好きで好きでどうしようもなくて、
こんな渇きを覚えるくらい君に飢えている。
僕は空腹なんだ。
● サロメの死因 EPISODE 3 ●
「セイは」
カップを持ち上げながらが口を開いた。
名前を呼ばれた少年自身はもうこの場にいない。
バクに乞われて仕事の手伝いに行ってしまったのだ。
去り際、名残惜しそうにと手を握り合っていたことが、アレンの網膜にやたらと焼きついている。
「いい子でしょ?」
何となくアレンはラビと様子を窺いあった。
どういう返しをしたらいいのか判断がつかなかったのである。
ちなみに神田は何の参考にもならないので、一切視線を向けてやらなかった。
「何その反応」
「いえ、別に……」
「イイ奴だとは思うけどさぁ」
「気に食わねぇな」
ずばりと言い切ったのは神田で、特に隠す様子もなく不機嫌を顔に出す。
まぁ彼にかかれば大抵の人間は駄目だろうけれど、それ以上に思いを込めて『六幻』の柄を握り締めた。
「あいつはやめておけ、」
「どうして?アレンと同じ敬語キャラだから?」
「そんな理由!?僕に喧嘩売ってるんですか神田」
「大丈夫、母国語で話すときは普通の口調だよ。全然被ってないよ」
「いろんな意味でそういう話じゃないさ、オマエら」
無駄に剣呑な雰囲気を発生させたものだから、ラビが冷や汗をかきつつストップをかけてきた。
それでもは拳を握って力説する。
表情が真面目すぎて何だかアレだ。
「とにかくセイはいい子なんだって。私が保証する」
「テメェに保証されてもな」
「説得力まるでありませんね」
「そもそもオマエの言うイイ子ってどんなんさ」
「そんなの決まってるじゃない。私に対して優しさに溢れまくってる人!」
「定義から間違ってるじゃねぇか!」
「、それは“いい人”じゃありません。“都合のいい人”です」
「話になんねぇさー」
「いや、私も最初は全力で疑ったんだけどさ!」
「疑ったのかよ」
「敬語キャラだからですか?僕と同じ敬語キャラだからですか?」
「アレン、根に持つなって……」
「だけどあの優しげな笑顔!穏やかな物腰!思い出してみてよ、アレンにぶち壊された私の“理想の紳士”そのものじゃない!!」
「「「そこかよ」」」
言うに事欠いて!とアレンどころか神田やラビまで突っ込みを入れたけれど、彼女は華麗にスルーした。
浸るように遠い目をする。
「英国人じゃないけれど、そんなのは些細な問題よね。セイはまさにパーフェクト!我が教団が誇るパーフェクト・ジェントルマンよ!!」
朱に染めた頬に手をやるを眺める。
まぁたぶんいつものノリで話しているだけで、実際問題アレンをけなしているわけではないだろうから、別段傷つきはしない。
けれど、比較対象がセイだということが引っかかった。
おかしい。
の態度は断然おかしい。
否、好意を寄せてくる男への扱いが、セイだけ例外になっているのが、気になって仕方がないのだ。
「残念ながら教団の紳士代表はこの僕ですよ。そこを譲る気はありません」
結構悔しかったから鼻を鳴らしてやったら、は半眼で頬杖をついた。
口元だけの笑みを浮かべてみせる。
「あぁ、うん。私だってアレンのことは認めてるよ?」
「絶対そう思ってない顔してますが」
「いやいや、本当にアレンはすごいよ完敗だよ。あんたのその演技力は素晴らしいよ。二重人格バンザイだよ」
「褒められてない」
「アカデミー賞だってもらえちゃうよ、とりあえず受賞オメデトウ!」
無駄に拍手を送られたのでイラッとする。
素直な気持ちで頬をつねってやったら「違うんだよ!」と叫ばれた。
何がだ、この馬鹿。
「違う、違うの、そうじゃないんだよ!紳士は紳士でも、アレンは違うんだよ!」
「意味がわかりません」
「何て言うかもっと、こう……ロマン?そう、ロマンにあふれてなきゃ駄目なんだよ!」
ますます理解不能で思い切り怪訝な顔をしてしまう。
は痛みで涙目になったまま、大きく腕を広げ、もう一方の手を胸に置いてみせた。
「私の理想の紳士はね……黒い燕尾服に身を包み、祖父の形見の懐中時計を片手に、愛読書であるゲーテの詩集に目を落しているような」
「君読んだことあるの、それ」
アレンはずばりと訊いてみたけれど、は応えずまだまだ続けた。
「哀愁を帯びた横顔、とろけるような笑みに優しい囁き、毎日バラ園でアフタヌーンティーを楽しみ、舞い散る花びらに初恋の人の幻影を見て、不意に切なくなるような――――――そんな紳士が理想なのよ!これこそ私の思い描いていた英国紳士なのよ!!」
「ムダに具体的さねー」
「誰だこのアホ女にそんな妄想抱かせたの」
「どう?アレン。私の憧れがわかった?」
「わかりません。全然わかりません。むしろわかりたくありません」
「つまり乙女のロマンだよ!」
「何がつまりなんですか頭悪いんですか」
「まぁそんな理想とは多少違うけれど、セイは本当に“紳士的”な人なわけなのよ」
急に話を元に戻して、は浮かしていた腰を落ち着けた。
陶磁器のカップを取ってお茶を一口。
セイが用意したそれには見事な桃が描かれている。
東洋の花らしいけれど、その華やかさはによく似ていた。
「別に燕尾服も着ていないし、懐中時計もゲーテの詩集も持っていないけれど。言い表すならやっぱり“紳士的”だと思うのよね。……あの子は、優しいの。見ているこちらが心配になってしまうくらい」
熱が伝わりやすいのか、掌を温めるようにして、彼女はカップを両手で包んだ。
「雨が降っていたら傘を差し出してくれるし、寒いと言わなくても上着を貸してくれる。可愛い花が咲いていたら“君みたいだね”って笑って、寂しいなって思ったら黙って傍に来てくれる。……私みたいなのが相手でもね」
さらりと付け足された言葉に、アレンは何も返せなかった。
神田とラビも無言のままだ。
が慰めを欲しているとは思えなかったし、だからこそ彼女はセイの言動に感じ入っているのだろうと悟る。
