理性と本能、どちらが強い?
そんなのは愚問で、両者に勝てるものを知っている。
私にはわかっている。
それは、“私”がずっと、欲しかったものだ。
● サロメの死因 EPISODE 6 ●
ハッ、とアレンが息を吐いた。
いいや、吐息だけで、くだらなそうに笑ったのだ。
「かなり最低ですよね、この再会って」
吐き捨てるように独りごちて、裏路地の壁面から身を起こす。
一歩を踏み出す。
アレンは神田が傍にいるのも忘れたみたいに、ただひたすらを見つめてくる。
近づいてきて、目の前に立って、彼は私に何を言うのだろう。
怖いのか何なのか、逃げ出したいような気持ちになった。
アレンを探しに来たのにおかしな話だ。
は自分への叱咤を込めて、こちらからも足を進めようとした。
「!おい!!」
そこに声を投げたのは神田だった。
同時に背後を振り返れば、強引に肩を掴まれる。
引き寄せられたかと思ったら、顔中に酒臭い息を浴びせられた。
「なんだぁ?この女は」
「店の娘だろう。連れ込んじまえよ」
どうやら酔っぱらった客らしい。
やたらと力が強くて、反応が遅れた手前、振り払えない。
アレンと神田が動く気配がしたけれど、距離的に店内に引きずり込まれる方が早かった。
「離し……っ」
要求と共に実力行使にでようとしたら、を掴む男の腕に別の手が置かれる。
たちまち悲鳴があがって解放された。
「お客さん、困ります」
後頭部に降ってきたのは聞き知った声だ。
「うちの子に乱暴をされては」
めげずに迫ってくる男から逃がすように、の体は宙へと引き上げられる。
たくましい腕に横座りにされたところで、アレンの脚が泥酔客の動きを完全に止めた。
そのあとも意味もなくげしげし蹴り続けているものだから、を抱いた男性が呆れ気味に呼びかける。
「それくらいにしてやれ、アレン」
「だって、マリ!」
アレンが噛みつくように呼んだ彼に、は思い切り抱きついた。
「マリ!よかった、会えて」
「ああ。わざわざ来てくれたのか」
首に腕を回せば、頭を撫でられる。
その優しい手つきに安心する。
歳が歳なので本人には言えないが、マリはちょっとお父さんみたいだ。
「本当にこんなところにいたのか」
アレンの後ろから店内に入ってきた神田が、兄弟子の姿を認めて低く呻る。
マリはを床に降ろしながら苦笑した。
「心配をかけたようだな。すまない、神田」
「そんなもんしてねぇよ。納得がいかないだけだ。モヤシはともかく、どうしてお前まで」
「ちょっと、僕はともかくって何ですか」
「言い訳できるのか。女共とよろしくやってた分際で」
「あれは!…………」
絶対零度の視線で見下してくる神田に、アレンは反論しかけたが、何故だか黙り込んでしまった。
が見やっても目が合わない。
神田が舌を打ったから、マリが場を取り成すように言う。
「そう責めてやるな。本部には連絡がいっていただろう?」
「ああ。二週間前にな。それっきりだ」
「二週間前……?」
アレンとマリは何度か目を瞬かせる。
それから揃ってため息をついた。
「まぁ、信用はしてませんでしたけど」
「しかし、あそこまで言い切られてしまうとな……」
「どういうこと?」
が問いかけるとアレンは周囲を見渡した。
店員の目を感じたのだろう、手で合図を寄越してくる。
「こっちに」
そう言って連れて行かれたのは、アレンとマリが眠るために借りている部屋のようだった。
ホテルの一室のようにも見えるが、やたらと寝台やらバスルームやらが充実していて、ここがそういう店だということを忘れさせてくれない。
この場所に男二人で泊まるのはそうとうアレなんじゃないだろうか。
「本部に連絡は入れておいたから、僕たちからはしなくていいって。そう言われたんですよ」
アレンは脱力したようにベッドに座り込む。
マリは床の上のクッションに。神田はソファーに乱暴に腰かけた。
は何となく扉の前に立ったまま返す。
「誰に?」
「クロス元帥だ」
