僕は自分を棚上げにする。
他人を怒っておきながら、思考足らず、言葉足らず。
本能のようにキスをした。
君の前では正気を失うくらいがちょうどいい。
● 遺言はピエロ EPISODE 8 ●
「お疲れさん」
リハーサルが終った途端にセルジュが労わりの声を投げてきた。
持ち上げていた腕を下ろしながら、はその調子を不思議に思う。
視線を向けてみると彼は頬杖をついて瞳をすがめていた。
表情はいつも通りの笑みに近いけれど、どうにも妙な雰囲気だ。
周囲の女性たちのほとんどが息を整えるのに夢中だったから、それに気付いたのはだけのようだった。
「……と、いうわけなのよ」
パトリシアが見て分かったはずだとばかりにそう言う。
セルジュはうーんと呻った。
真剣みが足りないようなので、悩んでいるのはポーズだけだろう。
その証拠にすぐさま指示を飛ばしてくる。
「これは全員に理解させるしかないな。おーい、みんな」
セルジュは客席に腰掛けたまま手を振って、女性団員達を動かした。
「そこ。そこでわかれて。そっちの半分でもう一度踊ってくれ」
団長の真意がわからずに戸惑いの声があがる。
皆が顔を合わせて、首を傾げていた。
「もう半分は、俺と一緒に客席で見ていてやってくれるか」
は舞台に残る方に振り分けられていた。
隣の女性もそうで、こっそりと話しかけてくる。
「どういうことかしら?何か問題でも……」
「それを知ってもらうために、仲間の動きを見てほしいんだよ」
応えたのがではなくセルジュだったので、その女性は慌てて口を閉じた。
まさか聞こえているとは思っていなかったのだろう。
は軽く彼女の肩を叩いた。
他にも息切れがおさまっていない者がほとんどだったから、さり気なく背中も撫でておく。
パトリシアの振り付けは続けて踊れというには酷なものなのだ。
は体力があるからいいものの、無理をしなければいけない団員も多いだろう。
「はい、じゃあスタート」
それでもセルジュは容赦しない。
笑顔のまま合図を出して、再び踊りが始まった。
ぞろぞろと舞台を降りた半分は、セルジュの近くにまとまって腰掛け、こちらを見ている。
いつもの自分と同じ動きをしている団員たちを観察している。
人数の減った舞台は踊りやすかった。
実を言うと、は大人数とピタリと動きを合わせることが苦手だったのだ。
だからいけないと思いつつ、少しだけ広がったステージを楽しんでしまう。
「うん、お疲れー」
セルジュの声で我に返る。
二度目のダンスが終っていたのだ。
どうして気付かなかったのかと、自分で自分に首を傾げた。
「それじゃあ交代してちょうだい」
パトリシアの指示に従って、は舞台から降りようと歩き出す。
友人になった女性の息切れがひどくて辛そうだったから、そっと隣に寄り添った。
二人で階段に足をかけたところで再びセルジュの指示が飛んでくる。
「ちゃんはユーターンだ」
「え?」
意味がわからなくて顔をあげれば、細められた紅い瞳に射抜かれた。
「あんたはもう一回踊ってくれ」
それを聞いて別の友人が口を開く。
「そんな、無理ですよ。三回も続けてだなんて……」
「できない?本当に?」
セルジュは彼女を見ない。
ばかりを笑顔で睨み付けている。
「新人は普通の三倍練習するものだ。だからあんたも三回踊りな」
「団長!」
何人かが非難めいた声をあげてくれた。
それはあまりに可哀想だと言い募るけれど、セルジュは一向に耳を貸さない。
どうにもこの団長は、を気に入っていると言いながら、今のようにひどく厳しく接してくるときがある。
そして大抵の場合はパトリシアも制止しない。
今回もそのようで、は静かに隣の女性から離れた。
「ちゃん」
引き止めるように名前を呼ばれたから、にこりと微笑んでみせる。
「大丈夫」
それから表情を引き締めて、セルジュとパトリシアに視線をやった。
「躍らせていただきます」
きっぱりと告げれば二人は頷いた。
セルジュは当然とばかりに。パトリシアは少しだけ気遣うような顔をしてくれた。
は踵を返して舞台に戻る。
観客席にいた半分が戻ってきて、一緒に配置についた。
そのときおかしな視線を送られた。
同情かとも思ったが、どうやら違うようだ。
不思議そうな、奇妙なものを見るような……、もしくは羨望と嫉妬が混じったような。
は何かと訊いてみたかったが、
「んじゃ、三回目スタートな」
そんなセルジュの合図で機会を失った。
今度もやはり舞台が広く感じる。踊りやすい。
自分は集団行動のできない人間なのではないかと、頭の隅で思って落ち込んだ。
それ以上にダンスが楽しいのが考えものだ。
何かが体の中で急きたてている。
もっともっと、もっと!
