砕け散ったハンプティ・ダンプティ。
決して元には戻らない。
それでも、ハートの女王にも不可能だって、僕はもう一度試してみるよ。
「君なんて大嫌いだ」
● 恋船旅路 EPISODE 5 ●
「……っつ、!?」
過去の声に耐え切れなくてアレンから顔を逸らしたは、唐突に自分の身が傾いだことに驚いた。
痛みが走ったのは頭皮。
犯人はまたしてもルル=ベルだった。
“グローリア・フェンネス”の彫刻のような手が強引に髪を引っ張ってくるから、肩を椅子の背にぶつけて大きな音を鳴らしてしまう。
「主人。この娘は頭が悪いから、言ってもわからない」
「ヒヒッ、確かにね」
同意したジャスデロが反動に浮いたの体を銃の底で打つ。
強い打撃に椅子から落ち、何とか膝をついたけれど、すぐさまデビットの脚が背中に突き刺さってくる。
結局は床に頬をつける羽目になった。
「千年公。もういいだろ?」
デビットは吐き捨てるように言いながら、足裏をの肉体に押し付けて踏みにじる。
乱れたドレスの胸元からオレンジの花弁が零れ落ちて、まるで血のように散らばっていった。
「こいつ、話にならねぇよ。面倒だから殺しちまおうぜ」
デビットから滲み出る冷めたい気配。
すでに銃口はへと定められていて、彼は躊躇いもなく引き金に指をかけた。
「……だからさぁ」
そこで口を開いたティキの声は呆れていた。
彼はが倒れる寸前に、その膝から抱き取っていたロードを床に降ろすと、半分にした紫の眼を家族に向ける。
「何度言えばわかるんだよ。今回はこういうのナシだって」
「うっせぇな、馬鹿ティキ」
デビットはティキの言にまったく耳をかさなかったが、次に響いてきたのは銃声ではなく鈍い打撃音だった。
は反射的に肩を揺らす。そこをデビットが踏み押さえる。
痛みにぶれた視界に彼を見た。
「……いい加減にしろよ」
言葉の調子から一瞬神田かと思ったけれど、ゆらりと前に出てきたのはバンダナの青年。
ラビだった。
「黙って話を聞いてやりゃあ好き勝手にベラベラと」
扉板を力任せに殴りつけた拳は赤くなっていて、それでも彼はさらに強く指先を握りこんだ。
その手を神田が乱暴に払いのける。
「だから言っただろう、くだらねぇってな。最初からこいつらの話を聞いてやる義理はない」
「ああ……、その通りさな」
少しだけ自嘲気味に笑ったラビに神田はふんと鼻を鳴らしてみせた。
「もう止めるなよ。……おい、バカ女」
神田は音もなく『六幻』を抜き放ちながらを見下ろした。
双眸に宿った刃の煌めきが斬りつけてくる。
言葉もそんな調子で告げられた。
「さっきから随分と馬鹿にされてるな、お前」
その通りだと思った。
身動きを封じられて、くだらない話をされて、暴力を振るわれて。
はあまりにも自分がみっともないものだから強く唇を噛んだ。
今は何も言えない。
それは神田も同じだろう。
彼はを慰めないし、甘やかさない。
ラビだってわざわざ言葉にしない。
何故ならこれは、“”の戦いなのだから。
神田は一度目を閉じた。
「原因も結果も関係ねぇ。選んだのは“”だ」
「……そうよ」
「ならば全ての責任はお前にある。これはお前の失態だ。テメェで何とかしろよ」
「言われなくても」
「俺は自分の任務を全うする」
神田は一片の迷いなくそう言い切ると、鋭く瞳を開いて『六幻』を構えた。
「ノアは俺達の敵だ。――――――斬る」
言うが早いか、神田は疾走を開始した。
黒い髪が視界の右を掠めたと思うと、今度は赤毛が左を通過していく。
ラビは槌を巨大化させながら叫んだ。
「は返してもらうぜ!!」
イノセンスの発動を受けてノア達も一斉に動き出した。
一直線に千年伯爵へと向った神田の前にはルル=ベルが立ちはだかり、に駆け寄るラビの元にはジャスデビが躍り出る。
いくつもの殺気が交差して空気を打った。
「「どけッ!!」」
神田とラビの怒号。
「やめろ」
それに重なった静かすぎる声。
恐らく本人は囁いただけのつもりだろうし、実際の音量もその程度だったはずだ。
しかし制止は適合者の意思に従い、イノセンスを通して響き渡る。
エクソシストとノアが衝突する寸前、両者の間に白銀に輝く十字架が出現して弾けた。
「……くっ」
息を詰めたのは誰だったのだろう。
光が納まったとき、神田の六幻はルル=ベルの首筋に、ルル=ベルの鋭利な爪は神田の額へと突きつけられていた。
ラビとジャスデビも同様だ。
互いに急所を押さえたまま固まっている。
少しでも動けば死を免れないと知っているからこその硬直だった。
は微かに身を震わせた。
掲げた左手をゆっくりと下ろす彼が、あまりにも完璧な無表情を保っていたからだ。
「どちらも動くな」
アレンが命令した。
聞く者をぞっとさせるような声音だった。
それでもには何故だか痛みを堪えているように感じられた。
「……どういうつもりだ、モヤシ」
目の前のルル=ベルに向けているのと同じくらいの敵意を込めて神田が呻く。
本当に殺しにかかってきそうな雰囲気だけれど、アレンは動じずティキに問いかけた。
仲間に壮絶な殺気を放たれているというのに冷静そのものである。
「今回は“こういうの”、ナシなんでしょう?」
「……、ああ。そうだよ少年」
ティキは数秒の沈黙の後、面白がるように頷いた。
アレンはそれすら気にした風でなく続ける。
「そうですよね。ナシにせざるを得ない。お互いに」
コツリ、と靴音を鳴らして歩き出す。
歩調はゆっくりだが躊躇いはなく、ノアもエクソシストも目を見張った。
この状況下でアレンは一体何を考えているのだろう。
