かく巣くっていた。
「キミを“”と呼んだ瞬間から、私は逃げられなくなってしまった。どこか狂ってしまったようにも感じるし、これこそが正しかったのだとも思う」
きっと本来の道は違えてしまった。
リンクはもうただの監査役ではない。
一人の人間として、に親しみを覚えてしまった。
そしていつも、いつだって、意識の奥底で彼女の幸福を願っている。
「キミは私を変えてしまった。敵でいたかったのに、そうさせてはくれなかった」
一方的に責められるのなら、ひどい娘だと言ってやりたかった。
こんなにも心を奪うのならば全部そうしてくれたらよかったのに。
「友人ならばもう酷いことはしないでくれ」と当たり前のことを願って欲しかった。
けれどは決してそんな言葉を口にしないから、リンクの気持ちは宙ぶらりんだ。
「同時にルベリエ長官は、私をキミの味方にはさせない。……私はどちらも裏切れない」
淡々と呟けば、胸に置いた手の上にぬくもりを感じた。
見てみるとの掌が触れている。
振り返れば金色の瞳と出合った。
そこに滲んだ色を見て、彼女が言うより先にリンクは首を振った。
事の責任は自分自身にあるのだと伝えるために。
中央庁とアンノウン。
ルベリエと。
二人は対極に位置する。
義務を取るのならばへの情を完全に捨てるべきだ。
感情を取るのならばルベリエに離反を告げなければならない。
役目を果たしに冷徹に接するか、役目を放棄しルベリエの前に立ちはだかるか。リンクにはずっとそんな選択肢が提示されていた。
それをあえて無視し、どちらのためにも動いてきたのだ。
気持ちに誠実に、誰にも不誠実に、二年間も過ごしてきた。
それを選んだのは自分の意思で、のせいではない。
確かに彼女が原因ではあるけれど、その結果はリンクが負うべきものである。
「。私は」
重ねられた手を取って、強く握った。
「ハワード・リンクはアンノウンの敵だ。中央庁の監査官でありルベリエ長官の部下である私は、決して命令に背かずに組織のためだけを考えて行動する。必要とあればキミを害することも躊躇わない」
の表情は変わらない。
そうだろうとは思っていたけれど、それでも何か感情を示されるより先にと、リンクは言葉を急いた。
「けれど私はキミの友人だ。ただ一人の人間として、私はキミが健やかな日々を、穏やかな時間を、幸せな人生を送ることを祈っている。……それがどれほど難しくても、私自身がその障害になろうとも……心から」
最後はやはり小さな声になってしまった。
断言できないのは矛盾を知っているからだ。
もう少し馬鹿だったなら良かった。
そうしたら「理屈で気持ちは割り切れない」と開き直ってやれたのに。
「……キミを傷つけながら、息災でいて欲しいと願うのは………やはり都合の良すぎる話だな」
リンクは自嘲して、そこでハッと気がついた。
そうか。つまりそういうことなのか。
唇に笑みを刻む。
今の自分の表情は、去り際にアレンが見せたものとまったくの同色をしているだろうという自覚があった。
(キミも私と同じ気持ちだったのか……、ウォーカー)
二つのものの間でせめぎ合う心。
どちらか一方を選べないほど強く拮抗する想い。
リンクが義務と感情の間で板ばさみになっているのと同様に、アレンも選択を迫られたはずだ。
他でもない自分自身に。
(を守りたい。けれどそのためには彼女の意思を無視しなければならない。……他人に傷つけられるか、自分の手で傷つけるか。ウォーカーにはそのどちらかしかなかったのだ)
あの優しいアレン・ウォーカーのことだ。凄まじい葛藤があったことだろう。
それでも彼は選んだ。
ひどく矛盾した道ながら、答えを出したのだ。
それに伴う痛みも苦しみも、何もかもを一身に背負う覚悟で。
(何故私にあんなことを告げたのかと思っていたが……。そういうことだったのだな)
仮にも中央庁の人間である自分に、アレンが危険な思想を語っていった理由がようやく理解できた。
そう、彼はリンクが出す答えに気付いている。
本人よりも早くそれを知ることができたのは、同じ矛盾を抱えた者同士だからだろう。
一度わかってしまえば後は簡単だった。
リンクは微笑んで、のベッドから立ち上がった。
するりと離された手に、まだ彼女のぬくもりが残っている。
「私は何もかもを放り出して、キミのためには動けない」
理性が、義務感が、そして何よりルベリエへの忠誠が、それを許さない。
「けれど徹底的に敵にもならない。……なれないのだから、仕方がない」
感情が、思い出が、そして何よりへの親愛が、そうさせてしまう。
どちらにも逃げられない。
逃げられるほどの気持ちではないから、リンクは告げた。
「ならば私は、敵の中の味方になろう」
やはり矛盾した答え、けれどそれが己の出した結論だった。
アレンに先に見抜かれた、心の奥。
結局はルベリエとのどちらも裏切ることになるのかもしれない。
けれど一番に忠実だった。
リンクは“鴉”である自分にも、“個人”である自分にも、とても素直に言葉を紡ぐ。
「今後キミの境遇が、どうなるかはわからない。今より酷い扱いを受ける可能性だって低くはない。そうなれば、中央庁は真実“アンノウン”の敵となるだろう」
そこで自然と吐息のような笑みがこぼれた。
「けれど、中央庁には私がいる」
「…………………」
「“鴉”だからこそ、キミのために出来ることもあるはずだ。中央庁にとっても、キミにとっても、最悪の事態を避けられるよう力を尽くそう」
「……どちらにも忠義を果たすと言うの?」
「ああ」
尋ねるにリンクはハッキリと頷いてみせた。いっそ晴れ晴れとした気分だった。
考えてみれば、それは今まで通りにやるだけのことだ。
中央庁に忠実に従い、それでいてへの負担が最小限になるよう動く。
過程は一緒。変わったのは心情、つまり気持ちの在り方である。
リンクが二年間あいまいにしてきた想いに、ようやく腹をくくることが出来たのだ。
そうさせたのは、間違いなくアレン・ウォーカーの存在だった。
たった15歳の少年が壮絶な覚悟を決めたというのに、どうして自分が迷っていられるだろうか。
そんなことを考えていたリンクは、ふいにが笑ったので驚いた。
「リンクは本当に真面目ね。私がいかに単純か思い知らされてしまう」
「……それは、今更だろう」
まばたきをしながらリンクはそう返した。
最初はそれこそ気が合わなかったものだ。
何事もきっちりとしたい性分のリンクから見れば、自由奔放に振舞うは正反対の人間だと言っていい。
「その点は私もとうに諦めている」
「それは、ダメな私を許して、そういう人間だと認めてくれているということ?」
妙な言い方をするものだと思ったが、リンクは頷いた。
すると彼女は思い切り破願して、その後表情を微笑み程度に抑えて言う。
「私も同じようなものなのよ。私はあなたの事情ごと全部含んで、その上で友人と呼んでいるつもりだから」
あっさり告げられてちょっと絶句した。
まじまじとを眺めていると、彼女はふいに真面目な様子になった。
「あなたが私を“見捨てない”だなんて、勝手な期待はしない。けれどあなたが本当に私を見限っても、怒ったり悲しんだりもしない」
それは信じていないわけではないと、頑なな声が続ける。
「ただ……私は。“あなた”が決めたことならば、きっと失望や裏切りとしてではなく、受け入れられると思うのよ」
そうしてもう一度笑った。
リンクは何だか愕然とする。
どうやらこの娘は、アレンや自分なんかよりずっと早く、己の気持ちに決着をつけていたようだった。
どうしてこうも真摯に、彼女は自分の弱さを呑み込めるのだろう。
