好きで嫌いで嫌いで嫌いで、時には憎しみを覚えるくらい。


大嫌いなほど、あいしてる。







● サロメの死因  EPISODE 7 ●







「謹慎、かなぁ」


アレンを筆頭に、整列させられた、神田、マリを前に、コムイは弱り切った顔で下命した。
その隣でリナリーが息を呑む。
リーバーやジョニーも心配に表情を曇らせて事の成り行きを見守っていた。


「甘すぎるだろ」


皆の心情とは真逆のことを言ったのは神田で、彼はコムイの机の前、アレンの隣まで進み出る。
いつも明るく騒がしい科学班研究室も、今は遠慮がちな囁き声に満ちていた。
それをすべて無視して神田はアレンを睨みつける。


「いい加減こいつを何とかしろ。指令側が制御しないから、調子に乗って独断行動に走るんだろうが」
「うーん。そうは言ってもねぇ」
「神田、アレンくんも悪気があったわけじゃ……」


コムイは言葉を濁し、リナリーがフォローしたけれど、アレン本人が首を振った。
銀灰色の瞳は伏せられたまま。
静かすぎる調子で言う。


「確かに今回は勝手が過ぎました。ひとりで師匠を追って、揚句また逃げられましたし」


アレンは団服であるコートを脱ぐと、片手で抱えて深く頭を下げた。


「マリは僕が無理やり付き合わせただけです」
「アレン……!」
「謹慎は僕だけに」
「いや、室長。私も」


マリがコムイに訴える間に、アレンは身を翻してしまう。
どうやらすでに室長が下した暫定処分に従う気のようだ。
一切の弁解もせずにそれを受け入れる姿は、何かを割り切ったようにも、諦めてしまったようにも見えた。
皆は口々に呼び止めたけれど、アレンは返事もせずに去ってしまい、後に残された神田は舌打ちをする。


「何なんだ、あいつは……」
「やっぱり心配?」


半眼でからかったコムイは、殺人的な目で睨みつけられる。
そして神田はアレンに続いて部屋から出て行ってしまった。
乱暴に閉められた扉が室内を揺らしたから、コムイは肩をすくませる。


「何だかすっきりしないなぁ……。神田くんがイライラするのもわかるよ」
「室長。アレンの謹慎はいつ解ける?」
「大丈夫だよ、マリ。この程度だったらすぐだ」


処分は形式上だと告げてコムイは笑った。
ホッと胸を撫で下ろしたマリは傍に立つ少女を見下ろす。


「それなら安心だな、
「…………………………」
?」


何度か呼びかけられてハッと我に返る。
マリが様子を窺うようにしていたから、は微笑んで首を振った。


「何でもない。……うん。処分が軽くてよかった」
「具合でも悪いのか?ぼんやりしているようだが」
「そう?久しぶりに室長らしい室長を見たから、びっくりしちゃったかな」
「ひどいよ、ちゃん」
「あはは。……ご温情に感謝いたします」


冗談めいて笑ってみせたけれど、言葉の最後にはきちんと礼をする。


「ありがとうございました」


そのまま顔をあげることなく踵を返せば、心配そうなマリの視線が追ってきた。
大丈夫と告げる代わりに片手を振っておく。
そう、平気。
何でもないよ。


ただ、少し。ほんの少し。
家族とグローリア先生の最期が、思い出されて仕方がないだけ。




















走る。
走る、走る、走る。
廊下を駆け抜け、自室に滑り込むと、力任せに扉を閉めた。
乱れた自分の鼓動がうるさい。呼吸が続かなくて咳き込んだ。


「う……っ」


堪えていたものが限界を迎え、は扉板に背中をあずける。
左手で右腕を押さえつけた。
皮膚の下、神経の隙間を、無遠慮に暴れまわるもの。必死に抑制しようと試みる。


(イノセンス……!)


