巡り巡って、巡り雨。
降り落ちる雫が雪になる前に冷えた体を温めさせて。
立花は地上の白を許さずに、


柔らかに君を切り裂くだろうから。







● 遺言はピエロ  EPISODE 12 ●






顔を合わせるのは3日ぶりだった。
ノックの後に病室に入ってきたアレンは、どこかぼんやりとした目を向けてくる。


怪我を負った状態で、しかも大量に血を奪われているときに、水に沈められたのがいけなかったらしい。
は病院に着いた途端にベッドに放り込まれ、延々と治療を受ける羽目となった。
傷の縫合に大量の輸血、凍えた身を温めて休養を取るように言われ、今朝方ようやく体を起こせるようになったばかりだ。
そこで、まずしたことといえば教団への報告である。
続いて病院側に治療記録の押収の申し入れ。
手早くそれらを片付けようとしたのは、アレンに会いたかったからだ。
……否。本当はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
それでも何かが心の奥で急かすから、は一秒も惜しんで団服に着替える。
駆けつけて来ていた探索隊ファインダーが、彼も大事を取っていることを教えてくれたので、とりあえずは院内を探そうと扉に向った。
その直前で、アレン本人が入室してきたわけである。
あまりのタイミングには硬直した。
何を言えばいいのか咄嗟に思いつかなくて、当然のように先を越される。


「着替えてください」


意味がわからなくて目を瞬かせた。
慌ててはいたが身支度は整っている。
が理解できていないのを見て取って、アレンが説明してくれた。


「団服だと、言い訳が面倒だろうと言われたんですよ」


そう口にする彼も、確かにエクソシストの証であるコートを着ていない。


「……誰に、言われたの?」
「新しい団長に」


特に落ち込んだ調子でも、沈んだ様子でもなかった。
アレンは普段どおりにに近づいてきて、一揃えの服を手渡す。
それは彼が身に纏っているのと同じ、漆黒の装束……喪服だった。


「急いでくださいね」


アレンはに着替えを急かして、とっとと部屋から退散していった。


「早くしないと始まってしまう。――――――――――前団長の葬儀が」




















空の色は重い灰色だった。
ほとんど黒に近くて、まるでこの場に集まった者の心を映しているみたいだ。
セルジュ・パスカーレの葬儀は滞りなく行われた。
喪主はフリードリヒ。パトリシアが傍に控える。
アレンとが末尾に参列すると彼らはわずかに合図を寄越した。
赤く潤んだ瞳を、ほんの少しだけ和ませたのだ。
そこに嫌悪や拒絶の色がないのを見て取って、はアレンに視線をやった。
しかし彼はまったくの無反応だった。
は睫毛を伏せて二人に会釈を返した。


すすり泣く声や押し殺した嗚咽が神父の聖書朗読に重なる。
聖歌もまともに歌える者がほとんどおらず、団員達は揃って悲しみに胸を詰まらせているようだった。
柩の蓋はずっと閉じられたまま。
セルジュの死因をどうしたのかはわからなかったが、きっとフリードリヒやパトリシアが筋道の通った話を作ってくれたのだろう。
誰も死体を臨むことなく、祈りを捧げて花を贈る。
の番になって、白花を片手に歩み出ると、パトリシアが滑るようにして傍にやって来た。
本来ならば無作法にあたることだが、彼女が無闇にそんなことをする人間でないと知っていたから、は柩の前に跪いて言葉を待った。
手を祈りの形に組んで見上げる。
まるで許しを請うようだと思った。



「はい」
「お願いがあるの」
「何でしょう」


断ることも考えつかずに尋ねたけれど、は驚愕に大きく目を見張ることになった。


「踊ってくれる?」


パトリシアも同じように死者の前に膝をついた。


「湿っぽいままで終わるのは、セルジュらしくないでしょう。それに……最期に見せてあげたいの」


白い花をから受け取って、水平へと方向を変える。


「もう貴女にしか舞えないから。……………エニスと、同じ踊りは」


嗚呼、とは思った。
パトリシアは悟っている。
セルジュだけでなく、エニスさえも、二度と此処には戻らないことを。
花をへと握らせて、パトリシアは懇願した。


「踊ってあげて、。セルジュに最期の手向けとして。……どうか」


何と応えていいのか分からなかった。
自分は舞えるだろうか。
舞っていいのだろうか。
哀惜に震えるこの人から、大切な相手を奪い取った分際で、最後の踊りを捧げてもいいのだろうか。
“セルジュ・パスカーレ”は、それを喜んでくれる……?


「踊ってあげてください」


柔らかな声は背後から。
は弾かれたように振り返って、銀灰色の双眸と出合った。
アレンは優しく穏やかに微笑む。


「踊ってあげて、


あまりに美しいその微笑に、息が止まりそうになった。
よくわからない。
泣きたかったのかもしれない。
は顔を俯けた。
見開いた目で地面を見つめて、頭上から降ってくる声を聞く。


「お願いします」


空っぽの柩。
曇天の下。
虚言ばかりのお葬式。
ただひとつ確かなことは、この場にいる者たちの、深い深い哀しみだった。


(私は結局、“セルジュ”本人を知らない)


だからこそ、舞えるのかもしれないと思った。
アクマならば破壊するだけ。
友人だったのなら、ただただ哀情に、手足が竦んでいたかもしれない。


(私だけが)


場違いな存在であると自覚した。
所詮はセルジュ自身を知らず、エニスとは顔を合わせたことさえない。
本来ならば葬儀の場にいる資格などなくて、しかし、その異質さ故にできることがあった。


は顔をあげて、パトリシアを見つめた。
潤んだ若草色の瞳。
眼だけで告げると、彼女は涙を溢れさせて、駆け足で元の場所まで戻っていった。
はそれを見送ることなく白花を持ち上げる。
腕をゆっくりと掲げて、脚を蹴り出した。
此処は舞台。
舞うのは異端者。


(私はどこへ行っても馴染めない)


どこかおかしい。
どこかずれている。


(でも、だからこそ)


この場に溢れる哀悼を統べて、パスカーレ兄妹に贈ることができるのかもしれない。
本当は後悔していた。
サーカス団に入ったこと。団員達に好意を抱いたこと。アレンを此処に連れてきてしまったこと。
そして、彼をひどく傷つけてしまったこと。
自分さえいなければ、アレンがこの任務を命じられることはなかったかもしれない。
自分がもっと早く推測を告げていれば、違った結末があったかもしれない。
自分が我を張り通してさえいれば、あんな哀しい破壊をさせずに済んだのかもしれない。
それでも悲劇はすでに起こってしまったことならば、“自分”が此処にやってきた理由はひとつだ。


(私だけが見送れる)


この場にいる誰もができないことを、だけが可能としていた。
それは無縁であり、薄情であり、異端だからこそだ。


(ならば、私はそれに甘んじよう)


髪をなびかせて舞い続ければ、わずかに雲が晴れて光が差した。
柩に降り注いだ金色に献花する。


「どうか、安らかに」


行かないでと泣いたりしない。
どうしてだと嘆いたりしない。
ただただその生命を想い、魂の安息を願おう。


「初めまして、セルジュ。エニスさん。……そして」


舞いでもって“本当”の彼らに己を知らせ、は最期の別れを告げた。


「………………さようなら」




















墓標の前でミハエルが泣いていた。
流れる涙を拭おうともせず、漏れる嗚咽を隠そうともせず、全身で慟哭していた。
アレンが背後に立てば真っ赤になった目で見上げてくる。