どうしてこうも簡単に、彼女は他人の弱さを受け入れられるのだろう。
少し、泣きたくなった。
リンクは恐怖に似たものを感じてしまったのだ。
はやはりルベリエととてもよく似ていて、恐ろしく堅固な何かを心の内に秘めている。
それは支えであり、急所でもあった。
たった一点。そこを崩されれば、彼女という人間は、その全てを巻き込んで瓦解するだろう。
滅多に起こることではないと知っていても、の強さはそれゆえであるとわかっていても、恐れずにはいられなかった。
だからこそリンクは同じ欠点を持つルベリエに仕え、敵であるを大切に想ってしまうのだ。
力になりたいと、願ってしまうのだ。
「リンク?」
妙な顔をして黙り込んでしまったからか、がちょっと不安そうに瞬いた。
リンクは強張った唇で呟く。
「なんて厄介な……」
そして何とか微笑んだ。
「本当に、私はキミのように単純でなくて良かったよ」
「何それ」
途端には半眼になった。呆れたような声を出して、唇を尖らせる。
その顔を眺めながらリンクは心から思う。
自分は、彼女のようでなくて良かった。
もちろんその強さには敬服するが、がこうも受け入れがたいものを容認してしまうようであれば、そこには危険が発生する。
きっと傷ついても、傷つけられても、彼女はその相手を許すだろう。
誰ひとり憎みはしないだろう。
そんな優しさに甘えて振舞うことは簡単で、だからこそ知恵をひねるべきだ。
が許すのならば、自分達が許してはならない。
彼女と違って弱く、醜く、不様に迷って、それでこその答えを出さなければならない。
(守るとは、そういうことだろう?ウォーカー)
心の中で少年に語りかけて、目の前の少女を呼んだ。
「」
「なに?」
「お茶会でもしようか」
とりあえずはこの何気ない日常を守ろう。
ここ数日、自分達が奪ってしまった時間を。
リンクはそう考えてに提案する。
すると彼女は一瞬きょとんとして、それから顔を輝かせた。
「そ、それはもしかしてリンクお手製のお菓子を食べさせてくれるということで……!?」
「もちろん。洋梨のタルトに桃のムース、ラズベリーソースのプリン、アップルパイ、モンブラン、ガトーショコラ、苺のショートケーキもある。どれがいい?」
「ぜんぶ!」
珍しいことにはアレンのようなことを言った。
リンクは驚いてちょっと眉を寄せた。
「健康マニアの名を返上する気か?甘い物ばかり食べるのは体に悪いと言っていただろう」
「いいの、今日は特別。リンクが帰っちゃうまでに全部食べさせて」
「取っておきなさい。数日なら保存がきくし、私がいなくても問題は」
「大ありよ」
は妙に真面目くさった調子で指を振った。
「“私たち”でお茶会をするんでしょ?」
当たり前みたいに言われて、リンクは頬を緩めた。
は同じ口調で続ける。
「眠る前にはチェスをしよう。勝負は持ち越しでも構わない」
「そうだな。続きはまた次に会ったときに」
それは約束というほど大層なものではなくて、ただ日常の一部を声に出してみただけだった。
リンクは手を伸ばしての頭を撫でた。
額の傷にまた触れたけれど、今度は怖気を感じなかった。
ただ優しい気持ちになる。
「私には、一人じゃ出来ないことがたくさんあるけれど」
お茶の準備をしようと動き出したリンクの背に、何気ないの声がかかる。
「二人でなければ出来ないことも、それはもうわんさかとあるのよ。困ったことにね」
わざとらしく肩をすくめて、「だから付き合って」と彼女は言った。
お茶会もチェスも、元々一人でするものではない。
同時に絶対にというほどのことでもない。
だからこそがそれをしたいと言って、自分が付き合ってやれるというのは随分素晴らしいことのように思えた。
「そうだな……、私にも一人では出来ないことがありそうだ」
それを教えてくれたのは、紛れもなく彼女だった。
「美味しい紅茶が飲みたい。私の分はキミが淹れてくれないか」
ほとんど初めてのように冗談めかして言うとが笑った。
リンクも同じ表情になる。
微笑みを交し合うことも、二人だからこそ出来ることのひとつだった。
別に見送るつもりなんてなかった。
どちらかというと視界に入れるのも遠慮したかった感じなので、これは完全に不可抗力だ。
そもそも司令室に呼び出されたりしなければ、こんな朝早くから此処へはやって来なかっただろう。
「………………」
アレンがぼんやり立っていると一瞥を投げられた。
廊下に黒い影が列を成している。
鴉や中央庁の人間を従えて向こうからやってくるのはルベリエだ。
面倒だなと思う。
進行方向がそちらだけに、挨拶をしなければならないのが億劫だ。
けれど無視するわけにもいかない。
と、そこで後ろから腕を引かれた。
驚いて振り返って見れば鮮やかな赤毛が目に入る。
「ラビ」
「こっち」
彼は表情もなく、小さくそう言った。
そのまま引っ張られて壁際まで連れて行かれる。
隅に寄ってしばらくしたところで、目の前を中央庁の列が通り過ぎていった。
ルベリエはこちらを見なかったし、アレンもラビも声をかけなかった。
そうするのが正解だったのだと何となく悟る。こういうときのラビは意外なほどに的確だ。
本当は頭も下げるべきなのだろうけど、そこまでする気にはなれなかった。
「……帰るんですね」
小声で呟くとラビが頷いた。
中央庁が本部から退いてゆく。
別段別れを惜しむような間柄ではないし、むしろとっとと帰れと思うくらいなのだから、この場に居合わせたくなどなかった。
同時に後ろ姿を見送れたことでひどく安心した気持ちにもなる。
「ま、根本的には何も変わらねぇさ」
アレンにだけ聞こえるようにラビが吐き捨てる。
そう、中央庁がこの場から消えたとしても、それは何の解決にもならない。
そして解決するだけの力を自分たちは持っていなかった。
思わず下を向くと、ふいに視界が翳った。
伏せた睫毛のせいだけではないだろう。
それは隣に立つラビの気配からも察せられた。
顔を上げればそこには、リンクが一人で立っていた。
じっとアレンを見下ろしている。
「…………………」
中央庁の他の面々はもういない。
彼だけが列を離れて此処に残ったのだろうと検討をつけて、アレンはすぐに顔から驚きを引っ込めた。
「……何か?」
彼が言い出すことは予想できるが、そう訊いてみる。
リンクは無表情のまま口を開いた。
「これだけは言っておこうと思いまして。………勘違いを、しないでください」
冷たく突き放すようにリンクはアレンに言葉を投げた。
「キミは私を利用できると思っていることでしょう。それは大きな間違いです」
「………………」
「思惑どおりになどならない。私は、キミとは違う」
「違いますか」
「ええ。私はキミのように彼女のためにならないことをする気はありませんから」
痛いところをズバリと突いて、リンクはアレンを睨みつけた。
「私は中央庁にとってもにとっても最善の方法を取ってみせます。キミに焚きつけられたからではなく、自分の意思でそう決めました」
「……そうですか」
「けれど覚えておいてください、ウォーカー」
細い双眸の奥で強い光が閃く。
「私はキミの味方ではありません。むしろ上層部に楯突き、の考えを尊重しないキミが気に食わない。遠ざけて、排除してしまいたい」
「なるほど。僕はあなたの敵ですか」
「決まっているでしょう。キミは彼女を守るどころか害になるばかりだ」
「僕が守りたいのは彼女の現状ではなく、彼女という人間そのものですよ」
アレンが平坦な声でそう返すと、リンクは少し哀しげな顔をした。
同情のようにも見えたし、軽蔑のようにも見えた。
もしくは羨望。
