要するに私はどこか欠陥があるんだと思う。
重度の欠落人間なんだと思う。
だっておかしいよ。
“好きだ”と言われて怖気つくなんて。
● サロメの死因 EPISODE 4 ●
とんでもなく寒気がした。
室温は何度だろう。寒さは苦手だ。大嫌いだ。
神経が凍りついて、当たり前の機能が失われる。
感覚がなくなってしまう。
指先ひとつまともに動かない。
「………………………」
は無言のまま深く顔を俯けた。
本当は両手で覆ってしまいたかったけれど、アレンが離してくれなかった。
彼自身が真っ赤に腫らした手首をそっと撫でてくれる。
「だから」
思考まで凍結してしまったに、アレンは抑揚のない言葉を突き刺さす。
「だから、嫌だったんだよ」
とんでもなく優しく痛みに触れながら、彼は私に刃を投げつけてくる。
「言いたくなかった。言うつもりはなかった。君が困ると知っていたから、こんな感情、気づかない振りをして捨ててしまうつもりだった」
「………………………」
「でも、やっぱり無理だ」
「………………………」
「僕はね、。君のことをただの仲間だとは思っていないよ。もちろん友達でもない」
「………………………」
「君が望んでも、元には戻れない。―――――――僕はもう、君を、“女性”としてしか見ていないから」
やめてくれ、と叫びたくなった。
それは当然の自己防衛のように、“”に根付いて久しいものだった。
異常なのはわかっている。
ひどいことをしている自覚もある。
それでもアレンの告白は、にとって、ナイフを突きつけられているのに等しい。
確実に息の根を止めようとする凶器だ。
「……っつ」
触れる熱に耐えられなくなって、左手を取り戻そうとしたけれど、力を込めて止められた。
痛みはない。それでも火傷のように疼いた。
「……い」
こんなこと言いたくはなかった。
もし許されるのなら、認めてくれるのなら、は泣いてしまいたかった。
「知っているじゃない」
吐き出した声は無機質で、気持ちが悪くて、自分でどうにもできないことがとても情けなかった。
「あなた、私が、どうやって生きてきたか聞いているじゃない」
過去を殺して、己を屠って、別人として此処にいるのだとわかっているくせに。
「私が、これから、どうやって生きていかなければいけないか、気付いてるじゃない」
未来を捨て、自由を売り、諦めの虚無の中で死んでゆくのだと悟っているくせに。
「ねぇ」
やめて、と何度も願った。
やめて。やめて。今すぐにやめて。
あなたは私のいない場所で、真っ白な光に染まる世界で、幸福に笑っていなければならない人なのだから。
“私”なんかを好きになってはいけないのよ。
緩慢に顔をあげてみると、落ちかかった金髪の隙間から、銀色に光る瞳が見えた。
アレンは視線を逸らさなかった。
まるでの一挙一動を見逃すまいと心に決めているかのようだった。
熱度のある眼差しに絡め取られる。
「どうしてなの、アレン」
わからなかった。わかりたくなかった。
そう思うこと自体がもう、アレンの気持に対するの非だ。
自己嫌悪で吐き気がしたけれど、このまま彼に想ってもらうほうが、ずっとずっと罪深い。
「どうだっていいよ」
アレンは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「そんなことはどうだっていい」
はアレンを拒絶するしかなくて、もはや繋いでいる暖かい手だけが、二人に残された絆みたいだった。
「僕は君の本当の名前とか、昔のこととか。もうどうでもよくて」
「……………………」
「僕のためだけに君が存在してくれていたらいいのに、なんて。本気で考えてる」
不意にアレンの瞳が歪んだ。
また強引なことをされるのかと思った。
けれど感情の波が溢れだして、それがを襲う前に、彼は自分で自分を突き放した。
最後の一瞬、左手首を引き寄せられる。
謝るみたいにそこにキスをして、アレンは立ち上がった。
「。君は、いつだって消えてしまいそうで。どうしたらその背中を引き止めることが出来るのかって必死に」
震えを、怯えを、焦りを、苛立ちを、何もかもを堪えるように、アレンの両手が強く固められる。