「おい、動くな」
デビットが不快気に言った。
「殺すぞ」
「どうぞ?」
アレンはあっさりと返す。歩みは止まらない。
「僕を撃った瞬間ラビが君たちを攻撃する。それでも構わないなら、どうぞ」
「…………………………」
「そちらの“グローリア”さんも同じです。神田は貴女を逃がさない」
「……ロード、ティキ」
「無駄です」
ルル=ベルが身動きのできる仲間の名を呼んだが、アレンはそれすらも強く否定した。
その言葉の意味はにもわかったから千年伯爵を視界の中に収める。
イノセンスに命じて技を発動させた。
「!?千年公!」
即座に反応したロードが千年伯爵に駆け寄って抱きついた。
突如として床や天井から飛び出してきた黒い鎖が、彼の身を縛り付けて締め上げたのだ。
ロードは拘束を解こうと手をかけたが、光で創り出されたそれに触れることは出来ない。
「これは、これハ」
少しは驚いたように呟いて千年伯爵はを見やる。
「捕縛の技を仕掛けていたのですネ。いつの間ニ?」
答えは床に落とされた瞬間なのだが、正直に言わなくてもいいだろう。
「私だけ縛られているのも悪い気がして。囚われ役は譲ってあげる」
は虚勢を張って微笑むと、ノア達に向って言い放った。
「今度こそ話はお終いよ。……退きなさい。彼を破壊されたくなければ」
言葉の最後で千年伯爵の喉に巻きついた鎖を、意思の力でぐっと締めてみせる。
苦しいのか愉しいのか、細められた双眸に、自分だけが映っているのをは見た。
「貴様……!」
ルル=ベルが怒りを露にしたが、神田の『六幻』に首の皮膚を薄く斬られては動けない。
ジャスデビもラビが槌を突きつけなおすと歯噛みをするだけに終わる。
は千年伯爵にしがみついたままのロードを見つめた。
「ここでの戦闘は本意じゃない。船の中にいるうえに、一般人が乗っているもの。明らかに私達の不利よ」
「…………………………」
「殺る気満々なルル=ベルとジャスデビは私の仲間が押さえてくれた。……そして、千年伯爵も」
そこでロードが振り返ったからは一瞬唇を止めた。
冷めたい少女の顔。
息を吸ってから続ける。
「……最初の言葉が真実ならば、私も同じようにしましょう。今度こそ取引よ」
「ボク達を信用するって?そして、キミを信用しろって言うの?」
「そうよ。私達にはそれしかない」
「そうだねぇ……本当は今すぐぶっ殺してやりたいけど」
「………………………」
「それで、家族が傷つけられるのはイヤだなぁ」
「その前にを殺ればいいだろ!!」
激しい口調で割り込んできたのはデビットで、彼は焚きつけるように叫ぶ。
「ロード!ティキ!早く殺せよ!!」
「無駄だ」
今度否定したのはアレンではなくティキだった。
穏やかに口元を緩めて、テーブルに頬杖をつく。
床の上のに微笑みかけた。
「この場にいる誰よりも、お嬢さんの刃の方が速い」
捕縛の技である『鎖葬』に捕らわれた者に回避は不可能。
加えての操る黒刃は光速だ。いくら千年伯爵でも無事では済まない。
「つまり、お嬢さんを殺しにかかったら千年公も危険ってことだ。おっかないんだよなぁ、アレ。血も肉も蒸発しちまう」
「ティッキーは経験済みだもんねぇ」
ロードは特に笑みもないまま千年伯爵に絡みつく鎖を撫でている。
実際には触れられやしないから、目に見える輪郭に指を合わせているだけだ。
その仕草に感じ取れるものがあったのかデビットはロードを完全に矛先から外した。
「……くそっ、じゃあ何とかしろよ馬鹿ティキ!」
「俺が?そうだなぁ」
丁度そのときアレンがノア達のいるテーブルに辿り着いた。
椅子に腰掛けたままのティキが見上げれば氷のような銀色と出合う。
は急かすように口を開いた。
「さぁ、退いて。これ以上は」
「お嬢さん」
アレンと睨み合ったままのティキが呼んだ。
「それは無理な注文だよ」
「……、私が本気ではないとでも?」
「いいや本気だろうさ。でも、お前にはできない」
「何故」
「お前が千年公を攻撃した瞬間、この船にいる乗客全員の死が決定するからさ」
ずばりと言われては小さく息を呑んだ。
千年伯爵の身柄を押さえただけで、すでに交渉は成立したと思ったのに。
ティキはその先までをも言及してきた。
それは彼が一度その身に『鎖葬』を受け、灼熱の刃を刻まれているからだろうか。
「俺達はお前を許さないよ。当然、殺す。お前も、お前の仲間も、お前が守りたい“人間”もな」
ティキは不意にアレンから視線を逸らすと、床に落ちていたの体を引き上げた。
褐色の五指が喰い込む。右腕だ。
苦鳴を堪えているとますます力を込められて、そのまま物を扱うような乱暴さで椅子に戻された。
「だから、お前には出来ない」
顔の横に手を突かれて覗き込まれる。
「捕らえた千年公はお前の切り札だが、お前はその効力を発揮させることができないんだよ。……絶対にな」
もう片方の手が伸びてきて顎にかけられた。
はそのまま仰向かされて、唇が重なりそうなほどティキに接近される。
彼から発せられる殺気が全身に纏わりついて剥がれない。
ぞくり、と肌が粟だった。
視線が。指が。いつ胸元にかかるのだろう。
「さぁて、どうしようか?これじゃあ手詰まりだ。俺達は千年公を傷つけられたくないから動けない。お前は“人間”を殺されたくないから動けない。どちらも互いの急所を押さえたまま」
ほら、顎から手が離れて、爪の先が。
「決着が、つかない」
ドレスの上からイノセンスを、その下に刻まれた傷跡を、
撫でた。
“破壊”の意思をもって。
ガァンッッ!!!!