「たぶん、あの子は察しがいいんだと思う。口にしなくても全部わかってしまうの。……私は」
そこで彼女はちょっとだけ、切なげに微笑んだ。
「私は、セイみたいに他人にうまくしてあげられないし、素直にねだることも苦手だから。セイを見ていると羨ましくなる。嬉しくなる。……素敵だなぁ、って思う」
は恥ずかしくなったのか、淡く頬を染めて俯いた。
伏せられた睫毛が震える。
ため息のように唇からこぼれ落した。
「好きだな……って思う」
アレンは目が逸らせなかった。
瞬きすら忘れる。
女の子、というのは。
とても不思議なものだと前々から思っていた。
想いひとつで色が変わる。輝きが増す。まるで別の人間みたいに笑って、泣いて、“好き”だと言う。
見ている分には心が和んだし、自分に向けてくれたのなら、何だか申し訳なく思うほどだった。
女の子はなにで出来ているの?砂糖とスパイス、そして素敵な何か。
マザーグースの一説であるこれをアレンが解釈するのなら、最後の素敵な“何か”とは、恋心に他ならない。
けれど、は。
彼女は違うと思っていた。
“女の子”に当てはまらないと決め付けていた。
が好きなくせに、異性として意識されたいのに、彼女は決してそんなものを抱かないと妄信していたのだ。
ましてや、自分以外の男を相手に……。
「私も、あの子みたいになりたい」
そう言ってははにかむ。
硬直したままのアレンの横で、ラビは深いため息をつき、神田はふと顔をあげた。
「おい。まさか、あいつ」
「うん?なに、神田」
「どうしたんさ、ユウ」
「……なるほどな」
神田は一人で納得したような素振りを見せると、さっさと立ち上がって踵を返した。
ラビが驚いて引き止めるけど無視だ。
口の中でぶつぶつ言う。
「どうりで変だと思ったぜ……」
「おい、ユウ!アイツのこと放置する気さ!?」
「……あぁ?そうだな、俺には関係ないからな」
「ユウパパらしからぬ返答!急にどうしたっていうんさ」
「別に。元々バカ女が誰と付き合おうと興味ねぇよ」
追いすがるラビにすげなく返す神田は、本当にセイに対する関心を失ったようだった。
それを不思議に思うことも、原因を推測することも、今のアレンには難しかった。
いまだに黙り込んでいる自分を一瞥して、神田は食堂から去ってゆく。
「恋は盲目、とはよく言ったものだな」
その呟きが彼なりの忠告だったことを、アレンは後に知ることになる。
“好き”だと囁いたの顔が、どうやったって消えない。
完全にアレンの意識を捕らえている。
おかげで額に痛みを感じてからようやく気がついた。
廊下を真っ直ぐ歩いていたはずなのに、物思いに耽りすぎて、壁に激突してしまったみたいだ。
「いたい……」
打ち付けたおでこもだし、今の自分の状態もだ。
あぁ、頭がガンガンする。
「大丈夫デスか?」
不意に横合いから声を掛けられて驚いた。
跳ねるようにして壁から離れると、すぐそこにセイが立っていた。
アレンは内心ぎくりとする。
本人には申し訳ないが、一番見たくない顔だったりする。
「あぁ、おでこが赤くなってマス。ちょっと待ってテ」
セイはアレンの状態を確認すると、素早く駆けていって戻ってきた。
この間約30秒。
恐るべき手際の良さである。
「ハイ、これで冷やしてくださイ」
セイは笑顔と共に水で濡らしたハンカチを差し出してきた。
アレンが黙ったまま動かないでいると、少し首を傾げながらも、押し付けがましくない手つきで額に当ててくれる。
ひんやりとした感覚が気持ちいい。
その向こうにある優しい指先が痛い。
「す、すみません」
アレンはようやくハンカチを受け取って、自分で痛む箇所を押さえた。
セイが心配そうに覗き込んでくる。
「どうしたんですカ?何で壁に向っていったんですカ?」
「いえ、あの」
「もしかして壁抜けの技ですカ?失敗ですカ?」
「は?え、えーっと……」
「アレンは忍者でしたカ……。日本人じゃないのにすごいデス!きっとカンダに教えてもらったんですネ」
「………………………」
「大丈夫!私は口固い!アレンの正体は絶対に言いませン!!」
勝手に解釈して勝手に納得したセイは、力強く頷いたあと声を潜めて笑った。
「もちろん、技の失敗もネ」
唇の前で人差し指を立てる仕草が可愛らしい。
顔立ちは精悍と言っていいほどなのに、彼は動きや表情が細やかなのだ。
確かにこれは対女性で考えると、“紳士的”と呼べるかもしれなかった。
「……ちょっと、余所見をしていただけです」
「ふふっ、そうですネ。そういうことにしておきまショウ」
どこまで本気なんだろうと、アレンは考えた。
彼は少しばかりずれた言動をするときがあるけれど、それが天然なのか計算なのかわからない。
どちらにしても気遣い上手なのは間違いないようだ。
……の言う通りに。
「……セイは、どうしてこんなところに?」
「バクさんに頼まれた仕事が終わったので、のところに戻ろうと思っテ」
「………………………」
「あぁでも、あの子も忙しいデスカ?邪魔しないほうがイイ?」
「……、そう、ですね」
「うーん。じゃあ、本部科学班の見学にでも行こうかと思いマス。私はまだ見習い。お勉強しないト」
「でしたら、僕が案内しますよ」
一緒にいたいわけではなかったのに、話の流れでそう進言すると、セイは感謝に顔を輝かせた。
その素直な態度が今のアレンには眩しい。
「ありがとうございマス!嬉しいデス!」
「どういたしまして」
アレンは何とかいつもの笑顔を取り戻すと、セイと並んで歩き出した。
彼は元来人好きのする性格らしい。
会ったばかりの自分に対しても、無作法にならない程度に親しげに接してくる。
暖かい手で軽く肩を叩かれた。
「アレンはいい人デス。は意地悪だって言っていたのに、全然そんなことないデス」
「そんなこと言ったんですか、あの馬鹿」
「きっと素敵なお友達だから、紹介するのに照れてしまったんですネ」
「そうですかね。本心な気もしますが」