最後に見た顔は微笑んでいた。
泣き出しそうに、怒り出しそうに、それでも懸命に笑おうとしてくれた。
「僕はずっと探してる。君が“”でいられるように。君が“君”を取り戻せるように。―――――――ずっと」
好きだ、と。
そう告げられた時よりも、は涙の気配を感じた。
瞳の奥が熱くなる。体が細かく震えた。
寒いからだ。そう、この部屋は冷え切っている。
アレンとの感情の落差が、空気を凍えさせてしまっている。
言葉が出ないから首を振った。
アレンはそれに目を伏せて、無言のまま部屋を出て行った。
誰もいなくなった室内で、は彼の名前を呼んだ。
何度も何度も呼び続けた。
想いの代わりに。涙の代わりに。
唇からこぼしてゆく。
他にどうしたらいいのか、わからなかった。
誰だったらいいんだろう、な。
ラビはひとり廊下を歩きながらぼんやり思う。
頭にあるのは親友のことだ。
脳裏に浮かぶのは圧倒的に笑顔が多いのだけど、それは彼女の努力の結果で、意識すればするほど真っ白な手が思い出された。
そう、ラビの中のとは、“白い手”だ。
あれはまだ幼い頃。
お互いにまだ子供だった時。
ラビにはの顔をまともに見られない時期があった。
それは例えばブックマンの後継者として接しなければいけない場面や、彼女に心無い言葉や暴力が浴びせられた瞬間だった。
目は逸らせなかった。見届けなければいけない。
それは記録者としても親友としても決して譲れない部分で、けれどまだまだ未熟者なオレはの手ばかりを眺めてしまっていた。
強く強く、真っ白になるほど握りしめられた手を。
言い訳になるかもしれないが、の顔に目を向けるより、その拳を焼きつけておくほうが、よっぽど彼女を理解できたのではないだろうか。
は、泣かない。
弱音を吐かない。絶対に挫けたりしない。
きれいな造作に浮かんだ凛とした表情は、何があっても崩れはしない。
けれど、手、は。
あの細い指先だけは如実に彼女の心労を表していた。
本当は怒りに、哀しみに、恐怖に、震えていたんだろう?
その全てを、拳を固めることで、必死に握り潰していたんだろう?
オマエはいつだって。
あの白い手で、弱い自分をくびり殺して、笑っていたんだろう?
オレは知っている。だって、ずっと、傍にいたから。
そんなも年頃に成長して、幾人かの男に想いを寄せられるようになった。
親友としては死ぬほど寂しいが、それで彼女の抱えているものが少しでも軽くなるのなら、喜んで然るべきだろう。
協力だってやぶさかではない。
それなのに、何でかな。
の隣に寄り添う男の顔が、まったくと言っていいほど思い浮かばないのである。
(誰だったらいいっていうんさ、オレは)
自分で自分に呆れてため息をつく。
こんなことを考えてしまったのは、間違いなくセイの登場に原因があった。
接してみると予想外に彼はイイ男であり、容姿はもちろん性格も大変よろしかった。
おまけに将来有望。しかもにぞっこん。
文句なしの好物件だ。
……それでも、のパートナーとしては、しっくりこない。
(もしかして、無意識にアレンに気を遣ってるんか?)
だからセイに良い感情を抱けない?
いやいやいやいや、それはないな。
ラビは即座に己の考えを笑い飛ばす。
だってオレは、アレンもダメだって思ってる。
そこで不意にラビは悟った。
(あぁ、そうか。オレは)
急速に気持ちが暗くなる。
勝手な話だけど、に申し訳なくて仕方がない。
バンダナの上から額を押さえつけた。
(オレは、が、幸せになれるって……思えない。信じられないんさ)
どうしてだろう。
こんなにも。こんなにも、彼女の幸福を祈っているのに。
顔を見て挨拶をして、目を合わせて話をして、バカみたいに笑い転げて、一緒に生きていきたいって願っているのに。
遠くない未来に訪れる、黒く不吉な予感が、ラビにそれを確信させないのだ。
(嫌な感じがする……。もうずっとだ)
それはたぶん、アレンとがハンガリーで快楽のノアと戦ってからだ。
誰かが動き始めている。どこかが変わり始めている。
そして自分は、どのような結末になろうとも、その全てを記録しなければならない。
目を開け。頭を働かせろ。
一体、何が起ころうとしている?
