口を開けば頭痛のすることばかり言う。
無茶をやらかして、無謀を叱って。
うんざりだって思うのに、気がつけばいつも傍にいた。
本音なんて知らないけれど。

好きだということはわかってる。







● サロメの死因  EPISODE 1 ●







これもリバウンドと言うのだろうか。
頭の芯がぼぅっと痺れ、いつものように思考が働かない。
手足が冷たい。感覚が遠い。
視界は普段の半分ほどで、照明を一段落としたかのような暗さだった。


この倦怠感が久しぶりに能力を使った反動だというのなら、随分厳重に仕舞い込めていたものだと自分自身に感心する。
鍵ならいくつ?
覆いなら何重?
結局は隠し通せなかったのだから、もう何の意味もないのだけれど。


「足元」


アレンが短く言った。
先に小舟から降りて掌を差し出してくる。
鈍くなった頭でようやく、先刻の言葉の続きが「気をつけて」であり、手を貸せと示されていることに気がついた。
そうこうしている内に勝手に掴まれる。
腕を引かれるままに地下水路に足をつけば、何故だか視界がまわった。
同時に吐き気が込み上げてきて口元を押さえる。
顔を見られたくなくて俯いたけれど、アレンはわかっていたみたいに背中を撫でてくれた。
もしかして今の自分は蒼白なんじゃないだろうか。
そんな、不調を隠せないほどに?


カツン、と靴音。
床を蹴立てるようにして姿を現したのは神田だった。
出迎えにしては表情が怖い。そもそも、彼はそんなことをするキャラではない。
笑顔で「おかえり」と言われたほうがよっぽどホラーだ。
はそう思って笑おうとしたけれど、わずかに唇が震えただけに終わった。


「中央庁が来ている」


何の前置きもなく神田が告げた。
はもちろんアレンも承知していたことだから驚きは見せない。
そのことに苛立ったのか、黒い瞳に睨みつけられた。


「ルベリエと鴉はまだいい。だが、あいつらは何だ」
「……あいつら?」
「黒服に十字架を下げた、ジジイどもだよ」


眉根を寄せたアレンに神田は吐き捨てた。
彼らにはわからなかったようだが、は即座に正体が思い当たって目を伏せる。
やはり、出てきてしまったか。


枢機卿カーディナル)


アレンの手から離れて、は独り歩き出す。


「御方々はどちらに?」


地下水路から本部へと続く通路に足を踏み入れた瞬間、その問いは不要であったことを知る。
何故ならそこには、法衣を身に纏った“鴉”が、ずらりと立ち並んでいたからだ。
細長い空間を隙間なく埋める漆黒の群れ。
獲物を捕らえ、ついばんで、主の前へと引きずり出そうとする、凶悪なくちばし。
それが一斉にへと向けられる。


「……お前、今度は何をやらかした」


強く噛み締めた歯の隙間から押し出すようにして神田が問う。
答えを口にする代わりに、すれ違う一瞬彼の指先に触れた。


生命いのちを守る、戦いをしただけよ」


背後でアレンがきつく左手を握り締めたことを、は知らない。




















鴉たちは無言でを包囲した。
足は止めない。まるで示し合わせたかのように、こちらが歩く速度に合わせて移動し、周囲を固めてゆく。
衣擦れの音すらさせない静けさが相変わらず不気味だった。
向う先は一見が決めているようだが、その実巧みに誘導されてどんどんと教団の高みへと昇らされる。
本当は真っ直ぐ自室に帰って眠りたい。
もしくは旅の埃を落すために大浴場に行くのもいい。
リナリーはどこかな。また科学班の研究室かな。探し出して「ただいま」を言って。
アレンと一緒に、久しぶりのジェリー料理長のご飯を、お腹いっぱい食べたいな。


そんなことをぼんやり考えていたら、前方に大きな扉が見えてきた。
番人のように立っているのは蜂蜜色の髪の青年。ハワード・リンクだ。
彼は歩いてくると、その後ろに続くアレン、そして大勢の鴉を認めると、切れ長の瞳をますます細くしてみせた。
言葉は交わさない。視線だけを合わせる。
リンクは小さく頷くと、大扉を一気に引き開けた。


室内は廊下に比べて明るかった。
調度品も暖かみのある色彩で揃えられている。
中央には長机が据えられていて、白いテーブルクロスに文様の入った赤布が重なる。
その上には花瓶が二つ。活けられているのは大ぶりの百合だ。
最奥には白花が象徴する存在、聖母像が厳かに建っていた。


「…………………………」


無言の視線を感じる。
その先を辿る。
壁際に並んで佇んでいるのは、ブックマンとラビの師弟だった。
彼らは裏歴史の記録者としてこの場に居るのだから、当然のように無表情を保っている。
それでも年季の入った師匠を隣にしては、さすがの弟子もまだまだに見えた。
原因は“私”か、と思っては青ざめた親友に心中で謝っておく。


ブックマンの二人は脇役。
室内の主役は長机に腰掛けた黒衣の老人たちだった。
全部で五人、ルベリエやコムイも席を並べている。
その中でも注目すべきは……というよりは上座に居るのだから注目せざるをえないのは……丸眼鏡の男性だった。
柔和な顔立ちに似合わない、冷徹な瞳。
はそれを見つめたまま部屋に入った。
途端横合いから冷たい水を叩き掛けられても、絶対に視線を逸らさなかった。