「アレンも恥ずかしいデスか?のこと好きでショウ?」
いきなり核心を突かれた気がしたけれど、セイの口調からは判断できない。
ちょっと掴みにくい人だなと思う。
元よりアレンは自分のペースを崩してくる相手が苦手だ。
師匠はもちろん、知り合ったばかりの頃のもそうだった。
「好きじゃありません」
わからないから断言しておく。
セイが現れてからアレンは苛々していて、それを本人にもにもぶつけるわけにはいかないから、ついこんなところに出してしまう。
荒っぽい口調で一気に吐き捨てた。
「だってって厄介な人じゃないですか」
「ウン?」
「君は思ってもみないかもしれませんが、あの人は欠点だらけなんですよ。自分勝手で、力任せで、我がままで、いい加減で、独断先行で、向こう見ずで、意地っ張りで、分からず屋で、格好つけで、頭が悪くて。どうしようもない。本当に手がつけられません」
「ウーン……」
セイは何か考えるような様子を見せたけれど、アレンは構わず言葉を継いだ。
どうしてだか止まらなかった。
「仲間内ではひどく甘ったれのくせに、絶対に弱音は吐かないし。わかってやらなきゃ拗ねるくせに、認められるのは拒絶するし。無茶無謀だし、怪我ばかりだし、誰にも頼らないし、助けを求めてこないし、どこまで他人に心配かければ気が済むんでしょうね、あの馬鹿は」
「アレンは」
「……本当に、なんで、あんなばか」
「が好きなんですネ」
今度は、わかった。
だからアレンは足を止めた。
先に行き過ぎてしまったセイが振り返ってくる。
黒い瞳は夜のようでもインクのようでもなく、まるで底なしの穴みたいだった。
深みに捕らわれそうで恐ろしくなる。
ぽっかり空いた双眸で、セイはアレンを見つめてくる。
「君は、彼女が、好きなんでショウ」
「…………………………」
「私と一緒デス。私もが好きデス」
「……っつ」
「お揃いですネ」
にこにこと笑うセイが急に不気味に思えて、アレンは半歩後ずさった。
逃げる気はないのに体がそう反応した。
だって意味がわからない。
「どうして笑うんですか」
アレン自身、強張った顔で問う。
「僕なら、笑えない。自分と同じ女性を想っている人の前では……笑えません」
「なぜデス?私たちは気持ちを共有できるんデス。嬉しいことではないですカ」
「共有……?」
「も、私たちが好きデス。二人ともを大切にしてくれていマス」
「………………………」
「好きな人に愛されて、それをわかち合えるなんて。素敵なことでショウ?」
あまりに幸福に満ちた笑顔で告げられたから、アレンは自分のほうがおかしいのかと疑った。
汚くて、醜くて、幼稚なのだと思い知った。
それでも口にせずにはいられない。
「僕は嫌です」
「……エ?」
「誰かと同じは嫌だ。僕だけがいい。……僕だけが彼女を所有したい」
「……アレン」
「誰にも渡したくない。譲りたくない。独占していたい」
「……………………」
「だから、僕は、君みたいには笑えない。―――――――――ごめんなさい」
最後の謝罪はさすがに後ろめたくて、思わず顔を俯けてしまった。
そんなアレンにセイは微笑んだ。
まるで笑えないと言われた分まで引き受けるみたいに、にっこりと満面の笑みを浮かべてみせた。
「アレンは変なことを言いますネ」
「……、どういう意味ですか」
「だって、は、誰のものにもなりませんヨ」
あぁこの人は、本当にが好きなんだな。
何故だか急に確信して、アレンはひどく悲しくなった。
セイの笑顔は仮面だ。
自分の造るそれと同じだ。
今は、今だけは、そうやって己とアレンを騙そうとしている。
「彼女は誰にも所有されなイ。心を渡さなイ。涙を見せなイ。想いを語らなイ。……愛を受け入れなイ」
「そう……ですね」
「だから気持ちは返ってこなイ。……アレンがどれだけを好きでも、はアレンひとりを見つめることはできないんデス」
「……知っています」
「だったら、私のように思わなくてハ。“”の根底を揺るがすような存在を、彼女が作るはずはなイ」
「………………………」
「大丈夫デス。あの子は君が好きデス。として愛していマス。―――――――――“みんな”と同じように、ネ」
それで納得しろ、と。
満足して、喜ぶべきだと。
セイは空洞みたいな眼で語った。
彼の表情も口調も、その双眸も、空々しくて仕方がない。
そこにあるのはあまりに深い“諦め”だった。
「セイは、それでいいんですか」
が好きで、愛しているくせに、彼女の一番になりたいとは思わないのか。
半ば愕然としてアレンが問いかけると、セイは綺麗に唇を歪ませた。
その原因が憐憫だと、どうしてわかってしまったのだろう。
「だって必要ないでショウ?」
セイは一人で歩き出した。
続きが聞きたかったからアレンも後を追った。
案内すると言ったのに、先行するのは来訪者のほうで、本部の人間としては立つ瀬がない。
どうやらセイは科学班の研究室の位置を知っていたようだった。
迷いのない足取りで進む彼の口調は、やはり揺らぐことのなく明快である。
「彼女がつがいを欲するとすれば、それは不自然な話デス」
「不自然?」
「君にはわかりませんカ?はイノセンスとは別の能力を持っていル」
アレンははっと息を呑んだ。
セイはの浄霊の能力を知っている?
「本人から聞いたわけではありませン。それでも私にはわかりマス。私は
道士。彼女は同類。わざわざ打ち明けられなくても察することができマス」
「……も、君と同じ霊能者だと?」
「うーん。ちょっと語弊がありますネ。私たちは霊能者ではないデス、が……うまく説明できませン。扱うものがゴーストではなくスピリットだといえばわかりますカ」
「な、何となく?」
「まぁ専門的な話はいいでショウ。重要なのは陰陽デス。これはわかりマス?」
その単語を聞いて脳裏に浮かんだのは、黒と白の湾曲した玉が組み合わさって、ひとつの円となった図柄だった。
目にしたのはどこだろう?
神田の部屋か?それともアジア区支部?
