気づいてしまった感情を、脳が否定する、思考が拒絶する。
僕のすべてを破壊しようとする。
嗚呼、もう、だから。
二度と“人間”なんて愛したくはなかったのに。
● 恋船旅路 EPISODE 1 ●
「あ……」
呟いたのはどちらだったのだろう。
アレンは反射的に肩を揺らしてしまう。
そのまま硬直できていれば少なくとも顔は見られたのに、ろくろく表情も確認せずに瞳を逸らしてしまった。
駄目だ。また、こんな。
アレンは出てきたばかりの扉の前で、羞恥と後悔とその他いろいろと複雑な感情に身を強張らせた。
「おはよう、アレン」
偶然廊下で鉢合わせてしまったが朝の挨拶を寄越してくる。
ここ数日間アレンが避けまくっていたというのに特別気にした様子もない。
両腕には大量の書類を抱えていて、今から科学班に戻るだろうことは容易に予想できた。
そう、ならば自然に。
以前のように。
「おはよう」とか、「重そうですね」とか、「荷物を持ってあげましょうか?」とか、言えることはいくらでもある。
しかし、アレンの喉はその全てを放棄していた。
「……もしかして、寝ぼけてる?それともお腹が空いて声も出ないとか?」
返事をしないでいるとが笑った。
明るく茶化してくれたのだから、今度こそいくらでも返しようがあったはずだけど、アレンが口にできたのは結局これだけだった。
「……体」
「ん?からだ?」
「大丈夫でしたか」
「……、えーと。ちょっと質問の意味がわからないんだけど」
「だから……」
アレンは瞳を伏せる。
ドアノブにかけたままだった手を握り締めた。
「僕がさんざん突き飛ばしたでしょう……。あのとき」
“あのとき”。
は自分の唇で繰り返して、ようやく思い当たったらしい。
「あぁ……大丈夫よ。へいき」
「…………、そう」
「気にしなくてよかったのに」
それは無理な話だ。
なにせアレンは他人に当たったことがなかったから力加減ができず、は相当痛い思いをしたことだろう。
擦り傷からの出血に、腕も背中も強く打ちつけていたはずだ。
……それに、あんなにみっともなく縋り付いてしまったことも、まだ謝ってはいなかった。
今が謝罪をする絶好の機会かもしれない。
そう思ったアレンが口をこじ開ければ、奪うようにしてが言った。
「心配してくれてありがとう」
目を見張る。
意味もなく睨みつけていた扉から視線を動かして、すぐそこに立っているへと向ける。
その顔が微笑んでいたから堪らなくなった。
見つめていられなくて俯くけれど笑顔の気配は消えない。
どうして謝らせてもくれないんだろう。
この人は嫌だ。優しさも暖かさも、アレンにとっては酷いものだった。
あまりに簡単に放り投げてくるものだから、心許ないにもほどがある。
甘やかされて、宥められて、許されて。そんなのは。
また、泣きたくて仕方なくなるじゃないか。
「馬鹿じゃないんですか」
気がつくとそう吐き捨てていた。
それにが反応する前に、角の向こうから見知った顔が覗く。
「おっ、いたいたー!あれ?アレンも一緒か?」
「ラビ」
明るくて騒がしくて、ある意味とよく似た気配が近づいてくる。
名前を呼んで振り返った彼女にラビは勢いよく飛びついた。
「オマエ何やってるんさー!部屋でずっと待ってたのに」
「あぁ、ごめん。ちょっと仕事が長引いちゃって」
「しゃーねぇなぁ。ホラ、それ持ってやるから」
ラビはあくまで気楽に言うと、の抱えていた資料を全て奪い取る。
紙面の内容が目に入ったようでわずかに眉を下げた。
一方の手で抱え込んで、もう一方で金髪を撫でる。
「これ、昨日の報告書じゃん。仕事増やしたんオレらか……。ごめんな?」
はくすぐったそうに笑った。
そこには余計な気遣いなど一切なくて、素直に可愛いと思えるような笑顔だったから、アレンは咄嗟に背を向ける。
そのまま足早に歩き出した。
「ん?おい、アレン!」
ラビが呼び止める声がしたけれど、聞こえないフリをする。
何故だろう、耳を塞ぎたい。
目を閉じてしまいたい。
網膜に焼きついたの姿を、ぐちゃぐちゃに消し去りたい。
ラビは簡単に彼女の傍に行って、楽しげに話をして、「ごめん」と謝って、あんな風に笑わせてあげられるのに。
アレンには何ひとつできなかった。
それがどうしようもなく痛かった。
どうやら無遠慮に触れた彼女の唇に、僕の上辺だけの優しさはすっかり飲み干されてしまったらしい。
「何さ、あれ」
ラビが不審げに呟けば、は「さぁ」と首を傾げた。
逃げるように去っていくアレンの背中から隣へと眼を移す。
何でもない声だったけれど、彼女はちょっと俯いていたから、その金髪に自分の頭を乗っけてやった。
側頭部をくっつけてアレンを見送る。
呼び止めなくていいのか、なんて訊かなかった。
口にするならこっちだろう。
「で?オレに言うことは?」
「え?」
きょとんとしたの肩に手を回して抱き寄せる。
「気にかかることがあるんなら、とりあえずお兄さんに相談するべき!だろ?」
当たり前のことを当たり前に言ってやれば、が軽く吹き出す。
くすくす笑ってこちらの肩にも手をまわしてきた。
「お兄さん、ねぇ?」
「何さ。オマエよりは年上だっての」
「知ってるよ。ラビって、本当は頼りになるもんね」
「…………わかってんじゃん」
ラビは受け答えをしながら、これは相当厄介だなといち早く悟る。