と、唐突に凄まじい音が響いてきたからは心底驚いた。
ただでさえティキに迫られて強張っていた体が完全に硬直する。
限界まで大きくした瞳で見上げた。
「それで?」
こんな声聞いたことない。
あんな表情見たことない。
言葉を失うの前で、アレンが言い捨てた。
「いつまでそうしているつもりだ」
その問いは自分に向けられているのか、ティキに向けられているのか。
どちらにしてもは返事ができない。
アレンは椅子にかけていた脚を下ろした。
先刻の凄まじい音はそれを蹴りつけたときのものらしい。
邪魔だとばかりに押しやって、別の席に腰掛けた。
普段の彼からすると言動が乱暴すぎて、まるで別人のようだ。
「決着がつかないのならば、別のやり方で。誰も傷つかない方法。死者の出ないルール。それで勝敗を決めればいい」
「……同感」
ティキはくすりと笑うとから手を離して身を引いた。
アレンと向き合う形で座りなおす。
「俺達で決めようか」
「元よりそのつもりです」
ようやく口調は戻ったけれど、アレンが本気で怒っているのは明らかで、の心は火で炙られたようになる。
口をついて制止の言葉が飛び出した。
「待って。アレンがそんなことをする必要は」
「うるさい」
「……な、っ」
「君は黙ってろ」
「どうしてよ。これは私の戦いよ。私が決着をつけなくちゃいけない」
「その格好で、どうやって?」
ちらりと一瞥だけを送られて傷ついた気分になる。
縛られたままの自分は不様だ。腫れ上がった頬を隠せもしない。
は誰にも聞こえないように浅い呼吸を繰り返した。
落ち着いて、いつものように、平気な顔をしなければ。
「……神田が言っていたでしょう。原因も結果も私のものよ」
「…………………………」
「あなたに譲るつもりはないわ」
「僕も君に譲るつもりはない」
アレンはのほうを見もせず、ティキを睨み付けている。
「この場をどうするか、神田は君に任せるんだろう。ラビもそれを許すんだろう。……だからって僕も同じだと思うなよ」
声は静かなのに最後だけ叩きつける調子になる。
彼が苛立ちを感じているのは間違いなく自分だけなのだとは悟った。
先の二人は関係ないと、そう言われたのだ。
「なんで」
焦燥が喉元をせり上がってきて唇から転がり出る。
どうしよう、“”を、保てない。
「“仲間”でしょう?」
言わなければよかった。聞かなければよかった。
今更、何を求めているのだろう。
私は何度失敗しても懲りない大馬鹿者だ。
「……信じてよ」
空々しい。
こんなこと絶対に口にしたくなかったのに。
勝手に裏切られた気分になって、自分自身ですら裏切ってしまった。
心の中で“”の名前を呼ぶけれど返事はない。
他の誰かに助けを請わないことだけで必死に己を守っている。
「……ハンガリーでは」
アレンはに返事をせずにそっと睫毛を伏せた。
「あなたとは決着がつきませんでしたね、ティキ・ミック卿」
「そうだな。アレには俺も満足できてない」
「では、再戦といきましょう」
唇の端に形だけの笑みを乗せて、アレンはティキに提案した。
懐に手を入れて何かを取り出してくる。
まずの目に映ったのは黒の道化―――――――“Joker”だった。
「あなたには勝っておかないと気が納まりません」
留めていた紐を解いて、トランプの束を机の上に置く。
ティキは微かに笑って一番上のジョーカーを手に取った。
「カード、ね。確かに死人は出ないな」
「受けますか?それとも、逃げますか?」
「受けるよ。俺だって負けたままはごめんだ」
肩をすくめていって、彼は札に描かれた道化を眺めた。
黒い羽根が悪魔みたいだ。
横目でに笑いかける。
「で、今度こそお嬢さんが景品ってことで」
冗談じゃない。
嫌だと訴えたけれど、ティキは無視したしアレンも何も言わなかった。
二人で勝手に話を進めてゆく。
「勝ったほうのものになってもらう。言うことは全部聞いてもらうよ」
「それでいいですよ」
「俺が勝ったら、家族を解放してくれ。そして千年公の意思に従うんだ」
「僕が勝ったら、何でもいいからあなた達とっとと帰ってください」
「……それだけか?」
「他に何かありますか」
「お嬢さんに対しての要求は?」
「十発くらい殴らせろ」
「…………女の子に対する台詞じゃねぇなぁ」
真顔で言い切ったアレンに冷や汗を浮かべて、ティキは指先でカードを翻した。
絵柄を見せつけるように持ちなおす。
「彼女は言わばジョーカーだ。どうしたって周りの注目を集める。仕方がないことだよ」
アレンは黙ったまま残りの札を手に取った。
半分に分けてティキの前へと戻す。
もう半分をさらにニ分割すると、互いの端を噛み合わせるように混ぜ始めた。
世にいうリフルシャッフルだ。
「52枚のカードからはみ出た唯一無二の存在。ゲームによって急所にもなるし、切り札にもなる」
パラパラと捲れてゆくトランプ。
手際よく動くアレンの指は美しい。
「……手元に置いておくほうが利口か、手放すのが得策か」
対照的に動きを止めた褐色のそれから、ジョーカーがはらりと落とされた。
の眼前に。
「教団も俺達も決めかねているんだよ」
