致死量の愛。
殺したのは希望か絶望か、それとも“君”自身か。

ピエロは上手に踊れない。
僕は壊すしかできない。


破壊のくちづけを、君に。







● サロメの死因  EPISODE 8 ●







眩しい、と思った。
照明から目を庇うように右手をかざして、そこでハッとする。
勢いよく身を起こし、掌、甲、腕、肩まで丹念に調べてみる。
いつもと同じ皮膚の色だ。どこにも黒はなく、痛みも消えていた。


「目が覚めたんか」


すぐ近くで訊かれた。
顔を向けると傍らにラビが座っていた。壁際には神田が立っている。
は寝起きの頭で現状を確認。
此処は医療室。自分はベッドの上。病人服に着替えさせられ、たった今まで昏倒していたようだ。
そう、体内に取り込んだイノセンスが暴れ出して、襲い来る激痛と眩暈と嘔吐感を、彼が一緒に抑え込んでくれた……。


「アレンは!?」


考えるより先にその問いが口から飛び出した。
神田は露骨な舌打ちをして、顔を逸らしてしまう。
彼に応える気ないのを見て取って、ラビは大きなため息をついた。


「オマエら、何があったんさ」
「なにって」
「アレンが病室に立てこもって、開けろって言うのも聞かないで、オマエに悲鳴あげさせて、出てきたと思ったらだんまりを決め込んでる」
「………………………」
「んで、オマエは蒼白な顔で気絶したままだし」
「……もう起きた」
「ああ、そうさね。気分は?」


ラビは苦笑しての頭を撫でてくれた。
その手を感じながら言う。


「心配かけてごめん。大丈夫よ」
「どこがだ」


鋭く切り捨ててきたのは神田だった。
彼は憤慨したように腕を組み、壁面に飾られた時計を一瞥する。


「お前、何時間気を失っていたと思ってる。ラスティが看た限りでは、怪我でも病気でもない。それなのに」


は応えられなくて口をつぐんだ。
イノセンスのことは言外にしないほうがいいだろう。
もし上層部に知られれば、他のエクソシストも強要されるかもしれない。
何より、これ以上仲間の心労になりたくはなかった。


「……お前が悲鳴をあげるなんて尋常じゃない。あいつに何をされた?」


貫くような眼差し。
神田の眼はいつだってそうだ。
は真正面からそれを受け止める。


「“痛い”って、言っただけよ」


その返答に、神田はハッと息を呑んだ。
ゆっくりと瞼を閉じて口元を歪める。


「……気に喰わねぇな」
「その意見には“”さんも賛成」


眉を下げて微笑んで、二人に問いかける。


「それで、アレンはどこに?」
「コムイに連れて行かれた」


一度は拒絶したのに、答えをくれたのは神田だった。
ラビが困った顔で後を引き継ぐ。


「さすがに女の子を昏倒させておいて、放置はできんさね。しかも本人は黙秘ときた」


まるで流れるように右から左へとそれを聞く。


「あいつは謹慎処分を受けたばかりだ。もしかすると、ルベリエも出てくるかもしれないな」


神田が言い終わるころには、もうベッドを飛び降りて、は裸足のまま走り出していた。
引き止める声はなかった。
ただ諦めたようなため息がふたつ、聞こえたような気がした。
それを確認する暇もなく、病室を飛び出したは、全力疾走を開始する。
不調の原因は本当にイノセンスだけだったみたいで、むしろよく眠ったぶん体が軽く動きが切れていた。
どこだどこだ、どこだ!
野生の勘で駆けていった先に、白髪を見つけて叫ぶ。


「アレン!!」


彼は即座に振り返ったけれど、驚きは同行者の方が強かった。
アレンの隣に立っていたのはリンクで、ぎょっと目を見張ったあと、叱咤の声を飛ばしてくる。


「倒れたばかりの人間が、そう走るものでは……っ」


頬に朱を昇らせて怒るリンクに、はスライディングの勢いで飛びついた。


「リンク!早まらないで!!」
「は、早まっているのはそちらだろう!離せ!抱きつくんじゃない!!」


顔を真っ赤にして抵抗されたから、振り落とされないようしがみつく。


「違う、違うのよ、アレンは悪くないのよ!今回のことに関しては清廉潔白、事実無根の冤罪事件なの!!」
「は、はぁ!?」
「とにかく捕まえちゃ駄目!処罰しちゃ駄目!無理にでも捕縛するっていうのなら……っ」


は必死にリンクへと訴えかけた。


「この私が第一次アレン解放戦争を起こしてやる!!」
「君が首謀者の時点で失敗しそうだから止めて」


冷静な突っ込みは横合いから。
視線をやると大層呆れた様子のアレンと目が合った。
右手が伸びてきて肩を掴まれる。
そのまま無言でリンクから引き剥がされた。


「え、えーっと……?」


ちょっと意味がわからなくて瞬いていると、咳払いをしたリンクが襟を正しながら言う。


「冤罪は私のほうです。我々にウォーカーを捕らえる気などありませんよ」
「そ、そうなの?」
「結局のところ、君に危害が加えられた痕跡がなかったので。さらに今の証言で本当に無罪放免です」
「本当に!?」
「被害者がいないのにどうしろと言うのです。ただ、今回のウォーカーの態度には問題が」
「ありがとう、リンク!」


そこでお礼と共にリンクの胸に飛び込めば、また言葉もなくアレンに引きずり離された。
ついでに首根っこを押さえ込まれる。
これではリンクに近づくどころか、顔の向きを変えることすらできない。


「アレン、痛い」
「大丈夫。さっきの君の言動のほうがよっぽどだから」


うわぁ、何だかちょっとだけ“いつも”のアレンみたい。
がそう思って口元を緩めれば、当の本人には怪訝そうにされた。
リンクは思い切り半眼になる。


「いいから君は病室に戻りなさい。女性がそんな恰好で出歩くものではない」


そう指摘されて、アレンまで頷いてくるから、は自分の姿を思い返す。
普通の病人服だ。どちらかといえば露出は少ない。生地が薄いからだからだろうか?
は首をかしげつつ服の裾を整えた。


