捜索・包囲。
次に説得。
それでも納得してくれない場合は……


問答無用で攫っていきます。






● Refrain 1 ●







「おっはよー!」


は口元に手を当てて元気よく告げた。
挨拶とは朝一番に交わす言葉だ。
これによってその日一日のテンションが決まると言っても過言ではない。
爽やかな口調は相手への配慮でもある。
なにせ声をかけた彼女はひどく短気で怒りっぽく、すぐにこちらの首を刎ねようとしてくる人物(?)なのだから。


「ねぇ、フォー!」


等間隔に並んだランプが淡い明かりを落とすだけの通路は薄暗い。
仄かな闇に染まった床に立って、は視線をあげた。
眼前にそびえ建つのは天井まで届く巨大な扉。
楕円と三角が組み合わさったアジア風の文様が刻まれたそれは、しかしその機能を果たしてはいない。
押しても引いても開きはしない門扉なのである。
誰もいない空間では一人、明るい声で続ける。


「ねぇってば、フォー!」


友人の名前を繰り返し、今回の用件を告げた。


「あーそーぼー!!」


数秒の沈黙が降りた。
当然である。この場に居るのはだけだ。
けれどふいに瞬く光。
門扉の上で稲妻が弾け、描かれている文様が揺らいだ。


「テメェ……」


低く唸るような少女の声が聞こえてきた。
同時に門の中から溢れた光が収束し、瞬く間に実態を取る。
突如として現われた彼女は、途端に床を蹴りつけ、霞むようなスピードでへと踊りかかってきた。


「こんなところに何してやがる!!」


怒声と共にかざされた両腕。
へと振り下ろされるときには、それはすでに鋭利な刃を備えた大鎌へと変化していた。
右の鎌がに迫る。
確実に首を取るための行動だ。
一切の手加減がない攻撃を、は身を低くして避けた。
続けて襲ってくる左の鎌を側転で回避、着地と同時に下半身を回して足払いを仕掛ける。
相手は跳んで逃れたが、はそのまま倒立の要領で踵を顔面へと強襲させた。
それから避けられた脚を戻して低姿勢から一気に伸び上がる。
手刀を喉狙いで打ち放ったけれど、交差した両鎌の防御を前に後退せざるを得なかった。
互いに距離を取り、油断なく身構える。
見つめ合えば苛立った声で叫ばれた。


「この……っ、大人しく首を寄越せ!!」


はそんな友人の態度に肩の力を抜いてしまった。
眼前で殺意を纏うのは桜色の髪を持つ少女である。
けれど“少女”と呼ぶには奇妙な風貌をしており、それもそのはず、彼女は守り神から派生した結晶体。
人間ではない神聖な存在なのだ。
そのわりには乱暴な口調で殺傷行動に走っているが、個性は大事だとは思う。
口元に笑みを刻み、此処の“番人”フォーに向って言う。


「相変わらずやんちゃな守り神ね」
「テメェの方がよっぽどだ!」
「あぁ、だから気が合うのかな」
「合わねぇよ!合うはずねぇだろ!!」
「え。だって私たち仲良しじゃ」
「ねぇー!!」


全力で怒鳴って、フォーは一気に距離を詰めた。
今度はが動かなかったから、その首筋にぴったりと大鎌が突きつけられる。


「だから何でお前がここにいるんだよっ」
「だから、遊びに来たの」


皮膚に凶器を感じながらもは動じない。
真っ直ぐにフォーを見つめて言う。


「だってすごくいい朝なんだもの。これは一発フォーと遊んどかなきゃと思って。ね、どうかな。ぜひ遊ぼう!」
「…………っ、マジで死ね!!」


フォーは片手を振りかぶり、が避ける。
回転した守り神の脚が腹部に迫った。
はそれを両腕でガードし、さらに振るわれた両の鎌を足場に跳ぶ。
空中側転、少し遅れて長髪がなびいた。
金色の残像を追ってフォーは身を翻す。
目で追えぬほどの速さで打ち合わされる拳と蹴り、その狭間で元気の良いやりとりは続いた。
はいつも通りに明るくて、それがますますフォーを怒らせているようだった。


「……っつ、くそ!」


鋭い蹴りを喰らってよろけたフォーは、そのまま一回転。
遠心力を利用して、鎌の背での腹を思い切り突き飛ばした。


「いい加減にしろ!!」


怒声と重なって鈍い打撃音が響く。
の体は壁に強く叩きつけられ、どさりと床に落ちた
それを見てようやくフォーの顔にも笑みが浮かぶ。


「ハッ!ざまぁみろ小娘が!」
「……………………」
「調子に乗ってるからそうなるんだぜ。あたしと闘ろうなんざ、百億年早いんだよ!!」
「……………………」
「そもそも何が“遊ぼう”だ!そんな体で馬鹿なこと言ってんじゃ……、あ?あれ?」
「……………………」
「あぁそうだったな、お前そんな体だったんだよな。やっべ……、?おい、!」
「……………………」
「おいってば!大丈夫か!?」


ようやくやりすぎたと思い至ったフォーは、ひどく慌てた様子でに駆け寄った。
傍にしゃがみ込んで体を揺さぶる。
手足が弛緩しきっていたから気を失っているのかと思って、無理やりに仰向けさせた。


!!」
「い……」


喋った。
そう思って安堵するフォーに向って、涙を浮かべた金眼が言う。
しかも何だかものすごく素敵な笑顔で。


「いいパンチだ……。歴史に残る素晴らしい攻撃だったよ……」
「…………?」
「まさに“えぐりこむように打つべし”!あぁ私の内臓が感動のあまりガタブル震えている……!」
「あー……衝撃で腹の中えらいことになってんのか」
「ほ、ほんとコレすごい……震えが止まらない……。何だろう、この込み上げてくる押さえきれない感情は……っ」
「それ吐きそうになってんだよ。おい、マジ出すか?洗面器いる?」
「心配するな!アイキャンドゥーイット!!」
「どっち」


痛みのあまりわけのわからないことを口走るを、フォーはついつい冷ややかな目で見下ろしてしまった。
震える手で唇を覆い、妙なオーラを垂れ流し始める。


「ああああああ今なら何か出せそう、すっごいの飛び出せちゃいそうな気がする……!」
「もうノリで喋ってるだろお前」


フォーは冷静に突っ込んだが、は本当に痛いらしく身悶えが激しい。
それでも冗談をやるあたりがさすがといったところだった。


「っとに……。なぁ、ほら手ぇ貸してやるから」


フォーはぺしぺしとの額を叩いて言う。


「帰れよ」


ため息まじりに言い捨てた。
を覗き込む眼差しは冷たく、けれど瞳は優しい。


「こんなところにいないで、早く病室に戻れ」


目は逸らさない。
は腹を抱えたまま、笑顔で答える。


「もっと遊んでよ、フォー」
「話を聞け。いや、聞かなくてもいいから……とにかく帰れ」
「このままじゃ体が鈍っちゃう。お願い」
「駄目だ。まだ」
「へいき」
「そんな傷で、ウチの中をうろつくな」


フォーはに向けた双眸を細めた。
その身に纏う白いアジア服は袖がなく、裾が長い。それを腰で組み紐を使って締めている。
黒染めの下穿きはふくらはぎの辺りですぼまって、やはり組み紐が垂れていた。
格好まで闘る気満々だからフォーはため息をついた。


「病人服はどうした」
「動きにくいんだもの」


だから脱いじゃった、と軽く舌を出すにますます呆れが隠せない。
なにせその体には……むき出しの肌がほとんど隠れるほどに包帯が巻かれているからだ。
頭もそうだし、頬は治療テープが覆っていた。
喋るたびに肉が引き攣るのは、ひどく切ってしまった唇が痛むからだろう。


「お前、全治3ヶ月の大怪我人だろ」


そう言って、黒の教団・アジア区支部の守り神はため息をついた。
数週間前にが此処に来たときは驚いたものだ。
と言っても、それは本人の意思ではなかった。
アクマとの戦闘で重症を負い、一番近くにあったアジア区支部に運び込まれてきたのである。
現在は此処で治療と養生を余儀なくされている。
そしていつものことだと言えばそれまでだが、彼女は自由かつ大胆に毎日を過ごしていた。
そう、つまり先のような無茶を平気でしでかすのだ。
言外にそれを責めると、は眉を下げて笑った。


