切り裂かれ、
押し潰され、
突き刺され、
削り取られ、
打ち砕かれ、
そうしてこの身が滅びようとも君だけを破壊する。


僕は破壊の聖職者エクソシストなのだから。







● 遺言はピエロ  EPISODE 11 ●






「へぇ、そういう顔するんだ」


セルジュはアレンに気安く笑いかけた。
まるで悪戯話をもちかけるように。
思い出の、そのままに。


「俺が敵だと知って、どんな反応するか楽しみにしてたんだけど」


大木の幹にあずけていた体に反動をつけて起こし、セルジュは大きく歩み出た。
足の下で落ち葉が鳴る。
ぐしゃりと無惨に踏み潰される。


「ははっ、予想してたよりも冷静でつまんね。もっと取り乱して欲しかったのにな」


軽い足取りで接近してくる彼に、が素早く構えなおした。
つまりはセルジュを完璧に敵だと認識していて、それが正しいことのはずなのに、アレンにはひどく不思議に思えた。


「……そうでもないか」


微動だにできないアレンをまじまじと観察して、セルジュは嬉しそうに首を傾げる。


「親友がアクマになってて吃驚した?エニスが中身で、セルジュが皮。それで俺が生まれたわけ」
「解説は結構よ」


セルジュの言葉をがぴしゃりと遮った。
もう喋るなと言いたげなその口調に、青年の口元が歪む。
嫌な笑いだ。
そんな得体の知れない優越にも、は怯まなかった。


「あなたは敵、それが私の結論よ。もう問答は無用のはず」
「あんたとはね。でもアレンは違うだろう?」


セルジュは自分の片目を指してみせた。


「アクマの魂を視る眼が、ようやく治ったんだ」


の肩が揺れて、勢いよく振り返ってくる。
驚愕しながらも注視しているのはアレンの呪われた瞳だった。


「アレン、あなた眼が……」


治ってしまったのか。
言外にそう告げられたから、アレンは無理やり声を絞り出した。


「気づいていたのか……」


痛い。
眼球が痛い。
それ以上に頭も胸もぐちゃぐちゃにされて死んでしまいそうだった。


「君は気づいていたのか。………セルジュが、アクマだということに」
「あぁ、ちゃんは俺を疑ってたよ。ずいぶん前からずっとな」


肯定したのはセルジュで、は黙れとばかりに睨みつけたけれど、彼はどこ吹く風だ。
閉じた瞼をさらりと撫でる。


「参考までにどこが悪かったか聞かせてくれないか?演技にはちょっとばかり自信があったんだけど」
「……………………」
「ほら、俺って魂も皮も芸人だろう?だから完璧に“セルジュ”を演じきっていたはずなんだ。フリッツもミハもパティも、アレンだって見破れなかった。それなのに、あんたは」


また開いた眼は、どろりと重い血の色をしていた。


「あんたは、俺がアクマだと見抜いてみせた。どうしてだ?」


問いかけは笑みを含んでいるけれど、結局は切りつけるような鋭さだ。
強制力が場に満ちる。
アクマとアレンの問いかけに、はぎりと唇を噛み締めた。


「…………あなたを、知らなかったからよ」


わずかな沈黙のあと、まるで呻くように応える。


「私は“セルジュ・パスカーレ”という人間を知らない。だから何の先入観も持たずにあなたを見られた。あなたの持つ、わずかな違和を感じ取れた」
「つまりは勘?そりゃあ凄いな」


セルジュの軽口をは聞き流す。
睨み合う彼の瞳を知っていた。
呪縛のような視線。恋にも似た激しい炎が纏わりついてくる。


「そして……、“エニス・パスカーレ”の存在」


は強く指先を握りこんだ。


「素人の私にはわからなかった。サーカス団の花形をそう長く外に出しておくものなのか……。演目に支障が出るし、収入にも響くはずでしょう?皆は破天荒な団長が決めたことだからと不審に思っていないようだったけれど」
「あんたは納得しなかったって?なるほど、確かにそれは“セルジュ”のやり方を知らない奴の考えだな」
「だから団長室に忍び込んで、エニスさんの修行先を調べたの。それを元に教団に調査を依頼した」


続きはセルジュが引き継いだ。


「結果、エニス・パスカーレは行方不明。修行になんて嘘っぱち。資料に書かれていた曲芸団には行っていなかった……と。そこから先は?」
「ブックマンが彼女の行方を追ってくれたわ。そして……数ヶ月も前に亡くなっていることを突き止めたのよ」


言葉の最後だけは声を震わせた。
それが何故なのかは、考えなくてもわかった。
アレンはいまだに動けない。
セルジュから目が逸らせない。見つめ合う。懐かしい容貌。
囚われの身となったエニスは、それでも変わらずに美しい。


「考えずにはいられなかった……。舞姫はどこへいったのか。いつになれば帰ってくるのか。誰に尋ねても確かな答えが得られないと知ったとき、何かがおかしいと……そう感じたの」


やはりほとんどが勘だったといえる。
生来の感覚の良さと、長年の経験が合わさって、疑問は確かな疑いへと変貌したのだ。


「そして、唯一の肉親であるあなたへの違和感が、私にこう推測させたのよ」


隠された死の向こうでエニスはアレンばかりを求めている。
叫び声が木霊する。


「エニス・パスカーレの身に、“何か”が起こったのではないかと」


やめてくれ。もう聞きたくない。
僕は君に会いに来たけれど、そんな姿を見たかったわけじゃない。
昔みたいにまた笑い合いたかっただけだ。
エニス。


「セルジュはそれを隠蔽した。修行に出したと偽って、仲間たちを遠ざけた。その“何か”は彼女の存在を揺るがすものよ。団長として、兄として、全ての権限を使ってまで隠さなければならないこと」


それは、そう多くは考えられない。
は吐息ほどの音量で羅列してゆく。


「家出。失踪。行方不明。それとも怪我か病気か…………、“死”か」


ふいに大きな哄笑が巻き起こった。
腹を抱えて笑っているのはセルジュ本人だった。
否、アレンの友の姿をした、何か別の物体だった。


「あんた、本当に“セルジュ”と会ったことがないのかい?そうとは思えないほど素晴らしい推察力だよ」


彼は手放しで賞賛し、あっさりと告白した。


「そう、エニスが死んだんだ」


いまだに言葉の端々が笑みに震えている。
息を吸い込んで続けた。


「修行に行かせたのは本当だよ。本人が望んだことだ。けれど突然、エニスは病に倒れた。そしてサーカス団から出ていたことをいいことに、“皆には知らせないで”と兄に頼み込んだんだ」


アレンの旧友の顔がまた一層微笑みを深めた。
左眼はもはや痛み以外を感じ取れない。


「セルジュはそれを叶えてやった。フリッツにもミハにもパティにも、仲間には一切漏らさなかった。エニスが死んでも、それを守り通したのさ」


そう、セルジュはそういう男だ。
ひとりで何もかも抱え込む。辛いことだって平気だと言う。
一体君達はどこまで似ているんだと前に立つ金髪に思った。


「心臓の、病気だったんだ」


ふと、紅い双眸が遠くを見るように細められた。


「だんだん鼓動が小さくなって、最後には使いものにならなくなった。闘病生活はそりゃあ凄まじいものだったよ。苦しみ悶えているうちはまだマシだ。動かなくなってゆく体、手足、表情……それを見ているのは辛かったな」


人事のように語る口調。
実際に彼はセルジュ本人ではないのだからそれで当たり前なのだけど、語られる内容がそう思わせてはくれない。


「舞姫が、踊れなくなる。芸人が舞台から追われるんだ。どれほどの恐怖だったのだろう。きっと死ぬよりひどい仕打ちだ」


サーカス団での暮らしが兄妹の全てだった。
それが失われると知ったとき、エニスは何を思ったのだろう。
セルジュはどう感じたのだろう。
想像だけで頭がおかしくなりそうだった。
アレンだってイノセンスに寄生されていなければ、芸人としてしか生きる道を知らなかったのだから。


「エニスが病気になって以来、自分の鼓動さえうるさいと感じるようになっちまってさ。今でも元気のいい心音が嫌いだ。例えばちゃん、あんたのとかね」
「…………だから、あなたは人間を殺すとき、心臓を抜き取っていったというの?」


が低い声で尋ねた。
返答は穏やかな微笑みだった。


「だって鬱陶しいんだよ。どくどくどくどくさぁ、エニスのそれは勝手に止まりやがったくせに“俺”の耳元で脈打つなど許せない」
「あなたはセルジュ・パスカーレじゃない!」