「ちゃん」
セルジュに呼ばれてハッとした。
音楽が止んでいた。
ちょうど踊りが終ったところだと、自分や周囲の体勢を見て悟った。
いつの間に……そう驚くと同時に、まだ踊っていたかったと強く思った。
「ちゃんさぁ」
頬杖をついているからセルジュの顔は歪んでいた。
彼は自分が美形であることを承知しているし、それを充分に活かしている人間なので、そんな風にしているのは珍しかった。
「もう一回踊ってくれる?」
奇妙な表情でセルジュが言う。
「今度は、あんた一人で」
は本当に驚いて目を見張った。
異論は出ない。
誰もが口を閉ざしているから、その場は沈黙した。
友人になったたくさんの女性達も、が目立つことを快く思っていないグループも、向こうの方に座っているアレン達も、全員が黙って舞台を見ていた。
を、見つめていた。
送られるのはやはり奇異の視線だ。
「……私、何かおかしいのでしょうか?」
いくらでも三回も続けて踊れば息があがる。
乱れたそれを無理に押さえつけて尋ねてみた。
「教えてください。絶対に直してみせます」
「無理よ」
そう言い切ったのはパトリシアだった。
踊りの師である彼女に断言されてはさすがにショックだ。
俯くものかと、ぐっと拳を握り締めた。
「手の施しようがないほど酷いのですか」
「あぁ。どうしようもないな」
セルジュはようやく身を起こして、にっこりと微笑んだ。
「でも酷くはないよ。とても面白い」
「おもしろ……?」
に意味がわからない。
だってパトリシアの教えどおりの振り付けを、皆と同じように踊っているだけなのだ。
自分だけが“面白い”と評されるわけがない。
「どこが悪いとか、そういう話ではないのよ」
パトリシアは豊満な胸の下で腕を組んだ。
「あなた、変わってるわ。おかしい」
今度はおかしいときた。
面白くて、おかしい。
自分は一体どんな動きをしているのだろう。
「いいから、もう一回踊ってくれ。俺はあんたの一人舞台が見たいんだ」
セルジュがからかうような調子で言ってくる。
パトリシアはそれをちょっと睨んだけれど、に目配せをしてみせた。
「……、わかりました」
とにかく何が面白くておかしいのかを教えてもらうには、四度目のダンスを踊らなければならないらしい。
客席に降りていく女性団員に控えめな声量で「大丈夫?」と尋ねられた。
心配そうな問いかけに、耳聡いセルジュが代わりに返す。
「大丈夫さ。踊り潰れたら、俺が責任を取って貰ってやるから」
「絶対に踊りきってみせます」
もいい加減、この団長が自分を挑発していることには気がついていた。
だから満面の笑みを浮かべてやる。
「どうか眠らずに見ていてくださいね」
「それはあんた次第かな」
「もちろん。おもしろおかしいダンスで、釘付けにして差し上げますよ。団長」
セルジュに向って掌を差し出せば、彼はヒュウと口笛を吹いた。
はそれ以上は何も言わずに、そのまま手を掲げる。
目を伏せて、音楽が始まるのを待った。
一人で舞台に立ってみて、ようやくは気がついた。
手足が勝手に動く。
まるで操られているみたいだ。
あまりに自分の思い通りに体が跳ね、回転し、ステップを刻むものだから、少し恐ろしく感じた。
時間が進む。音楽が進む。の鼓動が進む。
だんだんとそれらが一つに合わさり、そうなればもう恐怖は消えた。
それらと一体になるような感覚だ。
自分のものにしてしまえば何も怖くはない。
今までは皆に合わせなければいけないという考えばかりに集中していて、踊りがこんなにも自由なものだとは思わなかった。
本当に広くなった舞台がを喜ばせる。
折りたたんでいた羽根を広げるみたいに、空間すべてを使って舞う。
放たれた矢、解き放たれた蝶、溢れ出した光のように、は空気を支配して、場を作り上げてゆく。
楽しい。そう思った。
もともと音に自分を乗せることは好きだった。
そういえば、昔ラビに音痴だと笑われた記憶がある。
悔しくてその歌ばかりを歌っていたら、一ヵ月後には彼を仰天させる結果となった。
「あんなにヘタクソだったのに」、そう言って喜んでくれた笑顔を、今でもよく覚えている。
パトリシアが教えてくれたダンスは、楽しいと感じるより先に、仕事だという感覚が強かった。
さらにはまったくの新人である自分が覚えるには少々難易度が高かったのだ。
朝も昼も夜も、よくよく一人で練習してみた。
見回りの待ち合わせで、アレンが来るまでと踊っていたら、思いがけず彼に見られて転倒してしまったのは忘れたい。
さんざん転んで、失敗して、それでも負けるもんかと踏ん張ってきた。
そうした結果がこの高揚感ならば、本当に素晴らしい。
は心の底からダンスを楽しんでいた。
終わりがくるのが残念でならない。
限界を訴える体を無視したいくらいだ。
それでも今度はきちんと意識を持って、一舞台を踊り終えた。
ぴたり、と寸分もぶれずに静止してみせる。
決めの体勢で何拍か数えて、は腕を下ろして脚を戻した。
終ってみてから、やっと気づいたように呼吸が乱れ出す。
緩やかだが激しい動きに息が切れて、汗が流れ落ちた。
「はぁ……はぁ……」
さすがに少しばかり苦しい。
は胸を押さえたが、舞台から降りようとする歩みは止めない。
自分が踊った場はもはや別物のように感じていて、止まってしまった今は一刻も早く此処から去らなければと思ったのだ。
足早に階段を下ってゆく。
膝を折ってしまいたいけれど、不様だから我慢した。
すると唐突に何かが触れた。
温かい人肌だ。
誰だか確認する前に、肩と膝裏に手を回されて抱き上げられる。
頬がその人の胸に当たったところで名前を呼んだ。
「アレン」
「お疲れさま」
いつもの声で労われた。
は大丈夫と言おうと思ったけれど、それより早くアレンに運ばれていって、セルジュの隣の席に座らされた。
「はい、ちゃん」
ようやく団長ではない調子で微笑まれる。
言葉と同時にタオルを差し出されたから、会釈をして受け取った。
「うーん。さすがに四回目は無理かと思ったんだけど。踊りきったな」
感心した表情のセルジュに、アレンが「やらせておいて、よく言う」とぼやいた。
親友たちは顔を見合わせて苦笑する。
「でも、最後のが一番よかった」
「うん。やっぱりそういうことみたいだね」
「……どういうこと?」
タオルで汗を拭って、は二人を見上げる。
答えをくれたのはパトリシアだった。
「貴女は大勢の中では踊れない子なのよ」
それは役立たずと言われたのも同義だった。
パスカーレサーカス団では、どの公演でも女性は全員でダンスをしなければいけないのだ。
決まりというよりは伝統。