「半月は大人しくしていたよ。いい加減、寝ているのは飽きた」
「ちょっと動けるようになったらすぐにソレだ」
「じっとなんてしてられない。知ってると思うけど、私これでもエクソシストなんてやってるの」
「戦士としての性……か。まったく、相変わらずだな」
「あはは」


は明るく微笑んだが、やっぱり表情が歪んでいる。
傷が痛むのだとわかっているからフォーはこう言った。


「なぁ、。もう少し大人しくしていろよ。…………バクを怒らせるな。ウォンを泣かせてやるなよ」
「……………………」


案の定、は黙り込んだ。
無茶無謀が趣味である彼女の行動を制限するものといえば、仲間達のことだけだったからだ。
本当はフォーもこんなことを言いたくなかったけれど、今は仕方がない。
わずかに俯いたの金髪を撫でる。


「……どうした?今回は無茶をし出す時期が早いぜ」
「……………………」
「いつもは……そうだな、せめて1ヶ月は動かないだろ」


“動けない”が正しいところだが、とりあえずそう指摘すると、は妙な顔になった。
怒りにも見えたし、悲しみにも見えた。
そこにあるのは強い切なさのようで。
フォーは本気でぎょっとする。
しかしは勢いよくうつ伏せになってしまって、もうそれを確認することはできなくなった。
フォーは目の錯覚だったのかと疑いながら、せわしなくまばたく。


?お前本当にどうしたんだよ。変だぞ」


いつもの無茶っぷりの拍車がかかっているだけでなく、様子までおかしいのは一体どういうことだろう。
これはあまりに妙だ。
フォーは混乱しながらもそう思う。
何故なら彼女は頭を抱えるほどの馬鹿だけれども、本当の意味で仲間の心労になるようなことはしでかさない人物なのだ。
付き合いの長いフォーがそれを知らないわけはないし、今回ばかりは違うという確信など持てるはずもない。


「ごめん」


床に伏せたままのが、唐突に言った。


「ごめんなさい。何だかじっとしていられなくて」


その声が虚勢のように強張っていたから、フォーは瞳を細める。
包帯だらけの体は力が入りすぎだ。
怪我に障ると思って、なだめるように背中を叩いた。


「お前、本部に帰りたいんだろう」
「ちがう」
「違うのか?」
「…………違わなくないけど、ちがう」
「ウチに戻りたくて、そんなにも急いているんだろ?」
「ホームシック、ってこと?……フォー、本気で言ってる?」
「いや、ただ……」


そこでフォーは躊躇したが結局は口にした。
それは横たわったの脚が小さく震えていたからだ。
複雑に折れた骨が痛むのだろう。
もう無理をして欲しくなかった。
原因をただそうと言葉を紡ぎ出す。


「本部の奴らと連絡を取っているとき、お前が妙な顔をしていたからな」
「……………………」
「誰か、気がかりな奴でもいるのか」
「いないよ」

「気にかけることも許してくれない相手なら、いるけどね」


フォーはゆっくりと瞬いた。


「それは…………」


「コラーーーーーーーーーーーーーーーーッツ!!!」


そこで言葉は見事に掻き消された。
響いてきたのは盛大な怒声で、同時に廊下の向こうから騒々しい足音がやってくる。
いくつも重なり合ったそれは猛スピードでこちらへと迫ってきた。


「フォー!その馬鹿娘を捕らえろ!!」


言われたフォーは思わず半眼になって、金髪を見下ろす。


「いつもの迎えが来たぜ、
「あ〜……ははははは」


は気まずそうに笑った。
這いずって身を起こそうとするものだから、フォーは要求とは関係なくその首根っこを取り押さえた。


「絶対に逃がすな!ウォン、縄にかけろ!!」
「はっ!しかしバク様、彼女は怪我人ですぞ」
「知ったことか!!」


の身を心配する声を一蹴し、バクは怒鳴る。


「縛り付けておかねば、また脱走するだろう!いいからやれ!!」


しかし性根の優しいウォンは気が重そうだ。
バクは仕方なく矛先を変える。


「ええい!李桂、シィフ!!」
「ええっ、オレらがやるんスか!?」
「科学班なのに肉体労働を……」


上官に命じられた李桂は驚きの声をあげ、シィフは深いため息をついた。
それでも逆らうことはできないし、金髪の馬鹿を懲らしめたい気持ちもあったようだ。
躊躇いもそこそこに二人は迫る。
フォーに捕まっていたを遠慮なく取り押さえ、縄で丹念に縛り上げた。


「ちょ、待っ、絞まってる絞まってる!ねぇ李桂、喉にロープが食い込んでるよ!シィフも引っ張りすぎ……っ」
「あーうるさい。大人しくしてろ!」
が暴れるからだよ。絡まる……」


涙目のなど構わずに二人は着々と任務を果たした。
そして出来上がったロープ巻きの物体を足裏で蹴り飛ばす。
悲鳴をあげたの体は面白いように転がって、バクの眼前へと突き出された。


「……………………馬鹿娘」


低い声でバクが言った。
は思う。
自分を“馬鹿”と呼ぶときの、相手の雰囲気は誰もが一緒なのだと。
だってバクが放つオーラはアレンや神田のそれと同じだ。
そんなことを思考しながら見上げていれば、バクは露骨に顔をしかめた。


「おい、何を考えている」
「え……、ええーっと。東西における人間の心理比較を少々」
「そんな場合か!随分と余裕だな、……!」


正直に答えれば何故だか地団太を踏んで怒られた。
目を瞬かせながら謝れば、今度は目の前にしゃがみ込まれる。
彼の両手がの頭を掴んだ。


「きーさーまーはぁ!どこまで問題児なのだ!!」
「いえ、これでも目指してます優等生キャラ」
「逆走しすぎだ!!」
「やっぱり人気なのは、清楚で可憐な委員長さんタイプの女の子ですからね!」
「貴様ほど程遠い奴もおらんだろうが!いいから、ひとつくらいオレ様の言うことを聞け!!」


ガンガン振り回されて舌を噛みながらも言葉を返してくるを、バクはぞんざいに放り捨てた。


「本当に、いくら説教をしてやっても足りないくらいだ!」


そう言うのも拳を握っての盛大さだ。
は床の上に転がったままそれを受け止めた。
そうして心配をかけたことを謝罪しようとしたが、バクに先を越される。
彼はさんざん文句を言った後だというのに、今さらそれを投げ出したようだった。
が謝ろうとしていることにも気付かずに首を振る。


「いや、もういい。貴様には何を言っても無駄だ。言葉が通じんのだからな」


そこで声の調子が変わった。
頭を下げた状態のに向って言い放つ。


「しかしオレ様は諦めんぞ!さぁ来い、馬鹿娘を無力化する最終兵器!!」
「え」


見下ろしてくるバクの不遜な顔。
その笑みの怖いこと。
彼の指がパチンと鳴った。


「蝋花!!」


名前を呼ばれた瞬間、小柄な少女がウォンの後ろから飛び出してきた。


「げっ」


バクの作戦を一瞬にして正確に悟ったは、泣き出しそうな顔で呻いた。
しかし蝋花はもっと泣き出しそうだった。
黒い瞳に今にも零れ落ちそうなほど大量の涙を溜めていたのである。


「う゛うううううううううううっ」
「ろ、蝋花……?」
さん……っ」
「は、はい」
さんの……!」
「はい!?」
「馬鹿ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
「泣かせたー!!」


叫ぶと同時に滂沱の涙を流し出した蝋花に、は心底慌てた。
黒髪の少女は床に崩れ落ちて顔を覆っている。
マジ泣きだ。
蝋花は本気で泣いている。
そしてその原因が自分であるとわかっているだけに、の胸には鈍痛が走る。
こんなのは女性の味方!である自分にあるまじきことなのだ。