マリの口から飛び出した名前は、と神田を大いに驚かせた。
これはどうやら思いもよらない展開のようだ。
「クロス元帥?あの方に?」
「ああ。任務の帰りに遭遇してな」
「それが何で歓楽街に留まることになるんだよ」
「……待たされてるんですよ」
アレンは師匠のことを口にするとき、本当に嫌そうな顔ばかりしている。
「話がしたいって言ったのに、急ぎの用があるとかで姿を消して。このあたりで待っていろと言われてるんです」
「引き止めているのは自分だから、教団への対応もしておいてやる……とおっしゃったものだからな。我々も任せてしまったのだが」
「まぁ、あの人がそんな良心的なことするわけないですよね。何年も教団から逃げてるくらいだし」
「わかってたんならテメェが何とかしておけよ」
神田の鋭い突っ込みにアレンは沈黙した。
両手を握り合わせて、床を睨みつけている。
思い詰めているように見えるのはの気のせいだろうか。
「――――――――どうしても、師匠に、聞きたいことがあるんです」
アレンは両目を閉じて首を振った。
「ごめん、マリ。と神田も。例え師匠が教団に連絡を入れていなくても、僕からは出来なかった。……連れ戻されたくなかったから」
「アレン、お前……」
彼の言い出した予想外のことに、マリが腰を浮かせている。
神田は忌々しそうにアレンを睨みつけた。
「テメェの勝手に、マリを巻き込みやがって。俺ともとばっちりじゃねぇか」
「……すみません」
「俺はコムイに報告してくる。テメェの考えなんか知ったことじゃねぇよ」
神田はそこまで叩きつけるように言うと、を押しのけて部屋から出て行った。
そのあとをマリが追う。
あの青年のなだめ役としてこれ以上の適任はいないから、は部屋の中に残って、俯くアレンに問いかけた。
「探しているの?」
顔があげられて銀灰色に見つめられる。
「待っているだけなんてらしくないもの。アレンは、自分からもクロス元帥を、探しているんでしょう」
「……ええ。この街のいろんな人に話を聞いて」
「そこまでして何を」
「君には関係ない」
あまりにもきっぱりと、取りつく島もなく言い切られた。
痛い、と思った。
何がかはよくわからなかった。
「……元帥がいなくなるのは今に始まったことじゃない。探したことだってなかったはずじゃ」
「関係ないって言っているだろう」
アレンはこれ以上この話をしたくない様子だった。
続きを遮るように立ち上がって、こちらへと向かってくる。
部屋から出て行ってしまうのだと察したは、背中を扉板へと押しつけた。
「何が知りたいの」
痛い痛い痛い、もうずっと痛い。
あなたに気持ちを告げられてから、体のどこかがずっと疼いている。
泣いてしまいたいほどに。
「何が知りたくてあんなことまでしているの」
「あんなこと?」
「あんな、女性と」
口にしようとすれば痛みが耐えきれないほどになって、は思わず続きを失った。
思い出されるのは見たこともない表情をしたアレンだ。
偽物の微笑でも、本物の笑顔でもない。
諦めたような笑みで、関心のない素振りで、拒むでもなく受け入れるでもなく、女性たちを眺めていた。
アレンは「教えて」と言っていたから、あれはきっと、クロスの情報を集めるための行動だったのだろう。
そうわかっていても理解はできなくて、つい言葉に変えてしまえば、案の定アレンを苛立たせてしまったようだ。
顔の横に手を突かれて覗き込まれる。
「まさか、疑ってるの?」
違う。そんな権利はない。
アレンの瞳が間近で細められる。
「あぁ、でも、そうだね。君からしたら許せないか。軽蔑した?」
「どういう、こと」
「君がどう思っているか知らないけど。僕はそんなに綺麗な人間じゃないんだよ」
距離は一定。
アレンはその両腕で囲んでいながらも、やはりに触れようとはしなかった。
「僕は、男も女も知っている」
一瞬、意味がわからなかった。
は硬直する。アレンはその耳に過去を突き立ててくる。
「孤児だったからね。そうしないと生きていけなかった」
