恋を理解しない愚か者。
愛を失くして臆病になった。
どうか僕を馬鹿にして、笑っておくれ笑っておくれ。


頬に刻まれた哀しみは、それでも愛されたい証だった。







● 遺言はピエロ  EPISODE 10 ●






腰を抱いていた手が、ゆっくりとあがってきた。
脇腹を這って、腕を撫でる。セルジュの指先がを掴む。
力を込められたのは手首だった。
そのまま引かれて向かい合わされれば、視界いっぱいに美青年の笑顔。


「寝ぼけて部屋を間違えたって?此処は団長室だ、あんたの寝所からは一番遠いはずだけど?」


わざとらしく尋ねられる。
わかっているくせに、とも微笑んだ。


「団長がお持ちになっているデータが見たかったんです」


正直に言ってやればセルジュが片眉を持ち上げる。
これは駆け引きだった。
互いが言葉を武器に、相手を追い込む気でいる。
会話は穏やかなのに生み出されるのは張り詰めた空気ばかりだ。


「へぇ。おねだりしてくれればファイルを貸してやったのに」
「いいえ、あなたはしない。団員たちの情報を売るような真似は」


言いながら、は思い出す。
先刻まで見ていた資料。
それはサーカスに所属する全ての者の個人データだった。


「あなたは私を疑っているもの」


最初からわかっていたことだ。
今までの接触は全て化かし合い。
セルジュがどれほど甘い言葉をかけてきても、何度口づけをされても、ろくろく反応しなかったのはそのためだった。


「信用に足らない女を警戒していたのでしょう?」
「酷いな。それだけでもないのに」


セルジュは肩をすくめたけれど、特に否定はしなかった。
静かな争い。誰にも知られることのない攻防。
何度その紅い瞳に射抜かれただろう。
“好き”だなんて嘘だらけ。
セルジュはサーカス団のために、不審な人物に目を光らせていただけなのだ。
が今更ながらにそれを指摘すれば、セルジュは苦笑してみせた。


「ま、バレてるとは思ってたよ。 俺とあんたは似ているからな」


拘束する手だけは緩めずに、少し表情を和らげた。


「何でも茶化して明るく笑い飛ばす。その実、誰にも悟られないように面倒なことばかり考えている。それはもう延々とな」
「ええ、延々と」
「疲れる性分だ」
「でも、性分ですから」


も苦笑すると、セルジュは瞳を伏せてしまった。


「アレンはさぁ、そういう奴に弱いんだ。普段何でもない顔をしているくせに、陰で一人で苦労してるのが許せないんだって。さんざん文句をつけながらも手を貸そうとしてくる。大丈夫だって突っぱねたら、捨てられた仔犬みたいになっちまう」
「確かに、そういう目で見てきますね。アレンは」
「淋しいんだよ。必要とされたいんだ。特に、俺達みたいな他人に頼れない不器用者に」
「………………………」
「鬱陶しい、俺の親友。可愛い、あんたの仲間。大好きだよ」
「私も大好きです」


一瞬、こんなところで何をアレンについて惚気あっているのだろうと思った。
けれど口にして良かったのかもしれない。
セルジュはぎゅっと目を閉じた。


「だから、やめない?」
「………………………」
「もう……こういうことは」


懇願するように言われて、は黙り込んだ。
セルジュを見つめる。
答えを探す。
求めているのは確証なのだ。
それがない限り、頷くことができない。
どれだけ罪悪感を抱こうとも、“”は個人ではなく、エクソシストでしかないのだから。


「二人だけで腹の探り合いを続けてる。いい加減にしないとアレンにバレるよ。そうしたら、俺もあんたも怒られちまう」
「……それは、嫌ね」
「だろう?」


セルジュは少し首を傾けた。


「あんたが来ると思ってたんだ。俺と二人っきりになりに」
「ええ。あなただけと話したかったの。もうずっと」
「待ってたよ。……結論は出た?」
「……、いいえ」
「俺は出たよ」


小声で会話を交わしながら頭を振ったを、セルジュの指先が捉える。
掌が頬にかかって仰向かされた。
鼻先が触れ合う。


「俺はあんたを、自分のものにしたくなった」


はっきりと告げられては瞠目した。
ここに至って初めて驚いた。
反射的にセルジュから離れようとすれば、肩を掴まれて押し倒された。


「……っ」


痛みはないけれど、衝撃に息を詰める。
背中をぶつけたのは団長の執務机で、揺れに書類の山が雪崩れを起こす。
本も何冊か床に落ちた。
それにはまったく構わずにセルジュが覆いかぶさってくるものだから、薄暗い世界がますます黒に近くなった。


「団長」
「セルジュだ。そう呼べよ」
「……、本気ですか」
「何を今更」


“好き”だなんて嘘ばかり。
そのはずだろうと確認を取れば、鼻で笑われた。
光源もないのに煌めく紅。
この人の双眸は光るのだと、は知る。


「ずっと言っていただろう。俺は、あんたが“好き”」
「…………………」
「最初は探りを入れるため、冗談で口説いていたけれど。今は本気だよ。本気になった」
「……私は」
「あぁ、あんたも俺を探ってた。短時間で調べあげるなら、トップに的を絞るべきだ。……都合よく自分に迫ってきてくれたし?」
「皮肉屋ね、セルジュ」
「あんたは詰めが甘いな、


顔の横に突いた腕を折って、セルジュはさらにに顔を寄せた。
にやりと笑んだ唇は、優しく愛おしげで、そして、


「……どんな理由だろうと、男に近づいたんだ。こうなるとは思わなかったのか?」


ほんの少し、馬鹿にした色を含んでいた。
それを見上げながらは思う。




計画外だ。













寝所に戻ってみて驚いた。
四つ作ってある寝床の一角、そこにセルジュの姿がなかったのだ。
アレンは数秒、もぬけの殻となっているシーツを眺め、次にミハエルを叩き起こした。
何故彼を選んだかというと、フリードリヒは一度寝ると何があっても目を覚まさない体質だと知っていたからだ。
親しさを武器に遠慮なく殴れば、景気のいい悲鳴があがる。
寝ぼけた顔を迷惑そうにしかめてミハエルは呻いた。