「……、っと」
談話室に足を踏み入れたラビは、彼の姿を認めて足を止めた。
白髪が見える。
ソファーに腰掛けて窓の外を見つめている。
ぴくりともしない背中に不審を抱いて、ラビは声をかけてみることにした。
「アレン?」
少しの間、反応がなかった。
聞こえなかったのかと思ってもう一度呼ぼうとしたとき、ゆっくりとアレンが振り返ってきた。
表情がない。完全なる無だ。
ラビは少しぞっとして、意味もなく笑ってみせた。
「ど、どうしたんさ。こんなところで」
「……いえ、別に」
「別にって。何なんさ」
「…………ちょっと自己嫌悪に浸っていただけです」
「は?意味わかんねぇんだけど」
「わからなくていいです。結構です。心から辞退申し上げます」
「全力拒否!?」
頑なな言葉に突っ込みを入れてみたけれど、返事は大仰なため息のみだった。
「……もう、いいかな」
「?何がさ」
「いえ、部屋に戻ってもいいかな……と」
「自分の部屋だろ?好きにすればいいじゃん」
「…………………………」
「アレン?」
「まだ居たらどうするんですか」
「え、誰が?」
「…………………………すみません。もう行きますね」
話の要領を得ない。
アレンの言わんとすることがまったくわからなくてラビは眉を寄せた。
彼が背負っている紫に渦巻くオーラは何だろう。
うかつに触れていいものではない気がする。
けれど、自分はアレンの友達だ。
「何かあったんさ?」
重い足取りで談話室から出ていく彼を追いかけて隣に並ぶ。
ちょっと鬱陶しそうな顔をされたけれど、構うなとは言われなかったので質問を重ねた。
「オマエ暗すぎだろ。落ち込んでる?どうしたんさ?」
「……ちょっと」
「セイのこと?」
「………………………」
「ほい、ビンゴ。でもなぁ。気にすることないと思うさ」
「…………何でですか」
「アイツが何を言ったって、が相手にしないから」
親友の名前を出した途端、アレンの顔が変なふうに固まった。
ラビは思わず凝視してしまう。
瞳の奥にある感情を読み取ろうとしたけれど、即座に逸らされてしまった。
仕方がないので続ける。
「アイツがそう簡単に男を受け入れるとは思えんからなぁ。それにしては、好き好き言われて喜んでるのが妙だけど」
「……そう、ですね」
「オレが思うに、アレはそーゆー意味の“好き”だと受け取ってないさね」
「……うん」
「てゆーか、意識的に考えないようにしてるな。アイツは女として見られまいとしているところがあって」
「……………………」
「もし、異性として好かれてるってわかったら、きちんと拒絶するだろうさ。だって、“”は、応えられない」
「……っつ」
「アレン」
ラビは少年の腕を掴んだ。
反射的に振りほどこうとされた。
ダメだ、逃がさない。
無理やり足を止めさせて、ほとんど睨みつけるようにしてアレンを見る。
「言ったのか」
廊下は明るい。視界は薄暗い。
そんな錯覚を起こしたのは、きっと目の前の銀色の瞳が、あまりにも辛そうだったからだ。
「アイツに、好きだって、言ったのか」
ひたりと見据えると、アレンも視線を返してきた。
わずかな時間の後、無表情に戻って、彼は頷く。
「はい」
はっきりとした肯定を受けて、ラビは何だか力が抜けた。
ちょっと眩暈もした。
アレンを開放して下を向く。
「……そっか」
そのままアレンに一瞥もくれず歩き出した。
「そっかぁ」
「……ラビ?」
怪訝に呼ばれても振り返らずに足を進めていると、少しの逡巡のあとアレンが後ろに続いた。
その気配を感じながら呟く。
「よく言ったなぁ」
「……馬鹿にしてます?」
「いんや。褒めてる」
「どうしてですか」
「オマエだってわかってたんだろ?アイツが気持ちを受け入れてくれないって」
「……………………」
「それでも伝えたってことは、さ。本気なんだな。本気でアイツのこと」
そこで何となく言葉を切ってラビは笑った。
「まぁ、セイに感化されて言っちゃうあたりはガキだけど」
「一言余計です」
アレンに後頭部をはたかれる。
茶化したのはわざとで、彼を気遣ったのもあるけれど、自分が平常心を保つためだった。
正直ラビはアレンの気持を応援していなかった。諦めたほうがいいと思っていた。
だって、の返事はわかっている。
どちらも友人だから、“友人”のままでいてほしかった。
それは自分のワガママで、訪れてしまった変化に胸が騒ぐ。
ラビは普段を意識して、頭の後ろで手を組んだ。
「オマエはホント、見た目と違うよなぁ」
「どうせエセ紳士ですよ」
「いい意味で言ってんだって。度胸があるっていうかさ」
「……別に、そんな」
「オレだったら無理さなぁ。やっぱ、怖い」
に。
に拒絶されたら自分はどう思うんだろう。何を感じるんだろう。