「ああああああ、蝋花!泣かないでっ」
「バカバカバカバカバカー!何でいつもこんな無茶するんですかー!!」
「いやあの、何とも爽やかな朝だったので思わず体を動かしたくなっちゃってね、その……っ」
「動かないでくださいよ!お腹の傷がまだ塞がってないじゃないですか!そんなの駄目ですー!!」
「ううん、平気!もう痛くないよ!だから落ち着いて……っ」
「私はお医者様じゃないから大丈夫かなんてわかりません!それでも、さんが元気になるまで精一杯お世話しよう、って……!」
「え、そうなんだありがとう!」
「それで今朝も気合い充分で病室に行ったのに……っ、居ないとはどういうことですか!?本当にひどいですー!!」
「う、うん、ごめ……っ、ホントにごめんね!ごめんなさい!!」


はロープで縛られたまま床を転がりまわって、何とか蝋花に近づいていった。
落ちてゆく涙が止まらないから、全力で頭を下げる。
何とかなだめようとするが、お得意の口説き文句も今はうまくいかない。
自分が泣かせた女の子というのは絶対になかったシュチュエーションなので、いい解決方法が思いつかなかったのだ。


「己の罪を思い知ったか、馬鹿娘!」


バクが言うが、その顔も引き攣っている。
まさか蝋花がここまで泣き喚くと思っていなかったのだろう。
収拾のつかなくなった事態に他の者達も引いていた。
フォーなどは「あたし知らね」と言って、そそくさと門の中に逃げていった。


「うわーん、うわーん、うわーん!!」
「泣ーかーなーいーでーぇ!!」


こうしては、反省の旨を土下座して伝えることになったのだった。




















『それは大変だったねぇ』


通信ゴーレム(通称レムちゃん)からコムイのクスクス笑いが漏れてくる。
あまりに楽しそうなその声に、は深いため息を返した。


「大変なんてものじゃありませんよ」


呟きは石造りの病室に響いた。
薄暗い中で視線を下げる。
ベッドに起き上がったの膝の上には、黒髪の頭が乗っかっていた。
蝋花がそこに突っ伏して眠っているのである。


「どれだけ泣かれたことか……」


思い出しただけでまで泣けてくる。
あの後、バク達の要求どおりに大人しく病室に戻ったのだが……。


「蝋花ってば病室に仕事を持ち込んで、此処でやる!って聞かなかったんですよ」
『君が目の離せないようなことばかりするからだろう?』
「そう。そう言ってました……」


そんな蝋花に全力で謝って、慰めて。
泣き疲れて眠ってしまった今でも、病人服の裾を掴んで離さない小さな手を撫でる。
もう片方の手はせわしなく動かしていた。


『で、悲しみに沈んでいる彼女の代わりに、ちゃんが仕事をしてあげてるって?』
「………………」


は思わず自分のゴーレムをまじまじと見つめた。
確かこれには映像転送機能はついていなかったはずだが。


「何でわかるんですか」


左膝に蝋花の頭を置いて、右膝の上で書類に書き込みながら訊く。
彼女を仕事のできない状況にしてしまったので、責任を取ろうと自分がそれに励んでいたのだ。
もちろん体の負担にならないように気をつけて。
蝋花を起こさないようにコッソリと、だ。
だからそのような気配など回線の向こうに伝わるはずがない。
まったくコムイは、普段はおチャラけたお兄さんのくせに妙に鋭いところがある。
千里眼でも持っているのではないのかと疑ってしまう。
けれど当の本人は普通に答えた。


『それくらいはボクでもわかるよ。何年の付き合いだと思ってるんだい』
「そういうものですかー」
『うん。けれど予想外のこともある。今の君は心配だ』
「……………………」


急に言われてはペンを止めた。
アジア地方の言語を書くのは久しぶりだからちょっと拙い筆跡だ。
しかもさっきのことでインクが滲んでしまった。
思わず眉を寄せたに、コムイの声が降ってくる。


『バクちゃんから連絡があってね。……“いつもより無茶が過ぎる”って』
「……すみません」
『じっとしていられないんだって?』
「何だか落ち着かないんです……。調子が狂ってるのかな」
『支部にいるから……ではないだろう。君はそこの人たちとも仲が良いはずだ』
「とてもよくしてくれています。愛のムチがすごいけど……そんな皆が大好きですよ」
『じゃあ、どうして』
「…………コムイ室長」


名を呼んだ後も、しばらく言葉が出なかった。
インクの滲んだペン先を睨みつける。
コムイは何も言わずにただが口を開くのを待っていた。


「あの……」
『ん?』
「……………………………………元気ですか」
『誰が?』
「あ、………………あれ…………、ええーっと。テ、ティム!ティムは元気ですか!?」
『ティムキャンピー?いつも通りだと思うけど』
「故障、したりとかは……」
『ええ?してないよ。どうしてそんなことを聞くんだい?』
「いえ!何でもないです。元気なら、それで……」
『………………ちゃん?』
「どうか、もう心配しないでください。無茶は控えるとお約束します。きっとすぐに帰りますから」


はそれ以上続けずに、微笑んだ。
見えはしないけれど伝わるだろう。
心からの笑顔を浮かべる。
少しの沈黙の後、苦笑するようにコムイは答えた。


『………………、わかったよ。本当にすぐに帰ってきてね』


は“了解”と敬礼をする。
コムイが通信を切るのを待ってから、こちらからも切断した。
さぁ仕事仕事!とペンを持ち直して、書類を完成させてゆく。
病室に響くのは蝋花の寝息との筆音、そして点滴がゆっくりと滴る音だけだった。
けれど心地良い静寂を引き裂く、ゴーレムの羽ばたき。
何ともせわしなく頭上を飛び回っている。
いつもなら通信を終えればすぐに服の中に戻るのに。


「いたっ」


ついにゴーレムはの頭に体当たりをした。
無言の主張を無視されて怒ったようだ。
見上げるとジェスチャーで“通信しろ”と訴えられた。
は痛みにヤケになって、乱暴にそれに従う。
しばらく機械音が続く。
接続する先を探している。
そして、


ツー、ツー、ツー……。


無常な事実を教えてくれた。


「ほら、やっぱり今日も通じない」


は不機嫌に言い捨てて、通信を叩き切った。
ゴーレムは落ち込んだようでごそごそとベッドの中に潜ってくる。
羽根を伏せてに寄り添った。
そんな様子を見てはさすがに唇を緩めるしかない。


「レムちゃんが悪いわけじゃないよ。悪いのは……」


苦々しく名前を呼ぶ。


「アレンよ」


そうすれば腹立ちよりも切なさが沸いてきて、は思わずペンを放り出してしまった。




















避けられている。
そう感じ出したのは、もう数ヶ月も前のことだった。
最初はとてもわかりにくかった。
気がそぞろで、心此処に在らずという感じだったのだ。
はきっと何か心配事でもあるのだろうと思って、そっとしておいた。
力になれるものならなりたかったが、こちらから出しゃばってはただのお節介だ。
向こうから言ってきてくれるまで信じて待とうと、密かに決めていたのだが……。
アレンの態度は悪化するばかり。


(無視だもんね、無視)


仕事を中断して、は思い出す。
片手で眠る蝋花の髪を撫でてはため息をついた。


(もうずっと、アレンに無視されてる)


ろくに挨拶もしてくれなくて、話しかけてもまともに答えない。
それどころか視線すら合わせようとしないのだ。
一ヶ月以上、そんな状態が続いている。
トドメはこれだ。


(私が任務でいなくなるって知ったら、満面の笑顔を浮かべてくれちゃって。そんなに私と居るのが嫌か、嫌なのか!)