例外として、舞姫だったエニスだけが一人舞台で踊っていたと聞いている。
「れ、練習します!」
は告げられた内容に驚いて、慌てて客席から身を起こした。
「必ずきちんと踊れるようになりますから」
「だから無理だよ」
そのとき否定したのがアレンだったから、思わず素直な言葉を口にしてしまった。
「どうして。私は一度やると言ったらやってみせる」
「うん、君はそういう人だよね。でも今回ばかりは無理だ。別に躍れていないわけじゃないんだから」
「そうそう、あんたは上手かったよ。この俺が釘付けにされちゃうくらいにな」
アレンの方を向いていた顔をセルジュの手に引き戻される。
含みのある視線を送られた。
顎を捕まれたところで、パトリシアが言った。
「。貴女は皆と同じ振り付けを完璧に踊っているわ。けれど、私が教えたものとは違う」
「……?」
申し訳ないが理解不能である。
はやんわりとセルジュから離れてパトリシアを見ようとしたが、指先に力を入れられて止められた。
仕方なく色のある紅い瞳を見つめながら彼女の声を聞く。
「どうしようもないわね……。何をやっても、貴女が踊るとまったくの別ものになってしまうのだから」
「疑問符がいくつも浮かんでるな」
セルジュに笑われた。は半眼になる。
「仰るとおりの心境です」
「だからさ。あんたは皆の中にいると浮いてしまうんだ。おんなじ振りを、おんなじように踊っているだけなのに、どうにも違うように見える。すごく違和感がある」
彼は頬を撫でてきた。
指先が耳にかかる髪を掻きあげる。
「この金髪が舞台で予想以上に輝いたってのもあるけど。何よりあんたは体の使い方がうまい。同じものだとは思わせないほど、動きのひとつひとつで魅せてくる。快活で敏捷で、それでいて流れるようで……次はどうするのかっていう興味と、こう動くのかっていう意外性を感じさせるんだよ」
セルジュはちょっと首を傾けた。
「それは観客にずっと見ていたいと思わせる魅力だ」
どうやら賛辞されているようだ。
はお礼を言うべきかどうかと逡巡したが、その間にパトリシアが先刻の続きを口にした。
「貴女は目立つの。団体芸では最悪なまでにね」
今度は完全に批判だった。
は静かに耳を傾ける。
「このダンスは周囲と一糸乱れずに、ピタリと息を合わせなければならない。個ではなく集団としての美よ。誰かが一人でも突出すれば、そこにある美しさは価値を失うわ。……貴女自身は周りに同調しているつもりだろうし、実際にそう動いているのだけれど」
パトリシアは少し間を置いてから告げた。
「駄目ね……。どれだけ指導しても、貴女のダンスは皆と一体にはならないでしょう」
またもやずばりとした言葉だ。
が沈んだように見えたのか、セルジュが無理に顔を引き上げた。
「落ち込んじゃダメだよ。集団の中にいて注目を集められるなんて、個の芸人としては最高なんだからさ」
「ありがとうございます。……けれど、今の私にはあってはならない要素です」
は今度こそセルジュの手から逃れた。
「つまり、私は集団芸……このダンスには参加できないということですね?」
「ええ。貴女にはメンバーから外れてもらうわ」
確認を取れば躊躇いもなく頷かれた。
は一度目を閉じてそれを胸に刻んだ。
席から立ちあがり、パトリシアに頭を下げる。
「申し訳ありません。熱心に指導していただいたのに、全て無駄にしてしまいました」
「……熱心だったのは、私ではなくて貴女でしょう」
そこでパトリシアが小さく微笑んだ。
彼女が舞台の話をしているときに表情を緩めるのは稀なことだ。
まだ付き合いの浅いでも承知していることだから、かなり意外に思って目を見張る。
「貴女の習得の早さ、ダンスの完成度には驚いたわ。それに、よくたった独りで舞台に立てたものよね」
「え……?でも、そういうご指示でしたし」
「言われたからといって、すぐにできるものではないわ」
パトリシアは腕を広げてステージを示してみせた。
「ソロで舞うことに、どれほどの体力と精神力が必要だと思っているの?それもわからずに一曲を踊りきってしまうなんて。本当に新人とは思えない度胸ね」
「ちゃん。くどくど言ってるけど、パティは誉めてるんだよ」
急に手首を掴まれて椅子に戻される。
横を見やればまた頬に手が触れてきた。
「俺も誉めてあげる。……個人的に、あとでたっぷりとね」
セルジュは耳元で艶っぽく囁くと、アレンが睨み付けるのと同時に身を引いた。
指先だけはいまだにの肌を辿っている。
「でも、今は団長として言わせてもらおう。その熱心さも努力も認めるけれど、此処じゃ結果が全てだ。つまり、あんたは役立たず」
言葉の最後に妙に力を込められた。
充分自覚していたが、改めて口にされるとぐさりとくる。
しかもには挽回の方法がわからない。
パトリシアに無理だと太鼓判を押されてしまったから、得意のポジティブ思考も今回ばかりはうまく働かなかった。
「悪いが、俺はタダ飯食らいを雇っておくほど優しくはないよ」
「……、クビですか?」
そうなると、エクソシストの仕事はどうすればいいんだろう。
アレンに任せ切りというわけにはいかない。
何より、このままでは引き下がれない。
は指先を握り込んだけれど、何かを言う前に、セルジュにつんつんと額を突かれて黙らされた。
「短絡的。展開が早すぎるよ。そんなに生き急ぐのなら、今すぐ結婚してあげようか?」
「セルジュ」
アレンが苛立った声で呼んだので、彼は肩をすくめてみせた。
「パティは“このダンスのメンバーから外す”と言ったんだ。つまりあんたはフリーになっただけ。やることなしの、超暇人。そのままだとクビにせざるを得ないけど……他の演目で出るというのなら話は別だ」
「他の演目?」
「あんた、一人で踊りな」
あっさり言われて、ちょっと絶句した。
何だか予想外の方向に話が転がり出している気がする。
は今までさんざん流していたセルジュの手を掴んで止めた。
「私は入団して数週間です。そんな新人に舞台をあずけると言うんですか……?」
「だって、あんたそれしか出来ないじゃないか。ダンスの練習ばっかしてたのに、集団の中では踊れなかった。ってことは?」
「……ソロで、舞えと?」
「それが嫌なら追い出すしかなくなるなぁ。あ、名案が浮かんだ。芸人やめて俺の嫁になればいいんだー。うん、万事解決!」
わざとらしく言いながら笑うセルジュに、アレンの後ろからやってきたフリードリヒとミハエルがため息をついた。
「団長、からかうのもそのくらいに」
「わざわざ全員にコイツの踊りを見せておいてさぁ」
二人は同情したようにの肩を叩いた。
最後にアレンの手によって、後ろに引かれる。