「……何故そんな風に、を扱えるのです」
強いはずの彼女を弱者のように言い、苦痛から庇い、絶望から守って、庇護しようとするのか。
その答えはアレンの中にしかなかった。
説明する気もない。
あの少女の涙を知っているのはアレンだけなのだから。
「リンクは」
アレンは返事をせずに別のことを口にした。
「にとって悪くないように動いてくれるんですね?」
「あ、ああ……」
「だったら何でも構いませんよ。ありがとう」
そこで心から微笑むと、相手はますます表情を歪ませた。
奇妙なものを見たとでも言いたげな様子でアレンを眺め、両肩を落とす。
吐息に乗せるようにして呟いた。
「……無茶をしないように見張っておいてください。神田ユウやブックマンJr.はそれを許してしまうようだから」
「はい」
「それと……」
言いながら手を伸ばす。
リンクの指先がアレンの髪に触れた。
否、耳だ。
耳朶を打つ乾いた音。
パキン……ッと何かが壊れるような。
「キミも、危ない真似はしないように」
拳に握りこんだそれを押し付けられる。
反射的に受け取ってみれば、それは耳から下げていた無線機だった。
真ん中から真っ二つに折れ、無惨にひしゃげている。
確かめるまでもなくもう使えはしないだろう。
「二度目はありませんよ」
リンクは盗聴の件を思いのほか重く受け止めていたようだった。
わざわざ耳に下げた状態のを片手で握り壊し、その残骸をアレンに返したのだから、これは忠告と取らなければならない。
次があれば、リンクはアレンに容赦をしないだろう。
彼の冷徹さを垣間見て、少し肌が粟立った。
アレンは壊された無線機を掌の中に閉じ込めた。
「……はい」
返事を聞いたリンクは別れも告げずに踵を返した。
折り目正しい彼が礼儀に欠いた行動を取ったのは、今の会話をなかったものにしたいからだろう。
それはアレンも同感だった。
誰にも語らずにこのまま胸に秘めておくのがいい。
アレンとリンクは敵であり、味方ではない。
ただ、同士とは呼べる気がした。
アレンは残骸をポケットに突っ込むと隣のラビを見上げた。
「僕はコムイさんに呼ばれてるんです。ラビは?」
普通に話しかければ、彼は少しだけ眉を下げた。
それからいつものようににこりと笑って応えた。
「オレも司令室に用があるんさ。ジジイが文献を取って来いってさ」
アレンはリンクとのことを何も言わず、ラビもまた何も聞かなかった。
アレンがそうしてくれと示し、ラビが無言で承諾したのだ。
互いに納得して微笑み合う。
二人の間には冷えた風があって、その温度差を気にせずに並んで歩き出した。
どうやらいつの間にかラビとも本当の仲間と呼べる間柄になっていたようだ。
中央庁の残した余韻を振り払いながら、アレンはそんなことを考えた。
「どういうことですか!!」
部屋に入った途端、そんな叫びが襲ってきた。
その声がのものだったから驚いてラビと顔を見合わせる。
彼女は司令室の散らかり放題な床に仁王立ちになっていた。
“アンノウン”に中央庁の見送りは許可されていないだろうから、リンクとの別れは昨日のうちに済ませたのだろう。
そう検討をつけていたので何となく沈んでいるんじゃないかと思っていた。
はそういう感情を表に出すような人間ではないが、傍にいて察せられる程度にはアレンも付き合いが長くなっている。
ところがそんな予想を見事に裏切って、金髪の少女は元気いっぱいに怒っていた。
「何かの間違いでしょう?絶対にそうです」
バンバンと机を叩きながらコムイに詰め寄る。
肩をいからせたその姿は歳相応の少女が見せるそれのように可愛い……というよりは、随分と怖かった。
コムイもたじたじの様子だ。
「ま、間違いじゃないんだよ。ちゃんとした決定で……」
「そんな!だってまだ……っ」
「それを言うのなら君だってそうだろう?」
「私のことはいいんです!いつものことだから」
そこではハッと息を呑んだ。
少し青ざめた顔で口元を覆う。
「まさか……、私のせいですか?先の一件で中央庁の不興を買ったから?だからこんな扱いを受けるんですか?」
「違うよ」
コムイは宥めるような優しい声で囁いた。
机に突いたの手に自分のそれを覆うように重ねる。
「落ち着いて。君は少し熱くなりすぎている。どうしたんだい、いつものちゃんらしくない」
「………………」
そう言われては口を閉じた。
ただ俯くことはせず、真っ直ぐにコムイを見つめた。
コムイはため息をつくように続ける。
「これはボクの力不足だ。“動けるようになったのならすぐに任務に出せ”という、上の命令から君たちを守ってやることができなかった」
「………………」
「わかるだろう?君のせいじゃないよ」
「……それなら、コムイ室長のせいでもありません」
上層部の下命ならば、と呟いては少し微笑む。
団体に所属している以上、下された命令に、何が原因だ誰が悪いなどと考えることは間違っている。
は冷静にそう判断したようで、すぐに真剣な表情に戻った。
「ならば、コムイ室長。私に同行させてください」
机の上から身を引き、真っ直ぐに起立して、金髪のエクソシストは言う。
「私が共に行きます。……必ず、彼を守ります」
静かに断言する姿には、近寄りがたいほどの凛々しさがあった。
扉のところで成り行きを見守っていたアレンは自分が観客にでもなったような気分になる。
ずっと見ていたいと思うし、同じ舞台にあがりたいとも思った。
そうやって見つめているうちに、コムイが微笑む。
何だか人の悪い笑顔だ。
「うん。そう言うと思って。パートナーは君にしておいたよ」
あっさりと告げられて、は肩すかしを食らったようだった。
目に見えて驚き、次に呆れたような顔になって、最後には赤面した。
「さ、最初からそれを言ってくださいよ!」
「だって、ねぇ。面白かったし」
「おもしろ……って、どこがですか」
「んー、主にあのへんとか」
そう言ってコムイがこちらを指差した。
はむくれた表情のまま振り返り、そしてアレンと目が合うと、今度は固まった。
完全なる硬直だ。
あまりの驚愕っぷりにアレンも驚く。
隣でラビが何でもない顔で片手を挙げた。
「よっ。すげぇ白熱してたから声かけづらかったんだけど。何の話さ?」
「ああ、あのね……」
コムイがにこにこと笑って答えようとして、我に返ったに思い切り邪魔された。
「ああーっと!いっけない、そろそろ『みんな揃ってダイナマイトホディ★健康マッスルダンス』の時間だわっ」
「何、オマエまだあのヘンテコなダンス続けてんの?」
「もちろんよ!フィニッシュの豆乳の準備もあるし、私はこれで失礼しまっす!」
はそう口走ると音が出そうな勢いでコムイに一礼して、一目散に部屋から飛び出していった。
あからさまな逃走を見送ってアレンはぽかんとする。
何だアレ。
しかも意識的に視線を逸らされていた気がする。
はわざとらしくアレンを見ないようにして、走り去っていったのだ。
「……何かムカつく」
思わず低い声を漏らすとラビが宥めるように背中を叩いてきた。
「まぁまぁ……。で?何があったんさ?」
「あぁ、任務の話だよ」
「……任務?」
あっさりとしたコムイの返事を聞いた瞬間、ラビが眉をひそませた。
アレンはというと先刻までの不機嫌さを吹き飛ばして、司令室の机まで距離を詰めていた。
「それってどういうことですか!」
「どうって」
「そんな、嘘でしょう……?」
顔色を失って両拳を握り締める。
「だって、の右腕はまだ……」
「完治していない。知っているよ」
「だったらどうして任務になんて行かせるんです。そんなのはおかしい」
「……そうだね。おかしな話だ」
