記憶の中で踊るあの子。
視界の中を舞った彼女。
遠くから見つめる自分は、いつだって道化だった。


舞姫は僕だけに微笑まない。







● 遺言はピエロ  EPISODE 9 ●






公演は問題なく始まった。
開演の挨拶は団長の仕事だ。
黒いタキシードに身を包んだセルジュが舞台のど真ん中に立つ。
一見地味な衣装だが、シルクハットの赤薔薇が眩いばかりに目立っていた。
何よりスポットライトに照らし出される整った顔。
壇上の彼はいつもにも増してイイ男に見える。


「レディースアンドシェントルメン!皆さん、ようこそパスカーレ・サーカスへ!!」


セルジュはお決まりの文句を朗々と口にしてゆく。
けれどこの団長はそれだけでは終わらない。


「此処に来てくださった全ての方に幸運を。とびっきりの不思議をお届けしましょう。いかれ帽子屋がハットを投げれば、三月ウサギが踊り出す。あぁ、お代は結構!」


わざと強い調子で言って彼はシルクハットを脱いだ。
逆さにしたその中からこぼれ落ちてくるのは煌めくコイン。
途中から色も混じり、セルジュの掌へと雪崩れ落ちてゆく。


「金貨も銀貨も、どんなに高価な宝石だって、貴方の笑顔には敵わない」


涼やかな紅い瞳が客席を一瞥。
美青年のウインクが漏れなく女性たちを沸かせた。


「さぁ今宵は我らが白兎!ご案内いたしましょう、ワンダフル・ワンダーランド!!」


響く声で宣言しながら、セルジュはシルクハットを投げた。
同時に舞台に白い煙が吹き上がる。
それが晴れたときにはすでに青年の姿はなく、舞台の上には兎を模した衣装を身につけた女性団員が立ち並んでいた。


「何で演出をアリスにしたの?」


舞台袖に戻ってきたセルジュにアレンは尋ねた。
視線の先では本来が参加するはずだったダンスが踊られている。


「ここはイギリスじゃなくて、イタリアなのに」


もっともな疑問を口にしたのだけど、セルジュは呆れた顔をした。
窮屈なタキシードの首元を緩めながら返す。


「馬鹿、お前の復帰舞台だからに決まってる」
「……………………」
「7年前と同じ演出だ。懐かしいだろう、イギリス人のアレン・ウォーカーくん」


髪を掻きあげつつ笑顔を投げられて、アレンは目を逸らした。
彼のこういうところに女性たちは堕ちてしまうのだろうか。
悔しいが、今のは同性のアレンでも格好いいと思ってしまった。


「……まぁ。世界的に有名だし、派手にできるからね。アリスモチーフは」
「可愛くねぇの」


わざと一般論を口にすると軽く頭を小突かれた。
次の出番が終演の挨拶であるセルジュは、まるっきりくつろいだ様子で舞台を眺めている。
隣のアレンに囁いた。


「アリスでいくのはオープニングだけだ。掴みは誰にでもわかる演出がいい。ただそれを続けると飽きられるからな。あとは個々で変えてみたさ」


パティが随分と頑張ってくれた、と笑う。


「お前ら演目だって違う演出だろう?」
「あぁ、そうだね。あれは……」
「あれは、イタリアの物語だよ」


セルジュは事もなげに言った。


「実は俺が考えた」


いきなり告げられてかなり驚く。
アレンは目を見張ってセルジュを見た。
自分達の演目も当然パトリシアの監修だと思い込んでいたのだ。
ところが何の気まぐれか、セルジュが口を出していたらしい。
彼は舞台を観察しながらも唇を動かす。


「アレン。お前、恋をしたことあるか?」


これまた急に何を言い出すのかと思った。先刻とまったく話が違う。
何より今は、その手の冗談は止めて欲しい。
アレンが肩を落としたところで、セルジュが続ける。


「エニスでもいい。誰でもいい。本気で女性を好きになったことはあるか?」


予想外に、彼の口調にはふざけた色がなかった。
見上げたセルジュの横顔。
微笑んだ口唇が、それでも真剣な声を紡ぐ。


「今日、お前は舞台の上で、ちゃんに恋をするんだ」
「……、に?」
「そう。道化は舞姫を愛してしまった」


アレンは口を閉ざしてセルジュの語りに耳を傾けた。


「燃え上がる想いは止められない。お前は神すら恐れず、道理を破って、彼女を手に入れようとする」


紅い双眸がこちらを向いた。
不意に笑みが消える。
真っ直ぐに見つめられて、アレンは肩を震わせた。
その胸をセルジュの指先が突く。


「己の立場なんて気にするな。相手の言い分など聞いてやるな」


痛いほど、強く。


「……殺してでも、彼女を自分のものにしてしまえ」


本当に胸の奥……、心臓の辺りを押さえられたみたいになって、アレンは言葉が出せなかった。
喉が渇く。
舌がはりついて気持ち悪い。
そんなアレンに、セルジュは一変して表情を明るくしてみせた。