「もー、何だよアレン……」
「セルジュ!セルジュはどこに行ったんだ!!」
「はぁ?」


勢いよく問い詰めれば、彼は隣を見た。
そして眠る人のいなくなった寝具を確認する。
すぐさま目を閉じて横になった。


「どうせ女のところだろ」


それはいつものことだと言わんばかりの適当な口調だった。


「朝まで帰ってこないぜ」
「朝まで……?」
「用があるなら明日にしろって。野暮なことすんなよ」


珍しく年上みたいに注意して、ミハエルは再び眠ってしまった。
彼のやかましいいびきと規則正しいフリードリヒの寝息。
アレンはその音に包まれながらぐるぐると考える。


(女……女性のところ……朝まで帰ってこない……野暮なことはするな………)


ミハエルの言を頭の中で繰り返す。
そうして導き出した答えに立ち上がった。
思考の結果ではない。完全に反射である。
アレンは体が動き出したままに、テントから飛び出して疾走を開始する。


(あの女たらし!手が早すぎる!!)


心の中でさんざん悪態をついて、敷地内を飛ぶように走る。
何故行くのかとか、行ったところでどうするのかとか、何ひとつ考えていなかった。
ただただ脚が前に出るのだ。
苛々して腹が立つ。
それはまるで本能のようで、その証拠に彼らがどこにいるのか全く検討がついていなかったのに、すぐさまそれを発見することができた。
かすかに会話が聞こえる。
仄かな明かりが漏れるテントがひとつ。
あれは団長室だ。


アレンは飛びつくように出入り口の布に手をかけた。
勢いよく捲りあげようとしたところで硬直する。
セルジュの声がこう言った。


「驚かれるとは思ってなかったよ」


囁きはいつもより低くて、アレンは鳥肌を立てた。
こんな風に喋る彼を聞いたことがなかったからだ。


「真夜中に忍び込んできたのなら、これくらい覚悟しておいてくれないと」


アレンはわずかに布を持ち上げて、テントの中を見た。
机の上にが仰向けになっていた。
セルジュが押し倒したであろうことは、体勢を見れば一目瞭然だった。
不覚を取ったとばかりに眉を寄せる少女に、青年はにっこりと微笑む。


「あんたの結論はまだ出ていない。だったら俺の意見を優先させてもいいよな?」
「それは」
「好きだよ、


何かを言おうとしたを黙らせるようにしてセルジュが囁く。
愛を告白する。
彼はアレンが見ていることに知らないけれど、もし気がついても止めないのではないだろうかと思った。


「俺はあんたが好きだ」


は応えない。
ただじっと紅い瞳を見つめている。
その間の全てを排除するように、セルジュは接近した。


「美しいお嬢さん。可愛い顔で微笑んで。その唇で聞かせて……俺と同じ言葉を」


まるで舞台の上であるかのように語られる想い。
彼にはお似合いの役。


「どうにでもしてやるよ。あんたを堕として俺に取り込む。……目的なんか忘れて、ずっと此処にいてくれ」


セルジュは囁きと同時に口づけを落とした。
額に一つ。頬を辿って唇へと近づく。
同時に左手がの脚を撫で上げ、膝裏に差し込まれた。
持ち上げられ、曲げられたそれに伴って、スカートが捲れ上がる。
普段は見えない部分の白さにアレンは目眩を覚えた。


止めなければと思う。
思うだけで動けない。
だっては、一度も拒絶の言葉を口にしていない。
同意の上なら自分は邪魔者だった。
今すぐにでも此処から去るべきだ。
頭のどこかで冷静な声が言うけれど、アレンはその場から微動だにできなかった。
見開いた目を閉じることも不可能だ。
せめて声が。
声が出れば。
掠れる喉を動かせば、ひどい痛みを感じた。


「俺のものになれよ……、


セルジュはたった一人の女性としてを求めている。
唇が近づいた。
震える指先。掴んだ天幕がぎしりと嫌な音を立てた。
キスをして、その先へと進もうとする行為。
薄紅に触れる、


「それ」


直前でが言った。


「それ、偽名なの」


唐突に何を言い出したのかと、アレンは目を瞬かせた。
そうしてやっと硬直から開放されていることに気がついた。
反対にセルジュは動きを止めてを見下ろす。


「“”は本名じゃないわ」


楽しそうでもなく、かといって淡々とした調子でもない。
は本当にいつも通り口調だった。
セルジュは少し沈黙したが、すぐに微笑む。


「今はどうでもいいだろう?それより俺はキスがしたいんだけど」


額を合わせて吐息で口づける。
けれど本当に唇を重ねようとすれば、が再び言った。


「セルジュは、私が好きなんでしょう?」


セルジュは閉口する。
それから仕方なさそうに頷いた。


「ああ」
「本気で?」
「本気で」
「だったらどいて」


はセルジュの胸を押した。
あまりに自然にそうされたので、止める間もなく起き上がられてしまう。
机に座った状態になったをセルジュは抱きしめた。


「おいおい、本気だったらどけってどういうことだ?」


名残惜しげに金髪を弄ぶ。
隙あらばまた押し倒そうとしていることは雰囲気でわかったが、は完全に彼を回避した。


「遊びでも駄目だけど。本気ならなおのことよ」
「意味がわからん」
「私は“”だから」


セルジュの腕からも抜け出して、は床に降り立った。
金色の双眸で返り見る。


「頭のいいあなたならわかるでしょう?“”は偽名。私はそういう身分の者なの」
「……あんた、お尋ね者か」
「いいえ。でも似たようなものかもね」
「そんなの関係ないと言ったら?」