「アレン」


ミハエルは友の名前を呼んで、その体に縋り付いた。


「アレン、アレン、どうしよう」


ずっと地面の上に伏していたから、墓地の湿っぽい土が指先にこびりついている。
アレンの喪服を汚してゆく。


「セルジュが死んじまった。なんで?どうしてだ?俺の友達がこんなふうにいなくなるなんて……」


力の入りすぎた手は骨が浮き上がり、まるでアレンを締め付けるようにして掴んでいた。
はミハエルの悲しみを落ち着かせたかったけれど、こちらからは何もかもを躊躇わせるほど彼は追い詰められている。
壊れた蛇口のように垂れ流される涙。
アレンばかりに問いかけを繰り返した。


「ずっと一緒だったのに。気がついたら傍にいて、兄弟よりも、家族よりも、大切に想っていたのに」


なんで?どうして?子供のように泣きじゃくった。


「セルジュが……っ、セルジュが死んじまったよぉ……!」


アレンは何も応えなかった。
ミハエルに触れることすらしなかった。
ただしがみつかれるままになっているだけだ。
何度も揺さぶられては汚れた黒い服に皺が寄ってゆく。


「エニス」


ミハエルの口からその名前が出たとき、アレンの肩が微かに反応した。
言葉は相変わらずない。表情は見えない。
涙でぐしゃぐしゃになった顔でミハエルは訴えた。


「エニス……、エニスと連絡がつかないんだ。修行先の曲芸団からはとっくに姿を消していて……その手続きはセルジュがしたって……。セルジュしかエニスの居場所を知らないのに………!」


またアレンの肩が動いた。
否、ミハエルがさらに強く握ったからか。


「エニスまでいなくなったら……、俺………っ」


言葉の最後はもう声にならなくてミハエルは大泣きに泣いた。
深い悲しみは彼の目を閉ざさせ、近しい者の心を塞ぐ。
しばらくアレンは無言でいたが、不意に友人の両腕を掴み返した。


「ミハエル」


はゆっくりと目を見張った。
アレンは彼を本来の名で呼んだ。いつもの愛称ではない。
“ミハ”では、ない。


「エニスは」
「大丈夫よ」


アレンの言葉を遮ったのはパトリシアだった。
彼女は横から手を伸ばして、ミハエルを抱きしめる。
アレンにしがみつく体をそっと引き離した。


「大丈夫よ、ミハ。エニスはちゃんと帰ってくるわ」
「う……っ、うう………」
「ねぇ、安心なさいな」
「姉さん……」
「よくないことを考えては駄目。今は……セルジュのためだけに泣いてあげなくては」


パトリシアが優しい調子で囁けば、ミハエルは嗚咽の合間に何とか頷いてみせた。
アレンにそうしていたように彼女にすがりつく。
碧い双眸から涙は枯れる気配はなく、寄り添う若草の瞳からも溢れている。
ミハエルを抱きしめて、パトリシアはアレンを見た。
傷ついた“仲間”をきちんと受け止めながら。


「どうか、これ以上は」


震える唇は声を途切れさせる。
パトリシアは謝罪するようにアレンに頭を下げると、ミハエルを抱えたまま踵を返した。
他の団員達も列を成して墓地から引き上げてゆく。
深く澱んだ悲しみだけが、その場に残された。


「アレン」


否、その全てを背負って、フリードリヒだけが立っていた。


「すまない。今はまだ」


彼は微笑していたけれど、言っているうちに口元が震えて表情が歪む。
感情を堪えるように唇を噛んでから吐き出した。


「今はまだ、伝えないでくれ。……ミハからエニスまで取り上げては」
「………………………」
「……皆も、これ以上の悲しみは耐えられない」
「わかりました」


いよいよが覚えていた違和感は本格的になって、食い入るようにアレンを見つめる。
違うよ。嘘だよ。そう示して欲しくて。
そんな勝手な望みを裏切って、アレンはとつとつと続けた。


「軽率な真似をしてすみません」


フリードリヒも言いようのない感覚に襲われているらしい。
アレンの背後に立ったへと目を向けてくる。
応える言葉がないから、ただ黙って視線を返した。


「……アレン」


フリードリヒは苦しげに息をついで、無理に笑顔を浮かべてみせた。


「今回のことは白い服を着た仲間に……、探索隊ファインダー、といったか………に説明してもらった。だから、わかっている」


口調は静かでも彼は必死だった。
誤解を解こうとするかのように、何かが食い違ってしまったこの状況を正そうとしている。


「わかっているんだ。俺も、姉さんも」
「………………………」
「お前は……セルジュを助けてくれたんだろう?エニスを救ってくれたんだろう?」
「………………………」
「そうなのだろう?なぁ、アレン……」
「………………………」
「何故、黙っている」


徐々に失われてゆくフリードリヒの作り笑い。
アレンは静かに首を振った。
そうして綺麗に微笑んだ。


「このたびのことはお悔やみを申し上げます。そして……葬儀の場で口にすることではありませんが。団長就任おめでとうございます」


完全にフリードリヒの表情が凍りついた。
それでもアレンは構わずに、温和な調子で告げる。


「今後のご活躍を期待していますよ」


会話はそれで終わった。
アレンは唇を閉じ、硬直したフリードリヒを見ている。
薄い笑みを浮かべて、


「アレン」


友人が名前を呼んでも応えない。
フリードリヒは口元を手で覆って、強く目を閉じた。
震える肩。隠された嗚咽と涙。
アレンの表情は揺らがない。


「……帰るんだな」


確認を取るでもなくそう呟いて、フリードリヒはゆっくりと手を下ろした。
その掌をアレンへと差し出す。
握手を求めてもアレンが動こうとしなかったから、フリードリヒは何かが切れたように彼を掴んだ。
左手だった。
わざと異形の腕を引き寄せて、無理やりに抱擁する。
がアレンの肩越しに見たフリードリヒは、大粒の涙を流していた。


「どうか、元気で」


それだけを囁くと、自分の身を突き放すようにして距離を取る。
アレンの横をすり抜けると足早に去っていった。
今度こそ何も残らなかった。
残留するものをアレンが拒んだのだ。
全てを拒絶して、友人を突き放して、をも置き去りにする。
これでおしまい。
アレンが、おしまいにしてしまった。


重苦しい沈黙に、時間さえ止まればいいと、は思った。




















風が吹いていた。
金髪がさらわれて舞い上がるから、耳のところで押さえながら夕暮れ時を行く。
墓地を歩く。
何気なく足音は忍ばせていた。
そこには死者の眠る場所で静かにするべきだという常識と、彼に接近を気づかれたくないという自分勝手が混在していた。
いろいろと考えてみたけれどのなかで結論は出ない。
それなのに傍に行こうとしている自分が不思議だ。
そっとしておけばいいのに。放っておいて欲しいだろうに。
視界に入った姿にそんなことを考える。
足を止めてぼんやりと眺めていたら、背中を向けたまま言われた。


「何で黙ってるんです?」


まさか向こうから話しかけてくるとは思ってなかったので、ちょっと飛び上がるくらいに驚く。
実際に心臓が跳ねた。
は握った拳を胸に当てて、何度か口を開閉させたあと、うまい返事が思いつかなかったので素直に返す。