「……そこじゃない」


リンクが呟いて目を背ける。
控えめな彼と違って、アレンがずばりと言った。


「胸元。見えそう」


さすがに今度は理解できて、は服の前を掻き合わせた。
何故なら検査時に外されたのか、下着を着けていなかったからだ。


「と、とにかく」


リンクは気まずい空気を振り払うようにして告げる。


「ウォーカーはあまり中央庁に反抗的な態度を取らないように。今回のことは、私のところで止めておきます」
「僕が善良な団員でいられるよう、こちらからもお願いしたいんですが。……今回のことは、ありがとうございます」


アレンは中央庁に対して相変わらずだったけれど、リンク自身に対しては感謝の念を隠さずに微笑んだ。
きちんと一礼をしたから、も頭を下げる。
アレンに首を掴まれたままなので、あまり視覚的な変化はなかったようだけれど。
リンクは苦笑めいた表情になって、別れの挨拶を済ませると、廊下の向こうへと去っていった。


「わっ」


手を振って見送っていたは唐突に開放されて驚いた。
目を瞬かせているうちにアレンが背を向けて歩き出してしまう。
慌てて追いかけると冷たい視線を浴びせられた。


「だから胸元」


どうやら病人服のサイズが合っていないらしい。
動くとすぐに肩をずり落ちてくるから、自然と肌の露出範囲が広がってしまう。
仕方がないのでは襟の合わせを押さえながら訊く。


「どうしてリンクが本部にいたの?今回の件で呼び出されたわけじゃないんでしょ?」
「別件で来ていたそうですよ。僕のことはついで」
「そう。……」
「まだ何か?」


何だか釣れない。相変わらず冷淡な態度だ。
告白されてからこちら、アレンの対応に温度はなく、仕方がないことかもしれないけれど、としても思うところはある。
そして、こちらから言いたいこともあった。


「アレン」


名前を呼んでみたけれど、返事はなかった。
が足を止めても彼は前進し続ける。
このまま自分を置き去りにして、どこかへ行ってしまうつもりだろうか。


「待って」


は動かなかった。
その場に立ったままでいた。
ここでアレンを引き止めたかった。
ティムキャンピーが白髪を咥えて踏ん張ってくれているけれど、彼は邪険にそれを振り払ってしまう。


「ねぇ」


頑なに向けられた背中に、徐々にある衝動が沸いてきた。
本当はもうずっと感じていたことだ。
切なくて哀しい。
けれど、それ以上に、


「待ってって……っ」


時を見計らったようにティムキャンピーが合図を送ってくれたから、は有り難くそれに従った。
金色の球体を掴む。掌に吸い付く感覚。
そのまま大きく振りかぶって、


「言ってるでしょうがっ!!」


憤りを込めて叫びながら、全力でゴーレムを投球した。
響き渡る衝突音。
ティムキャンピーは見事にアレンの後頭部に直撃し、壊滅的なダメージを与えたらしい。
さらに自主的に体当たりを繰り返してくれている。


「ティム」


が手招くと瞬く間に飛んで来る。
こちらもそれなりに痛かったようで、止めどない涙を流しているから、掌で優しく撫でてやった。


「〜〜〜〜〜〜〜〜っつ」


アレンは無音で痛みに悶えていた。
廊下にしゃがみこんで後頭部を押さえている。
肩が震えているのは、もしかしたら怒りのせいかもしれない。
構うものかとは思った。


「なんなのよ」


医療室でも言ったことを繰り返す。


「何なのよ、もう」


カッとなった思いのまま、は両拳を握って声を大きくした。
距離があるからだ。
アレンは自分から遠ざかろうとしていて、まだこちらを振り返ってもいない。


「自分は強引だったくせに。私の話も聞いて。こっちを見てよ」


銀灰色の瞳は私を映さない。


「……っ、わからない。あんたって人はいっつもなに考えてるかわからなくて、私はずっと嫌われてるんだと思ってて」


早く口を動かすと頬のガーゼが緩んできた。このままじゃ剥がれるかもしれない。
面倒だったからべしりと叩いて貼りなおした。
勢いよくやりすぎて傷に響く。涙が滲む。


「だって他の人にするみたいに笑ってくれなかった。優しくしてくれなかった。代わりに怒って殴って罵って、泣きそうなの見つけてくれて、死にそうなのたすけてくれて、一緒に戦ってくれた。そう。そうやってひどいこといっぱいしたくせに。あぁもう何なの、本当にわからない、わからなかった、あんたが何を考えているかなんて、私にはちっともわからなかった!!」


考えが纏まらないまま、はまくしたてる。


「でも、それは私がいけないのよ。馬鹿だから。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿。知ってるでしょう、だから言ってくれたんでしょう、私の頭が悪いから、全然気が付かないから!」


話を聞く気がないのか、まだ痛みはあるだろうに、アレンは後頭部から手を下した。
そのまま立ち上がる。
は必死に続ける。


「それでやっと本心を見せてくれて、知ることができて、わかることができて、そしたらもうサヨナラみたいになって、あんたの中で私は終わって、そんなのは」


アレンはを返り見ない。
そして、その右足が、


「そんなのは」


前に踏み出された。


「いやだ」


やはりアレンは去ってしまうのだと思ったは、もう何もかもがどうでもよくなって、彼を引き止められない自分に腹が立って、いつもの冗談も、空元気も、見栄も、意地も、“”も、役立たずだと決めつけた。


「どうしてくれるの、こんなの、もしかしたら、ねぇ」


全てまとめて放り出した。




「こいかもしれないじゃない!!」




銀灰色の瞳と視線がぶつかった。
アレンが非常に驚いた様子でこちらを振り返っていた。
はというと、もっともっと吃驚して、呆然と口を開けていた。


「……え?」


ゆっくりと瞬きを繰り返す。
二人のいる廊下に、奇妙な時間が流れていく。


「私、アレンのこと好きなの?」


思わずそう口にすると、ますます変な空気になって、アレンは片手で顔を覆ってしまった。


「それを、当人である僕に、訊くんですか……」


信じられないとばかりに首を振られたから、は今更頬に熱があがってくるのを感じた。
恥ずかしくて居たたまれない。


「え?あれ……?」


しきりに首をひねって、頭を押さえる。
まさかこんな、いきおいで出てくると思っていなかったのだ。
つい先日クロスに言われたし、夢の中でグローリアにも指摘されたけれど、どうにも自覚が追い付かなかった。
”が否定ばかりしてくるから、そんなはずはないのだと半ば言い聞かせるようにしていた。
それなのに。