ここ最近、酷使している能力は、確実にを蝕んでいた。
ノアが執拗に追ってくるのだ。
アクマ退治の任務に赴けば必ずと言っていいほどに遭遇し、一族特有の能力で攻撃を仕掛けてくる。
対抗するにはイノセンスを開放し、禁術である『刃葬じんそう』を使うしかなかった。
肉体が動かなくなればダイレクトに神経に接続してきたものだから、今やの中に入り込んだイノセンスの量は確実に増えている。
それが時折、思い出したかのように、内側からその存在を主張してくるのだ。
眩暈、吐き気、激痛。を苛んで苦しめる。


気が付くと床に座り込んでいた。
は壁にもたせかけていた頭を起こし、震える足に無理やり力を込めて立ち上がる。
意識が朦朧としていたけれど動きは止めない。
早く着替えないと。そして指令室に行かないと。
任務から帰還したのに報告がないとなると、皆に不審がられるだろう。
は血と泥を落とし、新しい団服に着替えて部屋を出た。
科学班を訪れる前に書庫へ返さねばと大量の書物を抱え込む。
イノセンスとは関係なく腕が痛んだ。
ノアに傷つけられた箇所は他にもあって、何だか歩きにくいなと思う。
足がどうにかなっているのかもしれない。
格好の悪いことだ。


(先生)


心の中でグローリアを呼んだ。
最近夢に見たのだ。
が無意識下で会った彼女は、相変わらずの完璧な美貌に、冷ややかな表情を乗せていた。


『他の誰が責めなくても、私だけはお前に言ってやる。うじうじ悩んで情けないってな』


そう、私は誰かに叱ってほしかったのかもしれない。
神田もラビもリナリーも、クロスも、アレン本人だってを責めてくれないから、グローリアにそれを求めたのかもしれない。


『答えは出てるんだろう?お前はあのガキを受け入れない。受け入れられない。それなのにいつまでも後悔している。自分で振り払っておきながら、その手を引き止めなかったことを悔いている』


上下すら定まらない夢の中で、師はを真っ直ぐに睨みつけた。


『私からの有り難い助言だ。心して聞けよ』


グローリアの指が鼻先に突き付けられる。


『お前は決して優柔不断な性格ではない。それなのに今、悩んでいる。迷っている。答えがわからないままでいる。それは何故か?』


眼前の爪を美しいと思った。
きちんと塗られたマニキュア。生前は私がやってあげていたっけ。


『あいつに気持ちを返したのが、“お前”じゃないからだよ』


久しぶりのグローリアに見とれていたは、そこでようやく目を瞬かせた。
だって意味がわからない。
それでも彼女は尊大に断言してくれる。


『“お前”は誰だ?私には言えるだろう。……それがあいつの前でも可能ならば』


グローリアは少しだけ微笑んで、の鼻を弾いてみせた。
痛みがない代わりに夢の終わりを悟る。
まだ離れたくなくて手を伸ばすけれど、師はそれを掴んではくれなかった。


『心に従えばいい、。それがとんでもなく悪いことならば、誰かが止めてくれるさ。お前は独りじゃない。“仲間”がいるのだから』


グローリアの笑顔が遠くなる。


『だから大丈夫。意地を張らずに“お前”の気持ちを言ってごらん』


嫌だ、行かないで。
の懇願は届かない。


『どちらでも苦しいのなら、誰かを守る嘘ではなく、自分を傷つけてでも本当を選べ。お前ならできるよ。だってお前はそういう奴だ』


そんな、死ぬ間際にだけ見せてくれたような、優しい顔で笑わないで。


『私の“”は、そういう子だ。そうだろう?』


もう一度名前を呼んでくれた途端覚醒したは、しばらくの間目元を覆ってしまった。
何年経ってもグローリアの面影は褪せることがなく、むしろ歳を重ねるごとにその色彩を思い知る。
子供すぎてわからなかった想いが切なく襲い掛かってくる。


(“私”の、気持ち)


グローリアは何を指してそう言ったのだろう。
感覚では理解することができなくて、論理立てて考えてみる。
そして導き出した答えをは持て余していた。
それをどう扱っていいのか、とんと見当がつかないのだ。


ハッと、足を止めた。
グローリアの夢を思い出していたは、いつの間にか随分と廊下を進んでいて、角の向こうからアレンがやってくるのに気づくのが遅れたのだ。
姿を見たのは久しぶりだった。
謹慎を言い渡された彼とは、当然のことながらしばらく顔を合わせていなかった。
が任務に出っ放しだったのも一因だ。
報告ために身だしなみは整えていたけれど、四肢に巻いた包帯も、頬に張ったガーゼも、不様に思えて恥ずかしかった。
また怪我をしてと呆れられるだろうか。情けないと馬鹿にされるだろうか。
以前なら容易に予想できる反応。今は考えもつかない。
だって彼は知っている。
あの時間はクロスが何か細工をしたのか、監視ゴーレムからは綺麗に消えていたけれど、はっきりと聞かれてしまっているのだから。
『お前は、アレンに、惚れてるんだよ』、そう告げたクロスの言葉を。