「…………………………」
「貴族とかお金持ちって、本当に暇なんだろうね。趣向を特殊な方向に育てているのが多すぎる。おかげで死なずにすんだけれど」
「……そんな」
「僕に拒否権はなかったし、あったとしても使えなかったよ。本当に子どもだったから」
「嫌だとは……、思わなかったの……」
「君はそうだったみたいだけど」
反射みたいに言ったアレンはすぐに唇を押さえた。
は彼がそれを知っていることと、そのこと自体は悟れなくもなかったけれど、口にされたことの両方に顔色を失った。
「ごめん」と謝られたから首を振る。
そんなことはいい。しょせん未遂だ。何より、今は考えたくなかった。
アレンはの髪を撫でようとして、寸前で停止する。
「……嫌、だったんだろうけど。記憶にある分には、どうでもいいと、思っていたよ」
「どうでも……?」
「いちいち感じてたら耐えられないだろう。あんな、気持ちの悪いこと」
ようやくアレンは嫌悪を込めて吐き捨てた。
の顔の横で拳が握りしめられる。
「気持ちが悪いよ。他人の領域に侵入して、支配しようとするなんて。吐き気がする」
「アレン……」
「だから、どうでもいい。好きにすればいい。生きるためなら構わなかったし、それと引き替えに得られるものがあるなら、それでいい。……他人が僕を求める分には」
名前を呼んで手を伸ばせば、アレンは逃げるように身を引いた。
の指先は空を掻く。
遠ざかった向こうで銀の双眸が歪む。
「それでも、僕からはしない」
避け続けていたのが限界のように、アレンはの手首を掴んで引き寄せた。
また左だ。痛いけれど、今度は痣にならないだろう。
本気で抵抗すれば逃れられたかもしれない。そんな力だ。
けれどどうしても動けなくて、そのまま吐息に口づけられた。
「僕からはしなかった。絶対に」
唇を掠めて抱きしめられる。
また痛みが走る。
捕らわれた手首じゃない。腕を回された背中でもない。
それでも痛くて仕方がない。
「触れたくなかった。触れられなかった。こんな、“どうでもいい”僕では、誰にも」
全身を感じるアレンのぬくもりに肌が粟立った。
寒さや恐怖ではないもので背筋がぞわりと暖かくなる。
「君以外には、誰にも」
痺れるような腕を、必死に差し伸べようとすれば、アレンに突き放された。
彼はすれ違うようにしてを開放すると、ドアノブに手を掛けて囁く。
「あの女の人たちのことは、君の気にすることじゃない。それと」
冷たい声を背中に聞く。
「早く教団に帰って。僕は」
が振り返れば、その気持ちを閉ざすみたいに、アレンは部屋から出て行ってしまった。
「僕は、戻らない」
戻らない、と彼は言った。
は取り残された室内で口元を覆う。
嗚咽にも似た何かがせり上がってきて、静かに喉を灼いてゆく。
もう、戻らない。
それはが見つけたアレンのことであり、さらに過去の彼が帰還した事実を示している。
つまり、あの人は、あの白髪の少年は、“アレン”のことが“どうでもいい”のだ。
実の親に捨てられた赤腕の子供。
養父を破壊してしまったエクソシスト。
そして、アクマと他人のためだけに戦うと決意した、ひとりの人間。
そのすべてに共通するのは、自己犠牲精神の元となる、自分自身へのひどい無関心だった。
彼はひたすら己に重きを置いていない。
来るものを受け入れ、去る者を見送り、ただただ緩やかに微笑むだけ。
哀しいほどに優しい。
苦しいほどに切ない。
私には、どうすることもできない。
「……っつ」
は弾かれたみたいに扉を開いた。
どうするかなんてわからなかったけれど、このままでは駄目だと強く思った。
ベルネス公爵家の地下通路で、アレンは自身の生命も守ると言ってくれた。
その気持ちを呼び覚ましたが、彼の心から離れてしまった今、再び感情は閉ざされようとしているのだろう。
約束を交わした小指が落ちる前に。
彼が自分を投げ出してしまう前に。
が廊下に飛び出せば、肩を組んだ男女とぶつかりそうになった。