「“私”はアレンが好きなの……?」


唇を覆って呟けば、またアレンが嫌な顔をする。


「だから」
「じ、自問自答してるの!」
「僕の前で?わざわざ?それ嫌がらせだろう……」
「だってわからないんだもの……っ」


一生懸命言い訳をすると、小さく舌打ちをされた。
最近彼は本当に、私の前では取り繕わない。別にいいけど。


「わかった。じゃあ、馬鹿


アレンが一歩近づいてくる。


「好きか嫌いか考えてみて。リナリーは?」
「え……?好き」


もう一歩。


「神田は?」
「好き」
「ラビは?」
「好き」
「グローリアさんは?」
「……、すき」


質問を重ねるごとにアレンはに近づいてくる。
目の前に立って見下ろしてくる。


「じゃあ、僕は?」


笑って欲しい。
もう何度目かわからないことを考えた。
今好きだと言えば、それが叶うのだろうか。
はそんなことを考える自分を嗤ったけれど、実際は泣き出しそうな声しか出なかった。


「わからない」


応えた瞬間、左手首を掴まれた。
そのまま追い込まれて壁へと押し付けられる。
ティムキャンピーを投擲したうえに、さんざん叫んだものから、病人服がずり下がってきて際どいところまで見えてしまっている。


「及第点」


アレンはため息と共にそう吐き出すと、身を強張らせたの額にキスをした。
肌を見ないようにしながら服を直してくれる。
意味がわからなくて瞬くと、もう一度吐息をつかれた。


「そんな恰好で、僕が望む答えを言われても……困る」
「…………………………」
「そもそも、師匠の言葉だって」
「元帥の言葉?」
「君が僕に惚れてる、ってやつ。悲しいけど、まったく信じられなかったし」
「あ、ごめん。それは私も」


思わず本音で返すと、アレンの額に青筋が浮かんだ。
背けていた顔を戻すとにっこりと微笑んでみせる。
が恐怖を感じたときには冷ややかに言い捨てられていた。


「はい、落第点」


掠め取るようにしてキスをされる。
今度は唇だ。
手で庇おうとしたけれど、そちらも捕らわれてしまった。


「わからないなら考えて」


距離が近い。
どちらかが少しでも動けば、また唇が重なってしまう。
この状態で答えを求めてくるアレンは意地悪だ。


「君は、僕に、“あなたのものにはなれない”と言った」


彼の瞳に自分の瞳が映り込んでいて、不思議なものを見ている気分になった。
銀色に光る黄金。


「それは“”だけの応えだろう。―――――――“君”は?」


あぁ、だからアレンは怒っていたんだ。
は涙の気配と共に思った。
彼は“私”を好きだと言ってくれたのに、私は“”としてしか応えを返そうとはしなかったから。


「“君”は、どう思っているの?」


その問いに、グローリアの叱責を思い出す。
夢の中で告げられた忠告。
『想いを返したのは“お前”じゃない』
そう、だけじゃ足りない。それはアレンの求める“私”じゃない。
それでも8年間で創り上げてきたものが、の口唇を震わせる。応えを躊躇わせる。


『意地を張らずに言ってごらん』


先生、本当にいいのかな。それが正しいのかな。


『大丈夫。お前は独りじゃないから』


間違えたら止めてくれるかな。
神田はバカ女って怒鳴って、ラビは仕方ないなって叱ってくれるかな。


「きらい」


そう言ってしまえば、アレンの瞳が細められた。
手を離してほしい。
これじゃあ、私からは動けない。


「だって、あなたは“アレン”を大事にしてくれないんだもの」


手首をひねってみたら、何とか拘束から抜けられた。
強引に壁際に追い込んだくせに詰めが甘い。
結局この人は私に優しい。


「“私”の傍にいれば、あなたは傷つく。余計なものに苦しめられる。途方もない苦痛を負うことになる」


”はいつだって、それが怖くて哀しかった。


「だから」


自由を取り戻した腕を伸ばす。
触れていいのだろうか。この指先は、彼に届いていいのだろうか。


「私たちは一緒にいないほうがいい。あなたが私を求めるのならば、余計に傍から離れたほうがいい。……クロス元帥の言うとおりに」


爪がアレンの髪にあたって、その滑らかさを感じ取る。
そのとき不意に湧いてきた気持ちがあった。
は衝動のようにそれを認めた。


「でも、嫌」


躊躇なんて振り捨てて、はアレンの頬に撫でた。
傷跡をなぞった。
目の前の少年が今まで背負ってきた覚悟も苦悩も絶望も、ぜんぶ自分のものとして受け止めたくて。


「だって、あなたは“アレン”を大事にしないんだもの。私が殴って怒鳴って強引に要求しないと、自分の命さえ投げ出そうとするんだもの」


はアレンの左頬から手を滑らせて、その心臓の上に置いた。
鼓動を感じた。
心が、戦慄いた。


「あなたは、“アレン”をどうするか、わからないんだもの」


言い訳だ。
こんな理屈がなければ私は駄目で、素直になることもできなくて、“”が心底呆れている。
意地っ張り。
でも“”だって、本当は。
ほんとうは。


「だから私が大事にするわ」


まばたきができなくては困った。
だって少しでも動けば、瞳に溜まったものがこぼれてしまう。
涙が、流れてしまう。


「私の知らないところで、あなたが“アレン”を傷つけるくらいなら」


あんな、哀しい顔で微笑ませてしまうくらいなら。


「私の前で、私のせいで、傷ついていて」


アレンの心臓の上で拳をつくる。


「ぜんぶ私の責任にして」


鼓動も呼吸も繋ぎ止めるように、は掌を握り込む。
この人を失いたくないと思うのは、愛情なのだろうか、友情なのだろうか。
の中で“私”が笑う。無邪気に首肯する。
私の中で“”が首を振る。無表情に否定する。
だめよ。でも。私は。


「……て」


小さくてみっともない声だったけれど、アレンは黙って待っていてくれた。
だから言った。
一生懸命言った。


「傍にいて」


まだ“”が認めてくれないから、精いっぱい心からの言葉を口にした。


「あなたがどうでもいいって言う“アレン”を、私は大切にしたい。絶対に傷つけたくない。―――――――“”からも、守り通したい」


そのために傍を離れろと、クロスは言った。


「そのために、傍にいさせて」


元帥である彼の助言に従うことが、一番利口な方法なのだろう。
それでもは自分の答えを出した。
だって、一緒に居なくてはわからない。
アレンが何に傷ついて、何に悲しんでいるのか。
私は馬鹿だからちっとも理解できない。セイみたいにうまく察してあげられない。
だったら本人に訊くしかないじゃない。
その責任を放棄して、アレンだけ傷つけて、逃げられるわけないじゃない。
傍を離れられるわけがないじゃない。
私が守りたいと思ったのは、身体からだだけじゃない、心をもなのだから。