コムイはいつもの口調で言ったけれど、表情は暗く翳っていた。
そんな彼を責めるつもりはなかったが、アレンの苛立ちもおさまらない。
「教団はどこまで“アンノウン”をいたぶるつもりなんだ……!」
「アレン」
短く呼ばれて肩を引き戻される。
あまりに急だったので息が詰まった。
そのせいで続くはずだった非難の言葉は呑み込むことができた。
けれど止めてくれたラビもラビで、低い声を紡ぎ出す。
「この間の騒動が原因か」
アレンは目を見張って隣に立つ青年を見上げた。
見慣れたにへら顔はどこにもなく、翡翠の隻眼には冷たい光が宿っている。
陽気さを消したラビはどこまでも大人びて見えた。
「だとしたら、いい加減ブックマンの意向を無視しすぎさな。これ以上はジジイも黙ってないと思うぜ、“黒の教団”さん?」
まるで自分の所属する集団を他所のように呼んで、ラビはコムイに反応を促した。
エクソシスト最高司令官は困ったように微笑む。
「二人とも……気持ちはわかるけれど、怖いよ。そんなに怒らないで」
「まだ怒ってないぜ。ソッチの出方しだいさ」
「そうは言われてもね……。本来任務を言い渡されたのはちゃんじゃないんだよ」
「「?」」
根本のところを否定されて、アレンとラビは揃って眉根を寄せた。
吐息をつきながらコムイは説明する。
「指名されたのは、アレンくん。君なんだ」
「僕、ですか……?」
「おいおい、それだってマズイだろ。アレンも……」
「そう。まだ完治していない」
焦ったように口を挟んだラビにコムイは首肯する。
指先を持ち上げてアレンの左眼を指した。
快楽のノアに破壊され、今は包帯で覆い隠された、呪いの眼球を。
「片目が潰されている。普通に考えても戦場に出すのは危険だし、アクマが視える眼は君の強力な武器だった。それを失った状態で任務に行かせるなんて……とボクも思うよ」
「……、ああクソッ。そういうことか」
そこでラビが悪態をついた。
神田のような舌打ちをして、忌々しげに髪を掻き回す。
アレンは遠まわしなコムイからラビに視線を移した。
「どういうことです?」
「……忠誠を示せってことさ」
ラビはわずかに躊躇ったが、ずばりと答えてくれた。
「オマエは疑われてるんだよ。……“アンノウン”の味方じゃないかって」
「……?僕はの味方ですよ?仲間です」
「そうじゃなくて……、それでもいいけど。上の奴らはオマエが自分達よりもを優先するんじゃないかって思ってる」
そこまで聞いて何となく呑み込めてきた。
アレンは細く呟く。
「つまり、のためなら教団の命令さえ無視するんじゃないかと……。僕はそういった嫌疑をかけられているわけですか」
自分で言ってみてふいに笑えてきた。
馬鹿ばかしい。
同時に少し感心する。
的確に本質を見抜いてくる人もいるものだ。
「あぁ……僕は彼女が行方をくらましている期間、ずっと行動を共にしていましたからね」
「………………」
「その間に“アンノウン”に何か吹き込まれたんじゃないかと、勝手な想像を巡らせてくれたわけですか。……くだらない」
「くだらないけど、重要なことなんさ。教団はオマエを異端にしてやる気はない。わざと過酷な命令を出して、服従の意思を示させたいんさ」
確かにこの怪我で戦場に出れば、従順さが証明できるだろう。
帰還したばかりに地下水路でが取ろうとした行動とよく似ている。
けれどアレンにはそれに同意する気持ちが、まったくといっていいほど沸いてこなかった。
「……任務には行きます。アクマがいるのなら破壊しなくてはいけない」
反発の心を押さえつけて、エクソシストとしての言葉を告げる。
そう、それだけだ。
アクマを救うために、人々を守るために命令に従う。
決してをないがしろにすること受け入れたわけではない。
コムイは安堵したように表情を和らげた。
それから目を伏せる。
「先刻はああやって宥めてみたけれど……、ちゃんは今回のことが自分のせいだって、痛いほどに理解している」
彼の唇が哀しげに歪んだ。
「君の左眼が潰されたことにも、重い責任を感じているようだったよ」
「……自意識過剰ですね」
アレンはそっけなく言ったが、内心のざわめきを隠すのに必死だった。
「じゃあさっきが怒ってたんは、アレンのことだったんか」
ラビが瞬きながら続けた。
「って……、アイツ自分も一緒に行くとか言ってなかったか?そんで“守ります”だのなんだの……」
アレンはそれを聞いてちょっと体を強張らせた。
先刻のの言葉を思い出して妙な気分になる。
だって“彼を守ります”だ。
何だ守るって。
何かおかしい。
変な表情で固まってしまったアレンを横目にラビがため息をついた。
「アイツまで行ったらアレンがこの命令に従う意味がなくなるんじゃねぇの?」
「いや、むしろ一緒に行くことでより疑念を弱めることができる」
「?どういうことさ?」
「中央庁から彼女に新たに特性のゴーレムが渡されてね。今は本当に四六時中見張られているから、確実に任務をこなせば二人共に滅多なことは言えなくなるよ」
「なるほど。まぁそれも一時しのぎな気がするけど」
「何もしないよりはマシだろう。ちゃんはそのつもりだよ」
コムイとラビの話を耳の端に聞きながらアレンは何とか思考を再開する。
つまり次の任務もと一緒で、上層部が下した過酷な命令に二人で従わなければならないらしい。
そしてそのなかで彼女は自分を守る気でいるようだった。
それは仲間だから、という純粋な気持ちからだろう。
(僕とは違う)
違うからこそ、に庇われてやるつもりはなかった。
どうやら彼女に無茶をさせないためには、自分がしっかりしなければならないようだ。
あぁ、こんなにも早くリンクとの約束を実行することになるとは思わなかった。
「守る、だなんて」
思わず呟くと、コムイが笑った。
「ねぇ、随分と男前な台詞だ」
「確かに女が男に言うもんじゃねぇな」
ラビも同調して少し茶化すように言ったから、アレンは微笑んだ。
「せいぜい白馬の王子さまを気取っていればいい。僕が頭から落馬させてあげますよ」
颯爽と現れたところを盛大に殴り倒してやろう。
あの人は強くて格好良くて王子さまみたいなところがあるけれど、結局はただのなのでどこかしら抜けている。
アレンならば突き落とすのも不可能ではないだろう。
そして落下した先で受け止めてやれば、少しは認識を改めてくれるかもしれない。
アレン・ウォーカーという人間は、守られる側ではなくて、守る側の存在なのだと。
(同時に傷つけもするけれど)
を王子にする気はないが、自分がそれになれるとも思えなかった。
同じように彼女も絶対にお姫さまには徹してくれないだろう。
ある意味お似合いかもしれないと思って、アレンは正式に任務を承諾した。
「なるほどね……」
アレンは眼前のものを見上げながらため息をついた。
場所はイタリアのローマ。街の中心に程近い広場でのことだった。
空は青く澄んでいて、秋にしては暖かい。
陽気さにあてられて気分も明るくならないかと思ったが、アレンの心は暗く沈んでいくばかりだ。
「確かにこれは過酷かも」
ぼそりと呟くと隣から合いの手が入る。
「そう?すごく楽しそうに見えるけど」
は物珍しそうに辺りを見渡している。
首を巡らせれば帽子が飛んでいきそうになったので、慌てて片手で押さえつけていた。
その仕草が珍しくて、アレンはを眺めなおす。
彼女は今や見慣れた団服を脱ぎ捨て、臙脂に黒のストライプの入ったワンピースを着ていた。
一応フリルもリボンもついているが素っ気なく、地味な印象を受ける。
同布の帽子から垂れる金髪も適当な感じに結われていた。
「似合わないね」
思わずそう言うと、は半眼になった。