謝りながらも駆け出す。
着崩れた情婦も金を撒く客も目に入らない。
アレンはどこ?早く見つけなければ。早く何とかしなければ。
――――――――――グローリア先生と同じになってしまう。
底知れない恐怖がの足を速め、階段を転がり落ちるように下れば、「危ない」という注意と共に抱きとめられた。
しなやかで逞しい男性の胸だ。
お礼を口にして床を蹴ろうとしたら、唐突にアレンが目の前に戻ってくる。
は驚いたけれど、とにかく捕まえようとしたところで、強い力に引き戻された。
「久しぶりだな、」
そこでようやく、は自分を抱く男性の正体を知った。
顔を見上げて息を呑む。
大胆不敵に微笑んだ、赤毛の美丈夫。
「クロス元帥!?」
「師匠!!」
の驚愕とアレンの呼び声が重なるけれど、当の本人はどこ吹く風だ。
彼は相変わらずの牧師スタイルで、つばの広い帽子をかぶり、黒いトランクを提げていた。
そのふたつをアレンに投げて渡すと、自由になった両手でを抱き上げる。
「おい、店主!」
そして店の奥へと大声で告げた。
「今日はこの娘にする。いつもの部屋を借りるぞ」
「はい、クロス様。どうぞごゆっくり……って、そんな娘うちにいたっけ?」
店主が首を傾げている間に、クロスはを横抱きにしたまま歩き出す。
今しがた降りてきた階段を昇られては、部屋を飛び出してきた意味がない。
は純粋に開放を願ったが、アレンはそれどころではない様子だった。
「げ、元帥!降ろしてください……!」
「そうですよ!何ですか今日はにする、って!」
とっとと二階にあがってゆくクロスに、彼は本気で怒っているようだ。
刃物のような眼差しで師の背中を貫く。
押し付けられた荷物をすべて放り出すと、その前に立ち塞がった。
「彼女は娼婦じゃない!!」
「何だ、その文句は」
燃え盛る怒りをクロスは鼻で笑い飛ばした。
「そいつは俺の女だ、くらい言ってみろ」
「な……っ」
言葉を失うアレンにクロスはすぃっと顔を寄せた。
当然その腕に抱かれたも二人との距離が近くなる。
煙草を咥えた唇が小さく囁いた。
「静かにしろ。……つけられている」
「え……っ」
「……っ、誰に、ですか」
「決まってるだろ。いつものあいつらだ」
つまりアクマか。ノアの一族か。
元帥である彼は狙われるのに事欠かない。
「このままバックレてもよかったんだが、可愛い弟子のために引き戻してきたんだ。感謝しろ」
「だったらそれなりの態度を取ってくださいよ」
「うるせぇ。……話があるんだろう?リミットは此処が見つかるまでだ。発見されたら、あいつらを連れて、俺はこの国を出る」
「そんな勝手な……!」
「数が多いんだよ、それが一番手っ取り早い」
クロスは早口で言うと、アレンを置いて歩き出した。
マリと二人で泊まっていた部屋に迷いもなく入っていったから、はようやく納得する。
なるほど、此処は本来クロスが根城にしていた場所で、その知り合いだからこそアレンとマリもすんなり馴染めていたのだ。
そんなことを考えているうちに、クロスが当然のように閉めようとした扉を、アレンが足を挟んで止めた。
蹴り壊すつもりかと疑うほどの勢いだ。
がぎょっとしていると、頭の上で低音の会話が交わされる。
「おい、お前は入って来るな」
「おかしなことを言わないでください。話があるのは僕です。それなのに閉め出す気で?」
「それはそうだが、よく考えろ。この店で、この状況で、お前が俺たちと一緒に部屋にいるのはおかしいだろうが」
「知ったことかふざけるな、とにかくを返せ」
「おいコラ、誰に口をきいてる」
「あんたですよ、この色魔が!」
結局アレンが無理に押し入って、ついでに扉板を殴りつけた。
振動は壁にまで伝わり、飾られた絵画も揺れる。
高価そうに見えたので落ちなければいいな、とはどうでもよく考えた。
「ようやく戻ってきたと思ったら、あなたって人は……!」
腹立ちがおさまらない様子でアレンが呻く。
クロスは嘆息して、をベッドに下した。
