柔らかな土の上でまどろむ花を、私は手折ってしまいたかった。


けれど君は生き急ぐ女王。
アリスでさえ簡単には追いつけやしないのだ。






● 泣かないピエタ 3 ●






「待ってっつてんだろ、このバカ女ーーーーーーーー!!!」
「待てるか、この刃物振り機がーーーーーーーーー!!!」


「…………………」


リンクは騒々しいやり取りを横に聞きながら、本のページをぺらりと捲った。
読書には向かない環境だ。
うるさいことこの上ない。
けれどもうどうでもいい。すっかり慣れてしまった自分がいる。
それは“彼女”の監視についてからというものの、一時だって落ち着いていられたことなどなかったからだ。


「テメェ、今日こそは許さねぇぞ……!」


さんざん部屋を破壊して追いかけっこを楽しんだ神田は、ついにを追い詰めたようだった。
そろそろかと思ってリンクは本を閉じる。
ソファーから立ち上がって、二人を振り返った。


「いや、ちょっと。はしゃぐのもそれくらいにしようよ」


冷や汗をかきながら言うは、床にずっこけた状態だ。
『一幻』を放たれたのか壁に大量の穴が開いていた。
ボロボロ落ちてくる破片を払いながら彼女は神田を見上げる。


「まったく神田ったら人一倍照れちゃって」
「だ・れ・が!照れてんだよ!!」
「大丈夫、可愛いよ。もっと自分に自信持ってユウちゃん!」


そう力説するはうっとりと微笑んでいる。
リンクも何度か見たことのある表情。
女性を口説くとき(これも意味のわからない行動と認識しているが)とまったく同じ顔だ。
対する神田は怒りにぶるぶる震えていた。
リンクはの恍惚の表情と、神田の激怒した後姿を眺めて、騒動の原因を正確に悟った。


(リボン……)


思わずこちらまでちょっと笑いそうになる。
慌てて唇を押さえてもう一度見直すと、やはり神田の頭頂部、ひとつに結われた髪にはそれが飾られていた。


(真っ赤なリボン……)


何とも可愛らしく結ばれたポニーテール。
それを大きく揺らして神田は怒鳴った


「テメェ、自分のしたことがわかってるんだろうな……!」
「めんどくさいから髪を括れ、って言ってきたのは神田でしょー?」
「だからって何でこうなるんだよ!!」
「うん、私すごくがんばった。最高傑作だよ。もうどこにだって嫁がせることができるだろう素晴らしい出来だよ!」
「俺は男だ!!」
「仕方ないなぁ、じゃあ私が嫁にもらってあげようユウちゃん」
「ふざけんなよ、どんだけ愉快なんだよテメェの思考回路は!!」
「何だとありがとう!」
「誉めてねぇよ!!」


そう叫ぶなり神田は『六幻』を振り下ろした。
は悲鳴をあげて回避。
けれど壁際に追い込まれていてそれ以上は逃げられない。


「覚悟しろ、バカ女!!」


神田の怒声が響き渡る。
その瞬間、リンクは二人の間に先刻まで読んでいた本を割り込ませた。


「そこまでです」
「リンク!」


助かったとばかりに脚にじゃれついてくるを足蹴にしながら、リンクは神田を見た。
振り上げられていた刀が今やこちらに向けられているからだ。
どうやら彼は邪魔をされたのが大変気に喰わないらしい。
だからといって中央庁に所属する自分に刃を突きつけてくる者など、この少年以外いないだろうが。


「イノセンスを納めてください。神田ユウ」
「……テメェには関係ねぇだろ。引っ込んでろ」
「決着はついたでしょう。それともまだ彼女と遊んでいたいのですか」
「ハッ、これが遊びに見えるのか」


お前の目はとんだ節穴だな、と神田は鼻で笑った。
ついでに刃を翻して再びへと突きつける。
それでも彼女は今度は悲鳴をあげなかった。


「神田。リンクには斬りかからないでよ」


代わりにそう言った。
ついさっきまで怯えまくっていたくせに、やけに冷静な態度である。
それもそのはず、彼らは本気で殺しあっていたのではなくて、冗談をやっていただけなのだ。
リンクだってきちんと承知していることだ。
周囲がわかっていないと思っているのは、神田だけなのではないだろうか。


「いい加減、度が過ぎますよ。これ以上物を破壊してまわらないでください。経費が勿体ない」
「………………………」
「それに毎日毎日、似たようなことで言い争って……よく飽きないものです」


