初めて逢ったときから何とも理解し難い人物だった。
結論を言おう。
そう、つまり彼女は、Unknown。
● 泣かないピエタ 2 ●
「私が、ですか」
リンクは半ば呆然と呟いた。
数年前の話だ。
ある日、突然上役に呼び出され、これまた突然任務を言い渡された。
監査役としては歳若く就任してからも日が浅いが、実力に自信はある。
周囲からも一目置かれ、新たに設立された部隊にも配属が決まっていた。
中央庁は自分を高く買ってくれている。
それは誇るべきことで、リンクはその期待に応えようと若い心を一杯にしていた。
けれど、それでもこれは予想外だった。
「エクソシストの監査役を……、私が?」
エクソシスト。
それは破壊の聖職者。
千年伯爵という奇人が造り出した化け物“アクマ”を一掃するべく、教皇が擁立した『黒の教団』に所属するグラーヂマン。
今や世界の命運は彼らの手に委ねられているといった状況だ。
しかし事実上、エクソシストは戦う道具にしか過ぎなかった。
少なくとも中央庁はそう見ている。
戦争に勝つための駒、人間の形をした兵器。
同じ組織に所属しているとはいえ、一般人の自分たちにとっては、化け物と戦う“化け物”でしかない。
そんなものの監査役を、自分が?
リンクは混乱を押し殺すと、平静を保った動作で敬礼をし、上役に尋ねた。
「失礼ですが、エクソシストに監査役がつくことは不可能だったはずでは?」
「その通りですよ、リンク監査官」
机に腰掛けた男性……鋭い眼力と立派な髭を持つマルコム=C=ルベリエは穏やかに微笑んだ。
「彼らは戦場に生きる者だ。その存在には危険が常に付き纏う。傍に居れば戦闘に巻き込まれ、命を落とすのが関の山でしょう」
そう、だからこそ今まで彼らに監査役がつくことはできないとされてきたのだ。
アクマとの闘争に普通の人間は介入できない。
神の物質である“イノセンス”を操り、超人的な能力を発揮する“エクソシスト”でなければ易々と殺されてしまう。
事実、エクソシストでないながら最も戦場に近い位置に配属された探索隊は、教団中で最高の危険度と死亡率を誇っていた。
「しかし、“エクソシスト”だからといって疑いのあるものを野放しにしておくことは出来ない」
ルベリエは穏やかな口調のまま、声を低くした。
「そう、私はずっと嘆かわしく思っていたのですよ。不穏分子を放置し、その身分のせいで公平な監査ができないことを」
「………………」
「君に隠しても意味はないか……。そう、正しくは6年前からです」
「6年前、といいますと……」
呟くリンクに、ルベリエは書類を差し出した。
リンクは礼儀正しく一礼し、それを受け取る。
そして資料とクリップで留められていた写真に目を見張った。
写真は灰色だった。
誰の姿も映っていない。
名前を確認してみる。
そこに書かれていた文字は“UNKNOWN”。
氏名、年齢、生年月日、出身、それらが全てアンノウン。
あらゆる事柄が“不明”とされた人物の、不気味な存在証明書だった。
いや、これではその機能を果たしていない。
この人物についてひとつもわからない。
存在しているかすら明確ではないこんな書面に、何の価値があるのだろうと思う。
「これは……」
「“彼女”の書類ですよ」
ルベリエは静かに囁いた。
その声の裏に潜む確かな感情を読み取って、リンクは資料を掴む手に力を込める。
冷ややかな、絶対零度の視線が突き刺さる。
「君も知っているはずです。6年前に教団に連れて来られた異端の娘。あのグローリア・フェンネスの愛弟子。“黒葬の戦姫”の預言を受けた、金髪の子供」
「存じています。彼女はあまりにも有名ですから」
「そう、あれです。私はあれが気に食わなくてね」
「…………と、言いますと?」
「彼女はその隠蔽された過去ゆえに、教団から離れて生きることを許されていない。あらゆる意味で危険であり、注意すべき人物だ」
それは、絶対に逃がすなということだ。