「俺の描いた演出は、そんな激しい恋物語だよ」
「……、セルジュは」


やっと喉から出てきたのは、ひとつの質問だった。


「セルジュは、そんなふうに、誰かを好きになったことがあるの?」


銀灰色の瞳で問いかける。
隻眼になってしまっているのが惜しい。
本当は、真正面から見据えてやりたかった。


「……“道化”は、君?」


“舞姫”に、真剣に恋をしている?
セルジュはアレンの眼差しを簡単に受け流した。
やはり片目なのが残念だ。両方とも揃っていたら、絶対に逃がしはしなかったのに。


ちゃんは俺の嫁。でも今日は、お前の舞姫。……ちゃんと受け止めてやれよ」


親友は軽くアレンの背を叩くと、止める声も聞かずに裏へと引っ込んでいった。
そして奥の方でスタンバイ位置に向うを捕まえたようだ。
セルジュが後ろから彼女の耳元へと何かを囁きかけ、ついでのようにこめかみにキスをしたのが見える。
はそれを怒るでもなく、むしろにっこりと微笑んだものだから、アレンは強く拳を握り締めた。


(だからキスなんて、本当に好きじゃないとしていいことじゃ……!)


ない、と心の中で続けようとして、それが不可能なことに気がついた。
思わず指先を持ち上げる。
なぞったのは自分の唇で、そこに押し付けた滑らかな手の甲の感触を覚えている。
キスなら僕だって……、


(駄目だ)


今はごちゃごちゃと考えている場合ではない。
乱れた心で舞台には立つな……、それがサーカスの絶対の掟。
失敗すれば己だけでなく、仲間にまで危険が及ぶからだ。
アレンは一人首を振ると、団員達が演技をしているステージへと視線を戻した。
会場は歓声に包まれている。













女性陣のダンス、ミハエル達の地上曲芸、フリードリヒの動物曲芸などなど、演目は続いてゆく。
全てが滞りなく終わり、舞台は一度照明を落とした。
客席の人々は次は何だろうと期待に胸を膨らませ、同時に急な薄暗さに不安を感じる。
ましてや今のステージの様子は一風変わっていた。
かなりの高さの円柱がど真ん中にそびえ立っており、そこから太めのロープが幾本も空中に張り巡らされているのだ。
小さく囁きが交わされ、不審気に指が差される。
そんな観客達の前にアレンは飛び出していった。
途端、可愛い笑い声があがる。陽気なピエロは人気者なのだ。
アレンの場合、怪我をした左眼はずっと閉じた状態だから、本来なら少し奇妙に見える。
それを上手く誤魔化してくれたのはセルジュの施したメイクだった。
怖がることなく笑顔になった子供に釣られて、大人たちも表情を緩めていた。


(よかった……)


アレンは内心ホッとしながらお辞儀をしてみせる。
声は出さない。ピエロは喋らないものだ。
手振り身振りだけで観客を笑わせ、舞台に集中し続けた緊張を解いてやるのがその役目である。
お決まりのところで、身の軽さを見せる軽業。
何もないところから鳩や花を取り出して見せる手品。
色とりどりのバルーンを、膨らませて飛ばしたり、動物の形にして小さな女の子にプレゼントしたり。
アレンは次々と芸を披露し、観客達を楽しませた。
にこにこと微笑み、大げさなほどコミカルに動く。
そうすることでまたアレン自身も久しぶりの舞台を楽しんでいた。
懐かしい、マナと暮らしていたころの感覚だ。まるで本当に昔に戻ったような気持ちになる。
けれど忘れてはいけないのが時間だった。
いつまでもピエロに笑い続けてはくれない。観客は次なる素晴らしい演技を心待ちにしている。


アレンは舞台袖にちらりと視線をやり、パトリシアが頷くのを確認した。
目だけで返事をすると、大きく伸びあがる。
あくびをする仕草で“眠くなった”ということを観る者に伝える。
アレンは眠気にフラフラと足元をよたつかせた。
舞台の中央にある大きな柱まで歩いていき、そこに背を預けて床に座り込む。
そうして寝入ってしまった演技を始めた。


(さぁ、舞姫の出番だ)


ピエロが寝息を立てる舞台は、夜が訪れたように照明が抑えられた。
代わりに巨大な柱の上が一斉に照らし出される。
それによって観客の視線は誘われ、彼女の出現で釘付けとなった。
ふわりと翻る純白の衣装。
さらなる高みから舞い降りてきたが、柱の頂上に着地した。
それも空中前転をしながらの登場だったので、客席は一気にざわめいた。


(命綱もなしだもんなぁ……)


アレンは目を閉じたまま思う。
落下すれば確実に大怪我という高さで、はその身ひとつで立っている。
表情はない。
笑顔を消した彼女はどこまでも人形めいて見えるのだが、今ではますますそれが際立っていた。
アレンは思い出す。
リハーサルのときに見た、ぞっとするほど美しい少女の姿を。
そう、は演出通りに、まるで人外の者に思えたのだ。


(彼女は舞姫。天空に踊る妖精だ)


アレンが心の中で言うのと同時に音楽が流れ始める。
自分がもたれているこの円柱の上で、が舞い始めたことだろう。
両腕で円を描き、脚を持ち上げる。くるり、くるりと回転する。
振りは意外と難しくない。
けれどがやると、とても複雑なことのように見えた。
それは彼女の容姿のせいか、衣装のせいか、演技をしている場所のせいか。
舞台からも客席からも遥かに高い位置で、は音楽に乗ってひとり舞い踊る。
動作の美しさ、肉体のしなやかさに、観客たちはほぅとため息をついた。
その意識を完全に捕らえたところで、が跳ねた。