「そんな半端な気持ちなら今すぐ諦めてくださいよ」
急にずばりと返したアレンにティキは一瞬黙る。
それから吐息のように笑った。
「言うねぇ」
「ほんと、どいつもこいつも……」
そこでアレンは自分の口調に思うところがあったらしく、「失礼」と謝ってから言いなおした。
「誰も彼も、彼女を持て余すくらいなら最初から手出しをしなければいいんです」
「こんな魅力的な相手を放っておけって?そいつはできない相談だな」
「あなた達は一体何がしたいんですか」
アレンはそこで沈黙している千年伯爵に眼をやった。
彼はティキとの勝負を止めるでもなく、認めるでもなく、ただただ傍観しているだけだ。
どんな形であれ決着がつくのを待っているのだろうか。
「伯爵。あなたは教団を不条理の国だと言い、彼女をアリスと呼んだ。けれど現状を見ればどうですか」
「……どう、とハ?」
「女の子を吊るし上げて、本人の否定も聞かず、身勝手な理屈で責め立てるばかり……。これじゃあ誰がハートの女王かわかったものじゃない」
何度か改めようとしていたくせに、やはりアレンは敬語を忘れてしまったようだ。
彼が自分やアクマ以外の前でこんなにも感情を出すなんて。
肌がざわざわする。
息を殺して見つめる。
「教団のことはこの際どうでもいい。今、をいたぶっているのは間違いなくお前たちだ」
アレンはぐるりと敵を見渡した。
「ご丁寧に取り巻きまで用意して、自分達のほうへと引き込もうとしている。……一説ではアリスが“少女嬲り”の話だと言われているらしいけど」
は思い出す。
その話をしていたのはラビと自分だ。
もちろん個人的意見ではなくて文学論を語っていただけである。
いつものように談話室でそんな会話を交わしていたら、たまたま通りかかったアレンに「君たちには夢がない」と膨れられたのだ。
アレンは冷たい笑みを口の端に刻んだ。
「それも本当かもしれないな。……僕は否定派だったのに」
「講義をお聴きしましょうカ?アレン・ウォーカー」
千年伯爵の嘲笑には首を振ってみせた。
そんなアレンにノア達が硬質な視線を注いでいる。
己の主を非難する愚者を見下す眼の群れだ。
「……“アリス”は生贄。非現実に遣わされた現実の使者。いいや、犠牲者だ。理性的約束を失った世界で、それでも彼女だけがひたすらに“人間”で在ろうとする」
怖い。
はそう思った。
それはアレン自身への恐怖ではない。
震えが痺れのように全身に伝わった。
こんなことになっても、彼が言わんとしていることがわかってしまう自分は、一体何なのだろう。
「同じように、彼女はお前たちの理屈を否定して、“”で在ると明言したんだ。……物語の結末は決まっている」
の予想に応えるように、アレンは低い声で言い放った。
「不条理な夢は終わりだ。――――――は返してもらう」
とんっ、とテーブルの中央にアレンの繰っていたカードが戻された。
ゆっくりとあげられた銀灰色の瞳が強く光る。
そこに自分が映っていないことをは知っていた。
やめて、と言いそうになって、ティキの長い吐息に邪魔される。
彼はもう半分のカードの山を手に取ると面倒そうに混ぜ始めた。
「お前ねぇ」
うんざりした調子でティキは呟いた。
「前から思ってたんだけどさ。そういうの、やめてあげれば?お嬢さんが可哀想だよ」
「それ、あなたにだけは言われたくないんですけど」
また少し口調が戻ってきたのは本音を隠したいからだろうか。
ティキはそんなアレンを馬鹿にしたように笑った。
「そう?殴るよりも、脅すよりも、もっとひどいことしてるだろ。お前は」
「…………………………」
「彼女を信用していない」
言葉が刃になって突き刺さる。
これ以上ティキに言われるのは死んでもごめんだから、は麻痺したような口を無理にこじ開けた。
私が告げなければいけない。止めなければいけない。
こんな勝負、絶対に認められはしないのだ。
「アレン」
「嫌だ」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「聞かない」
「どうして」
「僕は君を信用してないから」
今度こそ心臓にナイフを埋め込まれた気分だった。
一気に貫かれてずぶずぶと血が溢れ出す。
胸が詰まる。痛いのかどうかも、もうよくわからない。
震えるように瞳を見開くけれど、アレンは決してを見ようとはしなかった。
「何も言わない君なんて信じられない」
はっきりとした拒絶にラビが顔を歪めたけれど、咎めるような真似はしなかった。
神田はもっと冷静で眉ひとつ動かさない。
そう、これでいいのだ。
面と向かって伝えられただけマシかもしれない。
無言で傍を離れられるよりずっと。
「……だったら勝負を取りやめて。あなたが私のために戦う必要なんてどこにもないじゃない」
「言いたいことはそんなこと?」
「神田は敵に先手を打ってくれるつもりだった。ラビはこの縄から解放してくれるつもりだった。それは私と“一緒に”戦うためよ」
「そうだね。そして、僕はそれを邪魔した。君の“戦い”をね」
「……………………」
「僕は君に協力しない。君の戦いを僕のものにする。……誰にも介入させないよ」