「アレンこそ」
「僕はこれが本来の姿なんだけど」
応えながらキャスケットを被りなおす。
アレンも普段の紳士然とした服装ではなく、暗い色のシャツとチョッキに着替えていた。
サスペンダーで釣ったズボンはふくらはぎまでしかなく、ブーツに足を突っ込むことで秋風を防いでいる状態だ。
「マナといたころはずっとこういう格好だったよ」
そう、二人は一般市民に変装している最中なのだ。
それほど裕福ではなく、かといって小汚くないように、気をつけて身なりを整えたのだ。
そう指示を出したのは教団側で、理由は今目の前に存在している。
「まさか潜入捜査をしろとはね……」
やはり暗い気持ちは拭いきれない。
アレンはまた深々とため息をついた。
言い渡された任務の概要はこうだった。
ここ数ヶ月、街々で殺人事件が多発している。
遺体は灰のように崩れ去っており、アクマのウイルスによって殺害された可能性が高い。
そしてその現象はイギリスから始まり、徐々に南下していっているとのことだった。
つまり殺人が移動しているのである。
しかしそれは、それぞれの土地に潜む別個のアクマの仕業ではないのか。
アレンもも最初はそう考えたが、犯人が同一であると断定された理由を聞いて胸を悪くした。
全ての遺体からは、心臓が抜き取られていたのだというのだ。
体は灰となっているのに、その傍に血まみれの臓器だけが残されている。
同じ手口の犯行が続き、しばらくすると次の街に移ってゆく。
国境も越えてしまっているので警察の捜査も難航し、結果として教団側が先手を打てたというわけだ。
そうしてアレンとは探索隊の調査が導き出した、問題の場所へと派遣されてきたのだった。
「アクマの殺人はいくつもの街を渡り、国を変えて続いている。それが」
「このサーカスの巡業ルートとほぼ重なるわけね」
二人して見上げる先に鎮座する、巨大なテント。
緑地に赤と黄色の縞が入った天幕が広場のど真ん中に張り巡らされていた。
この街には到着したばかりのようで、道行く人々が好奇の目を投げている。
しかし準備中のサーカスに見るところなどない。
皆は移動遊園地が来ている隣の公園へと流れていった。
アレンとはそんな家族連れや恋人たちを避けて小声で言い合う。
「何でも営業に障るからって調査を突っぱねられたとか」
「そう。だから私たちが芸人志望者を装って潜入することになったってわけね」
「まぁサーカス側の言い分も、教団側の対処もわかるけれど……」
だからってこんな。
だって今回の相手は心臓を抜き取るような残忍な殺し方をするアクマだ。
それと関わりがあるかもしれない組織に潜入して来いというのは、なるほどそれなりの過酷さである。
下手を打てばすぐに追い詰められてしまうだろうし、どこに敵が潜んでいるか知れないから油断もできない。
加えて“サーカス”というのはとても厳しい場所なのだ。
技術的にはもちろんだが、団員同士の精神的繋がりが強くて、そう簡単に入り込めるとは思えなかった。
「巡業団体はどこにも腰を落ち着けないから、国家機関が介入しづらいのよね。だから私たちが何とかしないと」
落ち込むアレンとは対照的に、はめげる気配も気負う様子もなく、力強く頷いてみせた。
アレンはそれを横目で見ながら別のことを考える。
(僕を任務に出せばがついて来ると予想できないわけでもない……。教団側は事を起こせと誘っているのか?サーカスに紛れ込んで逃げ出してみせろと?)
確かにを教団から逃がすには、サーカスは絶好の隠れ蓑だ。
巡業についてゆく振りをして行方をくらませればいい。
けれどそれはすぐにバレるだろうし、逃走の気配を見せただけで捕縛されるはずだ。
今もの服の中に潜んでいる特性ゴーレムが、一刻も逃さずに自分達を見張っているのだから。
(過酷な状況下での任務……。ある種隔絶された空間……。ここでボロを出すか、うまく乗り切るかで、いろいろなことが変わりそうだ)
何だか怪我を負った肉体で、精神的に追い詰められ、自分達が何らかの行動に出ることを待たれているようだ。
反逆行為を匂わせる、言動。その一欠けらを。
(本当に油断できないな……)
そこまで考えて、ふと隣を見た。
何か少しでも妙な真似をすれば、中央庁に手を出させる口実となる。
アレンは今ひどく張り詰めていて、そこには常に置かれているのだと気がついてしまったのだ。
こんなにも辛い状況下に、8年間ずっと。
「アレン」
無意識の内に見つめていると、がぱっと振り返ってきた。
「サーカスってどんなところ?さっきは過酷だって言ってたけど、私の目にはみんな楽しそうに見えるよ」
声の調子が弾んでいる。
もちろん任務中だから、不謹慎ではない程度にだ。
「私、実は一度も舞台を見たことがないの。猛獣使いの人は動物と話せるってホント?私もエロ兎以外と話せるようになりたいなぁ」
「…………………」
「あ、あと曲芸師が体を柔らかくするために毎日お酢を飲んでいるっていうのは?事実だとしたら尊敬しちゃうよ。私も前に健康にいいって聞いて一気飲みしたんだけど、そのあと本当に大変だった!」
「……、迷信甚だしいうえに君の話がアレすぎてついていけません」
「諦めるなアレン、頑張ってついて来い!」
ガッツポーズを決めるにアレンは頭を振ってみせた。
「むしろ置いていってください。僕は君と同じになりたくない。普通でいたいんです」
「よく言うよ。腹黒魔王のくせに」
いつも通りの会話を交わせば自然と笑うことができた。
本当には普段のままで、何の心配もないように思えてしまう。
けれどそこで唐突に手を握られたから驚いた。
「でもまぁ、普通でも腹黒魔王でも、今は同じサーカス入団希望者でしょ。ホラ、ついて来て!」
そしてアレンの手を引いて歩き出した。
が握っているのは赤い方で、手袋越しに体温が触れ合う。
そういえば、左眼が潰されて以来はアレンの左側ばかりに立っていた。
死角になってしまうから避けようとしても彼女は何気なくそれを許さなかった。
見えなくなった目を庇ってくれているのだろうかと、今更になって思う。
(この眼が見えれば、簡単なのに)
アクマも君もすぐに見つられるのに。
ひどく疼くことも知っていたけれど、そう考えずにはいられなかった。
「たのもー!」
天幕に入るなりが元気よくそう言ったので、アレンはずっこけそうになった。
「君はどうしてそう好戦的なんだ。道場破りじゃないだろう」
「違うの?今から芸の腕をみせなきゃならないんだから、同じようなものだと思ったんだけど」
「その思考回路が本気で理解できない。交渉なんだからもっと穏便にするべきなんです!」
「おんびん……。つまり、聞くも涙、語るも涙、田舎のお袋さんも泣いてるぞ!的な説得をしろってことね?」
「もしもーし?何でそうなるんですか?」
「う、うーん難しいな……。でも、見ていてアレン!私精一杯がんばるから!」
「いや何か君には絶対無理だと確信したんで引っ込んでてください。僕がやります」
「見限られた!」というの叫びを無視して、アレンはぐるりと辺りを見渡した。
広々とした天幕の中を探せばすぐに人影を発見する。
アレンは荷物を運んでいた幼い少年に声をかけた。
「すみません、ちょっといいですか?」
少年は怪訝そうに振り返った。
アレンはとりあえず笑顔を浮かべる。というか意識しなくても反射的にその表情になっていた。
「君はここの団員さんですよね?」
「……そうだけど」
下働きの子だろうか。
それとももう舞台に立っているのか。
何となく昔の自分を思い出して、アレンは優しい声で言う。
「僕たちは団長さんにお話があって来たんです。取り次いでもらえませんか?」