俺は本気だよとセルジュはもう一度言ったから、は頬を緩めた。
それは少しだけ淋しさを含んだ表情だった。


「本名も名乗れない女が、あなたに相応しいとは思えない」


頭を思い切り殴られたようだった。
アレンはぐらりとよろめいて、テントの布に縋った。
視界が塗りつぶされる。
それでも見つめる先では笑う。


「私は誰も幸せにできない。だから駄目よ。こんな女に触れては」
「…………そんな、あんたの都合で」


セルジュは苦々しく呟いたが、彼女はもう取り合わなかった。


「私は一生恋をしない。特定の男性を想わない。もし愛してもらえても、同じ感情を返せない。だから、ごめんなさい」


追いかける手を斬り落とすかのように、きっぱりと言い切った。
セルジュが黙ったからは頭を下げた。


「話がずれてしまいましたね……。結論は必ず出します。それまではどうか、此処に置いてください。団長」


顔をあげてにこりとする。


「お願いします」


そうしては踵を返した。
笑顔だけを残して去ろうとする少女に、青年は鋭い声を放つ。


「そうやって、ずっと独りでいるつもりか。恋も愛も遠ざけて、幸せになることを放棄するのか。あんたは恋人も結婚も子供も、何もかもいらないって?」


は振り返らずに応えた。


「全て私には不相応ですから」


当たり前みたいな口調。
諦めきった表情。
吐き気が、する。


が出入り口の布を押し上げて外に出てきた。
そこに突っ立っていたアレンを見ても驚いた素振りは見せなかった。
無言で手を取られる。
彼女に引かれるまま、どれくらい歩いただろう。
アレンを団長室から引き離してゆく様は、どこか悠然としていて疎外感を感じる。
今このとき共にいるのはセルジュでも他の誰でもなく、自分だけのはずなのに。


「あなたは聞かなくてもいい話だったのに」


小さく囁かれたものだから、アレンは咄嗟に腕を振るった。
繋がれていた手を無理にほどかせた。


「……本気で」


口から零れ落ちたのは、怒りと絶望を孕んだ呻き声。


「本気で、言ったのか。あんな……」


あんな、酷いこと。


「君は人間らしい暮らしも、女性としての幸せも、全て放り出すつもりなのか」
「それを得られると思うほうがおかしいでしょう」


は体の向きを変えたけれど、アレンの瞳を見つめようとはしなかった。
片手で自分の右腕を押さえている。
舞台で酷使したから怪我が痛むのだろうか。
俯く顔は、それでも微笑んでいた。


「私は嘘の名前を名乗り、出自を隠して生きているのよ」
「……………………」
「教団の監視下からは抜けられない。個人としての自由はない。……未来永劫ね」


アレンは何か言ってやりたかったが、何を言いたいのか自分でもわからなかった。
ただ腹の底に蠢く感情があって不愉快だ。
堪らない苦痛、気持ちが悪い。


「ねぇ、アレン」


唐突にが目を合わせてきた。


「あなたは恋をしたことがあるんでしょう?」


口にしたこともあまりに唐突だ。
当然アレンは返事ができない。は気にしない。


「エニスさんが、好きなんでしょう」


今度は質問ではなく、確認だった。
どうやら彼女には完全にそう認識されているらしい。
はアレンの様子を見て微笑した。


「だったらわかるはずよね。誰かを好きになったら、その人のことが知りたくなる。何でも話してほしくなるんだって」


口調は詩をそらんじるように、ちょっとだけたどたどしかった。


「一番に傍に居て、誰よりも理解したいと思う。……それが、恋。異性を愛するということ」


どこで吹き込まれた情報だろう。
ラビか。それとも女友達かな。
そう考えてしまうほど、にしては一般的な意見だった。


「そんな相手に、私がなれると思う?」


同じ口調で訊かれたから、アレンはしばらく気づけなかった。
その問いは残酷だった。
きっと、にとっても。


「“アンノウン”なんて、誰が好きになるのよ」
「…………、セルジュはそう言った」
「彼は、それこそ私のことを何も知らないから」


どうにか絞り出した声に返される言葉も刃のようで、アレンは胸の激痛を持て余す。


「知りたいと思われても、一言も伝えられない。欲しいと願われても、ぜんぶが渡せない。……“私”を好きになろうと思えば、随分とつまらないでしょう?」


は微笑んだままだ。
軽く肩をすくめて、手を伸ばす。
白い指先がアレンの頬を撫でた。


「恋をしても、相手のものにはなれない。結婚しても、その事実を残せない。子供ができても、存在を認められない。……そんな女を愛する人なんていないわ」
「………………………」
「だからそんな顔をしないで。最初から可能性のないことで、どうか傷つかないで。私が納得していることで、あなたが悲しんだりしないで」
「………………………」
「私は“そういう”存在なのだから」
「……、望むことは」


慰めるように添えられた手を、アレンは強く掴んだ。


「望むことはないのか。……一人の女性として、幸せに生きることを」


苦しげな問いに、は笑みを消した。
そして手首を握り締めるアレンから多少強引に逃れた。


「聞いていたくせに」


はじめて見た。そんな顔。


「私には不相応よ」


まるで鏡みたいに、きっと今の僕達は同じ表情をしている。
はもう何も言わずに身を翻した。
アレンは吐き出したくて、怒りたくて、泣きたくて、どうしようもないほど感情が乱れていて、ただその背中に叫んだ。


「何でだよ……、どうして諦めるんだ……!君は愛を知っているくせに!!」


恋は知らなくても、愛なら覚えているだろう。
他人を想う素晴らしい気持ちを、たくさん持っているはずだろう。


「希望を捨てれば未来なんてない!君は教団の言うように、戦うためだけに生きているのか!!」


違う。違うよ。否定してくれないと恐ろしいから、追いかけることもできない。
はもうアレンを見ない。


「そうやって、辿り着いた先に何があるっていうんだ……!!」


そんな風に生きて、生きて、生き抜いて。
結局どうなるっていうんだ。
わからない。アレンには理解できない。
だって君は未来で幸せになるために、現在いまを戦えと言ってくれたじゃないか。