決して自由を許さず、教団の中で飼い殺しにするという宣言だった。
「しかし彼女はエクソシスト。監査役をつけようにも、周囲には危なくて人を置けない。それでも強行しようとすれば、グローリア・フェンネスとコムイ・リーに阻まれた」
「……………………」
「あれから6年。ようやく……、ようやく体制を整えることができたのです」
「……………それが、私、ですか?」
「その通りですよ、リンク監査官」
何ひとつ存在を示さない少女の書類を握り締めてリンクが聞けば、ルベリエは椅子から立ち上がった。
義務と理念の間で彼の瞳が強く光る。
「君ならばエクソシストの傍に居られる。それだけの技術を身につけている。自分の身を守りながら、彼女の動向を監視できるでしょう」
確かに、それだけの戦闘・監査技術は会得していた。
ルベリエが自分……自分を含む新たな組織に期待を寄せるのも頷ける。
しかし疑問に思うことがあった。
「彼女はこれまで、エクソシストとして立派に戦い抜いてきたと聞いています。今さら監視をする必要がどこに……」
「リンク監査官」
リンクの声はルベリエに遮られた。
彼は冷ややかな瞳で、こちらを見下ろしていた。
「忘れないでもらいたい。彼女は異端の徒だ」
「……………………」
「本来ならば教皇の名の下に処刑されるべき者。生かされているのだから、その分を働くのは当たり前です。アクマと戦うのが彼女の仕事なのだから」
「……………………」
「ゆえに、それだけでは信用できない。いつ我らの害になるか……。彼女にとって此処は牢獄でもある。唯一生を認められた世界であって、全ての権利を剥奪された場所」
「……………………」
「逃走を許すわけにはいかないのです。彼女を外に放ってはならない。『教団』にしっかりと繋いでおかなくては」
そのための首輪になれと、ルベリエはリンクに言っているのだ。
不穏分子である彼女を監視し、今あるわずかな権利さえも奪おうとしている。
目の前の上役は暗にこう告げていた。
“彼女”は世界の毒になる存在なのだ、と。
放置すれば脅威になる。
我らを冒す闇の種。
決して土に撒かれぬよう、芽を出さぬよう、見張っておけと主張している。
それが出来る人間として、6年をかけて今、自分が選ばれたのだ。
リンクは背筋がぞくり、とするのを感じた。
ルベリエの彼女に対する強い危険視と拘束への執着に全身が粟立つ。
同時に冷たい興味を抱いた。
ここまでして身柄を押さえられる彼女とは、一体何者なのかと……。
リンクの沈黙を、ルベリエは了解と取ったようだった。
軽く手を打ち鳴らして今後の詳しい内容を話し出す。
「とにかく張り付いていればいい。四六時中、片時も目を離さずに見張るのです」
「………、はい」
「任務にも同行し、必要とあらば介入も許可します。食事・睡眠・入浴中であろうと気を抜かないように」
「あ、……し、しかし」
「うん?何だね」
「相手は幼いといっても女性です。男の私が監査につくというのは……」
根本的なことを忘れていたと、リンクは慌てた。
それを考えれば真っ先にこの仕事は断らなければならないものだ。
年頃の女性を男が監視するというのは体裁が悪い。
彼女の名前に傷がつくというものだ。
しかしルベリエは小さく微笑んだだけだった。
「君はまだ思い出せていないようだ」
そうしてこちらに背を向けてしまう。
最後にちらりとその唇が、忌々しげに歪んでいたのを、リンクは確かに見た。
「言ったはずですよ。彼女は異端の徒であると」
彼は決して振り返らない。
ただ温度を失った声だけが、部屋にそっと満ちてゆく。
「“あれ”を人間扱いなどしなくていい。………………任務を遂行したまえ」
リンクは鋭い刃に胸を貫かれて、ただ黙したままそれを承諾するしかなかった。
敬礼の指先が、震える。
そうして出逢ったのは、冬の真ん中の日だったと思う。
「さぁどれがいいかな?私は最近ミルクティー派だからアッサムが好きなんだけど。これはいい茶葉なんだよ、くせがなくて芳醇な香りで。わざわざインドから取り寄せたんだ」