嫌なのだろうな、と冷静な自分が返すから落ち込まざるを得ない。


(な、何かしたかな私。アレンに……)


深刻に考えてしまうほどアレンの避け方は露骨になってきていた。
何故ならアジア区支部にお世話になっているこの半月間、何度連絡しても通話を拒否されているのだ。
リナリーやラビはいつも通りだし、神田だってしぶしぶ出てくれる。
それなのにアレンだけは繋がりもしない。
ティムキャンピーが故障でもしたのかと思ったが、それもないとついさっきコムイに言われてしまった。


(これは完璧だよね。完璧に避けられてるよね。……通話拒否どころか存在拒否だったりして)


そんなことを考えれば胸がざわめいた。
アレンのことを考えるたびに変な感じになる。
内側から燻ぶられるみたいに心臓がじりじりするのだ。
内腑がゆっくりとよじれてゆくような。
体の中がまともに機能していないのではと疑いたくなってしまう。


健康マニアを気取っているだけあって、はあまり体調を崩したことがない。
けれど今の症状は数えるほどしか経験していないそれと似ている気がする。
どうすれば回復するのかわからない。
じっとしていられない。
会えないからかさらに落ち着かなくて、そんな自分を認めたくなくて。
こんな鬱々とした気分は動き回って発散させるに限るのだ。
けれどそれをすれば、みんなに心配をかけてしまった。


「ごめんなさい」


フォーに、バクに、ウォンに、李桂とシィフ。
そしてコムイを想ってそう告げる。
涙の滲む蝋花の睫毛を見つめながら、その黒髪を撫でた。


「ごめんね……」


本当に気分が重くて、は片手で顔を覆った。
何だか馬鹿みたいだ。
早く元気にならなければと思う。
そしてホームに帰らないと。


(……帰っても、また、無視されるんだろうか)


“ただいま”と言って、“おかえり”と笑ってくれなかったら。
私はどうするんだろう。
私はどうなるんだろう。


(どう……?)


考えたそばから自分を笑う。


(どうしようもないじゃない。だって喧嘩したわけでもない)


本当に、どうしようもないのだ。
身動きが取れない。
謝ることもできないし、話し合うことも不可能だろう。


(喧嘩なら……、よかったのにな)


いつもの喧嘩なら、互いに構えることもなく普通に戻れたはずだ。
今はそれすら懐かしい。
遠い、と思った。
物理的な話ではない。
は今大陸の東にいて、アレンは遥か西だ。
けれどその距離以上に、心が遠い。
彼が何を考えているのかわからない。
あまりにも急に遠のいてしまって、混乱する。
置き去りにされた気分になるのは被害妄想だとわかっているのに、何故だかそれを押さえることができなかった。


「もうすぐ」


は上半身を折って、シーツに額をつけた。
うずくまって囁く。


「もうすぐ誕生日なのにな……」


クリスマスが、近い。
彼が養父に与えられた、記念日がやってくる。
一昨年も、去年だって一緒にいたその日が、また巡ってくる。
今年は傍にいられないだろう。
彼は自分を拒絶している。
腹立ちとも悲しみとも違う感情に、胸が締め付けられる。


「アレン」


それでも名前を呼んで浮かぶのは、雪の夜に笑う彼の顔。
子供のような笑顔だった。




















「何をしている」


バクが引き攣った声で訊いてきた。
はベッドに入ったまま、彼を見上げる。
アジア区支部にお世話になって、すでに1ヶ月半が経過していた。
最近はも大人しく療養していたので、バクが昼間に顔を見に来るのは久しぶりのことだった。
本来、支部長さまは夜中近くにならないと身が空かない、忙しいお方なのである。
今日は都合をつけて来てくれたのだろう、はきちんと挨拶とお礼を述べた。
けれどバクはそれに答えずに、上の質問をぶつけてきたのである。
は立てた枕に背をあずけて作業に戻った。


「ここをこうして……こう!見てわかりませんか?バク支部長」


ちらりと視線を投げるとバクは何だか青ざめていた。
は「何だその反応」と思ったが、口にする前に横から手が伸びてきた。
手元を指差される。
ベッドの周りを取り囲む女性支部員たちだ。


ちゃん。そこ、違うわ」
「そうね。そこはこうね」


四方八方からアドバイスが飛んでくる。


「ああ、本当だ!ありがとうございます」
「いいのよ。あなたに教えるのは楽しいわ」
「ねぇ、上達が早いもの」
「うんうん。形になってきた」


きゃっきゃウフフと盛り上がる賑やかな室内に、バクはかなり引いているらしい。
扉のところに立ったまま入ってこない。
女性たちの中心にいるを睨みつけて言う。


「見てもわからん。貴様は何をしている」
「編み物ですよ。アジアでも知られているでしょう?」


はせっせと編み棒を動かしながら答えた。
周りを囲む一団も同じようにしている。
色とりどりの毛糸が広がっていて、何とも目に楽しい光景だ。
けれどバクはどうしても納得できない。


「嘘だ!貴様にそんな女性らしいことができるものか!!」
「よーし、今の発言はかなり失礼でしたよ!上官だからって何言ってもいいと思ってるんですか!?」
「うるさい、料理が下手ときたら裁縫だって出来んのがお約束だろう!何を器用にやってのけとるんだ!!」
「裁縫じゃなくて編み物!それにこれだって、最初はひどいものでしたよ!!」


情けないことを胸を張って言ってから、は説明した。


「料理と違って周りに被害が出ませんからね。思い切り練習ができたんですよ」
「はぁ……」
「それに昔リナリーに習ったことがあって。“作った物は一番にちょうだいね”って言っては根気よく教えてくれました」
「なるほど、リナリーさんが」


そこですぐさま頷くバクがちょっと恨めしい。
このリナリー教信者め。


「体を動かすことは禁止されているので、かわりに気が紛れるものを考えたんです」
「それで、編み物か?」
「はい。これならベッドの上で出来ますから」
「本はどうした?百冊以上は貸してやっただろう」


バクが首をかしげると、はあっさり答えた。


「全部読んじゃいました。返すついでに書庫室整理しておいたんで、後でチェックお願いします。並びは写してきたんで」


そう言って詳しく書き込まれた紙を渡されては、バクとしてはため息をつくしかない。


「貴様……、やはり病室を抜け出しているではないか」


はあ、と唇を押さえて慌てて謝る。
まぁ暴れていないだけ大した進歩だ。
リハビリのために少しばかり出歩いていたのは知っていたことでもある。
バクは力を抜いて微笑んで、ようやく病室に足を踏み入れた。
支部員のひとりが席を譲ってくれたのでそこに腰掛ける。
近くで見て感心した。


「上手いな」
「えへへ。ありがとうございます」


そう笑いながら動かす手はゆっくりだが、楽しそうなものだ。


「やっているうちに色んな人がアドバイスをくれて。今ではこんなに付き合ってくれてます」
「ほう。支部員が仕事の空き時間に交代で来ているわけか」
「ええ。模様を入れる位置を教えてくれたり、新しい図案を見せてくれたり……。本当に親切で、素敵な女性ばかりですね」
「……………………」
「編みあがった物をプレゼントされる恋人さんが羨ましい」
「…………女たらしのような台詞だな」
「本心ですよ」


バクが鼻を鳴らせばが言い返す。
顔を見合わせて笑った。


「しかし、貴様がこんな女性らしいことをするとは驚きだ」
「何で皆揃ってそう言うんですか」
「身に覚えがないのか」
「む……。それにしたってひどいです。フォーなんて飛び上がって一目散に逃げていったんですよ?」
「ひいじじの守り神をそこまで脅かすとは、さすがだな!」


バクが大げさに言ってみせれば、の拳が飛んでくる。
ぽかりと肩を当たったが全然痛くない。
笑い声をあげて金髪を撫でた。
バクは静かに吐息をついた。


「…………随分回復したみたいだな」
「みんなのおかげです。ありがとう」
「だが、気持ちの方は紛らわせるだけのようだ」
「……………………」
「コムイから聞いたのだが……聖夜までには、本部に帰りたかったんじゃないのか」
「いいえ」


問いかけは優しかったのだが、は思わず遮るようにそう答えてしまった。
バクが瞬きながら見つめてくる。
は何か言おうとしたが、結局ただ微笑み返した。
あぁ今うまく笑えているかな、と思う。
変な顔をしていなければいいのだけれど。
バクは瞳を細めると、髪を梳く手を後頭部に回して引き寄せた。
は大人しく彼の肩に寄りかかる。
ついこの間まで包帯の巻かれていた部分を撫でられた。
こめかみの傷を辿る指先。


「あまり意地を張るな」


独り言のように呟かれたけれど、は答えない。
バクはわざと明るい声を出した。


「聖夜に間に合わんが、いい出来だ。帰ったら贈ってやれ」


指し示したのはの編んでいる黒い毛糸だ。
もうすぐ完成といったところまできている。
は苦笑して肩をすくめた。


「バク支部長のご期待にはお応えできないと思いますよ」


薄い微笑みを唇に、目を伏せて囁く。


「だって……」


けれどバクがその続きを聞くことはなかった。


バァァァァアアアンッツ!!