とにかく東洋に伝わる万物の分類思想だ。
「森羅万象、この世の全ては陰と陽に分かれマス。男性は陽。女性は陰。ゆえに異性を求めることは、完全なかたちになるために必要な感情なのデス」
アレンの頭の中にいくつもの疑問符が踊る。
つまり、何だ?
セイは恋の理由も陰陽が関係すると言いたいのか?
あまりに別世界の解釈すぎてついていけない気がする。
冷や汗をかくアレンは、それでも話の続きを聞いて、大きく目を見張ることになった。
「は女性。陰に属すル。本来ならば陽である男性を求めマス。けれど、彼女にはその必要がないんですヨ」
「え……?」
「彼女の能力が、それを補っているんデス」
セイはくすりと声に出さずに笑った。
「アレンのために、西洋風に言いましょうカ。イノセンスは“聖”の能力」
前進しながら右手が横に掲げられる。
続いて左手。
「が持って生まれたのは、“魔”の能力」
そして両手がぎゅっと組み合わされる。
「本来ひとつの属性しか持てない人間の器に、彼女は“両方”を宿しているのデス。聖と魔。陰と陽。……アレン、はね」
辿り着いた科学班の研究室、その扉の前でセイは振り返った。
胸の前で結ばれた指は、まるで神に祈るかのようだった。
「ひとりで完全なんデス。他なんていらないんデス。とても自然で、稀有で、素晴らしい存在。―――――――私たちが手に入れられる相手じゃナイ」
陶酔したかのようなセイの笑顔に、アレンはうっすらと寒気を覚える。
「だから、私はを所有したいだなんて思わなイ。彼女が私を欲することもナイ。だってそんな必要はないのだカラ。完全なる存在である彼女が、私を好きでいてくれるだけで、とても幸せなんデス」
何と。
何と返せばいいのか、アレンにはわからなかった。
セイはを愛する者である前に、彼女の持つ力に憧れる
道士なのだと知る。
そのことがいいか悪いかは、アレンの断じるところではない。
もしかしたら、能力があれば誰もがそう思うのかもしれない。
それだけは特別な存在であったということへの衝撃。
そして恋心さえも超越しかねないセイの想いに立ち眩む。
アレンが何も言えないでいると、彼はゆっくり手を解いた。
「不自然」
見つめてくる黒い瞳は、すでに諦めの虚無ではなく、疑惑に満ちて静かに光った。
「アレンも、不自然」
「……え?」
「君もひとりで陰陽を併せ持っていマス。イノセンスと、もうひとつ」
「もうひとつ……?」
「君の中に在る……いや、“居ル”」
悪寒はいまや本物になって、アレンはざわりと鳥肌を立てた。
セイの指先が強く胸を押す。
「聖を宿して、魔を飼っていル……。完全なはずなのに歪でいル……」
「なにを……」
「おかしな人」
セイは不意にアレンから離れると、何の他意もなく微笑んでみせた。
「に君を求める理由がないのと同じように、君だって彼女を欲する“必要”がありまセン。それでも、好き?」
穏やかなはずの口調が、まるで責め立てるように、鼓膜へと流れ込んでくる。
「本当に?」
笑顔。
綺麗に弧を描く唇。
一切揺らがない漆黒の双眸は、アレンが知る由もない、“”の全てを見つめている。
セイの問いかけが神経に障って脳を灼き、心臓へと突き刺さった。
ほ ん と う に ?
「あれ?」
唐突に聞こえてきた呟きに、アレンの意識は引き戻された。
目を向けてみるとセイの背後にが立っている。
どうやら科学班の研究室から出てきたところのようだ。両手には大量の書物と資料。
「こんなところでどうしたの、セイ」
「!奇遇ですネ、会えて嬉しイ」
「うん、私も……」
にこやかに応えたは、そこでアレンの存在に気が付いたようだった。
ちょっと驚いた顔になってセイと交互に見やる。
「なんだ、もう仲良くなったのね」
「ハイ。アレンはいい人デス」
「うわぁ見事に騙されちゃって」
「ここまで案内してくれたんですヨ」
「まさか!だってアレンだよ?」
「どういうことデス?」
「あのね、あれは迷子のプロなの。いまだに教団内で自室を見失える困ったちゃんなの。それが道案内なんて無理むり」
がからかうような調子で言ってきたけれど、アレンはどうにも返事をすることができなかった。
それよりも重要なことがあった。
心の内で何回も確かめる。
本当に?ほんとうに?ホントウニ?
幾重にも連ねて感情を探ってゆく。
まるで自分の胸中に頭から堕ちてゆくみたいだ。
「アレン?」
反論がないからか、が訝しげに呼んだ。
こちらへと一歩踏み出そうとする彼女をセイが引き止める。
微笑みながらその華奢な手に触れた。
「待って。それ、重そうデス」
「え?あぁ、うん。でも書庫室まで運ばないといけなくて」
「いけない。女の子がする仕事じゃないデス」
「大丈夫よ」
「駄目デス。貸してくだサイ」
やんわりとした語調の割には譲ろうとしない。
セイは本人の断りも聞かずに、の抱える荷物を受け取ろうとして、思い切り空ぶった。
何故ならもっと強引にアレンが彼女を引き寄せたからだ。
可愛くない悲鳴が聞こえたけれど黙殺して、無理やりに書物を奪い取る。
横目で睨みを飛ばしてやった。
「まったく。お客さんに手伝わせようなんて、君には礼儀がありませんね」
「突然襟首を掴んでくる人に言われたくないなぁそれ!」
「自業自得じゃないですか」
「何がどうなって!?」
「自分で考えれば。……ばか」
最後は小声で言い捨てると、アレンはセイを見た。
真正面から見据えた。
彼は相変わらず笑顔のままだ。
「それが、答えですカ?」
頷くまでもない。
アレンはセイと鏡合わせのように、まったく同じ表情を浮かべてみせた。
「残念ながら、不完全な人間なもので」
僕は君ほど割り切れない。達観できない。現状に、満足などできない。
完全なんかにはほど遠い。
それは仮にを手に入れられたとしても解消されない問題に思えた。
つまり、根本的に、アレンが彼女を求める理由は、セイとは違っているのだろう。
「ほら、行くよ。」
「ちょ、待っ、アレン!」
勝手に歩き出せば、が慌てて追ってきた。
背後の少年に言う。
「ごめんね、セイ。また後で!」
何となくアレンも後ろを返り見れば、黒髪の彼は手を振っていた。
その顔に貼りついた笑みの正体は何だろう。
憐み?呆れ?それとも優越?