「どうしてなの」
訳がわからない。
神田とラビの行動はを信用しているからこそのものだ。
結末は自分自身の手で掴まなければならなくて、そのために力を貸してくれようとした。
それは彼らとが“仲間”だからだ。
けれどアレンはそれを真っ向から拒否した。
「……決着をつけなくてはいけないだろう。君が傷つけられた。伯爵を捕らえてしまった。こうなった以上、どんな形であれ勝敗を決めなければ、僕たちもノアも引けはしない」
「だから、どうして……っ」
あぁ、顔を出さないで。
“”になる前の私。
そう心から願っているのに、金髪を振るいながら出したのは、まるで掠れた叫び声のようだった。
「信じていないのなら見捨てて。嫌いならば構わないで。私を守ろうとしないでよ……!」
それであなたが傷ついたりしたら私は“私”を許せない。
わかっているくせに。
わかっているくせに!
「わかってるよ」
頭上から降ってきたのは、いつものアレンの声だった。
否、もっとずっと優しかった。
非難の言葉にどうして微笑んだのだろう。
「わかってる」
それでもが見上げたアレンの顔はとても哀しげで、今にも泣いてしまいそうだった。
「でも、僕は怒ってるんだよ。」
「怒って……?」
「君は僕を信じなかった」
そんな覚えはない。
は首を振ったけれど、アレンはすっと目を逸らす。
いつの間にか混ぜ終わったカードの山をティキが差し出していて、アレンは自分が繰ったものとそれを交換した。
また札が捲られてゆく。
「僕が甘えていたのかと思ったけれど。やっぱり君が悪いよ」
「何の話なの」
「“なんて大嫌いだ”……君はその言葉を信じた。疑いもなく、簡単に」
「それは、だって」
「そう、君は僕を信用している。“仲間”としてね」
指先。
赤い左手の黒い爪。
ロードのそれのように人工的ではない色が、カードを滑らかに操ってゆく。
「“仲間”としてだけだ……」
ばらり、と何枚かの札が散らばった。
突然乱れた群れがの視界に飛び込んでくる。トランプの兵が責め立てる。
宣言どおり、アレンはを怒っている。
「君は“アレン・ウォーカー”を信じていない」
同時にそれをひどく悲しんでいるのだということは、彼の切ない双眸が如実に語っていた。
違う。そうじゃない。
はきつく締め付けられた胸の奥で思った。
「ねぇ、神田やラビが同じことを言っても君は信じないだろう?“嫌い”だなんて嘘だって、考えるまでもなくわかっただろう?……僕だけが」
お願いだから早く縄を解いて。
私を自由にして。
そうでないと彼を抱きしめられない。
セルジュとエニスの墓の前で泣いていた、“アレン・ウォーカー”を独りぼっちにしてしまう。
「僕だけが駄目なんだよ。ひとりの人間として、君の信用に足りていない」
アレンは自嘲の笑みを浮かべて、落としてしまったカードを拾い上げた。
一番上はジョーカー。
最強して最弱の手札。
「だから、僕も、“君”を信じない」
アレンはジョーカーの札をその場に伏せると、真っ直ぐにを見つめた。
「どれだけ君が自分で戦うと言っても聞かない。きっと勝てるってわかっていても許さない。“仲間”としての信頼を捨ててでも……」
「……………………」
「僕が君を助けるよ」
「……、どうして?」
「そればっかり」
アレンはまた少しだけ微笑んだ。
「君のことが“大嫌い”なんかじゃないからだよ」
見ていられない。
そんな笑顔。
仮面のようなそれではないのに息が苦しくなる。
だから嫌だったのに。拒みたくて仕方がなかったのに。
彼は“アレン”と“”の絆を断ち切ってでも私を手に入れようとしている。
強引に、奪うように、新たな関係を求めている。
きっとが「仲間でいたい」と言っても無駄なのだろう。
それは紛れもなく“”への裏切り行為で、“私”に対する親愛の証だった。
あぁ、彼こそがイレギュラー。理から外れた登場人物。
アリスより早く世界を壊そうとする本物の“破壊者”だ。
「それで、俺に勝負をふっかけたって?」
それまで黙って話を聞いていたティキが口を挟んできた。
楽しそうにアレンを見やる。
「随分と自分勝手だな。相手の言い分は無視か?」
「そんなの聞いていたらは守れない」
「彼女は相当嫌がっているみたいだけど?」
「知ったことか」
「ふぅん……。本気か」
ティキは繰り終わったカードをテーブルに戻し、アレンもその上に自分の分を乗せた。
準備は整った。
もうすぐゲームが始まる。
「言っとくけど、俺強くなってるぜ?少年に負けてから猛練習したからな」
「にわか仕込みで僕に勝てるとでも?」
「やってみなけりゃ分からないだろ。それに忘れたのか?お前には騙しメガネがかけられている」
「目が使えないくらい、大したことじゃありません」
「イカサマだって満足にできないはずだ。なんせこれだけのノアに囲まれてるんだから」
「物の数にも入りませんよ」
ティキの煽りにアレンは顔色一つ変えない。
微笑を浮かべてさえいる。
こいうときの彼は徹底したポーカーフェイスだから、それもどこまで本当かには判断がつかなかった。
だって明らかにアレンの不利だ。
(負ける……、アレンが?)