普段の会話のなかで、がこうも素直になるのは、ちょっと珍しいことだったのだ。
そしてそんなラビの予想は、見事に大当たりした。
「どうやら、アレンとの関係修復は難しいみたいよ」
情けない顔で精一杯笑うに、ラビは腹の中でアレンに毒づいた。
オマエ、オレの親友に何しやがった。
「答えてもらうさ」
腕を組んでの王立ちになったラビが詰問してくる。
アレンは邪魔だなぁと思った。
廊下を塞がれては食堂に行けない。個人的に非常に困る。というか死活問題だ。
こうしている間にもお腹がぐうぐうと食事を要求しているので、アレンは仕方なくラビに問い返す。
「何を答えろって?」
「オマエ、オレの親友に何しやがった」
質問をもう一度聞けば、心底どうでもいい気分になってくる。
「何も」
「嘘つけ」
ため息と共に渡した答えはラビに音速却下された。
口元をひん曲がっているし、隻眼は半分になっているし、どう見ても機嫌が悪そうだ。
「挨拶も抜きに何なんですか……」
「うっせぇ。オレだってが絡んでなきゃ、朝からオマエとケンカなんかしたくねぇっての」
昨日の一件から一夜空けて、今朝はと顔を合わさずに済んだと思ったらこれだ。
面倒にもほどがある。
同時にちょっと気になることがあってラビに一瞥を送ると、すぐさまに答えを口にしてくれた。
「から話は聞いた。つーか強引に聞き出した。けど意味わかんねぇから、オマエのとこに来たんさ」
何となくこちらも半眼になる。
「それはそれは。相変わらず暇で……いや友情に厚いことで」
「だってアイツの言ってること、要領を得ねぇんだもん」
「………………………」
「どうにもは今回のことを掴みきれてない。そうなると、事の原因はオマエにあるってことになる」
ああ、もう、本当に面倒だ。
アレンは断腸の思いで食事を諦めることにした。素早く踵を返し、ラビを置き去りにしようとする。
しかしそううまくいくはずもない。
をこよなく愛するこの青年から逃れるのは至難の業なのだ。
「オイ、逃げんなよ」
「うるさいですね。ラビには関係ないでしょう」
追いすがってくるから邪険に扱うけれど、めげる様子もなく質問攻めにされた。
「関係ないことはねぇだろ。なぁ、オマエどしたん?ここんとこずーっとのこと避けてるよな?何かあったんか?ケンカでもしたか?」
尋ねられる内容から、本当にが“あのとき”のことを話していないことを知る。
信用はしていたけれど、改めて聞くと何だか胸にくるものがあって、アレンは睫毛を伏せた。
“あのとき”というのは、もちろんセルジュの墓前でのことだ。
…………正直しばらくは立ち直れなかった。
セルジュは子供の頃の親友でエニスは初恋の相手だったのだから、当然といえば当然だろう。
本当に大好きで大切で、絶対に失いたくなかった人たちだった。
ようやく再会できたと思えば、エニスは死に、セルジュはアクマと化していたのだ。
彼らをこの手で葬った事実と喪失感は、アレンを絶望の底に突き落とした。
けれど後悔することはエクソシストとして認められない。
そんな自分を別の意味でズタズタにしてくれたのがだ。
それも完膚なきまでに傷つけてくれたものだから、アレンは恥ずかしいくらいに甘えてしまった。
怒っていい。泣いていい。無理に笑わなくていい。
そう言って抱きしめてくれた。
彼女はマナの仮面を否定するでもなく、ただただ“アレン”を認めてくれた。
己の前だけは、本当でいて欲しいと言ってくれたのだ。
それはアレンが“”を暴いたから有り得たことで、代わりにあの小さな女の子が与えてくれたのは最低で最悪の許し。
他の誰にも言えない。言ったところで理解できない。
そんな、とんでもなく罪深い、二人だけの秘密だ。
本当はもうずっと前からわかっていた。
彼女という存在は強くて、弱くて、あたたかくて。
いつだって傷つけてきては、どうしようにもないくらいに僕を救うんだ。
アレンは少しだけ歩調を緩め、ラビを視線だけで振り返った。
なぁなぁとうるさくする彼に思い切って訊いてみる。
「……、は」
「ん?アイツが何だって?」
「彼女は、何て、言ってたんですか」
“あのとき”のことを、どう思っているのだろう。
もっと言えば、ここ数日の自分の態度を、どう感じているのだろう。
アレンは妙に緊張しながらラビの言葉を待ったのだが、返ってきたのはあんまりと言えばあんまりな内容だった。
「アレンに完全に嫌われた、ってさ」
「…………………………」
足が止まった。
思考が停止したのだから、体の動きも当然だ。
硬直したアレンにラビが勢いよく衝突したけれど、痛みも何もよくわからない。
悲鳴と抗議が鼓膜をすり抜けてゆく。
「嫌われた……?」
意味がわからない。
呆然と繰り返すと、涙目のラビが説明してくれた。
「何か、オマエの気持ちを無視して好き勝手言っちまったって。挙句ぶん殴ったそうじゃん?ありゃ相当痛かったはずだからって……オレも今痛ぇ」
どうやらアレンの後頭部に鼻をぶつけたらしい。
真っ赤になったそこを押さえつつ、翡翠の隻眼が覗き込んでくる。
「アレン?どしたんさ?」
「……………………………嫌われたって、じゃあアレは……?」
本当に、まったく、意味がわからない。
どうしてそんな結論に至ったんだ。