の強い言葉に何だかアレンは呆然とした。
彼女はどこまでもセルジュを否定していて、その意味が理解できなかった。
頭ではわかっているのに心が納得してくれないのだ。


「セルジュの想いのように、殺人を語らないで」
「………………………」
「あなたの正体は私が見抜いた。演技はもうおしまいよ」
「痛いところばかり突いてくる女だな」


セルジュはわずかに皮肉を滲ませた。


「なぁ、あんたが俺に疑いを持ち始めたのはいつだい?」
「……入団した翌朝よ」
「ああ、あのとき」
「見回りをする私たちを見たのは、あなた自身だったのでしょう?」
「そう。それで釘を刺した」


“勝手な真似をするな。さもなければ、この世界から追放する”と。
つまりは、己の正体を暴こうというのであれば、今すぐ殺すと言いたかったのだ。


「あなたは何故、それほどまでに“セルジュ”に固執するの?」


すでに何ヶ月もその名で通していた事実からわかる。
彼は団員を一人も殺害してはいない。
破壊衝動を抑えてこの場に留まり、人間として生きてきたのだ。


「言っただろう?俺は“役者”だ」


今の今までを称えるようだったセルジュが、そこで小さな子に言い聞かせる口調となった。
どうしてわからないのかと、薄い哀れみを込めて言う。


「演じることが体にも魂にも染み付いている。本能だよ。殺人欲求と同じくらい、それが強いだけさ」


そうしてにやりと微笑むと、両腕を広げて声を放った。


「パスカーレサーカス団の団長、“セルジュ・パスカーレ”。エニスの兄にして、アレンの親友。それが俺の全力で挑んでいた役だ」


芝居がかった動作で片手が胸に当てられる。
唐突に笑いの種類が変わった。
セルジュの顔で、アクマは微笑んだ。


「けれど、暴かれてしまったからには幕を引くべきだな。“セルジュ”を演じるのはもうお終い。次はお前たちの望み通り、“アクマ”となろうか」


宣言と共に放出された殺気には地を蹴った。
けれどそれよりほんの少しだけ早く、アレンが駆けた。
瞬く間に左手を発動させてセルジュに踊りかかる。
衝突音。
夜が騒ぎ、闇が揺れ、憎しみが生まれる。


「アレン……!」


が背後で言った。
何だか悲鳴のような声だった。
アレンは振り返らない。アクマをねめつける。
異形の左手は透明な壁に阻まれ、ぐにゃりと歪んだその向こうにセルジュがいる。
彼は胸元に手を置いたままそこに立っていた。


「……お前には」


どこか淋しそうに“セルジュ”が囁いた。




「お前みたいに優しい奴には、破壊だなんて似合わないぜ。アレン」




「黙れ!!」




怒号と同時に防御壁を砕く。
それの正体はやはり水だった。粉々に四散すると濡れた音を立てて地面に落ちる。
アクマは笑いながら後ろに下がり、アレンの追撃を避けた。


「怒るなって、今のは演技じゃない。“セルジュ”じゃなくて俺の感想。……お前、向いてないよ。優しくて、素直でさ。だから簡単に騙されるんだ。俺にも…………ちゃんにもね」


降ってきた水はアレンの身を濡らし、髪を肌に張り付かせた。
視界に白が被さる。
その向こうに暗黒。


「“アクマ”という正体を隠して欺いてきた。お前には俺たちが許せないだろう。だって裏切り者だからな」


アクマは「なぁ?」と顎をあげてに同意を求める。
冷たい水。体温を奪う。けれどアレンの全身は熱くて、気が狂ってしまいそうだった。
火炎は内側を燃やし尽くして激情となる。


「お前はとてもいい子だ。俺を疑うこともせず、ちゃんを信じきって。……そんなんだから」


そこでアクマは腕を振るった。


「本当に大切なものを、見失うんだぜ?」


笑顔と水弾を投げかけられる。
アレンは左手で弾き返そうとしたけれど、背後から飛来した黒光の刃に先を越された。
邪魔だ、と思った。
アレンはの援護を無視して攻撃の最中に突っ込みアクマの姿を探す。
水と光が弾け飛んで眩しい。それでも場違いにあがった女性の悲鳴に瞠目した。
声はのものではない。
だが、聞き覚えがあった。


「パティさん!」


が呼んだ名前にやはりと思う。
煙幕のような水を振り払えば、パトリシアの姿が確認できた。
彼女はアクマの手にきつく拘束されていた。


「人質のつもり?」


が怒りと軽蔑を込めて尋ねる。


「さぁて。どうかな」


アクマはにやりと笑って、パトリシアの首に腕をまわして締め上げた。
赤い唇から苦鳴が漏れる。


「わ、私はアレンとが心配で追いかけてきただけよ……」
「へぇ。さすが“姉さん”だ」
「何なの……、ねぇ、離してセルジュ」
「悪いが、それは無理だな」
「どうして……」
「だって俺、アクマだからさ」


パトリシアの瞳に困惑が浮かび、ゆっくりと恐怖に塗りかわってゆく。
その細い首に巻きつけられた腕が、本体あるべき骨格を失い、肌の色を変え、幾本もの触手へと転換されたからだ。
それは蛇のように波打ちパトリシアの喉に絡みついた。


「ひ……っ!」


悲鳴は器官を塞がれることで消える。
何とか呼吸をしようと口を開閉させるけれどまったくの無駄だ。
もがき苦しむパトリシアの体を、アクマがもう片方の腕で抱きしめた。


「アレン」


呼ぶ声がぶれた。話しているのは誰だろう。
器となったセルジュか、核となったエニスか。


「さぁ、どうする?過去の仲間を助けるために、現在いまのお前の正体を明かすか?」


そんなのはどちらでもいい。


「その異形の手で、“セルジュ”を壊すか?」


どうでもいい!


「さぁ!お前も仲間が大切なら、俺たちと同じように自分を裏切ってみせろ!!」


そんなのはもうどうだっていいんだ!!


けたたましい笑い声。
その呪いに捕らわれる前にアレンは“セルジュ”を引き裂いた。
陰の気を放出する左手で触手を切断、パトリシアの身を取り戻す。
彼女を受け止めたから追うことはできなかったけれど、視線だけはアクマから逸らさなかった。
彼はアレンの攻撃の届かなくなる、ちょうどその地点まで逃れる。
捲れあがった皮の下から覗くボディがやけに歪に見えた。


「セルジュ……!?」


不意に新たな声が響く。
今度夜の中に姿を現したのは、長い三つ編みの長身。フリードリヒだった。
彼は息を切らしながらこの場の全てを見渡した。


「これは……、どういうことだ……?」
「フリッツ……」


眠っていたのではなかったのか。
眠っていてくれたら良かったのに。
君は一度寝てしまったら絶対に起きないはずだろう。
そんなことを思う。


「アレン、今朝お前の様子がおかしかったから……」


フリードリヒは呆然としたまま近づいてきた。


「眠らずに様子をうかがっていたんだ。そうしたら……お前が寝所から出て行って………、姉さんの悲鳴が…………」


わけがわからないまま伸ばされる手。
指先がアレンに触れる前に止まる。
フリードリヒが震えるように瞠目した。
アレンはそれを燃え上がる左眼で睨み付ける。
訴える。
触れるな。僕に、触れるなと。


「お前……」


フリッツ、君が僕を拒絶する前に、僕が君を拒絶する。


「その……左手は………」


破壊の結晶だよ。
醜くて呪われている。
強い怒りと憎しみで、今や常人でも感じ取れるほどの禍々しさを放っていた。


硬直したフリードリヒにアレンは首を振ってみせた。
その肩で意識を取り戻したパトリシアが激しく咳き込む。
反射的にアレンに縋り付いて、薄く開いた目が異形の腕を映すと、甲高い悲鳴をあげた。
後ろに下がろうとしたところで視線が合って、表情は途方もない恐怖から悲しみへ。
パトリシアはフリードリヒとまったく同じ様子となった。


「アレン……」


苦痛の名残か、それとも絶望にか、美女は一筋の涙を流した。


「あなたも、なの……?」


アレンはパトリシアの体を突き飛ばした。
それが答えだった。
彼女を自分から遠ざけ、フリードリヒに支えてもらう。


「そうだよ」


呻く間にアクマが身を翻す。
逃げてゆく先を見据える。
最後に血を吐くように言い捨てて、アレンは敵の後を追った。


「僕は裏切り者だ!!」


自分勝手な理由で此処に居座り、仲間のような顔で過ごしてきた。
ひたすらに異形の正体を隠して、君達を騙していたんだ。


そう、“セルジュ”と同じように。
アクマと、同じように。




















パトリシアが地に崩れ落ちた。
セルジュの姿をしたアクマと、それを追跡したアレンの背中が、完全に闇の中に消えた瞬間だった。


「姉さん……」


フリードリヒが膝をついて抱き寄せるけれど、彼女はまったく動かない。
呆然と震えるばかりだ。
は静かに二人の傍に立った。


「お願いがあります」


そう申し出れば見上げてくる漆黒の瞳。
しかしすぐに背けられる。
フリードリヒは無言でパトリシアの肩を撫でた。


「……今はまだ、騒がないでいただきたいんです」
「……………、どういうことだ」
「皆が目覚め、外に出てしまえば、必ず戦闘に巻き込んでしまいます。私たち二人だけではあなた方全員を守り切ることはできません」
「守る?……俺達を?」