「!?」


背後に感じるアレンの驚愕。
大丈夫、平気よ。
頬から、髪から、服の裾から、ポタポタと雫を滴り落しながらは思う。
こんなのはただの水だ。


「清めたまえ」


瓶を握ったままの傍らで男が呟いた。
例に漏れなく黒衣を纏った彼は、口の中で素早く繰り返し唱える。


「清めたまえ。祓いたまえ。悪しき者よ、聖水の力をもって神の御前から立ち去るがよい」


右耳にそれを聞きながら、左耳は別の命令を受ける。


「跪きなさい」


枢機卿カーディナルだ。
毎回思うのだけれど、外見のわりに朗々とした声である。
ルベリエが重ねて命じた。


「頭が高いですよ、アンノウン。膝を折りなさい」


はそっと脚を曲げた。音を立てないように床へと身を落す。
どうせ次は手を組んで目を閉じろと言われるのだから、体は自然とそのように動く。
今から始まるのは尋問だ。聖なる裁きだ。
咎人は黙って罪を受け入れるしかない。


そこで双眸を開いた。
否、無理に開かされた。
決して祈りを止めてはいけなかったのに、強制的に中断させられてしまったのだ。


「立って」


アレンが短く言った。
地下水路と同じだ。漠たる意識では咄嗟にその意味がわからない。
腕を強く掴まれて引き上げられる。
よろけながらも起立してしまってから、ようやく彼がとんでもないことをしていることに気がついた。


「アレ……ッ」


慌てて名前を呼ぼうとすれば素早く遮られる。
彼はの濡れた顔をぐいっと拭うと、自分のコートを脱いで着せ掛ける。
その間にはもう室内の老人たちに微笑みかけていた。


「すみません。この人馬鹿のくせに一人前に風邪を引いたようでして。いきなり水を掛けるとか、冷たい床に膝をつかせるとか、止めてもらっていいですか?」


風邪?
言われてみれば、この不調は確かに似ている。
滅多にかかったことがないけれど、頭痛に悪寒、集中力の低下などの病状には覚えがあった。
けれど、違う。
これは違う。
私は“病気”なんかじゃない。


「アレン」
「黙って」


制止の意味を込めて呼べば、強引に抱き寄せられた。
囁く声は小さい。肩にまわされた手が痛い。
アレンは自分の胸にの顔を押し付けることで、首尾よく反論と抵抗を封じてしまうと、改めて満面の笑みを浮かべてみせた。


「ただでさえ頭が悪いのに、具合まで悪い彼女に話をさせたところで、得られるものなどありはしませんよ。それこそ上層部の方々の貴重なお時間を無駄にするだけです。……ご用でしたら僕が代わりにお聞きしますが?」


唐突すぎるアレンの言動に驚いたのは皆同じようだった。
予想外の出来事に目を見張るブックマン。
身振り手振りで止めろと訴えてくるラビ。
何を馬鹿な真似をしているのだと怒りに顔を歪めるリンク。
焦燥に両手を固めて身を乗り出すコムイ。
凍りついた空気が、徐々にひび割れてゆき、その欠片でもってルベリエが嗤った。


「何を言い出すかと思えば……。身の程を弁えなさい、アレン・ウォーカー」
「もちろん。そのうえでの進言ですよ」
「口を慎め、と命じているのがわかりませんか」
「それは困りましたね。これ以上、丁寧な口調はないと自負しておりますので」
「……キミは、私に、喧嘩を売っているのですか?」
「まさか」


アレンは可愛らしく小首を傾げると、ルベリエにも負けないほど冷ややかな瞳となった。


「残念です。長官には僕の厚意をご理解いただけないようだ」


挑発的するようなその態度に、は思わず彼の服を強く掴んだ。
それで離せと訴えたつもりだったけれど、何事もなかったかのように無視される。
切羽詰ったような声でコムイが「アレンくん」と呼んだ。


「止めなさい。今は君の出る幕じゃない」
「そうですか?少なくとも病人よりはまともに話ができますよ。……そもそも」


にこやかに吐き捨てた瞬間、アレンは腕の中で暴れ続けるの後頭部を、ついでのように叩いていった。


「あなた方は最初から、の言い分など、聞く気がないでしょう」


室内に、沈黙がおりた。
その指摘が図星だと知っていたから、誰もが口を開くことが出来なかった。
唯一アレンだけが発言権を持っているかのように続ける。


「あなた方が此処までやってきたのは、監視ゴーレムが破壊されている間に、彼女が“どこで”、“何を”していたか……それを尋問するためでしょう?おかしな話ですよね。彼女のことなのだから本人に聞くしかないのに、最初からその証言を信じるつもりがない」


当事者であるでさえ、アレンの話に耳を傾けるしかなくなってしまう。
彼は法廷にでも居るかのように周囲の意識をひとつ残らず巻き込んでゆく。


「前回はティムキャンピーに残っていた映像が証となった。けれど、今回はそれもありません。だったらどこに証拠を求めますか?“”は信用に値しない。その言葉は何の意味も成さない。……さぁ、もうお分かりでしょう?」