、君は……っ」


深い失望に立ちすくみながら、アレンは怒声を放った。


「過去だけじゃなく、未来さえ捨てる気なのか!!」


その声はの後ろ姿と共に夜へと消えた。
取り残されたアレンは寒さを感じる。
凍えてしまいそうに、体が冷え切っていた。
震える口元。
この唇が彼女にキスをして、彼女のそれも自分に触れたというのに、今では完全に温度を失っていた。
取り戻すべきぬくもりは、一体どこにあるのだろう。
あぁ、やっぱり。


ピエロは舞姫を手に入れることなど出来やしないのか。




















セルジュは一晩中戻ってはこなかった。
主を失ったまま放置されたシーツ。
アレンは自分の寝所に座りこんで、ぼんやりとそれを眺めていた。
おかげで夜明け前に目を覚ましたフリードリヒを驚かせてしまう結果となった。


「アレン、どうしたんだ」


どこか痛むのか、気分でも悪いのか、そう尋ねてくる声を耳の端で聞く。
アレンは首を振ってみせた。


「ちょっと眠れなかっただけだよ」
「やはり、調子が良くないんだな」
「ううん。久しぶりの舞台だったから、精神が昂ぶっていたんだと思う」
「……………………」
「本当に大丈夫だから」


心配そうな友人に小さく微笑んで、アレンは朝の身支度を始めた。
フリードリヒは何か言いたそうな素振りを見せたけれど、結局は黙ったままでいてくれた。
有り難いことだ。
今は説明する気になれない。
それ以前に、どうにも言葉にできそうにかった。
徹夜で何をしていたかといえば、思考といえば聞こえのいい脈絡のない考えを巡らせていただけだった。


アレンは此処の団長のことを思った。
セルジュは旧友。そして幼い頃に一番親しかったといえる相手である。
フリードリヒは大人だし、ミハエルは人見知り。
歳の近い男の子で初めて出来た友達が、彼だった。
いつだって笑顔でとんでもないことを言い出す少年に、アレンは心底呆れさせられたものだ。
それでも何だか憎めなくて、おまけに放っておけなくて、ぷんすか怒りながら付き合ってやっているうちに二人の距離はいつの間にか縮まっていた。
なし崩しに仲良くなったといってもいい。
あぁ、そうか。
アレンはふと悟った。


(種類が一緒なんだ。セルジュとって……)


自分はよくよくこの手のタイプが好きらしい。
直感的に合わないと思うのに、どうにも無視することができない。
仕方がないから面倒を看てやろうとする。そこで初めて気がつくのだ。
相手はこちらの手など、まったく必要としていないということに。


(どうでもいいことで振り回してくるくせに、肝心なことはいつも一人に解決してしまう。……まるで僕なんて“いらない”みたいに)


それが、哀しかったのかもしれない。
どんなに苦しくても弱音を吐かず、他人にも縋らずに生きる彼らが誇らしい。
同時に傍に居るだけで何もできない……頼ってもらえない自分が情けなかった。
必要と、されたかった。


(あぁ、だからあの二人には腹が立って腹が立って腹が立って。……何もかもしてあげたくなるのか)


だって、淋しいから。


(馬鹿みたいに、共にありたいと願ってしまうのか)


きっと自分は他人に求められたいという願望が人一倍強いのだろう。
実の両親に捨てられ、養父を破壊し、厳しい道を歩いてきた。
その孤独が反動。
そんな己が親しい友だと、一番の仲間だと思うことが出来たのに、向こうは違うという事実が堪らなく淋しいのだ。


(結局……自分のために、彼らを求めているだけ)


くだらない。
早朝練習の時間になって、アレンはフリードリヒと一緒にテントを出た。
置いてきぼりをくらったミハエルが背後でわめいている。
起きるのが遅いからだと笑えば、ますます文句を言われてしまった。


「さぁて、みんな今日もがんばってくれよー」


団長の元気な言葉で一日が始まる。
セルジュは遅れることなく練習場に姿を現した。
アレンと目が合えば、わずかに微笑む。
もしかしたら昨夜あの場に居たことがバレているのかもしれない。
そんな含みのある視線に、応えることはできなかった。


もいつも通り朝練に励んでいた。
同僚達と挨拶を交わし、パトリシアに教えを請う。
見回りをしていたセルジュに声をかけられていたけれど、特に変わった様子もなく談笑していた。
昨夜のことなどなかったかのように振舞う二人がおかしいのか、第三者なのに気にしている自分が馬鹿なのか、アレンにはさっぱりわからなかった。


(……頭が痛い)


練習後の朝食もそこそこに席を立った。
頭痛は熱をもっているようだ。
ぼんやりとしか物が考えられなくて困る。
アレンは食堂から去ろうと歩き出して、


「……………………」


その出入り口のところで立ち止まった。
運悪くと鉢合わせしてしまったからだ。
真正面から顔を拝む羽目になって、ますますこめかみが痛んだ。


「おはよう、アレン」


が明るく笑った。
無視してやろうかなとも思ったが、それより早く彼女が言う。


「どうも、宅急便です!あなたに愛のお届けものでーす」
「いらない」
「ちょっと拒絶が早すぎるかな。ちなみに受取人の意思は考慮しません」


やっぱり無視して通り過ぎようとすれば、通せんぼするように腕を突き出された。
その手が持っていたのは一通の手紙。
新手の冗談だと思っていたアレンはちょっと驚いた。


「アレン宛てよ」


目の前に差し出されてまじまじとそれを見る。
確かに宛名はアレン・ウォーカーだった。


「何これ」
「手紙よ」
「君から?」
「まさか。私ならいつも通り口を使わせていただきます」
「……じゃあ」
「本当に、お届けもの」


どうぞと言われたので何となく受け取る。
裏返してみたけれど、差出人は書かれていなかった。


「なんで君が……」
「あれ?言ってなかったっけ。私、ルシオ君のお手伝いをしてるのよ」


聞いてない。断然聞いてない。
アレンはその事実にイラッとした。


「掃除に洗濯、買出しに後片付け。宅配物のお届けもね」
「……僕には手伝わせてくれなかったのに」
「あやとり仲間の絆は最強ですから」


がVサインをしたところで、後ろから呼び声がかかる。


姉ちゃーん、次行くよー!」
「はーい!」


彼女は返事をするとあっさり方向転換をした。


「それじゃ、きちんと届けたからね」


そう言って軽やかに駆けてゆく。
アレンはの背を見て、見つめて、見つめ続けて、ようやく手の中の手紙に視線を落とした。
一体誰からだろう。
まるで検討がつかない。
教団からかとも思ったけれど、通信ゴーレムがあるのに文書での連絡というのは不自然だった。
アレンは首を傾げて封を切る。
便箋を広げて、