否、飛んだ。




客席から悲鳴のような声が漏れる。
金髪をなびかせて、はその身を円柱上から空中へと投げ出した。
バランスは崩れない。
観る者の心配をよそに、流れる動作で側転し、着地してみせたのだ。


「ロープの上に……!」


驚嘆の囁きがアレンにも聞こえてくる。
そう、舞姫は円柱から、その周囲に張り巡らされたロープ上に身を移したのだ。
そこでまた一回転。
手足を振り、体を回して舞い続ける。


「あんな場所で……」
「同じように踊ってるわ」
「すごいすごい!」


賛辞も当然。
実は下半身はバランスを取ることに集中し、ほとんど上半身のみで演技しているようなものなのだが、それでもだ。
あんな不安定な場所で、目の眩むような高さで、今までとほとんど同じ振りを行っているのだから。


これがの出した案。
ソロで舞うには技術不足ならば、補いに舞台をとびきり特異にすればいい。
観客に“凄い”と思わせるようなものに。
つまり、「ロープの上で踊ってみせる」と言ったのだ。
この前代未聞の意見は、当然のように却下された。
無茶だ無謀だとさんざん非難されて、けれどアレンは出来るんじゃないかと思った。否、ほぼ確信していた。
は意外と現実的に物事を言うので、絶対に不可能なことは口にしない。
それを知っていたし、何より彼女の身体能力の高さを理解していた。
過去に神田との任務で、鎖の上で戦ったことがあると聞いていたのも大きな要因だ。
ちなみに「ミハエルに習っていた綱渡りがこんな形で助けになるとは思っていなかった」、というのが本人の言である。
まったく、何事にも全力投球というのも馬鹿にできたものじゃない。


再びざわめきが起こる。
音楽が速くなり、は連続して跳んだ。
ロープからロープへ、軽やかに移ってゆく。
片足だけでの着地もあれば、空中で倒立して手だけで渡ることもあった。
その場合はさすがに一度円柱に舞い戻ったが、すぐさまロープの上へと出てゆき、またそこで振り付けを演じてみせる。
緩やかなステップと抜群のバランス感覚で、絶対に足元をぐらつかせない。
動作の美麗さ。
時折混ざる派手なアクロバット。
観客達は一様に息を呑み、に目を奪われていた。


(さて)


音楽と照明の変化に合わせて、アレンはゆっくりと瞳を開く。
ばかりを照らしていたライトが下まで届き、舞台に朝が来たことを演出する。
ピエロは寝ぼけ眼をごしごしと擦った。
ううん、と体を伸ばして立ち上がる。
軽快に歩き出そうとしてところで自分の足に躓き、大きく転んでみせた。
その動作と効果音で、舞姫に囚われていた会場の意識をわずかでも引き戻す。
注目を集めたピエロは天を仰いでいた。
痛みに頭をさすっていた手が止まる。
限界まで目を見開く。


『お前は舞台の上で、ちゃんに恋をするんだ』


セルジュの声が頭のどこかでしていた。
アレンは呆然と上空で踊るを見上げる。
一応演技なのだが、本当に見惚れてしまいそうだった。
ロープ上をあっちにこっちにと跳びまわり、踊り続ける姿はまるで本物の妖精だ。
スポットライトに照らし出された彼女は、やはりいつもにも増して綺麗に見えた。


(地上の道化は、天空の舞姫に恋をする。……僕は、に恋をする)


そう、ならば彼女を手に入れないと。
ピエロは舞姫を見つめたまま、腕を差し伸べた。
その指先は届かない。
慌てて立ち上がって一生懸命がんばるけれど、まったくの無駄だ。
長い金髪にも、白い衣装の裾にも、アレンの手は届かなかった。
は下方になど一瞥もくれずに、ただただ優雅な動きを続けている。
彼女に触れたい。手を握りたい。目を見て、見つめ合って、微笑んで欲しい。
そんな激しい欲望にピエロの心は引き千切れそうになる。
深い悲しみの表情で観客席を振り返れば、何人かが胸を押さえているのが見えた。
やはり恋心というのは感じ取りやすいものなのだろうか。
アレンはそんなことを考えながらも表情を明るくした。
舞台の袖に駆け入って、急いで戻ってくる。
ゴロゴロと転がしてきたのは大きな玉だ。模様は赤と緑の縞で、一目でピエロの持ち物とわかる。
アレンはそれを円柱の下まで持ってくるとひょいと上に飛び乗ってみせた。
巨大なボールは足場だ。
高さを稼ぐ玉乗りの状態で、アレンはもう一度に手を伸ばす。
駄目だ。届かない。まだ足りない。
ぐっと拳を握り締める。
ピエロは強く瞼を閉じた。
そうして銀灰色を開くと、今度は懐から何本ものそれを取り出してきた。


「ナイフ?」


観客の疑問の声。
ピエロは玉乗りをしたまま、刃を放り投げては受け止め始める。
ジャグリングは何周か続き、その間に移動してゆく。
アレンはの踊るロープの下までやってくると、不意に瞳を鋭くした。


『……殺してでも、彼女を自分のものにしてしまえ』


またセルジュの声が反芻される。
恋というのは、そんなにも恐ろしいものなのだろうか。
アレンの漠然としたイメージでは、それは相手を想い、思いやり、穏やかで優しいもののはずだった。
エニスへの感情がそれに近かった気がする。
だったら、への感情は?
“道化”は“舞姫”を愛してしまった。


(だから、こうするのか……?)