「………………………」


アレンに何を言われるのだろう。
まったく想像できなくては困った。
彼はわずかに顔をあげてこちらを見たけれど、すぐに傍を飛ぶティムキャンピーに目を戻す。
どうすればいい?
”に訊いてみる。
笑えばいいよ。にっこり微笑んで、「久しぶり」って言えばいい。
謹慎が解けたのだから「よかったね」って……。
そんな対応の全てを選べないうちに彼が近くまで来てしまったから、は反射的に名前を呼ぼうと口を開いた。




そのすぐ脇を、アレンは無言のまま、通り過ぎた。




の唇が止まる。
無視された。そう理解するのに数秒を要した。
背後の足音は速まることも遅くなることもなく、一定のスピードで遠ざかっていった。
瞳。
銀灰色。
を一瞥して、それをなかったことにするかのように、逸らされた視線。
開いたままだった口唇を閉じる。
自然と下を向けば、足元に書物が散らばっていた。


「あーあ。やっちゃった」


は独りごちて笑おうとした。
うまくいかなかった。
それを否定したくて勢いよくしゃがみこむ。本を拾い集めようと右腕を伸ばした。


「……っつ」


途端に激痛。
よろめいて床に片膝をついた。
またイノセンスが体内で暴れている。生命いのちを喰らいつくそうと、牙を突き立ててくる。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。もうずっと、痛くて仕方がない!


「そんなところで何やってる」


通りすがりが後ろから訊いてきたけれど、顔もあげられなくて、気にするなと左手だけで示した。
それでも声の主は前に回り込んでくる。
そのまま通過してほしかったのに相手が悪かったようだ。


「通行の邪魔だ。バカ女」


冷たい言葉を投げつけてきたくせに、こちらの顔色を見た途端に反応が変わる。
強く肩を掴まれた。


「おい、どうした」
「……、何でも」
「蒼白のくせに何言ってやがる」
「平気だよ」
「どこが」
「大丈夫だって……」


必死に笑顔を浮かべようとすれば、唐突に胸倉を掴まれた。
声が詰まる。呼吸が止まる。
彼が操る刀みたいな眼差しに射抜かれる。


「いい加減にしろよ」


神田はを引き上げて、乱暴に揺さぶった。


「誰だって痛いんだろ」


それは数年前、自分が彼に告げたことだ。


「言えよ」


やめてよ。本当にそうなんだから。
もうどう頑張ったって誤魔化せないくらいなんだから。


「俺には隠すな。隠せると思うな」


わかってる。でも。


「痛いって言え!!」


あぁ、その目が、言葉が、私に向けられた感情が。


「い……」


まるで首を絞めるかのように力を込める神田へと、は掠れた声を絞り出した。


「い、たい」
「よし」


神田は満足げに大きく頷いて、すぐさまの体を担ぎ上げる。
両腕に抱いて一気に駆け出した。




















には会ったのか」


謹慎を解いてくれた礼をコムイに告げた後、資料を探すため科学班の本棚を物色していたアレンは、横手から投げられたその質問に眉をひそめた。

その名前ばっかりだ。
コムイもマリもリナリーも、ジョニー達だって、ようやく解放された自分にまず言ったことといえば彼女のことで。
勝手な話だけど「こっちの気持ちも考えてくれ」と思ってしまう。


「会いましたよ」


だから一瞥もくれずに返してやれば、ラビは神田みたいな舌打ちをした。
すぐ近くの本棚に手をついてくる。


「おい、いい加減にしろよ」
「何がです」
「好きな女に心配をかけさせるな」


余計なお世話だ。
一瞬、怒鳴ってやろうかと思った。
何だって皆みんな、そう言ってくるんだろう。
の様子がおかしいのも、具合が悪そうなのも、僕が原因だっていうのか。
馬鹿ばかしい。勘違いだ。
そんな影響力、僕にあるはずがない。


「ラビ。僕は彼女にはっきり振られているんですよ」


アレンは苛立ちを押さえて平坦な口調を保つ。


「さらには、この間師匠に会って」
「クロス元帥に?」
「僕たちは一緒にいてはいけないと言われました」
「なんで」
「知りませんよ。……とにかく、師匠の言葉にが逆らうとは思えません」


クロスの真意なんか考えたくもなくてアレンは首を振る。
手にしていた本を棚に戻して、別の一冊を取り出してくる。


「どうして皆が僕に言ってくるのかわかりませんけど。の不調に僕は関係ない」
「オマエな」
「謹慎にされたことが心配で?それともまだ僕の告白に思い悩んでいるとでも?……どちらにしろ」