食いしばった歯の隙間から尋ねるフリードリヒの声は低い。
が頷けば顔を振り上げて睨みつけてきた。


「お前たちは何だ」


敵意が音になればこうなるのだろう。
そんなふうに感じて、体が痺れるようだったけれど、拳を握りこんで耐えた。
非難されるべきは当然で、もっと他に望むことがある。


「何がどうなっている。セルジュのあの姿……アレンの左手……、まるで化け物だ。俺の仲間が何故」


苦しげに息をついで、一気に吐き出す。


「俺達を戦闘に巻き込みたくないと言ったな?お前は誰と戦うつもりだ。何から守るつもりだ」
「ごめんなさい、今は説明している時間がありません」
「どうしてセルジュが姉さんを傷つけた。どうしてアレンがあいつを追っていった」
「どうか何も聞かず、全てが終わるまでテントの中へ」
「まさか……、あの二人………」
「お願いです」
「答えろ、!!」
「信じてください!!」


初めて聞いたフリードリヒの怒声に、鞭打たれるようにして返していた。
睨み合う。見つめ合う。互いの想いの強さを伝えるために。


「私のことは信じられないでしょう。……けれど、アレンなら」
「………………………」
「どうか、アレンのことは……信じてあげてください」
「………………………」
「必ず、あなた達を守ります」


濡れたような黒の双眸は闇の中で揺らめいている。
その奥に反感や疑い以外のものを見つけて、あぁ何てこの人は優しいんだろうと思った。
信じろと言ったって、守ってみせたとしたって、“私”は仲間を取り上げてしまうのに。
エクソシストとして、セルジュを破壊し、アレンを連れ去らなければいけないのに。


「……アレンは、自分を裏切り者だと言った」


フリードリヒは呟きながらパトリシアを抱きしめた。
まるで縋り付くように、言葉にする術を貰うように、腕に力を込める。


「あの二人はもう……、俺達の元へは戻らないのか」


それは問いかけではなく確認で、返事は求められていなかった。
はそっと目を閉じて頭を下げる。


「……行きます。アレン一人を戦わせるわけにはいかない」


それだけ告げて駆け出した。
背中をフリードリヒの叫びが追ってくる。
前に回りこんで足を止めさせようとするから、は必死に走る速度をあげた。


「助けてくれ!」


きっと今、彼はいつもと同じ瞳で私を見ている。


「助けてくれ、!俺の仲間を……っ」


裏切り者は振り返れない。


「お前の、仲間を!!」


懇願が夜の底へと響いて突き刺さる。
駆け去る前に聞こえてきたパトリシアの慟哭に、は血が出るほどきつく唇を噛み締めた。




















嫌悪、拒否、止まらない猜疑心。
ともすれば全てが口から溢れ出しそうだった。
それは絶望の悲鳴となるのか、怒りの咆哮となるのか。感情は乱れに乱れていて苦しいばかりだ。
もう何も考えたくない。何もしたくない。けれど、走ることは止められない。
“アレ”がこれ以上セルジュの顔をしているのは許せなかったし、何よりエニスを捕まえたかった。
僕は今夜、彼女に会いに来たのだから。


アクマはサーカスの敷地内を走り抜けてゆく。
後に続くアレンはわずかに残る冷静な部分で、まずいなと思った。
敵が向っている先は裏手にある公園。建ち並ぶ木々に、鉄で出来た柵。囲まれた自然の中に、微かに水の匂いを嗅ぎ取る。
アレンは『十字架ノ墓クロス・グレイヴ』を放つことでアクマの行く手を阻んだ。
地面が破壊され、煉瓦が飛び散る。
それを避けるために跳んだアクマへと踊りかかった。


「行かせはしない」
「何だ、バレたか」


軽い舌打ちが聞こえる。
アクマは懐から細長い瓶を取り出すと、親指で蓋を弾き飛ばし、大きく振るってみせた。
途端、機関銃のように水弾が放たれる。
アレンは再び地面を破壊し、その瓦礫を盾にしたが紙の如く貫通。
回避を余儀なくされた。


「タネも仕掛けもない水芸さ。面白いだろう?」


口にされる言葉は未だにセルジュそっくりだった。
調子も内容も昔から連想される親友のもので、だからこそアレンの身体は熱くなる。
熱せられた鉄の棒に喉から腹を掻き回されているみたいだ。


「お前は水を操る」


激情に呑まれてしまわないように、アレンは唇を開いた。


「けれどそれは有限だ」
「手品は魔法じゃないからな」
「……補充のために湖に行こうとしているようだけど。そうはさせない」


アクマに狙いを定めながらイノセンスを構える。
脈動するように痛む左眼が訴えていた。
壊せ、と。
壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ、アクマを壊せ。
破壊しろ!!
頭の中に絶叫が響いて、けれど踏み出す足を何かが制する。
睨み合ったまま、いつでも左手を振りかぶれる状態のまま、アレンは動けなかった。
その理由が容易にわかって即座に否定する。
アクマはそんなアレンの様子を見て取って笑った。
嘲笑ではなかった。
何だか諦めと優しさに満ちた微笑だった。


「馬鹿なアレン」


演技だ。
咄嗟にそう思う。
だって、アクマがこんな風に笑うものか。


「まだ俺を見限れない?」
「違う」


返答は反射で、そのあまりの速さに顔を歪めた。
これでは認めてしまったと同じだ。
図星をさされて、誤魔化しを口にしてしまっただけだ。


「眼が見えてなかったころならわかるけどさぁ」


アクマは呆れた様子を見せて歩き出す。
ぶらぶらと足を揺らし、まるで散歩をするかのように。
戦場で無防備に向けられた背中に、アレンは一瞬わけがわからなくなった。
彼は、本当に敵か?
応えは至極簡単で、アクマ自身が教えてくれる。


「見えてるんだろう?俺の中の、エニスの魂」


そう、だから飛び掛れ。破壊しろ。今左手を振り下ろせば、それで終わる。
なのにアレンは動けない。


「俺はアクマだ。セルジュじゃない」
「わかってる」
「じゃあ何で破壊しないんだ?」
「………………………」
「俺を壊すのがお前の目的であり、仕事だろう?」


アクマは軽やかに歩む。
何気ない動作で振り返って、問いかけてきた。


「それとも、もうエクソシストは嫌になったか?」


随分と意外なことを訊かれた気分だった。
考えてもみなかったことだ。
アレンはわずかに肩を揺らし、反動で少しだけ左手が下がる。
意思の力で持ち上げようとしても何だかひどく難しかった。


「そうだよなぁ。お前、やっぱり向いてないからな。戦うとか、壊すのとかさ」
「………………………」
「そういうことを生業にしていける人間じゃない」
「……、お前に何が」
「わかるさ。セルジュとエニスの記憶がある。それに、しばらく一緒に過ごした仲だろう」


此処は戦場で、目の前の男は敵のはずだった。
けれど、何故だろう。そんな風には到底思えない。
このアクマは自我を持っている。
演技をするうえでセルジュやエニスの記憶や考え方を知り、ひとつの存在として出来上がってしまったのだろうか。
彼はアレンに話を続けた。


「やめちまえば。エクソシストなんて」


水面に石を投げ込まれたみたいに、その言葉がアレンの胸に重く沈みこむ。
拾い上げる術は見つけられない。


「お前にはもっとさ、こう誰かを笑わせたり、喜ばせたり、そういうほうが似合ってるよ。この世から何かを失くさせるんじゃない、何かを生み出すほうが」


少しずつ、少しずつ、感情を掻き分けて落ちてゆく。


「サーカスに残れ。芸人を続けろ。お前は死の匂いのする場所ではなく、舞台の上で戦うべきだ。そうすれば、他人の悲劇じゃなくて、笑顔を糧にして人生を歩んでいける」


話しているのはセルジュで、エニスで、そのどちらでもないアクマだ。
涙が出そうになった。
言って欲しかったのだ。
アレンは旧友にそう言って欲しかった。
自分が喪の仕事に服していると告白すれば、きっとそう言ってくれると信じていた。
その全てを今、宿敵が口にする。