「そうすることで、仲間たちを納得させようとしたんだろう」
それを聞いては何となく悟る。
女性団員を半分にわけて躍らせたセルジュの真意は、皆に自分のおかしな動きを見せることだったらしい。
何度も踊れと指示してきた時の、彼の表情。
「本当によく言うよ」
やはりわざとだったのだと、アレンを見上げながら思う。
セルジュは友人たちの非難を受けて満面の笑みを浮かべた。
「エニスがいなくなってから、舞台が寂しくて仕方がなかったんだ」
そう、舞姫とは踊りの技術だけを持つ芸人ではない。
圧倒的な存在感で美しさや華やかさを表現し、サーカスを盛り上げる花形なのだ。
エニスがいなくなった今、舞台が物足りないと感じるのは当然だった。
「だから、あいつの半分でもいい、ソロで舞える芸人が欲しかった。随分前からパティに探すよう頼んでたんだが……お前が連れて来てくれるとは思わなかったよ、アレン」
「そんなつもりじゃなかったんだけどね。確かにに団体芸は無理だ。この人は本当に悪目立ちをするから」
「悪目立ちって何」
思わずは突っ込んだが、アレンもセルジュも聞いてくれなかった。
「あぁ、今のままじゃ悪い方に目立ってる。集団に溶け込めないダメな踊り手。それを俺達が良いものに変えてやるのさ」
言いながらセルジュは立ち上がった。
ぐるりと観客席を見渡す。
が振り返ってみると、いつの間にかほとんど……いや全ての団員が集まってきていた。
舞台に出る者、それを裏で支える者、雑用係のルシオたちまで姿を見せている。
そうそうたる顔ぶれに、これがどれほど異様なことなのか、は改めて思い知らされた。
「とりあえず皆の意見を聞こう」
セルジュは再びの手を掴んで引き、今度は無理やり立ち上がらせた。
「この子の踊りは別に絶賛できるレベルじゃない。舞台の経験だって一度もないようなド素人だ。けれどハッと目を惹くものがあっただろう?派手な見た目も敏捷な動きも、俺達の意識を掴んで離さなかった」
ぐいっと肩を抱かれた。
直前に胸を張れとばかりに背中を叩かれていたので、の姿勢はかなり良いものになる。
「さぁて、お前たちはこれなる素材をどう見るかな?」
「演出で全てが決まるわね」
一番に意見したのはパトリシアだ。
「存在感ばかりが強い……彼女のような扱い難い芸人は、どんな舞台に立たせるかで、極端なまでに良し悪しが変わるわ」
「ステージ上で、活きるか、死ぬか。どちらかしかないということか」
フリードリヒがを頭のてっぺんからつま先まで眺め回す。
額を押さえて嘆息した。
「確かに、最初のダンスはひどいものだった。一人で躍らせた方がいいのは事実だろうな」
「うんうん。でも、俺は反対」
ミハエルは不機嫌そうに言って、ポケットに手を突っ込んだまま上着をバタバタさせた。
「エニスの代わりなんて、誰だって無理だろ。ここの舞姫はあいつだけだ!」
「別に代役を立てるわけじゃないさ。エニスはエニス。ちゃんはちゃん」
セルジュには特に気にした様子がないものだから、ミハエルが盛大にむくれる。
と目が合えば気まずそうに俯いた。
「……ごめん。エニスの方が好きだなんて、俺の個人的な意見だよな。そんなものよりサーカス団としての向上を優先させなきゃいけないのに」
例の団長ルールだ。
ミハエルは今度はきちんと顔をあげて言った。
「に踊ってもらうのは、うん……悪くない。エニスのいない今、新しく華やかな芸をしきゃいけないって、俺も思ってた。でもやっぱりソイツには厳しいだろ」
「それは私も同意ね」
「俺もだ」
パトリシアとフリードリヒが揃って頷く。
言葉を発しているのは古くからの団員ばかりだったが、他の皆にも同じような懸念を抱いているようだった。
「新人の彼女に、いきなり一人で舞えというのは酷すぎる」
「団員の前で踊れたからといって、観客相手でも出来るとは限らない。素人の娘を放り出せるほど本番の舞台は甘くはないわ」
「それに、やっぱり今のままじゃソロなんて無理だろ。どうしてもエニスと比べてしまう。……言っちゃ悪いけど、あの程度のダンスなら、俺はすごいと思わないぜ」
「でしたら」
当人すぎて成り行きを見守るしかなかったは、そこでようやく口を開いた。
一斉に注目が集まる。
隣に立ったセルジュは面白がるようにニヤニヤと笑っている。
「こういうのはどうでしょう……?私も自分ひとりで踊るには不足だと思います。……ならば別の方法を」
「別の方法?」
は我ながらもの凄いことを言っているなと、唇を動かしながら思った。
それでも集団の中で踊れない以上、此処に残るにはソロで舞う他ない。
セルジュの様子からいって、本当にそれしかない。
何より自分に出来ることは全てやらずにはいられないのがだった。
役立たずなままなど絶対にごめんだ。
の考えを聞いて、場は騒然となった。
誰もが隣の者と肘を突き合い、ひそひそと囁きを交わしている。
馬鹿にされているのも感じたし、呆れられている様子でもあった。
露骨に嘲笑う声が聞こえてきたところでパトリシアが問う。
「貴女……、本気?」
「何てことを言い出すのだ、お前は」
「そんなの無理に決まってんだろ」
フリードリヒとミハエルも怪訝な声を出す。
サーカス歴の長い彼らの言葉を受けて、さすがのもちょっと返事に詰まったが、すぐに胸に手を当てる。
「私は演出次第でどうとでもなると言っていただきました。だからこその案です。これなら足りない部分を補える」
「そうだな。客の視線を釘付けにし、なおかつ“凄い”と思わせなければ芸じゃない」
セルジュだけが非難する気配を見せずに笑顔のままだ。
「あんたがそれをやり遂げてみせたら、本当に“凄い”よ」
ただし彼は相変わらず団長として厳しいままでもあった。
肩を抱かれてぐっと顔を近付けられる。
吐息が触れるような距離だ。
「でもさぁ、あんたに出来る?失敗の許されない場所で、たった一人で。頼るものは自分だけ……そんな極限状態に耐えて、今言ったような“凄い”こと、本当に出来るのかい?」
怖い笑顔だな、とは思った。
彼は恐ろしい。
とても厳格な、集団のトップ。
「僕が一緒に出るよ」
唐突にアレンが言った。
今の今まで否定も肯定も口にしていなかったものだから、全員が驚いて弾かれたように振り返る。
その視線を彼は平然と受け止めた。
「“新人”だから、“一人”は不安。だったら舞台経験のある者が付いていてやればいい」
アレンはずかずか近づいてくると、セルジュの腕からを奪い取った。
「彼女のフォローは僕がします。それならいいですか、幹部の皆さん」
あえて敬語でそんなことを言い出したものだから本当にぎょっとした。
と同じ気持ちらしいミハエルが口を開く。