「…………………」


絶句した。
咄嗟に目を疑ったけれど、何度見ても同じだった。


「そんな……」
「アレン」


急に声をかけられて飛び上がる。
跳ね上がった心臓を押さえて見やれば、いつの間にか戻ってきたが立っていた。
彼女は団員たちに配る途中の手紙の束を持ち直す。


「後にしようかなとも思ったんだけど……、やっぱり今約束をしておいたほうがいいかなと思って」


珍しいことに歯切れの悪い口調だった。


「話があるの。今晩、時間をくれる?」


アレンは返事に窮する。
わざわざ言ってきたということは、深夜の見回よりも早くに会いたいということだろう。
時刻にして午前0時ごろか。
まさにタイミングが悪いとしかいいようがなかった。


「アレン?」


黙ったままでいると不思議そうな顔をされた。
目の前で手を振ろうとしたのか、指先を伸ばされる。
それが昨夜頬に触れてきた動作を思い出させて、急に胸が燃え上がった。
否、焦げ付いた。
アレンはを露骨に避けた。


「今夜は会えない」


会いたくない、の間違いだ。
アレンは自分でも驚くほど冷え切った声で告げる。


「今度にして」
「今度って」
「……僕に何を言いたいの」
「ちょっと、相談が」
「だったらもっと適任がいるじゃないか」


言いながら手紙をポケットに突っ込むと、の傍を足早にすり抜けた。


「僕より団長の方が頼りになる。また部屋に忍び込めばいいだろう」


アレンはを見なかった。
どんな反応をされたのかを、知りたくなかった。
平気な顔をされたのなら苛立って、哀しい顔をされたのなら後悔する。
そんな自分勝手に足は急ぐ。
はアレンを呼び止めなかったし、アレンもそれを望んではいなかった。


「はぁ……最悪……」


食堂の外、しばらく進んだところで、今更ながらにため息が出た。
本当に相手だと遠慮が出来なくて困る。
おかげでみっともなく当たってしまった。
アレンは顔を覆っていた手を外すと、ポケットから手紙を取り出した。
封筒から便箋を引き抜き、もう一度目を通す。


「やっぱり、本物か……」


自分に確認を取る。
紙面を埋めるのは、癖の残る文字。
何年たっても変わっていない可愛い筆跡だった。


『今夜、皆に内緒で帰ります。一番にあなたに会いたい』


文面は簡潔だった。たった三行ほどだ。
用件と場所指定。


『午前0時、敷地内の一番大きな木の下で待っているわ』


以上だ。
一番下には受取人と、差出人の名前。
これがアレンを驚愕させたのだった。


『親愛なるアレン・ウォーカー様。エニス・パスカーレより』


「エニス」


呟いたその名がアレンの胸を疼かせる。


「帰ってくるのか……」


彼女に会えば何かが変わるだろうか。
この焼け付くような苛立ちが、おさまるのだろうか。
春の花のような舞姫は金色の妖精が掻き乱した心を癒してくれる?
アレンにはわからない。
ただ秋風に髪をなびかせながら、エニスの書いた文字を眺める。
ふと、封筒にまだ何かが入っていることに気がついた。
指先で取り出してみる。
現われたのは、赤。
くすんでしまった懐かしい色。


7年前にアレンがエニスに渡した安物のリボンが、今にも千切れそうな風体で同封されていたのだった。




















目を閉じれば闇。
馴染み深い、私の世界。


は独り呼吸をはかる。
いち、にい、さん……。拍を取って腕を掲げ、一気に足を蹴り出す。
高い跳躍で空中回転、つま先で着地した。
その身が命じるままに手を振り、脚を回す。
開いた視界が捕らえたのは幾本ものロープ。


そして、光の帯だった。


今やこれが普通の光景。
アレンの左手に触れなくても、意識を一段階落とせば奇妙な光線を見ることが出来た。
神経を鋭くする。
体の中のイノセンスの存在を感じれば、自然と目に飛び込んでくる。


(これの、正体は)


はロープの上で舞い踊る。
決して動きを止めない。
必死に行っているのはダンスではなかった。
それはすでにの身へと染み込んでいる。
ただ、ロープと光の帯を識別することに全神経を総動員させていた。


(知りたい)


イノセンスが見せる、これは何?


(正体を暴かなければ、戦闘の邪魔になる)


綱渡りに興味を持ったのは、つまりこれが原因だった。
空に張り巡らされたロープ。視界の中を縦横無尽に走る光の帯。
類似点を見つけて興味を惹かれた。
気になるからずっと眺めていたら、ミハエルに声をかけられたのだ。
彼が綱渡りを教えてくれると言ってくれたとき、大きなチャンスだと思った。
何かに集中すればの世界に光が奔り出す。
きっと戦闘時も同じだろう。
むしろイノセンスを使おうとすれば、酷くなるに違いない。
それまでに何とか解決策を見つけなければ。


音楽はもはや必要ない。
はロープからロープへと振り付けの合間に渡ってゆく。
命綱もつけずに恐るべき高みで舞い続ける。


(惑わされてはいけない)


ロープに混じって見える光線。
誤ってあちらに着地すれば下方へと真っ逆さまだ。


(見極めろ)


どれが本当で、どれが偽者か。
どれが必要で、どれが邪魔か。


(踊れ。動き続けろ)


リズムを合わせる必要はないから、は動作を速めた。
それこそ実際の戦闘時のスピードだ。
ロープを掴んで倒立し、反動で円柱まで戻る。今度は側転しながら綱上へ。


(速く)


次々とアクロバットを決めてゆく。
本当にそこに敵がいるものとして、相手を翻弄しようとする。
足場は間違えない。
練習を始めたころはさんざん見誤ってきたロープと光線。
もう二度と騙されはしない!