「……………………」
「ストレートを好むなら何と言ってもダージリンだね。マスカットフレーバーの独特の香りがたまらない!爽やかなのがいいならニルギリやヌワラエリアもおススメだよ」
「……………………」
「薔薇のような柔らかな香りのディンブラも捨てがたいよねー。味を追求したいのならドアーズとかキャンディーとか。あ、見てみてコレ!最近アジア区支部の友達に送ってもらったクラッシックブレンド。苦味と渋みのバランスが最高でさぁっ」
「……………………」
意味がわからない。
リンクが思うことはそれだけだった。
いや言っている内容もわからないのだが、まずこの状況が意味不明だ。
リンクは硬直したまま、眼前の少女を観察していた。
輝く金色の髪と透けるような白い肌、淡い唇に小さな顎。
造作は恐ろしいまでに整っていて、一瞬何かの冗談かと思った。
けれど冗談ではなかった。
むしろ冗談ではなかったのは中身だった。
彼女はその大きな金色の目をキラキラさせて、延々と紅茶談義を続けている。
それも、リンクと二人きりになった瞬間から。
「…………………………、あの」
「んん?何?どの茶葉にするか決めた?」
勇気を出して声をかけてみれば、彼女は満面の笑みを向けてきた。
笑顔が眩しい。
眩しすぎる……。
リンクは思わず目を逸らして、小さく言う。
「いや、その……。どうして私は今こんなことになっているのかと思って」
「どうしてって」
馬鹿みたいなことを尋ねた自覚はあったが、わからないのだから仕方がない。
そしては普通に答える。
「お茶会に誘ってくれたのは、あなたでしょう?」
ここは全生命力に懸けて断言しよう。
「そんな記憶はない」
「だってお菓子を山ほどくれたじゃない」
「あれはお近づきのしるしにと……っ」
「だからお近づきのしるしに、お茶会」
「……………………」
「え、違うの」
違う。断然違う。
そう思うけど呆れで声が出ない。
黙り込んでしまったリンクには小首を傾げた。
「あ、もしかして紅茶好きじゃない?コーヒーの方が……」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、どうぞ」
はにこりと笑ってカップを差し出してきた。
白い湯気と芳醇な香りが立ちのぼる。
リンクはをちらりとしたが、その表情は好意のようにしか見えなかった。
「試しに私のお気に入りを淹れてみたの。お口に合うといいけど」
「………………、どうも」
こうなってしまっては受け取らないわけにはいかない。
礼儀を重んじるリンクとしては「いらない」とは言えなかった。
けれど口をつける気にもなれない。
この娘が何を考えているのかさっぱりで、そんな彼女に手渡されたものを素直に飲めるほど馬鹿ではなかった。
リンクはいぶかしげにカップの中身を見て、そのままテーブルに置いた。
それから向かいに座る少女に視線をあげる。
彼女は美味しそうに紅茶を味わっているところだった。
「……………………、キミは」
「ん?はい、何ですか?」
興奮がおさまったのか、は敬語に戻っていた。
司令室でルベリエ・コムイ両人立合いのもと引き会われたとき、彼女は驚くくらい礼儀正しかったのだ。
コムイが表情を変えるようなことをルベリエが言っても、動揺することなく言葉を返していた。
リンクに対する態度も完璧で、これからお世話になりますとうやうやしく一礼したのだ。
……………………二人きりになった瞬間、思い切り崩れたが。
崩壊も崩壊、丸っきり子供に戻ってしまった。
それも先刻までの大人な態度はどこへ行ったと問い詰めやりたくなるほどだ。
いや、今後のことを尋ねてくるに、まず菓子を手渡した自分が悪かったのだろうか。
中身を見るやいなや彼女は顔を輝かせてお礼を言い、そのまま走り出したのだ。
リンクの手をがっちりと掴んで。