「私と居れば、あなたは傷つく。けれど、同時に守ることもできると思う。これは自惚れ?」
「……少なくとも」


アレンは瞼を下して囁いた。


「守ることは傍に居ないとできないよ」
「……ぶ、物理的にね?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話なの」
「そもそも、さぁ」


言葉の最後で大業なため息をついて、アレンは両肩を落としてみせた。
はそうとう頭をひねって、勇気を振り絞って、心情を告白したつもりでいたので、彼がいまだに呆れた様子なのが意外だった。
少々、がっかりしてもいた。


「君がなんて言おうと、僕のほうにその気がないっていうのに」
「その気、って……」
「だから、傍を離れる気なんてないよ。最初から」


は数秒沈黙した。
ちょっと頭の中が真っ白だった。
ぽかんとしていると、アレンがまた嘆息する。


「どいつもこいつも僕が君を敬遠したと思い込んでる。ラビになんて胸倉を掴まれたよ。他のみんなも“まさかと絶交したの?”だって」
「……、アレンくん」
「なに」
「……………あなた私を無視しましたよね?」
「あぁ、あれ」


が引き攣った半笑いで訊くと、アレンは目を逸らせて頬を染めた。


「あれは……その、久しぶりに会ったから」
「……から?」
「また強引なことしてしまいそうで、精一杯自制した結果というか」
「そんな理由!?」


思わず叫べば、もっと大音声で返された。


「僕は!君に!一回フラれてるんだよ!勝手なことしたら嫌われるだろう!しかも皆が寄ってたかっての話ばっかり振ってくるから、もう本当に我慢の限界で!!」


言ったいきおいのままアレンが距離を詰めてきた。
近い。近すぎる。
さらに腰に腕を回されて、ぴったりと密着させられてしまった。


「ちょ、ちょっと待って……!」
「だめ。限界」
「まっ……て!」


あぁ、だめ。くちびるが。
の眼尻に溜まっていた涙をアレンの口唇が拭っていった。
そのままこめかみにキスされる。
は咄嗟にアレンの二の腕を掴んだ。


「ア、アレン……!」
「僕は」


唇がそのまま耳元に下りてきて、直接鼓膜に囁かれる。


「君が何を言っても、どう思っても、離れる気なんかないよ」
「……っ」
「でもね、君もそれを望むのなら……覚悟をして」
「覚悟……?」


訊き返しながら見上げれば、アレンがふわりと微笑んだ。
はそれに目を奪われる。
随分久しぶりに、ちゃんと笑った顔を見せてくれた気がしたのだ。


「僕、君のこと口説くから」
「……………………………………………………………は?」


見惚れるほどの笑顔で、堂々とそう断言されたものだから、はたっぷりの間のあと、気の抜けた声を出してしまった。
それでもアレンは、悪戯っ子のような目で楽しそうに言う。
でさえ滅多に見ることのない表情だ。


「だって一緒に居たらいろいろしたくなる。当然だろう?」
「は?はぁ……」
「でも、僕も無理強いはしたくないから。口説くね」
「く、くど……?」
「抱きしめて、キスして、好きだって言う。君が頷いてくれるまで」


視線に色が混じって、二人の間がまた縮まった。
それにが戸惑って、制止の言葉を口にする前に、頬に手を添えて仰向けさせられる。


「最初からそのつもりだったんだよ。僕が君を遠ざけられるわけがない」
「……怒ってたじゃない。無視だってした」
「根に持ってるの?」


は本当に気にしていたのに、アレンは嬉しそうに笑うだけだ。


「さすがにあんなはっきりとフラれて、いつもと同じ顔はできないよ。気に障ったのなら謝る」
「…………………………」
「無視したのも」
「もう、しない?」
「自制しなくていいのならね」


最初からそんなつもりなんかないくせに、アレンは意地悪な口調で訊いてきた。
は顔を赤くして押し黙るしかない。
だって何て応えていいのかわからない。
こんな局面は初めてだ。


「乱暴なことしてごめんね。困らせてごめん」


アレンは小さな子供にするみたいに、の頭を撫でてくれた。


「でも」


その手が一転して求めてくる。
首裏に掌を当てて、強く引き寄せられた。


「この気持ちは謝らない」


ほんの少しの隙間だけ残して、アレンは笑みを消した。
間近で見つめ合う。
銀色の双眸が、真剣さをたたえて、を見つめている。


「激しく不本意だけど、もう認めてるんだ」


ゆっくりとまばたく瞳。


「僕はこんな感情を持ってしまった自分に、心底腹を立てている。けれど」


を抱く腕の力が強くなる。
逆らえない。勝てやしない。抵抗なんて無意味だ。


「それ以上に、鈍感で考えなしで僕の気持をちっともわかっていなかった、馬鹿すぎて腹の立つ君が」
「……ここでまでけなす?」
「だって本当のことだよ」
「あのね」
「好きだ」


あまりの言いように半眼になっていたは、不意を突かれたみたいになって小さく息を呑む。
その呼吸を奪うようにキスをされた。
唇を覆う熱。
直接流れ込んでくる感情がやっぱり少し怖くて、反射的に身を引こうとしたら、腰に回したままだった腕に引き止められた。
あぁ、この人は本当に、私を開放してはくれないんだ。
ずっと傍に、居てくれるんだ。
だったら私の願うことはひとつだけ。
彼がどうでもいいと言う“アレン”を大切に守り抜くこと。
”にさえ傷つけさせないように。


「……っ、ね、ねぇ」


それでもはキスの合間に訴えた。


「少しは手加減してよ……!」
「えー……」
「えーじゃなくて!……あんまり、ご、ごういんなことしないで」
「だめ。これから全力で口説くんだから」


の意見をアレンはあっさり却下した。


「君は僕にドキドキしていればいい」


そう言って、誰が見ても素直な顔で、微笑んでみせた。


「好きだよ、


あいしてるという囁きは、の唇に溶けた。




















「……で?」


食堂の机に頬杖をついて、ラビは眼前を睨みつけた。
じと目になって訊いてやる。


「結局オマエら、どうなったんさ」
「「あ゛!?」」


ガラの悪い声を出しながら同時に振り返ったのは、互いに胸倉を掴み合っているアレンとだ。
どうやら絶賛ケンカ中のようである。
話を振ったタイミングが悪かったかもしれない。


