君の死因を僕は知っている。
嫉妬?絶望?違う、ちがう。


僕たちは“愛”に殺されたんだよ、
ねぇ、サロメ。







● サロメの死因  EPISODE 5 ●







眠れない。
最近、ほとんどまともに睡眠を取っていない。
否、ベッドに入っても寝つけないものだから、自主的に科学班に入り浸っているだけだ。
よくないことはわかっている。
自分の本職はエクソシストだ。任務が入ればすぐさま戦地に赴かなくてはいけない。
そんなときに寝不足でまともな動きができないようであれば、間違いなく戦士として失格だろう。
そう、わかって、いるのに。


「顔色が悪いわ」


急に覗き込まれたものだから、は目を瞬かせた。
視界いっぱいに広がっているのは可愛い心配顔だ。
条件反射で微笑んで、眼前の小さな鼻を突っつく。


「おはよ、リナリー」
「おはよう、
「相変わらずかわいいね。朝から会えるなんて、今日は何ていい日……」
「よくないわ」


言葉の途中で強く遮られて、ぎゅっと手を握られた。
何だかリナリーの体温を低く感じる。ひんやりとした皮膚の感覚。
からも握り返すと、もう片方の手を額に当てられた。


、熱があるんじゃない?」
「……、まっさかー」


あぁ、だから彼女が低温だと思ったのか。
はそう思ったけれど口では否定しておいた。
体温が高いと言ってもどうせ微熱だろう。寝不足が祟っているからで、病気の類ではないはずだ。
はリナリーから逃れると、豆乳を一気に飲み干した。
時間帯が時間帯だから食堂はごった返していたけれど、いつも通り死守したそれで朝食を終えてしまう。


「健康マニアで有名なさんが、そうそう体調を崩すはずないでしょ?」
「でも」
「大丈夫だいじょうぶ、私を信じて正解!」
「……本当に?」


普段の調子で軽くウィンクしておいたけれど、リナリーは納得してくれなかったみたいだ。
あぁ、嫌だな。余計なことで気を煩わせたくない。
いつもみたいに笑って欲しい。
女性の微笑というものは、にとって、母の姉たちの師の象徴だった。


「もし具合が悪くても、リナリーの笑顔で一発!元気になっちゃうからさ」
「また、そんなこと言って」
「本当だよ」


本当なんだよ。
は促すように唇を釣り上げてみせた。


「ね、にこって」


笑ってよ。
私に向けられた瞳。怒り哀しみ苛立ち焦り、そして。
恋慕。


銀灰色の双眸は私を見つめたまま微笑まない。


「―――――――――――」


不意に目に突き刺さった朝の日差し。
窓枠に反射した銀の光が、アレンのことを思い出させて、は束の間言葉を失った。
ちがう。違う、違う。
彼は微笑んでいた。微笑もうとしていた。
それも、違う。
笑みを浮かべようとしてくれたのに、私の拒絶がすべて引き止めてしまっていたのだ。




私は彼の仮面を剥ぎ取っておきながら、本当の笑顔まで奪い去ろうとしている。




?」


唐突に表情を失くしたに、リナリーが不審そうに声を掛けてくる。
朝日を避ける。陰に入る。視界を遮るようにして手をかざす。
「何でもないよ」と、口元だけで微笑んだ。
そう、何でもない。こんなのは何でもない。
そんなはずは絶対にないのに、そう思い込まなければいけないのだと、は自分自身に言い聞かせながら席を立った。




















ドスッ!!という打撃音と共に、腹部に強烈な痛みが走った。
しまった、まともに蹴りを喰らってしまった。
そこで倒れるのは絶対に嫌だったので、は側転で相手の追撃を牽制すると、遥か後方まで跳んでから口に手を当てた。
我慢してみたが限界だ。血反吐を吐き出す。
苦しい咳が止まらなくて瞳に涙が浮かんだ。


「おい」


徹底的に不機嫌な声が飛んでくる。
文句を言われる前には笑った。


「いやぁ、イイ蹴りだったよ。私の肺やら胃やらが感動に震えるほどにイイ蹴りだったよ。今季一番、全さんが泣いた!みたいな」
「馬鹿言ってる場合か」
「大好評、悶絶中!!」
「来い」


あ、やばいなコレ。
真っ赤に染まった掌を眺めて思う。
思ったより吐いた血の量が多い。見た目的に本当に馬鹿をやっている場合じゃない。
案の定見学者から悲鳴と心配の声があがり、鍛練所は少し騒然となった。
だから余計なことで周りの気を煩わせたくないんだって。
は自分に苛立って、医療室に連れて行こうとする神田に抵抗した。
こんなのは鍛練の一環だ。彼が相手ならなおさらだ。


「いい。平気」
「どこまで馬鹿を言うつもりだ」
「油断した私が悪いの。続けよう」
「……本気でぶっ飛ばすぞ」


神田の口調が恐ろしくなって、本物の怒りを感じたけれど、はただきつく拳を握りしめる。


「この程度の痛みに屈していたら、戦場では役立たずでしかない」


私の価値は戦うことだけ。
それだけだ。それだけで、いい。
他には何も求められない。
だって、過去も未来も、本当なら現在いまだってない存在なのだから。


「というわけで、レッツ再戦!」


はわざと明るい声で言うと、身を翻して組み手に必要な距離を取ろうとした。
途端に激痛。
今度は頭皮だ。
つまり神田が背後からのサイドテールを鷲掴んで、無理やりに引き止めているのだ。