と騒々しい音を立てて、病室の扉がぶち開けられたからだ。
ここでそんな暴挙に出るのは一人しか考えられない。
だからバクは振り返って怒鳴った。


「フォー!扉は静かに開けろとあれほど……」


そこで、絶句した。
視線の先にいたのは桜色の髪を持つ守り神ではなかった。
彼女よりも背が高くて手足も長い。
全力疾走してきたのか、ぜいぜいと息切れをしていた。
肩が大きく上下して苦しそうだ。
冬だというのに頬を汗が伝う。


「……………………た」


喘鳴に混じって何か言ったが聞き取れない。
しかしそれでバクは我に返って、改めて混乱した。


何故、彼が、ここにいる?


「見つけた……」


今度はちゃんと聞こえた。
前のめりだった体を起こし、扉板に突き立てていた腕を離す。
酸素が足りなくて目眩を起こしているのだろう、何だかフラフラしていた。
それでも彼は真っ直ぐにこちらにやってくる。
距離が縮まる。
バクは椅子を蹴倒しながら叫んだ。


「ウォーカー!何故ここに…………」


言葉の途中でアレンは平手を振り上げ、そのままの勢いで下ろした。
ぺしんっといい音がして、ベッドの上の金髪がはたかれる。
バクはまた絶句し、も同じように呆然としていた。
それにまったく構わずに彼は怒鳴った。


「やっと見つけた!」


乱れた白い髪。
色素の薄い眉はつりあがり、瞳に宿った光も鋭い。
いつもの穏やかな顔は何処へやら。
エクソシストの証である漆黒のコートを纏った少年……それは先刻まで暗として話題にしていた人物、アレン・ウォーカーだった。
彼は唖然とする一同の前で、ただだけを見つめている。
そしてぷんすか怒っていた。


「何だって君はこんなわかりにくい部屋にいるんだ!おかげで迷子になったじゃないか!!」
「…………………………」
「フォーが来てくれなかったらどうなっていたことか……。大体こんな遠い支部にお世話になっていること事態がおかしいんだろう!」
「…………………………」
「何を大怪我してるんだか!まったく馬鹿にもほどがある!!」


アレンは延々と怒りをぶちまけては、まずます皆を呆気に取らせていた。
なんて頭を叩かれたり頬をつねられたりしたが、まったくの無反応だった。
だってこんなのは意味がわからない。
記憶にある限り避けまくっていたくせに、唐突に現われて怒鳴られても。
が何も言わないからか、アレンはバクに向き直った。
まだ気が立っているらしく、乱暴に頭を下げる。


「バクさん。うちの馬鹿がお世話になりました」
「い、いや……。だからキミは何故ここに……」
「そんなの決まってるじゃないですか」


アレンはさも当然とばかりに言い放つ。


を迎えに来ました」


は?と聞き返すより早く、アレンはの腕を掴んだ。


「ほら、帰るよ」


ぐいっと引っ張られて、ようやくの思考回路も復活してきた。
そうして最初にしたことといえば、アレンの手を思い切り振り払うことだった。


「な、何言ってるの!?」


ぱくぱくと口を動かして、とにかく出てきたのはそれだった。
一度言えれば次も出てくる。


「何でアレンがここにいるのよ!」
「言っただろう。君を引き取りに来たんだ」
「わ、わざわざ?本部から?そんなわけないでしょ……?」
「何で」
「だって……っ」


いくら友人といえども、支部で静養中の者を迎えに来るはずがない。
教団はそんな人情的な措置を取ってくれるような団体ではない。
ましてや今、彼と自分は気まずい状態のはずだ。
それなのに何を……!


「意味がわからない」
「わからなくてもいいよ。君の頭が駄目なことは知ってる」
「ちょっと!」
「いいから帰るよ」
「や、やだっ」


混乱のあまりは咄嗟にそう言ってしまった。
伸びてきたアレンの手から逃れれば、銀灰色の瞳が見開かれる。





けれどそれはすぐに細められた。
恐ろしい光を放って。


「なに?何だって言ったんです?」
「い……っ、嫌だって言ったのよ!」
「よくわかりません。どういうことですか?」
「訊きたいのはこっちよ。何で……っ」


言いたいことはたくさんあった。
顔を見たらぶつけてやろうと思っていた言葉なんて、数え切れないほどだ。
それなのに。


「なんで……」



アレンが呼んだ。
何だか苛々した様子だ。
彼は早口に続ける。


「時間がないんだ。とにかく帰ろう」


そう言ってまた自分を捕まえようとする手を、は反射で避けてしまった。
アレンの顔がさらにムッとしたものになる。
続けて手が繰り出される。
は本能的に回避する。
どちらも意地になって続けていると、案の定焦れていたアレンが先に切れた。
盛大に舌打ちをされては思わず言う。


「神田みたい……」
「そんなことはどうでも……」


アレンは咄嗟にそう返したが、すぐに顔をしかめた。


「いや、あのパッツン侍と一緒にされるのは不愉快だ。心外すぎます」
「あぁ……、英国紳士としては死活問題だよね」
「はい。というわけで、僕は僕らしく対処させてもらいますね」
「は……?はぁ!?」


宣言するやいなや、アレンは左手を構える。
不穏極まる気配が爆発した。


「君が嫌だと言うのなら、強制的に連れて帰るまでだ」


そうして、アレンは当然の如くイノセンスを発動した。


ぎょっとしたのはだけではなかった。
支部員はざわめき、バクが止めに入る。
けれどアレンは大丈夫だと笑顔を振りまき、に迫った。
何が大丈夫なものか。
壮絶な殺気にさらされては泣き出しそうに思う。
怖い。
本気で怖い。
そしてこれは何て久しぶりのシュチュエーション!


「あれー?何だか私のほうが死活問題!?」
「いいえ、僕は君の心を悩ませたりはしませんよ。問題として考える間もなく……、確実に仕留めます」
「な、なに言っちゃってるのこの人……!」


は凄まじい負オーラにびびりながらも訴える。


「アレン、ちょっと落ち着こう?そして基本的人権ってものを思い出してみよう?」
「嫌です、面倒くさい」
「そう言わずにレポート100枚にまとめてこい!」
「嫌です、面倒くさい!」
「とにかく私の生存権を守ってよ!!」
「嫌です、面倒くさい!!」
「く、繰り返すなー!!」


は叫んだが、アレンはもう容赦なく襲い掛かってきた。
左手が空気を引き裂き振り下ろされるから必死に避ける。
支部員たちの悲鳴が響く。
バクが制止の声をあげたが、アレンは構わないしもそれどころではない。
ベッドから転がり落ち、何とか受身を取って起き上がる。
そしてそのままアレンの横をすり抜けて走り出した。
恐怖のあまり振り返ることもできなくて、全速力で病室から飛び出してゆく。


「や、やめんか二人とも!」


バクの叫びも、みるみる遠くなっていった。
アレンを後に残してはひた走る。
地下だから昼間でも薄暗い廊下を一直線に通り抜ける。
これだけ動けるとは、本当に回復したようだ。
頭の片隅で冷静にそう判断した。


「あれ?じゃねぇか」
「静養中の人間が何をして……」
「は、走ったりしたら駄目ですよー!!」


どんどん前進していけば、廊下の隅からそんな声が飛んできた。
李桂、シィフ、蝋花の科学班3人組だ。
驚いたり呆れたり慌てたりでそれぞれが反応をくれる。
は答えようとしたけれど、何か言う前に蝋花の表情が変わる。
見開かれた黒い瞳が潤み、頬が赤く染まったのだ。


「え?ウォーカーさん!?」


はぞわり、とする。
凄まじい殺気が背後にあり、それが確実に自分を追いかけてきていたからだ。
考えるまでもなく走るスピードをあげた。
逃げれば追われる。
考えてみれば当然なのだが、他にどうすればよかったというのだろう。
とにかくアレンに捕まれば世にも恐ろしい事態が待っていることは明らかなので、逃げ切る努力をしなければ。