ため息をつきながらリンクが言えば、神田は黙して応えた。
元より彼が自分と会話をする気がないのは知っているので、へと続ける。
相手が相手だけに説教口調になるのを止められない。


「キミも少しは成長なさい。己の非を認めて学ぶのです。そして改善を図る。いいですね?」
「うぅ……」
「はい、と言いなさい。さもないと今日の消灯時間を20時まで早めますよ」
「だ、だめ!今夜はラビと世界のミスコン全集を眺めつつ、朝まで美女の素晴らしさを語り合う約束をしてるんだから!!」


何だそれは……とリンクは思ったが、構うのも面倒だったので無視して続ける。


「どっちにしろ夜更かしは許しません。そして私が欲しい言葉はそれではない」
「………………」
「わかっているでしょう?アンノウン」
「……、はい」


うなだれるようには首肯した。
リンクの言葉を全面的に受け入れた合図だ。
これで神田とのお遊びは完璧に終わり、就寝は今日もきっかり23時と相成った。


「よろしい」


リンクは大きく頷くと、の腕を引いてテキパキ立ち上がらせた。
背中を押して神田の前へと押し出す。


「それでは仲直りしなさい」
「「……は?」」


間の抜けた声が二つ重なった。
と神田がぽかんとこちらを見つめている。
そうすると、この二人はまだまだ幼い顔立ちをしていることがよくわかる。
対してリンクは大人の口調で告げた。


「仲直りです。遊びとはいえ喧嘩をしていたのだから、それが当然の流れでしょう」
「……あの、大変失礼なことをお尋ねしますが、リンクはマニュアル通りにやらないと気が済まないタイプ?」


冷や汗を浮かべたが上目遣いに訊いてきた。
何だその微妙な笑顔は。


「?説明書があるものはそれに沿って事を運ぶべきだと思いますが。……何の話です?」
「いや、別に……」


は軽く首を振ったが、どうにも変な表情のままだ。
がっくりと肩を落としているようにも見える。


「仲直り?俺とバカ女が?……本気で言ってんのか?」


神田は見張った目でリンクを眺めながら、また気の抜けた声を出した。
言葉が理解できないとでも言いたげだ。
やはり彼もなで肩になっている。
リンクは二人の様子に不審を感じながらも、きっぱりと言い切った。


「そうです。ほら、手を出して。握手をしなさい」
「……何のために」
「仲直りの証にです」
「………………」


神田は完全に沈黙してしまった。
それから「こいつをどうにかしろ」という思いを込めた目でを見やる。
けれど彼女は軽く肩をすくめただけだった。


「原則として、“私”は監査役の言うことに従わなければならない。拒否権はないのよ。とゆーわけで、神田」


言いながら、彼女は白い掌を神田の目の前に差し出した。


「はい、握手」


は一応笑顔を作っていたが、どうにも頬肉が引き攣っている。
向かい合っている神田はもっとひどい。
顔一面に拒否の色が浮かんでいた。


「冗談じゃねぇ」


ようやくそれだけ吐き出して、神田はの手を打ち払った。
結構いい音がしたのでリンクは驚いて彼を凝視する。
先刻までの喧嘩の内容からもわかるように、この二人は仲が良い。
握手をするのを拒むほど気に入らない相手ならば、神田は最初から髪など触らせないだろう。
それなのに今、彼は全力での手を拒絶していた。


「誰がこいつと握手なんてするか」
「どうしてです。相手を認め、許すための行為ですよ」
「だから何だ」
「拒否する理由がわかりません」
「わからないのなら口出しするな」


神田は気を削がれたようで、に向けていた『六幻』を腰に戻した。
切れ長の瞳で忌々しそうにリンクを睨みつける。
盛大な舌打ちと共に、言葉を投げつけてきた。


「俺とこいつはそういう仲じゃねぇんだよ」


それだけ告げると、もうこの場には居たくないとでも言いたげに、くるりと踵を返してしまう。
リンクとしては意味がわからない。
に視線で問いかけるが、眉を下げて微笑まれただけで終った。


「神田、今日の鍛錬は?」


遠ざかってゆく背にが訊く。
神田は足を止めずに応えた。


「日没と同時に始める。第二フロアだ」
「了解」
「その物わかりの悪い監査役は連れてくるなよ」
「いやぁ、それは無理かな」
「……チッ」
「やめる?」
「……わけねぇだろ。遅れるんじゃねぇぞ」