「……、なんて声をかけようか考え中」
「何ですか、それ」


笑われた。アレンの肩が微かに揺れる。
振り返った彼はやはり微笑んでいた。


「帰りの汽車は?」
「……夜になってから出発よ」
「どうして?早い時間でよかったのに」


アレンはに訊いたけれど、応えはわかっているようで、わずかに眉を下げてみせた。


「気遣いは結構ですよ」


そう言って完全にこちらに向き直る。
沈んでゆく太陽を背にしているから、逆光でますます笑顔が綺麗に見えた。
だからこそは本当に自分を不思議に思った。
今度こそわけがわからない。
強い感情が全身を支配して、それでも感覚は麻痺したようだ。
ゆらり、と足が出た。
勝手に脚が動いてアレンの近くまで歩いてゆく。
彼と、墓標の前に、独りで立つ。


「アクマも破壊したし、事後処理も済んだでしょう。もう此処にいる理由はありません」
「……………………」
「本部に帰りましょう、
「……………………」
?」


返事をしないでいるとアレンが小首を傾げた。
顔を覗き込まれる。
あぁ、本当に、


「わかった」


がそう言えばアレンは頷いて傍を通り過ぎた。
先に立って歩き去ろうとする。
けれどは自分がこれから何をするのか“わかった”から、見下ろした先のセルジュの墓に黙祷した。
口ではこう言う。


「先に謝っておく」


え?とアレンが振り返る。
もそうして二人が向き合ったところで、響く声を張った。




「ぶん殴ったりしてごめんなさい!!」




宣言すると同時に、はアレンの左頬を張り飛ばした。
否、言うより早かったかもしれない。
それも平手ではなく、固めた拳で思い切り打ち据えてやった。


「……っつ!?」


骨と骨がぶつかり合う。殴打音が空気を大きく震わせた。
いくら女の力とはいえ、不意打ちでパンチを食らったアレンは、当然のことながらよろけた。
倒れなかっただけ誉めて欲しいところだろう。
踏ん張った足裏が地面を擦って嫌な音を立てる。


「………………………」


アレンは目を見張ってを凝視した。
も拳を下ろさずにアレンを見つめた。
沈黙が二人の間に降りて固まる。動けない。動かない。
風だけが時間を流してゆく。


「なに……する、んですか?」


ようやくアレンが声を出したけれど、衝撃に唇が痺れていてうまく喋れない。
それでもは構わなかった。


「何って、殴ったのよ」
「いや……、あの」
「痛い?」
「はぁ、まぁ……」
「本当に?」
「はい」
「嘘じゃなくて?」
「……何なんですか、一体」


「じゃあ、殴り返してよ」


意味がわからない。
アレンはそんな顔をしていた。
それはも同じことだったから、理解できたことだけを伝えようとする。
胸の上で握っていた拳は、アレンの左頬を殴り飛ばして、堪らない痛みを訴えていた。


「さぁ。どうぞ」


報復をしろと迫ればアレンは困惑したように後ずさった。
はその分だけ前進する。
頑なにそうしていれば、彼は少しずつ苛立ちを見せ始めた。


「なんで僕が君を殴らなきゃいけないんです?」
「…………………………」
「それ以前に、どうして僕は君に殴られなきゃいけなかったんですか」
「…………………………」
「それもこんな、墓前で……」
「…………………………」
「一体何のつもりだ、
「痛いんでしょう?」


詰問口調になったアレンに問い返す。
そんなことはわかっている。


「そうでしょう、アレン。その痛みを与えたのは私よ」


あと少しの距離を詰めた。


「私があなたを傷つけた」


アレンの口元が震えた。
笑おうとしたのだ。
が言いたいことを悟って、優しく微笑もうとしたのだ。
その前に指先を握りこむ。


「もう一発殴らせる気?」


は拳を持て余して空中に振り下ろした。


「その笑顔は嫌い。何も見ていないみたいで」


穏やかに目を閉じることで何もかもを拒絶しているようで。


「私にはあなたの気持ちがわからない」


だからこれはわがままだ。自分勝手な訴えなんだ。
は彼から目を逸らさなかった。
微笑もうとする途中で硬直した、“アレン・ウォーカー”を逃がさなかった。


「あなたの気持ちなんて、何ひとつわかってない」


もう近付けないだろうか。
これ以上は無理だろうか。
は足を引きずるようにして傍に寄る。


「それでも、その笑顔は嫌だって、言わずにはいられないのよ」


あぁ、駄目だ。握りこんだ拳を開かなければ。
指がくっついてしまったみたいになっていて、このままでは触れられない。
だからこそ殴ることしかできなかったのだけれど。


「こうあるべきだと決めつけて笑わないで。自分の気持ちを押し殺して笑わないで。“此処”で、笑わないで」


十字架は今も立っている。
その下で眠るセルジュとエニス。
祈りは足りただろうか。彼らに届いただろうか。
死者は応えない。
目の前のこの人には、想いを届けたい。
…………応えてくれるまで。


「痛いんでしょう、アレン。その原因を作ったのは私よ」


はアレンの左手を掴んだ。
抵抗はされなかった。
彼は無反応だ。
は強引にそこへ自分の頬を押し付けた。


「ねぇ、どこを見ているの?何を見ているの?……私を見て言ってよ」


“痛い”って、言ってよ。


アレンはしばらく微笑のままで固まっていた。
徐々に目の奥に新しい感情が浮かんできて、それが嘲りによく似ていたから、は腹を括る。
まだ自分の感情はよく理解できていなかったけれど、見つけるべきものを悟ることは出来た。


「何を言っているんですか?」


アレンはいつものように、しかしどこか馬鹿にしたように笑った。
軽く顎を引いてみせる。


「僕には君の言っていることがわかりません」
「そうね。私自身にもよくわからない」
「だったら口に出さないでください。僕の知ったことでは」
「わからないけれど、駄目なのよ」
「……何がですか?」
「私は、あなたがちゃんと笑っていないと嫌なのよ」


そのとき握っていたアレンの左手から少し力が抜けて、の肩に乗るようになった。
表情を見ればやはり微笑んでいた。
瞳が、


「好き」


瞬く瞼の奥で、


「私は」


どこか虚ろに揺れた。


「笑っているアレンが好きなのよ」


今度こそ完全に脱力して彼の腕が落ちそうになったから、は両手で引き止めた。
混線する感情。読み取れることだけを必死に口にする。


「だからそんな風に笑わないで」


勝手な推論を押し付ける。


「でないともう、二度とあなたの本当の笑顔に会えなくなりそうで」


言葉の途中で握っていた左手に力が戻った。
否、今までにないくらい強く強く固められる。
そのまま横に振り切られて、言い終わる前に地面に突き倒された。


「……っつ」


咄嗟に体を支えようとして手をつけば、見事に肉が破れた。
擦り切れた皮膚から血が滲むのを感じる。
アレンは自分を殴ろうとしたのだろうか。
いいや、きっと手を振り払おうとしただけだろう。衝動的な行動に力が入りすぎただけなのだろう。
けれど彼にここまで攻撃的なことをされたことがなかったから、擦りむいた掌よりも、打ちつけた腰よりも、心が痛んで仕方がない。
ゆっくりと見上げると、アレンが見えた。
夕日を浴びて輝くはずの瞳が灰色に沈んでいる。
地面に座り込んだを見下ろす顔は、それでもやはり、“微笑み”でしかなかった。


「やめてください」


口から出てきたのは行動と同じくをはねつける言葉。


「今度は本当に殴ってしまうかもしれませんよ」
「……それでいいと言ったでしょう」


冷たい墓地の土の上で、どうかお願いと伏してしまいそうだった。


「だからそんな顔で笑うのはやめてよ」
「……うるさい」


掠れた声でアレンが呻いた。
場違いにもは安堵する。
なんでもいい。“あの”笑顔でなければ、もうなんでもいい。


「さっきからわけの分からないことばかり……。それもこんなときにこんな場所で……、少しは黙っていられないのか」
「何と声をかけようか考えた結論よ」
「そんなこと知らない。僕には関係ない」
「私にはある」
「一体何だって言うんだ……僕にどうしろっていうんだよ……!」