「だーかーら!目玉焼きにはお醤油だって言ってるでしょうが!」
「うっさいですね!僕はマヨネーズ派なんです!絶対に譲れないんです!」


しかしまぁ、何とくだらないケンカだろうか。
ラビは呆れた顔で事の成り行きを見守る。


「よく考えてよ!目玉焼きの材料は卵だよ?マヨネーズの原料も卵だよ?つまりこれは卵オン卵!どれだけ卵リスペクトしてるのって話よ!!」
「あぁもう尊敬してますよ、大尊敬ですよ!だってこんなに腹持ちのいい食材そうありませんよ?といわけで卵オン卵なにが悪い!!」
「そ、そんなにも卵を愛していただなんて……っ」
「好きです大好きです、心から愛しています」


キリッとした表情で、真剣な口調で、アレンが想いを告げたから、は震える睫毛を伏せてみせた。


「……っつ、それでも健康マニアとして言わせてもらうわ」


涙ながらにアレンの胸元に縋り付く。


「もっとコレステロールのことも気にしてあげて……っ!」
「やだ。僕は食べることに全力を出すから、気にするのなら君がしておいて」
「じゃあ、今日の朝ごはんからはお醤油ねって言ってるそばからぁぁあああ」
「うん、やっぱりマヨネーズはこのくらい盛らないと!!」
「……っつ、そんなカロリーの塔崩してやる!!」
「何しやがるんですか、このっ!」
「そっちこそ何しやがってんのよ、このー!」
「いや、オマエらほんとに何してんの?」


あまりにくだらなさすぎて、さすがのラビも真顔で突っ込んでしまった。
この二人は何を楽しげに馬鹿な言い争いをしているのだろうか。
しかも終わりが見えない。いつまで続けるつもりだ、こいつら。


「何よ、ラビ。私に今アレンのコレステロール値を正常に戻すという正義の戦いを」
「どうでもいい。そんなことはどうでもいい」


ラビは面倒さを隠しもせずに片手を振ってみせた。


「何なの?オマエらすーげぇ微妙な感じになってたんじゃねぇの?アレンが告って、がフッて、それからしばらく口もきいてなかったくせに何?なんでそんなにいつも通り?」


本気で意味がわからなくて一気に疑問を口にしてみせると、は眉を下げて唇を引き結んだ。
わずかだが頬に色が差す。
何だその反応。
ラビは怪訝に眉を寄せたけれど、彼女とは対照的にアレンはさらりと応えてくれた。


「別に。僕は変わってませんよ。残念ながらこんなのが好きなままです」
「……それが惚れてる女への言葉さ?」


ラビは冷や汗をかきながらアレンを見やる。
彼はマヨネーズてんこ盛りの目玉焼きを食べながら、隣に座る金髪を一瞥した。
は居心地悪そうに醤油さしをいじっている。


「……もしかして、オマエら付き合ってんの?」
「「まさか」」


返事は二重だった。
おかげではアレンに睨まれる。


「えー……っと。その。私が馬鹿なので」
「そう、馬鹿だから」
「大馬鹿だから!……よ、よくわからなくて、でも離れちゃうともっとよくわからないから、一緒に居ないと駄目だよね、アレンなんか危なっかしいし!……って感じ、です」
「……言葉にされるとなんか嫌だな」
「ご、ごめん」
「いいけど」


「いや、よくねぇさ。意味がわからん」


困った顔のと肩をすくめるアレンの間では、何だか話ができあがっているみたいだけれど、部外者のラビとしては理解不能だ。
もう食事なんかしている場合じゃないから、フォークを置いて首をひねる。


「つまり、アレンを放っておくとアレだから、が責任もって見張るってことさ?」
「ますます嫌な言い方ですね」
「だってそうだろ」
「まぁ。一緒にいることには同意なんで、今はそれでいいって話ですよ」
「……お互い妥協したわけ?」
「歩み寄ったと言ってください」


アレンにぴしゃりと訂正されて、ラビは曖昧に頷いた。
うーん。こういうのってアリなのか?
片方の気持がバレてるっていうのに、今までの関係を継続するって……。


「と、いうわけで」


いつの間にか朝食を食べ終えたアレンは、きちんと掌を合わせながら微笑んだ。


「これからこの馬鹿にバンバン手を出すんで。よろしくお願いしますね!」


明るくとんでもないことを言い放った。
同時に鞘走る音。
ラビが呆気に取られて口を開けたときには、すでにアレンの首元には『六幻』が突き付けられていた。


「あ、神田。おはよー」


がのん気に挨拶をしたけれど、彼はそれどころではないようで、超低音の呻り声を絞り出す。


「朝っぱらからふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ、モヤシ……!」
「嫌ですね、神田。そう興奮しないでくださいよ」


対するアレンは刃を恐れもせずに笑う。


「このむっつりが」
「テメェ、斬る!!」
「はいはい、ユウちゃん。お蕎麦あげるから座ってね」


一触即発の事態には平然と割って入って、神田をラビの隣にある椅子に導く。
文句が来る前に口にてんぷらを突っ込んでやった。
吐き出すわけにもいかない神田は一気に咀嚼する。


「うわぁ、衣サクッサクだね」
「あぁ、なかなか美味い……じゃねぇよ!邪魔すんなバカ女!」
「だって食事どきに流血沙汰とか見たくないし。ご飯はおいしくいただこうよ」
「いただかれそうになってるのはテメェだろうが!ったく、変態はラビだけで充分だっつーのに……っ」
「とばっちり!」


急に矛先を向けられてラビが哀れな声をあげたけれど、その原因であるアレンは気にするふうでもなく優雅に食後の紅茶を飲んでいた。
それどころかに「あれ取って」と言って、シュガーポットを引き寄せさせる。
カップに大量の砂糖をぶちこみながらアレンは微笑した。


「よく考えてくださいよ、二人とも。が頷いてくれない限り、僕の想いは一方通行なんですよ?切ない片思いなんですよ?」
「……だからどうした」
「恋する少年の気持ちがまるでわかっていませんね。わざわざ言わせないでくださいよ、恥ずかしい」
「うん、オマエもうちょっと恥らったほうがいいさ……」
「つまり、意中の女性を口説くことの何が悪いんですかって話ですよ」