そうして連れてこられたのが此処、談話室で、が瞬く間に用意した“お茶会”という運びになったのである。
あまりの予想外、そして急展開にリンクは頭痛を感じていた。
こめかみに手をやりながら呻る。
「キミは、何なんですか」
我ながら意味不明な問いかけだが、自身がよっぽど意味不明なのでよしとする。
彼女はきょとんとしたあと普通に言った。
「ルベリエ長官から聞いてませんか?」
「…………………」
「本名はアンノウン。通称は“”。3年前に殉職したグローリア・フェンネスの弟子で、黒葬の戦姫の預言を受けた者です」
「……、それは知っています。さらに言えばキミの交友関係や行動範囲も把握していますよ」
「わぁ、さすが中央庁」
「情報は我々の要です。顔を合わせる前に頭に叩き込んできました」
「それは何というか……お疲れ様です」
「けれど……」
「けれど?」
「キミの言動は読めない。何を考えているんです?こんな……お茶会だなんて」
理解が追いつかなくて苛立ちと共にそう言うと、はカップをソーサーに戻した。
「あなたとお茶を飲みたいと思っただけですよ」
「……………………何を企んでいるんです」
「そりゃあ、もちろん」
どんな思惑があるのかと警戒を見せれば、彼女は気が抜けるほど軽い調子で続けた。
「これから寝食を共にする人と、仲良くなりたいなぁ……と」
「……………………」
「そんなことを企んでいます。どうやらあまり上手くいっていないみたいですけど」
「……………………………………………………はぁ?」
リンクは普段なら絶対に出さないような声をあげてしまった。
この娘、本当に頭がおかしいのではないかと思う。
「何を言っているんです?私と仲良く?中央庁とエクソシストが?監査対象と監査役が?………………馬鹿ばかしい」
「どうしてですか?」
「仲良くなどならなくていい。なる必要もないし、なれるわけがない」
「だからどうして?」
いちいち訊いてくるは子供のようなのに、口調はひどく落ち着いていて、神経を逆なでする。
馬鹿にされているのかとさえ思う。
リンクは言葉を冷たく吐き捨てた。
「私はキミの敵ですよ」
見つめてくる金色の瞳を睨みつけて言う。
「キミから全ての権利を奪う。自由を制限し、言動に介入する。キミの意思などまったく無視して」
「………………」
「キミの考えは何ひとつ尊重しない。私は厚意から傍にいるわけではありません。任務で仕方なく張り付いているだけです」
「………………」
「勘違いをしないでください」
“仲良く”だって?
ふざけている。
リンクはひどく冷ややかに言い放った。
「私たちは、決して相容れないものだ」
交わること可能性など皆無で、どこまでも純粋な氷の関係。
近づけば冷気にあてられるだろう。
それを乗り越えても、触れれば火傷を負うだけだ。
傍に居ながらもリンクとの間には深い溝があった。
渡る術を持つ者などいはしない。
それほどまでに監視する者と監視される者は隔絶されているのだ。
リンクは鋭い視線でを見据えた。
思い違いをしているのならば最初に、つまり今この時に、それを理解させてやらなければならない。
その意思を込めて見つめれば、はふと瞳を伏せた。
手を伸ばす。
テーブルに広げられた菓子の間を縫って、その白い指先が掴んだのはひとつの瓶だった。
「ジャムはお好きですか?」
唐突に訊かれた。
肩すかしを食らったリンクは思わず目を見張る。
声は静かで話を逸らしたわけではなさそうだが、言っている意味がわからない。
は瓶の蓋を回して開けた。
「私は少し苦手なんです。果実は生が美味しいと思うし、これは甘みが強すぎて食べ方に困ります。それにこぼしたりしたら取り返しがつきません。師に何度怒られたか……、あれは完全にトラウマですね」
ちょっと青くなりながらはジャムの瓶にスプーンを突っ込む。
そして大量に掬い出した。
苦手で食べたくないと言いながらそんなことをするものだから、リンクは訝しげに眉をひそめる。