想像しただけで哀しくなったから、実際にそれを経験したアレンの気持ちは、察するに余りある。
そう考えることもきっと、彼にとっては失礼なんだろうけれど。
「怖かったですよ」
平坦な声でアレンが言った。
ラビは胸を突かれたみたいになって振り返った。
いつの間にかまた隣に来ていた少年は、見るものもなく宙を眺めている。
「たぶん、一生忘れないんじゃないかな。あのときのの顔」
「……………………」
「ラビ。僕は自分の気持ちを伝えたとき、彼女がどんな反応をするか、それなりに考えていたんですよ」
「……まぁ、そりゃあな」
「とりあえず、喜ぶことはないとして」
「悲観的さね……」
「楽観的になれる相手じゃないですから。……“”のことを好きになってしまった僕を、彼女は怒るとか、悲しむとか」
「うん」
「……嫌がるとか。とにかく、そういう反応を予想していたんです」
「違ったんか」
ラビは一瞬訊いてよかったのかと思ったけれど、アレンは口にしたい様子だった。
否、言葉にして吐き出してしまわないと、もうどうしようもなかったのだろう。
笑みの形をした唇に、傷がついていると、ラビはようやく気が付く。
「許せないと怒鳴ればよかったのに。止めてくれと泣けばよかったのに。……彼女の顔に浮かんだのは“恐怖”でした」
アレンがこちらを見た。
微笑みを向けてきた。
あぁ、こんなときでも、オマエは笑うんだな。
笑うことしか、できないんだな。
「“好きだ”と告げた途端、は僕を恐れた。呪いも傷跡も怖がらないくせに、僕の気持ちにだけ怯えてみせた。――――――――――今から僕を拒絶して、傷つけなればいけないと知っていたから」
ラビは何も考えずに手を伸ばして、アレンの後頭部をぐちゃぐちゃに撫でた。
彼は抵抗しない。
笑顔もやめない。
「あんな顔、させたかったわけじゃないのに」
「アレン」
「僕も怖かったんですけど、彼女のほうがひどかったから」
「もういいよ」
「どうしようもなくって」
「もういい」
とにかく黙らせてやりたくて、もっと乱暴に頭を揺すった。
アレンはしばらくされるがままになっていたけれど、「痛い」と呻いてラビから逃れてゆく。
その手首を掴んで引っ張った。
「行くぞ」
「……はい?どこに?」
「の部屋さ」
きっぱり宣言すると、アレンはようやく笑顔を消して、「こいつ頭おかしいんじゃないか」というような視線を送ってきた。
うん、そうさな。ごもっとも。
だけど構うものか。
「ここからだとすぐそこさね」
「いや、行きませんよ。行けませんよ」
「なんで」
「……わざわざ訊きますか?合わせる顔がないからに決まって」
「そんなもん適当に造れ!ポーカーフェイスは得意技だろ!!」
我ながら無茶苦茶を言って、嫌がるアレンを引きずってゆく。
掴んだ手は離さない。
「オマエはが好きなんだろ。それを本人に伝えたんだろ?だったら行くぞ!」
「何で!?」
「今夜アイツの部屋に泊まるっていう、セイを放っておけないからに決まってんだろ!!」
前進しながら叫べば、背中で息を詰める気配がした。
ついでに文句も止まった。
アレンはラビに連行されるかたちで廊下を進んでゆく。
「オマエが告白した理由の大半はそこだろ。だったら絶対阻止さ!」
返事はない。同意は返ってこない。
代わりにため息交じりの呟きが聞こえた。
「何となく、わかってるんですけどね。セイの正体は」
ラビはその意味が理解できなくて、とにかくアレンと一緒に走り出した。
だってこれでがセイと一夜を過ごしたらあんまりではないか。
そういう意味合いでなくても、ひどいではないか。
そんなことを考える自分は、思ったよりもアレンの友達であるらしかった。
今日何度目かわからない吐息をつく。
何だって僕は此処にいるんだろう。
その原因は考えるまでもなく目の前にいるラビで、彼はアレンを逃がさないように拘束したまま、の部屋の扉をノックした。
親しみを込めて3回。コンコン、コンッ。
「「………………………」」
二人して待ちの姿勢で沈黙したけれど室内から返事はない。
アレンは安堵と落胆を交えて肩を落とす。
「留守じゃないですか」
「そんなわけあるか。セイと部屋でくつろぐっつてたんだから、絶対に中にいるはずさ!」
「じゃあ、もう寝てるとか」
「……それとも出てこられない状況とか!?」
ラビは勝手に妄想して青ざめると、すぐさまノックを再開した。
今度は3回なんて生易しいものじゃない。
ドンドン、ガンガン、力の限りで扉板を叩きまくる。
近所迷惑甚だしい。
「!ってば!」
「ラビ、さすがにちょっと」
「出ーてーこーい!!」
「うるさいんじゃ」
「ー!!!!」
ラビが親友の名前を絶叫した、その時だった。
バンッ!と勢いよく扉が内側から開け放たれた。
それがラビの顔面を直撃しそうだったから、アレンが後ろに引っ張って助けてやる。