アレンはいっそ無邪気に微笑んでみせる。


「いいえ、最初からご存知だったはずでしょう?あなた方がを裁きにかけるためには、彼女にそれだけの罪を見つけなくてはいけない。―――――――――唯一現場に居合わせた、この“僕”の証言からね」


を抱く方とは別の手を、彼は自身の胸に置いてみせた。
それからちょっと冷淡に付け足す。


「まさか、問答無用で拷問や監禁をしようとしていたとは、僕も考えたくないのですが」


ね?と促してやれば、枢機卿カーディナルが口を開いた。


「我々は聖職者だ。神の民を理由もなく痛めつけたりはしない」
「もちろん、そうでしょうとも」


アレンは満足したように大きく頷くと、少しだけに視線をやった。
それで我に返って喋ろうとすれば、またぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
痛いし苦しいし何なんだと思ったけれど、不意には気がついてしまった。
背に置かれた腕が、肩を掴む手が、不自然なほど強張っていることに。


「……っつ」


どうしてもっと早くそこに考えがいかなかったんだろう。
やはり頭が回っていない。完全にボケている。
何度も経験しているだって、いまだに足がすくみそうになるのだ。
ならばなおのこと、アレンが平気でルベリエや枢機卿カーディナルの前に立って、こんな博打みたいな舌戦を繰り広げているわけがない。


(……アレン)


名前を呼びたかったけれど、喉がはり付いて声が出ない。
そして自分が口を開けば、彼の邪魔にしかならないことを知っていた。
本当は止めてほしい。こんな、矢面に立つようなことはしないでほしい。
けれど、今が発言してしまうと、アレンのしようとしてくれていることが、全て水の泡となってしまうのだ。


(“”が止めに入れば、仲間としてのあなたは守れる)


少女は少年の胸で睫毛を伏せた。


(代わりに、“アレン”を裏切ってしまうことになるのね)


信じるしかない、と思った。
そして、信じなければと思った。
ノアの支配する船上で、私は彼に告げたのだから。
「私は、あなたを、信じている」と。


「では、証言を」


アレンの笑顔は崩れない。


「効率よくいきましょう。あなた方はどこまでご存知なんです?」
「監視ゴーレムが破壊されるまでだよ、アレン」


枢機卿カーディナルも同じように微笑んだ。


「そう、彼女が壊したんだったね」
「いいえ。ではありません」
「おや、そうだったかな?ゴーレムの映像では、その羽根を千切り取り、捻り潰し、床に投げ捨てた人物は、金髪の女性に見えたが」
「効率よく、と申し上げたはずですよ」


ティムキャンピーがアレンの傍で舞い、の顔の近くまでやってくる。
羽ばたきが頬を擦った。
自身の存在をアピールするように大きく翼を広げてみせる。


のゴーレムは大破していました。その残骸はティムキャンピーが撮った映像にも残っている。改めてくださっても構いませんよ。とても“普通”の女性が出来る仕事ではありません」


アレンは短い嘆息でもって、わざわざ訊くなと言外に訴えた。
知っているくせに空とぼける枢機卿カーディナルを一瞥する。


のゴーレムを壊したのは、彼女に取り憑いていた幽霊です」
「幽霊、とは。これはまた」
「信じられませんか?本当に?」
「その存在を否定はしない。だが、アンノウンが憑依状態であったかどうかは、誰にもわからないことだよ」
「僕が証人です」
「それが彼女の嘘でないと、演技ではなかったと、何故言い切れる?」
「左眼で」


本当は忌々しい質問であるはずなのに、アレンは平然と答えを返す。


「魂を視るこの眼で確認しました。アクマのボディから開放された霊魂が、消失を拒んでの中へと入り込んだのを」


手袋をはめた左手で、傷跡の残る瞼を撫でる。
今まで訊けなかったけれど、決して口には出来なかったけれど、彼は左眼の世界をどう思っているのだろう。
疎ましくはないのだろうか。
恐ろしくはないのだろうか。
……消し去りたくは、ならないのだろうか。
例えそれが愛する父親に貰ったものでも、否だからこそ余計に、アレンの心を苛む責め苦にはなっていないのだろうか。
は不意に切なくなって彼の横顔を見上げた。
その視線に気づいたアレンは、小さい子供に「どうしたの?」と訊くように、優しい笑みを浮かべてくれた。
演技ではない、本当の笑顔だ。
大丈夫。信じてる。
はますます切なく思いながら、抱きしめてくる手に逆らわずに、アレンの胸へと額をつけた。


「間違いなく彼女は幽霊に憑依されていました」
「……なるほど。それで?」


アレンの断言に枢機卿カーディナルは瞳を細めて先を促す。
ルベリエが組んだ指のうえに顎をのせて、馬鹿にしたような笑いを漏らした。


「アンノウンの精神は平常のそれではなかった。キミはそう言いたいようですね。しかし、だから何だというのです?それが我々の監視下から逃れていた時間、彼女が“余計なこと”をしでかさなかった証明にはなりませんよ」
「ルベリエ長官」