アレンは本当に悪びれもせず言うと、不意に瞳をすがめてみせた。


「それにこの馬鹿、言葉だけじゃあわかりそうにないじゃないですか。だったら体に教え込むしか……ねぇ」


その剣呑な発言に神田やラビは当然のように青ざめたが、本人も顔色を失っていたのだから笑えない。
彼女は身震いすらしてみせた。


「……こ、こういうわけなんで、あんまり煽らないでください」


声は控えめで囁く程度だったけれど、それがかえって事の重大さを表している。
にこにこと笑うアレンはふと思い出したかのように言った。


「そういえば、
「うん?」
「この前の……セイがアジア区支部に帰ったときのことだけど」


そういえばあの時セイにキスされたな、と何となく思い出して口元に触れれば、がちょっと変な顔をした。
不思議に思ってアレンが見返すと、「なに?」と微笑んでくれる。
でもやっぱりどこか表情が固い。気がする。


「……セイが去り際に言っていたのって」


今度こその笑顔が凍りついた。
視線を右にやり左にやり、下に落として目を背ける。
アレンは半眼になって、それでも訊いてやった。


「ねぇ、あのとき彼女は僕に何て言っていたの?」


「中国語っていうのはねぇ、発音が一番難しいんだよ!」


は奇妙なくらい明るい声をあげた。
アレンの問いには答えず、神田とラビに視線を送っている。
何だか目配せをしているようにも見える。


「一般的に四音って言われているけど、それも高、中、低とあって。ねぇ、ラビ!」
「へ?あ、あぁ。そうさね……」
「喋れるようになったとしても、今度は漢字が難関なの。そこは神田に習うのがいいかもね!」
「俺に振るな」


神田は取りつく島もなくそう言い捨てると、不愉快そうに顔を歪ませてみせた。


「テメェ、なに必死に話を逸らそうとしてるんだよ」
「ガッデム!」


あっさり裏切られてしまったは両拳でテーブルを殴った。
アレンは冷ややかに追い打ちをかけてやる。


「というか、そんなお粗末な方法が成功するとでも?」


絶対零度の視線を浴びせると、は頭を抱えて「ううう……」と呻る。
本当に嫌そうに目を閉じた。


「あれは私の口から伝えることじゃないんだよー……」
「でも、セイは君に訊けって」
「えーっと。それは……その」
「うん」
「ちょ、ちょっと……意地悪してみたかったのかな、っていう」
「そんな可愛いものならいいんですけどね。はっきりと嫌がらせなんでしょう?」


はセイのことを気にしているのか、やたらと言葉を選んでいるので、代わりにアレンがずばりと言ってやった。
おかげで身をすくめた金髪が揺れる。


「……何でわかるの」
「雰囲気。たぶん何か罵られたんだろうな、って」
「そこまで察しているのなら、わざわざ聞かなくてもよくない?」
「馬鹿だな、


アレンは唇の片端だけを吊り上げて、楽しくもなく笑った。


「プライドの問題だよ」


は引き攣った表情でしばらくその笑顔を見ていたが、やがて諦めたみたいにため息をついた。
手で額を押さえて深く俯く。


「“……し野郎”」
「え?」
「“私の大切なに手を出しやがって。大体なぁ、好きなら衝動くらい押さえ込めよ。本能にも理性にも勝てるのは愛だけなんだよ。自分の気持ちだけで襲うなんて言語道断なんだよ。女の子をこんなに思い悩ませて、お前それでも男か!この玉なし野郎!!”」
「…………………………」


微笑んだまま凍りついたアレンに、は顔を覆って最後のとどめを言い放った。


「“今度会ったら去勢してやる!覚えてろ、この玉なし野郎!!”」


沈黙。
果てしない沈黙。
空気が一気に重圧を得る。
重く澱んで固まったそれが双肩に圧し掛かってくる。
はセイのとんでもない捨て台詞を口にしてしまった罪悪感と、今後の展開に恐怖してぶるりと震えあがった。
目元にかぶせた指の隙間から、神田やラビも小刻みに肩を揺らしているのを見る。
しかしその理由はとはまったく別のところにあったようだ。


「……っ、ププッ」
「耐えてー!」


我慢の限界とばかりに噴き出したラビに、は命がけで懇願した。
信じられない。笑うとか!笑うとか!!


「何なの、ラビには優しさとか気遣いってものがないの!?」
「いや、だってさ!笑うだろ!この英国紳士が女にそこまで罵られるとか!!」
「やめ……っ、ほんとやめて!ばかばかもう、アレンの悪口言うなー!」
「いや、オレじゃないし。今言ったのオマエだし」
「私じゃない!私じゃないんだよ、アレン!」
「そうさね、セイさね。しかしあの女ひっでぇなぁ、ププーッ」
「ちがーう!違うの、いつものセイはこんなこと言う子じゃないのよ……って」


そこではアレンにしがみついたけれど、その表情があまりにも無に近かったから続きを失った。
怖い。怖すぎる。
光も温度も失った、まるで人形みたいな目を、ゆっくりとこちらへと向けてくる。


「ひい」


は本気で恐怖して、素の悲鳴をあげてしまった。
助けを求めるように視線をさ迷わせれば、ティムキャンピーを抱え込んでいる神田を発見する。


「なに映像撮ってんのー!?」
「いや、モヤシの顔があまりにも傑作だったから」


ゴーレムにばっちりと記録を残している神田には叫んだけれど、当の本人は見たこともないほどウキウキと応えてくれた。
信じられない。記念撮影とか!ショックで茫然自失の人を記念撮影とか!!