その眼前ではスプーンを振り下ろした。
「な……っ」
リンクは驚きの声をあげる。
は大量のジャムを、自らの紅茶に落とし込んだのだ。
ちょっと有り得ないくらいの多さだったから、カップから山となってはみ出している。
「何をしているんですか」
リンクは勢いよく尋ねた。
彼女の紅茶の知識は素人のそれではなく、確実にマニアの域だ。
思い入れだって強いだろう。
これは、そういう人物がする所業ではない。
高い茶葉をわざわざ台無しにしたことを責めるように言うと、はスプーンでジャムを溶かしながら答えた。
「おいしいんですよ」
「……………は?」
「美味しいんです。ジャム入り紅茶」
「………………………………キミはジャムが苦手だと言っていませんでしたか」
「そう、だから吃驚なんですよね。初めて紅茶にジャムを落としてしまった時はどうしようかと思ったんですけど」
はスプーンを止めると、カップを手に取った。
リンクの位置からは見えないが絶対に全部は溶けていない。
溶解できる量を超えているのだ。
「飲んでみたらこれがまた」
「……美味しかったと?」
「いえ、あんまり」
「はぁ?」
「あんまりな味だったんですけど、無理に飲んでいたらだんだんと舌が慣れてきて。それから何度か、怖いもの見たさでやっている内にですね」
「……………………美味しくなった?」
「特に、底に残ったのが微妙な味で。クセになりますよコレ」
はそう言いながら紅茶を口に運んだ。
一瞬だけ妙な顔をして、それから味わうように目を閉じる。
満足気な息が吐き出された。
「うん、おいしい」
「……………………」
ちらりと見えた紅茶はドロドロになっていた。
どう考えても美味しくはないだろう。
未知の物には手を出さない主義のリンクからしてみれば、の所業は確実に有り得ない。
「師が」
ジャム入り紅茶を飲みながらが言った。
「グローリア先生が、紅茶マニアだったんです。給仕は私の役目だったんで自然と茶葉には詳しくなりました」
「あぁ……、なるほど。それで」
「けれどあの人紅茶を崇拝するあまり、それに何かを混ぜるなんて許せない!って言って。一般的なミルクやレモンも拒絶していました」
「完全なストレート派だったわけですか」
よくある話だ。
純粋な香り・味が楽しめなくなるからとって、紅茶のマニアは不純物を混ぜるのを嫌う。
あの有名なグローリア・フェンネスもその手の筋だったのだ。
「刷り込みで、私にも紅茶に何かを混ぜることには抵抗があったんです。でも偶然ジャムを入れてしまってからは開き直って、色々と試してみました。やっぱり食わず嫌いはいけませんね」
は小さく笑って続ける。
「ミルクもレモンも美味しいし、ハーブも素敵。果汁を入れれば香りが増したり。茶葉によっては何かを混ぜた方が味の引き立つ場合だってあります」
「……………つまり、何が言いたいんですか」
「やってみなければわからない、ということを」
心底嫌そうな顔をするリンクを、は真正面から見つめた。
口元が笑んでいて綺麗だ。
そこから言葉が紡ぎ出される。
「仮定の話に興味はありません。一般論に縛られる気は毛頭ないし、私は私らしくやらせていただくだけです」
「………………」
「絶対に合わないと思っていても、意外と美味しかったりするものですよ?」
「私とキミの場合では有り得ません」
「それを試してみるのも、また一興」
「…………言葉が通じませんね」
「一緒に過ごすのならば楽しくやりたいな、と思ったんです。………私の過去はどうにもできないものだけど」
リンクはわずかに反応して肩を揺らしたが、は動じずに微笑んだままだ。
「これからは違う。より良いものにするために、努力するのは当然でしょう?」
「………………」
「私はあなたを決め付けて、全ての可能性を放り投げてしまいたくないだけです」
「諦めなければ、誰であれ分かり合えると?」
「まさか。ただ、わけもわからず噛み付くのは愚か者のすることですから」