よろめいた彼は思い切り尻もちをついたけれど、まぁそこは自業自得というか。
「ぎゃあ!」というラビの悲鳴と中国語が重なり合う。
調子から察するに「やかましい」と叱られたようだ。
「……って、あれ?ラビにアレンじゃないですカ」
英語に切り替えて驚いているのは、間違いなくセイだった。
けれどアレンはさり気なくその姿から目を逸らしておく。
ほら、やっぱり。
僕の考えは外れてなかった。
「何の用ですカ?もう夜ですヨ。静かにしてくれないト」
「〜〜〜っつてぇさ!いきなりドア開けんな!そもそも早く出てこないオマエが悪……い……」
痛みに顔をしかめながら怒鳴ったラビだったが、その口調はどんどん勢いを失くしてゆく。
最終的にはぽかんと口を開けて呆気にとられていた。
見開いた翡翠の瞳は、真っ直ぐにセイへと向けられている。
「お風呂の準備をしていたんデス。すぐに出られなかったのは申し訳なかったデスが」
「………………………」
「仕方ないでショウ?それとも裸で出てきたほうガ?西洋ではソレ普通?」
「………………………」
「大体、夜に女性の部屋を訪ねるなんて。良くないですヨ」
「………………………」
「……聞いてマス?」
ラビが反応できないでいるので、セイは困ったようにアレンを見てきた。
昼間までなら「お前が言うな」と返すところだが、今となってはそうはいかない。
その言い分を正しいものとしたとき、アレンやラビと違って、セイには夜だろうとの部屋を訪れる権利があるのだから。
「オマエ……」
ラビが驚きのあまり半笑いになって、セイを指差した。
「―――――――――女?」
「他に何に見えますカ」
どうやら彼……否、彼女は、ラビを失礼な人だと認識したようだった。
少し怒ったように手を当てる腰は見事にくびれている。
お風呂に入ろうとしていたと言っていた通り、今は科学班の白衣を脱ぎ捨て、タンクトップに短パンという軽装だった。
おかげで隠されていた体の線が露わになっている。
高い身長と、精悍な顔立ちのため、男性だと勘違いしてしまったが、その正体は紛れもなく“女性”だった。
「ラビ。謝ったほうがいいですよ」
アレンがうんざりした口調で促す間に、セイは寒いのか腕をさするようにして組んだ。
……意外と胸は大きいようだ。
「え?ええええええ?お、おん、女?オマエ本当に女!?」
「劉星煉」
「は!?」
「私の名前デス。リュウ・セイレン」
「はぁ……」
「セイっていうのは愛称ですヨ」
正式な名を告げたセイは、少しだけ表情を緩めてくれた。
「まぁ、カン違いされてるかもとは思ってましタ。それなりに男装していることデスし」
「何で!どうしてあんなカッコしてるんさ!!」
「呪法デス。陰陽を体に取り込むために、異性の容姿を真似るのは珍しくありませン」
「そんなオマエの常識言われても!!」
「そうですカ?さっき会ったとき、カンダはわかっていたようでしたケド」
確かに、とアレンは思う。
神田がセイに興味を失ったのは、彼女が男装の麗人だと気が付いたからだろう。
普段はそういうことに鈍くても、同じ東洋人だ。一番に察せられるものがあったらしい。
「つまり、わかってなかったのはラビだけってことですよ」
呆れた目で見下ろしてやると、彼は噛みつかんばかりに咆えた。
「オマエだってカン違いしてただろ!?」
「最初だけです。次に二人で話したときには察せられましたよ」
「う、嘘つけ!!」
「本当ですって。僕が女性を見誤るなんてことは有り得ません」
「じゃあ、何で……っ」
そこまで言って、ラビは口を閉じた。
アレンには続きがわかっていた。
だから目を伏せて応えてやる。
「いつもなら最初に顔を合わせたときにわかるんですけどね。今回ばかりは」
が絡んでいたから。
アレンは嫉妬ゆえに、完璧にセイの正体を見誤った。
自嘲の笑みを浮かべる。
「それに……、途中から、性別とかどうでもよくなってしまって」
そう呟く最後はため息に変わる。
あぁもうそろそろ体内の酸素がなくなるんじゃないだろうか。
アレンが馬鹿みたいな心配をしていると、セイはあっさりと断言してくれた。
「それでいいデスよ。私、が好きですカラ」
「……え?」
「性別は関係ありませン。本気デス」
結構な問題発言を口にして、セイはアレンを見つめてきた。
昼間みたいには笑ってくれなかった。
これが本当の彼女なのだろう。
真っ黒な目に射抜かれる。
「肉体的には結ばれなくても、精神的には可能でショウ?私はを愛していマス。アレンと同じようにネ」
「……、セイ」
「でも、彼女が望まないから、何もしないデス。大切にしてあげたいカラ」
「………………………」
「アレンは、違ウ?」
セイは鋭い質問を投げつけておきながら、アレンの服の裾を掴んでくる。