(速く!!)


はさらなる高みで身をひねり、後転を二回きめてから円柱の上に降り立った。
一拍置いたのち、腰を折る。
膝に両手をついて乱れる息を整えた。


「はぁ……はぁ……」


大きく呼吸し、流れ落ちてゆく汗を拭ったその時。


パチパチパチ……。


拍手が聞こえてきた。
は驚いて下方に身を乗り出す。
瞳が捕えたのは、舞台の上に立ったパトリシアの姿だった。


「素晴らしいわ」


賛辞の言葉には内心顔をしかめる。
しまった、想像上の敵に意識を集中させすぎた。
まさか見られていただなんて……。


「それが、貴女の本気?」


パトリシアはショールを掻き合わせながらを一瞥した。


「真夜中に何をやっているのかと思えば……」
「………………………」
「やはり、貴女はサーカスに向いていないわね」
「……はい。今なら私にもわかります」
「動きが速すぎる。それでは観客には見えないでしょう。……もはや芸じゃない」
「ええ」
「実践的な、武術だわ」


ずばりと言われては目を閉じた。
パトリシアが相手というのが本当に痛かった。どうにも言い逃れが出来ない。
しかし、これで良かったのかもしれない。
自身、もう隠し通せないと思っていたし、騙したままで終わりたくはなかった。


「パティさん」
「なぁに」


声をかければ返事をしてくれる。
とりあえずは話を聞いてくれるらしい。
は少し微笑んで、円柱の上から飛び降りた。
パトリシアは目を見張ったけれど、平然と着地をしてみせたに何も言わなかった。
だからこちらから告げた。


「私は軍人です」


公演用のテントは広い。の声は大きくはない。
けれどそこの空気は厳粛それを響かせた。
はパトリシアを見つめる。
もう夜も遅いから彼女は夜着だった。滑らかな白の上に薄い黄色を重ねている。
少しばかり眠っていたのか瞳が潤んでいて、強い色気を感じさせた。


「敵と戦うことが、私の本来の仕事です」
「……なるほど。戦闘のプロね」


パトリシアは驚いていないようだった。嫌悪の色も皆無だ。
ただし、肯定の様子も示してはくれない。
腕を組んで瞳を細める。


「それにしても超人的な動きだわ。貴女、軍歴は長いの?」
「ええ。かなり」
「……歳はいくつだったかしら?」
「15歳、ということにしています」


が嘘を吐かなかったからか、パトリシアは苦笑した。


「嫌ねぇ、貴女みたいな子供を軍役に就かせるだなんて」


表情は少し哀しそうだった。
だからは願った。
訊かないで。どうか、決定的な言葉を言わないで。
言わせないで。


「……アレンは」


それでもパトリシアは大人だった。
ゆっくりだが、躊躇わずにに尋ねた。


「アレンは、知っているの?」


出合った若草色の双眸は静かで、わずかでも心を乱す自分が恥ずかしい。
はこのまま夜に溶けてしまいたかった。
逃げたくはないから、そんな馬鹿なことを思った。


「彼も、貴女と同じ?」


裏切り者。
そう呼ばれるのだろうか。
自分のことはどうでもいいけれど、アレンについては絶対に嫌だった。
彼は此処での知らない表情ばかりを見せていた。
笑って、怒って、くだらないことで喧嘩して。
友人達と子供みたいにじゃれあっていた。
本当にただの少年みたいに、毎日を過ごしていたのだ。
きっとあれが本来の姿なのだろう。
“エクソシスト”になる前の“アレン・ウォーカー”。
が置き去りにしたものと同じ、遠い昔の幸せの形。
いずれ此処を去らなければならないとわかっているからこそ、宝物のようなあの笑顔を失いたくはなかった。


「私は」


アレン。
心の中で名前を呼んだ。
応えはない。突き放される。彼は私を怒っている。
無理もないと思うけれど、胸が痛むのだって事実だ。


「私はアレンの仲間です」


は強く目を閉じた。


「だから、彼を裏切らない」


裏切りたくない。
けれどこれこそが最大の裏切り行為かもしれなかった。


「……ごめんなさい。まだ、アレンに話していないことがあるんです。それが解決しない限り、あなたのご質問にはお応えできません」


そしてそのとき、返答をするのはアレンであるべきだと思う。
酷なことかもしれないが代わりでは駄目だ。
では役不足なのだ。


「……そう」


パトリシアは小さなため息のように囁いた。
肩の力を抜いたから落胆されたのかと思ったけれど、彼女は苦笑したままでもあった。


「ねぇ、
「……はい」
「黙っていることと、騙すことはね……別ものなのよ」


優しい声で、諭すように言われて、は顔を振り上げた。
薄暗いテントの中で光る瞳が篝火のようだ。
もしくは淡い星明り。


「貴女はまだ若いから、きっと潔癖なのね」
「そんなことは」
「嘘も一概に悪とは言えないわ。……ただ、本心を知らなければ理解できないだけで」
「……………………」
「難しいようなら、こう言いましょうか」


が微妙な顔をしてしまったからか、パトリシアは柔らかく微笑んでくれた。


「家族とか、仲間とか、友達というのはね。そう簡単に、相手を嫌いになったりしないものなのよ」


揺れる夜着の長い裾。
音もなく近づいてきたパトリシアが腕を伸ばして、立ちすくんだを抱きしめた。
頬に当たった胸が柔らかい。
大人の女性のいい匂いがして、何だかグローリアを思い出した。ドリーを思い出した。
母を、思い出した。