「何なの、神田はそんなにアレンのことが嫌いなの!?」
「はぁ?馬鹿言うなよ」


涙目で喰ってかかれば、神田は真顔で断言した。


「大っ嫌いだ」
「そんなハキハキと!」
「今度そいつが調子に乗った真似をしたら、今の映像をエンドレスで見せる」
「き、鬼畜すぎる……っ」
「それにしても、お前の口で罵倒されているモヤシっていうのはあれだな」


そこで神田は顔を背けると、片手で唇を覆ってしまった。


「目も当てられねぇ……!」
「大爆笑しながら言うことかー!」


本当に泣きそうになりながらは叫んだ。
それでも神田とラビは腹を抱えて笑い続ける。
止まらない哄笑がテーブルの向かい側で渦巻いている。


「ア、アレン、ちがう、ちがうのよ、その、あのねっ」


はしどろもどろになりながらも何とかフォローをしようと、必死に頭と口と両手を高速回転させる。
あぁ、駄目だ。恐ろしい。
アレンの眼がおかしい。
もはや生気を失って、虚ろな表情になってしまっている。


「ア、アレン……!」
「すみません、ちょっと」


引き止めるをやんわりと振り払いながらアレンは立ち上がった。
途端に神田とラビの声が飛んで来る。


「おい、どうした?玉なし野郎」
「どこ行くんさ?玉なし野郎」
「やーめーてーぇ!」


小学生みたいなからかい方をする二人に、テーブルに縋り付いたが半泣きで訴える。
ふらふらと歩き出したアレンは、肩越しに振り返って言った。


「行ってきます」


三人そろって「どこに?」と問えば、彼はにっこりと微笑んだ。
そう、笑ったのだ。
直視を躊躇うほどの暗黒のオーラを纏って、恐怖の微笑みを浮かべたのである。


「ちょっとアジア区支部まで」
「セイ逃げてぇぇええ!!!!」


は今度こそ泣きながら絶叫した。
あぁ、駄目だ。殺される。具体的に誰が誰にと言わないけれど、確実に殺される。
椅子から落下するかのように駆け出して、はアレンの腰に猛烈な勢いでしがみついた。
タックルの要領で転ばせようとしたのに、相手はよろめくこともなく平然と歩き出す。
は思い切り引きずられる格好となった。


「待って!早まらないで!紳士的な自分を思い出すのよ、アレン!」
「知るか。狩る」
「単語!物騒な単語やめて!ホラもっとここでさんとお話ししよう!」
「うん、後でね。やり終わったあとでね」
「や、やだ!今!今がいい!てゆーか、殺り終わったあととか言わないの!」
「あはは、ってば。いい子だからもうちょっと待ってて。はしゃぐのは今夜の臓物パーティーでにしようね」
「ぞうもつパーティー……!血沸き肉躍る暗黒の宴を開くというの……!?」
「ミノ、ハツ、レバー……ホルモンは外せないよね」
「笑顔でぶつぶつ言ってるぅぅううう」


左手をわきわきさせているアレンの背中に、は泣きっ面を強く押し付けた。
駄目だ。止められない。止まってくれない。
このままじゃセイが……!


ー!」


そのとき名前を呼ばれたは、死んでしまいそうなほど驚いて、どうか聞き違いでありますようにと必死に祈りながら振り返った。
そしてこちらに駆け寄ってくるセイを発見して絶望した。
嬉しそうな彼女の顔がまともに見られない。


「こんにちは。元気でしたカ?具合はどうでス?」
「な、ななななな何でセイがここに……?」
「あぁ、お仕事ですヨ。希望を出して、またバクさんについて来ちゃいましタ」


蒼白になっているの頬をセイはさらりと撫でて笑う。


「もちろん、に会いたかったかラ」


そういって無意味に顔を近づけてくるセイから、は唐突に距離を取らされた。
猛烈な勢いで引っ張られたから「ぎゃあ!」と悲鳴をあげる。
仰向けにひっくり返ったところをアレンに足蹴にされて、ますますセイから遠ざけられた。


!」


そのあまりの扱いにセイが心配そうに名を呼んだけれど、仁王立ちになったアレンがそれ以上の接近を阻む。
片手を腰に当て、顎を高くあげ、尊大に笑ってみせた。


「どうもこんにちは、セイ」
「……あぁ、アレンですカ」


目の前に立ちはだかった少年を一瞥して、セイはもう隠すことなく嫌な顔をする。
しかしアレンも負けてはいない。
表情こそ笑んでいるが、目は殺人的に冷ややかだ。
ふたりは絶対零度のオーラを振りまきながら、にこやかに睨み合う。


「こんにちは、そしてサヨウナラ。そこどいてください、邪魔でス」
「嫌です、お断わりします。に近づかないでください」
「ははっ、君にそんなこと言う権利があるとでモ?」


セイは鼻で笑い飛ばすと、ついでに中国語で何事かを呟いた。
すかさずアレンは鋭く命じる。


「ラビ、通訳!」
「へっ?オレ!?え、ええーっと……“フラれ男がほざくなよ”」


アレンは反射的にラビを睨みつけてしまい、「オレが言ったんじゃないさ!」と必死の弁解を受けた。
当のセイはといえば、手の甲を口元にかざしている。


「すみません、まだ英語は綺麗な言葉しか知らなくテ。何て罵ってあげればいいのかわからないんデス」
「そのまま母国語も上品なものに改められては?とても女性の使うものではありませんよ」
「アレンにとやかく言われる筋合いはないデス」
「僕だって君にとやかく言われたくありませんよ!」


さすがにイラッとしたのか、アレンが口調を荒げた。
そのまま腕を組んで唇をひん曲げる。


「誰が玉なし野郎ですか!僕が中国語をわからないのをいいことに、よくも好き勝手言ってくれましたね!!」
「あれ?怒ってるんですカ?どう考えたって、彼女に手を出した君が悪いのニ?」
「お言葉ですが」


嘲笑を浮かべるセイに、アレンは力強く言い放った。


「僕はこれでも充分自制してるんですよ。毎日毎日、目の前であんな短いスカートはかれようが!やたらと無防備に引っ付いてこられようが!あっけらかんと好意を口にされようが!ずっと自制してきたんですよ!!」


は何となく頭を下げた。
その節は本当にすみません、と心の中で謝罪する。
口にも出そうかと思ったけれど、アレンが続けた言葉にそんな気持ちは吹き飛んだ。


「そういうわけで、この度めでたく気持ちもバレたことですし」


アレンはそこで瞳を緩めた。
キラキラした効果音でも聞こえてきそうだ。
背景に光と花が飛び散りそうな。
そんな誰もが見惚れそうなほど穏やかで優しい、紳士の見本のような顔で彼は言った。


「今後は一切自制しません!!」
「何そのハレンチ宣言!!」


は赤くなったり青くなったりと、忙しく顔色を変えながら突っ込みを入れる。
信じられない。何がどうとかじゃなくて本当に信じられない。
とにかく恥ずかしい!!
居たたまれなくて死にそうになっているは、セイが完全に表情を失ったのを見た。