ちらりと室内に視線を投げて困惑気味に囁いた。
「、様子が変デス。ずーっとぼんやりしてマス。……何かあっタ?」
アレンはどう返事をしていいのかわからなくて、それでも黙ったままではいられない。
本当にを好いて心配をしているセイに、沈黙で返すことはどうしてもできなかった。
何とか返事をひねり出そうと唇を動かす。
それが言葉に変わる前に、少女の悲鳴が響き渡った。
「「「!?」」」
アレンとラビとセイは一緒になって飛び上がった。
何故ならそれがの叫びだったからだ。
セイが背後を返り見たから、アレンとラビの目にも室内が映るようになる。
同時に本人がバスルームから転がり出てきた。
「セイ!セイレン!ごめん、ぼけっとしてたらお湯あふれちゃった!!」
半泣きの顔。その姿。
アレンは見てはいけないものを見てしまった気分になった。
髪や服、肌から水を滴らせ、泡をくっつけたまま登場した彼女は、明らかに人前に出てはいけない恰好だったからだ。
濡れて透ける上着に、光る皮膚。
下半身は下着だけだったから、セイが慌てて声をあげた。
中国語で叫んでから英語でも繰り返す。
「!駄目!男の人いるから駄目デス!!」
「へ?」
彼女が金髪を掻き揚げながらこちらを見たので、アレンはばっちり視線を合わせてしまった。
途端、表情が失われる。
そしてが反射的で行ったことといえば、左手首に巻いた包帯を隠すことだった。
アレンはそれを苦々しく思う。
普通さ、そんな恰好なんだから、女の子は肌とか下着を庇うよね。
それなのに、どうして君は、僕が負わせた怪我なんかを気にするんだろう。
「ごめんくだサイ、おととい来やがれデス!!」
セイはかなり怪しい英語を口走って、これ以上の姿を見られまいとするように、猛烈な勢いで扉を閉ざした。
風圧でアレンとラビの髪が束の間浮く。
「「…………………………」」
そして、廊下に残されたものは、何とも微妙な空気のみだった。
「と、とりあえず」
その場を取り繕うかのようにラビが言う。
「セイの正体が確認できただけでもヨシ!……ってことで」
恐る恐る様子を窺うようにしてくるから、アレンは大きなため息をついた。
こんなに繰り返していては本当に酸素が足りない。
苦しいから何とかしてほしい。
そんな、左手首なんか、隠してないでさ。
アレンは細いその感触を思い出して、我知らずにまた吐息を漏らした。
結局、アレンが嫉妬した相手は、セイではなく本人なのかもしれない。
おかしな話ではあるが、あながち的外れでもないだろう。
僕には見せてくれなかった顔を、セイには惜しげもなく披露したのかと思うと、自分でも信じられないくらいに感情が焦げ付いた。
それはきっと“あの子”の一端で、それを許した“”に、激しい憤りを覚えたのだ。
僕に。僕が。僕だけに。そんなことばかりを思う。
きっとこんなんじゃ、これから身が持たない。
だってまだ好きだと自覚する前だったからよかったものの、今後は神田やラビ、リナリーにまで妬くことになるだろう。
……そんな資格、ありはしないのに。
「アレン」
名前を呼ばれて振り返る。
あまりにも鬱々としていたので体でも動かそうと、早朝の鍛練所に向かう途中でのことだった。
「おはようございマス」
にこやかに挨拶をしてきたのはセイだった。
片手を振られるけれどアレンは返事ができない。
目を見張って沈黙した後、ハッと我に返って、慌てて自分を取り戻そうと努める。
「おはようございます。……驚きましたよ、セイ」
「ふふっ、そうデスカ?」
「はい。あまりにもお綺麗だったから」
アレンは英国紳士の対応を取りながら、失礼にならない程度にセイを観察する。
科学班の白衣はそのまま。
けれど中に来ている服が昨日とは大違いだ。
それは黒地に大輪の花が描かれたチャイナドレスで、太もも上まで深く入り込んだスリットからはしなやかな脚がのぞいている。
短い髪は綺麗に後ろに流されていて、むき出しになった耳には房飾りのようなイヤリングが揺れていた。
化粧を施した赤い唇がアレンに微笑みかけてくる。
精悍な造作には今や色気まで含まれていた。
「皆サンにカン違いをさせてしまったようなので、今日はわかりやすい恰好をしてみましタ」
「とてもよくお似合いですよ。一瞬でも男性だと思えただなんて、自分で自分が信じられないくらいです」
アレンは本心を口にしたのだが、セイはお世辞だと受け取ったようだった。
苦笑を浮かべて首を振る。
わずかでも呆れが混ざっているように見えるのは、アレンの被害妄想かもしれなかった。
「駄目ですヨ。君が以外の女性を褒めるなんテ」
「それとこれとは関係が」
「ナイ?本当に?そんなんだからフラれるんですヨ」
アレンは束の間絶句した。
何だか今、笑顔のまま、さらっと毒を吐かれなかったか?