「“こっち”に戻って来いよ、アレン」


投げ込まれた石はどこか深いところに落ち着いて、そこにいたのがマナだったから、アレンはゆるゆると首を振った。


「僕は逃げたいわけじゃない」
「ああ。そんな柄じゃねぇな」
「でも、誰かにそう言って欲しかった」
「……そっか」
「昔の僕を知る人に、言って欲しかったんだ」


変わりきってしまうのが怖かった。
完全に失うのが恐ろしかった。
もう戻れないと知っていたけれど、どうか、あの頃の僕だけは、それを知る人たちの心の中ではいつまでも。
ただの“アレン・ウォーカー”でいたかった。
運命に縛られず、罪過を背負わず、重い決意を固める前の、無邪気な子供のままでいたかったのだ。


「どうしてお前が」


アレンは震える声で、揺らぐ視界で、痺れる頭で、アクマを見据えた。
貼り付けただけの“セルジュ”の顔。
泣いてしまいたい。


「どうして、お前が、それを言うんだよ……!」


ミハでもフリッツでもパティでもセルジュでもエニスでもなく、何故アクマなのだろう。
いつだってアレンの心の底を暴くのは彼らでしかなかった。
見抜かれる。認められる。それだけで許されたような気持ちになる。
そんなことは絶対にないのに。
アクマは少し口元を緩めてみせた。


「ごめんな」


切ない呟きと共に爆発が巻き起こる。
真横から襲ってきた黒光の刃とアクマの水弾が衝突して弾け散る。
森の中から飛び出した金髪に、アレンは怒りすら覚えた。


「追いつくのが早すぎるよ、ちゃん」


アクマは大して気にしたふうでもなく肩をすくめてみせた。


「せっかく友情を暖めあっていたのに」
「いつまで演技を続けるつもりなの」


の言葉に傷つくのはアレンばかりで、その理由は彼女にはなかった。
目だけで振り返ってこちらの無事を確認する仕草。安堵したような表情。何だか無性に苛立つ。
嘘つきだ。
みんな嘘で、演技で、僕を騙していた。
それはアクマもも同じだった。


「その眼いいね。睨みつけられるのも悪くない。やっぱりあんた、好きだなぁ」
「“セルジュ”はお終いじゃなかったの?」
「俺だってタイプだということさ」


アクマは妖艶な笑みを浮かべて目配せをしてみせた。


「あんただって、まったくその気がなかったわけじゃないだろう?」


の眉根が一瞬寄る。
わずかに肩が強張ったのを、アレンは見逃さなかった。


「キスしたって抱きしめたって、ろくろく抵抗しなかったじゃないか」
「それは、あなたの正体を探るためよ」
「へぇ。完全に自分を囮にしてた?」
「………………………」
「“セルジュ”だったから良かったけどな。普通なら、あんたとっくに……」


はアクマに最後まで言わせなかった。


「任務は遂行しなければいけないものでしょう」


遮った声はいつも通りに静かで、けれどその底に怒りや羞恥や……諦めが混ざっているように聞こえた。
気がつけばアレンはの腕を掴んでいた。
自分でも驚くほど乱暴に引き寄せて振り返らせる。
驚いた金色の瞳に映ったのは誰だろう。
様々な感情が“アレン”を狂わせる。


「任務……、だから?」


そのために僕に黙って勝手をやって、挙句の果てに気もない男に好き勝手に触らせて。
すべてがアレンの預かり知らないところにあった。


「そんな……理由で……っ」


嘘をついた。
騙していた。
仲間だと呼んだくせに裏切った!


「どうして僕に何も言わなかった!!」


腹の底から怒声が飛び出した。
頭がどうにかなってしまいそうだった。
信じていた自分が滑稽で、叩き潰してやりたくてたまらなかった。
激情はアレンの全身を焼き尽くし、に燃え移って氷結する。
彼女の双眸に見た己の顔。
それは裏切り者めと責め立てる、非難の表情だった。


「……っつ」


が息を詰めた。
何故だかそこで理解した。
現状況こそが、彼女の一番恐れていたことだったのだと。


「………………、ごめんなさい」


声音が揺れたのは一瞬。
続きは硬くて感情はこもっていない。
だから余計に流れ込んでくる本心。


(どうして、だって?)


頑なに無表情を保とうとする少女の体は微かに震えている。


(言えるわけがないだろう)


本当は、最初からわかっていたはずなのに。


(セルジュがアクマかもしれない、だなんて……が僕に言えるはずがない)


その事実がどれほどアレンを傷つけるか知っていたのだから。
結局彼女に口を閉ざさせたのも無茶をさせたのもアレン自身で、そのことをしっかりと認識した途端ますます感情が荒れ狂った。
どうにかしてやりたいと思う。
どうしたいのかはよくわからなかったけれど、に対する気持ちが爆発して取り返しのつかないことになりそうだ。
そんなアレンを制止してくれたのは他でもないアクマだった。


びしゃり、と水の音。


一拍遅れてがよろめいた。
アレンは咄嗟にその体を支えて、見下ろした先の赤い色に恐怖する。
の腹部に刻まれた傷口が、滝の勢いで血を噴き出していたからだ。


「なに……」


アレンは愕然と呟く。
傷はそんなに深くない。そもそも血はすでに止まっていたはずだ。
突然に始まったこの大量出血は明らかに異常だった。


「操れるのは水だけだとでも思ったか?」


アクマが親切にも教えてくれる。
見えない力で傷口を抉られる苦痛と、血を失ってゆくばかりの悪寒に、の顔が歪む。
震える唇は悲鳴を吐き出さないから、アレンは彼女をかばうようにして敵へと視線を向けた。
月明かりの下に立った“セルジュ”の姿。
その周囲に赤い血が意思を持って舞い踊っている。


「俺の能力は“液体操作”。血液だってこの通り」


端を吊り上げた唇が動けば、再びの体から大量の血が零れ落ちる。
それは地面に辿り着く前に方向を変えて空中を滑り、アクマの支配下へとおさまった。


「最初の一撃で傷をつけられて良かったよ。おかげでちゃん、あんたは楽に倒せそうだ」


血液が闇の中で形を変える。
まるでの光刃みたいな鋭利さを晒してみせた。


「さて。このまま全身の血を抜かれて死ぬか、自分の血で作られた刃に殺されるか。どっちがいい?」
「どちらもお断りよ」
「じゃあ両方だ」


間髪入れずに返したをアクマは嘲笑った。
そして今度こそ目を背けたくなるほどの赤を奪い取り、即座に凶器へと転換、へと差し向ける。
アレンは彼女の体を後方へと突き飛ばした。
このような操作系の能力には何かしらの制限があるはずだ。
例えばなら、視界に入る距離までしか刃を操れない。
アクマも同じかどうかは定かではないけれど、対象を遠ざけて不利になるとも思えなかった。
血の弾丸を叩き落しながら迫る。
今はアクマの意識をから逸らさなければ。


「お前の相手は僕だ!」
「攻撃もできないくせに」


苦笑めいた吐息をつかれる。
あの表情はセルジュのものだろうか、エニスのものだろうか。記憶に引っかかって仕方がない。
アクマは公園の柵に沿って駆け、アレンはそれを追った。
もう止めはしなかった。
湖に行くことはわかっていたけれど、の血液を奪われるよりはいい。
少しでも離れてくれるのならばそれで。
そんなアレンの考えなど理解しているはずなのに、本人は納得してくれないようである。


「駄目、そっちは……!」


無理やりに立ち上がろうとする気配がしたから、アレンはますますアクマを急きたてていった。




















痛みはあまりなかった。
感じるのは凄まじい寒さだけだ。
血を大量に抜かれたのだから当たり前だけど、そう構ってもいられない。
あのアクマの能力は“液体操作”、湖の傍では完全に有利となってしまう。アレンもそれがわかっていて行かせてしまったのだ。
自分を、守るために。
は歯を食いしばり、近くの木に縋って立ち上がった。
走れるだろうか。そう思って一歩を踏み出す。
もう一歩。あまりに鈍い歩みだ。
我慢できなくなって地を蹴れば、凄まじい眩暈に襲われて転倒した。


「……っ、は……ぁ……」


気持ち悪くて息があがる。
凍える体。すでに末端神経は機能していないのか、手足の感覚がなかった。


「く……っ」


何とか身を起こして立ち上がる。
柵を掴んで体を前にやり、また掴みなおして前にやり、そればかりを繰り返す。
這うよりはマシだ。けれどこの状態で行ってどうなるのか。
震えの止まらない足を叱咤しつつは進んでいった。


「だいじょうぶ……まだ動ける……!」


だったらじっとしてなどいられない。
アレンだけを戦わせるわけにはいかない。
彼の足手まといではなく、助けとならなくてはいけないのだ。
いいや、それどころか、はアレンを止めたかった。