「…………やはり、綺麗事ですね」
「でしょうね」
あくまで突き放す口調のリンクに、はあっさりと頷いた。
そしてカップをテーブルに戻す。
金色の双眸は伏せられたままだった。
「けれど、それさえ失えば世界は闇よ」
その言葉は、妙な重みがあった。
口先だけだと笑い飛ばせないような何かだ。
どうやら彼女は、可能性を信じずに歩み寄る努力をしないわけにはいかないようだ。
少し、だけ。
ほんの少しだけ、の持つ暗黒に触れたような気がした。
世界とはきっと、彼女の“世界”だ。
はその中で光を求めてさ迷い続けているのだろうか。
「あ……」
妙に心を揺さぶられて、リンクは何かを言おうとした。
けれどそれが意味を為す前に、ひとつの影が談話室に飛び込んでくる。
「ー!!」
情けない叫び声と共に勢いよくの首に抱きついたのは、赤毛の少年だった。
いい歳をした男がそんなことをするものだから、リンクはぎょっとして目を見張る。
あれは確かブックマンの弟子だ。
仮の名はラビといったか。
そんな彼はを完全に押し倒していた。
あれだけ元気よく飛びつけば当たり前だ。
ソファーに横たわったに抱きついて、ぎゃあぎゃあ言う。
「なぁなぁ聞いてくれよジジィの奴ひでぇんだぜ!あのパンダ、ホント有り得ねぇさー!!」
「うんうん聞くよ。聞くから、離してどいて重いー」
男に組み敷かれた状態で、は普通に返した。
本当にそれだけみたいにラビを押しのけようとする。
けれど少年は耳を貸さずに彼女にしがみついたままだ。
人前でこんなに密着するなど、リンクの常識から言えば有り得ない。
「傷心のオレを慰めろよー!!」
「えー。今忙しい感じなんで、胸だけ貸してあげるよ」
「えー。顔を埋めるにはボリュームが足りないさー」
「その辺りは男のロマンでカバーしてください」
「その辺りは女の意地で何とかしてください」
「「…………無理!!」」
声を揃えて言って、一緒になって笑い出す。
意味がわからない。
この年頃の少年少女は他には理解できないところで通じ合うものだから、仕方がないのだろうか。
リンクは猛烈に歳を取った気分になりながら、二人を見下ろしていた。
「……ん?」
に抱きついたまま笑い転げていたラビが、ふいに顔をあげた。
リンクを見つけて少し驚いた表情になる。
次の瞬間にはそれが急激に冷えた。
「」
彼女を呼ぶ声も固い。
ラビはリンクをひたと見据えたまま、ソファーから身を起こした。
「誰さ、コイツ」
ほとんど喧嘩を売るように睨み付けられて、リンクとしては不愉快だ。
応えようと口を開くがに先を越される。
「これからお世話になる人よ。ハワード・リンクさんっていって、なかよし大作戦決行中。今のところ全敗だけどね」
彼女はあくまで明るく何でもない口調で言ったが、ラビの目はリンクの胸元から離れない。
タイを留めるエンブレムを注視している。
「中央庁か」
「うん」
「話をつけたのは」
「ルベリエ長官とコムイ室長」
「………………決定を覆すことは?」
「不可能よ」
二人は切れ切れに会話を交わしていた。
それだけで意思の疎通ができているのだから、相当仲が良いのだろうと思う。
まったく無駄のないやり取りだった。
の言葉を聞いて、ラビは翡翠の瞳に炎を宿らせた。
射抜くようにリンクを見つめる。
すぐにを振り返った。
「ゴーレムはいつも通信可能にしておけよ」
「うん」
「オレもなるべく傍にいる」
「いいよ。忙しいでしょ」
「駄目さ。ひとりにさせたくない」
「……、私よりリナリーを心配してあげて」
「……………………」
は何気なくそう言ったが、ラビは表情を変えた。
リンクに対する敵対心は影となり、哀しそうな瞳を金髪の少女に向ける。
その視線の先で華奢な肩がすくめられた。
「今は神田のところよ。……なるべく、誰かに傍に居てあげてほしいの」
「それで、オマエから引き離していろって?」
「…………ねぇ、わかってるくせに聞いてるでしょ」