「いっ、いたたたたたたたっ」
「おい、お前」
「ちょ、痛い!痛いから!頭がもげるー!」
「勝手なことするなっつただろ」
「ま、まさか、このまま医療室まで引きずっていくつもりじゃ……!?」


神田ならやりかねない。やると言い出そうものなら、絶対にやり遂げてしまう。
そしてが医療室に到着するころには、この金髪は抜け放題となっていることだろう。
見事にハゲあがった己自身を想像して、はぞっと青ざめた。


「いやあの私の髪の毛なんか抜いても仕方ないっていうか、カツラにしたって買うのは私だよ!?自分で自分のやつ被っちゃうよ!?二度手間だから止めようよ!」
「うるせぇ」
「それに私はどうせなら神田みたいなキューティクルストレートなカツラ希望で……!」
「黙ってろ」


必死に逃げ出そうとするに神田は言葉少なに返すと、唐突に膝裏へと蹴りを入れてきた。
おかげで当然のように崩れ落ちてしまう。
そのまま流れる動作で床に寝かされてしまった。


「……へ?な、なに」


は状況が把握できなくて身を起こそうとしたけれど、上から額を押さえつけられてはかなわない。
「動くな」と怒られた。
それにしても頭の下に感じるぬくもりはなんだろう。
もしかして。もしかしなくても。
神田の膝、なんじゃないだろうか。


「……膝枕とはかなり意外なんですが。ユウちゃん」
「喋るな。テメェ、血吐いてるんだぞ」


そう言うとおりに、血で喉を詰まらせないよう横向きにされる。
それから近くにあったボトルの水でタオルを濡らすと、乱暴にこちらの口元へと押し当ててきた。
は素直に受け取って唇や手を拭う。
すぐに真っ赤になってしまったから、改めて自分の失態を恥じた。


「……ありがとう」


小さく呟くと、神田にタオルを取り上げられた。
血まみれのそれを放り出して、新しいものを投げつけられる。
は冷たい布で顔を隠した。


「ごめん」


情けなくて仕方がない。
腹部を突き刺す鈍い痛み。あぁ、吐き気がする。こんな自分。


「……あまり、ぼけっとしてるなよ」


神田の手が頭に置かれて、すぐに離れていった。
慰めではない。彼はそんなことしない。
それはふがいないへの忠告だった。
どうして先のようなしくじりをしたのか、気にしてくれても問い詰めるような真似はせずに、ただ同じことは繰り返すなと言ってくれたのだ。


は申し訳なさで胸がいっぱいになった。
神田に対して。今朝のリナリーに対してもだ。
視界を覆ったタオルの白が、に彼を思い出させる。
もうずっと、あの日から、アレンのことばかり考えている。
最後に見た笑顔とも呼べない微笑みが忘れられなくて、哀しくて苦しくて切なくて、どうしようもなくなってしまう。


「……っつ」


眠れない。もう何日も眠れていない。
目を閉じると再生される、アレンの表情や言葉が、に安息を許さないのだ。


「神田」


は友人の名前を呼んだ。
彼の膝から起き上がる。
肩を掴まれて制止されたけれど、これ以上甘えていたくはなかった。
神田にそのつもりがなくても、私は隠された優しさを感じ取っている。
駄目だ。
こんな、“何でもない”としなければいけないことで、仲間たちに心配をかけ続けているなんて。


「勝負は、また今度にしてもいいかな」


科学班の手伝いをしていても、鍛練に励んでいても、私の意識は別のところに引き寄せられる。
白銀に囚われている。
このままではいられない。
血を吐いたからではなくて、もっと痛い胸元を握って、は神田に微笑んだ。


「―――――――先に、決着をつけなくちゃいけない相手がいるのよ」


そう告げれば、神田は顔を歪ませて、肩を掴む手に力を込めてきた。
あぁ、きっと私は今、上手に笑えていない。
けれど他に浮かべる表情は思いつかなくて、笑顔のまがいもので見つめていると、神田は不意に目を閉じた。
先に起立して引き上げられる。
背中を強く押し出された。


「行って来いよ」


が振り返れば、神田はもう反対方向に歩き出していた。
吐き捨てるように言われる。


「そんな、昔のあいつみたいな顔で笑うくらいなら」


その言葉は、にとって、予想以上の衝撃をもたらした。
私だって仮面を持っている。
あの子が被る“”という仮面。
今、そこに貼りつけているのは、アレンの“あの”笑顔なのだろうか。
彼にやめてと言っておきながら、私は今本心を丸ごと呑み込んで、笑顔の真似事をしているのだろうか。
―――――――大切な“仲間”に対して?