(液体を操る能力……。この怪我では近付けない?でも………)


血の巡りの悪い頭で必死に考える。
思考というよりは、やはり直感だった。
どうにもあのアクマには違和感がある。それは正体を暴いてもなお、拭いきれない何かだ。


(そんな……はずは……)


ぼんやりと辿りついた結論に、はひとり首を振った。
顔をあげればもう湖が目の前だ。
響くのは剣撃の音。アレンの鋭利な左手と、アクマが作り出した水剣が交差し、ぶつかり合う。
激しい力を出して戦っているのに、どちらも傷ひとつ負ってはいなかった。
はとりあえずは胸を撫で下ろし、支えから手を離して起立する。
あのアクマの能力は自分のそれと酷似している。
特定の対象を自在に操り、武器や防具に変えるのだ。
ならばきっと戦術も似てくるはず……!
組み合った得物同士が離れた瞬間、はイノセンスを発動させた。
黒光をアレンの前で展開して、攻撃の合間に放たれた水弾を防ぐ。
の援護にアクマが口笛を吹いた。


「やるね」
「まだよ!」


武器の形を自在に変えられる特性を活かして、必ず連続攻撃を仕掛けてくるはずだと読んだのだけれど、それだけで終わるつもりはなかった。
は意思の力で防御壁をたわめる。
その反動を使って受け止めていた水弾を一気に弾き返した。


「おっと」


アクマは驚いた顔をして能力を解除。水の弾丸は形を失い地面を濡らす。
さらに追撃しようとしようとしたところでは強い衝撃を受けた。
水弾が散るのとほぼ同時に、防御壁を破壊されたからだ。
アクマではない。
彼も意外そうにしている。
わずかに残った黒光も、その左手によって無に帰された。


「アレン……」


名前を呼んでも振り返らない。
代わりにこう言われた。


「邪魔だ」
「仲間割れか?」


アクマが茶化すけれど、アレンは完璧に無視した。


「君は退がってろ」
「……一人で戦うつもり?」
「その怪我で何ができる」
「足手まといにはならないわ」


が引かずにいれば、肩越しに視線を投げられた。
呪いの眼球がぐるりと動く。
信じられないほど鋭利な瞳で睨みつけられた。


「退がっていろ」


口調は平坦で冷静で、だからこそ恐ろしかった。
は無意識のうちに傷口を押さえて、そうしてしまった自分に驚く。
身を守ろうとしたのだ。
アレンに睥睨されて、恐怖して、それゆえの自己防衛……有り得ないと強く首を振る。


「私は……」
「アレンにこそ退がっていて欲しい。そうだろう?」


アクマが代わりに言っしまったから、は続くはずだった言葉を呑み込んだ。
ここしばらくで見慣れた美青年の顔が優しく微笑む。


「まったく、駄目な奴だな。女性の意見はちゃんと聞いてやれよ」


宥めるような調子が逆にアレンを刺激したのか、何の前振りもなく『十字架ノ杭クロス・バリング』が放たれる。
エネルギー弾がアクマに殺到した。
続けざまにイノセンスを転換して、今度は『十字架ノ槍クロス・スピアー』へ。
アクマの水剣と交差し、火花を散らす。


「知ったような口をきくな」
「何だよ、お前よりは理解できていると思うぜ?」


互いの武器越しの会話。刃を弾いて距離が出来れば弾丸を撃ち合う。
爆音が轟き、衝撃波が生まれる。
それでもどちらも傷つかない応酬に、は堪らなく戦慄した。


「“セルジュ”はお前より、察しが良くて大人だっただろう。アレン」
「……そうだ。いつもそうだった」
「馬鹿みたいに笑って、くだらないことで騒いで」
「そのくせ、一番肝心なことは口にしない」
「あぁ、“セルジュ”とちゃんは似ている。だから俺にはわかるんだ。彼女の気持ちが」
「……だろうね。けれど」


アレンの姿勢が低くなる。
下方から槍を繰り出し、そのまま上へと振り抜くことで、アクマの水剣を真っ二つに叩き折った。
形態を保てなくなった武器はアレンを濡らす。


「お前にわかるものか」


翻った槍がアクマの肩を貫いて、今度は黒い液体が飛散した。


「お前たちに」


水と血に全身を汚されたアレンは、底光りする瞳で咆える。


「お前たちに、最後まで何ひとつ知らされずにいた人間の気持ちがわかるか!!」


声帯を突き破りそうな荒々しさ。
糾弾されているのはアクマではない。セルジュとだ。
アレンは獣のような様子で絶叫する。


「いつだって、僕に教えられるのは全てが終わったあとだ!優しさ?気遣い?誰が頼んだんだよ、そんなものはいらない!!」


左手が横に振られてアクマを一閃する。
大量の血を被ってアレンの白い髪が真っ黒に染まった。


「何も話してくれない!頼ってもくれない!自分勝手に駆けずり回るのがそんなに楽しいか!独りでやり遂げることがそんなに偉いのか!傍にいる者の気持ちを無視して、お前たちは満足なのか!!」


は耳を塞ぎたくなった。
けれど聞かなくてはいけない。
全てをこの身に刻んで、アレンの痛みを受け止めなければならない。
途方もなく傷ついているのは自分ではなく彼なのだから。


「お前たちにはわからない」


感情と戦闘の激しさに息を切らしたアレンは、“セルジュ”を斬りつけるようにして睨みつけた。


「その強さのせいで、傷つく者がいることなんて、少しもわかりはしないんだろう」


怒りは夜へと響いたけれど、余韻となって残ったのは淋しさだった。
悲痛なまでの想いが波となって闇に溶け込む。を取り込もうとする。
深みにはまって抜け出せなくなりそうだ。
必死に何かを応えようとすれば、それはアクマと同時だった。


「本当に馬鹿だな、アレン」


やめて、とは思った。
そんな風に言わないで。そんな声で話さないで。
懇願したくなるほど、アクマの様子は優しさに満ちていた。
演技だとすれば残酷すぎる。
彼はあまりに完璧に“セルジュ”になりきることが出来るのだから。


「そんなにも怒るのならば、俺達を見捨てろよ」


紅い瞳がを見た。
あんたもそう思うだろう?ちゃん。
“セルジュ”の声で問われた気がした。


「俺達はそれで構わないんだ。もう、いいよ。放り出していい。気にかけなくていい。心配はいらない」
「………………………」
「ちゃんと、独りで、やっていけるから」
「……やっぱり、何も、わかっていない」
「ああ、この回答こそお前の怒りの正体だ」


唐突に彼はアクマに戻り、けれど表情だけはそのままでアレンを見つめる。


「なぁ、それでも無茶なんだよ。お前は無理難題を突きつけている。セルジュももお前が思うほど強くはないんだ」


エクソシストは揃って目を見張った。
自我を持ったアクマでも、こんなことを言い出すとは思っていなかった。
それは演じた役のセルジュのせいか、内在するエニスのおかげか。


「強さは他人を傷つけない。お前を苦しめるのは、彼らの弱さだ」


アクマはアレンに貫かれた肩を軽く押さえて目を閉じた。


「話さなかったんじゃない、話せなかったんだ」


嘘。虚言。演技。


「頼らなかったんじゃない、頼れなかったんだ」


平気だと、強がって笑ってみせて。


「自分勝手にやりたいんじゃない、独りでやる方法しか思いつけないんだ」


アクマの指先が己のボディへと食い込む。
“セルジュ”の気持ちを抉り出すようして言葉を吐き捨てた。


「それのどこが強さだ。彼らは弱いんだよ。お前みたいに傍にいてくれる奴にさえ、うまく寄りかかれない大馬鹿者だ」
「……………………」
「なぁ、どれほどの辛さだったかわかるか?仲間にさえ隠して、自分だけで抱え込んで。本当に、どれだけ……!」
「……………………」
「エニスが病気になって、苦しんでいて、だから必死になって支えたよ。サーカスを切り盛りしながら、団員たちに勘づかれないように気を配りながら。神経を擦り減らして看病し続けた。それでもエニスは死んだんだ。そして、それまでのツケを払わされた。“俺”は、たった一人の肉親を失った哀しみすら、誰とも分かち合えなかった」
「セルジュ」


思わずといったようにアレンが呼んだ。
即座に唇を押さえたけれど、アクマは否定しなかった。


「完璧な役者だったよ、“俺”は。たくさんの苦悩を抱え込みながらも、いつもと同じに振舞っていた。エニスは修行に行ってしまったと、フリッツに嘆いて、ミハと淋しがって、パティに嘘の経過報告をして。そして“きっと立派になって帰ってくる、何たって俺の自慢の妹だからな”と笑ってみせた」