冷ややかに吐き捨てる。


「これ以上、彼女の名前を聞かされるのは不愉快です」


書物が落下した。
勢いよく床を跳ねて転がってゆく。
あぁ、ページが折れていないといいけど。
そんなどうでもいいことを考えながら、アレンは眼前のラビを見つめる。
胸倉を掴んでくる彼の手は、力の込めすぎで色が失せていた。
アレンは自分の言い方が悪いことを自覚していたし、ラビの行動が衝動ゆえだとわかっていたから、特に抵抗はしなかった。
ただ腹が立っているから奥歯を強く噛み締める。


「どいつもこいつも」


あぁ、僕がこんな乱暴な口をきくことになるなんて。
情けないし恥ずかしい。
引き金を引いたを、思い切り責めてやりたい。


「本当に……!」


低く呻いたアレンの声は掻き消された。
騒音レベルの乱暴さで科学班の扉が開かれたのだ。
ラビの手がアレンから離れ、驚きに振り返った彼は目を見張る。


「ユウ?」


神田はその呼びかけには答えず、一直線にコムイへと近づいて、彼の机の上に大量の書物を投げ置いた。


「え?ええ?何これ、神田くん」


目の前を見事に占領した本の山に、コムイが困惑した声をあげる。
そもそも神田が書物を携えてくるなんてかなり珍しい事態だ。
やはりというか何というか彼は興味なしといった様子で、それらをコムイに押し付けると、さっさと踵を返す。
扉へと向かいながら言う。


「返す場所がわからねぇ。任せた」
「どういうこと?……これは」


コムイは積み上げられた数冊確認すると、眼鏡の奥にある瞳を瞬かせた。


「全部ちゃんに貸した本じゃないか」
「だから言っただろ。俺じゃあ返却場所がわからねぇんだよ。自分で借りたわけじゃないからな」


答える間にも出て行こうとする神田を、コムイは慌てて引き止める。


「待って待って!どうしてちゃんの本をキミが?」
「廊下にぶちまけてやがったんだ。拾わねぇと通行の邪魔だろ」


黒髪を揺らして返り見る。
扉枠に手をかけた神田は、不愉快そうに鼻を鳴らした。


「あいつは倒れた」


ラビが息を呑んだ。
コムイは表情を消して立ち上がる。
科学班研究室から束の間、賑やかな声が聞こえなくなる。


「死にそうなツラで廊下に蹲っていた。今は医療室だ」
「な、なんで」


ラビが神田に駆け寄りながら問う。


「ケガか?病気か?……具合が悪そうだとは思ってたけど、そんな、倒れるほどだったなんて」
「原因はわからない。いくつか傷を負ってはいたが、どれも大したことないように見えた。詳しいことはラスティに訊くしかないな」


神田は今度こそ背中を向けて歩き出す。


「俺は病室に戻る」
「オレも行くさ」


ほとんど無意識に床を蹴った。
先行した神田も後続するラビも、アレンは一気に追い抜いてみせる。
あまりのスピードに彼らの髪や衣服が煽られていたけれど知ったことか。


「な……っ、テメェ!」


神田の怒声を置き去りにして、科学班研究室を飛び出したアレンは、長く続く廊下を駆け抜ける。
手すりを乗り越えて階段を省略。
また踵を打ち付けてひた走る。
目指す場所はひとつで、そこは決まりきっていた。


「外傷は関係ないね」


神田が出て行ったときのままなのか、開け放たれた扉からラスティの声がする。
相槌を打っているのは婦長だ。


「そのようですわね。では、何が原因なのでしょう?」
「……きちんと検査しよう。最近ずっと調子が良くないようだし」
「前と同じで過労では?」
「そう、あのときからおかしかったんだ。健康オタクの君が倒れるだなんて」


そこでアレンは医療室に滑り込み、ラスティと婦長の間を突っ切った。
他の班員も蹴散らして、病室の扉に手を伸ばす。
取っ手も蝶番も弾き飛ばす勢いで開いて、制止の声を遮るために叩き閉めた。