「かん……」
「行け」


思わず呼び止めようとしたら遮られた。
中途半端に持ち上げた手をのろのろと下す。
指先を握り込んで神田の後姿を見つめる。
嘔吐感と鈍痛を押し殺して、は駆け出した。


もう何度目だろう。泣きそうだと思った。
アレンの告白を聞いた日から、きっと私はいつだって、涙を連れて“笑って”いる。




















彼の姿を見つけたとき、その顔に浮かんでいたのは微笑だった。
いつものように微笑んでいた。


そう、“いつも”のように―――――――……。


「……っつ、アレン!」


自分でも驚くくらい切羽詰った声が出た。
案の定、その場にいた全員がびっくりした素振りを見せた。
唯一名前を呼んだ彼だけが、一瞬にして表情を消してしまう。
造り物の笑顔も嫌いだけれど、あまりにも無表情に見つめられたから、は咄嗟に続きに詰まる。
何とかして言うべきことをひねり出す。


「……話があるの。少し、いいかな」


アレンはしばらく応えなかった。
温度のない眼でを眺めて、唐突にぼそりと言う。


「血が」
「……え?」
「血が、ついてる」


指差された箇所に触れれば、半乾きの赤が指先を染めた。
まだ血液を拭いきれていなかったみたいだ。
は三度自分の失態を恥じて、乱暴に口元をこする。
鍛錬場からそのまま来たから、髪も衣服も乱れていたし、おまけに血で汚れている。
みっともない。
アレンの傍に居るのがきれいな女性ばかりだったから、余計にそう思えた。


「…………………………」


こんな気持ちになったことはなかった。
“女性”というのはどこまでも可憐で守るべき存在で、たまにグローリア先生のように強い人もいるけれど、皆がそれぞれ美しさを持った存在だ。
自分は性別が一緒というだけ。まるで違う生き物のように考えてきた。
だから目の前にいるこの少年が、“私”を“女”として見ているのならば、それは大きな間違いで、今の格好にだって幻滅して欲しい。
だって告白した相手が取り繕いもせず、血を吐いたままで会いに来たのだ。
“女性”というのは、あなたの傍らに立っている人たちのことをいうのであって、“”には当てはまらない。
絶対にだ。
それなのに、どうして?
さっき神田に感じたのとは別の恥ずかしさで、顔を隠してしまいたくなっている。


「アレン、早く。行ってやれよ」


アレンの一番近くにいたラビが言った。
同時にその肩を叩く。
親友を見やると、彼は少し微笑んで、頷いてくれた。
対照的にアレンの表情は揺らがない。


「行きますよ。……とりあえずは医療室に」


そこに混じった吐息の正体は、呆れだろうか、億劫さだろうか。
アレンは立ち話をしていたラビや女性陣に一声かけると、足早にへと近づいてきた。
慌てて口を開こうとしたけれど、するりと横を通り過ぎられる。


「こっち」


目も合わさず言われて、は少しの間言葉を失い、黙ったまま彼のあとに続いた。
眼前で揺れる白い後ろ髪。その背中。
アレンはを振り返らない。
会話さえ拒むような態度に、傷ついた気持ちになる自分は、心底身勝手だ。
先に手を振り払ったのは私でしょう。
伸ばされた指先を怖がって、示された心情に怯えて、彼を遠ざけたのは私でしょう。
そうやって己を納得させたいのに、アレンを追う足は徐々に速度を落とし、最悪なことに止まってしまった。
気配で察したのか、怪訝そうにこちらを返り見たアレンに、これが望みだったのかと自嘲する。


「……どうすればいいの」


一切の前置きもなく、そんな言葉しか出てこなかった。
相変わらず情けない。
疑問は糾弾と同じで、アレンを責めるものでしかない。
一層の自己嫌悪で彼の双眸を見つめる。


「もう元には戻れないのなら、私たちはどうすればいいの」


認めることは怖かった。
何か別のものを要求されて、変化しつつあることは知っていたけれど、根本にある自分達の関係は変わらないと信じていた。
それを覆すことを望んだのなら、応えはどこにあるのだろう。
回答を持っているのはではなくアレンだ。
だから問いかけたのに、彼はあっさりと返してきた。


「言っただろう」
「……なにを」
「好きだって」


こんなにもずっと無表情のままのアレンを見るのは初めてかもしれない。
笑って欲しいのに。いつものように。本当の、“いつも”のように。
阻害している身でありながら、そんな場面でないことも理解していながら、はずっと願い続けていた。


「本当にわかってる?」


アレンは、決して、微笑まない。


「僕は、君が、好きなんだよ」


聞き分けのない子供に言い含めるように、ゆっくりと繰り返された。
その声がの体に染み込んで心を麻痺させる。


「“女性”として、愛してる」
「…………………………」
「セイが、君のことを、馬鹿でも鈍感でも天然でもないって言っていました。僕もそう思ってますよ。……わざと理解しないようにしているんですか」
「……、ちがう」
「だったら、何?僕はもうはっきりと告げた。それなのにまだ書庫室のときと同じことを繰り返すんですか?“どうして”って」