は通信の内容を思い出す。
ブックマンの調べによれば、セルジュは夜になるとサーカス団を抜け出して、エニスの居る病院へと通っていたそうだ。
団長ともなれば遅い時間になるまで体が空かない。
セルジュの肉体と精神にかかる負担は測り知れないものだっただろう。


「“野暮なこと聞くなよ、女のところに行くんだ”……色男らしい発言だろう?そう言っていれば誰も不審に思わなかったよ。その実、ろくに眠らずに病身の妹を看ていたなんてさ」


アクマはふと、肩の傷口に食い込ませた己の手を見た。
真っ黒な血に染まった掌。
どこか虚ろな瞳で見下ろす。


「最期まで、誰も“セルジュ”の演技には、気がつかなかった」
「……っつ、どうしてそんなこと!」
「怖かったんだよ」
「何がだ。お前が何を恐れたって言うんだ!」
「仲間が傷つくことさ」


アレンはもう会話をしている相手がわからない様子で、名前を呼ぶことさえ放棄していた。
にも判断がつかなかった。
今話しているのは一体、誰なのだろうか。


「だってさぁ、エニスが病気で死ぬかもしれないなんて、言えないだろ。皆を泣かせる。悲しませて、苦しませて、ズタズタにしちまう」
「…………そんな、の」
「仲間をそんな目に合わせるくらいなら、そのすべてを自分が……、自分ひとりが引き受ければいいと思ったんだ」
「そんなのは、間違ってる」
「あぁ。間違えた結果がこれだ」


青年は苦笑を浮かべて、露出したボディを見せた。


「隠し通したものが重すぎた。結局、“俺”だけでは受け止められなかった。エニスの死っていう悲劇は、さ」
「なんで、皆を信用しなかった」
「……“俺”は」
「どうしてお前は仲間を拒絶した!」


アレンの問いに、青年の後ろ足が退がる。引きずるようにして遠ざかる。
哀しい眼。微笑んだ唇。穏やかな表情のまま固まってしまったようだった。


「仲間を傷つけたくなかった。辛そうな表情も、涙も流す姿も、見たくなかった。エニスだって、俺が助けなければと思っていた。なぁ、アレン。俺は団長なんだよ。兄貴なんだよ。誰かに頼っては駄目なんだ」


独りできちんと、立っていないと。
だって皆を庇護する立場にいるのだから。いいや、肩書きとかそんなんじゃなくて、それが唯一無二の願いだった。


「ごめんな。俺は、もっと、ちゃんと」


紅い瞳が緩やかに瞬いて、一粒の涙を落としてみせた。


「強くなりたかっただけなんだ」


次の瞬間、青年の腕が真横に振り切られる。
手に付着していた黒い血が飛んで、アレンの右肩から左脇腹にかけてを染めた。
そして爆発。
血液は起爆剤となり、密着して発生した衝撃に、アレンは激しく揺さぶられる。
吹き飛ばされて地に伏せば、アクマの哄笑が頭上から降ってきた。


「愚かな“セルジュ”!苦痛に喘ぎ、絶望を背負い、孤独に狂っていった!伯爵様に魅入られて、誰にも知られることなく死んでいった!最後の最後まで独り舞台、独壇場だ。まさに主役に相応しい」


手をついて立ち上がろうとすれば、それを足で踏みにじられた。
見上げればいつもの調子で、セルジュの顔が笑っていた。


「どうだった、俺の誕生秘話は。気に入ってくれたかい?」


の目には、アレンが親友の名前を呼ぼうとしたように見えた。
アクマはそれを遮る。
彼の腹を蹴り上げるという乱暴な方法で。


「他に誰ひとり、同じ舞台には上げなかった、“セルジュ・パスカーレ”の物語。そのラストは、やはり鮮烈なる破壊で飾るべきだろう?」


血反吐を吐いたアレンの胸倉を、アクマが乱暴に掴んで引き寄せる。
は咄嗟に駆け出していた。
何をどうするかではなくて、何とかしなくてはと思った。
何故なら彼が泣いていたからだ。


「なぁ、俺のために死んでくれるよな?親友」


アレンではない。
“セルジュ”が、泣いていた。
血色に濁った双眸からはらはらと水滴が零れ落ちて、まるで分け与えるかのようにアレンの頬を濡らしてゆく。
震える唇が綴ったのはたったひとつの名前。
そして二人の涙が重なった瞬間、それは巻き起こった。


「!?」


アクマの腕が触手へと転換され、アレンの首に肩に胴に脚にと纏わりつく。
逃れようとすれば、今までさんざんに浴びせられてきたアクマの血と涙が肌の上で爆発した。
衝撃に動きを封じられる。
ぐらりとよろめいた拍子に空を仰ぎ、アレンはそこに巨大な何かが浮かんでいるのを発見した。
いつの間にかアクマの背後にある湖が見事に空っぽになっていて、それに気づいた瞬間正体を悟る。
水だ。
アクマは今この場にある全ての水を支配下に置いた。
それでもって、自分を殺す気でいるのだ。


「アレン!」
「来るな!!」


駆け寄る間にが叫べば、すぐさま拒絶を返される。
水球の開放、一気に襲い来る濁流。
それに呑み込まれる直前に、は地を蹴って、アレンに飛びついた。


一瞬で染まった視界は黒で、水の色なのか闇の色なのか判断がつかない。
押し流そうとしてくる力は凄まじい。
は離れまいとアレンを強く掴んだ。
けれどその手はやはり拒絶された。
水に取り巻かれながらもアレンはを振り払おうとする。
体に絡みついたアクマの触手が水球の奥へ奥へと引きずりこもうとしてくるから、ますます強く腕を振るってみせた。
は必死でしがみついて、流水の暴力とアレンの抵抗に耐えた。


(離さない)


固い決意でそう思って、水の中で目を開ける。
アレンがこちらを睨んでいた。歪む視界の中で、それでも怒りをたたえて。
彼の全身が離せと訴えているから心臓が壊れそうになったけれど、は無理やり微笑んでみせた。


(駄目よ、アレン。離さない)


目で告げれば首を振られる。
水球に捕らわれたのは自分だけなのだから、君は逃げろと訴えてくる。
確かにこのまま此処にいれば死ぬだろう。
流れ来るばかりだった水は方向を変え、今や二人の全身を攻撃するように逆巻いていた。
押しつぶされそうな圧迫感。何より呼吸ができない。
酸素を供給できなければ、人体は機能を止める。
だからアレンが“逃げろ”と言うのもわかるけれど、それには絶対に従えなかった。


(どうか)


さんざん傷つけておいてこんなことを思う資格はないのかもしれない。
は呼吸を失いながら、胸を詰まらせながら、アレンを抱きしめた。
これ以上腕は動かせない。少しでも力を抜けば水に押し流されてしまう。
だから、どうか。
アレンに願う。


(どうか、あなたも私を離さないで)


アレンは嫌がるように身をよじった。
それでも首にまわした腕を緩めずにいれば、不意に何倍もの力を感じる。
力強く抱き返されたは罪悪感でいっぱいになった。
私はあなたの言うことをひとつも聞いてあげられなかったのに、あなたは私の願いを叶えてくれるのね。
もう一刻の猶予もなくて、迫り来る死に身構えただけかもしれない。突き放すことを諦めただけかもしれない。
何でもいい。は切ない感謝の中で目を閉じる。
水の牢屋の中で抱擁を交わす。
背中に感じるアレンの左手。そう、この手で触れて欲しかったのだ。


次に瞼を開いたとき、は刮目した。


体内に取り込んだイノセンスが奥底から蠢き出す。
アレンの十字架と共鳴して、世界を塗り替える。それはやはり独りで意識を集中させるよりも鮮明だった。
の視界を埋めるのは光の線の群れ。
ここ数週間、舞台の練習として、これに向き合ってきた。
今ならわかる。見極められる。ロープとではなくて、光線同士を比べて、取捨選択が行える。
どれが本物で、どれが邪魔か。
どれが必要で、どれが不要か。
そして、


(破壊を!)


器官に水が浸入して意識を失いそうになる。手足だって自由にならない。
もしかしたらもう、アレンに抱きしめてもらっていなれば、この世に留まっていることすらできないのかもしれない。
水はを死ねと迫り、殺すと襲い掛かり、ついに腕の力さえ奪う。
アレンから指先が離れそうになったから、は無我夢中で能力を発動させた。
必死に光線を選び取って切断する。
なぞるようにではない。真横に裂いて、それを消し去る。
跡形もなく破壊する!