「団長に?何の用だよ」
前髪の下で少年の目が警戒の色に光った。
胡散臭そうに見られて、どうしようかなと思う。
その隙にが隣に並んでいた。
「私たち、入団希望者なんです。サーカスに入れてくださいってお願いに来たの」
その顔には無意識なのか満面の笑みが浮かんでいて、少年はわずかに緊張を解いた様子を見せた。
やはりこの年頃の男の子は女性の言うことのほうが受け取りやすいみたいだ。
アレンはちょっと複雑な思いを抱いた。
引っ込んでいろと言った手前もあるが、それだけではない気もする。
「入団希望?うちに入りたいの?」
「そう」
「あんた達が?」
が頷くと、少年が目を大きくして見てきた。
不躾なほどの視線を浴びせられる。
少年はまずを眺め回す。
顔の造作もだが、髪の色と瞳の色が珍しいのだろう。
それから対象をアレンへと変え、ふいに眉をひそませた。
「……あんた、片目?」
問いかけにはアレンより方が反応を示した。
だから彼女が何か言う前に答える。
「ええ。生まれつきです。慣れていますから、芸をするのに支障はありませんよ」
「……へぇ。だったらいいや」
少年は一人で頷くと、軽く合図を寄越してきた。
「ついてきなよ。団長はこっちだ」
先に立って歩き出した小さな背中を負って、アレンは一歩を踏み出す。
何気なくの肩を叩いた。
少年には聞こえないように、小声で囁く。
「大丈夫。よくあることです。サーカスでは珍しくないし、欠陥のある人間がやるからこそという見方も」
けれど全部言い終わる前に手を振りほどかれた。
驚いて見やると、が素早く回り込んできて、アレンの左腕を取る。
ぎゅっと掴んで引っ張った。
「」
そのまま前進していくので、困惑して名前を呼んだ。
彼女は前を向いたまま、
「支障、ないんでしょ?」
何でもない振りでそう返される。
だったら黙っていろと言外に告げられて頬を染める。
密着した体勢であるからというよりは、やはり今まで何気なく失った目の代わりをしていてくれたのだと思い知らされたからだ。
仕方がないとはいえ、先刻の言葉は失言だったかもしれない。
(でも、本当に大丈夫なのに)
どちらかというと左眼を保護テープで覆っている今のほうが、此処では都合がいいかもしれない。
目は怪我や病気で誤魔化せるが、呪いの傷は言い訳が面倒なのだ。
それにが気にするほど片目の生活は不自由ではなかった。
今まで何度かあったことだし、わざと隠していた時期もある。
心配なのはむしろの右腕だった。
ちらりと自分の左腕に絡んだそれを見る。
痛みも異常もないようだし、鍛錬のときの様子を思えばすでに動きに問題はないのだろう。
しかし、戦闘時には影響が出るかもしれない。
ラスティはそれを懸念していた。
アレンも同感だ。
(本当は、サーカスにも入ってほしくないんだけど)
けれどそう思っているのはお互い様だろう。
はアレンが左眼を失った状態で玉やナイフを扱うことを好まないだろうし、アレンはに右腕に負担をかけるような芸をしてほしくない。
そうも言っていられない現状がひたすら厄介だった。
「ああ、ルシオ」
突然横からそんな声が飛んできた。
案内役が足を止めたので、アレンともそれに従う。
呼びかけに振り向いたところを見ると、ルシオというのが少年の名前のようだ。
「まだこんなところにいたのか?早く片付けろ。あんまり遅いと姉さんが怖い」
また同じ声が言う。
姿は積み上げられた器材の影になって見えない。
察するに若い男だ。優しく促すところが、いかにも年長らしい。
そこに横手から別の声が入る。
「そうそう。さっき見たときえらく機嫌悪そうだったもん。このままじゃ、お前また天井から吊るされるぜ」
今度はからかうような調子だ。
こちらは先刻より幾分若く、やんちゃさを含んでいた。
「おい、ミハエル。余計なことを言って怯えさせるな」
「何だよ、俺は心配してやってるんだぜ?今度食堂にぶら下がってたら、ハムと間違えて食っちまいそうだからな」
「……はぁ。ルシオ、こんな奴の胃袋におさまるのは嫌だろう。俺は弟分にそんな哀れな末路を辿ってほしくないんだ、わかるな?わかったら、ホラ急げ」
「何その諭し方。……ちぇー。お優しいフリードリヒ様は俺よりルシオの味方ってか」
喧嘩しつつも仲の良さがうかがえるその会話を、アレンは適当に聞いていた。
話しかけられているのはルシオで、自分が加わるべきものではないと判断していたからだ。
けれど、ふと引っかかる。
この声。少し変わってはいるけれど聞いたことがある。
それにミハエルとフリードリヒという名前……。
ルシオが答えようと口を開いたとき、アレンは勢いよく角の向こうへと飛び出していた。
「な、何だよ」
ルシオが驚いた声をあげて、後退した。
物音と動く気配がしてがよろめいた彼を支えてやったのだと悟る。
けれどそれよりもアレンは目の前を見つめることに忙しかった。
そこにいたのは二人の男性だった。
声から推測したとおり、年長の方は落ち着いた容姿をしている。
髪はアレンの大好きなミルクチョコレートみたいな色をしていて、きちんとひとつに編みこまれていた。
切れ長の瞳は真っ黒だ。
神田ともリナリーとも違う、インクのような濡れた色彩だった。
もう一人のほうも声の通りだ。
やけに元気で子供っぽい印象。けれど歳はアレンより少し上だろう。
ほとんど紫に見える赤毛、そのはねた前髪の下で碧い目がくりくりと動く。
年長の方は突然飛び出してきたアレンを見てもそれほど反応しなかったが、こちらの少年は大げさなほどに驚いてみせた。
「うおっ!ビビったー……。何、お前。誰?」
「……ルシオの知り合いか?」
今度もまた、ルシオが答える前にアレンが動く。
意図してそうしたわけなく、唇が勝手にその音を紡いだのだ。
「ミハに、フリッツ……?」
名前どころか愛称で呼ばれて、二人は今度こそ本当に驚愕したようだった。
けれどアレンも負けてはいない。
驚きを通り越して呆然としている。
「嘘だろ……。じゃあこのサーカスは……」
感情は固まっているのに思考はぐるぐるする。
そんな、まさか。
何度も考えて何度も否定して、やっぱりそうだという結論に辿り着いた。
「此処はコルネオおじさんのサーカスなのか……!?」
混乱のまま呟くと、少年……紫の髪のミハエルが焦ったように応えた。
「お、おい。おいおいおいおい。何だお前。なんでおやっさんの名前を知ってるんだ?」
アレンも同じような調子で返す。
「そりゃあ昔世話になったからだよ!」
「昔……?いつの話だ?俺は此処が長いのだが、お前を見たことは……」
年長のフリードリヒが眉を寄せて考え込んでしまったので、今度は怒ったように叫ばざるをえなかった。
「見覚えがないなんて言わせないぞ!毎回ライオンに食べられそうになっていた猛獣使いのフリードリヒ!そっちは僕にナイフを8本も突き刺して病院送りにしてくれたナイフ芸のミハエルだ!!」
二人にびしりと指先を突きつけてやる。
過去の失敗を弟分の前で高らかに言われてしまった彼らは、それでも怒ることも思いつかないようで、まじまじとアレンを見つめてきた。
ふいにミハエルの瞳が細められた。
ひどく心もとなさそうに、自分でも信じていないような、疑惑に溢れた呟きをもらす。
「……アレン?」
フリードリヒも同時に瞬きを繰り返した。
「アレン……?そう、なのか?マナさんのところの?」
アレンは大きく頷く。
ミハエルは軽く息を吸い込むと、それを一気に吐き出しながら叫んだ。
だらしなく垂れた袖がアレンの指と突き合わされる。
「あのチビで生意気なアレン・ウォーカー!?」