その様子を見てセイは「あぁ、やっぱり告白したんですネ」と、今更ながらに納得したようだった。
首を傾けて続ける。
「好きな女の子にはそれなりの扱いしてあげないといけませン。そうじゃないと特別だと伝わりませんヨ。だって、ホラ、どうせ好きだと言ったら驚かれたでショウ?アレンの態度を見ていると“気付いてほしい”ってそればっかりで、自分からは全然示そうとしていませんもノ」
固まっているアレンに向かって、東洋人の美女が歩いてくる。
高いヒールの音が近づいてくる。
「それってすごく甘えてますよネ?」
何だかついこの間も同じことを言われた気がする。
そう、プシュケだ。
何だってこうも年上の女性ばかりに叱られてるんだろう、僕は。
「男が女の子に甘えていいのは、恋人になってからじゃないト。ねぇ」
セイはアレンの眼前で足を止めると、笑顔のまま瞳をすがめてみせた。
「君はが“好き”。だから、どうしたいんですカ?」
「……、質問の意味がわかりません」
「あぁ、そういう振りはやめてくださイ。私はじゃないから、わかっていて騙されてあげるなんて、そんな優しさは持ち合わせていませン」
豊満な胸の下で腕を組んで、彼女はカツンと踵を鳴らした。
見下ろされている。完全に見下ろされている。
アレンは今ほど自分の身長を悔やんだことはなかった。
「……セイって、そういうこと言う人だったんですね」
彼女の昨日までの……、否、他の人への親切な対応を思い出して、アレンは思わずぼやいたが、当の本人に一蹴された。
「心外デス。私にここまで言わせるなんて、意気地なしのアレンが悪いんでショウ」
「いくじな……っ!?」
「反論があるなら聞きますガ。に告白して、完璧完全に、“そんな風に想われてたなんて!”って反応をされてしまった君に、返す言葉があるんですカ」
「………………………」
「あのネ」
にこやかにケンカ腰だったセイは、ようやく吐息と共に態度を軟化させた。
眉を下げて言う。
「は今、とても困ってマス。君の気持ちは、彼女にとって、本当に予想外だったんですヨ」
「……、それは」
「言っておきますけどは馬鹿じゃありませン。天然でも鈍感でもありませン。……確かに恋に無関心であろうとして、自分に向けられているそれを回避したがってはいまス。でも、それは察せられるものがあってこそでショウ?」
「……彼女は僕と“仲間”でいたかったんですよ」
「そんな言い訳」
アレンの意見をセイは一刀両断しようとして、少し思い直したのか、柔らかい口調で言い改める。
「そうですネ……。きっとにも非はあるんでショウ。無意識に君の気持ちに気付かないよう振る舞っていたのかもしれませン。……それでも君は」
肩に手を置かれたから、アレンは顔をあげた。
彼女の黒い瞳に自分の情けない表情を見る。
「望んでいるのは、じゃナイ。君のほうデス。だったら彼女に甘えていては駄目。もっと」
「優しくしろ、と言うんでしょう」
アレンはセイの忠告を先んじた。
何から何までプシュケと同じことを叱咤されているのだと理解する。
もう自覚だってある。
「僕は逃げていていたんですよ。が受け入れてくれないとわかっていたから、彼女を女性として扱うことを拒んでいた。……そうしたら、拒絶されることもない。“仲間”として傍に居られる」
「……けれど、自覚してしまったんでショウ?」
「ええ。僕が彼女を好きだと認めて、自分の卑怯さに気が付いて。そしてそれを改善できないまま……気持ちを告げてしまった」
それだけだ。
それだけのことだ。
単純でくだらなくて、好きな人を傷つけてしまったというだけの、
「最低な話でしょう」
アレンは自分自身を嘲ると、やんわりとセイの手を振り払った。
「僕がはっきりと告白することで、彼女に気付いてもらおうとも思ってましたけど。勝手に嫉妬して、あんな乱暴な真似で……」
「乱暴?」
「本当、どうして、こんなに優しくできないのかな……」
「……あの左手首?」
「謝りたいんですけど、きっと顔も見たくないだろうし」
「…………………………」
「どうしようかな……」
最後のほうは完全に独り言で、アレンは自分の考えばかりに意識がいっていたから、セイの纏う気配が硬いものになったのに気が付かなかった。
どん底まで落ち込んでいると不意に彼女が動いた。
何故だかアレンの真横に立つ。
不思議に思ったところで名前を呼ばれた。
「アレン」
「?なに……」
顔を向けようとする前に、顎を掴まれた。
そのまま仰向かされたと思った時には唇を塞がれていた。
「…………………………」
またちょっと絶句する。
突然のことに頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
どうして、セイが、僕にキスをしてくるんだろう?