どれだけ思い返してもアレンがを嫌う理由はないし、そんな風に示した覚えはない。
避けてはいるけれど、それは当たり前というか。
だって無断で“アレ”をしてしまったのだから。
「アレって?」
「……アレって……アレですよ…………」
「どれさ」
「話の……最後の……」
「最後の?」
「キス」
「……………………………………………………………………………………………キス?」
たっぷりの沈黙のあと復唱されて、ようやくアレンは余計なことまで喋ってしまったことに気がついた。
どうやらのずれた認識に気を取られすぎたらしい。
慌てて口元を覆ったけれど、思い切り眉を寄せたラビに捕まってしまった。
「オイ、それってどーゆーことさ?」
「いや、あの」
「キス?キスってあれだよな?唇同士をくっつけるやつ。好き合ってる男と女がする行為。愛情表現の一種」
「すみません、何でもないです」
「いやいや、オマエ顔がマジだったさ。てか、マジ?」
「マジじゃないです違います本当にそういうんじゃ」
「オマエ……にキスしたんか?」
アレンは咄嗟に否定しようと口を開く。
けれどあまりにずばりと訊かれたものだから、頬に熱がのぼってくるほうが早かった。
一瞬で顔を真っ赤にしたアレンを、ラビは眼を瞬かせて見つめていたが、次第に呆れた様子となった。
「オマエな……」
深々とため息をついて肩を落とす。
これはこれで意外な反応だったので、アレンは誤魔化しの言葉を忘れてしまった。
「ラビ……?」
「なるほど、メンドくせーことになってんだなぁ……」
憂鬱そうに呟かれては問い返さずにはいられない。
例えそれがとのキスを認めることになってもだ。
「……どういう意味ですか」
「そのまんまの意味さ」
ラビは本当に嫌そうに赤毛を掻きむしった。
「うん、まぁ……結論から言うと、はキスのことなんかまったく気にしてねぇな」
あっさりととんでもない発言をしてくる。
何を言ってるんだと思って見つめるけれど、ラビに冗談を含んだような様子は一切なかった。
ただひたすら面倒くさそうだ。
「だってアイツ、オマエに避けられている原因がわかっていないんだぜ?」
「………………………」
「暴言吐いたからかなとか、殴っちまったからだと思うとか、いろいろ言ってたけど。そーゆーの全部的外れだったわけだろ?」
「………………………」
「アイツはオマエが気にしてることがわかっていない。イコール、オマエが気にしていることをアイツは気にしていない。まったく思い当たらないほどな」
「………………………」
「親友の見解としてはさ」
言葉を失ったアレンにラビはまた吐息をついてみせた。
「アイツはキス如きでビビる女じゃねぇし」
如きって言われた。
アレンはちょっと笑いたくなってきた。
「それに、オマエは悪意でそーゆーことするヤツじゃねぇから。さらりと受け流しておくのが当然だと思ってんじゃねぇの」
つまり、何だ。
はあのキスを事故のようなものだと解釈していて、“仲間”だからなかったことにしてくれたということか。
すっかりスッキリ水に流してくれたということか。
確かに状況が状況だったから、弾みや勢いだと思われても不思議はないかもしれない。
仕方がないのかもしれない。
「……そんなわけあるか!!」
納得できない、断然納得できない。
アレンは真っ赤な顔のままで怒り出せば、ラビがびくりと身を縮ませる。
「馬鹿にしてるのか何だよそれどうして気にならないんだよ僕がこれだけ本当に顔も見れないほど思い悩んでいるっていうのに、そんなのおかしいだろ!!」
「い、いやぁ……オレに言われても」
控えめながらもラビの言が正論だったので、アレンはますます頭にきてそっぽを向いた。
前方を睨みつけて乱暴に歩き出す。
今度こそラビを振り切るつもりでいたが、彼はめげずに後をついてきた。
「おい、アレン」
「ちょっと話しかけないでくれませんか」
「いやいや」
「僕は怒ってるんです。猛烈に腹が立っているんです。手加減なしで八つ当たりされたくなかったら、とっとと退散してください」
「で、オマエはどこ行くんさ?」
「のところですよ!あの馬鹿にはいろいろと言いたいことが」
「今までさんざん避けてたくせに?」
声の調子はいつも通りだった。
それでも背後から突き刺されたような気がして、アレンは眉をしかめる。
前に回りこんできたラビがまたもや立ち塞がった。
「オマエ、なにがしたいんさ」
「なにって」
「のことを何だと思ってる」
少しだけ音程が下がった。
ラビは片手を腰に当てて、アレンを見下ろしてきた。
「何日も無視して、冷たい態度を取って、その理由を向こうがわかってなかったら怒りに行く気か?それってちょっと勝手じゃね?」
「…………………………」
「腹が立つなら最初から言いに行けよ。は逃げないし、ちゃんと応える奴だって知ってるだろ。……オマエ、アイツのことになると何かおかしくなるな」
言葉の最後で瞳が緩くなる。
それでもアレンは俯いてしまった。
「……そんな、ことは」
「いんや、変さ。大体なんで怒ってるんだっけ?えーっと……にキスしたから?違うな、それをアイツが気にしてなかったから?」
そこまで言って、不意にラビは目を見張った。
下を向けたままの顔をまじまじと眺められる。
「え?あれ?なぁ、アレン。それってさ」