「まぁいい。初めて買われた娼婦は、うまく仕事ができるかどうか、店の者に見張られることもあるからな。お前はそれで」
「おぞましい設定をつくらないでくれますか……っ」
「じゃあ何だ。二人がかりか?の体を労われよ」
「……師匠。いい加減にしてくれないと本気で本当に取り返しがつかなくなるくらいキレますよ僕」
アレンの声はもう低すぎて一本調子みたいになっていた。
彼の取り巻く雰囲気が、これ以上怒らせてはならないと、本能に訴えかけてくる。
は居たたまれなくなって二人の間に割って入った。
「時間が!」
強くそこまで言って、視線を奪ったところで、口調を優しくする。
「時間が、ないんでしょう?話をするなら急いだ方が」
「……だったら君は出て行って」
アレンはから目を逸らす。
「君には関係ないことだから」
また突き放されて胸が疼いたけれど、それが痛みに変わる前に、視界がぐるりと回った。
「え」
言葉を失う。眼を見張る。
何故ならクロスに押し倒されたからだ。
案の定アレンが何か言おうとしたけれど、それより早く断言される。
「関係はあるだろう。お前の話とは、のことだ」
「……っ」
「俺を舐めるなよ。お前の聞きたいことくらい察しが付く。そして、その答えは、本人を診ないと返せない」
クロスはアレンの反論を先んじて封じてしまうと、の顔を覗き込んできた。
反射的に逃げようとするけれど腕力では敵わない。
ふかふかすぎるベッドに横たえられたまま、強い力で腰を抱きこまれた。
「な、何を……」
続いて団服の前を開かれる。
アレンがいなければ、相手がクロスでなければ、身の危険を感じるような状態だ。
困惑するを無視して、胸元をまじまじと眺めたクロスは、不意に瞳を細めてみせた。
「お前……」
彼が注視しているのは左乳房の下あたりだ。
「―――――――――能力を使ったな」
は呼吸を止めた。
咄嗟に片手で胸元を押さえた。
その腕を掴んで引き剥がされる。駄目だ、隠せない。逃げられない。
クロスは舌打ちをしてアレンを一瞥した。
「お前はが解放した、『刃葬』の後始末をしろと言ってくるのだと思っていたのだが……」
「そちらもですよ。封じてください」
「そんな、どうして……っ」
「それを言いたいのは僕だ」
「馬鹿弟子が正しいな」
こちらの意見を一切無視したアレンに、は思わず身を起しかけたけれど、すぐさまクロスに押し戻された。
声音に叱咤が混じる。
「何故だ」
禁を破った心臓に魔術師の視線が注がれる。
「使うなと言っただろう。これなら禁術の方が幾分マシだ。あちらの能力は、二度と外に出してはならないもの」
「……………………………」
「奴らを侮るな。必ず嗅ぎ付ける。お前の正体に勘付くだろう。そして、お前自身も」
知っている。わかっている。
はもう片方の手でシーツを掴んだ。
クロスが射抜いているのは、団服の下に隠された歪な傷跡。
「……能力に、喰われるぞ」
暗い予感を内包して、事実は鋭さを増し、の心を破く。
血が流れている。
この傷が生まれた8年前のあの日から、鮮血は止まることを知らないのだ。
「冗談じゃない」
口を突いて反発した。
クロスに対してではない。弱い自分自身にだ。
爪が食い込むほど強く指先を握り締める。
「消せない、隠せもしない、こんな能力なら……背負います」
望んでいなかった。捨ててしまいたかった。
それでも持って生まれた私が選ぶのはたった一つの道しかない。
「私が、起こりうるすべての“悲劇”を破壊します。――――――“聖職者”として」
身を横たえたまま、瞳に決意の火を灯して、真っ直ぐに見据える。
クロスはそれを受け止めた後、弟子の名前を呼んだ。
「……アレン。悪いが管轄外だ。の能力は俺にも制御できん」
「そんな。じゃあ、どうすれば」
「本人の意思に任せるしかない。……こいつは背負うと言っているが?」
「僕はそれが嫌なんですよ……っ」
クロスに抱え起こされながら、はアレンの独白じみた言葉を聞く。