そこでちょうど談話室の出入り口に至り、神田は長い髪とそこに結ばれた赤いリボンを揺らしながら去っていった。
は「そっちこそね」と返事をしたが、聞こえているか定かではない。
リンクは眉をひそめて彼女に尋ねた。


「私の目には、キミと彼が言い争いをしているように見えたのですが」
「うん、そうだね」
「それなのに、どうしてすぐ何事もなかったかのように鍛錬の約束などできるんです?」
「…………………」
「遊びとはいえ、凶器を振り回すところも理解できません。……キミ達は一体どういう仲なんですか」
「ええーっと。それは一言じゃ説明できないんだけど」


リンクが本気で頭をひねっているというのに、はハッキリした答えを寄越さなかった。
本人もどう言い表せばいいのか困っているようだ。
無意識に手を動かしながら言葉を探している。


「友達、とはちょっと違うんだよね」
「でしょうね。こんな危ない友情は見たことがありません」
「“同志”っていうのが一番近いかな」
「……何の?」
「戦場に立つ者としてよ」
「エクソシストなら他にもいるでしょう?」
「…………、ごめん。やっぱりうまく説明できないや」


の金色の瞳に見られて、リンクはちょっと黙った。
この娘というのは眼で語りかけてくるのだ。
一般的に“目は口ほどにものを言う”、といわれるが、の輝く双眸はまさにそれの極みだった。
どうにも彼女に見つめられながら謝罪や感謝を告げられると、拒絶できずに受け入れてしまいそうになる。
リンクはもう何度も経験したその感覚を振り払うように視線を逸らした。
誤魔化すように口走る。


「まぁ、どうでもいいことです。私には関係がない」


それを聞いたは、無理にわからせようとするのではなく、自分の素直な言葉で言った。


「神田は、何があっても敵にはならない人。最期まで絶対に裏切らない仲間よ」
「……私と違って?」


リンクは皮肉に笑ってみせたが、はあっさりと返した。


「あなたもあなたの同志を裏切らないでしょう、ハワード・リンクさん」
「……………」
「そういう信念のある人だと思う」
「……その認識に至った経緯がわかりませんね。たった数週間そばに居ただけなのに、どうしてそう言えるのです」
「好きだからよ」


またもやあっさり言われて、リンクは浮かべていたしかめっ面を崩してしまった。
「はぁ?」と気の抜けた声が出る。
の監視について以来、これが口癖になってしまっていて困る。
自分の年季の入った眉間の皺が緩んでしまうのもいただけない。


「どうしても惹かれてしまう人っているでしょ?神田だって、あんなにつんけんどんだけど」
「……キミに対しては少し違うでしょう」
「出逢ったばかりの頃は他の人よりも冷たくされてたのよ、私。でも、どれだけ邪険にされても嫌いにはなれなかった。……憧れていたからよ。何者にも媚びず、自分の信じるもののために戦い、真っ直ぐに生きている彼に」


そう言われてもリンクにはいまいち理解できない。
とりあえず“何者にも媚びていない”というころだけは大いに賛成だった。
神田ユウはちょっと馬鹿なんじゃないかと思うくらい、誰彼構わず突っかかりすぎなのだ。


「私はそういう信念のある人が好き」
「……………………」
「だから、あなたも好きよ。リンク」
「……、私はキミの敵ですよ。少しでも妙な真似をすれば、隠すことなくそれを上層部に報告します」
「だからそういうところがよ。自分の信じる気持ちに忠実で、きっとどんな苦難の中でもそれを違えない。本当に信頼できるのはそういう人だと思う」


そこでは微笑んだ。
そして卑屈なものを一切感じさせない、潔い口調で告げた。


「例え、“私”がその人に嫌われていてもね」


もう一度好きだと告げられたけれど、リンクは聞こえないフリをした。
どうせ応えられないのだから耳を貸す必要もないだろう。


けれど好意を示されて、こんなにも胸がざわめいたのは初めてのことだった。




















打算だったらよかったのに。
リンクはそう思う。
敵である自分に取り入ろうとして「好きだ」と言ってくるのなら、こちらも対処のしようがあるというものだ。
しかしは素直に気持ちを伝えているだけで、特に他意はないようだった。
“貴方のことが好きだから、自分のことも好きになって欲しい”という、当然の見返りすらも求めていない様子なのである。
ただ単に行動を共にする者としてリンクを気に入った……本当にそれだけみたいな顔をしていた。
口にしてしまったのも、神田の話からの流れでしかないみたいだ。