「…………何ですか」
「オマエ、のことが好きなんか?」
今更それを訊くのか。
以前も同じことを質問された気がするけれど、そのときのように冷静に返せない。
アレンは怒りたくて泣きたくて、今すぐ逃げ出したいような気持ちになった。
「違います!」
そう叫ぶことしかできなかった。
ラビに紅潮した頬を見られたくないから大股で歩き出す。
肩が激突したけれど気にするものか。
痛みなら抉られるようなこの胸のほうが重大だ。
「ま、待てって!」
「嫌です」
「なぁ、だってそうじゃなかったら何でキスなんてしたんさ!」
「別に理由なんて」
「オマエは、おふざけでそーゆーことできるヤツじゃねぇだろ!?」
「知ったことじゃない」
「自覚できてねぇんなら言うけど、オマエはのこと」
「ああもう、黙ってください!!」
そんなこと他人の口から聞きたくない。
アレンは大声でラビの言葉を遮って、勢いよく体の向きを変えた。
「違うって言ってるでしょう!どうして僕がを好きにならなきゃいけないんですか!!」
どうでもいい。どうだっていい。とにかく自分以外の前で認めたくない。
自覚はできているのだから充分だろう。
今はまだ、誰にも知られたくない想いなのだ。
気づいたばかりの感情は脆く鋭く淋しくて、アレンですら不用意に触れれば歪んでしまいそうだった。
歪曲を描けば心が突き破られる。真っ赤な血が流れる。
そんなのは、痛い。
「僕がを好きだなんて有り得ない!!」
とにかく二度と聞きたくなくて、アレンは本音の正反対を怒鳴る。
ラビは困ったような顔をしていたけれど、何故だか急に慌てた様子になった。
「ちょ、アレン!たんま……!」
制止されたけれど構わない。
肩をいからせて、拳を握り締めて、アレンは全力で断言してやった。
「僕はなんて、大っっっ嫌いなんですよ!!」
その瞬間、ラビが片手で顔を覆った。
あちゃーという呟きがもれて、ようやくアレンは何か変だなと思う。
チラチラと動く彼の視線の先を追って……
「……………………………」
振り返って絶句した。
見開いた銀色の瞳に、同じく見開いた金色の瞳が映る。
彼女が立っていたのは廊下の先だった。
角を曲がってやってきたのだろう、いくつかの書物を抱えたまま、そこに立ち尽くしていた。
「あ、あのな、……!」
取り繕うようにラビが名前を呼べば、一瞬にして驚きの表情が引っ込む。
は普通の歩調で歩き出してアレンの傍を通り過ぎた。
親友を見上げて口を開く。
「ブックマンのじーさんがどこにいるか知らない?」
ラビは少しの間言われたことがわからなかったらしく、意味もなく手を上下に動かした。
それほどの様子はいつも通りだった。
「あ、あーっと……。ジジイな。たぶん書庫室………」
「そう。よかった、居場所がわかって」
「なに?探してんのか……?」
「うん、借りていた文献を返したいから」
「そ、そっか。うん、だ、だったらオレから渡しとく、さ」
「ほんと?ありがとう」
そこでが笑った。
明るい彼女とは対照的にラビの顔色は悪く、絶えず横に視線を飛ばす。
その先にいるアレンはというと完全に硬直したままだった。
「じゃあ、お願いね」
「あ、ああ」
「それじゃ」
ラビに書物を手渡すと、は用事は済んだとばかりに踵を返した。
視界を横切る金髪にようやくアレンは我に返る。
咄嗟に手首を掴んで引き止めた。
「待って、……!」
今のは違う。
そう否定する前に、手を振り払われた。
今度こそ本当に絶句した。
アレンは声帯を失ったんじゃないかと自分を疑う。
それほどまでに言葉を発することが困難になっていた。
拒絶された掌が痛い。
けれど一瞬で袖口に隠れたの手首のほうが真っ赤に変色していた。
「そんなこと」
無理に取り戻した腕を握り締めて、はアレンを強く見据えた。
「そんなこと、今更言われなくたって知ってるよ!」
それだけを言い捨てるとすぐさま床を蹴る。
呼び止める暇も与えずに、はその場から駆け去ってしまった。
一緒に取り残されたラビが様子を窺ってくる気配がするけれど、アレンにはよくわからない。
とにかく理解できたのはたったひとつ。
己のくだらない恐怖心のために、を傷つけたということだけだった。
何だか目の前がぐるぐるする。吐き気がせりあがってくる。
時間が感じられなくなって、結局アレンがの後を追えたのは、随分経ってからだった。
おかしい。
はそう思った。
廊下を走る足が重い。何だか息が切れている。
大した距離を駆けたわけじゃないのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
はぁはぁ。どくどく。
乱れた呼吸と鼓動の音に苛立った。
(うるさい)
止められるものなら止めたいと思うほどに、体中に反響する耳障りな不協和音。
(思い出したくない)
脳裏を掠める痛みは、気遣うようなラビの視線と、手を振り払ったときのアレンの顔。
どうして傷ついた様子を見せたのだろう。
気にしなくていいよ、私のことは放っておいて。
慣れているの。こんなのはいつものことだから。
(何度期待すれば気が済むんだろう)
昔のことは何ひとつ振り返りたくなかった。
逃げるつもりはないけれど、今は駄目だ。心が荒れて仕方がなくなるから。