「アレン、何言ってんの?」
「僕は舞い手じゃないから、同じ舞台に立っていても問題はないだろう」
「いやいや、問題あるだろ。ダンスを踊ってる奴の横に道化がいるなんておかしいぜ」
それは畑違いもいいところだ。
美しい容貌と華やかな動きで魅せる踊り子と、軽業を披露して滑稽さを演じてみせる道化。
間違っても一緒の枠に入れることはできない。
アレンもそれは重々承知しているはずなのに、あっさりと言うばかりだ。
「どうせはまともな舞台には立てないんだ。本人が出した案だって前代未聞。ここまできたら、とことん奇抜にいこうよ」
そこでちらりと視線を送られたから、はアレンにだけ聞こえるように囁いた。
「どうしたの?あんたがそんなこと言い出すなんて」
いつもいつも、いつだって、の破天荒な言動を非難していたアレンらしくない。
本当におかしなことに、彼はこう囁き返してきた。
「君と一緒なら、久しぶりの舞台がもっと楽しくなりそうだと思って」
それから皆に聞こえるように続ける。
「に合わせられるのは、このサーカスで僕だけです。どうか任せてはくれませんか」
アレンはセルジュを真っ直ぐに見つめる。
真剣な眼差しを受けて、団長は指を顎に当てた。
「舞い手と道化の舞台……か。いいね。面白そう」
「まさか、のる気なの?」
「マジかよセルジュ!」
「正気とは思えないぞ……」
仲間たちは口々に制止したけれど、セルジュはアレンだけに視線を据えていた。
「一歩間違えれば最悪な舞台になる。お前たちはひどい恥をかくだろうさ。それでも、やるか?」
「もちろん。は必ず成功させる」
「へぇ。すごい信頼」
「僕が一緒だからね」
「訂正。すごい自信」
「彼女の足りない技術も、とんでもない演出も、僕が全て補助します。……どうか許可を。団長」
アレンはセルジュと同じように、笑顔で彼を見つめ返した。
強い視線がぶつかって音が出るようだ。
現実では反対に沈黙が降り、誰もが団長の言葉を待っていた。
セルジュは一歩を踏み出して、アレンに奪い取られたの眼を覗き込んだ。
「あんたもアレンと同じ意見?」
応えはいいえ、だ。
アレンが言ってくれるほど、には自信がない。
舞台になど一度も立ったことはないし、何よりまだまだ自分に追加しなければいけない要素が多すぎる。
セルジュは意地悪く微笑んだ。
「無茶を言う男など、女の武器で振っちゃいな。泣いて断ったっていいんだよ?」
相変わらず挑発してくれる。
いつだって厳しく接して、気持ちを焚きつけてくる団長だ。
それが彼のやり方。彼のサーカス団。
はそんなセルジュに応えようと口を開いた。
「女の武器は涙ではなく笑顔です」
言葉通りに、最高の微笑を見せてやる。
「そして、度胸よ。……やらせていただきます」
「決まりだ!」
間髪入れずにセルジュは断言した。
同時に軽くの頬にキスをして、襲ってきたアレンの拳を避ける。
「さぁ、みんな協力してくれ!てんでダメな舞い手と、帰ってきたピエロの初舞台だ!我が一団をあげて盛り上げるぞ!!」
おー!と同調したのはだけで、団員達は揃ってため息をついたのだった。
「こんなにも幸先が不安な公演は初めてだわ……」
鬱々とした調子でパトリシアが呟いた。
連続して手を叩き、拍子を取る。それに合わせてが舞う。
練習場の台の上には彼女ひとりだ。
パトリシアの隣に立ったアレンは軽く目を見張った。
「弱音を吐くなんて珍しいね。どんな舞台でも成功に導く、サーカス団の“姉さん”が」
「貴方が言わないでちょうだい、この裏切り者」
横目で睨まれた。若草色の瞳はいつもの何倍も鋭い。
条件反射で身をすくめる。
此処の団員と同じく、アレンも昔からパトリシアには弱いのだ。
「何それ……。どうして僕が怒られるの?」
「セルジュの暴挙を止めるのが親友の役目でしょう。悪ノリさせてどうするのよ」
「悪ノリって……。そもそも僕の言葉だって、あの団長は聞かないだろう」
「それもそうねぇ……。、指先が甘いわ。最後まで気を抜かないで」
後半は指示に変わったため、声の調子まで鋭くなる。
返事をしたの踊りを最初から見ていたアレンは今や確信していた。
「……パティ、これって」
「そうよ。小さい頃にエニスが踊っていたもの。貴方たちが言い出した有り得ない舞台には、この程度がちょうどいいわ」
つまりそれほどレベルの高くない踊りだ。
いくら舞姫とはいえ、エニスの子供時代の振りを、今のが舞うというのは変な感じがする。
その証拠に金髪の少女は初めてにも関わらず、あまりにも楽々と踊りを進めていた。
はしなやかな動作で身をそらし、そのまま空中後転をする。
パトリシアが言葉を続けた。
「それにアレンジを加えたの。はアクロバットが得意だから、どんどん取り入れていこうと思って」
「うん。動きは少しでも派手に見えるほうがいい」
大きな振りで、高いジャンプで、舞台を盛り上げなければならない。
それはソロで舞うには足りない技術を補うための策のひとつだ。
「……けれど、これじゃあアレンには残念ね」
パトリシアが小さく囁いたから、アレンは首を回して隣を見た。
彼女は瞳を細めて続ける。
「懐かしいエニスの踊り、そのままで見たかったでしょう?」
「……………………」
アレンは何か言い返そうとして、たぶん否定しようとして、結局やめた。
確かに愛執のような胸に染みる想いがあったからだ。
黙ったままでいるとパトリシアに笑われた。
「には元の振りも教えておいたから、お願いして踊ってもらいなさいな」
「……、いらないよ」
「あら、どうして?あちらの妹馬鹿や恋する少年は、土下座してでも頼み込みそうな雰囲気なのに」
アレンはその言葉半分で背後を振り返っていた。
テントの出入り口だ。
そこにはパトリシアの言う妹馬鹿と恋する少年が押し合いへし合いしている姿がある。
一応は邪魔しないように静かにしているが、異様な様子で舞台の上のを眺めていた。
「可愛いなぁ、俺の嫁。妹と同じダンスを踊っていると、また格別に想いが溢れてくる……。これはもう異性愛じゃなくて家族愛だな!」
「うぅ……っ。あんなの踊るなよー!エニスに会いたくなるだろー!でも見られてうれしいありがとー!!」
うっとりと頬を染めて呟くセルジュと、泣いているのか笑っているのか微妙なミハエル。
うん、ちょっと引く。友達だけどあれは引く。
アレンが半眼になっていると、二人の背後からぬっと手が伸びてきてその襟首を掴みあげた。
「見つけたぞ、お前たち」
冷ややかに言うのはフリードリヒだった。
彼は静かな怒りのオーラを纏って、仁王立ちになる。
「こんなところでサボっているな。ミハ、お前は練習の時間だろうさっさと行け。セルジュは団長室に溜まっている仕事を片付けろ、今すぐだ」