何でもいい、とアレンは思った。
どうせお返しの感情は嫉妬だけだと決まっている。
何たって僕は、欠陥だらけの恋をしているのだから。
「もう、せっかくセイが手伝ってくれるって言ったのに」
隣のが半眼で睨みつけてくるから、アレンはしかめっ面で目を閉じた。
うるさい。あぁうるさい。
「あれじゃあ、何だか突き放したみたいじゃない」
「………………………」
「あの子のことだから気にしてないと思うけど。あとでフォローしておいたほうがいいかもね」
「………………………」
「大体あんな態度、らしくない……って聞いてる?」
「聞きたくない」
本気で鬱陶しかったのでついきつい口調になってしまう。
おかげでは一瞬黙ったけれど、さすがの立ち直りの早さで反撃してくる。
「ほんと、アレンらしくない」
「うるさいな。そもそも僕らしいって何」
「言わせる気?延々切々と語ってもいいわけ?悪口を」
「悪口限定!?」
「要求したのはそっちでしょ。一から十まで聞いてもらうからね」
「絶対に嫌だ。断固お断りです!」
不満そうなに、もっと不満を込めた顔で舌を出しておく。
足を速めてずんずん前に進んでいったら、後頭部に呆れた声を投げかけられた。
「アレン、そっちじゃない。こっちの書庫室よ」
「………………………」
アレンは無言で踵を返してのところまで戻った。
結局ふたりは肩を並べて歩き出す。
当然のように険悪な雰囲気の会話も再開される。
「一体何なの、アレンくんは」
「何って何だよ」
「怒ってるでしょ」
「別に」
「そんな返事は反抗期の少年かコミュニケーション障害かユウちゃん以外からは受け付けません」
「……何か神田優遇されてない?」
「え?なに?アレン、神田と同等がいいの?」
「………………嫌かも」
話が逸れた。
しかもものすごくどうでもいい方向に逸れた。
アレンは大きく咳払いをして、話題に軌道修正をかける。
「とにかく!僕は怒ってません」
「アレンー」
「何ですか語尾伸ばさないでくれますか馬鹿っぽい」
「セイのこと、嫌い?」
アレンは反射的にを見た。
彼女は少しだけ顔を俯けていた。
自分の抱えている書物の表紙を何気なしに眺めている。
ちょっとだけ下げられた眉は、困っているようにも残念がっているようにも見えた。
「友達になってくれればいいなぁ、と思ったんだけど」
「……………………」
「余計なお世話だったみたい。ごめんね」
「……なんで」
「え?」
「どうしてそんなにセイのことを気に掛けるの」
固い声になり過ぎないようにして、アレンはに問いかけた。
彼女は顔をあげて見つめてくる。数秒の無言の時。
金色の瞳が力を抜くようにして微笑んだ。
「だって歳が近いし」
「アジア区支部にだっているだろう。李圭とか、シィフとか、蝋花さんとか」
「まぁ、そうだけど」
「何か他にも理由があるの」
セイを、セイだけを、特別扱いするわけが。
「……お金が」
「はい?」
「お金が欲しいのよ、セイは」
唐突に話が飛んだ気がして、アレンはまじまじとの横顔を見つめた。
けれどそこにふざけた色はない。
わずかに微笑したまま、そっと睫毛を伏せる。
「あの子は家の跡取りだから」
「あぁ、
道士の……」
「本当はね、セイじゃなかったの。次期当主にはお兄さんがなるはずだった。その人が駄目でも、他に兄姉はたくさんいたから」
「え?じゃあ、どうしてセイが?」
アレンは何も考えずに聞き返して、馬鹿なことをしたと自分を呪った。
の顔が哀しみに翳ったからだ。
彼女はこちらを責めるでもなく淡々と続ける。
「亡くなったのよ」
「―――――――――」
「全員アクマに殺害された。お父さんもお母さんも、お兄さんもお姉さんも、弟さんも妹さんも。果ては祖父母や叔父夫婦、従妹まで」
「……一族全員?」
「そう。セイは
道士・劉家の唯一の生き残り。……だから、お金が欲しいのよ。一族再興のためにね」
の足がカーブを描いて角を曲がる。
アレンは一拍遅れてそれを追った。
「実際は、お金があったってどうにかなる問題じゃないの。すでに血は途絶えかけている。それでもセイは、壊された道場を立て直して、家族の廟を築きたいそうよ。自分が
道士であるために。その居場所を取り戻すために」
嬉々として呪符を売りつけようとしてきたセイの顔が蘇る。
あぁ、あの笑みの下にはおびただしい血が流れていたのだ。
彼はそれをすべて引き被って、必死に
道士であろうとしている。
家族のために。己自身のために。
そんな彼が能力を持つを求めるのは、ある意味当然のことなのかもしれなかった。
「……私、助けられなかったの」
は書庫室の扉に手をかけた。
軋む番。軋む鼓動。
悲しすぎる双眸。
「アクマの襲撃を察知していたのに、救援に間に合わなかった。怪我を負った体が、どうしても動いてくれなかった。……私とセイの目の前で、一番小さな妹さんは殺されてしまった」
書庫室の中はやけに薄暗かった。
まだ昼間だというのにおかしな話だ。
が明かりもつけずに中に入っていったから、アレンは壁を探ってスイッチを押した。
点灯した照明が眩しくて瞳をすがめる。
明滅した視界に、小さすぎる死体が映った気がした。
「涙、が」
本棚に沿ってが歩いてゆく。
揺れる金髪。揺れる声音。
ぴたりと足を止めて呟く。
「涙が出そうだった。泣いてしまいたかった。けれど、私は自分にそれを許せない。……セイがいるんだもの。なおさらよ」
入口のあたりで立ち尽くしていたアレンをが見やって苦笑した。
手招きをされたから近づいてゆく。
一緒になって書物を本棚に戻してゆく。
「罵って、蔑んで、許せないと言ってほしかった。お前のせいで家族は死んだのだと、殺すほどに責めてほしかった。……けれど、セイは」
かたん、と本の角が仕切り板にあたる。
はそれをどこかぼんやりとした目で捕らえていた。
「セイは、笑ってくれたの。ぼろぼろと涙をこぼしながら、悲しみに全身を震わせながら、私の手を握って微笑んでくれたの。“ありがとう”って」
書物から指先を離して、彼女は自分の掌を見下ろす。
かすかな戦慄きを隠すようにぎゅっと拳を固めた。
「“助けてくれてありがとう。君のおかげで自分は生きている。この命だけは繋がっている。まだ……”」
「………………………」
「“まだ、死んでいった家族に報いることができる”」
「……セイが」
「そう、セイが。……あの子は生命の意味を知っている人だった」
は握りしめた手を解くと、アレンの抱える書物の山から一冊取り上げる。
そのとき目が合ったから笑ってくれた。
哀しくて、切なくて、優しい笑みだった。
「あの子はね、私のことを命の恩人だと思っているのよ。けれど、本当は違う。―――――――救われたのは私のほう」
それは、愛情に溢れた笑顔だった。
「きっと私は、セイのおかげで、すべてを失ったとき……絶望に屈せず微笑む勇気を持てる。夢でも幻でも、勝手な理想でもなく、それを成し遂げた人を知っているから」
アレンは硬直する。を見つめたまま。その表情に釘付けになったまま。
「あの子の笑顔は忘れない。一生胸にしまって持って行く。……そして、この命が終わるとき、私も同じように」
そんな微笑みで?