(困る)


言葉だけではなく行動からもそれが伝わってくるから、リンクとしては戸惑うしかなかった。
頼むから敵対心というものを持って欲しい。
監査役としてはもっと間合いを取りたかった。
それを無理に作ろうとすればするほど、ことごとくぶち壊されてしまうのだから、本当に堪ったものじゃない。


(信頼を寄せられても、困る。私は敵だと言っているのに)


「リンク」


の部屋で読書に励んでいたら、向かいから声をかけられた。
ちらりと視線をやると、夜着姿の彼女がベッドの上でごろごろと転がっている。


「お腹すいたー」
「夜食は認めません。体に悪い」
「わかってるよー。そうじゃなくて、豆乳が飲みたい」
「……そんなのではお腹も膨れないでしょう」


リンクが怪訝な顔で言うと、は立てた人差し指を軽く振ってみせた。


「豆乳だけならね」
「何か入れるのですか?」
「うん、ヨーグルトを混ぜるのよ。もちろん無糖の」
「へぇ……」
「それと果汁百パーセントのパイナップルジュースを合わせると、低カロリーで体にも良い健康夜食のできあがりよ」


なるほどと思って、けれどそこでリンクは顎に手を当てた。


「……パイナップルジュース以外は?」


思わず訊けば、が目を見張る。
次の瞬間にはシーツを乱して飛び起きていた。


「試したことない」
「改良の余地がありそうですね」
「たまたま厨房にあったのがパイナップルジュースだったのよ。それ以来、同じやり方で作っているだけで」
「決め手は甘みと酸味のバランスでしょうか。だったらオレンジなども……」
「いけそう!あ、じゃあリンゴ酢も?」
「……確かに酸甘だが、健康飲料に健康飲料を混ぜるのはどうかと思いますよ」
「効果が二倍になるかもしれないじゃない!ちょっと待って、メモメモ……」
「あぁ、いいですよ。私のノートに書いておきます」


棚の中をがさごそし始めたを制して、リンクは手にしていた本を脇に置いた。
そうして懐から小さな手帳を取り出してくると素早くペンを走らせる。
は引き出しを閉めながら訊いた。


「リンクって、いつもそれに何か書いてるよね」
「ええ。お菓子のレシピを書き溜めているんですよ」
「うわ、すごい。見せてもらってもいい?」
「どうぞ……」


そこまで普通に言葉を交わしてしまって、リンクは苦々しい思いに駆られた。
まただ。
またのペースにハマって仲良く会話などしてしまった。
馴れ合うつもりは毛頭ないのに、気がつけばこうなっている。
リンクのまだ短い生涯の中でも、は一等厄介な人物だった。


「おお、さすがリンク。綺麗なノートだなぁ……。それにちゃんと種類ごとにまとまってる。ケーキにクッキー、パイにジェラートまで」


リンクのベッドによじ登ってきたがすぐ近くで言うので何となくため息をついた。
こっちがこれだけ気にしているというのに、相手は自然体そのものなのだ。
何だか自分が馬鹿みたいに思えてくる。


「……最近は妙に健康的なスイーツのレシピが増えました」
「私のせい?」
「他に誰がいますか。まぁ、健康マニアを騙るだけあって、さすがに面白いことをたくさん知っていますね」
「リンクもいろんな知識を持ってるよね。私も健康的食事の参考にさせてもらってます」


そこでは深々と頭を下げてお礼を言った。
けれど次に見えた顔はいたずらっぽい笑顔だ。
こんな調子で冗談ばかりやってくるこの娘は、やはり打ち解けるのが早すぎる気がする。
リンクに対する“さん”付けも敬語も、3日も経たないうちに取れてしまったくらいだから筋金入りだ。
もっとも、リンクのほうから「面倒そうなので別にいい」と言ってしまったのだが。


「まぁ、どちらにしろ今日は止めておきなさい。ブックマンJr.と約束しているんでしょう?」
「うん。もうすぐここに来ると思うけど」
「だったら部屋を留守にしないほうがいい。夜食はまた今度です」
「……はーい」


はちょっと拗ねたような顔をしたが、あっさりと頷いて自分のベッドに戻っていった。
やたらと意固地な彼女だが、こういうことは聞き分けがいいので監査役としては助かっている。
そこでリンクはふと気がついた。
そういえば、は友人達と馬鹿をやったり、やたらと規則を破ったりするくせに、本当の意味でわがままを言ったことがないように思う。
そう、自分の都合だけで意見を主張したことが皆無なのだ。
これは意外な発見だった。
リンクは思わずまじまじとを見つめる。
けれど、