責めてしまったと思っていたのに、いつの間にか立場が逆転して、はアレンに追い詰められる。
彼はこちらにきちんと向き直ると、真っ直ぐな視線で見つめてきた。


「“どうして”って、好きだからだよ」


傷のついた唇。
そこからこぼれ落ちる想いが、の全身を竦ませる。


「“どうすればいいの”って、君が決めることだよ」


彼は私を求め、触れた手で、今度は強く突き放す。


「僕は君が好きだから、一番傍にいたいと思ってる」
「…………………………」
「声が聞きたい。話がしたい。触れたいし、抱きしめたい。僕のことを知って欲しい。君のことを知り尽くしたい」
「……っつ」
「“あの子”の涙も、“”の笑顔も、僕だけに見せて欲しい」
「わたし、は……」


アレンの左手がの頬に伸ばされる。
触れるか触れないか、ぬくもりが感じられる距離にかざされる。
少しだけアレンの瞳が揺れたから、はようやく理解した。
彼が浮かべていたのは無表情という名の激情だ。


「僕は、君が欲しい」


これほどまで、に。
他人に求められたことがあっただろうか。
アクマもノアもあの男も、殺意と愛憎で私を欲してくれたけれど、自分の解釈が全てで何も求めてはこなかった。
差し出せと強要するばかりで、決断を請われたりはしなかった。
あぁ、私は本当に、わかっていなかったみたいだ。
アレンと私の決着は、どちらか片方の勝手で、着けられるものじゃない。


「……私、は」


ほつれた髪で、よれた服で、血のついた唇で、痛む腹部をどうにもできないまま、不様な女は応えを返す。
”が口を開く。


「あなたのためなら、何だってしてあげたい」


泣きたい。
泣いてしまいたい。
眼前の彼の胸に縋れば救われるのだろうか?
いいや、そんなのは自分が楽になるための卑劣すぎる手段だ。


「敵がいるのなら一緒に戦う。守りたいものがあるのなら私も守る。この生命いのち能力ちからも本当は私だけのものじゃないけれど、必要だっていうのなら、全部ぜんぶ貸すよ」


涙を流してしまいたい心境なのに、眼球は乾ききっていて、むしろ痛いくらいだった。
私はどうしたって、自分に泣くことを許せないみたいだ。
だってこんなのは、


「それでも、私は」




ひどい。




「あなたのものにはなれない」




決定的な言葉を口にした途端、の中で何かが終わった。
幕を閉じるみたいにふつりと、そこに賑わっていた感情のすべてが、波が引くように消えていった。
明かりが失せて静寂が訪れる。
舞台に立った“”はそれを感じている。
もうお終い。何もかもが幕の向こう。次の劇が始まるまでに、ここは別の顔になっていなければ。
哀しみを殺し、切なさを捨て、“思い出”にしてしまわなければ。
それなのに、なぁに?うるさいな。
降ろされた帳の向こう、客席で子供が泣いている。
黙って。黙って。舞台はもう終わったのよ。
と同じ顔をした、小さな女の子が泣いている。
彼の名前を呼んで泣いている。


“アレン”、“アレン”、“アレン”ってそればかり。
そんな資格なんてないくせに!!


「……そう」


アレンは目を伏せると、左手を引き戻した。
結局その指先は一度もに触れなかった。
先日とは大違いに、彼は頑ななまでに、それを守り通した。


「わかった」


低く小さな声で呟くと、ハンカチを押し付けてきてから歩き出す。
すれ違いざまに医療室に行くように言われた。


「もう、ひとりでも大丈夫だろう」


そうだね。だって、すぐそこだもの。
迷子のプロであるアレンじゃあるまいし、迷うことなく辿り着けるはずだ。
血だってもう乾いている。こんな、ハンカチを貸してくれなくても、平気だよ。
そうやって返したいのに。
もう、ひとりでも大丈夫だろう。
その声がの頭の中をぐるぐる回って止まらなくて、思い出したかのように強烈な吐き気と涙がこみ上げてきた。
嫌だな。内蔵まで傷ついてしまったのだろうか。鍛錬でこんな重症を負うなんて。


ほどなくして去りゆく足音も聞こえなくなり、アレンの気配が完全に消えてしまったから、は手の中のハンカチを目元に押し付けた。


今度こそ、本当に、泣いてしまいそうだったから。




















「サロメだな」


唐突に言われて、アレンはハッと瞬いた。
待ち合わせの場所でぼんやりと通り向こうを眺めていたら、頭の上からそんな言葉が降ってきたのだ。
慌てて確認してみると、なるほど視線の先には劇場がある。
役者らしき数人が、時代錯誤な衣装を身に着けて、宣伝のチラシを配っていた。


「さろめ?」


別に芝居小屋を見ていたわけではない。例によって考え事をしていただけだ。
それでも話を振ってもらった手前、アレンは首を傾げてみせる。
場所はオランダの片田舎。
自分と同じく任務中である大男を見上げる。
ノイズ・マリは盲目ゆえに閉じたままの瞳で微笑んでくれた。