は半眼になってぼやいたが、ラビは構わずに続けた。
リンクに指先を向けて言う。
「ルベリエ長官がここに居るから?オマエの傍にコイツが……中央庁が張り付いているから?」
「ラビ、人を指差すのは」
「オマエはリナリーを庇って、独りで奴らと戦うつもりか」
「ラービー」
怒った口調の彼の名を、は呼んだ。
「言ったでしょ?只今なかよし大作戦決行中なの。百戦錬磨のさんを信じて!俄然がんばっちゃうからさ」
「………………」
「おーい無反応は寂しいんだけど。…………ね、あなたは私のなに?」
「………親友」
「だから信じてる」
「…………、リナリーのことか」
「ぜんぶよ」
よいしょと身を起こしたは、優しく微笑んだ。
「あなたは、私のことを“独り”にはさせてくれないんでしょう?」
それは精神の話なのだということは、リンクにもわかった。
実際に傍にいなくても、心を共に。
決して孤独にはしてくれないのだと、は言っている。
ラビを信頼している。
リナリーを守ってくれると、自分に心を寄せてくれていると、信じきっているのだ。
こうなればラビがに勝てるわけがなかった。
少しだけ目を細めて、唇を震わせる。
それから彼は無言で小さな親友を引き寄せた。
頭を抱きこんで髪を撫でる。
「……………………バカ」
「知ってるくせに」
はくすりと微笑んだ。
ラビもようやく口元を緩めて、目を閉じる。
「オレも、絶対信じてるからな。何かあったらすぐに呼んでくれるって」
もう一度ぎゅっとを抱きしめると、ラビは身軽に立ち上がった。
表情を飄々としたもの戻して歩き出す。
「んじゃ、ユウたちのところに行ってくるさー」
「うん。またね」
「おう。またな」
何気ない調子で言い合って、二人はあっさり別れた。
ラビは頭の後ろで手を組み、気楽な足取りで進む。
にやりと笑んだ唇。
ちょうどリンクの隣を通過するときに、そこから声がこぼれ落ちた。
「可愛いだろ、オレの親友」
リンクは反射的に彼の顔を見上げた。
見えたのは笑顔だった。
けれど目が笑っていない。
見据えてくるのは冷え切った翡翠の隻眼だ。
リンクの意識を引き付けたのは声ではなく、その静かなる闘志だった。
足を止めることなくラビは言い捨てた。
「アイツをよろしくな。中央庁」
声に言葉通りの意味はなかった。
感じたのは、途方もない威嚇だった。
彼は言外にこう告げたのだ。
“彼女を傷つけたら、許さない”と。
純粋な感情が全身から迸る。
眼が逸らせなくて、リンクはラビを見つめる。
赤毛の少年は冷笑を瞳で残し、確かな足取りで去っていった。
鼻歌が聞こえる。
背後に遠ざかっていく。
その旋律は、お茶を用意しているときにが口ずさんでいたものと、まったく同じものだった。
「賑やかでしょう、私の親友」
前方から声をかけられる。
ハッとして見てみれば、が眉を下げて微笑んでいた。
「友情に厚いやつなんです。あなたしてみれば無礼な振る舞いもあったでしょう。どうかご容赦を」
「本当に無礼です」
リンクはから視線を逸らして考える。
赤毛の少年。仮の名をラビ。
冷えるような翡翠の眼が、今も自分を見ているような気がしてならない。
「……けれど、親友というのは事実だったんですね」
ぽつりと呟くとが眼を瞬かせた。
リンクはその普通の少女みたいな仕草に何だか心が冷たくなる。
少しの不愉快ささえ感じた。
「まさか、キミのような者と友愛を結ぶ人間がいるだなんて」
「…………、なるほど。ラビのことも資料にありましたか」
「ええ。到底信じられませんでしたが。どうせ上辺だけのものだろうと」
「嬉しい意見ですね」
「………………何ですって?」
馬鹿にするように言ったのに満面の笑みを浮かべられて、リンクは眉をひそめた。
の表情は動かない。
「嘘だと思っていたのに、一目見ただけで私たちを“本当の親友”だと思ってくださったんでしょう?こんなに嬉しいことはありません。自他共に認める大親友!なんだか格好いいですよね」
「……………………」