は少年の笑った横顔が見ていられなくて俯いた。
そのまま勢いよくテーブルに額をぶつける。
ゴツンッ!!とかなりイイ音が響いて、アレンとティキだけでなく、その場にいる全員がに注目した。
「何やってるんだ、お嬢さん?」
いきなりテーブルに頭突きをしたを、当然ながらティキは不審に思ったらしい。
少しだけ崩れたカードの山をアレンが直している気配がした。
「……あのときの気持ちが」
は起き上がらないまま、呻くように言った。
「この恐怖が、“アレン・ウォーカー”への信頼を否定するものならば、あなたの言うことを認めなくてはいけない」
怖い。恐ろしいよ。
いつだって強がって笑い飛ばして、冗談を言って誤魔化してきたけれど、本当はずっと怯えていた。
の中にいるちっぽけな“私”は泣いていた。
嫌いにならないで、嫌いにならないで、私を置いていかないで。
そんな彼女を誰よりも突き放して置き去りにしたいのは“私”自身だったのに。
「“”なら平気なのに」
アレンの視線を感じる。
は強く目を閉じた。
こんなこと絶対に言いたくはなくて、今すぐ舌を噛んでしまいたい。
それでも彼には嘘がつけなかった。
「“私”では駄目なのよ。す……、すきに、なってもらえる自信がない。嫌われて当然だと思ってしまう」
羞恥と後悔で頭がぐちゃぐちゃになる。
じわりと涙が滲むのを感じたから、はますます瞼を閉ざした。
「あなたには“私”を知られてしまったから……、嫌われても仕方がないのよ」
それが理由。
アレンだけを恐れた訳。
今まで誰に突き放されても、傷を隠して微笑んでいられた。
なんて信用できないのは当たり前で、きっと誰もが気味が悪いと思うだろう。
自分も同じ境遇だと言ってくれたラビや、どうでもいいと笑い飛ばしてみせた神田が特別なだけだ。
そしてアレンはもっと特別で、“”と“私”の境界線を踏みにじって、飛び越えて、心の奥底にまで侵入してきた。
拒絶は当然の自己防衛。
“嫌い”だと言われる前から私は彼に恐怖していた。
なら耐えられても、弱い私ではきっと泣いてしまう。
壊れて、しまう。
信じていないわけじゃなくて、失ってしまうという確信が、の全身をすくませる。
それを感じ取ったのかアレンは呆れたような声を出した。
「嫌いじゃないよ」
「だったら何なの」
思わず訊くと、彼は少し黙った。
それからきっぱりと応えた。
「僕を信じない君には云わない」
ずるい、そんなの。
“私”では信じられないと言っているのに、信じないと云ってくれないだなんて。
「意地悪……っ」
「何とでも」
がばりと顔をあげて食って掛かると、アレンは本当に意地悪に微笑んだ。
絶対楽しんでいる。
居た堪れなさに身悶えているを見て、心の底から笑っている。
いい趣味だ。
そんな彼の笑顔が嫌いではない自分は、もっともっといい趣味だ。
「言って、」
不意に声と表情を真剣なものにして、アレンはティキに向き直った。
真正面から睨みつける。
音がでそうなほど強い視線がぶつかり合う。
「“オレ”を、信じろ」
墓前で抱きしめてあげた小さな少年が、見たこともないほど精悍な顔をして、自分のために敵と戦おうとしている。
こんなのは望んでいない。守られるほど“”は弱くない。
それでも速くなった鼓動が少女の口を開かせた。
「……これ以上、敵に好き勝手されるのはごめんよ」
せめて泣いてしまわないようには笑った。
「勝って、アレン」
微かに震えながらも微笑んだ。
「私は、あなたを、信じてる」
そうすれば、あなたも微笑んでくれる?