「知らないか?アレン」
「知りません。演目の名前ですか?」
「ああ。有名な戯曲だ」


そうは言われても、とんと聞いた覚えがなくて、ついでに興味もなくて、ただ会話の流れとしてばらまかれるチラシを見てみる。
若い男女の絵だ。
ひどく不吉な感じがする。
というのも、女性のほうは豪華な衣装を纏っているのに対し、男性の方は薄汚れていて髪も乱れている。
否、それ以前の問題だろう。
何故なら男性には体がない……、首だけの姿であるのだから。


「これ……どういう話なんですか?」


アレンは眉を寄せてマリに訊いてみた。
何と言っても美女と生首の絵だ。これでストーリーを想像するには難しい。
マリは苦笑して、チラシを指差した。


「女性がいるだろう。彼女が主人公だよ。戯曲の題名にもなっている、サロメだ」
「あぁ、この人が」
「サロメは、ユダヤの王ヘロディアスの娘。彼女はとても美しく……」
「?何です?」
「――――――――情熱的で、残酷だ」


一呼吸置いて、マリは囁くように言った。
アレンにはその意味がわからない。
わぁ!という歓声があがって、顔の向きを戻してみると、劇場の前で役者たちが声を張り上げていた。
どうやら特別に劇の一部を演じてみせているらしい。
妖艶な美貌の女性が、鎖で繋がれた男性に熱っぽい視線を送っている。


「男のほうはヨカナーンという預言者だ」


マリが説明してくれたのと同時に、サロメ役の女優が台詞を口にする。


「“きっとお月様みたいに汚れがない、銀色の光……。象牙のように冷たい肌……。あの預言者をもっと近くで見たいわ!”」


サロメはヨカナーンに惹かれているようだった。
一目でそれがわかるほどに、頬を上気させ、潤んだ瞳を彼に向けている。
一方ヨカナーンが返すのは侮蔑の眼差しのみだ。


「“誰だ?私を見つめるのは”」


そしてアレンは芝居に釘付けになる。
話の面白さでも演技の素晴らしさでもなく、次にヨカナーンが放った台詞によって、意識を縫い止められてしまう。


「“見られてはならぬ。こがねの瞼の下の、黄金の瞳……”」


“黄金”の瞳?
そんな人間、僕はひとりしか知らない。
現にサロメを演じている女優の瞳は赤茶だった。


「“誰かは知らぬ、知りたいとも思わぬ”」
「“私はサロメ。ヘロディアスの娘、ユダヤの王女……”」
「“下がれ、バビロンの娘よ!神の選んだ者に近寄るな……!汝の母は不義の酒で大地を満たし、その罪深いよがり声は神の耳に届いている”」
「“ヨカナーン、もう一度……。お声は美しい音楽のよう”」


まるで正反対の感情で、男女はかみ合わない会話をかわす。
サロメは恋心を訴え、男の所有を願う。
ヨカナーンは拒絶を叫び、女を断罪する。


「“ソドムの娘よ、下がれ!我が身に触れるな!”」
「“その唇ほど赤い物はこの世にはない……お前にキスをするよ”」
「“ならぬ!バビロンの娘!ソロモンの娘よ!断じて!”」
「“お前の口にキスさせて”」
「“呪われている!近親相姦の母を持つ娘よ、お前は呪われているぞ!!”」
「“お前の口にキスをするよ、ヨカナーン”」


サロメはヨカナーンの抵抗など目に入らないように、ただただ男の唇を求めて艶やかに微笑む。
真っ赤な口唇。
まるで血で濡れたように。


「“私はお前に、口づけをするよ”」


その迫力といったら。
一場面を演じ終えて礼をしている役者から、アレンはどうにも目が逸らせない。
それを関心と受け取ったのか、マリが話しかけてくる。


「こんな田舎にしてはいい劇団が来たものだな」
「………………………」
「『サロメ』の見どころは七つのヴェールの踊りという演舞だ。あの女優なら、さぞ素晴らしいものになるだろう」
「……躍るんですか?サロメが?」
「ああ。父王の懇願を聞いてな。その見返りとして、彼女は」


マリは少しだけ声を落とした。
それはその背徳性ゆえだろうか。


「ヨカナーンの“首”を要求する」


アレンの指先に無意識に力が入って、チラシに皺が寄ってしまう。
建物の陰から、明るい大通りを見ている。
今は笑顔で手を振っている、サロメとヨカナーン。


「なぜですか?」


アレンは抑揚のない調子で問いかけた。


「サロメはヨカナーンを愛していたのでは?それなのに何故」
「ヨカナーンがサロメを拒んだからだ」
「………………………」
「ヨカナーンがしきりにサロメのことを、バビロンの娘、ソドムの娘と呼んでいただろう?あれはすべて“異教徒”を指している。預言者である彼が受け入れられるはずもない。だからサロメは、ヨカナーンを手に入れるために、彼を殺した」


このあたりは当時の情勢や宗教が絡んでいるな、と続けるマリにアレンは相槌ひとつ返せない。
殺した。愛していたから。手に入れるために、相手の死を望んだ。
まるでプシュケと“アレン”だ。
繰り返し突き付けられる愛の末路に、アレンは強く囚われ続けていた。