「禁術の解放だって、あの能力を使ったのだって、僕が原因だ。それなのにだけが責を負うなんて許せない」
「だが、他人には肩代わり出来んことだ」
「それでも……っ、何か……!」
アレンは体の横で拳を固める。
わずかに震えたのは怒りのせいか、哀しみのせいか、とにかくはその手を解かせてあげたかった。
衝動のようにそう思ってベッドから降りようとすれば、後ろから腕を取られて止められる。
返り見ればクロスが言った。
「駄目だ」
「え……?」
「これ以上、アレンの傍に行くな」
「……どういう、意味ですか」
尋ねる声が掠れた。
後ろでアレンも顔をあげる気配がする。
二人の視線の先で、クロスは静かに口を動かす。
「お前たちはもう、一緒に居ないほうがいい」
を引き止める掌は石像のように硬くて、二度と抜け出せないんじゃないかと錯覚する。
クロスは冷たい眼光に哀切を混ぜた。
「――――――――このままでは、二人のうちどちらかが死ぬことになるぞ」
“死”という単語は嫌いだった。
だってとても恐ろしくて、おぞましくて、拒否したいのに惹かれてしまう。
死ぬ。二人のうち。どちらかが。
最も縁遠いと思われる人の口から、その言葉を聞いてしまえば、不吉さは何倍もに膨れあがってに襲い掛かってきた。
「私の」
表情も感情も凍らせて、金色の双眸を見開く。
「私の能力が、アレンを殺すんですか」
「逆もまた然りだ」
有り得ないことも言われたけれど、の意識を捕らえているのはクロスの肯定のみだった。
私がアレンを害することになっても、アレンが私を傷つけることはない。
忌避すべきは“”だけだ。
何だか力が抜けた。
立っていられなくなって、そのまま崩れ落ちる。またベッドに逆戻りだ。
頭の芯が痺れていて、疲労が蓄積しているときに似た感覚を覚えた。あぁ、どうしてこんなにも、気分が悪いのだろう。
傍に行くな。
一緒に居てはいけない。
アレンに不幸と苦痛を与えてしまうから。
わかっていたはずなのに、もうそうするしかないと決めたのに、今更ショックを受けるだなんて馬鹿すぎる。
きつく目を閉じて拳を額に押し付けた。
その肩をクロスが抱いてくれた。
耳元で囁かれる。きっとにしか聞こえないように。
「これ以上、あいつのことは想ってやるな」
「………………………」
「失恋の痛手なら俺が慰めてやる。……泣いてもいいぞ」
「………………………」
「まったく……どうしてよりにもよってアレンなんかに惚れるんだ、お前は」
「…………………………………、へ?」
とても優しい口調で意味不明なことを言われたから、は思わずマヌケな声を出してしまった。
場面にも心情にもそぐわないが、正直な反応だ。
ぽかんと見上げると、クロスが瞬いた。
「なんだ。自覚がないのか?」
「……は、はい?何のですか?」
「あのなぁ、お前は天使か?聖女か?何とも思ってない男のために、体張って、命懸けて、二度も禁を破るような真似ができるのか?そんなわけないだろう」
は絶句した。
もうアレン本人にも聞こえているだろうけれど、止めることもできずに言葉を失ってしまう。
だってあまりに予想外のことを言われている。
クロスは呆れを大量に含ませた吐息をに浴びせた。
「まさか自覚もせずに、これだけの無茶をやってのけたとはな。すごいを通り越して馬鹿だ。馬鹿。さすがはグローリアの愛弟子といったところか」
大きな手で金髪を撫でられる。
「気付かせた途端、諦めろと言うしかないが。……お前は、あいつに、惚れてるんだよ」
違う、そうじゃない。
否定したいのに、頭が真っ白で、喉が渇いて、唇が動かない。
「アレンを想うなら、傍から離れろ。“”」
そう告げたのを合図にしたみたいに、唐突に横手にあった窓が爆砕した。
は反射的に『守葬』を展開。
思考はまだ働いていなかったけれど、戦士としての本能が、強襲してきたアクマたちを返り討ちにする。
「師匠!」
アレンの叫びを後に残すように、クロスは床を蹴りつける。