「ああ、皆さん。お久しぶりです」


全速力で走りながらも優雅に挨拶をするアレンが恨めしい。
どうせ今も素敵な笑みを満面に浮かべていることだろう。
は見事に懐柔されている科学班3人に必死に訴えた。


「騙されるなみんなー!あの笑顔は凶器よ!私を追い詰める凶器っ」


現に今、かなりのスピードで追い詰められている。


「裏にはドロドロとした邪悪なアレが渦巻いてるんだから!」
「相変わらず潔い馬鹿ですね、。そんなに言わなくてもちゃんと殺ってあげますって……!」
「う、うわっ……逃げて、みんな逃げて!必殺・腹黒アタックがくるぞー!!」


悲鳴をあげた瞬間、アレンの技が発動した。
そして容赦もなく『十字架ノ墓クロスグレイヴ』が放たれる。
は衝撃に飛び上がって、床をごろごろ転がって逃れた。


「……っつ」
「皆に警告しなくても結構ですよ。僕の狙いは最初から君ひとりです」


その言葉通り、攻撃はピンポイントで行われている。
間違っても関係のない人間を巻き込む心配はなさそうだ。
は床にずっこけたまま呻く。


「そうだね……。私だけが逃げればいいみたい」
「……………………させませんよ」


痛む頭を押さえながら言えば、アレンの雰囲気が変わった。
何だか普段よりも恐ろしい。
すがめられた瞳が刃のようだ。
は瓦礫を蹴散らして飛び起きた。


「な、何なのよアレンは……っ」
「君こそ何なんですか。大人しく僕の手に落ちてくださいよ」
「“アレンから無事に逃げ切る”っていう素敵な展開を希望したいんだけど」
「妄想も大概にしてください。そんなこと起こりうるわけがないでしょう」
「私なら何とかできると信じたい!」
「だったらその夢を打ち砕いてあげます」


はアレンがイノセンスを構えなおすのを見る前に、身を翻した。
再び全速力で逃げ出す。
これ以上まともに向かい合っていればどうにかなってしまいそうだった。


……」


何かを悟ったらしい李桂が哀れみの目を向けてきた。
隣のシィフまで同情顔だ。


「早めに諦めたほうがいいぞ……?」
「うん。無駄な抵抗だと思うよ」
「何それ、私 孤立無援!?」


頼みの蝋花もアレンを見つめるのに忙しいらしくて構ってくれない。
は涙を浮かべて、もう三人組を振り返らずにその場から走り去って行った。


「一体どうしたんですか、ウォーカーさん」


遠く背後で蝋花の声がする。


さん、泣き出しそうな顔してましたよ」


それはアレンに追いかけられているからだ。
それだけ。
純粋な恐怖からくる、自然現象で。


だったら何故「違う」と言い訳したくなる自分がいるのか、にはさっぱりわからなかった。




















「フォー!」


ぜぇはぁ言いながらは叫んだ。
息が続かない。
本当に苦しい。
それもそのはず、もう随分長い時間アレンと追いかけっこを楽しんでいるのだ。


「フォー……っ」


体を支えていられなくて、叩きつけるように両手を門に当てる。
アレンの姿は、今は見えない。
何とかここまで逃げてきたが見つかるのも時間の問題だ。
元より歩幅の差があるし、の体は万全ではないのだ。
アレンの方向音痴を利用してここまではやってくることができたが……。


(どうやっても、最後には捕まってしまう)


だからは必死に言う。


「お願い、フォー!」


握った拳で彼女の住む門を叩いた。


「たすけて!!」


アレンに対抗できそうなのは“守り神”であるフォーくらいだ。
此処、アジア区支部で彼女ほど頼りになる存在もいない。
は何度も名前を呼んで、匿ってくれるよう頼んだ。
しかし返答はない。
辺りはしんとしたままだ。


(居ないの……?)


それとも居留守を決め込んでいるのか。
そもそもアレンにの居場所を教えたのは彼女だというのだから、有り得る話だ。


(それにおかしいもの。何が“たすけて”よ……)


はぐちゃぐちゃになった頭で考える。
“たすけて”なんて言うのはおかしい。
相手はアレンだ。
こんなのはいつもの喧嘩の類だ。
だから“たすけて”はおかしい。


(たすけて欲しいのは、私の頭。わけのわからないこの考えよ)


呼吸が続かなくて咳き込んだ。
こんなに走ったのは久しぶりだった。


(なんで……、こんな。アレンの顔がまともに見れないなんて)


真っ直ぐに向かい合えない。
視線を逸らしたくなる。
同じ空間から、逃げ出したくなる。
アレンが襲い掛かってきたこともあるが、そのせいでここまで走ってきてしまったのだ。
なんて失礼な話なのだろうと思うけれど、自分で自分がわからなくなるのは今に始まったことではない。


(私……アレンに会いたかったのに、会いたくなかった)


矛盾した気持ちをは抱えていた。
それはアジア区支部にお世話になっている間。
つまりアレンの居る本部から離れている時間、ずっとだ。
理由もわからず自分を無視する彼に、会いたくてたまらなかった。
それは文句を言いたかったからだ。
何の前触れもなく避けられては当然だろう。
ただ面と向かって、いつものように喧嘩をしたかった。
このまま黙って離れてゆくことだけは、嫌だったのだ。


けれど同時に会いたくなかった。
どうしても、アレンの顔を見たくなかった。
会って、向かい合って、目を見て、そこにもし嫌悪の色があったならばどうすればいいのだろう。
可能性はゼロではない。
文句を言い喧嘩をして、そこではっきり“嫌いだ”と告げられたならば……。
アレンがそんなことを言うはずはないと思うけれど、避けられているのも嘘ではないのだ。


たまらなく会いたくて、どうしても会いたくなかった。
だからこそ皆に心配をかけるようなことをしまったのである。
早く動けるようになりたいと焦り、無茶をして伏せる羽目に陥る。
馬鹿みたいな行動と、おかしな考えを繰り返す。
今、反撃もせずにアレンから逃げ続けようとしていることも同じだった。


信じているからこそ不安になる。
怖く、なる。


(怖い……?)


は自分の考えに心底驚いた。


(私、怖いの?)


変な話だ。
今までだって何度も突き放されてきた。
好意的な関係にあった人間でさえ、自分の特殊な境遇を知れば遠のいていった。
拒絶され、絆を絶たれる。
よくあることだ。
そんなのはいつものことだ。
怖いなんて、こんな風に逃げ出すほどに思っていれば、生きてなんていけなかった。
今までの人生を歩んで来られたはずがなかった。
それなのに今さら怖いだなんて。


(わからない)


アレンがわからない。
それ以上に自分の心がわからない。
混乱して苦しい。
目の前が暗くなるのは酸素が足りないせいだけなのだろうか。


(たすけて)


幾度ともなくそう思った。
助けてほしいのはこの乱れ切った思考からだ。
もうバクたちに心配をかけたり、アレンから逃げたりしたくなかった。
だから心を教えてと自分自身に願う。


(いつものように何とかしてよ、“”)


裸足の脚が冷えた床に痛い。
息が乱れて目眩がする。
目の前が暗くなって、は足の力が抜けるのを感じた。
扉を手がつたい崩れ落ちる体。


その直前、背に温もり。


頭の後ろから伸びてきた手が、門に突いたの手首を掴んだ。
もう片方の手が腰にまわされる。
少年の腕が、立ちくらみをおこしたの体を、背中からしっかりと支えたのだ。


「馬鹿」


耳元で声がした。
はハッとして体を強張らせる。


「僕から逃げるからそうなるんだ」


アレンの顔はすぐそこにあった。
側頭部に頬を感じる。
耳を白髪が撫でていった。
は動こうとしたけれど、門戸とアレンの体に挟まれていて叶わない。
後ろから抱きしめられるような格好だから、振り返ることもできなかった。


捕まった。
そう理解したは、反射的にアレンから離れようとした。
結果、勢い余って眼前の門に思い切り額をぶつけてしまった。
ガンッ!とにぶい音が響き、即座に涙が浮かぶ。
驚いたアレンがの肩口に首を伸ばして覗き込んでくる。