「最終的にサロメは、手に入れたヨカナーンの首にキスをするんだ。宣言通りに」


それは、なんて、魅惑的なラストだろう。
マリの言った結末に呼応するように、サロメが陽の下で叫ぶ。
きっと一番有名な台詞、『サロメ』を代表する言葉を。


「“王の誓いによって、私の望みを叶えてください。私が心から欲するもの……それは銀の盆に載せたヨカナーンの首”」


王女は高らかに告げる。


「“ヨカナーンの首を”!!」


愛憎。狂気。逸脱した想い。
それでも彼女はただ一途に恋をしただけなのだと、アレンはひどく哀しく思う。


「マリ」
「うん?」
「……ヨカナーンの首を手に入れたあと、サロメは」


隣の仲間を見上げることもなく、キスに酔いしれる女だけを瞳に映す。


「サロメは、どうなるんですか」


男の首を、生では得られなかった愛を、無理やりに奪い取った姫君の末路は?


「サロメも、殺される。――――――――――その残虐性に怯えた父王に“化け物”と罵られて……な」


あぁ、やっぱり。
アレンは顔を俯けて微笑んだ。
それでいい。それが正しい。
だって殺すというのは、愛する者を一瞬だけ手に入れる方法だ。
同時に永遠という闇の中へと陥れる行為だ。
ならば、サロメはもう、“生きて”はいけないだろう。


(本当、いっそ殺してしまいたいくらい)


アレンは自分の考えに首を振って、素早く踵を返した。
チラシをマリに渡して歩き出す。
いつもみたいに白髪を隠すためだけでなく、表情を見られないようフードを目深にかぶった。


「行きましょう。……任務を終わらさなければ」


歪んだ愛情、本心を押し隠して、アレンはサロメに背を向ける。


「ヨカナーンの首を!!」


ユダヤの王女は叫び続ける。
アレンを引き止めようとする。
黄金の瞳は何と魔力のある色彩なのだろう。


「首、を」


欲しいよ、僕だって。
けれどそんなのは間違っている。
燃え盛る嫉妬も、凍てつく絶望も、奪われ続ける心も、すべて断ち切った原因。


相手を思いやらない愛。
それが、サロメと僕の、死因だった。




















「帰ってこない?」


はゴーレムに向かって問い返した。
否、正しくはその向こう側にいるコムイに対してだ。
思ったよりも大きな声だったらしく、無視を決め込んでいた神田がこちらを見てくる。
閉じられていた瞼が開き、鋭い瞳で睨みつけられた。
舌打ちは汽車が奏でる轟音にも負けない盛大さだ。


「うるせぇ」
「ご、ごめん。でも」
『かなり深刻な問題だよ、これは』


慌てて声量を落としたに、コムイがフォローを入れてくれる。


『任務完遂の報告を受けて、もう二週間も経つ。それなのに一向に戻ってこない』


窓枠に頬杖をついていた神田が身を起こした。
汽車のボックス席にいるのはエクソシストだけで、今回は探索隊ファインダーの同行もないから、くつろいだ雰囲気だった二人は一気に真剣さを取り戻す。
は短く問いかけた。


「連絡は」
『一度だけ。気になることがあるから、帰還が遅れるってね』
「それで、二週間か。確かに妙だな」
『そうなんだよ。アレンくん、出発の少し前から様子がおかしかったし』


コムイの心配そうな呟きに、は思わず手を握りしめる。
神田の視線を感じたけれど、止めることはできなかったし、彼はそのことには触れてこなかった。


「モヤシのことなんざ知るか。あいつには前科がある。任務抜きで好き勝手やるのは今に始まったことじゃないだろ」
『まぁ。言われてみればそうなんだけど……』
「それよりマリだ。マリまで戻ってこないとなると、そいつはおかしいぜ」


さすがの神田も兄弟子には信頼を寄せているらしい。
そもそもマリは常識的な大人だ。
性格の温厚さも手伝って、厄介事には巻き込まれにくいし、そのような事態になっても本部への連絡を怠るはずがなかった。


「……何かあったとしか考えられない」


はその“何か”に考えを巡らせる。
何だ?何が二人を任務先に留まらせている?
口元に指を当てて思案していると、コムイが声を明るくして言った。


『いくら考えても、それは憶測の域を出ない。というわけでキミたち』
「はい?」
「何だ?」
『二人を探してきてよ』


あっさりと下された命令に、と神田は顔を見合わせた。
お互いに妙な表情だ。
神田に至っては心底嫌そうに唇を曲げている。


『キミたち今ベルギーにいるんだろう?オランダに一番近い。帰還ついでに、ちょっと寄って、事情を聞いてきてくれないかい』
「そんなもん、どうせモヤシがいつもの偽善を発揮して、面倒事に関わっているだけだろ」
『そうだとしても、それを確認しないと』
「何で俺たちが」
『マリまで戻らないのは妙だと、キミも認めたじゃないか』
「………………………」
『それじゃ、つべこべ言わずに行ってきてね!』


通信を入れてきたときとは大違いに、コムイはやたらとご機嫌な口調だ。
言っていることは事実にせよ、もしかしてこれは気を遣われているんじゃないだろうか。
がそう思うのも無理がないよう彼は小さく付け足してくる。