「ううー……お腹すいたー。ラビ、何か食べ物持ってきてくれないかなー、このままじゃやってきた親友に頭から噛り付いちゃうよー」
「…………………」


枕を抱いてジタバタしている姿を見ると、何かの間違いのような気がして考えるのを止めた。
「ウサギの肉って美味しいのかなー!」とかいう叫びも全力で流してやる。
ため息と共に言った。


「アンノウン、あまり暴れないでください。埃がたってしまう」
「うぅ……。じゃあ気を紛らわすのに付き合ってくれる?」
「構いませんけど。何をするんですか」
「そうだなぁ」


リンクが相手をする意思を見せると、はひょいと起き上がって部屋を見渡した。
健康増強器具は隅に追いやられ、書類が山積みになっていた机は綺麗に片付いている。
元々女の子らしさのない室内だが、今や可哀想なほどだった。
まだリンクの持ち込んだ荷物のほうが生活感があって可愛らしい。


「話していても空腹が気になるだけでしょう」
「じゃあゲームでもしようか」


リンクの言葉を受けて、が提案した。
彼女は身軽に立ち上がりながら訊く。


「リンクは何が得意?」
「そうですね……、あえて言うならチェスが」
「あぁ、それなら」


真っ直ぐにクローゼットまで行き、扉を開くと、四つん這いになって奥から箱を取り出してきた。
それをいったんそこに残して、デスク横の小さな机を引っ張ってくる。
リンクと自分のベッドの間に据えると、箱を持ち上げて置いた。
中から出てきたのは古めかしいチェス盤だ。
しかもボードではなく、しっかりと足のついた物である。
リンクは軽く目を見張った。


「キミはチェスをするんですか?」
「ううん。これ、私のじゃないから」
「……どこから盗ってきたんです」
「ビックリするくらい信用ないな私!」


はチェス盤を低い小テーブルの上に乗せ、次はじゃらじゃらと駒を取り出してきた。
疑いの眼差しを向けるリンクに、少し唇を尖らせてみせる。


「このチェス盤も駒も、スーマンから預かったものよ」
「スーマン?スーマン・ダークですか?」


直接話したことはないがエクソシストの一人なので、リンクにも覚えのある名前だった。
確か自分と同じドイツ人の男性だ。
が頷く。


「そう。スーマンはジョニーとよくチェスをするみたいなんだけど、なかなか勝てないって悔しがってて。任務でいない間に上達されたら堪らないから、盤と駒を私の部屋に隠していったのよ」


リンクはそれを聞いて「いい大人が……」と思ったが、口には出さなかった。


「人目を忍んでやって来て、“何も聞かずにこいつを匿ってやってくれ”って言われたときは何事かと思ったけどね。真夜中に扉を開けたら、スーマンがこーんな怖い顔で立っているんだもの」


は言いながら指で引っ張って無理に自分の顔を強張らせた。
リンクから見れば笑顔でしかない表情だ。


「預かっている間は好きに使っていいって言われてるから、遠慮はいらないよ。さぁ、やろやろ」
「……アンノウン」


チェス盤と駒を所有している理由はわかったが、それでもリンクは手を出す気にはなれなかった。
じっとをねめつけてみる。
低い声で尋ねた。


「それで……、キミはチェスのルールを知っているのですか?」
「ううん」


即答。


「話になりません」


リンクは呆れ返って肩の力を抜いた。
けれどは一向に手を止める気配を見せない。


「いいからいいから。はじめよう」
「……どうやってゲームをするつもりですか」
「大丈夫、私はルールに縛られるような器の小さい女じゃないから!」
「むしろそれを遵守しなくてはいけない遊びなんです!」


リンクは声を大にして訴えたが、は構わず盤を整えてしまう。
そこで何となく変だなと思う。
彼女はルールを知らないと言ったのに、何故駒を配置できるのだろう。


「さぁ、どうぞ」


に促されて、仕方なくリンクは黒を手に取った。
それからしばらく二人は無言でゲームに勤しんだ。
宣言通りは素人のようで、まったくと言っていいほど相手にならなかった。
けれど駒の進め方は適当ではなく、そこにある意図を読み取って、リンクは仕方なく付き合ってやることにしたのだ。
程なくして白が取りあげられる。
チェックメイト、リンクの勝ちだ。