アレンはジャグリングを止めることもなくその中の一本を掴むと、大きく腕を振るってへと投げつけた。
会場が息を呑む。
照明を弾いて凶器は舞姫に迫った。


ブツリ、


と決して大きくはないはずの音が響き渡る。
ピエロの投擲したナイフは、舞姫の立っていたロープを見事に切断した。
縄は張りを失い、重力に従ってだらりと垂れ下がる。
もちろんあらかじめ仕掛けてあった成果だ。下方から投げたのではあの太さを切ることは出来ない。
それでも観客には、ピエロが舞姫を落とそうと、その足場を破壊したように見えたことだろう。


(降りて来い、


彼女は何事もなかったかのように、今でも別のロープ上で舞っている。
間一髪でアレンの攻撃を避け、そちらへと移っていたのだ。
ピエロは舞姫を追う。
また一本ジャグリングの中からナイフを選び取り投擲。
はひらりとそれをかわす。
この連携は二人にしか出来ないと、お互いに承知していた。
一歩間違えると刃がを傷つける。
そしてアレンがタイミングを誤れば、彼女は遥かなる高みから真っ逆さまだ。
確かな呼吸の合わせでしか、この演技は実現できない。
ラビとはいつものことだ。神田となら、戦闘中に大いに発揮される。
そんな絶対の信頼を、いつの間にか自分も勝ち得ていたのだと、改めて実感する。


ピエロは次々とナイフを投げ、舞姫の足場であるロープを切っていった。
は臆さない。
ちらりともアレンを見ない。
ただそれが全てであるかのように、ひたすらに舞い踊る。
ラストが、近い。


「どうなるの……?」


踊る場所を崩され、追い詰められてゆく妖精を危惧し、観客が呟いた。
固唾を呑んで舞台を見守る。
アレンは容赦をしなかった。
ピエロは舞姫にどうしようもないほど焦がれていて、彼女を手に入れなければ、その想いは満たされないのだ。


(僕がそこから叩き落としてあげる。……降りて来い、


そうしたら、きっと……。
盛り上がってゆく音楽。高まってゆく興奮。
その両方が最高潮に達したとき、アレンは最後の一本を投げた。
もうに逃げ場はない。
円柱の上に戻るには距離が遠すぎる。
ピエロの狙い通りに、天空の舞姫は落下した。


客席から悲鳴があがる。
初めてがバランスを崩したからだ。
見るからに不安定な体勢で、小さな体が空中へと放り出された。
一瞬だけ目が合った。
金色の瞳が確かにアレンを見た。
そうして少し微笑んだようだった。


時間が止まったようになる。
音楽も止んだ。
誰もが声を失った。
アレンだけが愛の言葉を囁きながら、の元へと駆けていった。




ピエロが玉を上から蹴りつけて移動し、上空から落ちてきた舞姫をしっかりと受けとめてやったのだ。




両腕で抱きとめる。
かなりの高さだったから衝撃が大きかったけれど、玉から転がり落ちるような失態は犯さない。
を抱えているから、絶対にだ。


金髪の舞姫は初めて目に見えるように表情を動かした。
驚きに目を見張ってピエロを見上げる。
アレンはもう一度、愛を告白した。


「今からずっと、君は僕のものだ」


だってもう天上には帰れないだろう。
墜落した妖精。僕が叩き落して受け止めた。
だからさ、君は僕のものだよ。
永遠に――――………。


「今からずっと……?」


が繰り返した。
それから微笑む。
まったくの無表情でいたから、その笑顔は誰をも魅了する。


「今からずっと、私はあなたのもの」


物語はハッピーエンド、舞姫は道化に“堕とされて”しまったのだ。
その応えにアレンは微笑み返そうとした。
けれどそこでとんでもないことが起こった。
予定にはない。リハーサルでも聞いていない。


がアレンの首に抱きつくと、その頬にキスをしてきたのだ。


一瞬、触れたぬくもりの正体がわからなかった。
そしてそれを悟ったときには、もう玉の上から転がり落ちていた。
わずかでも硬直してしまったが悪かったらしい。
何とかは庇ってやったけれど、舞台の上で思い切り尻餅をついてしまった。


「い……痛たた……」


同時にどっと笑い声があがる。
観客達は演出の一部で、わざとアレンが転んだと思ったのだろう。
恋人にキスを贈られて慌ててしまった可愛いピエロ。
仕方がないのでそれで通すことにする。
とりあえずメイクをしていて良かったと思った。
赤くなった頬を見られたら、一発で演技ではないとバレてしまったことだろう。