滅多に見ることのない険しい顔でコムイが口を挟む。


「彼女が憑依されていたのならば、“余計なこと”をできる状態でなかったはずです。アレン・ウォーカーはそれを証言して」
「監視ゴーレムが破壊される前までの映像を見れば」


ルベリエは言い募るコムイを遮って、じっとアレンを睨みつけてくる。


「幽霊の女性とアンノウンの意識は入れ替わり立ち替わり表へと出ていた。行方を眩ませていた間も、どちらがその体を操っていたかは定かではないでしょう?」
「……………………」
「さぁ、どうです?キミはアンノウンの無実を訴えたいのでしょう?反論を聞かせてください」


髭の下で試すかのような嘲笑が見え隠れする。
ルベリエの言は正論だ。
彼らはこれでも聖職者だから、魂魄の存在はそうそう否定できないだろう。
監視ゴーレムを通して見たの一連の様子からも、プシュケに取り憑かれていたことを信じさせるには難しくない。
しかし、それだけだ。
例え憑依状態にあったとしても、その間にが自由を取り戻して、“何か”をしたのではないかと疑っている。
幽霊憑依の事実は、“何か”をしなかったという証明にはならないのだ。


「“余計なこと”とは何ですか」


不意にアレンが微笑を消した。
冷たい瞳にも熱が戻り、ただただ苦しそうに、室内の黒服たちに問いかける。


「あなた方はが何をしたと疑っているのですか」


それが、プシュケを追放した“あの”奇妙な事象を指しているだと、彼はとっくに悟っているだろうに。
が思わず指先を震わせれば、アレンはまた笑顔の仮面をかぶった。


「彼女は何もしていませんよ。したのは僕です」
「……どういうことだね?」


右手をずっと聖書に置いている老人が怪訝そうに瞬いた。


「君が何をしたというのだ」
「プシュケさんは……幽霊の女性は、何故に取り憑いたと思いますか?」


確かめるためにアレンはわざとゆっくりそれを口にする。
何だか久しぶりに彼の演技を見たけれど、感心するくらい完璧だった。
人好きのする少年を見事に演じきっている。
愛する仲間の大嫌いな笑顔。
やめてと言ったのは“”だから、今それを“私”のために造っていることに、彼が何も感じていないはずがない。


「恋がしたかったそうですよ。彼女は真実の愛を手に入れたかった。女性らしい願いですよね」
「くだらない夢です」
「長官はお気に召しませんか。けれど、本当のことです。彼女は昇天する前に恋愛を経験したいと言った。そのためにに取り憑き、僕に相手をしろと迫ってきたんです」
「キミは拒否していたようですが?」
「ええ。とはいえ、女性に恥をかかせるわけにもいきません。僕の気持ちと彼女の希望ならば、後者のほうが当然重い」
「……、つまりキミは彼女の要求を呑んだと言うのですか」


話が予期せぬ方向に転がり出しているのを、ルベリエを含む室内の誰もが感知していた。
もちろんもその一人で、ちょっと混乱し始めている。
一体アレンは何を言うつもりだ?


「ご覧の通り、今の本人です。プシュケさんはもう彼女の中にはいません。安らかにあの世へと行っていただきました」
「どうやって、ですか」
「聡明な長官ならばすでに察していらっしゃるのでは?プシュケさんは自分の望みが叶わない限り、から離れないと宣言していた」
「……そのようでしたね」
「突然姿を消したのも、僕がつれない態度を取るばかりだから、焦れてしまったんですよ。女性を不安にさせるなんて僕もまだまだですね」
「………………………」
「だから、僕はプシュケさんを解放した。彼女が今、に憑依していないことが何よりの証拠です。監視ゴーレムが破壊されてからの時間、僕は彼女のために、彼女と共にいたんです」
「それが」


床を這うような低音で、ルベリエが鋭く問う。


「それが、アンノウンではなく、キミの成したことだと、どうやって証明できますか」
「おかしなこと言いますね?プシュケさんは僕が恋人になれば成仏すると豪語していたのに、何故がどうこうできるとお思いになるのですか?」


もっと鋭利な質問で返して長官を黙らせると、アレンはそれはそれは優雅に微笑んだ。


「どうやって、と訊かれましたね。答えを差し上げましょう」


本当に、アレンは、何を言うつもりだ?
否、何をするつもりだ?
混乱が強くなってゆくは唐突に顎を掴まれて驚いた。
しかしそれは序章で、さらなる驚愕が襲ってくる。


「―――――――――」


絶句する。
息さえ止める。
キスを、されたのだ。
アレンの唇がの声を奪い、言葉を失わせ、熱を移してくる。
銀灰色の双眸は閉じられた瞼の白さに隠されていた。
対照的には黄金の瞳を大きく見開いて彼を見つめる。
咄嗟に距離を取ろうとすれば、かなり強引に腰を引き寄せられた。
反動に背中が少し反り返って、離れようとした顔を左手が引き止める。
後頭部を掌で押さえつけられて、ますます存在を貪られた。


「こうやって」


長いようなキスのあと、まだ近すぎるところでアレンが囁く。


「空白の時間、僕は彼女を愛していました」


視線だけを投げて聖職者たちに微笑む。


の出る幕などありませんよ。愛とは二人きりで育むものです。僕は彼女とずっと一緒にいて、彼女が昇天するまで満足させてあげたんです。―――――――――お分かりいただけましたか?」