「う……、負けた」
「勝てる理由が見当たらないでしょう」
「だって本では勝てたのに」


ががっくりと肩を落とすので、リンクは彼女の駒を返してやった。


「『鏡の国のアリス』ですか」


そう言えば、少し微笑まれる。


「分かった?」
「ええ。キミはあの童話の中で行われたチェスゲームを再現しようとしていたのでしょう」
「うん、そう。それで本当なら、私の白が赤の女王を取って勝つはずだったのよね」
「相手が変わればゲームの進み方も変わります。途中までは付き合ってみましたが……そんな手に負けるのもなんでしたので」
「リンクって意外と負けず嫌いだよね」
「キミほどではない」


チェスのルールも知らないのに、童話になぞらえて勝負を仕掛けてくるような娘には言われたくはない。
は駒を最初のものに戻し、白のポーンを手に取った。
まずはd3を通ってd4へ。


「あのような夢物語を好むとは、キミもまだまだ子供ですね」


着々と手を進めてゆくにリンクは呟いた。
皮肉のつもりだったが自分の耳にもあまりそう聞こえなかった。
駒を操る指先は細い。手が、小さい。


「チェスゲームに通りに進むストーリー、っていうのが面白かったのよ。正直、内容はあまり覚えてない」
「まぁ確かに理解しがたい話ではありますが」
「でもひとつだけ、記憶に残った台詞がある。赤の女王さまの言葉だったかな」


話している間に盤面は進んでゆく。
が作り出す物語、全てがデタラメな鏡の国の大冒険。


「『同じ場所に留まっているだけでも、精一杯駆けなくてはなりません。他の場所へ行こうなんて思ったら、少なくとも二倍の速さで駆けなくては駄目』」


リンクは顔をあげてを見た。
金色の瞳は静かに伏せられていた。


「子供向けとは思えない、厳しい教訓よね。今いる居場所を守りたければ努力し続けなければならない。そしてより高みを目指すのなら、その何倍もの力が必要となる」


そこでは赤の女王を討ち取った。
白の勝ち……アリス・リデルの勝利だ。


「チェックメイト。……ここまで辿り着くのには、どれだけ速く駆けなければいけないのかな」


そう告げる瞳は、とても穏やかだった。
何故かリンクはぞっとする。
それはの様子が、とても齢相応に見えなかったからだ。
今までだって何度か同じような違和感は覚えていた。
この娘は、達観している。
何をかはわからない。
けれど子供っぽい振る舞いの中に時折見せるこのような表情が、リンクの神経をひどくざわつかせるのだ。


不意にが顔をあげた。
目を瞬かせてこちらを見ている。
それでようやくリンクは、自分が彼女の腕を掴んでいることに気がついた。


「……………………」


こうして、次はどうするつもりだったのだろう。
何故の手を取ってしまったのだろう。
己に問いかけてみるが答えは出ない。
仕方がないので、彼女の指先から駒を奪い取った。


「……、本を」
「え?」


リンクは気まずく思いながらも何とか言った。


「本を、貸してください。話していたら久しぶりに読みたくなりました」
「あぁ。『鏡の国のアリス』?」
「はい……」
「ごめん、持ってないの。私、極力私物は増やさないようにしてるから」


そう返されて、振った話題も悪かったなと思う。
けれどはにこりと笑った。


「明日、一緒に図書室に行こう。本のある場所なら知っているから」
「…………………」
「案内させてね」


リンクはの顔を見つめた。
そこにはやはり、純粋な好意の笑みが浮かんでいる。
切り捨てたい。突き放したい。そんなものは、いらないんだ。
その意思に反して唇が勝手に「ありがとう」と紡ごうとして、


「待たせたさ!今日はめいっぱい夜更かしして遊ぼうぜー!!」


勢いよく部屋に乱入してきたラビに邪魔されて終った。








予想外にヒロインの仲良し大作戦が強引な感じになりませんでした。
何だかんだ言っても、やはり中央の役人であることが壁になっているんですかね。(リンクにとってもヒロインにとっても)
最低限の距離は取り合っているように思います。
今後、その溝は埋められるのか。よろしければ次回以降でお確かめください。^^

次回はリンク→ヒロインの感情が本格的に動き始めます。どうぞお楽しみに!

(参考文献:『鏡.の.国.の.ア.リ.ス』 ル.イ.ス・キ.ャ.ロ.ル作 矢.川.澄.子訳 新.潮.文.庫 1994)