アレンは何となく視線をそらしながらに手を差し伸べ、二人で立ち上がって客席を振り返った。
哄笑は歓声に変わり、今や割れんばかりの拍手が響いている。
アレンは腰を折り、は身を屈めて礼をしたところで、花やリボンを投げられた。
賞賛の声があちこちからあがり、結局何を言っているのかわからない。
急に隣でがよろめいた。
アレンが見てみると、パトリシアが彼女に抱きついていた。
舞台が成功したのを見て袖から出してきてしまったらしい。
“姉さん”が感情で動くことなど皆無に等しかったのでかなり驚く。
アレンはアレンで駆け寄ってきたミハエルに飛びつかれて大変だった。
最終的にほとんどの団員が出てきてみくちゃにされる。痛い痛いと訴えるが、誰も聞いてくれない。
これはは潰されているんじゃないかと心配して見れば、彼女はフリードリヒに担ぎ上げられていた。
そのままにゃんこの背中に乗せられ、笑顔で手を振り始める。
舞台の上は大混乱。
客席は大盛り上がり。
一人遅れて出てきたセルジュがステージの中央に立って言った。


「La commedia è finita.」


イタリア語で何事かを告げ、完璧な一礼をしてみせる。
これにて終幕。
けれどそれからしばらく、テントの中の喝采はおさまることがなかった。




















「よくやった、!」


そう言ったのはフリードリヒで、かなり珍しいことに興奮した様子である。
演目の成功を一番に喜んでいるのは、どうやら彼のようだった。
やはり兄貴分な性格のせいだろうか。
新人で初舞台であるを誰よりも心配していたらしい。


「本当に素晴らしい踊りだったぞ!さぁ飲んでくれ、食べてくれ」


言いながらを一番いい席に座らせて、目の前を大量のご馳走で埋めてやった。
公演初日の打ち上げはサーカスの大テントの前、野外で行われている。
会場を黄金の満月と燃え上がる篝火が照らし出す。


「今日の主役は間違いなくお前だからな」


他のどの団員よりも体力と精神力に負担をかけて演技を行ったのはである。
そして見事に大成功をおさめたものだから、お祝いの中心になるのは当然だった。
本人は不相応だと思っていたのだが、無表情党のフリードリヒにここまでされては笑顔にならざるをえない。


「ありがとう、フリッツさん」
「礼はいい。あぁ、そうだ」


不意に彼は振り返った。
その視線の先にはにゃんこがいて、一応は繋がれている状態だ。
ぐるぐると喉を鳴らし、咥えていた花束を投げて寄越す。
フリードリヒが拾い上げてへと手渡した。


「にゃんこからのプレゼントだ」


その言い方がにくい。
どう考えてもブーケを用意したのはフリードリヒで、けれど彼はの大好きな猛獣からであるかのように演じてみせたのだ。
普段は冗談もやらないようなフリードリヒからのそれを受けて、は感極まった様子になった。


「うわぁ、本当にうれしい!ありがとう、にゃんこ!ありがとう、フリッツさん!」
「だから礼はいいと言っているだろう」
「何度だって伝えたいんだもの!!」


笑い声をあげながらはフリードリヒに飛びついた。
フリードリヒは驚いたようだけれど、それも一瞬で軽くの背を撫でてやる。
続けてその身を担ぎ上げて、自分の肩に乗せてやった。


「さぁ、皆で祝おう。新しい舞姫の誕生だ!」


フリードリヒがを高みにして言えば、騒ぎ声が爆発した。
団員達は口々に賞賛と祝いの言葉を述べてゆく。
を気に入らないと言っていた集団も、しぶしぶながらに拍手をしているようだった。


「仕方ねぇから認めてやるよ!」


ミハエルは拗ねたような口調だ。
ただしその表情は笑顔でしかない。


「舞姫は一人じゃなきゃいけない、なんてルールはないもんな」
「ミハエル」


意外に思ってが呼べば、短く修正を入れられる。


「ミハ」
「……ミハ」
「そう、愛称で呼べよ。俺とお前は友達なんだから」


そこでミハエルは思い切り破顔した。


「友達だから、特別に許してやるよ。“俺”の舞姫はエニスだけだけど、お前だってそうだ」


両腕を広げて明るく言い放つ。


は、パスカーレサーカス団の舞姫だ!」


笑い声をあげながらミハエルはに抱きついた。
彼女はフリードリヒに担がれたままだからかなり高い位置にいたのだけれど、曲芸師の彼にとってはなんてこともない。
おかげでフリードリヒは二人分の体重を支える羽目になった。


「おい、重いぞミハ。降りろ」
「やーだね!俺はと一緒にいたいんだもん」
「浮気発言だな。エニスが帰ってきたら言いつけてやろう」
「バッカ、俺ら友達だぜ?仲良くしてて当然なの。なっ、?」
「そうそう!フリッツさんこそ、私たちと仲良くしすぎて、にゃんこに怒られたりしない?」
「俺は甲斐性があるからな。にゃんこにもお前たちにもご馳走を与えておけば大丈夫だ」
「あはは素敵ー!よし、じゃあ今日はたらふく食べさせてもらおうミハ!!」
「うん!!……って俺らライオンと同列?」