沈黙。
部屋の気温は完全に下がっていた。
アレンの言いたいことは皆わかってしまったから、あまりの気まずさに反応を忘れてしまう。
黒衣の老人達は押し黙ってしまったし、ルベリエやコムイも返す言葉がない。
ラビとリンクはぽかんと口を開けている。
ちなみに当人であるも呆然としていた。
そんな自分をまた抱きしめて、アレンは悩ましいため息をつく。


「監視ゴーレムが壊れていたから、今こうやって皆さんのお手を煩わせているわけですが……。結果としてはそれでよかったと思います。だって、さすがに、お見せするわけにはいかないでしょう?」


当たり前だ。
音にならない叫びが異口同音に放たれる。
アレンは笑顔を脱ぎ捨てて、それを鼻であしらうかのように、流し目で妖艶な表情となった。


「まさか」


紳士の顔は完全に影を潜めていた。
アレンは人好きのする態度から、人を食ったような調子で言い捨てる。


「証拠だといって、これ以上ご覧になりたいなんて、下世話なことはおっしゃいませんよね―――――――“聖職者”の皆さん?」


台詞の最後を強調して、そんな彼らが反論できないのを確認すると、アレンはまたいつものように柔和な笑みに戻った。


「ご理解いただけてなによりです。それでは」


本当にそれだけ告げると、の肩を抱いたまま颯爽と身を翻す。
足早に歩いていって、まだ我に返っていないリンクを押しのけると、堂々と部屋から退室していった。
大きな音を立てて扉を閉める。
それを合図にしたかのように、背後の室内から呼び止める声が聞こえてきたから、アレンはの腕を取って駆け出した。
力を込められた手は熱かった。
は自分を導いてゆく少年を見つめる。


アレンは首まで真っ赤にして、連れているからも逃げるように、ひたすらに廊下を走り続けた。




















背後でがつんのめったから、アレンは足を止めることができた。
どうやらスピードやら歩幅やら彼女の具合やらを考慮しきれていなかったらしい。
慌てて振り返って、倒れ込んできた体を受け止める。
掌に上下する肩を感じた。自分も息を切らしていたけれどの比ではない。


「ご、ごめ……」


口を突いて謝れば彼女が見上げてくる。
その無言の目線が何よりも物語っていて、アレンは内心ひいと思う。
思わず飛び跳ねるようにして後退すれば、物質的な距離は取れたけれど、金色の瞳が逃がしてはくれなかった。


「………………………」


教団の廊下を無理やり走らされたは、乱れた呼吸をなだめるのに必死な様子だ。
言葉も発せずによろよろと壁に片手をつく。
薄く開いた唇。その色がやけに目に付いて仕方がない。
元から羞恥に殺されそうだったアレンは、さらに頬に熱が上ってくるのを感じて、このまま死ぬんじゃないかと自分を心配した。


「あ、あの」
「………………………」
「えーっ、と」
「………………………」
「……っつ、ご、ごめん」


とても直視できなくて、片手で目元を覆う。
拳を握り締めて何とか吐き出す。


「あ、あの人たちの前で言ったことは、ひとつも後悔してないし、何度同じことが起こったって、何度だって同じことをするけど。してやるつもりだけど!」
「………………………」
「最後の、は、…………ごめんなさい」
「………………………」
「勝手なことしてごめん」


弁解も謝罪も最低だとわかっているのに口にせずにはいられない。
うわぁ、何だこれ。
居たたまれないにもほどがある。
針となった沈黙が心臓を刺し、アレンは痛む鼓動に苛まれた。


「ごめん」
「ずるい」


唐突に強い調子で遮られた。
の声は掠れていて、喉を動かせば痛みがあったのか、小さくむせてしまう。
咳をまじえながら彼女は言った。


「どうして?それは私の台詞でしょう」
「……え?」
「先に言ってしまうなんてずるい。私には謝るなってことなの」


アレンはが予想外の反応をしたことにも驚いていたが、その指摘が的を射ていたから余計に返事を失ってしまう。
黙っていると彼女は続けた。


「それだと私、あなたにお礼も言えない」
「……………………………」
「……正直、謝罪の気持ちのほうが強いのよ。もうずっと」


は壁についた掌を離して胸の上で握り締めた。
その手が微かに震えているのを、アレンは自分の指の隙間から視認した。


「謝りたくて仕方がないのに、黙るしかない自分が悔しい。でも、ただ笑って“ありがとう”って言えるほど能天気にもなれなくて。……本当にずるいのは私よ」


思わず顔をあげた。
そして見てしまった。
が泣きそうに瞳を潤めて、床を睨みつけているのを。
その頬が、朱に染まっているのは、どうして?