「誰が生意気だって!?」
「だって俺より芸が上手かったじゃん!」
「それは努力していたからだ!」
「でも先輩を差し置いてさぁ、生意気だろそんなの!!」
勢いでぎゃあぎゃあ言い合う。
フリードリヒはまだ信じられないのか、眉を寄せたままアレンに確認した。
「でも、お前……。昔と随分違うし……」
そこで左眼を失っていること、そして髪の色が変わっていることを思い出した。
特に白髪を見られるのは恥ずかしい。
咄嗟に頭を押さえれば、キャスケットの縁に手が当たった。
まるで隠すだけ無駄だと言われたみたいだ。
けれどそんな鬱屈した考えすら吹き飛ばす勢いでミハエルが突撃してくる。
硬直から解き放たれた彼は、もう一度じっくりとアレンを眺め回すと、飛び跳ねるようにして抱きついてきた。
「ホントに変わったな!でもお前アレンなんだろ!?アレン・ウォーカー!俺の知っている、あの!アレン、アレンアレンアレンアレン!!」
名前を連呼して、ミハエルはアレンの両手を握ると跳ねるように踊りだした。
ぶんぶん振り回されて目が回る。
よろめいたところでフリードリヒが後ろから支えてくれた。
「……言い方が悪かったな。随分と違う、ではなく、随分と成長した……だ。大きくなったな、アレン」
そう言って顔を覗き込み、頭を撫でてきた。
フリードリヒは笑みに近い表情をしていて、彼がこんな様子を見せてくれるのは非常に珍しいことだと思い出す。
ちょっと感動していると、隣から手が伸びてきて乱暴に揺すられた。
振り返るまでもなくミハエルの仕業だ。
「でっかくなったでっかくなった!俺のほうがでかいけどな、チビアレン!」
「もうチビじゃないだろ!」
「お前、今身長何センチ?」
「ひゃ……169センチ……」
「勝った。俺172センチだもーん」
「くっ……!」
何だか猛烈に悔しい。
フリードリヒが宥めるように震えるアレンの拳を叩いた。
「たった3センチで威張れる馬鹿など、放っておけ。俺は187センチだがな」
「「さり気なく自慢するな!!」」
声をハモらせて怒って、三人は横目で牽制し合う。
一番に噴き出したのは誰だったのか、あるいは全員同時だったのか。
気がつけば顔を見合わせて笑っていた。
「しっかし、ホント久しぶりだよなー。お前、急に出て行っちゃったし。何年ぶりだっけ?覚えてるか、フリッツ」
「尋ねる前に自分の頭で計算しろ、ミハ。……確か、7年ぶりだな。元気でやっているか、ずっと心配していたんだぞ」
「うん、ごめん。二人ともありがとう。他の皆は……」
アレンとミハエルはそのまま思い出に浸ろうとしたが、フリードリヒだけはその場にいる他者を気遣うことを忘れてはいなかった。
「ルシオ、こいつを案内してきてくれたんだな。こちらで引き受けるからお前は仕事に……」
戻れ、と言ったフリードリヒと、アレンの意味を成さない声が重なった。
猛烈な速度で振り返って叫ぶ。
「!!」
「いえいえ、私に構わずどうぞ感動の再会を続けて。そのまま涙なしでは見られない説得に入ってくれても構いませんですよ?」
完璧完全に忘れられていたは、騒ぐ三人を邪魔しないようにルシオと遊んでいたようだった。
どこから取り出したのか、細い紐を指に絡ませて複雑な形を作っている。
確か東洋の“あやとり”とかいうやつだ。
と並んで床に座り込んでいたルシオは「おおー」と歓声をあげ、尊敬の眼差しで彼女を見つめていた。
「じゃあ次。ここ引っ張ってみて?」
「ここ?」
が示したところにルシオは指を掛ける。
そのまま引き抜けば、縦に横にとめちゃくちゃに絡まっていたはずの紐が、気持ちいいくらい一瞬でほどけてしまった。
が「不思議だね」とおどけてみせると、ルシオは手を叩いて喜んだ。
「すごいすごい!お姉ちゃん、手品師?」
「ううん。お姉ちゃんはね……長々と十数分も連れに存在を忘れられてしまった、ただの哀れな乙女です」
「……遠まわしに責めないでください。謝るから」
冷や汗をかきながら言うと、別に気にしてないと返された。
苦笑の感じからいって、本当に冗談みたいだ。
どうやらアレンたちの気が済むまで待っていてくれたようである。
「もう一人いたのか」
フリードリヒが一歩踏み出した。
対照的にミハエルは一歩下がる。
フリードリヒがの前に立ったとき、ミハエルは完全にアレンの後ろに隠れてしまっていた。
「放置してすまない、お嬢さん」
「いえ、お気になさらずに。おかげさまで素晴らしきあやとり仲間をゲットできました」
笑顔で応えてはガッとルシオの肩を抱く。ルシオも同じようにの肩を抱き返した。
何だアレ。
どうやら彼女はアレンたちが再会を喜んでいるうちに妙な同士を見つけてしまったらしい。
フリードリヒの手を借りて立ち上がるに、アレンは呆れた声で言う。
「何ですか、あやとり仲間って」
「絶賛募集中だったの。神田に教わったんだけど、あいつ全然相手してくれなくって。二人じゃないと出来ない技もあるのにさぁ」
あやとりと神田。
うん、猛烈に似合わない。
そりゃあ相手をしてくれないだろうと思う。
そもそも何でにあやとりを教えたりしたのか不明だ。
相変わらずこの戦友たちの仲はよくわからなかった。
だが、おかげでルシオはに懐いたみたいで、彼女を追いかけるようにして傍までやってきた。
「この人たち、団長に会いたいって」
「へぇ?団長に」
アレンの後ろに隠れたままミハエルが繰り返す。
が頷けば、背を縮めてさらにアレンの影に入ろうとし始めたので、彼女は不思議そうな顔になった。
「……気にしないでいいから」
アレンは肩に食い込むミハエルの手を引き剥がしながら説明する。
17歳の男にしがみつかれたらそれなりに痛い。
「この人、ちょっと人見知りで。初対面だと大体こうなるんだ」
「あぁ、なるほど。てっきり嫌われちゃったのかと」
「き……嫌いじゃねぇよ……。まだ……」
ミハエルはぼそぼそ言って、アレンの背中を引っ張った。
「なぁ誰、こいつ。俺なんか苦手……」
「え?どうして?」
「な、何か綺麗すぎない?」
「………………」
アレンは口を閉じてに向き直った。
ミハエルは小声だったがしっかりと彼女にも聞こえていたようだ。
微妙な笑顔を浮かべられたので、アレンは皮肉に唇を吊り上げた。
「ミハは君が美人なんで照れているらしいです」
「バ……ッ、違ぇよ!」
「オーケイ。彼はシャイなあんちくしょうさんね。これからそういうつもりで接するから」
「そうしてあげてください」
「だから違うって!!」
アレンが完全に無視していると、ミハエルに後ろから殴られた。
彼が本気で困っているのを見て取って、話を変えるようにが言う。
「それで、アレン。知り合いの方たちなんでしょ?紹介してもらえると嬉しいんだけど」
そうお願いされて、アレンはミハエルを背中にくっつけたまま彼女に近づいた。
「あぁ、君に手を貸してくれた三つ編みの人がフリードリヒ。担当は動物曲芸」
「フリードリヒ・エイクだ。ちなみに動物だけでなく、ミハのようなやかましい子供の調教も得意としている」
「それは頼もしい。私も将来子育てに困ったらお願いしても?」
が冗談を言えば、無表情党のフリードリヒも少し微笑みながら握手を交わした。
その間にアレンはミハエルを無理に前へと押し出す。
「こっちの対人恐怖症気味なのがミハエル。担当は……今は何してるの?」
「空中曲芸も地上曲芸もやってるよ!てか俺は対人恐怖症じゃねぇ!!」
まぁ確かにミハエルは他人に懐くまでに時間がかかるだけで、そこまで深刻な人嫌いではない。
そうでなければサーカスなどにはいられないだろう。
だからこそを避ける様子は少しおかしく感じられた。