そうやってぎゃあぎゃあ騒ぐたちを、アレンは少し離れたところから見ていた。
料理をてんこ盛りにした大皿を抱いて、黙々と食べ進める。
肉の塊に喰らいついたところで声をかけられた。


「何を一人で寂しくしてるの、アレン」


傍にやってきたのはパトリシアだ。
片手にはビールジョッキ。すでに顔が真っ赤で、酔っているのだと一目でわかった。
肩に寄りかかられたのできちんと支えてやる。


「パティ、飲みすぎ」
「いいじゃない!これはお祝いよー、打ち上げなのよー」
「お酒くさい……」
「失礼ねぇ。アレンももっと盛り上がりなさいよ。貴方だって今日の功労者なんだから」


指先で頬を突つかれて、アレンはちょっとうんざりしてしまった。
フリードリヒだけでなく、パトリシアまでいつもと大違いの態度だ。
本当にの影響力は凄すぎる。
浮かれまくっているパトリシアを、アレンは何気なく押し返した。


「僕は僕で楽しんでるからいいんだ。パティもたちのところへ行ってきなよ」
「……、そうやってフリッツやミハの誘いもかわしたわけね」


ずばりと言われてフォークを動かす手を止める。
実はフリードリヒはと一緒にアレンも中心に引っ張り出そうとしていたのだ。
アレンはそれを断って今でもこうして隅っこにいる。
ミハエルが何度も呼んでくれているけれど、軽く手を振るだけで終わらせていた。


「どうして皆のところへ行かないの?一緒に楽しみましょうよ」
「……僕はいい」
「何故?」


そんなこと訊かないで欲しい。
覗き込んでくる若草色の瞳から、アレンは顔を逸らした。


「パティ、アレンは恥ずかしいんだよ」


そこで唐突にいらない言葉が割って入る。
アレンが急いで振り返れば、セルジュが嫌な笑いを浮かべて立っていた。


「恥ずかしいって、何が?」


パトリシアが目を瞬かせる。
セルジュは顎をあげてアレンを見下ろした。


ちゃんにキスをされたからさ。こいつ、昔エニスにほっぺチューをされたことがあってな」
「ばっ……、セルジュ!」
「そのときのことを思い出して照れてるんだよな?それとも淡い初恋の日々を反芻しているのか?んん?」
「セールージュー」


面白がるような口調の青年を低音で呼べば、彼はぺろりと舌を出してみせた。
その茶目っ気溢れる仕草に首を締めあげてやりたくなる。
それより早くパトリシアが笑い出した。


「なるほど、そういうことだったのね」
「パティ、違う……!」
「いいわよ。じゃあ好きなだけ思い出に浸っていなさいな」


意味ありげな一瞥を残して、パトリシアは馬鹿騒ぎの中心へと向って行った。
道すがら次々とグラスを空けていって、の元へと辿り着いたときには見事にべろんべろんになっている。
あの様子では誤解を解こうにも無理だろう。
アレンは鋭く隣を振り返った。


「馬鹿セルジュ」
「ひどいな。それが親友への言葉か?」
「絶交してやりたい気分だ」
「あぁ、アレン!あつい友情に涙が出そうだよ」


わざとらしく袖で目元を拭う姿が腹立たしくて、アレンは軽く蹴りを入れておいた。
両手が皿で塞がっていたので頼りは足だけだ。
脛をげしげしと攻撃すれば、セルジュが悲鳴をあげた。


「そんなに怒らなくたっていいだろう!なんだよ、俺が言ったことが気に入らないのならどういうことだよ」
「……………………」
「皆のところに行かない理由は何だ?」
「……、別に」


アレンはぶっきらぼうに呟く。
そうしてしまってから、これじゃあまるで神田みたいだと思った。
態度が悪すぎて余計に勘ぐられるだけだ。
ところがセルジュはそれ以上追求しようとはせずに、苦笑を浮かべてアレンの肩を叩いてきた。


「今日はお疲れさん」
「……、うん」
「お前がいなきゃ、成功していなかったよ」
「うん」


アレンは素直に頷いた。
自分の役目はの補助。
いくらなんでも、延々とロープの上では踊れない。彼女にも限界というものがある。
道化が妖精を落下させようとする演出は、その実の舞う場所を減らし、振りを簡単なものに変えてゆく目的があったのだ。
観客達は落ちるか落ちないかの緊張感にダンスの難易度が見えなくなる。
ただただ危険に晒されても踊り続ける舞姫に感嘆するだけだ。


「他の誰でも無理だった。軽く命懸けだからな……。ちゃんが絶対の信頼を寄せるお前が相方じゃないとさ」


セルジュに言われて何だか胸がくすぐったくなった。
照れ隠しに食具に噛り付く。


「本当にすごいよ」


頬が熱いのは気のせいだ。


「つーか、どれだけわかり合ってるんだお前ら」
「……え?」


そこで声に険が混じったので、アレンは驚いてセルジュを見た。
すると紅い双眸に睨みつけられる。


「アレンは俺の嫁と仲が良すぎる。もう少し気を利かせてくれ」
「あのね……。仕方ないだろう、僕とは仲間なんだから」
「本当に?」


問い返されて、何故だか言葉に詰まった。
セルジュは瞳を細めて微笑む。


「本当にそれだけか?絶対に言い切れる?お前はエニスが好き……それでいいんだよな?」
「……それは」
「俺はちゃんが好きだよ」


あまりにもあっさりと告げられたので、アレンはしばらく反応できなかった。
硬直してセルジュを見上げる。
手に持っていたフォークが皿に落ちて、高い音を立てた。


「今日のお前たちの舞台。あれの演出はイタリアのオペラを元にしているんだ」


アレンが固まっているのをいいことに、セルジュは勝手に話し始めた。


「題名は『道化師』。でも、実のところ、この作品は純粋な恋物語じゃない」
「……、え」
「浮気した妻を、相手の男共々ダンナが殺してしまう話だ」
「……………ええええええええっ」