「ええー?俺もうちょっと見ていたい」
「フリッツ、これだって仕事だ。嫁の頑張る姿を見守るのは夫の役目だろう?」
「つべこべ言うな。そんなに暇があるなら、にゃんこの遊び相手にでもなるか」
「「持ち場に戻らせていただきます!!」」
滅多に見られないフリードリヒの満面の笑みに、セルジュとミハエルは声を揃えて返事をした。
ついでの敬礼も息がピッタリだ。
慌てて駆けてゆく……もとい逃げてゆく二人を見送ったフリードリヒが、天幕の中を覗きこんで無音で言う。
「頑張れよ」
アレンは苦笑して頷いた。
余計なギャラリーを追い払ったフリードリヒも、わずかな笑みだけを残して去っていった。
パトリシアの一際大きな手拍子を合図にアレンは舞台へと向き直る。
「お疲れさま」
踊りを終えたが姿勢を崩して息をついた。
身軽に壇上から飛び降りてきて、パトリシアの前に立つ。
「細かいところは後で修正をかけるから、とりあえず今のが踊れていればいいわ。……普通の舞台では完璧ね」
「ありがとうございます」
「問題は、あそこで舞えるかどうか……だけど」
パトリシアはふいに口をつぐんだ。
手を伸ばしての頬を撫でる。
いつもの白い顔……、いや少し色が悪いかもしれない。
「……疲れたでしょう。今日は無理をさせたわ。休憩にしましょうね」
気遣いの言葉には笑顔になって、それでも遠慮に手を振ろうとした。
パトリシアは彼女を制して踵を返す。
「飲み物を取ってきてあげる。座って待っていなさい」
は眉を下げて天幕から出て行く背にお礼の声をかけた。
それから肩の力を抜いたから、アレンは一休みするのかなと思う。
けれど彼女は二人きりになった途端にティムキャンピーを呼び寄せた。
「なに?」
アレンが首を傾げる目の前で、はゴーレムの映し出す映像を凝視している。
まじまじと観察しているのは自分が舞台の上で踊る姿だった。
「あれだけ変だ変だと言われたから、見てみたくなって」
あぁなるほど、と思って頷く。
一緒になって見ていると、は立ち上がって脚をあげた。
どうやら映像と角度を比較しているらしい。
指先で空を撫でるように腕を掲げ、そのまま一回転。
音楽もなくまた踊り出した。
「パティは休んでいろと言っただろう」
そうでなくても今日はずっと踊り詰めているのだ。
パトリシアの進言どおり、本当に休息を取った方がいい。
けれどは一向に聞かずに舞い続ける。
途中でアレンに視線を投げて、微笑んでみせた。
「どう?やっぱり違う?」
「……………………」
「エニスさんの踊りと」
振りは完全に一緒。同じものをわざわざ見せてくれているのだ。
どうやらはパトリシアと自分の会話を聞いていたらしい。
そしてアレンが「踊ってくれ」と頼んでもいないのに、そう望んでいると決めつけているようである。
それを悟ってアレンは何だか気分を悪くした。
「全然違う。君とエニスじゃ、似ても似つかないよ」
我ながらきつい口調だった。
アレンはしまったと思ったけれど、は気にした様子もなく、振りを自分用にアレンジされたものに変えた。
それも何となく宥められているようで、無理に口を開く。
「……。君の踊りが変なのは、本業のせいだよ」
「エクソシストだからってこと?」
は本当に踊りをマスターしてしまったみたいで、手足を動かしながら問い返してくる。
よくもまぁあんなに回れるものだ。
サーカスの一員としては当然の技量かもしれないが、アレン個人の基準で言えばエニスもも凄すぎる。
「そう。君の動きはやけに人目を惹くと言われただろう。それはつまり、見る者の意識を掴んで翻弄しているからだ」
そう言いつつ、アレンも目を振り回されていた。
視線が逸らせない。
金髪が翻って綺麗な弧を描く。
「敵を前にしたときと同じ。相手を完全に惹きつけるために、体の動き全てを使って注意を奪う。君の動作には徹底してそんな癖があるんだよ」
「そう、なの?踊っているときは特に意識してないんだけどなぁ」
「だからもう癖なんだろう。……わざとだったらこんな」
タチが悪い。
本当にばかりを見つめながらアレンは思う。
「……君とエニスは、全然違うよ」
我知らずに呟くと、彼女はぴたりと踊りを止めた。
それがあまりにも急だったからアレンは変に感じる。
何だか寂しい。続きが見たい。
もう休んで欲しいけれど、心のどこかでそう願っている。
「そう……。ごめんなさい。思い出は、そっと胸にしまっておくべきものよね」
ざわり、とした。
背筋を氷の手で撫でられたみたいだ。
説明できない違和感。
が過去に繋がるようなことを口にしたから?それとも彼女をエニスと比較してしまったから?
どちらにしろ自分が言い出したことだ。
アレンはを見つめた。
振り返ってきた彼女はいつもの口調で訊いてくる。
いつもの、ように。
「ねぇ、アレンは最近視線を感じない?」
まったく関係のない話に変えられて、アレンは安心したような文句をつけたいような、奇妙な気分になった。
じとりとを見やる。
「君はそうなの?」
「うーん」
「というか、それってセルジュだろう」
あの団長は、朝から晩まで隙あらばを追い掛け回している。
止められるのはアレンとフリードリヒ、パトリシアの三人だけだから、なかなかうまくいっていなかった。
「迷惑ならハッキリ言ったほうがいい」
というか、むしろそうして欲しい。いちいち引きずり戻す手間が省ける。
アレンはそう続けようとして、の返答に硬直した。
「その必要はないよ。私も彼が気になっているもの」
しばらく言葉の意味がわからなかった。
アレンは呆然と顔をあげる。
は指先でティムキャンピーと戯れていた。
「傍にいると興味を惹かれる。何だか不思議な人よね。たまに感じるこの気持ちは……」
アレンが本当に絶句していると、が苦笑した。
「あなたの親友だから、仲良くしたいのよ」
他意のない様子で告げられたからガクリと肩を落とす。
何だ、それだけか……。
それだけ、
本当に?
アレンはじっとを見つめた。
ティムキャンピーの小さな手を取ってくるくる回る、金髪の少女。
明るい表情も綺麗な笑い声も、よく知っているものだ。
はセルジュを不思議な人と評したけれど、アレンからしてみれば彼女のほうがよっぽどだった。
変人で破天荒で、突拍子のないことばかり。
そうかと思えばいつだって誰にも頼らないし、迷惑をかけることを極端に嫌がる。
決して弱音を吐かない強い人間。
ひたむきな姿が保護欲を掻き立てる女の子。
弱くはないと知っているのに、無性に傍に居てあげなくてはと思ってしまう。
(セルジュは……、冗談だろう……?)