「だ、だから、ただの腹痛だって!朝食の食べ合わせが悪かっただけだって!」


室内にいたのは一人だけで、入ってきた相手も確かめずにまくしたてた。


「ウナギと梅干、わかめとネギ、カニと柿を一緒に食べちゃったんですゴメンナサイ!!」


合食禁のオンパレードだ。
だけどアレンはそんなこと知らないし、馬鹿の言い訳など聞いてやるつもりはない。
ガチャリと音を立てて鍵をかければ、ベッドの膨らみが反応した。
引き被ったシーツは診察拒否の意思表示か。
そこから顔を出したは、アレンの姿を認めて目を見張った。


「なんで」


アレンは応えなかった。
先刻と違って無視したのではなく、単純に息が切れていて話せなかったのだ。
背中の扉がガンガン叩かれているから、そこから離れて室内を進む。
「開けなさい!」という婦長の叱責が聞こえたけれど、アレンは気にもかけずにに近づくと、彼女をベッドの上に押し倒した。
相手が呆然としているのをいいことに無理やり衣服を剥ぐ。
露出させた肌を見て、銀色の眼を細めた。


「やっぱり」


アレンは小さく呻いて唇を噛んだ。
視線の先。白い皮膚の上に躍る漆黒。
の右腕にはほぼ隙間なく、びっしりと黒の文様が浮かび上がっていた。
蠢く能力の波動。
これは、


「イノセンス」


アレンがその正体を口にすれば、は我に返ったように身をよじらせた。
起き上がろうとするけれど許さない。
アレンは彼女に覆いかぶさると、その顔を覗き込んだ。


「どうしてここまでになるほど能力ちからを使ったんだ」
「……っつ、なに」
「さっき廊下で擦れ違った時、僕の左手が反応した。何が原因かと思えばこれか」
「…………………………」
「禁術は使うなと言われただろう。それに、こんな」


ひどい痛みのせいか、痙攣を繰り返すの右腕を見下ろす。


「こんなにイノセンスを取り込んで、無事でいられると思っているのか……!」


先天的にそれを宿しているアレンだからこそわかる。
神の物質を抱え込むには、人間など硝子のように脆い器だ。
本能で長くもたないと知っていたし、強引に能力を使えばなおさらだろう。
の行為は無茶にもほどがある。


「……なんなのよ」


不意にが呟いた。
唸り声みたいだった。
痛みでうまく喋れないのかもしれない。


「何なのよ、もう……。アレンは私を怒ってばかりじゃない」


唇が震えて、瞳が揺れて、声が途切れがちになる。


「私はアレンを怒らせてばかりじゃない」
「……、
「こんな私を見ないで。声を聞かないで。……さっきみたいに」


表情を隠したいのか、は顔を背けると、自由のきく左手でアレンを遠ざけた。


「痛みなんて一人で」


そのまま右腕を抱え込んで、ベッドにうつ伏せになる。


「独りで耐えられる」


吐き出すように言われた言葉は、アレンの胸に深く突き刺さる。
苦痛に立ち向かう背中。
孤独に強張った両肩。
ただの女の子のくせに。怖くて泣き出しそうな子供のくせに。


「……っつ、うぁ」


一際大きくの体が震えたから、もうアレンは何も考えずに彼女の右腕を掴んだ。
押し殺した苦鳴が漏れる。
どこまでも助けを求めないに、無理やり手を差し伸べる。


「アレン、何を……!」
「君のイノセンスは僕の左手に反応してる」


暴れる四肢を押さえつけて、十字架の力を開放した。
ほら、やっぱり。
こちらの能力に呼応して、腕に浮かんだ文様がざわめいた。


「また共鳴してるんだ。だったら、僕の命令だって受け付けるはずだろう」
「……っつ、他人のイノセンスを抑え込む気?」
「二人分の意思なら制御できるかもしれない」
「やめて!どんな反動があるかわからないのよ!?」


が振り払おうとするから、アレンは指先に力を込める。
十字架から白い光を放出して、黒を覆い尽くそうとする。
今度こそ悲鳴があがった。
彼女が思わず吐露するくらいだから、きっと意識が飛びそうなほどの激痛なのだろう。
現に漆黒の文様は抵抗するかのようにの腕を這いまわり、純白を弾き散らしてアレンの左手まで侵そうとしてきた。


「だめ……っ!」


は懇願のように叫んだけれど、アレンは絶対に離さなかった。
左腕の血管の中を、それよりも太い何かが、一切の容赦もなくせり上がってくる。
何かが切れる音がした。
口の中に血の味が広がった。
眼球の奥で黒が閃いた。
漆黒の閃光。の操る刃。
その無慈悲な抱擁を、体の内側から受ける。
あぁ、君は、こんなにも恐ろしく、痛みの伴うもので、戦っていたんだね。