何だその修羅場話。
アレンは信じられなくて意味のない声を発してしまう。


「妖精なんて出てこないし、道化とも結ばれないのさ」


じゃあ何であんな演出になったんだ。
アレンはセルジュの胸倉を掴んで問い詰めたい気分になった。
元にしたということは、少しくらい原型が残っているものだろう。
これじゃあ完璧にセルジュのオリジナルではないか。
そう訴えたいアレンに、サーカスの団長は微笑んだ。


「重要なのはここだよ。オペラの序章、座長の言葉。“舞台の上では道化を演じる自分達も、血肉を携えた人間。愛憎を重ねて生きる存在なのだ”」
「………………………」
「俺は俺なりに、この言葉を解釈して演出を考えた。……道化も、人間。激しい恋をすれば我を忘れる。舞姫の芸を邪魔してでも、彼女を手に入れようとするだろう」
「……………それで、あんな?」
「そうさ。あとは俺個人の好み。恋物語はハッピーエンドの方がいい」


セルジュはふざけて指先で宙にハートを描いてみせた。


「ま、ちょっと強引だったけどな。あんな風に落とされたら、妖精はピエロに惚れるどころか激怒するだろうに」
「……まぁ、確かにね」


常識的に考えればそうだ。
アレンは頷いたけれど、小さく続ける。


「物語としては自然だけど……」
「ああ。だから最後の締めはこの台詞。“La commedia è finita.”」


実際に彼が舞台の終わりに口にしていたものだ。
首を傾げて尋ねる。


「何て言ってるの?」
「“芝居はこれでおしまいです”」
「……なるほど」


どこか現実的な恋も、それには不似合いなラストも、その一言で幕引きにできる。
全ては虚言へと追放され、舞台は幻と変わるのだ。
セルジュが好みそうな何とも皮肉めいた演出だった。


「だからさ、俺はこれを自分では演じたくなかったんだよ」
「……何で」
「愛を告げても“演技でした”で終わらされる。俺はそんなのごめんだね」
「セルジュ……、それを僕にやらせておいて……」


よく言う、と続けようとしたのだけれど、その声は見事に遮られた。


「アレンはいいだろう、ちゃんに惚れてないんだから」
「………………………」
「俺は嘘にしたくない。だからお前に代わってもらったのさ。なぁ許してくれるよな、親友?」


そうしてにっこりと微笑みかけてくるセルジュに、アレンはどう応えたものかと真剣に考えた。
否、思考しようにもうまくいかなくて、言葉が思いつかなかったのだ。


「アレン?」


紅い瞳に問いかけられる。
彼は返事を欲している。
それがアレンにはひどく困難なことも知らずに。


「……ほんとうに」


何だかとても喉が渇く。
目も乾燥して痛くて、けれど視線は逸らせない。


「セルジュは、本当にが好きなの?」
「好きだよ」


即答だった。
やはり、あっさりしたものだ。
先刻からずっと彼の唇は微笑んでいる。


「何度も言ってるだろう。俺はちゃんが好き。だからこんな恋物語を考えた。そして、それを自分では演じたくはなかった。舞台の上でお前に託して、現実では自分で告げるつもりさ」


あぁつまり今日演じたピエロはやはりセルジュで、あの演出は愛の告白だったのだ。
彼はあれだけ大勢の人に、への想いを見せつけたのだ。
それを知らずに演じた自分は、何て滑稽。まさしく道化であった。


「好きって……」


アレンは頭が回らない。
半ば呆然としたまま、喰いつくように訊く。


「好きって何?なんであんな人を?意味がわからない」
「単純明快だろう、恋だよ!愛だよ!俺は彼女が欲しいのさ」
「だからどうしてなんかを……。女性なら誰でもいいの?」
「そんなわけあるか。自分で言うのもなんだが、俺は女にはうるさいぞ」
「だったらますますあの馬鹿を選ぶ理由が理解できないよ!」
「何で?魅力的な女の子じゃないか。……最初は見た目にしか興味なかったけれど」
「それだけで……!」
「今は違う。ちゃんは中身もイイ女だったからな」


セルジュは飄々としてアレンを煙に巻いていたが、最後には表情を真面目なものに変えた。


「俺は、彼女に本気だ」
「……………………」
「この答えで満足してくれ。どこが好きで、何に惚れただなんて、さすがに本人以外には語りたくないんでね」


そう言うと、セルジュはアレンを置き去りにして歩き出した。
真っ直ぐにの元を目指す。
彼の背を追いかけようとして、アレンは動けないことに気がついた。
だって引き止めて何を言う?
セルジュは己の気持ちを包み隠さず語ってくれて、恐らくにもそうするのだろう。
それを止める権利も、邪魔する理由もない。
むしろ親友と仲間が親密になるのを喜ぶべきだ。