この娘、やはりどこかおかしい。
リンクはそう結論付けた。
普通の少女のような仕草をしたかと思えば、到底理解できない言葉で返してくる。
蔑めと指示されてきたようなリンクにとって、何を言っても動じないは苛立ちしか生まない人物だった。
「…………ブックマンの弟子は失礼な人間です。けれどキミよりは好感が持てますね」
「おお、ラビってばやるー。リンクさんの好感度ゲット!」
「彼は真っ当な人物だ。私がキミにとって敵だと即座に理解し、傷つけるなと威嚇してきました。露骨なのはどうかと思いますが、実にわかりやすい。筋が通っています」
「そうそう。単純なんですアイツ」
「でもキミは違う」
紅茶を飲みながら頷くを、リンクは言葉の刃でもって切りつけた。
「キミは馬鹿ではないでしょう。頭では私を危険な者だと判断している。……さっきからまったく隙を見せない。一瞬たりとも油断していない」
そう指摘すればの肩がぴくりとした。
図星を指されるとは思っていなかったのだろうか。
それとも見抜かれたことがなかったのか。
前者はともかく後者は確実にそうだろう。
は警戒しているとは微塵も感じさせない振る舞いをしていた。
それに関する訓練を徹底的に受けたリンクでさえ、しばらく気が付けなかったほどだ。
「それなのに私と親しくなりたいと言う。打ち解けようと努力している。そこに嘘はないようですが……。キミの言動は気味が悪いとしか言いようがありません。…………どちらが本心です」
低く尋ねれば、はカップから顔をあげた。
そしてリンクに向って頭を下げる。
「ご気分を悪くされたのなら謝罪いたします。昔から、上層部の人間には気を許すなと言われていまして」
「……グローリア・フェンネスですか」
「ええ。師に対応を叩き込まれました。まだ、そのクセが抜けていないようです」
「まったく、彼女は余計なことをしますね。キミの境遇を考慮してのことでしょうが」
それでも、とリンクは言った。
「“キミ”の本心はどちらです。賢明に師に従うのか、愚かにも私に友好を求めるのか」
「言ったはずですよ。私は“私”らしくやらせていただくだけです、と」
は考えるまでもなくそう言い切った。
リンクは思い切り不愉快を顔に出して見せた。
「つまり、キミは愚か者ということですね」
「あなたにとってはそのようですね」
「中央にとっては面倒なことですが、グローリア・フェンネスの教えは正しい。ブックマンJr.の反応は当たり前のものです」
この娘と話し始めてから感じていたものが限界を超えようとしていた。
神経に障る。どうしようもない。
リンクはを鋭く睨みつけた。
そして氷の声で告げる。
「キミは、間違っています」
はリンクの視線を真っ直ぐに受け止めた。
カップをソーサーに戻す。
薄紅の唇には、もう笑みがなかった。
「それでも、あなたがそう感じる……それが本当の“”です。今日からどうぞよろしく、リンクさん」
間違っている。
そんなのは最初からわかっていたはずではないかと、リンクは彼女の瞳を見て悟った。
言葉の最後でまた笑ったけれどそこに滲んだ哀切は隠し切れない。
そう、“”とは境遇も存在も、何もかも。
最初から全てが間違いだとされる人物だったのだ。
リンクとヒロインの出逢いです。
一応2年前設定なのでリンクは17歳、ヒロインは12〜14歳頃ですね。
今回ようやく出せたどうでもいい情報→ヒロインは紅茶党。もろに師匠の影響です。
実はサイト設立当時から決めてあった設定なんですが、なかなか書く機会がなくて……。
ちなみに彼女は作中でジャム入り紅茶を飲んでいますが、ロシアンティーではありません。
断じてそんな素敵なものじゃない。ただのドロドロうにょうにょした未知の飲み物です。(笑)
次回からヒロインの仲良し大作戦がはじまります。お楽しみに〜。
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