「今日はもうお休みなさい」


ゆっくりと距離を取って、離れ切る前に額にキスをされた。


「いい夢を」


慈愛に満ちた眼差しが全身を包み込んだから、は溜まらずキスを返した。
背丈が足りなかったから頬に軽く口づける。
結局こんなことグローリアにしたことはない。
ドリーにはできるかな。また次に会ったときに。
そうなればいいと願いながら、は囁いた。


「ありがとう、パティさん」


切なくて幸せな気持ちだった。
寒い夜に誰かが淹れてくれた温かい飲み物のように染み入る。
甘い優しさはきっと母性で、それに触れるたびにこんな大人になりたいとは思うのだった。
パトリシアは少し金髪を撫でると、わざといつもの調子で言った。


「まったく、最近の子は夜更かしが過ぎるわ。こそこそと夜中に出かけたりして」
「ごめんなさい、悪い子で」
「貴女の目的は練習場だったからいいの。それに引き換え、アレンはどこへ行ったのかしら」
「……アレン?」


意外な名前が出てきて、は目を見張った。


「アレンが、何か?」


首を傾げることもせずに訊く。
不意に嫌な予感がしたのだ。
何か、不吉なものがの背中を撫でていった。


「先刻、テントの外に出て行くのを見かけたのよ。注意しようと思ったのだけど、見失ってしまって」


探している最中に練習場の明かりに気づいたのだと言う。
アレンが居るかと思って来て見れば、が猛烈なスピードで綱上を飛び回っていたというわけだ。


「どこかへ向っているような足取りだったわ。……まさか女性と待ち合わせ?」


パトリシアは最後を茶化したけれど、はそれどころではなかった。
一気に血の気が引いた。


「どこで」
「え?」
「どこで、アレンを見たんです」


絞り出すような声で尋ねると、パトリシアは目を瞬いた。
わずかに喜色を浮かべる。
アレンが“誰か”と会っているかもしれないと知って青ざめたに、何かしら思うところがあったのかもしれない。
恋話が嫌いな女性はおらず、パトリシアも例外ではなかったのだ。
ただし、はそんな良い意味で物を言っているのではなかった。


「お願い、教えてください」
「……敷地の、中央あたりよ。行くの?」


返事はしなかった。
はもう駆け出していた。
一瞬で練習場から外界に身を移す。空を見上げて方向を定める。
パトリシアの喜んだような声が聞こえけれど全て放置だ。
悪いが今はそれどころではない。


地を蹴りつけて疾走を始めたちょうどその時、服の中からゴーレムが飛び出してきた。
無線を繋げてみれば聞こえてきたのは親友の声。


。例の件、調べといたぜ』
「どうしてラビが?」


挨拶も抜きに言われて驚く。
調査を依頼した先は探索隊ファインダーだったはずだ。
疑問を投げれば何でもないことのようにラビは応えた。


ブックマンオレらのが早いから。急いでんだろ?』
「……さすがマイベストフレンド」
『当然。ただ、嫌な予感しかしない結果が出ちまった』


こんなときでも自分達は親友なのかとは思った。
無線の向こうでラビも同じものを感じているようだ。
それがますます肌を粟立たせる。


「じゃあ……」
『そう、お前の予想通りだったんさ。……最悪なことにな』


は思わず顔を覆ってしまいたくなった。
何てことだろう。
全てが符合した現実で、焦燥に歯を食いしばる。
あぁ、こんなことならば無理にでも会いに行って告げてしまえばよかった。
結局のところ傷つけてしまうのだから、回避したいと思ったのは自分の弱さだ。
それがさらに彼を追い詰める。


(アレン……!)


返事を求めては夜を駆け抜けていった。




















もうすぐ午前0時だ。
アレンは待ち合わせの場所に向かっていた。
初恋の人と再会するのだからうきうきしているものだと思ったけれど、予想に反して気持ちは沈んでいた。
何だか後ろめたいことをしている気分だ。
大体セルジュたちに抜け駆けして一番に会いに行こうとしているのがいけない。
ミハエルにバレたら何と言われるだろう。
それでも、


(エニスに会えば、少しでもわかるだろうか。……セルジュの気持ちが)


そんなことを考える。
恋って何だ。好きってどういうことだ。
まるで十代になったばかりの少女のような疑問が、アレンの胸の中にうず巻いていた。
誰かに静めてもらいたい。
すでに自分ではもうどうしようもできないと悟ってしまっていた。
本当にセルジュとはよく似ていて、アレンを混乱させてばかりなのだ。


(馬鹿。……は、僕か)


悪態を吐くこともできなくて、足取りが重くなる。
エニスと会った後はどうしよう。
まともにの顔を見られるだろうか。今夜も一緒に見回りをしないといけないのだけど。
アレンはそんなことを悶々と考えながら、エニスに指定された場所へと辿り着いた。
そこは敷地の中央に近い。
そびえたつ大きな木は周囲から抜きん出ていて、濃紺の空をさらに暗く切り取っていた。
枝が擦れて風が鳴る。
落ち葉を踏みしめて、アレンは立ち止まった。
首を巡らせる。誰もいないようだ。
太い幹に背をあずけて、ふうと息を吐いた。


その直後だった。


ずきん、……。


「?」


何の前触れもなく左眼が痛んだ。
針で貫かれるようにというよりは、奥からじりじりと炙られているような感覚だ。
炎の先が眼球裏を撫で、全体を包み込もうとしている。


(なんだ……?)