(自惚れてた……。私のこと、認めてくれたんだって)
握った手に抱きしめた体に、触れた唇。
たったそれだけで存在を求められたと勘違いをしてしまった。
わかっていたはずだ。彼はとても優しい人だと。
だから、“私”を、仲間だと呼んでくれたことを。
(どうして思い込んでしまったんだろう。もう、突き放されるはずがないって)
そんなことは、有り得ないのに。
(馬鹿みたい)
は溢れ出す感情に強く目を閉じた。
(どうして今更こんなに傷ついているの?“”)
心の中で自分を嘲った途端、何かと衝突した。
前を見ずに角を曲がったのがいけなかったらしい。
向こうからやってきた人物と見事に鉢合わせてしまったようだ。
「……っつ」
教団内ではは小さなほうだから、当たり前のように弾き飛ばされる。
よろめいたところで腕を掴まれた。
そうして転ぶのを助けてくれたようだけど、次に聞こえてきたのは悪態だった。
「……ってぇな。どこに目ぇつけてやがる」
聞き知った声だ。
驚いて見上げると不機嫌そうな神田がいた。
反動で本当に近くまで引き寄せられていたものだから、視界いっぱいに彼の顔が映る。
不意にその表情が歪み、怪訝そうに覗き込まれた。
は侘びの言葉と共に横をすり抜けようとしたが、掴んだままの腕を引かれて無理に元の位置まで戻されてしまう。
「おい」
「ごめん、神田」
「何だお前」
「なにって?」
「誤魔化すな。なんて顔してやがる」
「ここは気づかないフリをするのが正解だと思うの」
「テメェの希望なんぞ知ったことか」
「……うん、あのね。ちょっと」
無理に笑っていることも辛くなって、そんな自分が許せなくて、は握った拳を額に押し付けた。
「ちょっと、自分でも混乱してるから」
「…………………」
「ごめんね」
精一杯の虚勢だ。明るい声で回避する。
神田の瞳はひどく真っ直ぐだから、今はきっと見つめられない。
そのことに対する謝罪だった。
「……だったら」
掴まれていた腕を離された。
手はそのままの頭へ。叩くようにして撫でられる。
「だったら、なおさらだろう」
責めるような口調……、それなのに触れる温度は暖かかった。
「俺から逃げるな」
驚いて思わず顔をあげる。
神田はやはり貫くような眼差しを持っていたけれど、に突き立てられたのは痛みではなかった。
「しけた面してんじゃねぇよ。いつもみたいに笑ってろ」
「……………………」
「俺の知っているお前は、そういう奴だ」
頭の上から手がのけられ、腕を戻す一瞬で擦るように頬を撫でられた。
神田は触れた部分を見下ろして囁く。
には聞き取れなかったが、その唇は“あるま”と動いたように見えた。
それが何を意味するのか思考する前に再び真っ直ぐな瞳に見つめられる。
「お前は、俺の傍で、ヘラヘラ笑ってろ。“”」
独りになるなと。
一緒に居ろと、そう言ってくれているのだと理解した途端、胸の奥がひどく締め付けられた。
傷ついた心を隠し持っていたからだろうか。
背伸びをして神田に抱きつく。
もちろん、いつものように微笑みながら。
(そうだ……。独りでなければ、痛みも哀しみも呑み込める。全部ぜんぶ、呑み込んでしまえる)
知っていたこと、わかっていたはずのことだけど、どうしてだろう少し泣きそうだ。
私は弱いから他の大切なものまで遠ざけようとしてしまった。
触れられたくないのは同じ。それでも神田の前では平気だろう。
何故なら彼は一番に、強くありたいと願う“”の想いを知っていてくれるのだから。
「ありがとう」
は心を込めて繰り返した。
「ありがとう、神田」
「……、まさか」
呟く声はどこか小さな男の子のようで。
「あいつ以外を、こんな風に想うようになるなんてな……」
聞こえたものは完全に独り言のようだったから、は気にしないフリをして、彼の首にまわした腕に力を込める。
明るい笑い声をあげながら告げてやった。
「さすがマイフレンド!なんていいヤツ、大好きだ!」
そうすれば神田もいつもの調子を取り戻したようで乱暴に両肩を掴まれた。
「おい、抱きつくな」
「照れない照れない」
「阿保か、離れろ」
「えー。やだ」
「やだじゃねぇ!」
本当に当たり前のやりとりを交わしているからは笑い、神田も怒り口調の中に穏やかさが潜んでいる。
それでも引き剥がそうとする手が急かすから、そろそろ離れてやろうかと思い始めたそのときだった。
「大体お前はいつもそうやって……」
神田の文句が唐突に途切れる。
は不思議に思って、腕をそのままに少しだけ距離を空けた。
見上げてみれば驚いたような漆黒の瞳。
それも刹那、一転して敵意を含み鋭くなった。
刃のような視線が向けられているのはの後方、先刻曲がってやってきた角のあたりだ。
「神田?なに?」
彼が睨みつけている先には何があるのだろう。
疑問に思いつつ振り返ろうとすれば、大きな手で視界を遮られた。
そのまま頭を鷲掴みにされたものだから悲鳴をあげる。
顔の向きを固定されてしまったので、もう背後を返り見ることは出来なかった。
「ちょ……、神田!」
「いいから来い」
有無を言わさず引きずられてゆく。
神田はもう一度の向こうを睥睨すると、完全に前方へと顔を戻してしまった。
「お前、今日は俺に付き合え」
「は?どういうこと?」
「ぶつかった礼をしてもらう。鍛錬場に行くぞ」