アレンに裏切られたミハエルは、今度はフリードリヒの後ろに逃げ込んでしまった。
「おい、ミハ。失礼だぞ」
兄貴分のフリードリヒに叱られた途端、彼はしゅんとしてしまい、小さな声で何とか挨拶をする。
「お、俺はミハエル……。ファミリーネームはない。ただのミハエルだ」
「私もありません。。ただのです」
何となく事情を察したのか、は微笑んで「よろしく」と頭を下げた。
ミハエルはすまなさそうに彼女を見て、それでも結局フリードリヒの背後に顔を隠した。
アレンはやれやれと肩をすくめる。
「7年前、僕はこのサーカスにいたんだ」
とりあえずそう切り出した。
「ここの団長さんがマナの知り合いでね。一年くらいお世話になったかな」
「やっぱり子供の頃の知り合いなのね。すごい偶然」
「うん、本当に。懐かしいな……」
感慨深く呟けば、フリードリヒが髪をぐしゃぐしゃにしてきた。
それを押さえながら、今度は彼らにを紹介する。
「彼女は。えーっと……、僕の、仲間」
何と説明しようか迷って、とりあえずそう言う。
フリードリヒは軽く目を見張った。
「では、彼女にもサーカスの経験が?」
「いや、は……」
「?お前は今でもピエロをやっているんじゃないのか?」
「………………」
うーん、これは説明が難しい。
まさか芸人時代の仲間と再会するとは思っていなかったし。
アレンが逡巡しているうちに、が口を開いた。
「私はまだ新人なんです。アレンが他のサーカスに修行に行くというので、無理についてきちゃったんですよ」
平然とそう言って、綺麗なお辞儀をしてみせた。
「どうか、彼と一緒に入団させていただけないでしょうか?」
お願いします、というの姿は演技には見えない。
アレン的にはその度胸だけで合格だったが、フリードリヒは即答しなかった。
「それは俺の一存では決められないんだ。入団テストを受けてもらわないと」
「まぁ、アレンは余裕で合格だと思うけどな」
ぼそりと呟いたミハエルは、顔をあげたと目が合うと、素早くそっぽを向いた。
「お、お前も入りたいっていうなら、とっとと団長に会いに行くことだな。案内してやるからさ……」
「ありがとう、シャイなあんちくしょうさん!」
「何だその呼び方!!」
それからフリードリヒとミハエルに先導されて、アレンとは天幕の奥に進んでいった。
積み上げられた器材の間を縫い、迷路のような道を歩いてゆく。
さり気なくがルシオと手を繋いで後ろに下がってくれたので、アレンは旧友の二人と存分に話をすることができた。
「ところでコルネオおじさんは元気?」
「さぁ。息災なんじゃないか」
「おやっさんなら悠々自適な毎日を送ってるに決まってるだろ」
弾む会話の中でそんなやり取りを交わし、アレンは首をかしげた。
コルネオというのはマナの知り合いで、7年前にここの団長をつとめていた人物だ。
だが二人の口ぶりでは、彼はもうサーカスにはいないらしい。
「まさか、引退してしまったの?あのコルネオおじさんが?」
ビール樽のような巨体を震わせて笑う彼の姿を思い出しながらアレンが問うと、フリードリヒは頷いた。
「あぁ、三年前だ。歳も歳だったし、足を痛めてな」
「そう……」
「団長なんだから舞台に立てなくても問題ねぇのにさー。とっとと隠居しちまいやがって。あのあと俺らがどれだけ大変だったか」
ミハエルがぶちぶち言ったが、それはアレンに聞かせたかっただけのようで、口調からは変わらないコルネオへの親しみが感じられた。
それにしても団長が現役から退いていたとは。
トップの交代によってサーカス団は名前を変えており、任務資料を見た限りではアレンも気が付けなかったというわけだ。
「……てことは、今の団長は?誰が引き継いだの?」
話の流れでそう訊くと、フリードリヒとミハエルは顔を見合わせた。
それからアレンを振り返って笑う。
「きっと驚くぞ」
「あぁ、腰を抜かしちまうんじゃねぇの」
にやにやと言われては気にするなというほうが無理だ。
けれどそれからいくら訊いても二人は現団長の名を教えてくれなかった。
一行はいつの間にか天幕の中心部まで来ていた。
布の扉を押し開けて入れば、そこには円形の舞台が据えられていて、団員達が思い思いに練習をしている。
アレンはぐるりと辺りを見渡した。
7年も経っているので見覚えのない者がほとんどだったが、遠目でも知っている顔がちらほらあった。
技に集中しているときに声をかけるのはタブーなので、静かに思い出に浸っていると、突然傍でミハエルが片手を挙げた。
「団長!」
騒がしい練習場でも彼の声はよく通った。
釣られるようにしてその視線を追う。
数段高く作られた舞台の上に、その人物は立っていた。
「何だよ、ミハ。騒がしいぞ」
彼は迷惑そうな声を出しながら無造作に手を振る。
その一瞬後には弾丸のスピードで飛んできたナイフがアレン達の足元に突き刺さっていた。
振り返りもせずに刃を投げつけられて、ミハエルは悲鳴じみた抗議の声をあげる。
「俺はうるさいかもしれないけど、お前は危ない!当たったらどうするんだよっ」
「この程度も避けられないナイフ使いなどウチにはいらん」
「いらんで殺すな!!」
「というか、どこのサーカスに行っても使えないだろうさ。だったらここで俺が引導を渡してやる。団長のお慈悲だ」
「それこそいらん!!」
ミハエルが怒鳴りながらナイフを投げ返した。
相手はやはり振り返ることなく、指の間で挟んでそれを止める。
ぶんっと腕を振って舞台の上に投げ捨てた。
「危ないな」
決して人には言えないことを言って、体の向きを変える。
その動きで少し長いの緑がかった髪が揺れ、白い頬、高い鼻梁、形の良い眉が現れた。
瞳の色は紅く、涼しげな眼差しがこちらを見る。
すらりとした体躯と端正な顔立ちを持つ青年だった。
彼と目が合った瞬間、アレンは硬直した。
その顔には見覚えがあった。
忘れるはずもない。
7年前に別れた、大切な大切な友人だ。
彼が、今の、団長だって?
「……そんな」
気がつくと彼も唖然としていた。
大きく目を見張ってこちらを凝視している。
けれどアレンより彼のほうが自分を取り戻すのが早かった。
「こんなところで会えるだなんて……」
呟きの間に喜色が満面に広がっていく。
アレンも釣られて笑みが頬にのぼるのを感じた。
青年は舞台から身軽に飛び降り、一目散にこちらに駆けてくる。
まるで冬の終わりに春の花を見つけたかのように、全身でこの邂逅を喜んでいた。
両腕を広げてくるから、思わずアレンも一歩を踏み出した。
「セルジュ……!」
彼の名前を呼んで、伸ばされた手を取ろうとして、
そこで空ぶった。
セルジュはアレンを素通りすると、その後ろにいたに思い切り抱きついたのだ。
「運命の出逢いだ!お嬢さん、結婚してくれ!!」
キラキラの笑顔でそう告げて、7年越しに再会したアレンの親友は、の頬にキスを落としたのだった。
「な、何ー!?」
硬直するアレンに代わってミハエルが絶叫する。
フリードリヒの深いため息が、やけに遠くに聞こえた。
はい、ようやく『遺言はピエロ』の本題が始まりました。
本当にようやくです。やっとここまで来れたか〜って感じです。
そしてオリキャラ大量投入。(詳しくはオリキャラ設定でどうぞ)
アレンの旧友を出したくて今回の舞台はサーカスになりました。ホントそれだけ。^^
この話では男性が3人登場しましたが、次からは女性も出ます。
アレンの秘密の過去(捏造)も明らかになりますので、どうぞお楽しみに〜。
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