またアレンが笑ったけれど、それは敵意をこめたものだから気にならなかった。


「僕に何を望んでいるです?お前のせいだと罵られたいんですか?」
「私が無欲じゃないのは知っているでしょう。……それだけじゃないわ」
「じゃあ、なんだ?もしかして泣けと?此処で?セルジュとエニスの前で泣けとでもいうのか」
「そうよ」


嘲笑と共に投げつけられたアレンの言葉が、自身よりも思考を明確に捕らえていたから、一も二もなく肯定した。


「怒ればいい。泣けばいい。原因は目の前でしょう、アレン」


アレンは少しの間絶句したようだった。
苦しげに何回か呼吸した後、怒りと侮蔑をまじえた言葉を吐き出す。


「馬鹿にしている」
「違う」
「破壊の責任を他人に押し付けろというのか。そうして不様に泣けというのか。君が!!」


アレンは本当に腹を立てているようだった。
彼もこんな風に怒るのか。それをここまで示してくれるのか。初めて見るものに目を奪われた。
は頭から激情を浴びせられる。
擦りむいた手。じくじくと痛んで神経を侵していく。
体の底まで堕ちてゆく。


「ふざけるなよ……」


そう、これでいい。


「ふざけるな!」


願い通りだ。


「その全てを拒絶した君が、僕にそんなことを言えるとでも思っているのか!!」


「“私”だから言えるのよ」



怒声をぶちまけるアレンに反して静かに穏やかに告げれば、彼は倒れこむような勢いで膝をついた。
そのままコートを引き寄せられる。
あまりに強い力だったので布が裂ける寸前だった。
ほとんど胸倉を掴まれたような状態で、はぼんやりと思う。
殴ってくれればいいのに。そうできるように先に拳を振り上げてみせたのに。
そんなにも怒っているのに、まだ優しさを優先させるの?
女でなければよかった?私でなければよかった?
強すぎる感情に震えて、拒絶に溢れる眼で睨みつけて、それでもアレンはを害さない。
だから言った。
これで、決定打にするつもりで。


「泣いて」


腕を伸ばす。
強く掴まれているから引き攣る。痛みが走るけれど、どうでもよかった。


「過去の“アレン”も現在いまの“アレン”も全部よ。あなたが、泣いて」


アレンの暗く陰った瞳。
拒むことばかりを訴える双眸が、ゆっくりと見開かれてゆく。
これは残酷なことだ。わかっている。
にしか出来ない最低で最悪の仕打ち。


「そうしたら、私が抱きしめるから。ぬくもりを届けるから。独りじゃないって教えてあげるから。……ずっと」
「……………………」
「ずっと離さないでいてあげる……、アレン」


名前を呼んで微笑んだ。
無理はしなかった。
今できるだけの力で、笑顔を見せる。自然な表情でなければ意味がない。


「そう想う心は、あのとき、あなたからあずかってきたのよ」


先にアレンがくれたもの。
ひどく傷ついて、哀しくて苦しくて、それでも嬉しくてたまらなかったもの。
それを今、あなたに返すわ。


「私はあなたを傷つけるしかできないから、どうかそれ以上の痛みをちょうだい」


もはやこれ以上は無理というほどアレンの瞳は見開かれていて、激怒も失望も消え失せて伽藍がらんどうになっていた。
色を戻したい。
あなたの眼は魂を視る。哀しみを映す。悲劇ばかりを焼き付けてゆく。
それ以外のものとして、私はそこに存在していたいと願う。


「あなたが痛いのは私のせいよ。あなたが傷ついたのは私のせいよ。だから全部ぜんぶ奪い取る。受け止めてみせるから……」


あぁ、指先がようやく、


「傍にいさせて。独りになろうとしないで。何もかも拒絶して笑わないで。……私は」


アレンの左頬に触れた。


「あなたが好きよ」


自分が殴った跡を、そっとなぞってみせた。


「また本当の笑顔になれるように……、今はどうか」


“泣いてよ”


最後は声に出さなかった。
音にならなかった。
胸が詰まって感情が溢れて喉が機能しなくなったのだ。
は唇だけを動かした。
アレンにはそれで伝わるだろう。
その通りだったようで、長いような時間のあと、のろのろと開放された。
のコートを掴んでいた手が力を失って地面に落ちる。
ぼとりと転がったそれが、何だかグローリアを思い出させた。
彼女が死んだ“瞬間”までを引き戻した。


「……っつ」


恐怖に襲われて手を握れば、全力で振り払われる。
上体が傾く。
支えにした右腕を強く打ち付けてしまった。


「やめてください」


アレンがまた拒絶を呟いた。
声は平坦だった。
ぞっとするほど、何の感情もこもってはいなかった。


「やめて、ください。そんなことを僕に言わないで」


はほとんど地に倒れた状態で、淡々と繰り返される言葉を身に刻む。


「それ以上は聞きたくない。もうたくさんだ。僕は………」


痛む腕に力を入れて起き直り、はアレンと真正面から向き合った。
目元には影が落ちていて表情はわからない。
それでも肩が微かに震えていることだけは見て取れた。


「……私は」


は想いを込めて口を動かす。


「私は、あのとき、あなたを戦わせたくなかった」
「………………………」
「正直に言うと、今でもそう思ってる」
「……終わったことだ」
「いいえ。まだよ」


きっぱりと断言して、は背後にある墓標に視線をやった。


「あなたは事実を受け入れなくては」
「もう充分だろう」
「………………………」
「僕が壊した。セルジュの肉体は消え、エニスの魂も開放された。これ以上どうしろというんです?」
「本当のことを言って」


俯いたまま皮肉に笑うアレンには首を振る。
違う、そうじゃない。
あなたは無視を決め込んでいる。
見ない振りで誤魔化そうとしている。


「“アレン”は、“セルジュ”を、破壊したくなかったんでしょう?」


アレンは頬を張り飛ばされたかのように顔をあげた。
それこそ本当にそうしたときよりも衝撃を受けたようだ。
信じられないという目で見つめてくるから、もう一度言ってやった。


「あなたは、彼を、壊したくはなかったのでしょう」


「ちがう」


否定の声には力がなくて、アレンは咄嗟に口元に手をやる。
彼は自分自身に驚愕していた。


「違う」


繰り返しても実感がこもらない。
がじっと見つめていると、どこか怯えたようにねめつけてきた。


「違う。そんなわけがない」
「自分でも、わかっているはずよ」
「違う。違う、違う、ちがう!」
「……“セルジュ”は私を簡単に攻撃したけれど、あなたにはほとんど手を出さなかった」


腹を裂き、血を奪い、何度も傷つけてきた。
けれどアレンに対しては口ばかり。
切り札だった水牢も、アクマが直接的に殺そうとしたわけではない。


「そしてあなたもよ、アレン」


はそっと名前を呼んで、彼を金色の瞳で射抜いた。


「“アレン”は“セルジュ”を、傷つけようとはしなかった」


それこそ、が血を奪われるまで。戦闘に巻き込まれるような位置に行くまで。
“アレン”は“セルジュ”を害そうとはしなかった。
あれだけ激しい応酬をしても、双方が負傷しなかった理由。
それは、“彼ら”が、互いに傷つけ合うこと拒んでいたからだ。