崩れた壁面から大通りへと身を躍らせた。
「時間切れだ。俺は行く」
「待ってください!まだ話は……っ」
呼び止める間にもアクマが襲ってくるから、アレンは舌打ちをして左手を発動した。
飛んで来る瓦礫ごと敵を破壊する。
ベッドから降りたと並んで地上を見下ろせば、『断罪者』を抜いたクロスと目が合った。
「アレン、。お前たちは、お前たちのままでいろ」
「意味がわかりません!それはどういう……っ」
「いいな。“現在”の自分を見失うな」
銃口がこちらへと向けられる。
罪を裁く銃が咆え、アレンとの間を通過して、背後に迫っていたアクマに被弾した。
二人は即座に振り返って、巻き起こる風から顔を庇う。
「愛する者を殺したくなければ……な」
爆発音が響く中でも、その囁きだけは耳に届いた。
二人は顔を見合わせたけれど、は何と言っていいのかわからなかったし、アレンは表情を歪めてクロスへと視線を転じる。
「師匠!!」
すでに駆け出した彼を追って、アレンが地面へと降り立った。
も続こうとすればアクマ達に阻まれる。
焦燥を糧にイノセンスを発動。第2解放で籠手の形状にし、腕へと装着する。
「おい、何事だ!」
一階の扉から神田が外に出てきて、すぐさま状況を把握、『六幻』を抜刀した。
は空中回転で敵を切り裂きながら、彼と背中合わせになるようして着地。
二人を包囲するアクマの群れ。
その外でマリが『聖人ノ詩篇』を構える。
「援護する。行け!」
と神田は互いを見ることもなく、同時に石畳を蹴りつけて跳躍した。
束の間戦場で敵を狩るためだけの存在となる。
これが私。
現在の、私。
そんな“”から逸脱すれば、私の能力はアクマではなく、アレンを切り裂くのだろうか。
クロスの残した恐ろしい忠告を振り払うように、は目の前の敵に次々と刃を突き立てていった。
「あれぇ?」
屋根の上からエクソシストたちを観戦していたロードは、頬杖をついたまましきりに首をひねっていた。
その理由を尋ねるまでもないティキは、己の口元に手を当てる。
何故ならきっと、自分たちは今、同じ違和感を覚えているのだから。
「……何だか、おかしくないか?」
「だよねぇ。おかしいよねぇ」
見下ろす先には金髪が躍っている。
狙いはクロスだったけれど、意外なところで会うものだ。
二人はお揃いの角度で頭を傾けると、同時に背後を振り返った。
「千年公。お嬢さんから妙な気配がする」
「今までこんなの感じなかったのにさぁ」
「どういうことだ?この感覚……」
「―――――――懐かしい、ねぇ」
ロードが瞳を細めて微笑めば、千年伯爵は無言のまま踵を返した。
ティキは慌てて呼び止める。
「お、おい?」
「帰りますよ、二人とモ」
促す声には笑いが混じっていた。
同時に涙も。
その反応があまりにも奇妙で、ティキは怪訝に眉を寄せる。
ロードは賛成とばかりに立ち上がると、身軽に千年伯爵の元へと駆けていった。
「ねぇ千年公。ボク、わかったかもしれないよぉ」
きゃっきゃっと笑いながら、ロードは千年伯爵の腕に纏わりつく。
心から嬉しそうに笑っているのに、その瞳には涙が溜まっていた。
ティキは二人の頭を心配したが、続いた少女の声に目を見張る。
「ようやく、わかってあげられたかもしれないよぉ。……“”の正体に」
千年伯爵は大きく頷く。
その双眸からこぼれ落ちた雫がロードの頬を辿った。
一際甲高く笑ったロードは、千年伯爵に抱きつくと、そのまま声をあげて泣き出したのだった。
いやぁ、クロス師匠書きやすいです!すぐ帰ってくれるし!(笑)
ただでさえ面倒くさい子達に、面倒くさい忠告をしてくれましたね。
これを二人がどう受け止めるのか。次回でご確認いただければ嬉しいです。
次で終章です。えっ、終われんの……?終わりますよ!!
アレンの告白はいったん決着です。
よろしくお願いいたします。
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