「な、何をして……」


呆れた声が聞こえるけれど答えられない。
あまりに痛いからそのまま門にごちごちと頭をぶつけてみた。
もちろん、痛覚を誤魔化すために軽くだが。


「やめてください。それ以上馬鹿になる気ですか」


それでもアレンが制止してくる。
は門から引き剥がそうとする手に、足を踏ん張って堪えた。


「嘘よ」
「は?」


半分泣きながら言う。


「頭をぶつけたら脳細胞が破壊されて、馬鹿になるって話。あれ、嘘なのよ」
「はぁ」
「医学的に証明されてる。ちゃんとした文献で読んだし、ラスティ班長にも聞いてみた」
「ああ……、そう」
「ただの迷信だから信じないでね」
「だからって壁に頭突きをすることが良いことだとは思いません。止めてください」
「……………………」
「止めて、


そう言われては動きを止めるしかない。
けれどアレンに引かれるままにはならずに、門戸に額を押し付けた。
寄り添う気配がまた苛立ったものになる。
怒らせたいわけじゃないのだから、やっぱり馬鹿なことをしていると思う。





低い声でアレンが言った。


「どうして僕を避けるの?」
「………………………………………………………………は?」


たっぷり時間を空けたあと、は間の抜けた返事をしてしまった。
ぽかんと口を開けてアレンの気配を窺う。
そこに本気の色を見つけて、の困惑は最高潮に達した。


「はい?え……あれ?避けてる、ってアレンが訊くの……?」
「だって避けてるでしょう、思い切り」
「ええ……!?」
「僕から全速力で逃げ出したくせに」
「それは、アレンが無理やり捕まえようとするから……」
「君が大人しくしないのが悪い」
「だからって襲い掛かってこないでよ」
「……それでも、いつもと違う。何だか……」
「そ、それは……」


アレンは本当に不機嫌みたいで、声もオーラも怖い。
は罪悪感を抱いたが戸惑いも隠せなかった。


「で、でも。アレンこそずっと私を避けていた、でしょ……?」


ぐるぐるする頭でそう訊けば、アレンの肩が揺れた。
瞬きをする睫毛がの髪に触れる。


「避けていた、けれど」


はやっぱりと確信すると同時に、心を打たれて硬直した。
一瞬呼吸を忘れる。
すぐに静かなため息となった。


「そう。だったら……」
「でも、違う」


の言葉はアレンに遮られた。
無理に引き寄せようとする手が緩み、代わりにぎゅっと抱きつかれた。
それは門戸に押し付けるようで完全に身動きを封じられる。
ぴったりと寄り添われたからアレンの鼓動がの背中で鳴っていた。


「避けていたわけじゃないんだ」
「え……」
「そんなんじゃ、なくて」


そこでアレンは黙ってしまった。
ただ後ろから抱きしめられる。
心臓が脈打つ音と、耳元で繰り返される呼吸が何よりも近い。
は思わず腰に回されたアレンの腕を掴んだ。


「離して」

「お願い」
「嫌だ。君は逃げるだろう」
「……これじゃあ、顔が見えないじゃない」


本当はそれが、それだけが怖いのだけれど、は何とか微笑んでみせた。


「会話も喧嘩も、向かい合ってするものでしょう」
「……………………」
「私達はずっと、そうしてきたはずよ」


いつもの二人に戻れるのならば、それしかないと思う。
何よりも強く願うことだ。
恐怖に打ち勝たなくてはいけない。
そう告げればアレンも少し笑ったようだった。


「…………、そうだね」


彼は離れる前に肩口の金髪に顔を埋めて、吐息をつく。
そうして意を決したように腕を緩めた。
も一度長く息を吐いて、一気に振り返る。
銀灰色の瞳が見えた瞬間、また腕で囲われて、門戸とアレンの体の間に閉じ込められた。


「アレン、近い……」


鼻がくっつきそうなほどの近距離だったから、は身をよじりつつ呟いた。
アレンはそれを完全に無視した。
それどころかもっと顔を寄せられる。
瞳に自分の姿が見えるほどだ。
そこに嫌悪の色はない。
むしろ勘違いを解こうと必死になっているように思えた。


「ごめん、不器用な僕が悪いんです」
「……?どういうこと?」
「無視するつもりはなかったんだけど、他に方法が思いつかなくて」
「待って、意味が……」
「まともに話せば、全て悟られてしまいそうだったから……。通信も繋がらないようにしていたんだ」
「……どうりで」
「それで任務から帰ってみたら、君が大怪我でアジア区支部に収容されたっていうじゃないですか。吃驚して飛び出してきたんですよ」
「ええ?コムイ室長の許可は取ったよね!?」


そこで思い切り目を逸らされた。
口の中で「向こうから連絡があって、今回だけは大目に見てくれるって」とかもごもご言っているのが聞こえる。
は思わずくらりとした。
それは、ちょっとマズイ気がする。
上官がコムイでなければ処罰ものだ。
そんな危ないことをやらかして来たアレンが、の両肩を掴んで揺さぶる。


「と、とにかく帰ろう。時間がないんだ」
「待ってよ、まだわからない。どうして私を避けるようなことをしていたの」
「それはが悪いんですよ」
「わ、私が?」
「君って馬鹿なくせに余計なところだけ鋭いから嫌なんだ」
「何か怒られた……!ううん、そうじゃなくてやっぱり意味がわからないんだけどっ」
「今言ったでしょう、そういうことです」
「だからわかんないって!」
「ちゃんと話聞いてくださいよ!」
「聞いてるけど理解できないの!!」
「あぁもう!だから……っ」


また苛々してきたアレンが怒鳴った。
どう説明したものか困っているらしく、ばんばん門戸を叩いている。


「おい、ウォーカー」


その時、声がかけられた。
頭上からだ。
二人して見上げれば、門の中央から顔だけを出したフォーがいた。(やっぱり居留守だったらしい)
彼女は覗き込むようにしてこちらを見下ろしている。


「要領が悪いぜ」


呆れ声で言われたアレンは思い切り嫌な顔をした。


「盗み聞きですか」
「“此処”でぎゃーぎゃーやってるお前たち悪い。聞くなというほうが無理だ」
「それは……、すみません」
「それにやり方がまずいだろう」
「……っ、……………………そんなののせいですよ」
「相手が悪いってことか」
「そう……」
「まぁ、一番聞いてほしい相手ほどうまく伝えられないものだからな」
「……………………」
「それにしたって、なァ」


最後に同意を求められて、は眉を寄せる。


「だから、わからないんだって」
「気にするな。ウォーカーが悪い」
「そのアレンは私が悪いって言ってるけど?」
「照れ隠しの言い訳だ。男ってのは、たった一人の女の前でそうなるもんなんだよ」
「フォー!」


顔を赤くしたアレンがそこで割って入った。
門戸を殴って身を乗り出す。
逃げ道のないはアレンの胸に圧迫されて、変な声をあげた。
フォーの嘆息が聞こえる。


「ウォーカー」
「何ですか。もう変なことは言わないでくださいよ」
「…………それよりが潰れてるぞ」


その通りとばかりにはもがいたのだが、アレンはまったく意に介さなかった。


「いいんですよ。このまま圧縮パックで持ち帰ります」
「そんな布団じゃあるまいし……」
「だって迎えに来たのに逃げられて、今までの経緯を言っても納得してくれない。こうなったら……」


そこでようやくアレンが離れてくれた。
はぷはぁと息を吐いて、吸い込む。
あぁ苦しかった。
そんなことを考えていたら、急に世界が回った。


「攫っていくしかないでしょう?」


上下が逆さまになって思い切り鼻をぶつける。
それがアレンの背中だと気がついて、は驚きに叫んだ。


「えええええええええええ!?」


体が宙に浮いている。
否、抱き上げられている。
の体は軽々とアレンの肩に担ぎ上げられていたのだ。


つまり圧迫から開放されてホッとしていた隙に、アレンは床に跪いた。
そして肩をこちらの腹に当てると、そのまま押し上げるようにして立ち上がったのだ。
はそう理解したが、それでも物を担ぐように抱き上げられてはたまったものではない。


「い、いや、ちょっと!何するの!?」
「フォー。短い間だったけどの相手は大変だったでしょう?迷惑ばかりですみません」
「おーい、アレン!」
「これは僕が責任を取って持って帰りますね」
「聞いてよー!」
「お世話になりました」