「あなたは」


もはや硬直したアレンを捕らえているのは怒りでも拒絶でもなく恐怖であり、それの正体はただひたすら真っ直ぐに見つめるの双眸だった。
確実に致命傷を与える眼差し。




「あなたは“アクマ”を壊したくはなかったのでしょう、“アレン”」




その瞬間、銀灰色の眼の奥で、何か薄く美しいものが破れた。
それは粉々になって全てを押し流す。
暗く淀んだものを内包し、溶け込ませた。
そして、涙となった。


はアレンの絶対の秘密を暴いた自覚があった。
だから腕を伸ばす。
皮膚が傷つくのも構わずに膝で立って移動する。
白髪の頭を胸元に引き寄せて包み込んだ。


少年は泣いた。
少女はそれを抱きしめた。


「アレン」


名を呼んで、強く優しく、抱きしめた。




















嫌だ、こんな風に抱きしめられたくない。
アレンがまず認識できるレベルで思ったのはそれで、自分から引き剥がそうとの腕を掴む。
その手がひどく震えていたから動きを止めた。
視界が歪む。頬が濡れてゆく。
泣いている顔を見られたくない。


「やめてくれ」


もう何度目だろう、拒絶を願った。
突き放すことも抱き返すこともできないまま、アレンは心の底から懇願した。


「やめ、て、くれ……。僕にそんなことを言うな」
「…………………………」
「僕はエクソシストだ。破壊者だ。壊すことでしか、何も救えない」
「…………………………」
「セルジュも、エニスも、ああするしか……」


呻くように言いながら、認めてしまったことに気づいた。
“ああするしかなかった”……そこに在る自分の本音を思い知ってしまった。


「……私もあなたも、“自分”を裏切ったのよ」


アレンを抱きしめたままが囁く。


「あなたはアクマを破壊した。私はそれを止めなかった。……どちらもそれがエクソシストとして正しいことだと知っていたから」


アレンの視界はの喪服で真っ黒に染まっていた。
頬に触れる硬い生地。その下の柔らかい感触。
倒錯的で吐き気がする。


「けれど本当は違う。私は……っ」


は声と息を詰まらせながら続けた。


「“私”は、あなたにずっと黙っていた。できることなら知らせないままで終わらせたかった。“セルジュ”がアクマだということを」
「………………………」
「あなたに、彼を、破壊させたくなかったから」
「……そんなのは間違っている」
「そう、間違っている。とても愚かな考えよ。エクソシストとして、仲間として、あなたの信頼に背いてしまった……」


押し付けられた体が震えた。
冷たく黒い服の下で暖かく白い肌がわなないた。


「きっと他の誰が相手でも、私はこんな馬鹿な真似をしなかったと思う。“”は“エクソシスト”だから。本当の意味で任務を遂行するために、あなたに何もかも打ち明けていたはずよ」
「どうして言わなかった」


あの夜の問いかけを、アレンは繰り返した。


「どうして僕に何も言わなかったんだ、“”」


彼女はもう謝罪を口にしなかった。
ただ罪深い本心を投げ出す。
アレンの前だけに、さらけ出す。


「あなたが“私”を仲間だと呼んだからよ」


あぁ、僕達はまた互いを傷つけ合っている。
アレンは確かにそう感じた。
頭の上にあるの顔が俯けられて、細い吐息が髪にかかった。


「あなたは“”のなかに“私”を見つけた。暴かれて、捕まって、もう隠せなくなってしまった。…………私はエクソシストとしての考えではなく、いち個人の感情を優先させようとしたのよ」


こんなことを言わせるなんて、きっと彼女には血を吐くようだろう。


「任務よりも、役目よりも、自分よりもずっと……、あなたが大切だと思ったから」


また新しい涙が出た。
嗚咽が漏れそうになって、必死に唇を噛み締めた。


「“私”は、他のどんなことよりも、“あなた”を傷つけたくないと……願ってしまった」


それは何という罪だろう。
あってはならないことだ。認めてはいけないことだ。
決して、許されはしない想いだ。


「……言おうとしたの。何度も“セルジュがアクマだ”って。でも出来なかった。…………結局私は、どれだけ不利な戦況に追い込まれようと、どれだけこの身が傷つけられようと、あなただけは推測を告げなかったと思う」


アレンを抱きしめるの腕に一際力がこもる。


「私はエクソシストとしての“”を裏切り続けた。けれど最後に逆襲を受けたわ。…………“”は、破壊に行くあなたを、止めはしなかった」
「……それで、いいよ」
「止められなかった。絶対に嫌だったのに、“私”もやっぱりエクソシストで」
「君はそうするべきで」
「“私”と“”がしたことは、あなたを余計に傷つけただけだった」
「僕は後悔していない」
「嘘よ」


考えるより前にアレンは喋っていたけれど、当然のように強く否定されてびくりとする。
そのわずかな動きすらは抱き込んだ。
無理やりといえる強引さでぬくもりを与えてくる。


「あなたは悔いている」
「なに……」
「哀しんでいる」
「そんな、……ちがう」
「傷ついている」
「違うよ」
「その感情の全てを微笑むことで放棄しようとしている!」
「そんなことない!!」


の声が怖かった。
紡がれる言葉が痛かった。
このまま触れていれば取り返しのつかないことになりそうで、アレンは彼女の拘束から必死に逃れる。
力では勝っているから結果的に突き飛ばす形となった。
は背を墓標に激突させて、土の上に崩れ落ちてしまう。


嗚呼、本当に恐ろしい。


の言動も、それに対する自分の反応も。
あまりの恐怖にアレンは頭を抱えてうずくまった。
あやふやな視界、色を変えてゆく地面、その原因は止まることを知らない涙だ。


「やめろ……」


何かが壊れてしまった自覚はあった。
堰をきったように溢れ出す感情はアレンから冷静な思考も判断もできなくさせる。
自分でも訳がわからないまま口走る。


「やめろ。否定するな。これでいいんだ。僕はこうでなくてはいけないんだ」


そうだろう?
思い出の中の誰かに問いかける。


「僕はこうあるべきだ。我がままを言うな。本音をさらけ出すな。誰もを平等に愛して、救済の手を差し伸べなければ」


心の中にぼんやりと見えてくる。
肯定を欲している相手は誰だ。


「僕は“エクソシスト”だ。そう生きると決めた。そう在るのだと誓った。だから……、だから僕は」


「笑っていたのね」


続きを奪われて、頬に掌を感じた。
今度は呆然とした。
拒んでも振り払ってもはまた自分に触れていた。
墓標に強打した腕は痺れて動かないのか、利き手ではないほうが頭部に置かれる。


「だから、あなたはいつも笑っていたのね。無理にでも、微笑んでいたのね」


そっと髪を撫でられる。
宥めるようにではない。
気遣うようではあるが、深い尊敬の念を感じ取る。


「……そうやって、今までずっと頑張ってきたのね」


“誉められている”のだと理解した途端、マナを思い出した。
大きな手で何度も頭を覆ってくれた。
偉いな。すごいな。がんばったな……。そう言ってもらえたときの誇らしい気持ち。


(僕は、認めてもらいたかった……?)