次の瞬間、水牢は瓦解した。




















水の呪縛に捕らわれたまま、アレンはを抱きしめていた。
必死に頭を働かせて決断を急ぐ。
不意をつけば、彼女を外へと弾き飛ばせるだろうか。
イノセンスで周囲の水だけでも散らせば可能だろうか。
そうやってを救うことばかり考えているのに、両腕は彼女を捕らえたままでいる。
冷たい水の世界。それでもぬくもりが欲しかったわけじゃない。


(あんな目で僕を見るから)


今にも泣き出しそうな顔で、それでも微笑んで、必死に手を伸ばして。
そして、懇願されたからだ。
離さないで。抱きしめて。
いつだって僕は、君にそう言って欲しいと思ってた。
そこに付け込むなんてひどい。どうせまた君は自分のためじゃなくて、僕のためにそう願ったんだろう?


そんなアレンの予想は大当たりで、の放った光刃が奇妙な動きを見せたかと思うと、それが水牢を内側から爆ぜさせて破壊した。
唐突に戻ってきた重力に対応できない。
アレンは地面と激突した。をかばって背中を強打する。


「な……、なにが……!」


疑問を呟けば、口から水が出てきた。
吐くだけ吐いて荒い呼吸を繰り返す。
傍で足音がしたから見上げれば、アクマが立っていた。
アレンは咄嗟に迎撃の構えを取ったけれど、彼はすでに殺気を失い、何だか疲れたような顔で笑うばかりだ。


「すごいな、水中脱出だ。どうやったのか教えてくれ」
「お前……」
「あぁ、でも、その前に彼女をどうにかしてやったほうがいい。息してるか?」


吐息と共に訊かれて顔色を失くす。
振り返っての様子を見る。倒れたまま動かない。
思わず肩を強く揺さぶれば首がガクガクと揺れて怖くなった。


「おい、乱暴に扱うな」


アクマがセルジュの調子で言うけれど聞いていられない。
肩に手をまわして引き起こせば、腹が圧迫されたのか、体が痙攣して水を吐き出した。
生きてる。それを知ってアレンは心底安堵する。
それからはさんざん咳き込んでのた打ち回って、まだ意識がはっきりしていないのか泣き出しそうな声で呻いた。


「みず、……みず、が………っ」


歯の根が合っていない。それは寒さのせいだけではないだろう。
何故なら彼女はカナヅチで、水が大の苦手だ。
は地面に突っ伏して縮こまって、震えの止まらない己の体を抱きしめている。
アレンはその肩にそっと手を置いた。


「……水が怖いくせに、どうしてこんな無茶をしたんだ」


水球に呑まれたのはアレンだけだった。は自分から巻き込まれなければ、こんな風に苦痛を味わうこともなかったのに。
そう問いかけはしたけれど回答はとっくに知っていたから、アレンは重ねて訊かず、も応えなかった。


「なに?その子、水ダメなのか?」


アクマが驚いた様子を見せる。
あまりに敵意もなくそこに居て、普段の調子で話しかけてくる。
それでも警戒は解くほど馬鹿でもないから、アレンはアクマから目を逸らさずに、苦しみ続ける少女を自分の陰に隠した。


「……は、泳げないんだよ」


アクマの真意がわからなくて、様子を探るために言えば、今度は呆れた顔をされてしまう。


「馬鹿だな、それで飛び込んでくるなんて。いざというときのために練習させたほうがいいぞ」
「夏に少しやったけど……なかなか」


釣られてどうでもいいことまで喋ってしまったところで、の咳き込みが激しくなった。
どうやら喘息を引き起こしたらしい。
アレンは彼女の体を抱き寄せて、地面に横たえてやった。
水圧の影響か腹の傷まで開いてしまっていて、どう見てもこれ以上戦える様子ではなかった。


「そんな状態で、どうやって俺の水牢を破壊したんだ?」


腕を組んだアクマが上方から疑問を降らせてくる。
は寝かせようとしてくるアレンに抵抗して、もがくように腕を動かしながら切れ切れに返した。


「結合面、を……」
「結合面?」
「術、を、形成してる……、水と能力の繋ぎ目、……を…………切断、した、の」


これにはアクマだけではなくアレンも大きく目を見張った。


「切断した、って……」
「そんな、どうやって」
「見、た、まま……に」


はそこでまた咳き込んだ。
アレンは呼吸を宥めるために手を貸してやったから思考する間もなかったけれど、アクマは口元に拳を当てて考え込む。


「見た?“視えて”いる……?」


瞬きをした後、の金色の双眸をねめつけた。


「あんた、モノの急所が視えるのか」
「モノ、の、急所……?」
「それで、他の全てモノと識別して、俺の能力だけを破壊した?」
「あれが、……?」
「そうか。あんたは体の中に……」


アクマは勝手にひとりで納得して、不意にくすくすと笑い出した。


「すごいお嬢さんだな。何もかも滅茶苦茶だ」


アクマの視線がの胸から腹の辺りまで滑り降りていったから、アレンはまた血を奪うつもりなのかと気を張り詰めたけれど、その心配は無用だった。


「おかげで俺の切り札も無効化されちまった。……さて、どうする?アレン」


夕食のメニューでも訊くような気楽さで答えを求められる。
アレンは咄嗟に言葉を返せない。
アクマは数歩後ろに下がると、そのままくるりと背を向けた。


「俺は“セルジュ”じゃない。けどな、演じているうちに、あいつの考え方に傾倒しちまった」
「…………………………」
「俺の能力が破られたからには、残るのは“セルジュ”の意思と、“アクマ”の本能だけだ。……“俺”の望みはもうわかるだろう?どうするかはお前が決めてくれ」
「…………………………」
「“アクマ”は“エクソシスト”を殺したい。“俺”は“お前”を殺したい。それも忘れるな」
「僕は」


アレンは何か言おうとしたけれど、アクマは聞こうとはせずに、少し離れたところまでさっさと歩いていってしまった。
逃げる気はなさそうだ。今のところ殺気もなりを潜めている。
アレンはさざ波のように乱れる感情に双眸を見開き、続けて強く瞼を閉じた。
立ち上がろうとすれば服の裾を掴んで引き止められる。
力は弱々しかったけれど、振り返った先のの顔はすでにしっかりとしていた。


「だめよ」


声にも意思が込められている。かすれていることなど気にならないくらい、明確に断言された。


「あなたが行っては駄目」
「……君はもう戦えない」


いいや違う、とアレンは自分の発言に首を振った。


「僕が行かなくちゃいけない」
「どうして」
「……君が僕に黙っていたのは、これから起こることを回避したかったからなんだって、わかってる」
「……、そうよ。私はそれが嫌だったの」
「………………………」
「わがままでも身勝手でも、……あなたを傷つけてでも、嫌だと思ったのよ」


は言葉の最後で瞳を伏せた。
わずかに震えた唇を噛み締めて、アレンを掴む指先に力を込めなおす。
触れてみれば氷のように冷たかった。
水に体温を奪われたの手にアレンは自分のそれを重ねる。


「本当は、君もわかっているくせに」
「みんなに真実を告げるのは、あなたでなくてはいけない。……けれどアクマが相手なら、私でもいいはずよ。私だってエクソシストなのだから」
「それだけでは足りないんだ。君ではなくて、僕でなければ」
「……………………」


は口を開いたけれど、結局何も言わなかった。
アレンは彼女の手を離して今度こそ立ち上がる。


「親友なんだ」


哀しさとか淋しさとかそんなものが塊になって喉に突っかかっているから、全て吐き出してしまわなければならない。
そうでなければ前に進めない。
僕はアクマに向き合えない。


「“セルジュ”は僕の親友なんだ。……だから」
「だから……あなたが壊すの?」
「そうだよ。僕が壊してあげなくちゃいけない」


が見上げてきたから、アレンは真っ直ぐに見つめ返した。
彼女が案じていることが手に取るようにわかって視界が歪む。


「僕だから、壊してあげられる。………………マナのように」


いつかの、あの日のように。
アレンはから瞳をアクマへと向けた。


「彼らの死を背負うのは、君じゃない。……僕だ」


どれほど辛くても苦しくても、そうでなくてはいけないのだ。
それが、彼らの息子であり、親友であった、自分の役目なのだから。
は全てを割り切ることはできないようだったけれど、少しの沈黙のあと、歩み出したアレンの背中に声を届けた。


「……わかった。もう止めはしない」


無理に感情を押し殺した調子で告げる。


「それが、“あなた達”の望みなら」


アレンはを置き去りにして、歩き出した。
もう振り返らずに、一歩一歩、力を込めて進んでゆく。
アクマは空っぽになった湖の底に立っていたから、アレンも鉄の柵を乗り越えてそこに降り立った。
左手を発動。
今度こそ迷うことなく狙いを定めた。