「え、まさかこれから!?」
「当然だ」
「いやいや私まだ仕事が……!」
「知るかよ」
の言い分を却下して、神田はぐいぐいと後頭部を押してくる。
こうなれば本当に振り返れない。
それでもその場を去る一瞬に、遠く視界を掠めたような気がした。
白い髪。
何だまだ期待しているのかと、は自分を嘲って微笑んだ。
「お前が原因か」と、漆黒の双眸に問われた。
その鋭利さで斬りつけられたのは醜い防衛心と自己嫌悪。
を追いかけて角を曲がった瞬間だった。
“大好きだ”と青年に抱きつく彼女を見て、熱くドロドロしたものが胸中を支配した。
呼吸を忘れて立ち尽くせば、神田が自分の存在に気付く。
ほんの少しだけ驚いた様子を見せたかと思うと、すぐさまこちらを睨みつけてきた。
「お前のせいか」
音にはならない声で問い詰められる。
「お前が、こいつを傷つけたんだな」
もはや核心を持って投げつけられる敵意の視線から逃れられない。
何とか応えようとアレンは口元を震わせるけれど、それにすら神田は明確な拒絶を示した。
こちらを振り向こうとしたを引き止めて、強引に連れ去ってしまったのである。
それっきり、だ。
「おはよう、アレン」
今朝も挨拶を寄越してくるに特に変わった様子はない。
「コムイ室長が呼んでいたから、あとで司令室に来てね」
笑顔で用件を伝えて通り過ぎてゆく。
その背中にこう言ってやりたい。
(一体どういうつもりなんだ)
自分勝手な疑問は次第に膨れ上がっていた。
呼び止めればは振り返るだろう。
けれどきっと、以前のようには話せない。気安く笑い合うこともできない。
すれ違ってしまった感情が、何か薄い膜のようなものになって、互いを阻んでいるようだった。
(……本当になかったことにしているのか)
あのときのキスも、“大嫌い”だと言ってしまったことも。
これならとことん文句を言われたり、露骨に避けられたりしたほうがマシだ。
相手があまりにも気にしていない態度を取るものだから謝罪することも難しい。
否、恐らくはそれを回避したいのだろう。
「気まずー……」
げんなりした呟きを漏らして、ラビが隣に並んでくる。
見つめる先ではちょうど神田がに声をかけたところだった。
「なんとかしろよ」
「何とかって?」
「仲直りしろってことさ!」
「無理です。別に喧嘩をしているわけじゃありませんから」
「じゃあ、今の状況は何なんさ」
「さぁ。何でしょうね」
ラビを避けるようにしてアレンは歩き出した。
「……何なんでしょうね、本当」
訳のわからないことばかりだ。
自分の言動も、彼女の反応も。
前を歩くを見つめていると、彼女の隣にいた神田がアレンを一瞥する。
そこに牽制の色を読み取って少し笑いたくなった。
(と違って、神田はわかりやすい)
彼はアレンの所業を悟り、今までよりも警戒を強めている。
もともとに関わるなと言っていただけあって、それは徹底されていた。
「ユウはオマエのこと怒ってるみたいだな」
後ろにいるラビが言う。
アレンは頷くまでもなく肯定した。
「そうですね」
「明らかに“に近づくな”オーラ放ってんじゃん。アレ、どうするんさ」
「別にどうも」
「オマエな」
「僕にしてみたらラビのほうが不思議です」
先に行く二人が指令室の扉の向こうに消えたのを確認したところで、ずっと気になっていたことを口にしてみた。
「何故ラビは僕に構うんです?神田のように怒ってもおかしくはないのに」
なにせを傷つけたのだ。
神田よりも親友であるラビのほうが何か行動に出そうなものだから、アレンは本当に疑問に思っていた。
「ばっか、オマエ」
不意に肩を叩かれる。
ラビはアレンを追い抜かしながら、何でもないことのように言った。
「オマエだってオレの友達だろ。アレン」
そのまま振り返りもせずに部屋の中に入っていってしまったものだから、廊下に取り残されたアレンは思う存分ぽかんとすることができた。
「ともだち……?」
本当の仲間になった自覚はあったけれど、もっと個人的に親しみを感じてくれているとは思っていなかった。
エクソシストになってからはあまり縁のない類でもある。
そういえばラビも歳の近い男の子だったなぁ、と今更ながら考えた。
「友達……か」
不意にその響きが妙に重く胸に圧し掛かってくる。
ミハ、フリッツ、パティ……エニスにセルジュ。
別れたばかりの旧友たちを思い出して、アレンは強く指先を握り込んだ。
「え……」
今度呟いたのは完全に二人で、しかも同時だった。
アレンとは揃ってコムイを見返す。
眼鏡の室長は困ったように笑った。
「だからね……しばらくの間、君たちはペアで任務に行ってもらうことになったんだよ」
「どういうことだ」
疑問を投げ返したのは当の本人達ではなく、別件でその場に居合わせた神田だった。
彼は彼でラビとの任務を命じられたばかりだから、資料を片手にしたままだ。
コムイはちらりと神田を見ると肩をすくめてみせた。
「僕にもよくわからない。上からの命令さ」
「モヤシとバカ女を一緒に居させろと?」
「そう。しかも無期限で」
「………何を企んでいやがる」
「むしろ僕が聞きたいね。……このような措置を取られる理由、何か思い当たるかい?」
アレンは考えを巡らせるまでもなく、“あのとき”のことだということを悟った。
に張りついている監視用のゴーレム。