何をとも、どうとも、わからないままに漠然と理解する。
だったら心中の人影はマナだろうか。
それとも師匠?両親か?
目を凝らす。見極める。見下ろした先。




そこに居たのは、幼い“アレン”自身だった。




「あなたは、ずっとひとりで、がんばってきたんだね」


卑屈と拒絶に満ちた目で、それでも孤独に歯を食いしばっていた少年は、アレンの目の前で泣き出した。
の温もりに触れて、頭を撫でられて、がんばったねと認められて、泣き出してしまった。


「だって……っ」


嗚咽に喉を塞がれながらも、“アレン”は想いを吐き出した。


「だってそうじゃなければいけないんだろう!礼儀正しくて、いつも親切で、自分のことなんか二の次で」
「………………………」
「僕はそんな、マナみたいな人間にならないと……」
「どうして、そう思ったの?」
「また捨てられる」
「……捨てられる?」
「気味が悪いと言われた。あっちへ行けと石を投げられた。異形の左手も、孤児であることも、侮蔑の対象だった」


何を言ってるんだろうとか、こんなことに意味はないとか、わかっているくせにアレンは壊れたように口を動かす。
勝手に流れ出すのは紛れもなく幼い頃の本音だった。
マナに出逢わなければわからなかった。淋しいと思わなかった。
あの人に受け入れてもらって、初めて拒絶されることの哀しさを知った。
けれど、


「僕はどうせ嫌われ者だ。だからせめて」


あのときに、一生懸命出した答え。


「せめて、笑っていないと」


意地だった。
誇りだった。
マナから受け継いだもののように思っていた。


「怒ったら、もっと馬鹿にされる。泣いたって、何も解決しない。独りぼっちの僕は、せめてマナのように微笑んでいないといけないんだ」


アレンの中で“アレン”が泣き喚く。
の前で涙を流し続ける。


「そうでなければ、また捨てられる」


醜い僕を放棄した両親のように。


「失ってしまう」


愚かな僕が破壊してしまったマナのように。


「置いていかれる」


用済みの僕を置き去りにした師匠のように。


「物わかりのいい振りをして、いつも微笑んでいなければ」


声帯を塞ごうとするのは吐き気のようであり、嗚咽のようであり、血のように凝り固まった自己嫌悪だった。
息が苦しい。胸が痛い。
涙が溢れて止まらない。


「そうでなければ、誰もこんな“オレ”を認めてはくれないんだろう!!」


もうおしまいだ。
こんな醜い本心を吐き出して、幼く弱い自分に立ち返って、エクソシストになってからの年月を無にしてしまった。
だけでなくアレンだって造り上げたものがあって、それをひとつ残らず失ってしまった。
アレンは繰り返す。


「誰も」


まるで、懺悔のように。


「こんなオレを、愛してはくれないんだろう……」


今までずっと、そうだったように。


「残念ね、アレン」


驚くほど明るい声がして、抱きしめられた。
また額に柔らかいものが触れる。
の胸に引き込まれて、軽く後頭部を叩かれる。


「認めるとか、愛するとか、今更の話じゃない」


かけられる言葉が把握できない。
の口調は軽い。きっとわざとだ。
だって声の端が震えている。


「前にね、パティさんが言っていたの。……家族とか、仲間とか、友達っていうのは、そう簡単に相手を嫌いになったりしないものなんだって」


もしかしたらは、泣きそうなのかもしれない。
気配でそう感じる。
アレンだから、感じ取れる。


「……今、その意味がよくわかったわ」
「嘘だ」
「だから残念でしたと言ったでしょう。あなたの思い込みは全て的外れよ」
「そんな、こと」
「大体あなた、私の前ではもう随分と取り繕ったりしてなかったじゃないの」
「………………………」
「なのに今更そんなこと言われてもね」


責任転嫁できるものなら、それはのせいだった。
彼女には最初から見破られていたし、何だか気遣う相手だとも思えなかった。
次に面倒になってきた。馬鹿らしくなってきた。
といると、本当の自分ではないことをするのが、妙におかしなことのように感じられたのだ。


「あなたにとって、この世界は舞台なのかもしれない」


風が冷たくなってきたからか、はアレンを抱きしめなおした。
触れる部分が暖かい。
反対に首にまわされた腕は鳥肌を立てていた。


「一生懸命に、“エクソシスト”である自分を演じている」
「……それは、君だって同じだろう」
「そうね。だからお互いにわかってしまったのかな……」


どちらもの本心を見逃すことができなかったのかな。


「“エクソシスト”も私たち自身。大切だし、切り離せない。それでも、それが全てではないと、教えてくれたのはあなたでしょう?」


仮面のようなものだった。
その役になりきるために被る道具。
けれど所詮動かすのは生身の手足であり、心に拠るものだ。


「アレン。あなたは、セルジュを、破壊したくなかった」


怖い言葉をが繰り返す。
抵抗することもできなくなっていて、ただただそれを聞いていた。


「私は、あなたに、セルジュを破壊させたくなかった」


墓前で罪を告白する。


「どちらもエクソシストとしては間違った考えよ。私たちは自分自身の想いを許せない」
「認めたらいけないんだ」


とっくに理解していたことだから、アレンは三度から離れようとしたけれど、素肌に水を感じて硬直した。
頬に冷たいものが当たって流れてゆく。
涙かと思った。
が泣いているのかと愕然とした。


「僕は」


あぁ、違う。
雨だ。


「“壊したくなかった”と言えば、マナのことさえ後悔してしまうから」


夕立が降りしきる。
あっという間に雨足を強めて全身を濡らす。
天が泣いていて、アレンも泣いていて、涙は鬱陶しいほどにその存在を主張してくる。


「後悔すればいい」


突き放すようなことをは平気で言う。
優しい声で言う。


「悔やんで、哀しんで、傷ついて、それでも私たちは聖職者なのよ。結局はそこに破壊の理由を見つけることになるのでしょう。…………“二度と繰り返さない”という決意に」
「……わからない。そう思えるかどうかなんて。僕は君ほど強くはないから」
「ばかね、アレン。だからきっと、私たちは独りじゃないのに」


世界は冷ややかで激しくてアレンの体温を奪おうとするけれど、のぬくもりに抱かれているからよくわからなくなる。
このまま縋っていれば彼女ばかりを損なうだろう。
雨からさえ庇うような少女に、今度こそアレンは頼み込んだ。


「もういい。もう、本当にやめてくれ。これ以上泣いたりしたら、マナのこともセルジュたちのことも、乗り越えられなくなってしまう」


それはエクソシストにとっての禁忌だ。
君だってわかっているんだろう?


「破壊を後悔しては、戦えなくなる」


“仮面”を失っては、教団に居られなくなる。


「そんなのは嫌だ」


アレンはもがくように腕を伸ばして、何とかから遠ざかろうとした。
視界は黒と水滴に歪んでいる。
耳を塞ぐ雨音が喘鳴にも慟哭にも聞こえた。


「僕は」


強くなくてはいけない。エクソシストでなくてはいけない。
君が無茶をしたら怒って、無理やりにおぶって、連れて帰れるような、そんな人間でなくてはいけない。
いいや、これだけは強制されたんじゃなくて、僕が勝手に誓ったことだよ。
君を暴いたあの日に決意したことだよ。