「ずるい」


消え入りそうな囁きがアレンの鼓膜を撫でてゆく。
先刻までの自分のように、目元を覆ってしまったは、涙を堪えているのだろうか。
震える肩がいじらしくて、抱きしめたくてたまらなくなった。


「小娘」


けれどアレンの手が届く前に彼女を呼ぶ者が現れた。
はびくりと体を強張らせて、即座に袖で強く双眸を拭う。
そして背後を振り返った。


「はい。お呼びですか、ブックマン」


老人の登場を予期していたとしか思えない様子で、は背筋を伸ばし真っ直ぐに彼と向かい合う。
一定の距離を取ったブックマンは淡々と告げた。


「迎えに来た。こちらへ」
「ちょ、ちょーっと待つさ!」


師匠に続いて角から飛び出してきたのはラビだった。
赤い髪が残像になるほどのスピードで走りこんできて、ブックマンとの間に立ちはだかる。
息を切らせながらまくしたてた。


を連れて行くってどういうことさ!コイツの疑いはもう晴れただろ!!」
「アホめ」
「な……っ、何がだよ!こんなんただの横暴さ!!」
「だからお前は未熟者だと言うのだ」
「アレンが!アレンが証言したことはどうなるんさ!中央庁はそれで引いたっていうのに!!」
「本当にそう思うのか?」


怒りに興奮する弟子を脇に押しやって、ブックマンは前に進み出る。
黒いメイクで縁取られた眼がアレンを射抜いた。


「実に見事な演技だったぞ。ウォーカー」
「演技……?何のことさ?」
「馬鹿弟子が。先刻のは全て嘘だ。ウォーカーの証言に真実はない」


ずばりと言って捨てるブックマンに、アレンは瞳を細め、ラビは息を呑む。
全員の視線を集めたが静かに口を開いた。


「真実は私からお話します。どうぞ、尋問室へ」


そうやって勝手に歩き出そうとしたの手首をアレンは掴む。
自分の傍まで引き戻すと、もう片方の手で抱き寄せた。
またラビが飛び出してきてそんな二人を背に庇ってくれた。


「なんで……、何でアレンの言ったことが嘘だってわかるんさ」
「お前にはわからなかったか?私の隣に居たというのに」


ブックマンは弟子を通り越してアレンしか見ていない。


「ウォーカーに舞台の経験があるということは知っていたが。まさかあんな技術まで身につけているとは」
「……なに?」
「あの接吻のことだ。本当にはしていない」


ラビが思わずというふうに振り返ってきた。
アレンは咄嗟に目を逸らしたが、腕の中のが平気で返す。


「ここよ。アレンが口をつけたのは」


薄紅の口唇、そのすぐ横を指先で示す。


「じーさんが言ったとおり、舞台などで使われる手法よ。ある一定の角度から見れば本当にキスをしているように見えるけれど、実際に唇は触れ合っていないの」
「小僧が語ったことが事実だとすれば、接吻の“ふり”などする必要はないだろう」


ブックマンの補足にラビは顔を真っ赤にして叫んだ。


「ば……っ、馬鹿アレン!こっちがどれだけ驚いたと思って……!」
「この僕が!あんな大勢の前で!できると思うんですか!!」


それだけだって死ぬほど恥ずかしかったっていうのに。
しかも今回はちゃんと意識して、見せつけるためにやったのだ。
思い出すとまた顔面が熱くなる。
けれど正しい反論をしたはずのアレンは、余計にラビを怒らせてしまったようだった。


「オマエは大胆なのか繊細なのか、どっちかにしろ!!」


そのまま掴みかかってきそうな勢いだったが、「じゃれるな」というブックマンの一喝と蹴りによって、ラビはアレンの視界から退場していった。
は親友の行方を目で追ったあと、ブックマンに頭を下げる。


「ご迷惑をおかけしました」
「まったくだ」


皺の刻まれた指がのそれを握る。
そのまま彼女を連行しようとする師匠を止めたのは今度も弟子で、ラビは床に這いつくばった体勢のまま呻く。


「だ、だから待てって!」
「やかましいわい。これ以上騒ぐな」
「だって黙ってられるかよ!!」
「いや、本当にうるさいから。ラビ」


アレンまで加勢すると彼は心底不服そうな表情になって、今にも噛み付かんばかりに睨みつけてきた。
これは完全に誤解されてるなと思って、アレンはため息をつく。


「ブックマン。僕の演技は完璧でした?」


肩を落としながら訊くと老人は笑った。


「ああ。さすがの私も一寸騙されたよ」
「ということは、中央庁も?」
「恐らくは。あの場で本当に接吻をしていたかどうかを確かめなかったのが彼らの落ち度だな」
「それも計算ですよ。驚いている間に流してしまうっていうね」


の前で結構最低なことを言っている自覚はあったけれど、その親友を怒らせたままでいるのも目覚めが悪い。
こちらの会話を聞いてきょとんとしている彼に言ってやる。


「あのですね、ラビ。勘違いしているようですけど、きっとブックマンは無茶なことなんてしませんよ。あの場でキスのふりを看破しなかったってことは、僕の思惑に乗ってくれたってことだ。……少なくとも今はね」


アレンはブックマンを一瞥したけれど、彼は肯定も否定も発さなかった。


「そして、僕は一貫してを渡すつもりがない。すべて狙い通りうまくいっています。先刻の演技で中央庁は騙せたはず。騙しきれていない……ルベリエ長官とかね……がどう考えているにしても、あの場を切り抜けられたのだから、すでに有利はこちらのものだ」
「は……?え?何?そういう話?」
「はい。そういう話です。改めて仕掛けてくるにも時間がいるでしょう。その間には休息を」