『アレンくんによろしくね。ちゃん』


返事はできない。
首肯することも難しい。
は何か返そうとした唇をそのまま閉じた。
おかげでまた神田から舌打ちをもらってしまう。
自己嫌悪はいつまでたっても治らないものだと、はとうの昔に知っていた。
けれどそんな情けなさも、神田の苛立ちも、続いたコムイの言葉に掻き消える。


『あぁ、それで最後にアレンくんが連絡を入れてきた場所っていうのがね……』


二人はもう一度、顔を見合わせた。




















アレンとマリが消息を絶った場所に辿り着いてみれば、と神田はもうお互いを見やることを止めていた。
何故なら目立つからだ。
ただでさえ二人は器量よしなのに、こんなところで仲良く話していては、注目を浴びるにもほどがある。
それでも離れて歩くことは何となく絶対に神田が許してくれなかった。


「居たたまれない……、本当に居たたまれない……!」


我慢の限界では顔を覆って嘆く。
もうこのままいっそ顔面を隠してしまおうか。


「俺だってそうだ」
「神田はまだいいでしょ」


殺気立った神田に返すも、常とは違い低音にならざるを得ない。


「私はこれでも女なんだからね」
「ここで性別なんざ関係ねぇよ。さっきからどれだけ絡まれてると思ってる」
「……あぁ、うん。どっちかっていうと男性に言い寄られてるよね、ユウちゃん」
「おぞましい事実を口にするな……!」


神田が本気で鳥肌を立てているので、はその肩を叩いてやった。
どんまい、ユウちゃん。本当に美しさって罪だ。
そんな馬鹿なことを考えていたら、もう何度目だろう、複数の男に声をかけられる。
手を掴まれそうになったところで、神田の脚が霞むような速さで繰り出された。
強烈な蹴りが彼らをまとめて視界の外へと叩き出す。


「気安く触るんじゃねぇ!」


が嫌なことを言ったせいか、多少感情的になった神田が怒鳴る。
相手はもう気絶しているから聞こえてないのになぁ、とか思っていたら、触るなと叫んだ本人に手首を掴まれた。


「行くぞ」


それが左だったから、どうにも痛くなって、は眉を下げる。


「神田、余計目立つよ。こんなところで女連れなんて」


だから距離を置いて進もうとしていたのに、これじゃあ完璧にそういう仲に見られるだろう。
は言外に言ってみたが、神田に腕を引かれて黙らされる。
今度は肩を抱かれてしまった。


「もういい。勝手にそう見させとけ」


神田は不機嫌そうに顔を背けた。


「お前一人を歩かせるよりマシだ」


確かに、女が単独で居ていい場所ではなかった。
は神田に寄り添ったままため息をつく。
何だって私たちはこんなところを、“そういう仲”だと偽ってまで、闊歩しているのだろう。


「よりにもよって、アレンたちが消えたのが歓楽街とはね……」


頭が痛くなってきて、は額を押さえた。
つまりは夜の街だ。女性が春を売る店や、愛を営む宿が軒を連ねる、眠らない界隈。
なかには男性向けまであるようで、神田は怖気が止まらない様子だった。
あれだけ声を掛けられれば当然だろう。
で、こんな場所にいる女といえば、そういう対象に見られてしまうから、あんまりいい気分だとは言えなかった。


「よう、二人ともべっぴんだな!うちに寄っていかないかい!?」


性懲りもなく行く手に現れた男を神田が無言で足蹴にする。
力が入りすぎているのか、ますます強く抱き寄せられた。
これでは完全に仕事中の女と常客の男にしか思われないだろう。
周りでひそひそ囁かれているのも辛い。


「綺麗な子たちねぇ」
「あそこまで美男美女のカップルとは珍しいな」
「眼福じゃ、眼福じゃ」
「どこのお店の子かしら?知っている人は?」


「…………そろそろここら一帯を壊滅させたくなってきたんだが」


神田が地を這うような調子で言ったから、は宥めるように背中を撫でてやった。
まったくの同意見だが少しだけ待ってほしい。


「アレンとマリを見つけてからね」


止める気が皆無な自分に苦笑して、は懐から二人の写真を取り出した。
聞き込みを開始してみると、思いの他すぐに情報は集まった。
どうやらアレンたちは姿を隠してはいないらしい。
それどころか花街の馴染んでしまっていて、知り合いだと知れると挨拶をされたり、親切を受けたりするほどだった。


「ここでの生活をエンジョイしてるみたいね……」


それなりに……、否、かなり心配していた身としては、安心するや呆れるやで大変だ。
「あいつらの気が知れない」と言う神田には頷いておく。
確かにここは普通の感覚では居づらいし、向こうにもそれが伝わるのか、態度としてはよそよそしいままだ。
馴染んでしまうとなると相当な努力が必要だろう。
いくら人当たりのいいアレンとマリでも、これは少しおかしく思えた。