「“僕”は君の仲間でいたいんだ……!」


掠れる声で告げた瞬間、首の骨を折られるかと思った。
それほどの力で抱きしめられた。
痛い。けれど、どうでもいい。離れて欲しい。これ以上は嫌なんだ。


……ッ」
「仲間って何よ!!」


身動きを封じるように言葉が覆いかぶさってきた。
離れないように身を押し付けながら、が雨の帳を切り裂く。


「エクソシストじゃないと見限るの?わがままを言ったら駄目なの?笑ってないと捨ててしまうの?だったらあんたなんて最初から仲間だなんて呼ばなかった!」


苦しくて息がし辛い。
締め上げられているのは首なのか喉なのか、それとも心なのか。


「そんな馬鹿なことをいう人なんて、仲間だと思いたくなかった!!」
「……っ、知ってるよそんなこと!!」


アレンは怒鳴り返して、涙が出てくるのを感じる。
ほら、やっぱりそうなんじゃないか。
君だってそうなんじゃないか。


「だから僕は、ちゃんと“僕”でいたかったんだよ!!」


それを壊したのは君だろう、
離れたいのと離したくないのが少しの間力比べをして、結局アレンが勝とうとしたときに耳元で声がする。
彼女は抵抗に息を乱していた。


「私が知ってるアレンは、エクソシストよ」
「……そうだよ」
「自分勝手なことなんて滅多に言わない」
「言いたくないんだ」
「それでいつだってにこにこ笑ってるの」
「僕はそう在りたかった」
「それだけであなた自身だと思っているなんて、“仲間”を馬鹿にしているの?アレン」


低く押し殺した怒りが呟かれた。
アレンはそこでを力任せに引き離すことに成功した。
そのままもっと距離を取りたかったのに動けなくなる。
久しぶりに真正面から見た彼女が、頬をびしょびしょにしていたからだ。
雨だ。雨に濡れて……本当にそれだけ?


「ピーマンが嫌いなくせに」
「……は?何言って………」


続いた言葉が場違いにもほどがあったので、アレンはますます硬直した。
は気にせずに言い連ねる。


「緑黄色野菜は体にいいのに、極力避けるなんて子供っぽい」
「別にそういうわけじゃ……、食べられないわけじゃないし……」
「所構わずお菓子を食べ散らかして、片付けるのはいつも私よ」
「君が勝手に取り上げるんだろう」
「真夜中に食べ物を求めて徘徊するのはやめて。すごく怖い」
「だって……お腹が空くから」
「そう、空腹のときに機嫌が悪くなるのもなおしてほしいの。うかつに傍に寄ると八つ当たりしてくるんだから」
「それは君相手だから仕方ない……って何の話?」
「私はあんたのことなんて結構何でも知ってるって話よ!」


乗せられて喋っていたアレンが訊くと、は自信満々に断言した。
ついでに胸を叩かれた。
何度も叩かれた。


「全部じゃないかもしれない。でも知ってる。アレンのことなら知ってる。だから、そんな……」


握りこんだ指先が震えている。


「私は、あなたがエクソシストだとか、優しいからだとか、そんなことだけで仲間だと思ってきたわけじゃないのよ」


軽い拳だったけれど、体中に響くのは激痛のようだった。
アレンもも、すでに雨のせいで自分が泣いているのかどうかさえわからない。
ただ強い感情に全身が熱く凍えていた。


「もう今更、あなたがどうなったって、私たちは仲間でしょう」
「……………………」
「違うの?」
「……、君はそれでいいかもしれない」


どうせは特別だ。特別すぎて、他と比べることもできない。
君が許してくれたって、僕はこんな僕自身を容認できない。


「僕は、弱くなりたくないんだ。それは君にもわかるだろう……“”」


誰よりもそう願って僕を拒絶していたのは君なのだから。


「そう……私にはわかる。そして、“私”だから、そんなあなたを否定できるの」


アレンはを見つめた。
まるで引力だった。
顔を逸らそうにも、金色の瞳に捕らわれて動けない。
何となくわかってる。
嗚呼、これで本当に、


「あなたは」


おしまいだ。


「もう無理に笑わないで」


は雨に打たれながら微笑んだ。
まるで涙をこぼすように、優しく微笑んだ。


「怒っていい。泣いていい。今まで我慢してきたもの全てを私にちょうだい」
「……どうして、君に」


答えなんて知っているくせに。
アレンの中で“アレン”が嘲笑った。




「だって“私”という存在は、あなたしか知らないもの」




これこそ最大の後悔かもしれない。
君を暴かなければよかった。
ほんの少しも、完全といえるほどに、そう思えない自分が悔やんでも悔やみきれない。


「他の誰も、“”しか知らない。あなただけしか、“私”を知らない。……私自身でさえも、普段は“私”を消そうとしている」
「………………………」
「だから皆にはわからない。何を言っても、何をしたとしても、あなたは“私”以外の前では“アレン”のままでいられるわ」
「………………………」
「今まで通りでいられるわ」


それがアレンの願いで、の希望でもあるようだった。
何も変わらず、何も失わず、過ごしてゆける。
生きてゆける。
これからも、エクソシストとして……。
目の前に差し出されたとんでもない優しさに、アレンは真っ青になって首を振った。
悲鳴をあげて逃げ出したい。
は甘やかそうとしている。
彼女にしかできない方法で、“アレン”を完全に破壊しようとしている。
白い手を胸元に当てて“”が“自分”を示した。


「私はちっぽけな子供よ。何の力もないただの小娘よ。そんな奴には、本当に取り繕う必要がないでしょう」
「………………だめだ」
「どうして?」


が無邪気に、それこそ幼子のように訊いてくる。
アレンは彼女の双眸に捕まったまま首を振り続けた。


「そんなのは、ひどい」
「アレン」
「君を傷つけるだけだ」
「あなたが言ったことでしょう」
「嫌だ」
「“私”を仲間と呼んだのだから、それだけのことをさせてよ」


こんなのは酷すぎる。
アレンは恐怖に震えて後ずさろうとしたけれど、柔らかく引き止められた。
視線に絡め取られるようだ。逃げられない。
は子供のように抱きついてきて、アレンは子供のように抱きしめられた。
逃げられ、ない。


「“アレン”が要らないと言うのなら、怒りも涙も後悔も全部。ぜんぶをちょうだい」


要求してくる女の子はみたいに強くなくて、弱くて小さくていまだに血の海に座り込んでいる。
”の孤独や恐怖や不安を背負って泣いている。
それなのにアレンのまで欲しいというのだから、とんでもない欲張りだ。


「ひとつ残らず“私”がもらうわ」


君は雨が嫌いなんだろう。水が怖いんだろう。
止まない夕立からでさえ、はアレンを守っていた。


「心のまま感情を渡して。そうでないと駄目よ。だって笑顔だけなんて、無理だもの」


本当はこうやってナイフを突きつけられているのかもしれない。
そう思いたくなるほどの強制力。
脅されているように、アレンは動くことができない。
先刻まで何度も振り払ってこられたのが夢のようだ。


「他の想いも同じようにしないと、“素直”になんて笑えないでしょう?」
「どうしてだよ……」


抵抗する力も反発する気も奪われたアレンは、最後の足掻きで訴えた。
僕はこんなことのために君を見つけたわけじゃなかったのに。


「マナもセルジュもエニスも、君も!どうして僕に無茶ばかりを願うんだ……!」


アレンは灼けつくようなのぬくもりを糾弾した。


「どうして……っ」
「そんなの決まってる」


応えはこれ以上なく簡単に返される。
当然のように与えられるけれど、アレンはうまく享受できない。
何故なら今まで問いかけるのが死者ばかりだったので、返事をもらったことがなかったからだ。