「……
「は、はいぃ!?」
「ハサミ貸してくれませんカ」
「な、なんで……」
「今すぐこの男のお粗末なものをチョン切りマス」


呪詛のように言う間にもセイの周囲には不穏なオーラが渦巻き始める。
目に見えるほどの呪力を纏って、懐から符を一気に引き抜いた。
五枚を同時に放ったけれど、アレンは持ち前の反射神経でかわしてしまう。
セイは呪符が床に落ちるより早く踏み切り、右足を繰り出す。
カンフーの技、疾風脚だ。
抜群の破壊力を持ったその蹴りは、身を低くしたアレンの頭上を行き過ぎる。
着地の後も何度か脚を叩きこんだけれど、セイの攻撃はことごとく防がれた。


「く……っ」


悔しさに歯噛みするセイに、アレンは何を言うでもなく、べぇっと舌を出してみせた。


「……っつ、!ダメ!やっぱり絶対にダメ!こんな男やめたほうがいいデス!」
「それは彼女本人が決めることですよ」
「嫌い嫌い嫌い、大キライ!!」
「セイにそう思われたところで痛くも痒くもありませんね」
「あぁ、もう!こいつムカつくデス!!」


地団太を踏んだセイは再びアレンに挑みかかる。
今度は彼も反撃に打って出たから、何だかは黙り込んでしまった。


「オマエ、恐ろしいほど愛されてんなぁ」


呆れ半分感心半分の口調でラビが呟いたけれど返事ができない。
床に座り込んだまま、ゆっくりと目を落とす。


「おい、?」


反応がないからか、神田が怪訝そうに呼んだ。
問いかけを含むそれには無意識の内に応える。
胸の内がもやもやしていて纏まらないから、早く言葉に変えてしまいたかったのだ。


「……アレン、が」
「うん?」
「モヤシがどうした」
「…………………………………私以外の女の子と、ケンカしてるの、初めて見た」


数秒の沈黙。
頭の上では男女の罵声が響いている。
それを聞きながら神田とラビは顔を見合わせた。
お互いに微妙すぎて形容できない表情をしていた。
はというと、もっともっと微妙な表情をしていた。


「優しくしてない。平気で言い合ってる。手も足も出してる」
「「……………………」」


神田とラビは二人を見やる。
セイはアレンを遠慮なく攻撃しているし、アレンも冷笑を浮かべつつやり返している。
確かに英国紳士の彼にしては、対女性とは思えない言動だ。


「安心しろ。お前相手だともっとひどいぞ」
「そうさ。比べもんになんねぇさ」


が俯いているから、神田とラビは思わずそう言ったけれど、内容だけ聞くと全然慰めになっていない。
それでも事実なのだから仕方がない。
二人はわたわたと言い募る。


「ほら、よく見ろ。いまだに敬語のままだし、舌打ちもしていないし、胸倉も掴んでないぞ」
「罵倒の内容だって全然だろ。あんなんレベル低すぎだろ。本気でケンカしたときなんて、オマエどう呼ばれてる?“脳みそド腐れ豆乳馬鹿女”だぞ?」
「それが好きな女性への言葉ですカー!!」


どうやらセイにまで聞こえてしまったようで、彼女はさらに怒り狂っている。
対するアレンも容赦ない毒舌と攻撃を披露していた。
おかげでは暗くなる一方だ。


「……そもそもこれは落ち込むところか?」
「いや、絶対に違うさ」


神田とラビが小声で言い合っていると、セイが遠くから怒鳴ってくる。


!こんな!こーんな、好きな女性に優しくできない男なんて!選んじゃいけませン!!」
「……の」


視線を落としたままが呟いた。


「いいの」
?」


疑問符を浮かべてアレンが名前を呼べば、はすっくと立ち上がり、何かが爆発したみたいに大声で叫んだ。


「アレンは私にだけ優しくしなければいいの!!」


「「「「……………………………」」」」


両拳を握っての力説に、他の四人は言葉を失う。
それでも最初に自分を取り戻したのは、先の主張を投げつけられたアレン本人だった。


「さんざん」


ため息と共に吐き出す。


「優しくしてやれって、いろんな人に怒られてきたっていうのに……」
「ええ?そんな、誰に?」
「当の本人から拒絶されるとか」
「あ、プシュケさん?」
「有り得ない」


またアレンが信じられないとばかりに首を振るから、は仁王立ちになって断言してやった。
こんなのは当たり前のことだ。


「私への優しさは、“私”だけが知っていればいいでしょう」


アレンは虚を突かれたかのように顔をあげた。
見開いた目で凝視される。
それからゆっくりと肩の力を抜いた。


「はぁ……。本当に、悩んでいたのが馬鹿みたいだ」


口調は拗ねたようなものだったけれど、唇は緩んでいて笑みに近かった。
の好きな類だ。
だから釣られて微笑んだら、アレンも同じ表情になる。
それを傍らで見ていたセイは、どうにも身動きが取れないようだった。


「すみません、セイ」


唐突にアレンは彼女に話しかけた。
そして、もう一瞥もくれずに駆け出した。


「自制しないって宣言したばかりばかりなのに。君なんかに構っている場合じゃありませんでした!」
「……は?」
「しかも本人から優しくしなくていいって許可済みですよ?いやぁ、腕が鳴るなぁ!!」
「って、ちょっとォ!!」


そのままアレンがに一直線に向かっていったから、セイは血の気を引かせて全力で叫ぶ。


逃げてー!走って逃げてくだサイー!!」


とりあえずまだしばらくはこの調子なんだな、と外野でラビは納得した。
殴り合って、罵り合って、笑い合って、そうやって過ごしていけるんだな。
そう思って安堵の吐息をつく。
視線の先では、怒鳴るセイと参戦した神田、彼らに容赦しないアレン。
そして笑顔のがいた。


誰もがこの何でもない幸せが続くことを願っていた。
同時に不可能であることも知っていた。
それでも。
戦場に生きる自分たちが、そう祈れるということ自体が、すでに幸福だったのだ。




そしてそれを、すぐに思い知ることになる。










『サロメの死因』、終章です。
やたらと長くなりました。
と言うのも、予想以上にヒロイン側にアレンへの気持ちがあって、悩んだり落ち込んだりに尺を取ってしまいました。
これには書いているほうも吃驚っていう……。(ひどい)

次からは新章です。今までにない雰囲気になると思いますので、お楽しみいただければ幸いです。