はアレンの唇が弧を描くのを確かに見た。
「よくできました」
嬉しさを隠せずに言葉へと滲ませたアレンは、カードを手に取るとティキへと向ける。
まるで剣先のようにびしりと突きつけた。
「さぁ、勝負です。ティキ・ミック卿」
それに応えるように快楽のノアは不敵に笑った。
可愛くない。
アレンはそう思う。
それは何度だってに対して抱いてきた感情で、照れ隠しや誤魔化しのときも多いけれど、今回ばかりは本気だった。
何で、ここで言う言葉が、「勝って」なんだろう。
「勝って」じゃなくて、「たすけて」だろう。
君はこれ以上、「“私”を好き勝手にされるのはごめん」で、僕に「たすけて」欲しいんだろう。
それでも素直じゃないの精一杯の返答だ。
胸の奥が熱くなって、先刻とは違う意味で焦がれる。
衝動のように心が急かすからアレンは細く息を吸って吐いた。
勝負が、始まる。
――――――――――――彼女を奪い取る。
突きつけていた札を相手の手元にやって、もう何枚かを場から引く。
ティキも同じようにしてアレンへとカードを配った。
ディーラーがいないので互いが互いへと手札を渡すしかないのだ。
これはイカサマがしやすい反面、見破られる可能性も高い。
(目がおかしいな……)
アレンは何度かまばたきをしてみた。
やはり視界が歪んでいて、色も輪郭もぼやけて見える。
ジャスデビを一瞥すると、彼らは声を殺して笑った。
(騙しメガネ、ね)
まぁどうでもいいけど、と思うのと同時にラビと視線が合ったから微笑んでおく。
神田は無視だ。
というか絶対自分のほうを見ていないので顔を向ける必要もない。
彼らも現状に思うところがあるだろうが、文句を聞いてやるのは後回しだ。
「賭けるものは“”。ってことで、始めようか」
賭け金代わりの宣言をしたティキにアレンは頷いて、手元にあるカードを扇状に持った。
ポーカー勝負はほぼここで決まるといっていい。
誰もがそれを知っているから緊張した静寂が場を満たした。
が一度、ゆっくりと、金色の瞳を瞬かせた。
「……つまらないな」
そう呟いたティキの声は、言葉とは裏腹に弾んでいた。
「これじゃあ勝負にならない」
指先でカードを弾いて一枚を場に捨てる。
そして新たに引き寄せながら微笑んだ。
「悪いな、少年。今回は負ける気がしないよ」
言いながら札を反転させてアレンへと見せた。
ティキが手にしていたのは、
「スペードのA……!」
ラビが抑えた口調で呻く。
Aは手役の中で最強のカードだ。
にっこりと笑うティキからは他の手札にも相当の自信があることが窺えて、アレンは思わずを見た。
彼女は無表情だった。
不安も恐れもない代わりに、期待や懇願めいたものも感じ取れない。
やっぱり可愛くないなぁ、とアレンはこっそりため息をついた。
「どうした?少年」
もはや勝利を確信したノア達の微笑。
それを一身に浴びたアレンはティキにからかうような調子で促される。
「お前の番だ。カードを引けよ」
「…………………………」
「今更怖気づいた?だったら……」
「…………………………」
「俺の勝ちだな。お嬢さんはもらっていくよ」
「冗談じゃない」
遮るようにそう言うと、の肩がぴくりとした。
でもまだ僕を見ない。
いつも通りの彼女を保っている。
縛られた状態で背中にある拳が固く握り締められているから、アレンは手札で口元を隠した。
これもひとつの技。
表情を読み取られないための仕掛け。
まるでみたいにして、アレンは平気な振りをする。
「カードは引かない」
あぁ、でも、
「その必要はない」
やっぱり感情が押さえきれない。
アレンは勢いよく自分のカードを広げた。
一気に仕掛けられた勝負にティキは意外そうに目を細める。
「Kが4枚……?フォーカードか?」
デビットが怪訝に呟く。
もう一枚はどうしたのかと首をひねったところでティキも手札を開示した。
「ロイヤルストレートフラッシュ……!」
ジャスデロが歓喜の声をあげた。
アレンとティキのハンドでは、ティキの方が強い。
ラビはぐっと息をつめて、神田が睨みを飛ばしてくる。
そして目の前で繰り広げられた戦いに、もようやくアレンを見上げた。
少しの不安に揺れる瞳。血の気の引いた頬。色が変わるほど握り締められた両手。
それでも彼女は“アレン・ウォーカー”を見つめて逸らさなかった。
今度こそ真っ直ぐに注がれた金色に、アレンはそっと思う。
……そういう顔が見たかった。可愛いね、。
「あなたがAを引いたんじゃありません」
アレンは立ち上がりながらティキを見下ろした。
「“僕”が、引かせてあげたんですよ」
そして最後まで口元を隠していた、5枚目の手札に視線を移す。
現した唇には笑み。
アレンはカードに愛を込めてキスをした。
「――――――僕の勝ちだ」
宣言と共にテーブルへと“それ”を叩きつける。
「Joker」
アレンの手札を読み上げたのはだった。
白いテーブルクロスの上で笑う黒の道化。
息を呑んだティキがの眼前に伏せられていたカードを表向けた。
ジョーカーはここにあったはず……!