「セイと一緒に、笑っていたいと思うのよ」
あぁ、と思う。
生きている間も、死んでゆくときも、セイはの心に寄り添っている。
勇気の源となって笑顔を贈る。
時間も場所も飛び越えて、二人は共にあろうとしている。
(セイ、と?)
そう認識した途端、アレンの体の奥で黒が翻った。
冷たい。いいや、熱い。
炎だ。
「だからね、セイは本当に大切な子で」
幸せそうに語るの横顔が漆黒に染まってゆく。
あまりの感情の強さに視界が狭まっているのだ。
眩暈と吐き気に苛まれて、アレンは何もかもがどうでもよくなった。
「幸せでいてほしいから」
今僕は辛いのだろうか、苦しいのだろうか。
もしかしたら感知できる次元を超えてしまったのかもしれない。アレンにはもうわからない。
ただ一つ確かなことは、全身を焦がすこの感情の醜悪さだけだ。
「アレンたちとも楽しく過ごせたらいいなぁ、って」
思ったの、と続いた言葉は掻き消された。
がびっくりした様子でこちらを見てくる。
気が付くとアレンの足元には、抱えていたはずの書物がすべて転がっていて、辺りを埋めてしまっていた。
「アレン、本が」
「僕は」
「え?」
床に向けられていたの顔が、低く呻いた自分の声に引き上げられる。
「僕は?」
セイが君と共にあるのだとしたら、僕は一体どこにいる?
どこへ行けばいい?
“”も“あの子”も愛しているのに、君は僕を連れて行ってはくれないだろう。
捨てられる。置き去りにされる。
「お前なんていらないよ」
あぁ、誰に言われたんだっけ?
アレンなんていらないよ。
い ら な い よ。
嫉妬に灼かれた網膜が幻覚を見せた。
不思議そうに名前を呼んだはずのの唇が、そう動いたように錯覚してしまった。
「アレン?」
オマエナンテ。
笑う。嗤う。僕の中の道化。セイが見抜いた歪みの正体。
オ マ エ ナ ン テ 、イ ラ ナ イ ヨ 。
「――――――、っつ」
耐えきれなくなっての肩を掴んだ。
彼女は一切動かなかった。
身を乗り出したのはアレンのほうだ。
そして唇同士が触れ合ってからも、は微動だにしなかった。
二人の間に書物が積もってゆく。
が腕から一冊残らず床へと落ちてゆく。
その落下音がおさまって、もうしばらく経ってから、アレンは彼女から唇を離した。
「………………………」
は無言だった。
双眸を見開いてこちらを見ていた。
何だか犬に噛みつかれて、痛いくせに、突然のことに反応できない子供みたいな顔をしていた。
「なに」
ゆっくりと瞬きながら呟く。
「何?」
は呆然としたまま身を引いた。
「アレン、何を……」
「わからない?」
苛立つ。
舌打ちでもしたくなる。
キスをしてもまだ訳がわからないという顔をするに腹が立って仕方がない。
だからアレンは掴んだままの彼女の肩を無理やり本棚へと押し付けた。
反動で並んだ書物が揺れる。何冊かが倒れてゆく。
あぁ、あとで片付けが大変だな。
けれど、そんなこと知ったことじゃない。
「アレ……っ、んんっ」
何か言いかけたの唇に噛みついた。
苦痛にか嫌悪にか全身が強張る。
押さえつけてやった右腕は動かないから、彼女は左手でアレンの胸を押し返そうとしてきた。
けれど無駄だ。
そんな力じゃ足りない。僕の気持には敵わない。
抵抗する左の手首を掴んで本棚にはりつける。
痛い?痛いかな?