あれが“あのとき”のことを逐一上層部に知らせたとなると、非常にまずいことになる。
現に今、それを目の前に突きつけられたところだ。
(もっと確実な証拠が欲しいということか)
アレンはをエクソシストとしてだけ扱っておらず、彼女もまたそうだった。
つまり、任務を……教団を第一としない場合があり得る。
上層部はそう判断したはずだ。
事実としては、アレンはアクマを破壊したし、はそれを制止しなかった。
しかしその後のやりとり……“あのとき”の会話が、さらに暗い疑念を抱かせたことだろう。
アレン・ウォーカーとアンノウンは、互いを優先するばかり、黒の教団の命令に背く可能性があると―――――………。
見られているのだと、アレンは感じた。
監視の目が纏わりつく。だけじゃない、自分と彼女の二人にだ。
前回の危険な任務はアレンに忠誠心を示させ、との関連性をはかるためのものだった。
自分達は役目をまっとうしたけれど、それは疑いを晴らすどころか深めてしまったようだ。
しばらくは二人で任務に行けだなんてあまりにも露骨すぎる。
(そうまでして“アンノウン”の裏切りを恐れるのか)
恐怖を感じるのはにではない。教団の彼女に対する執着だ。
アレンは身震いをしてコムイに答えようと唇を開いた。
「思い当たることはありません」
しかし否定したのはだった。
アレンより一瞬早く、そしてきっぱりと言い切った。
「何故このような措置を取られるのでしょう。不思議です」
いかにもわからないといった顔で首を傾けてみせる。
事実を知らなければアレンですら騙されてしまいそうなほど、彼女の演技は完璧だった。
コムイが訊きなおす。
「本当かい?」
「はい。本当です」
もソファーから立ち上がりながら繰り返した。
「何故アレンと一緒に居ろと言われるのか、私にはわかりません。思い当たることは一切ないのですから」
の声が静かに響く。
コムイは頷いて応じた。
同席していた神田は眉をひそめ、ラビは下唇を突き出す。
金の双眸は微笑んでいた。
そして、一度もアレンを見ようとはしなかった。
「厄介なことになった」
廊下を数歩進んだところでは足を止めた。
言葉は後ろから全身を包み込み、心の奥底へと落ちてゆく。
待ち構えていたのは老人で、その威圧感が背後の暗がりに立っている。
「申し訳ございません、ブックマン」
いつものように“じーさん”とは呼ばなかった。
この会話は、庇護する者と庇護される者として交わされている。
感情の全てを排除した声では詫びた。
「私の落ち度です。上層部はアレン・ウォーカーをアンノウンに組みする異端の徒であると疑っている」
「否、すでに確信しているだろう」
「違います。彼は“私”とは無関係です」
咄嗟にそう言って、嘘だと胸中で悲鳴があがる。
“”の中で“あの子”が泣いている。
黙れ黙れだまれ、お前はやはり死んでいなければいけないのよ。
今は他の誰でもない、アレンのために。
「そうだ。無関係でなければならない」
ブックマンは肯定した。
「お前は誰とも関わってはいけない。表に出てはいけない。暗い闇の底で息を殺していなければならないのだ」
「……わかっています」
「何故、アレン・ウォーカーに心を許した」
問われても答えられない。
そんなのはアレンが“私”を見つけたからだ。
許す許さないの前に、強引に暴かれて抱きしめられてしまったからだ。
けれど拒絶しきれなかったのは“”の落ち度。私の弱さでしかない。
「………申し訳ございません」
「殺せ。蘇ってしまったのならば、もう一度。お前は“”だろう」
「仰る通りです」
「今はまだ徹底して教団に服従するのだ。北の塔に入れられては、私も簡単には手が出せない」
「はい」
「お前の運命に、他者を巻き込んではならん」
そんなことはわかっている。
昼間なのに暗すぎる廊下で、背の後ろに立った大きなもの。
ブックマンはに厳命した。
「お前が考えている以上に、世界は“お前”に注目している。……決して正体を悟らせるな」
「了解しました、ブックマン」
ついに少女は振り返って深々と一礼する。
顔をあげると一変してにこりと笑った。
「心配してくれてありがとう、じーさん」
虚勢を張る“”に、老人は哀しげに微笑んだ。
「馬鹿娘」
「お待たせ、」
アレンが声をかけると、びくりと肩が揺れた。
数秒の沈黙。
振り返った彼女はいつもの笑顔だ。
「時間ぴったりね、アレン」
ああ、やっぱり……と思う。
新たな任務を言い渡された日以来、には些細な変化が見られた。
恐らく気がついているのは当人であるアレンと、親友のラビ、あとは神田ぐらいのものだろう。
(僕と、距離を置こうとしている)
目に見えるほどではない。気のせいだと言われてもおかしくない程度だ。
しかしアレンからしてみれば確実にの態度は以前と違った。
無視をするとか、傍に寄ってこないとか、そのような回避の仕方ではないのだが、教団員として必要以上の接触を拒んでいる様子だった。
アレンから話かければ今みたいに驚くし、取り繕うような間が見受けられるのだ。
「今回もよろしく」
場所は薄暗い地下、船着場だ。
出発を前に確認したかったから挨拶をしてみたのだけれど、やっぱりと思えば思うほどに腹の底が灼かれてゆく。
暗い熱を持て余す。
(今回も?)