本気で理解できないから、もちろん反応もできなくて、呆然としているうちに解放される。
少し首が痛い。
自分より長身で、しかもヒールを履いた女性に、口付けをされたからだ。
「……セイ?」
何のつもりだと問う代わりに、思い切り眉をひそめてみせる。
彼女はアレンの顎に指をかけたまま微笑んだ。
「西洋の挨拶はこうするんでショウ?」
「……いや、まぁ。普通は頬とかですけど」
「あれ?私、間違えちゃいましたカ?―――――――――ねぇ、」
さらりと肌を撫でて離れてゆく指先。
それを引き戻してゆくセイが口にした名前に、アレンは今度こそ本当に絶句した。
勢いよく振り返ると、角のところに金髪が見える。
少し具合が悪そうだ。顔色が良くなくて、目の下には隈ができていた。
もしかして、僕と同じで、眠れなかったのだろうか?
とにかくは唖然とした様子で、こちらを見つめていた。
そう、今のキスを、見られていた。
「……っつ、セイ!」
非難を込めて彼女を睨みつける。
わざとだ。わざとの目の前で、セイは僕にキスをした。
それもきちんとの視界に入るよう隣に移動してまで。
「どうしてこんなこと!」
「何を怒っているんですカ?言ったでショウ?挨拶ですヨ。間違えたみたいですケド」
「そういう振りはやめてください。僕だって優しくはいられませんよ」
「だっての姿が見えたカラ。私を迎えに来てくれたんですよネ?」
拳を握って怒るアレンにもセイは動じない。
さっさとに近づいて行って、その手を自分の腕に絡めさせた。
彼女はそれで我に返ったように頷く。
「う、うん。バク支部長がもう出発するって……」
「ホラ。だからお別れだと思って、ネ。やり直しまス?正しくはほっぺでしタ?」
横目でアレンを見ながら、セイはの頬に口づけた。
そこにはくっきりとキスマークが残ったので、アレンは慌てて自分の唇を拭った。
案の定手の甲に赤い口紅がつく。
「ごめんなさイ、アレン」
「謝って済むことじゃ……っ」
反射的に言い返して、ハッと口を閉ざす。
けれど、もう遅い。
セイは普段の穏やかな表情を脱ぎ捨てて、氷のように冷たく微笑してみせた。
「何だ、わかっているじゃないですカ。――――――――そう、謝って済む問題じゃなイ」
そうして嫌がるの左手首を持ち上げると、そこに無理やり唇を押し付ける。
赤が残った包帯を取り去れば、きれいに治った白い肌が見えた。
確かめるまでもなく呪術を使ったようだ。
「セイ……!」
抵抗するべきか、感謝するべきか、は戸惑っているようだった。
そんな彼女を抱き寄せながらセイはアレンに笑顔を向ける。
あぁ、嫌だな。
セイの笑みは本当に、僕のものとよく似ている。
「アレン」
優しく名前を口にして、セイは中国語で何事かを告げてきた。
結構な長さを一息に口にする。
当然アレンにはその意味が理解できない。
ただ、彼女の腕の中でだけが非常に驚いた素振りを見せていた。
「さて。私は今、何と言ったでショウ?」
セイは自身の唇に指を当てると、その手を軽く振って身を翻した。
もちろん、の肩を抱いて。
「答えはに。……彼女に訊く勇気があるのなら、ですケド」
最後にもうひとつ氷片を投げつけて、黒髪の美女は去っていった。
アレンの前から金髪の少女を攫っていった。
とんでもない置き土産を残して。
「……っつ、あの!」
適当な罵り言葉が出てこなくて、アレンは続きに詰まった。
くそっ、僕が女性でけなせるのはだけなんだよ!
どうしようもないから唇をこする。
元から切れていて痛みがあるけれど、構わず何度も何度も繰り返した。
「やっぱり、あの人はライバルだ……っ」
改めてそう認識して、アレンはもう一度口唇を拭った。
痛い。
セイの正体発覚。実は女の子でした〜っていうお決まり!
ちなみに彼女は百合属性なわけではなく、今のところ一番好きな他人がヒロインってだけです。
今後の出番は考え中。
個人的には結構好きなんですけど、どう考えてもアレンとの相性が良くないので。(笑)出しにくそう。
次回はほぼヒロイン視点です。
今回の件をどう思っているのか、お楽しみいただければ幸いです。
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