目に見えて憔悴している彼女の顔を覗き込む。
緩慢に瞬く双眸はやはりいつもの輝きがなかった。
その手を探っていたブックマンが叱り付ける。


「馬鹿娘が。無茶をしよって」


ちょうどそのとき、廊下の向こうからラスティがやってきた。
どうやらブックマンに呼ばれてきたようで、彼の姿に気がつくと一直線に近づいてくる。
かなり珍しいことに駆け足だ。
けれど向った先はで、依頼主を素通りすると、彼女の熱を測り脈を取った。


「班長。ご足労をかけた」
「いえ。それより、どうしたんですかこの子。真っ青だし、体温が低すぎる」
「処置を頼む。話はその後だ」


ブックマンがそう言ったときには、アレンはもうの体を抱えあげていた。
少し抵抗されたけれど無視だ。
そもそも弱っている人間の力などたかが知れている。


「話をするなんてとんでもない。君、一体何をしたの」


医療室へと先行するラスティに、は瞑目してかぶりを振った。




















「過労だね」


ラスティの診断結果は明快かつ単純だった。
その症状名だけを宣告すると、診察は終わったとばかりに白衣を翻す。
出口に向いながら婦長に指示を出していたけれど、もうこの病室からは去ってしまう様子だった。
言うに、体を温めて休養を取らせるしか、治療のしようがないらしい。


「なるほど。しばらくは動かせんか」


ブックマンが嘆息と共に呟く。
ラスティは不機嫌そうに……アレンの勘違いでなければ、本当に気分を害したように……ベッドに寝かせたを見やった。


「何をしたらそうなるのか教えて欲しいものだよ。重度の過労だ。しかも低体温の症状が出るまで弱ってしまっている」
「…………………………」
「無茶をするのもいい加減にしなさい。……死にたいの?」
「…………………………」
「って、聞こえてないか」


ラスティは態度をいつものものに戻すと、さっさと廊下へ姿を消した。
アレンは彼を見送ってからへと視線を戻す。
いくつもの点滴に繋がれて、彼女は昏々と眠り込んでいた。
ラスティの言葉を受けるに、本当は意識を保っているのも辛かったようだ。


が、過労。
有り得ない話だ。
ずっと近くにいたアレンにはわかる。
彼女は心身に負担をかけることなどしてはいない。
女性にしては鬱陶しいくらい体力のあるほうだし、倒れるほど長時間にわたる労働もストレスも与えられてはいなかったはずだ。
プシュケが取り憑いたせい?
幽霊憑依がどれほどのダメージとなっていたのかアレンには知りようがなかった。
けれど、それよりも、これは……


「見たのか」


低い尋問。
アレンはぞわりと鳥肌を立てる。
隣を振り返ることもできなくて、ただの寝顔を見つめる。


「見たのか、ウォーカー」


ブックマンの問いかけに、アレンは唇を噛んだ。


「…………いいえ」


内緒よ。
話しては駄目。
疲労に掠れたの懇願が蘇る。
アレンははっきりと首を振った。


「いいえ。何も視ていません」


が、得体の知れない能力で、霊魂を消滅させた瞬間など。


「……そうか」


ブックマンは小さく首肯すると、それ以上何も言わずに踵を返した。
嘘が通用しているとも思えないけれど、今はまだ問い詰める気もないようだ。
アレンは何だか脱力して、の眠るベッドサイドへと腰掛けた。


「話を聞くのは小娘が回復するまで待とう。ウォーカーも休め」
「……はい」


何だか疲れた。
ずっと気を張っていたのだから当たり前か。
ブックマンがラビを連れて出て行ったから、病室にはアレンとの二人だけになった。
何となく触れたくなって、彼女の手を取る。
冷たい。
自分で自分の体温が保てなくなっているのだと、ラスティが言っていたっけ。


寒いのかな。
心配になってぬくもりを移すように掌を握った。
己の能力に溺れた人魚姫。
泡になったりしないと知っているのに、どうしても離れる気にはなれなかった。


「おやすみなさい」


が自分にそうしたことがあるとも知らずに、アレンは眠る彼女の額に口付けを落した。
小さなキス。
熱を灯す。


「どうか、いい夢を」


アレンはの安息を願って、静かに目を閉じた。




















アレンが“視た”のは陽炎のように曖昧なビジョンだった。


恐らくプシュケが一度アクマとなり、魔導ボディに囚われた魂だったからだろう、わずかながら左眼が反応したのである。
自分たちがプシュケと呼んでいた幽霊は、長い黒髪と碧い瞳を持つ女性だった。
透明感のある白い肌は、本当に透けていて、彼女が魂だけの存在であること示していた。
それだけでも現実離れした光景だったのに、向かい合うがまさにそれを極めていて、いまだにアレンの脳裏から消えてはくれない。
煌々と光る金色の双眸。
純白の方陣に照らされた貌。
衣服を身につけず、産まれたままの姿で、聞きなれない言葉を紡ぐ少女は、アレンの知っているではないようだった。
元より整った容姿であることは承知していたけれど、あのときの彼女は一際美しかったのだ。
否、“美しすぎた”。