不愉快だ。
もう二度と同じようになるつもりはないくせに。
「おい」
声はの後ろから飛んできて、アレンの顔面へとぶつけられる。
真っ黒な眼に睨みつけられた。
「グズグズしてんじゃねぇよ。俺達まで遅れるだろうが」
きつい口調で言ってきたのは神田で、その傍にいたラビが肩をすくめてみせる。
「彼ら二人も任務に出向くのだから、途中まで一緒に行っておいでよ」というのがコムイの指示だ。
アレンとしてはどうにも気を遣われているようで嫌だし、何より神田の機嫌が普段の何割り増しにも悪かった。つまり最悪だ。
「チッ。どうして俺がテメェらに合わせなきゃならねぇんだよ」
「まぁまぁ、ユウ」
「いいじゃない。四人で楽しくレッツゴー!ってね」
ラビとが笑顔で宥めたが、神田は余計に眉間の皺を深くした。
「……それが、気にくわねぇんだよ」
相変わらず鋭い視線はアレンへと据えられている。
神田はもう一度舌打ちをすると、気安く肩に置かれたラビの手を振り払い、さっさと小船へと乗り込んでしまった。
「ったく……。待てってユウ!」
後ろにラビが続く。
もため息をついて、彼らとは別のボートに足を向けた。
船縁に腰掛けてからも先を行く二人ばかりを気にかけている様子なので、アレンとしては不満なことこの上ない。
ずっと前からこれは身勝手な感情だと知っていたけれど、我慢の限界を超えてしまったようだ。
「いつまでそうしているつもりですか」
言おうと思うより先に口が動いていた。
の瞳がこちらに向けられた。
驚いたような顔が、怒りの火に油を注ぐ。
「神田を気にしたってどうしようもないでしょう」
は少し目を見張っただけで、すぐに普段の表情へと戻る。
平気な振りは彼女の得意分野だ。
「何の話?」
「さぁ。……わかっているくせに」
「わからないわ」
「へぇ」
皮肉るように応じれば、の眼差しから温度が失せた。
「神田を気にしているのは、あの人が勘違いをしているからよ」
「勘違い?」
「あなたと私の間で何かあったんじゃないか、って」
「それは」
「有り得ないでしょう」
こちらが何か返す前に遮るようにして断言される。
視線は遠くに投げられて、もはやアレンも神田も見てはいなかった。
ただ指先だけが自らの肩に乗った黒いゴーレムの頭を撫でる。
「私たちは仲間だもの。“誰か”に心配されるようなことなんてない」
あぁ、とアレンは思う。
「何ひとつね」
は僕の想いを永遠に封じる気だ。
「“誰か”なんてどうでもいい」
声帯から絞り出した言葉はあまりに小さくて、それでもぞっとするような響きを持っていた。
アレン自身ですら鳥肌を立てたのだから他人は当然だろう。
無理やりに掴んだ彼女の手首は粟立っていた。
「“”」
名前を呼べば胸の傷が疼いた。
恋慕は枯れない花。育つばかりで実を結ばない。
不毛にもほどがある。
『 』
幼い頃の名前は知らないから心だけで呼んだ。
金色の瞳が震えて怯えを映す。
小さな女の子が少しだけ泣きだしそうに見えた。
「やめて」
制止の声は聞かない。
「僕を疑うのは、“誰か”じゃなくて、君自身だろう。“”」
「やめて!」
困惑と拒絶がの口から突いて出る。
同時にアレンから離れようと腕を振るった。
訳がわからないままそうしたせいか、力の加減ができていなかったようで、大きくバランスを崩してしまう。
狭い小船の外に体が傾いだ。
「……っつ」
悲鳴もあげずに、ただはアレンの指先を振りほどいた。
そのまま捕まっていれば少なくとも不様なことにはならなかっただろうに。
それでも彼女は、大嫌いな水の中まで、逃げていってしまったのだ。
派手にあがった水飛沫に顔を叩かれて、アレンは血が出るほどきつく唇を噛み締めた。
新章『恋船旅路』、はじまりました。
何というか……暗いですね!本部に帰還したというのに暗い!!
今後は少しずつ明るくなってくると思うのですが……。断言できずにすみません。(汗)
アレンとヒロインがゴタゴタしております。しかし、意外にもラビは大人でしたね。
もっと茶化すかなと思っていただけに書いていて驚きました。
反対に神田はアレンが目障りで仕方がない様子。恋愛云々というよりは、ヒロインを掻き乱す彼が単純に気に喰わないんでしょうね〜。
さて、次回もゴタゴタしますよ!よろしければ引き続きお楽しみくださいませ。
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