こんな人を好きだなんて。
否定しきれない自分がもどかしい。
だって感情の種類はどうあれ、共にありたいと思っているのはアレンだって同じなのだから。
(も、セルジュが気になっている……?)
親友の贔屓目を差し引いても、此処の団長はイイ男だった。
神田にもラビにも恋愛感情を抱かずにいたでも、百戦錬磨の女たらしには堕ちてしまうのだろうか。
(そんな馬鹿な)
先刻から感じていた気分の悪さはいよいよ本格的になって、胃の腑の縮むような不快感に襲われた。
「セルジュも罪な男だと思うけど」
アレンは妙な苛立ちを押さえ切れなくて、を睨みつけて言った。
「君も悪女なんじゃないの」
ダンスひとつ取ってもそうだ。
意識もせずに観る者すべてを惹きつけてしまうだなんて。
はむくれて反論したけれど、アレンは返事をしなかった。
何だか本当に気分が悪くて、それどころではなかったのだ。
心臓が口から飛び出しそうだ。
は控え室の椅子に座ったまま、どきどきしている胸を押さえる。
目の前の鏡には強張った顔の自分が映っていた。
ついに本番がやってきた。
公演日は瞬く間に迫り、短いすぎる期間で完成させたアレンとの舞台もお披露目のときだ。
今日まで来るのにサーカス団は揺れに揺れていた。
腹を括ったパトリシアは愚痴をこぼさなかったが、ミハエルはハッキリと「やっぱり無理だって」と言って中止を要求したのだ。
フリードリヒを含む団員達も彼に同意している。
もう少し露骨に、ある意味で遠まわしに、それを主張されてもいた。
靴の中に画びょう、練習着に針……というような、教団でもされたことのないようなベタな苛めにだって合ったものだ。
他にもお決まりのパターンで集団に囲まれたり。
文句やら非難やら水やら泥やら、ちょっと口に出したくないようなものまで頭から浴びせられたけれど、結局誰にも言っていない。
は特殊な境遇で育ってきた人間なので、それなりの仕打ちには耐えられたのだ。
アレンの方は何事もないようだったから、ますます口外にする必要がなかった。
入団したばかりの新人に一舞台が与えられたのだ。気に入らない者が多くて当然だろう。
自分の未熟さが原因ならば批判は甘んじて受け入れるべきである。
のそんな考えを察したのか、セルジュだけが明るく「やり遂げてみな」と言ってくれた。
もちろん舞台を強行した彼にも不満が集まっているから、今日は何としてでも成功させなければならない。
は鏡の中の己を睨みつける。
十代半ばの少女。
派手な金髪と金眼。
記憶の中の人を思わせる顔立ち。
大嫌いな自分自身だった。
可愛いとか、美人だとか、いくら言われても心が動かないのはそのせいだ。
賛辞はを通り越して、あの人へと行き着く。
所詮、自分はその血を受け継いだ結果でしかないのだから。
(けれど、舞台の上では役に立つ)
初めてこの目立つ容姿に感謝した。
は手を伸ばして鏡を撫でた。
固い鏡面に浮かぶ、自分の頬の輪郭をなぞって、そこでびくりとする。
映る像の奥の方、出入り口の布を押し上げて、紫の髪の少年が入ってきたからだ。
「ミハエル」
名前を呼びつつ振り返る。
返事はない。何だかぼんやりと見つめられる。
此処はパトリシアが用意してくれた専用の控え室なので、ミハエルがやってきたのはかなり意外だった。
一体何の用だろう?
彼の出番はよりもずっと早いから、そろそろ舞台袖に行っていないといけない時間なのに。
「俺さ」
何の前触れもなくミハエルは喋り出した。
「俺、お前のこと苦手だったんだ」
言われた内容もあまりに唐突だ。
が目を瞬かせているうちに、彼の言葉は続く。
「何か、気持ち悪かったんだよ。お前の顔も、髪も、目も、綺麗すぎて。出来のいい作り物みたいに見えた。だから、さんざん避けてまわってた」
ミハエルは動かない。
出入り口の横に立ったままだ。
色鮮やかな衣装に身を包んだ彼は、無表情にを眺めている。
「自分でもよくわかんないけど……。人形と喋ってるみたいで、ちょっと怖かったんだ」
「……そう」
は頷く。
怒りは沸いてこなかった。あまり傷ついてもいない。
ミハエルの言葉は、初めて言われる類のものではなかったのだ。
「でもさぁ、一緒にいるとすぐにわかったよ」
そこで少しだけ表情が緩む。
「いや、向かい合えば簡単だった。お前は全然人形なんかじゃない。人間だよ。笑って冗談言って、そのくせ誰かのために、自分のために、陰で馬鹿みたいに努力してる人間だ」
「……………………」
「必死こいて、生きてる人間だ。……俺は、この舞台、ムリだって思ってた。いや、今でも思ってる。でもお前が頑張ってたのは本当だ。誰にどう言われても、挫けなかった。何をされても、負けなかった。………だからさ、謝りにきたんだ」
ミハエルは今度こそ微笑んだ。
「今まで、嫌な態度でごめん。いっぱい否定してごめん。苛められてるの助けてやれなくてごめん」
碧く澄んだ目が、薄暗い控え室で光る。
「俺、のことすごいと思ってる。頑張り屋なとこ好きだよ」
それから少し窺うようにを見た。
例の小動物みたいな表情だ。
双眸がくりくりと動く。
「この公演が終ったらさ、アレンの友達としてじゃなくて……、俺の友達として仲良くしてほしい。……ダメ、かな?」
頼み込むその姿は懸命で、はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。
人間というのはどうしてこうなのだろう。
もう充分だと思っているのに、得られるたびに嬉しくなる。
自分を想い、相手を想う気持ちは、本当に素晴らしい。強張った心がほぐれるようだ。
は無言で立ち上がった。
ミハエルは居心地悪そうにもじもじしている。
そんな彼の前に立って、片手を差し伸べた。
「私からもお願いよ」
見つめれば、見つめ返してくれた。
これだってすごいことだ。
最初のころは本当に、目も合わせてくれなかったのに。
「アレンの……じゃなくて、私の友達になってくれる?ミハ」
愛称で呼べば、ミハエルは大げさなほどに表情を明るくした。
勢い込んでの手を取って、ぶんぶんと振る。
「うん……、うん!俺はの友達!」
「私はミハの友達ね」
「ともだち、ともだち!!」
ミハエルは本当に嬉しそうに笑って、そのままに抱きつかんばかりの様子だった。