。あそこがあいつらの根城らしいぜ」


神田が指差した方角を見てみると、派手な装飾の建物が立ち並ぶ通りに、一軒だけ落ち着いた佇まいの店があった。
重厚な木の看板。シックな色合いの屋根には煙突がついている。
一見すると普通の宿屋のようだが、壁にはしっかりと防音対策がとられているようだった。
……何はともあれ、そういうお店みたいだ。


「アレンとマリを探してる?お嬢ちゃんたち、知り合いなのかい?」
「はい。そうです」
「こんな美少女二人に追ってこさせるなんて!あいつらときたら、なんてこった!」


中に入って尋ねてみると、髭面の男が命知らずなことを言った。
神田が抜刀しかけたのでは先を促す。
早く情報を引き出してしまわないと、短気な彼は本当にここを倒壊させかねない。


「彼らに会いたいんですが、今どこに?」
「あぁ、きっと店の裏手に」


そこで『六幻』が抜き放たれる。
は即座にお礼を口にすると、刀を振りかぶる神田を引きずって、奥の扉から外に飛び出した。


「待ちな!そこは部外者が入っちゃ……!」


店員の声が追ってきたけれど、最後まで聞こえなかった。
扉が軋みながら閉まったせいでもある。
けれどそれよりも、路地裏の角、わずかに垣間見えた光景に足を止める。


「あいつ……」


神田の呟きを耳の端に聞きながら、はゆっくりと目を見張った。




















くすくす、くす。
女性たちの華やかな笑い声。甘い匂い。秘めやかな仕草。
何を望まれているか知っているし、自分に応えることができることもわかっていた。


「ねぇ、アレン」


ぬるい吐息が頬にかかる。
指先がシャツの胸元に入り込んで、直接素肌を撫でてきた。
ここでは邪魔だからリボンタイは取り去っていて、いつもよりラフなベストとズボン姿だ。
それだけで昔に戻ったような気分になるから、恰好というのは結構重要なものだなと思う。


「貴女ばかりずるいわ」
「そうよ、こっちにも」


髪をいじる手、顎にかけられる指、首裏に感じる爪。
幾人もの女性がアレンで遊んでいる。
別に何も感じないけれど、聞きたいことがあるから、好きなようにさせておく。


「それで?」


アレンは優しく問いかけた。


「僕に教えてくださいよ。お姉さんたち」
「いいわよ」
「ええ、答えをあげる」
「でも、ねぇ。わかっているでしょう?」


わかっているよ。
こんなことで欲しいものが得られるのなら、僕はどうだっていいし、いくらでも与えるだろう。
「キスなんて大したことない」と言ったが信じられなかったはずなのに、過去の自分だってそう思い込んでいたじゃないか。
少し前に戻るだけ。
ほんの少し、


「……どうぞ?」


心を殺すだけ。


「おい、テメェ!」


柔らかな膜にくるまれたような時間は、鋭い怒声によって引き裂かれた。
同時に凶器の気配がしたから眼前の女性を突き飛ばす。
彼女らの悲鳴と剣撃の音が重なった。


「いきなりご挨拶ですね」


こんな物騒な真似をしてくるのはひとりしかいないから、特に驚きもせず名前を呼んでやる。


「神田」


彼はアレンの顔のすぐ横、壁面に突き刺した『六幻』を一気に引き抜いた。


「こんなところで何してやがる」
「そっちこそ。こういう場所の裏路地には入ってこないほうがいいですよ」


会話の面倒さを隠しもせずに、アレンは地面に座り込んでしまった女性に手を差し伸べる。
白粉のついた指先。色の乗せられた爪。
細くたおやかな情婦の体だ。
立ち上がるときにふらついたのは、肉体を酷使する仕事ゆえだろうか。


「大体の場合、邪魔にしかなりません」
「……俺もそうだって言うのか」
「ええ。大事なところだったのに」


ねぇ?と女性陣に笑いかける。
それに少し安心したのか、彼女たちはアレンに一声かけると、店のほうへと足を向けた。
ここの人は皆そうだ。
厄介ごとには関わらない。気持ちのいいことにしか興味がない。


「また、後で」


一人が去り際にキスをしてくる。
生暖かい感触だ。頬を掠めた人体の一部。
そんな風にしか感じられない自分はもうどこかおかしいのだと思う。


「まったく……。一体何をしに来たんですか」


気だるさに髪を掻き揚げて、緩慢に視線を投げて、そこで気が付いた。
裏口から店に入ってゆく情婦たちが不思議そうに眺めている少女の存在に。
目が合うと、それを合図にしたみたいに、薄紅の唇が動いた。


「あなたたちを探しに来たのよ。アレン」


こんな場所で。こんなときに。顔を合わせることになるなんて。


「―――――――、


およそ彼女に似つかわしくない、薄暗い路地裏で、僕はその名前を呼んだ。










今回はタイトルにした『サロメ』についてちょろっと書いてみました。
美女が男性を首チョンパする話は実は結構あってですね。モチーフとしては面白いです。
興味のある方はググってみてください!

次回はアレンがあんな場所に居た理由がわかります。
多少やさぐれていますが自棄になっているわけではないですよ!(笑)
よろしくお付き合いください〜。