一方的にそう告げると、アレンは身を翻した。
肩に担がれたの方向も変わり、アレンとは反対に門のほうを向く。
フォーと目が合ったからは今度こそ本当に、必死に頼む。


「た、たすけてフォー!」
「あーもう帰れ。今すぐ帰れ。とっとと帰れ」
「見捨てられたー!」
「バーカ」
「何でよ、……っ、わ、ぎゃー!!」


そのままアレンが走り出したものだから、は悲鳴をあげた。
速度が速くて怖いから必死にしがみつく。
がくがく揺れる体。
脳みそが揺さぶられて気持ち悪い。
回る視界の向こうで実態となったフォーが床に降り立ったのが見えた。


「馬鹿


いつもの悪態をつかれる。


「お前みたいな怪我人、とっとと本部に帰っちまえ」


けれどそう言う彼女の顔は笑みの形に緩んでいた。
アジア区支部の守り神は、に向って大きく手を振った。


「次はせいぜい元気な姿で来くるんだな!」


そうしたらいくらでも遊んでやらぁ、と続けられたものだから、はアレンに担がれたまま目を見張る。
そう、彼女はいつだって自分を迎え入れてくれる。
不機嫌なフリをして、それでも心をかよい合せてくれるのだ。
人間ではない存在だけど、そんなことはまったく関係なかった。


「うん……」


はアレンの肩に手をついて、ぐんっと伸び上がった。
不安定で怖かったけれど、アレンはきっと離してくれない。
だから大きく手を振り返す。


「うん、また……っ」


いつだって、ここを去るときに渡す言葉。
アジア区支部での一番の友達に向けて、は告げた。


「また遊ぼうね、フォー!」


どんどん遠くなってゆく門戸の前で、フォーは笑顔で頷いたようだった。





















「おーろーせー!降ろせ降ろせ降ろせー!!」


は叫んでいた。
これでもかというくらいに叫んでいた。
それを間近で聞かされているアレンも、同じくらいの音量で怒鳴る。


「うるさいですよ!静かにしていてください!!」
「静かにできる状況じゃないでしょ、コレー!」


訴えるはもうずっと涙目だ。
アレンが怖いというのもあるけれど、主な原因はただ単に頭に血がのぼっているからだった。
それも怒りからではなく、実際に。
アレンの肩に担ぎ上げられているから、自然と頭が下を向いてしまうのだ。辛いったらない。
しかもその状態で全速疾走をされては涙目になるのも仕方がなかった。


「お願いだから降ろしてー!」
「嫌です」
「なんで!?」
「急いでいるって言ったでしょう。時間がないんです」
「何のこと?」
「……………………………………内緒」


そこでアレンは声を落とした。
顔は見えないけれど、嫌な気持ちからそうしたわけではないらしい。
けれど言うに事欠いて“内緒”とは。


「……やっぱり降ろしてー!!」
「う、わっ、暴れないでくださいよ!!」


それでは納得できない。
やはりきちんと説明してもらわないと。
はアレンから逃れようと手足を動かした。
そのためには、何が何でもこの状況をどうにかしなければいけないのだ。


、暴れたら落ちるよ!」
「落として!」
「そんなの危ないだろう!!」
「受身くらい取れ……ひゃっ!?」


はまた悲鳴をあげた。
しかし今度は少し意味合いが違う。
ジタバタさせていた脚をアレンが力ずくで押さえ込んだからだ。
掌が太ももの裏に当たって吃驚する。
そういえば今日はワンピースタイプの病人服を着ていたのだった。
担がれているからそれが捲れあがって、ギリギリのところまできていた。


「ちょ……っ、今気付いたけど、これって乙女にあるまじき格好だよ……!」


さすがのもそう訴えると、アレンの手が強張った。
彼もあんまり考えていなかったらしい。
素肌に触れてようやく気が付いた様子だった。


「な、何でこんな丈の短い服……」
「治療のためよ。今日は足の骨を検査してもらったの」
「……大丈夫だった?」
「うん。複雑に骨折していたところも綺麗にくっついて……って違う!降ろして!!」


「見える!」と訴えると、アレンが足を止めた。
はようやく降ろしてもらえるのだと思った。
彼の根はやはり紳士なのだろう、女性の下着が見えるのをよしとはしないようだ。
はこれで一安心だと胸を撫で下ろしたが、またもや世界が回って驚いた。
後ろに引っ張られてアレンの肩から落ちる。
両腕で受け止められたときには、すでに横抱きにされていた。
の足はまたもや床につかない。


「………………アレンさん?」
「何ですか」


低い声で呼んだ時には、彼は再び走り出していた。
担がれていた状態よりはいいが、解放には至っていない。
支えが肩から両腕に変わっただけの話だ。大差がなかった。
唯一の変化と言えば顔が見えるようになったことだ。
はそれを最大限に利用して、下からアレンを睨みつけた。


「お・ろ・し・て!下さい」
「これなら大丈夫でしょう。文句は聞きません」
「そういう問題じゃ……」


そこでふと思いついて、は訊いてみた。


「見た?」


主語をつけずに言ったのだが、アレンには通じたようだった。
思い切りそっぽを向かれる。
けれどは横抱きにされているのだから、どうしたってその赤くなった頬を確認することができた。


「見てません」


絶対に嘘だ。


「ちなみに今日のはセクシーな黒よ」
「違います。シェルピンクのストライプに白のレースです」


そして分かりやすくそれを白状してくれた。
は何となくため息をついて言う。


「うん、リボンの色も白だったかな」
「いいえ、アイボリーです」
「違いがわかんない。てゆーか、バッリチ見すぎだよね!?」
「あぁ、時間がない!急ぎますよ!!」
「うわぁ、スピードアップで誤魔化した!」


そこでぐんっと速度を上げられたので、は舌を噛まないように黙り込んだ。
両手でアレンにしがみつく。
彼はを横抱きにしたままアジア区支部をひたすら走っていた。
というか走りすぎだった。
いつまでたっても目的地らしきところに到着しない。
これはもしかしなくても迷子だな……とが思い始めて随分経った頃、角の向こうから声が飛んできた。


「どこを走っている、ウォーカー!」
「バクさん!」


アジア区支部・支部長が廊下の先に立っている。


「こっちだ!」


手招きをされた方向にアレンは進路を修正した。
道すがらすれ違う支部員たちが声をかけてくる。
それを聞けばの本部帰還はもう決定事項となっていた。


「やっぱり私、孤立無援……」


イノセンスを発動した挙句、“攫っていく”とまで宣言されたのに、誰も助けてはくれないようだ。
それどころか皆がアレンに協力的でため息と共に苦笑が浮かぶ。
「元気でね」と口々に言われたから、は頷いてお礼の言葉を返した。


「コムイから話は聞いた。地下水路から外へ出ろ。船を用意してある」


バクの声を横に聞きながら、アレンはボートに飛び乗った。
揺れるそこに見事着地した途端に漕ぎ手が動き出す。
黒い水面を滑るように進む小船の上で、は大いに慌てた。


「ま、待って!まだバク支部長たちに挨拶が……」
「そんなものはいらん!」


岸辺に立ってこちらを見送っているバクが叫んだ。
傍にはウォンが控えているし、李桂やシィフは息を切らしている。
がんばって追いかけてきたのだろう、蝋花など顔が真っ赤だった。


「これでせいせいするというものだ。貴様のような問題児は今後ごめんこうむる!」
「バク様、そんな心にもないことをおっしゃって……」
「そうっスよ。気にせずにまた来いよな、
「大怪我で担ぎこまれてくるのだけは、遠慮してほしいけどね」
「ううううううっ、さーん!お元気でー!!」


一斉に言われて、手を振られた。
は思わず言葉を詰まらせて身を乗り出す。
アレンの腕から転がり落ちるかと思ったけれど、彼はぎゅっと引き止めて、抱きかかえたままボートの端へと運んでくれた。


「ありがとう……」


嬉しくて、でも少し切なくて、は唇を震わせた。
心からの感謝を込めて、笑顔で告げる。


「お世話になりました。本当にありがとう!!」


そこでようやく仏頂面だったバクも笑み崩れた。
皆と一緒になって手を振る。


「怪我人の貴様などもう二度とお断りだ!今度は元気な顔を見せに来い!」
「はい!」
「二人でな!!」


最後に付け足された言葉に、アレンとは顔を見合わせた。
そして同時に笑った。


「「はい!」」


たくさんの笑顔に見送られて、二人を乗せたボートはアジア区支部から去っていった。