それを止めるかのように再び天幕の布があがって、今度はアレンが入ってくる。
「話は終った?」
妙に不機嫌そうな顔だ。
ミハエルは構わずにアレンに報告した。
「俺ら友達になる約束したぜ!ありがとなアレン!お前が大丈夫だって言ってくれたの本当だった!!」
それを聞いては何となく察する。
ミハエルがこうして来てくれたのは、アレンの後押しがあったかららしい。
けれどそれにしては不満気に彼は言った。
「わかったから、ミハ。早くその手を離して行きなよ。もう開演の時間だ」
促されたミハエルは笑顔のまま向き直った。
ポケットから取り出してきた小さな袋を、握っていたの掌に押し付ける。
「これは?」
「フリッツからだよ」
首を傾げたに弾んだ声で説明する。
「アイツも、お前の努力を認めてる。応援してるんだ」
「本当?」
「うん、それはその証。中ににゃんこの毛が入ってる」
そこでちょっとどうしようかと思ってしまった。
ライオンの毛というのもよくわからないチョイスなのだが、あのフリードリヒが愛しの猛獣の一部分でもくれるというのはかなり意外だったのだ。
「にゃんこはすごく本番に強いライオンなんだ。それにあやかれって」
「そ、そっか……。あとでお礼を言わなくちゃね。ミハもありがとう」
「いいって!俺ら友達になるんだもん!遠慮はなしなし!!」
ミハエルは豪快に笑っての肩をばんばん叩いた。
露出した衣装を着ているものだから、あとで肌が赤くならないか心配になるほどの勢いだ。
「ミハ」
もう一度アレンに促されて、ミハエルはに笑顔を見せると、天幕から駆け出していった。
「期待してるぜ、二人とも!!」
最後に激励の言葉を残して去ってゆく背を、は微笑んで見送った。
手の中の物を見る。
フリードリヒからの贈り物を大切に胸元にしまいこんだところで、アレンが訊いた。
「緊張してる?」
「今ので和んだ」
は虚勢ではなく心から笑ってみせる。
「あなたの友達はみんな素敵ね」
厳しくも楽しい人柄のセルジュに、ちょっとボケた兄貴分のフリードリヒ、小動物みたいに可愛いミハエルと、頼れる“姉さん”なパトリシア。
は誰もに好意を抱き、人間として尊敬していた。
「ちょっと変だけどね」
アレンは照れたように返して、の真正面に立った。
その姿を上から下まで確認する。
も釣られるように自分の体を見下ろした。
与えられた衣装は純白だった。
薄い布とレースで作られたドレス。
体にフィットする素材でとても動きやすい。
動作の邪魔にならないように最大限まで飾りを減らしているから、かなりシンプルなデザインに仕上がっていた。
本人がかなり派手なので、これくらいで調度いいというのが衣装係の言だ。
「全然、……」
アレンは言葉半ばで口をつぐんだ。
それでもは続きを知っている。
“全然、エニスとは雰囲気の違う衣装だね”、たぶんそう言いたかったのだろう。
確かにが目にした写真の中のエニスは、たくさんのフリルと花で彩られた可憐なドレスを身に纏っていた。
「私は舞姫じゃないもの」
アレンが気にしない程度に明るく返しておく。
どうにも彼は、ここのところエニスと比較してくる。
無意識かなのかはわからないが、それを悟られたくないし、そうする自分を嫌がっているようでもあった。
だからは話を終らせてあげたかったのだけれど、
「舞姫だよ」
アレンが言う。
はっきりとした口調で、けれど音量は囁く程度だ。
「今日の君は、僕の舞姫だ」
はアレンを見上げた。
彼はじっとこちらを見ていた。見つめていた。射抜くように強く。
この眼差しも声の調子も覚えがある。
それは初めてこのサーカス団に来た日の夜のことだ。
「……………………」
アレンは何を思ったのか、不意に手を伸ばしての髪に触れた。
そこに飾られているのは白い薔薇と同色のリボンだ。
結び目が緩んでいたのか、強く結びなおされる。
アレンは滑らかなその生地を少し撫でた。
感慨深げな彼を不思議に思いながらも、お礼を口にする。
は微笑んだ。
「私、あなたのお友達が好きよ。誇りを持って生きている、此処の人たちを尊敬してる。……本当は任務のためだけに潜入したのだけど」
本当はこんなにも真剣になってはいけなかったのかもしれない。
エクソシストとしての仕事だけに、力を傾けなければいけないのかもしれない。
それでも、一人の人間として、彼らを裏切ることはできなかった。
「パスカーレサーカス団の一員として……、今日の舞台、絶対に成功させてみせる」
「僕はそんな君に応えるよ」
アレンはリボンから指先を離して、の手を取った。
ぎゅっと強く握る。
「広い舞台の上で、君を一人にはしない。怖さも淋しさも全て笑顔に変えてあげる」
「……それが、道化の役目?」
「君の、道化の役目だよ」
アレンはそう言いながらもくすりともしなかった。
ただを見つめている。
既視感。記憶が繋がるのは、やはりあの夜だった。
アレンはに視線を合わせたまま、握った手を持ち上げた。
絡まった指先が確かな熱を宿している。
銀灰色の瞳の少年は、黄金色の瞳の少女にキスをした。
手の甲に軽く、口づけを落とした。
「……時間だ。行こう」
何も言えなかった。彼が言わせてくれなかった。
が口を開く前に……、否、少しの反応も返す前に、捕らえていた手を繋いで歩き出す。
もしあのまま見つめ合っていたらどうなっていたのだろう。
はアレンの掌を握り返した。
同じだけの力を感じた。
キスの意味は訊かない。
きっとずっと訊けない。
触れた温度を言葉に変える前に、自分達は舞台の上の人間とならなければいけないのだから。
もうすぐ、開幕のベルが鳴る。
ヒロインが悪目立ちした結果がコレだよ!はっきり言って此処の団長は頭がおかしいです。(笑)
面白いこと大好き!新しいことやりたい!な彼に付き合う団員たちは苦労しぱなっしです。
と、言いつつもセルジュの決断には親友の存在がかなり大きく影響しています。
ヒロインよりも、アレンがいたから動いた感じですかね……。
次回はついにサーカスが開幕です。舞台描写がんばります。
アレン&ヒロインの初公演をお楽しみくだされば光栄です〜。
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