そう、まるで、人間ではないかのように――――――・・・・・・。


アレンは紛れもなく恐怖を感じていた。
理解の及ばない、正体の知れない“何か”に、心から戦慄した。
左眼が痛みを発しながら疼いて、人間では視認できない力がプシュケを包み込んだのを視たとき、アレンは不意に悟った。
が行ったのは、浄霊だ。
排除するのではない。
罪を清め、穢れを祓い、その魂を浄化させたのだ。
それは救済と呼べる行為であり、エクソシストが遂行する破壊に限りなく近い。


(何故、が)


ただ人が出来る技ではないことは考えなくてもわかった。
神の物質であるイノセンスも使わず、アクマのボディから離れた霊魂を昇天させるなど、奇跡の領域に違いない。
プシュケが言っていたように、が霊媒体質で、人外のものを従える能力を持っていたのだとしたら?
ならば、なおのこと疑問が募る。
は今回のことを内緒にしろと言った。
誰にも話してはいけない、と。
もし口外にすれば、アレンが殺されてしまうと、震える声で告げたのだ。
そのことから推測するに、教団がひた隠しにしているの正体に、浄霊の能力が関わっていることは確かだろう。


(何故、隠す)


隠蔽する理由がわからない。
迷える霊魂を送ることができるのだ。それこそ本当の聖職者ではないか。
は“聖女”と称えられてもおかしくない、類稀なる存在だと呼べるはずなのに。
教団側は彼女を敬うどころか、身柄を押さえて監視し、ときには侮蔑の視線すら注ぐ。
さらにはその能力行使を見た者を排除するというのだ。
少なくともはそう思っている。
自分が持つ能力を外部に漏らせば、知り得た者に害を成すと信じ切っている様子だった。


(何故だ)


アレンがに抱いたのは、畏怖。
恐れと敬いの心だ。
それは人智を超えた自然を前にしたときに似ていて、隠蔽しなければいけないような危険な要素は感じなかった。
教団は何を懸念している?
彼女を“聖女”ではなく“魔女”として扱う理由は何だ?
僕は一体、何を垣間見てしまったのだろう……。


「ん……」


考え事をしているうちに、うつらうつらしてしまったようだ。
いつの間にかシーツに突っ伏していて、目を開けると視界は白一色だった。
指先で探る。暖かい。
よかった、体温が戻ってきている。
アレンはホッとして、と手を繋ぎなおすと、もう一度目を閉じた。


「!?」


次の瞬間、瞠目して飛び起きた。
傍に気配があったからだ。
それはの眠るベッドを挟んで、アレンの向かい側に存在していた。


ちゅ、と唇が鳴る。


アレンはますます目を見開いた。
先刻自分がキスをしたのと同じ箇所に、つまりの滑らかな額に、彼はそっと口付けをしていた。
少年である。
歳はアレンより少し上だろう。
青みがかった黒髪が、薄く色づいた肌に落ちかかっている。
柔和ながらも引き締まった頬の線が、子供と大人の狭間にいる彼の、危うい美しさを象徴していた。
長い睫毛が震え瞼が持ち上がれば、潤んだ黒い瞳が現れたから、アレンは心臓を掴まれたような気分になった。
少年がを想っていることを明確に感じ取ってしまったからだ。


「……っ」


アレンが思わず息を詰めれば、少年は今更こちらの存在に気づいたように顔をあげた。
何度か瞬きをしてから微笑む。
そうして唇の前に人差し指を立ててみせた。
それが先刻のキスを黙っていてほしいという意味なのか、が眠っているから静かにしろという意味なのかわからない。
アレンが判断しかねていると、少年は慈しむように少女の髪を撫で、頬に手を当てると何事かを囁きかける。
理解できない言葉だ。たぶん中国語。
少年の容貌からしてもアジア系であることは確かだろう。
まるで恋人同士のようなその様子に、アレンはどう頑張っても穏やかではいられなかった。


「君は……」


名を問いただそうとしたときには、もう彼は別れのキスを終えて踵を返していた。
慌てて立ち上がれば椅子の脚が床を擦って嫌な音が鳴ってしまう。
それにが目を覚まさなかったか心配しているうちに、黒髪の少年は病室から姿を消していた。
しばらく扉を見つめた後、の顔を覗き込む。
蒼白だった頬に赤みが差して、随分と調子が戻っていることが確認できた。
アレンは胸を撫で下ろした反面、何だか気に喰わなくて眉をしかめる。
まるであの少年のキスが、に元気を取り戻させたかのように思えてしまったからだ。


「誰なんだ、あいつ……」


隠し切れない妬心に、アレンは低く呻いた。










新章『サロメの死因』の始まりです。
今回も内容はタイトルまんまです。またネタバレ!
気になる方は“サロメ”で調べてみてくださいませ。
話的にはヒロインのためにアレンが危ない橋を渡っちゃいました ね 。
彼は『遺言はピエロ』の前半で語ったことを忠実に実行してくれてます。
今後もガンガンやらかす予定。
そんなアレンの目の前でヒロインにデコちゅーをかました黒髪の少年は一体誰なのか!

次回は謎の少年の正体とアレン様の暴走にご注目いただければ嬉しいです。^^