普段はそこで気遣うけれど、今は無理だ。むしろ何かを感じてくれているほうが有難かった。
君がその目で僕じゃない人を見て、幸せそうに微笑んで、生命を語るから。
どうして僕じゃないんだろう。僕であってはいけないんだろう。
今傍にいるのは、傍にいたいのは、僕だっていうのに。
「ぅ……、は、ぁ……っ」
呼吸を妨げられて苦しいのか、が喘いだから、アレンは彼女の口をこじ開けた。
怒りなのか何なのか、頭が真っ白で何も考えられない。
胸の内は真っ黒で好きだという気持ちだけが渦巻いている。
混ざる。染まる。灰色に。
唇を吸って、舌を差し入れ、口内を探る。
呼吸と唾液が交わされて、二人の間で溶けてゆく。
無遠慮に触れた粘膜の感覚に指先が震えた。力を込めるとの骨が軋む。
「ぅ、……っく」
泣き声みたいなのが聞こえた。
気のせいかな。が泣くはずがないから。
むしろ泣けばいいのに、とアレンの奥で“アレン”が囁く。
ねぇ、その綺麗な顔を、僕のためだけに歪ませてよ。
息が続かないのも構わずに、アレンはの口唇を奪い続ける。
肩を押さえていた手を外して、髪を撫で、頬に触れ、首筋を辿った。
(好きだよ)
唇を離さず想いを告げる。
どうせ伝わらないと知っていながら。
(愛している)
そしてキスの合間のわずかな隙に、は応えをくれた。
「どうして」
疑問は拒絶と一緒だった。
アレンは動きを止めた。
近すぎるところでが問う。
「どうして?」
無性に笑えてきた。
堪えられなくて声に出した。
乾いた失笑が二人きりの書庫室に響く。
「“どうして?”」
アレンは自分の口で繰り返してみて、それが本当に残酷な言葉であることを認識した。
に触れていた全ての部分を離して顔を覆う。
ひとしきり笑ったあと、全身の酸素を乗せた吐息をついた。
「今更」
どうして、だって。馬鹿ばかしい。
男が女にキスをするのなんて、理由はひとつじゃないのか。
それすらもわからないは馬鹿だし、わかってもらえない自分はもっと馬鹿だ。
アレンは顔をあげた。
はやっぱり現状に頭が追いついていない様子だった。
だから笑う。
にっこりと、満面の笑みを。
仮面の微笑を。
「ごめんなさい」
それだけ告げる。
あの快楽のノアみたいに、乱暴な真似はしまいと決めていたのに、破ってしまえば簡単だった。
簡単に、わかってしまった。
が怒るとか、嫌がるとか、絶対ないと思うけど泣くとか、他の反応をしてくれたら、アレンだって言いたいことがあったけれど、彼女は先刻のキスを理解できていない。
だったらもう、どうしようもない。
アレンのニセモノの笑顔には凍りついた。
ようやく僕が傷ついたことだけは悟ったみたいだけど、そんなのはどうでもよくて、慰めも弁解も聞きたくなかった。
だから身を翻す。
足元に散らばった本を蹴飛ばして歩いてゆく。
書庫室を出てゆく瞬間、が呼び止めてきたけれど、聞こえない振りをした。
あぁ、何だか痛いな。
唇に触れてみてその理由を知る。血だ。
朱色に染まったアレンの指先。
こんなにも苦痛を伴うキスは初めてだった。
動こうとしたら足先に分厚い本が当たってバランスを崩した。
間一髪で本棚に掴まる。
何とか転倒は防げたけれど、反動で手首に鈍い痛みが走った。
「……っ、なに」
呻きながら見てみると、見事に赤くなっていた。
くっきりと指の形がついていて、これはもうしばらくすると腫れ上がってくるかもしれない。
は置き去りにされた書庫室で、自分の左手首をさすった。
ちょっと涙目である。
だって痛い。そして―――――――怖かった。
はきつく両目を閉じた。
違う。今のは間違いだ。
私が彼を恐れるはずがない。
だってあの人は大切な同士であり、友人なのだから。
は何度か呼吸を繰り返すと、意を決して瞳を開き、大きな一歩を踏み出した。
そうしないと自分を囲む書物の山を乗り越えられないからだ。
片付けは後回し。今は彼の後を追うほうが先決だ。
多少の罪悪感を残しつつ、散らかり放題の書庫室から飛び出す。
左右を見渡す。どこだ。どっちに行った?
白髪の後姿を探しながらも、は意識がぐらつくのを感じていた。
短くはない間、呼吸を止められていたからだろうか。
それとも触れた熱が、伝わる息遣いが、掴まれた力が、あまりに鮮烈だったからだろうか。
圧倒。
そうとしか呼べないものを覚えた。
自分の戸惑いも気後れも、何もかもねじ伏せて、強引に引きずり込まれた。
あの濃密な時間は一体何だったのだろう?
は自分の唇に触れてみた。
ここも痛い。
確認してみると血が出ていた。
「……………………」
何とか前進し続けたけれど、その赤に束の間目を奪われた。
何だこれは。何なんだこれは。
血が出たということは、怪我をしているということだ。
つまり、暴力を振るわれたということになる。
論理的にそこまで考えて、あまりにしっくりこなくて、自分で自分を笑ってしまった。
だって、アレンが、私に?
有り得ない。
確認するまでもなくそう思って、いきおいよく顔をあげたら、遠くに目当ての人物が見えた。
「アレン!」
は角を行き過ぎてしまってから慌てて引き返す。
その間に彼はさっさと姿を消していた。
絶対に声は届いていたはずなのに、完全完璧に無視されたようだ。
「ねぇ、ちょっと!」
全速力で走っていって次の角へ。
駄目だ、まったく止まる気配がない。
どんどん先に行ってしまうから、は反対方向に駆け出した。
こうなったら先回りするしかない。幸運なことに相手は超がつくほどの方向オンチだ。
アレンが向かっている先はわからなかったけれど、いつかは自室に戻ってくるだろう。
だからはそこに狙いを定めて走り続け、辿り着いたのはちょうどアレンが扉を開いた瞬間だった。
「待って!」
問答無用で締め出されそうになったから、ドアに飛びついて引き止める。
睨まれた。
射殺されそうなほどに睨まれた。
それでもが負けずに力を込めれば、アレンはパッと手を離して部屋の奥に入っていった。
「う、わっ」
あまりに唐突の解放だったので、はたたらを踏んで、そのまま室内に飛び込んでしまう。
勢い余って床に膝をついた。
体を支えに手を使えば、また鈍痛が走る。
は何となくアレンの目を気にして、団服の袖で左手首を隠しておいた。
そんなことしている間に、アレンは自分のベッドに腰掛ける。
上半身を折ると額に拳を押し当てた。
表情は見えない。
けれど、全身から溢れる気配が、に「話しかけるな」と訴えている。
「アレン」
だから普段通りに呼んだ。
「一体どうし……」
「出て行ってくれ」
尋ねる途中ではねつけられた。