「あなたに本当に笑って欲しいと思うから、他の感情もすべて受け取るの」
「……そんな、もののために?」


が躊躇いもせずに頷いたから、アレンは本当に訳がわからなくなった。


「たったひとつの感情のために、他の汚いものまで全部引き受けるというのか」
「だって、それが“本当”でしょう?」
「………………………」
「私は知っているのよ、アレン。嘘がひとつでもあれば、あなたは笑えない。ちゃんと、笑えない」
「………………………」
「だから、ぜんぶ“本当”をちょうだい。“私”にならどれだけくれても構わないから」
「………………………」
「あなたしか知らない“私”だから。何もかも……」


ちょうだいよ、とせがまれる前にアレンは吐き捨てていた。


「馬鹿な人だな」


そうやってを嘲ったつもりだったのに、嗚咽に掻き消されて終わってしまう。
幕が下りる。終演だ。
舞台を降りればアレンはただのちっぽけな少年で、同じ歳くらいの女の子に抱きしめられて泣いていた。
湧き上がってきては止まらない。
涙も感情も、堪えすぎていたから今更止められない。


“壊してくれ”とか。そうしたあと僕がどれだけの喪失感に苦しんだか、あんたは知らないだろう?マナ。
“助けてくれ”とか。願われた僕がどれだけ自分の無力さを嘆いたか、君達はわからないんだろう?セルジュにエニス。
全部ぜんぶ終わったあとに、僕がどれだけ後悔したかなんて、少しも理解してくれないんだろう?誰も誰も、誰ひとり。
だってみんな僕の傍には居てくれなかったのだから。


「破壊したくなかった」


ピエロが泣く。
メイクが落ちてゆく。
頬に描いた涙のペイントなんかじゃ、もう誤魔化せやしない。


「どうして壊さなきゃいけなかったんだ」


理屈はわかっている。感情論は無意味で、それでも考えずにはいられないこと。


「どうして“僕”が、大切な人を、葬らなきゃいけなかったんだ……!」


絶望、失望、恐怖、後悔。
そんなもの殺して笑って笑って!
愛されたいのなら、道化は微笑んで!!
僕は孤独。独りぼっち。手に入れたものはすべて、“僕”のせいで去ってゆく。
なんて滑稽なんだろう、まさに笑う他ないじゃないか。


「居なくならないでくれ。置いていかないでくれ」


喜劇。大切な人を救えたのだから。
悲劇。大切な人を壊したのだから。
お父さん、お母さん、マナ、セルジュ、エニス、師匠。


「“”」


悲喜劇。道化も人間。愛憎を抱えて生きる存在なのだ。
高らかに宣言される“La commedia e finita.”
芝居はこれでおしまいです。
僕は、これで、おしまいです。


君が欲しい。


「どうか、傍に」


ミハエルを慰めることもなく、パトリシアに謝罪することもできず、フリードリヒを突き放した。
もう二度と愛称では呼ばない。友人だなんて呼べない。
怖いからだ。あんな酷いことをして、皆が自分から離れてしまうのが、置いていかれるのが、捨てられるのが恐ろしいからだ。
それは誰が相手でも同じなのに、そんな暗く強力な制止も振り払って、何故求めてしまうのだろう。
“アレン”は“”を欲していた。
認めてくれ。愛してくれ。


「傍にいてくれ」


どうせ拒絶されるとわかっているのに、燃え上がる想いが鎮火できない。
記憶の中でセルジュを演じていたアクマが言う。


『お前は神すら恐れず、道理を破って、彼女を手に入れようとする』


その感情の正体は……?
確かめようとアレンが目を開くと、視界の隅に赤いリボンが映った。
昔にエニスにあげたものだ。
せめてこれだけでも一緒にと、セルジュの墓に結わえ付けた彼女の遺品。
それが雨風に煽られて解けてゆく。
飛んでいってしまうと気づいて、アレンは腕を伸ばした。
赤いリボンを掴もうと必死に手を差し伸べる。


『己の立場なんて気にするな。相手の言い分など聞いてやるな』


僕は今、一体誰なんだろう。
アレン・ウォーカーは死んでしまって、過去の卑屈な子供に戻ってしまったのだろうか。
否、それだけではない。そうじゃない。
どちらも僕だ。
”と“あの子”が同一の人間であるように。


『……殺してでも、彼女を自分のものにしてしまえ』


赤いリボンが墓標から外れて風に飛ばされる。
アレンは何とか掴もうとしたけれど、その指先が辿り着いた先は何故だかの頬だった。
肌を手繰り寄せながら、ようやくあのとき“セルジュ”が言っていたことを理解する。


『俺の描いた演出は、そんな激しい恋の物語だよ』


そうか、“恋”なんだ。
ずっと不思議だった。苦しかった。辛すぎて気が狂ってしまいそうなときもあった。
アレンはを傷つけてたくて守りたくて、今だって彼女を害するばかりだとわかっているのに縋り付いて泣いている。
決して綺麗なばかりじゃない激しい感情の正体は、間違いなく親友が教えてくれた。


(もう舞台の上では望めない)


演じてばかりの自分では、答えが見つけられなかったのも道理。
そのまま口にすれば嘘になる。
虚言に追放したくないという無意識の願望が、アレンにその正体を悟らせなかったのだ。


(僕は、君に、抱いていた感情は)


全部欲しいとか、愛してるとか、それだけで気づきそうなものを、エニスとの初恋が美しすぎてわからなくなっていた。
結局、が相手だったから汚い感情まで“本当”になりすぎて、否定してしまっていただけで。


(恋だった、んだ)


過去の思い出は赤いリボンと共に、手の届かないところまで行ってしまった。
アレンはもうそれを追わない。
目の前を塞ぐ愛しさが、左手を現在いまに縫い付ける。
堪らなくなっての頭に手をまわして引き寄せた。


(僕は、君を、あ い し て い る)


それは抵抗も否定も受け付けずに、アレンの胸の奥底まで落ちてきた。
同時に唇に唇が落ちてきた。
力づくで引っ張ったから、の体は楽々と倒れこんで、ぬくもりが触れ合う。
最期にエニスが残したのと同じように、アレンは金髪の少女にキスをした。


拒んで、振り払って、それでも求め続けて。
雨と涙の中で交わした口づけは、完全にアレンを殺してしまう。
もう笑えないかもしれない。戦えないかもしれない。壊せないかもしれない。
瞼を持ち上げれば見開いた金色の瞳が見えて、あぁでもこの人がいれば大丈夫だと勝手に確信した。


だって君は“”でもあるのだから、傍にいるためには“アレン”に戻らないといけない。
きっと出来る。
君のためなら出来る。
その代わり、君がいなければもう、僕は“僕”を生きられない。




そうか……僕達が互いを暴いて傷つけ合ったのは、共に在るための唯一の方法だったからなんだね。




アレンはもう一度にキスをすると、彼女を腕の中に閉じ込めて泣いた。
抱かれるのではなく、抱きしめて泣いた。


涙は哀と愛で満たされた儀式だ。
遠くで僕が嗤う。道化が笑う。




手に入れたのは“本当”。
もう二度と失くさないように、感情の全てで抱擁しながら、ピエロは死んでいったのだった。










『遺言はピエロ』終章です。
ここではアレンが無意識に口にするのを避けてきたであろうもの……つまり破壊に対する彼の素直な感情を書けたらなぁと考えていました。
まぁ何だかんだいったって、大切な人を破壊なんかしたくないと思うんですよね。
例えそれしか救いが残っていなかったとしても、心情的にはとても恐ろしい体験だったはずです。
それでもエクソシストは逃げられないし、泣いてはいけない。絶対に。
押し殺してしまった“アレン”はどうすれば救われるのか……少しでも描けていれば本望です。


次回から新章が始まります。神田やラビも出てきますので、どうぞお楽しみに!