(そうだよ……お似合いじゃないか)


美男美女の二人。並ぶと絵になるのは知っている。
どちらも大切な人だから、恋仲になったのなら祝福してあげなくては。
アレンは大きな音を立てて、手にしていた皿をテーブルに戻した。


だったらどうしてこんなにも頭が混乱して気分が悪いのだろう。
恋を忘れているから?愛を得たことがないから?
わからない。
ただひとつハッキリしていることは、この吐き気の原因が彼らであるということだけだった。
ついに食べることも放棄して、アレンは夜空を見上げる。
雲が出てきたようだ。
薄い闇が月の光を掻き消した。


そうしてアレンは最後まで気がつかなかった。
いつもなら笑顔で傍にやってきて、バカ騒ぎに巻き込んでくるが、今宵は誘いをかけてこなかったということに。


自分を避けているということに。




















確かめたいことがあった。
アレンに告げる前に、どうしても確証が欲しかった。


舞台の上で駆使した体は疲労を訴えている。
それでもまだ、眠るわけにはいかない。
安息に落ちる前に、やるべきことがあるのだ。


夜の見回りを終えたは、寝所にしているテントの前でアレンと別れた。
彼はいつも何気なく送ってくれる。こういうところはやはり紳士的だ。
けれど今日はどうにも気がそぞろなようで、「おやすみ」と告げるとがテントに入るのも見ないで踵を返してしまった。
足早に去ってゆく背を眺める。
好都合だ、と思った。
は理由があってアレンを避けていた。
エクソシストとしての会話だけを交わし、極力余計なことは話さないように気をつけ、共にいる時間をやりすごしていたのだ。
普段のアレンになら勘づかれそうなことだったが、彼は彼で何やら気にかかることがあるらしい。
特に今日はまともに目も合わせてくれない有様だった。


(何を悩んでいるんだろう……)


は心配をしたけれど、自分だって大きな問題を抱えている。
アレンの意識が逸れているのならば今夜は本当に絶好の機会だった。
初公演が成功して団員達は気を緩めており、酒が入って眠ってしまった者がほとんどだ。


(忍び込むには今しかない)


はアレンの姿が見えなくなると、再び夜の中を歩き出した。
気配を完全に消し、かすかな音も立てずに目的地へと急ぐ。
場所は覚えているから確認もせずに布の扉から中へと滑り込んだ。
視界は暗い。
外よりもどろりと重い黒だ。
明かりは点けられないから、自分の夜目だけを頼りに行動を開始した。


積み上げられた本。机に散乱した書類。
ざっと目を通して引き出しに手をかける。
出てきたのは膨大なファイルで、は素早く取り出した。
重量感のあるそれを捲って目的の箇所を探してゆく。
しばらく夢中でそうしていれば、不意に視界が変化した。


「…………………」


何の前触れもなく照明を灯されてもは驚かない。
そんな暇はないから、即座に手にしていた物を引き出しの中へと戻す。
何を調べていたのか見られるのは得策ではないからだ。
は机の陰に隠れて作業をしていたから、入ってきた者の姿は見えなかった。
それは向こうも同じだろうに、普通に名前を呼ばれてしまう。


ちゃん」


聞き知った声だった。


「出ておいで」


優しく促されて、ゆっくりと立ち上がる。
隠れられるとも思っていなかったし、そうする気もすでになかった。


「こんばんは、団長」


瞳を向けた先、入り口付近にセルジュは立っていた。
火を灯したのはひとつのランプだけでテントの中はまだ薄暗い。
表情が見えないけれど、彼は微笑んでいるだろうと思った。


「ごめんなさい、寝ぼけました。部屋を間違えたみたい」


我ながら空々しい言葉を口にして、は彼に近づいてゆく。
否、出口を目指す。


「自分の寝所に戻ります。おやすみなさい」


笑顔で言った途端、急に距離を詰められる。
自然な動きでセルジュが腕を腰に回してくる。
まるで行く手を阻むように。


「駄目だよ」


頭上から降ってきた声は、やはり笑みを含んでいた。


「こんな風に忍び込んでおいて、ただで帰れると思う?」


もちろん思っていない。
は彼の体の影で口元に手をやった。


「……、帰さないよ。


艶のある青年の囁きには俯いた。
指先で感じる自分の唇。
それはほんの少しだけ、弧を描いている。




計画通りだ。










はい、アレン&ヒロインの初舞台でした。
この二人じゃないと出来ない芸……というのを考えた結果、ああなりました。
アレンはともかくヒロインには度胸しかありませんしね。(笑)
ちなみにモチーフにしたオペラはこちらです。→(ル.ッ.ジ.ェ.ー.ロ・レ.オ.ン.カ.ヴ.ァ.ッ.ロ作 『道化師』)
興味のある方はググってみてください〜。

次回はセルジュとヒロインが……な感じです。
ひとりで青春しているアレンも引き続きよろしくお願いします。^^