本当に取りつく島もない、感情も温度もない声だった。
それなのにどうしてか、はアレンが怯えているように見えた。
彼を見つめたまま立ち上がる。
膝が痛んだし、手首も痛いし、肩というか右腕なんていつになったら治るのかわからないほどだったけれど、全部ぜんぶ押さえ込む。
「……今日はとことんらしくないのね」
「………………………」
「アレンが私に怒っていることはわかる。本当を言うと、もうずっとでしょう?」
「………………………」
「でも、それを直接言葉にはしない。してくれない。どうしてなの?」
何を考え、何を欲しているのか、は自分が応えることができるかわからないまま続けていた。
わからなくても言って欲しかった。
アレンは無自覚に、心のどこかで、私を敬遠しているのではないだろうかと思う。
その通りだったとしても、感情を呑み込んだままでは駄目だと知っているのだ。
だって、それだとまた、彼は仮面の道化に逆戻りしてしまう。
「全部ちょうだいと言ったでしょう。……あのときは哀しかったのよね」
セルジュとエニスの墓前で泣いていた、小さな小さな男の子。
は自然と歩みを進めて、ベッドにうずくまる彼の傍らに立った。
「今は……なに?辛いの?苦しいの?怒っているのなら、私にちゃんと言って」
見えない感情を、見せたくない心内を、理解したいと思う。
はアレンの手に自分のそれを重ねて、優しく導くように名前を口にした。
「アレン」
「僕は出て行けと言ったはずだ」
返事は信じられないほど冷ややかだった。
頭で考えるより先に体が反応した。
一瞬にして肌が粟立つ。
そのときにはもう無理やり腕を掴まれて、力づくでベッドの上に引き倒されていた。
「……!?」
衝撃に息が詰まる。
白いシーツに背中を打ち付ける。
そこに縫い付けるようにして両手首を拘束された。
あぁ左はもう絶対に腫れるだろうな、と場違いなほど冷静に思った。
視界が暗い。
影が落ちる。
布越しに鼓動と体熱を感じて、ようやくアレンに押し倒されているのだと理解した。
「馬鹿じゃないのか」
アレンが吐き捨てた。
現状は把握できても、その意味がわからないは、目を見開いて彼の言葉を聞いているしかなかった。
「あんなことをされた後で、のこのこ部屋までやってくるなんて。頭がどうかしている」
「………………………」
「それとも、何?もっと先までしてもいいの?」
「……、アレン」
「言っておくけど、これはどう見たって君の過失だ。考えなしのが悪い」
「どういう、こと」
動転のあまり呆然と問い返すと、それが完全にアレンの気に障ったことがわかった。
彼の顔は怒りか苛立ちかで真っ白になっていて、憎しみにも似た眼差しを注いでくる。
駄目だ、怖い。
今度こそ誤魔化せない。
何の前触れもなくキスをしてきたアレンに、ははっきりと恐怖を覚えた。
口唇の熱が、こぼれる吐息が、肌を探る手が。
怖い。
泣いている少年を抱きしめたいと思っていたのに、今目の前にいるのはの知らない顔をした男性だった。
「や……っ」
好き勝手に触れてきた男たちが思い出されて、は全身から血の気を引かせた。
そうしてようやくアレンがしていることが、彼らと同じであることに気が付いた。
何故こうもわからなかったのだろう。
本当に馬鹿みたいだ。
アレンが怒るのも無理はないほど、自分は彼をそういう対象から、完全に除外していたと知る。
「やめて……っ!」
引き攣った悲鳴が喉から溢れ出した。
キスの合間の懇願が、途端にアレンを停止させる。
数秒の沈黙の後、突き放すようにして身を引いた。
「遅い」
呆れ返ったような、疲れ切ったような呟きが、ため息と共に吐き出された。
はそれを耳の端に聞きながらベッドにうつぶせになる。
身を丸めると自分の手が目に入った。
震えていた。みっともないから止めようと思ったけれど、意識すればするほど戦慄きは大きくなっていった。
肘をついて身を起こす。ほどけた髪が顔にかかる。
慌てて取り繕うほど衣服は乱されていなかったけれど、投げ出していた脚を引っ込めて縮こまった。
咄嗟に縋り付いた枕からはアレンの匂いがした。
よく知った香りにとても安心したけれど、その本人に臆している現状に気が付いて滑稽に思った。
「もういいだろう」
喋るのも億劫といった風にアレンが言う。
「出て行って。今はまともに話ができる状態じゃない」
は二の腕に爪が食い込むほど強く自分を抱きしめた。
そのまま動かないでいると、苛立った声に促される。
「。このまま僕と顔を突き合わせているつもり?自分が何をされたか、まだわからないの?」
「…………………………」
「……、君が出て行かないのなら僕が出て行く」
「どうしてよ」
口を開いたら泣きそうになった。
自分で呆れてしまうくらい低くて掠れていて、みじめな声しか出なかった。
「なんでキスするの」
「……だから、今更」
「弾みだろうが勢いだろうがその場のノリだろうが、何だっていい。どうだっていい。キスなんて大したことじゃない」
「………………………」
「あなたがそれで感情を表せるのなら。そのときだけのことだから。私は受け入れた」
「そう、だね」
「でも、違う。今のは違う。何なの。どうしてこんなキスをするの。どうしてこんな風に触れて抱きしめるの」
混乱が強すぎて頭が痛くなってきた。
必死に否定する考えがひとつしかなくて、早くアレンに笑い飛ばしてほしかった。
そんなわけないだろう、って。
そんな馬鹿なことがあっていいはずないだろう、って。
早く早く早く、早く笑ってよ。
こんなのは何かの間違いだ。
「!?」
手を掴まれた。
今度は乱暴ではなかったのに、は過剰に反応して、ベッドの上をにじり下がった。
それでもアレンの指先が絡んで離れない。
真っ直ぐに見つめられては硬直した。
待って。
止めて、言わないで。
それを告げられてしまえば、もう――――――……。
「好きだ」
自分にキスをした唇が、明瞭にその想いを伝えてくれたから、は逃げることができなくなった。
アレンは優しく手を握ってくれる。
先刻までが嘘みたいに。
本当の、彼の様に。
「僕は、君が、好きなんだよ。」
告げられた愛の告白に、は思わず顔を伏せた。
弾みで涙が一雫、シーツの上にこぼれて消えた。
私も同じように消滅してしまえばいいのに、と途方もなく願った。
今回はノーコメントで失礼します。
とりあえず、91話目にしてようやくです。
長かった……!
次回もよろしければどうぞ〜。
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