ずきん、ずきん、ずきん……。
痛みが治まらない。
それどころが酷くなっていっているみたいだ。
快楽のノアに握り潰されて以来、まったくの無反応だったくせに、どうして今このときに疼くのだろう。


「う……っ」


アレンは苦鳴を漏らして左眼を押さえた。
化粧と演技の影響があるはずだからと、舞台のあとが無理やり貼ってきた保護テープの乾いた感触。
「いらない」と言ったのに。
心配ないと笑ってみせたのに。
勝手にやられたものだから剥がしてやってもいいのに、アレンはいまだにそれが出来ずにいる。


(痛むがはずないだろう……)


そうならないようが処置をしてくれたのだから。
アレンは自分の左眼に語りかける。


(どうしたっていうんだよ)


閉じた瞼の上から押さえつけて呻いた。


「頼むから……。痛まないでくれ」


これから会うエニスのだから……けれど本当は別のことを考えていた。
に心配をかけたくないと、思ってしまった。




「無理をして会いに来てくれたの?」




不意に。
本当に不意に、そんな声がした。
アレンは痛みに気を取られていて、一瞬自分が話しかけられていることに気がつけなかった。


「だったら嬉しい」


今度は耳元。
囁く声は優しい。吐息が生ぬるい。
舐めるように首筋を撫でてゆく。


「アレン」


名を呼ばれたと同時に、アレンはその場から跳び下がった。
けれど追ってきた何かが空中に閃く。
光。
月明かりを反射して、視界を両断する。


斬られる。そう思った。
途端に誰かが体ごと思い切りぶつかってきて吹き飛ばされた。
どうやら全力でタックルをかまされたらしい。
かなりの勢いで地面に転がって、痛みと土にまみれる。
反射的に文句を言いそうになったところでまた突き飛ばされた。


「伏せていて!」


鋭く告げたのはだった。
アレンはわけがわからない。どうして彼女が此処にいる?
疑問を言葉に変換する前に、現状は目まぐるしく変わっていった。
はアレンの前に立ちはだかってイノセンスを発動。
次々と飛んでくる何かを光刃で迎撃。
まったく同じ数だけを的確にぶつけることで相殺してみせた。
それは弾け飛んで地に落ちる。
土が色を変えたものだから、アレンはその正体を知った。


「水……?」


水弾はに殺到したけれど、完全に『守葬しゅそう』に阻まれた。
光の壁に衝突しては形を失くして消えてゆくばかりだ。


「私には効かない!」


は声を張って『守葬しゅそう』を個々の刃へと転換。
膨大な凶器を群れさせ、いまだ姿を見せない敵を攻撃した。


「効かない、ね……」


返答は闇の向こうから。


「だったらそれはワザと?」


からかうような口調がへと投げられる。
アレンは何のことかと思ったけれど、地面に落ちた染みが透明なものばかりではなかったことに気がついて叫んだ。


、血が……!」
「掠っただけよ」


振り返りもせずに言われる。
そういう問題ではないし、何よりその怪我はアレンを庇ったときに負ったものだろう。
どこをやられたのか確認したくて隣に並ぼうとすれば、がさらに前面に出た。


「あなたは退っていて」
「な……っ」
「今回は私がやる」
「どういうことだよ」
「彼女はアレンに戦って欲しくないみたい」


途中で口を挟まれる。
それが的確な答えだったのか、は顔を歪めた。
小さな体は強張っていて、それでもアレンの視界を塞ぐかのように起立する。


「……結論が出たわ」


は拳をきつく握り締めた。
アレンには彼女が何を言っているのかわからない。
滑稽なほどに理解が追いつかない。


「あなたは敵よ」


あぁ、でも心のどこかで気づいていたのかもしれない。
疑いたくなかった。失いたくなかった。
思い出の中に、戦うべき相手がいることに。


「やはり、あなたが……アクマだったのね」


エニス。
僕は君に会いたかった。
どくん、と心臓が高鳴って、目の前のの背中がぶれる。
金色の瞳が見据える先には大木があり、そこに立ったひとつの影。
エニス。エニス。エニス。
僕は君に会いにきたんだ。
視線を転じた先、待ち合わせの場所に現れたのは、確かに“彼女”だった。
懐かしさを伴ってアレンに微笑みかけてくる。


「……は、……っ」


喉から嗚咽が漏れた。
脳みそが揺さぶられたみたいになって、凄まじい吐き気をもよおす。
疼く。呻く。左眼が。


お帰りお帰り、おかえりなさい。
帰ってきたのは初恋の舞姫だけでなく愛しい父の呪縛。
が貼ってくれた保護テープがぺらりと捲れて落ちてゆく。
色あせた葉と重い沈黙と共に、地面へと。


まるで時を見計らったかのように、アクマの魂を映す瞳が復活した。
おかげでアレンは目が逸らせない。
違うと。
こんなのは嘘だと。
そう叫んでしまいたいのに、網膜に映った真実が否定を許さない。
アレンを絶望から逃がしはしない。


ようやく治った左眼に見えた、その姿は、




「エニス」




堪らなくなって呼ぶ。
ずっと昔に好きだった少女。
アクマのボディに縛られた、哀れな魂の名を綴る。


「彼女は、もう何ヶ月も前に亡くなっているのよ」


の口調は平坦だった。
決して感情を滲ませないように、全ての力を使っているみたいだ。
アレンはそれをどこか遠くの世界のように聞いていた。


「『悲劇』は舞姫の死。『魂』の名は、エニス・パスカーレ」


そこではわずかに肩を震わせた。
いや、アレンが立ち眩みを起こしただけかもしれない。
どちらにしろ視界がとてもあやふやだ。


「それらを材料に生まれた殺人兵器」


けれど、どうして、見つめる先の“彼”の姿だけはこんなにも鮮明なのだろう。


「アクマ」


雲が割れて月光が降り注ぐ。
役者に相応しい舞台の上、スポットライトのように。





「セルジュ・パスカーレ」






がその名を呼べば、応えるように艶やかに微笑んだ。
緑がかった髪は今や全て下ろされている。
さらりとかかった前髪の奥で、紅い双眸が怪しく光った。


「俺は座長。お前たちは芸人。役者は揃った。…………さぁて、開幕といこうか」


セルジュはアレンの記憶通りに、にっこりと笑ってみせた。




「愉快な殺戮ショーのはじまりだ」










今回は展開が展開なので、ノーコメントでお願い致します。^^

次回はシリアス一直線です。戦闘・流血・鬱描写が苦手な方はご注意を!