「……“俺”はさ」


一方アクマは構えることなく普通に立っている。
緑がかった髪と涼やかな声を夜風に流した。


「今夜、お前を殺す気でいたんだ」
「……エニスの振りをして?」
「そう。ちゃんと違ってお前は俺を警戒していなかったからさ、呼び出してやれば楽に殺れるかなと思ったんだよ。でも……」
「……、でも?」
「本当は、確かめたかっただけなのかもしれない」


アレンは目を閉じたくなった。視線を逸らしたくなった。
よく知った紅い双眸を見つめているのが辛くて、けれどもう決意してしまったことだから、再び歩き出す。
駆け出すことも跳躍することもなく、ただただゆっくりと近づいてゆく。


「俺はアクマだ。セルジュじゃない。……それを、確かめたかった」
「僕を殺すことでそれが証明できるのか」
「だって“セルジュ”はずっとお前を呼んでいた」


足が止まりそうになる。
駄目だ、歩け。前に進め。敵は目の前にいる。


「エニスの病気のこと……それが元で死んじまったこと。ミハにもフリッツにもパティにも言えなかったけどさ。…………お前になら」


アクマは話しながらも手を動かそうとする。
湖の跡地にわずかながら残った水が宙に浮き、武器を形成しようとする。
それを彼は意思の力で留めた。


「お前になら、全て打ち明けられたかも……しれないって」


殺人衝動を抑えることは随分と負担になるらしい。
痛みに耐えるように顔を歪め、冷や汗をたくさんかいている。


「“セルジュ”はそう思っていた。ずっとお前を呼んでいた。誰にも見せる笑顔の下で、必死に助けてくれと叫んでいた」


アクマは“セルジュ”の顔で微笑む。
本能を堪える様は見ていて痛ましい限りなのに、彼は笑みを消そうとはしない。


「アレン、アレン、俺の親友。エニスを助けてくれ。“俺”を助けてくれ……って」


唇が震え、言葉が揺れる。
荒い息をひとつ吐いて、上半身を折り曲げた。
エクソシストを害そうとする己を押さえ込んで、彼はひたすらに続ける。


「死んでからもさぁ、ずっとなんだよ。この兄妹は“アレン”ばかりを呼んでいた。エクソシストだって、知っていたわけでもないのに」


もう腕を伸ばせば届く位置だ。
アレンは痛みを感じるほどに奥歯を噛み締めた。


「……お前は、アクマだろう?」
「そうだ。それでも」


青年は無理やりに身を起こして少年に対峙する。
アレンは止まらない。アクマは動かない。


「“セルジュ”は悲劇の中で、“エニス”はこのボディの中で。ただひたすらにお前を求めていたよ。それがあまりにも強すぎて、二人の感情を元に演技をしていた俺は」
「……………………」
「俺、まで……」
「……………………」
「“アレン”がエクソシストだと知ったときから、きっとこうなるって思っていた」
「……こうなる?」
「助けてくれ。助けてくれ、アレン。……セルジュとエニスの願いだ。お前はそれを叶えるために来てくれたんだろう」


嗚呼、もう、立ち止まってしまう。


「だから……、俺もお前と同じように、“自分”を裏切るよ」


アクマは舞台の上に立つように、背筋を伸ばして、両腕を広げてみせた。
表情はもう歪んでいない。
美青年は微笑みを浮かべている。
そうして迫り来るアレンを受け入れた。




「“俺たち”を、助けてくれ。アレン」




ド……ッ、…………。




破壊の音は聞いたこともないくらい穏やかな音を響かせた。
悲しみや怒りや苦しみや痛み、それから懐かしさを凝縮して、一気にアクマのボディを貫く。
アレンの左手は図らずも心臓の位置を射抜いていた。


しばらく無言の時間が過ぎる。
エクソシストは敵意もなく壊し、アクマは抵抗もなく壊された。
それならば此処は、戦場ではなく弔いの場所だ。
教会の鐘を代行するかのように、風に木々がざわめき揺れた。
両腕を広げてたままだったアクマが、そっと手をまわしてアレンの背中を叩く。
アレンもアクマを貫いたその左手で同じようにした。


「……俺は、アクマだ」


掠れた声で、言葉を紡ぐ。


「伯爵様の命令には逆らえない。決して裏切れない。……だから、これでよかったんだよ」
「………っつ」
「お前は悔いるな。哀しむな。傷つくな。エクソシストなんだろう?」
「……そうだよ。僕はエクソシストだ」
「お前はアクマを壊して、セルジュとエニスを救ったんだ。な?いいことばかりじゃないか」
「………………………」
「だから、そんな顔するなよ」


アクマは少しだけ身を離してアレンを見つめた。
真紅の眼はもはや血の色には見えず、どこまでも澄んでいる。
破壊の左手に心臓を貫かれたまま彼は繰り返した。


「俺は、アクマだ」


青年は震える指先を伸ばして、同じく震える少年の頬を撫でた。


「けれど、もう一度だけ。……もう一度だけでいい。“セルジュ”を演じさせてくれ」


笑顔。
穏やかな目元。
声音は優しさに満ちていて、それ以外のものには、なれそうになかった。




「最期に、お前に会えて嬉しかったよ。……アレン」




交わされる眼差し。




「“俺”の親友」




言葉の終わりを余韻にするように、アクマの体が崩れて消えた。
アレンは左手を動かしたけれど引き止めることはできなかったし、そんなことをしてはいけなかった。
それでも叫ばずにはいられなかった。
絶叫した。


「セルジュ……ッ!!」


アクマの体が弾ける。
光の粒子になって空中へと飛散し、次いで別の姿を浮かび上がらせた。
アレンは中途半端に宙をさ迷わせていた指先を止めた。
長く波打つ亜麻色の髪。しなやかな身体。白くて小さな顔に、可憐な造作。
涼やかな紅い眼は兄にそっくりだった。


「エニス……」


アクマのボディから開放された舞姫は、踊るようにアレンの目の前にやってくる。
7年ぶりだ。あまり変わっていない。
とても、美しい。


『アレン』


声ではない何かで呼ばれた。
エニスは少しだけ頬を膨らませてみせる。


『もう、やっと気づいてくれたのね』


けれど怒った振りは長くは続かなくて、眉を下げて笑った。


『ずっと傍に……、お兄ちゃんと一緒にいたのに、あなた全然気づいてくれないんだもの』


ごめん。ごめんね、エニス。
セルジュの中から君はずっと僕を見ていたんだね。
そう思うと言葉が出なくて、ただエニスを見つめるしかできない。
彼女ももう何も言えなくなったようで、ただ唇をわななかせた。
再会がこんな形になるとは思っていなかった。
もっと、何か、別の方法で。
しかし、もう何もかもが遅すぎる。


『アレン、私……』


エニスが口を開いて、何も言わずに、そのまま閉じる。
胸元でぎゅっと拳を握る。それが徐々に消え始めていることに気づいて、今にも泣き出しそうな表情になった。
エニスはもうこの世の存在でない。肉体を失った魂なのだ。


『アレン』


懇願のように呼ばれるけれど、できることはもうなくて、薄れてゆく初恋の人を見送る。
エニスは一度口元を「ごめんなさい」と動かしたようだった。
けれど最期に届いたのはこの言葉だった。
衣装の裾を揺らし、ステップを踏むように、エニスはアレンへと近づく。
舞姫は最期に最高の笑顔を見せた。




『ありがとう』




幼いころにもらったものと同じ。
ただひとつ違ったのは、エニスがキスをしたのは頬ではなく、アレンの唇だったということだ。
感覚はなかった。
頬を包んだ手も、ぬくもりも、口づけも、幻であったかのように一瞬で消え失せる。


もう、動けなかった。
アレンの左手は感覚を失くして体の横に垂れているだけだ。
去っていった旧友たちを想おうとするけれど、感情とは程遠い何かに阻まれる。
祈りを捧げたい。
冥福を願いたい。
どうか、どうか、安らかに。おやすみなさい。
いつも破壊を行った後に贈る言葉が、何ひとつ自分のなかから湧き出てこない。
空洞だった。


このときアレンにあったのは、ただ強い喪失感ばかりだった。


いつまでも夜にたたずむ背。
独りきりで立ち尽くすアレンに、かける言葉は此処にはない。
は目を逸らさずに見つめ続けた。




大切な人のために、自分ばかりを裏切った、“彼ら”の行方を見つめ続けた。










非常に重い話ですみません。(平伏)
しかしアクマに“セルジュ”が残っていたかといえばそうではなくて、役者として彼に共感しすぎためにこうなった……という感じですね。
それほどセルジュはという青年は強かったのです。本来は。
崩れてしまうことなんて想像もできない人間で、だからこそアレンは傍にいてあげたいと願ったのでしょう。

次回でこの章はお終いです。とりあえずアレンに謝りたい展開が続きます。最後までお付き合いくだされば光栄です。