「いやっ!」


が涙を滲ませたから、アレンはその体を引き寄せた。
イノセンスの共鳴のせいか、彼女が何をしようとしたかわかったのだ。
また、“あの”能力を使うつもりだろう。
君はいつも無茶をする。他人を助けるために。僕を守るために。
―――――――駄目だよ、今度は僕がそうするんだから。
必死に突き放そうとしてくるが許せなくて。
皮膚の、血管の、内臓の、体の裏から攻撃してくる、すべての刃を受け止めてあげたくて。
どうすればもっとイノセンスで繋がれるのだろう。
不意に思い出したのはセイのまじないだった。
何度もを癒した呪術。
あれは、


「アレン!!」


名前を呼ばれたのを合図にしたみたいに、アレンはにキスをした。
僕のためにしか拒絶も苦痛も叫ばなかった、ばかな女の子の唇を強く塞いでやった。
痛い。どこもかしこも刃で貫かれて死にそうだ。
それでも触れた熱が愛おしくて、こんなときでもキスに夢中になる。
アレンを侵すのイノセンス。を犯すアレンの口づけ。



ほら、出て行けよ絶望。僕はこんな簡単なことで幸せだ。



……呼吸が続かなくなるのと、痛みが続かなくなったのと、どちらが早かったのだろう。
が身を起こしていられなくなったから、アレンは仕方なく唇を離した。
ぴったりとくっついたみたいになっている、自分の左手と彼女の右腕。
どちらにも黒は認められない。
つまりの息があがっているのは、イノセンスじゃなくてキスのせいだ。
念入りに確認してみたけれど、もう危険な能力ちからの波動は感じられなかった。


「治まった……か」


安堵の吐息をついてを抱きしめる。
体温が低かった。暖めるように腕をまわす。
疲労に弛緩した体は、完全にアレンに預けられていた。


「やめて」


消え入りそうな拒絶が聞こえた。


「だめよ、アレン」


震えの残る手が、アレンの胸に添えられる。
まともに動けないくせに、まだ僕から離れようとするのか。
アレンはそう思って顔を歪めたけれど、はそのまま服を掴んできた。


「嫌」


言葉とは裏腹に、懸命に指先へと力を込めてくる。


「どうしてくれるの」


彼女は泣き出しそうなのだと、アレンは気配で感じ取る。


「独りで、耐えられなかった」


途方もない自己嫌悪と謝罪を込めて、はアレンの抱擁に応える。
彼女は聞き取れないくらいの音量で誰かの名前を呼んだ。
最後だけわかった。せんせい、だ。
は「グローリアせんせい」と、子供みたいに繰り返した。


「痛いのも苦しいのも平気だったのに。“”なら、何だって、平気だったのに」


うまく動かない指が、アレンの頬をかすめる。
咄嗟に掴んでやれば、その力も借りて、が左眼の傷を撫でた。
起こすことのできない頭を、アレンの肩にもたせかけたまま。


「もう無理なの?こんな風にこらえきれなくなるのなら」


体温を失って冷たくなった手を、アレンは繋ぎ止めるようにして握る。


「“”は……、“私”は…………っ」


囁きはそこで消えた。
まるで糸が切れたみたいだ。もともと力の入っていなかった肢体が、完全に放り出される。
かくん、と首が下がったから、辛くないよう支えてやる。
その弾みで、水滴が落ちた。
一瞬、何だかわからなかった。
血の気を引かせて真っ白になったの頬。そこに残された跡を見てようやく悟る。


君はまだ、意識を失ってしか、泣けないんだね。


こらえなくていいよ」


切なさに心を震わせて、アレンはを抱きしめた。
涙の滲む瞼にキスをする。


「もう、いいんだよ」


そう言ったって、君が頷いてくれることはないんだろうけれど。
自分自身の考えに絶対的な自信があったから、アレンは目を伏せて、を開放した。
ベッドに寝かせてシーツをかけてやる。
ちょうどそのとき扉が吹き飛び、『六幻』を握った神田が乱入してきたので、怒鳴られる前にそちらへと向かう。


室内はもう、振り返らなかった。










はい、終わりませんでした!申し訳ない!!
いつものアレです。書きあがってるんですけど、長くなりすぎたので分割しましたってオチです。
毎度毎度すみません……。

次こそ終章です。終わりますよ!終わりますよ!!(必死)
最後までどうぞよろしくお願いいたします。