しかし現れたのはまったく別ランクの札だった。
「いつの間に……」
愕然として呟くティキと同じ調子でが言う。
「ファイブ・オブ・ア・カインド……、同ランクのカードが4枚にジョーカーの手役なんて」
「は、初めて見たさ……」
ラビは槌を持つのと反対の手で頭を押さえた。
信じられないとばかりにゆるく首を振る。
「ロイヤルストレートフラッシュより強い唯一のハンド……、それを一枚のカードも引かずに揃えたって……?」
そんなことは不可能に近い。奇跡の領域だ。
アレンにそんな幸運があるはずがないから、これが彼の本気中の本気ということなる。
加えてわざとティキにAを引かせたとなると、相手に優位を与えた上で勝ってみせたのだ。
圧倒的な実力で完膚なきまでに叩きのめすために。
「すげぇ……」
あまりの事態を目の当たりにして、その場の誰もが言葉を失う。
けれど当のアレンはもうカードに興味はないから、テーブルの端にあったナイフを掴むとに近寄っていった。
彼女の身を拘束している銀筋に刃を当て、ぶつりと音を立てて切る。
縄を床に投げ捨てると椅子から引っ張り立たせてやった。
「……………………」
「なに」
に呆然と見つめられて、アレンは眉をひそめた。
何でそんなに驚いてるの。
僕が勝つって信じてたんじゃないのか。
「つ、……」
「つ?」
「強すぎじゃないの……」
そう言っては脱力したように肩の力を抜いた。
その様子にアレンは笑いを漏らす。
情けなく表情を緩めた彼女の瞳には少しばかり涙が溜まっていた。
「大丈夫?」
「うん……」
「泣きそう」
「誰が……っ」
咄嗟に否定したの目元を擦れば指先が濡れた。
あたたかい雫だ。
そのまま赤く腫れた頬に掌を当てれば、鮮明な熱が伝わってきてぐらりとする。
抱きしめたい、と思った。
ようやくまた触れられて、微笑んでくれたから、この腕で抱いて泣かせてやりたかった。
「帰ろう」
けれどそんな衝動はロードの声に制止される。
アレンは反射的にの頬から指先を離して手を繋いだ。
鋭く振り返るとロードは無表情にこちらを見ていた。
「これ以上は無駄だよ」
普段の間のびした語尾はなく淡々とした口調だ。
ロードは家族に呼びかけた。
「今回は、ボクたちの負け」
「でも、ロード……!」
「勝負は勝負ですヨ。彼女の言う通りになさイ」
納得できないとばかりに声を荒げたデビットも、千年伯爵に言われては黙るしかない。
舌打ちをして後ろに下がる。
ルル=ベルも無言で後方跳躍し、神田はそれを追わなかった。
ラビと共に武器を下ろせば、ティキが面白くなさそうにカードを投げ捨てる。
「少年……、いつイカサマしたんだ?」
「正直に言うとでも?」
「だよなぁ。あーあ、つまんねぇの」
嘆息する間にロードの扉が出現する。
世界の法則を無視したそれに、もう驚きはないけれど、何度見ても不思議なものだ。
千年伯爵はジャスデビに椅子ごと運ばれてその内側へと消えていった。
最後に見えた手だけがに向って振られる。
「……仕方がないので今回はこれでお暇しますヨ。けれど、お嬢さん。次はぜひ一緒に帰りましょうネ」
「絶対にごめんよ」
「フフッ、つれない」
は少しだけ悲しい目をした。
「……さようなら、伯爵」
「ええ、また」
二人だけに通じる哀情のようなものを感じ取って、アレンは咄嗟にの様子を窺ってしまった。
正体はわからない。
微かな秘密の匂いに違和感を覚えるだけだ。
そうこうしているうちにロードの造り出す異空間が揺らめく。
「覚えてろよ、お前ら」
「ヒヒッ、次こそぶっコロす!!」
「主人への侮辱、許さない……!」
ジャスデビとルル=ベルは敵意の言葉をエクソシストに投げつけると、千年伯爵の後に続いた。
そしてロードも扉に足を踏み入れる。
直前で、
「ああ、そうだ」
ティキが呟いた。
「忘れもの」
ロードが不思議そうに振り返ったときには、アレンの視界は黒と紫に染まっていた。
「!?」
勝負に負けたとはいえ、やけにあっさり退いてくれると思っていたけれど、去りゆく彼らの姿にアレンも警戒を緩めていたらしい。
唐突にティーズの群れに目を塞がれる。
殺気と羽根を叩きつけられてアレンは呻いた。
「アレン!」
羽音の向こうにの声を聞いた。
どうやら彼女も食人ゴーレムの襲撃に巻き込まれたようだ。
否、自分たち二人を狙ってのことだろう。
「アレン、離して!!」
が叫んで、アレンを跳ねつけようと腕を振るう。
そこを掴んでいるのが左手だからだ。を開放しなければ対アクマ武器が使えない。
しかし、それは出来ない相談だった。
こうも視界を遮られてはの刃は効果を半減させる。
そんな状況で彼女を一人には出来なかった。
アレンはを繋ぐ手を何とか右に代えようとした。
瞬間、神田とラビの叫び声が響く。
「テメェ!」
「おい、!!」
その調子に戦慄してアレンは無理やりティーズの羽ばたきの中で目を開いた。
そして見えた光景に絶句した。
ぐんっ、と掴んでいる腕が突っ張る。
引き寄せようとしていたアレンに反発した力がの身にかかり、強引に遠ざけられてしまったのだ。
その原因は褐色の左手。
無遠慮に彼女の腰にまきついている。
もう片方は白い顎にかけられていて、力づくで仰向かせたかと思った瞬間には唇が触れていた。
アレンと手を繋いだままのに、ティキは荒々しいキスを贈る。
見開かれた金色の瞳。
対照的にティキは双眸を細めて少女の唇を貪る。
無理にこじ開けて舌が進入した瞬間、が総毛立ったのがわかった。
彼女が平手を振り上げるのと同時にアレンは全力で腕を引く。
ティキもを突き飛ばしたものだから、倒れこむような勢いでその身が胸に飛び込んできた。
「お前ッ!!」
アレンが怒鳴ったときにはティーズの群れは引き、後退したティキの周囲を舞っていた。
再び武器を取った神田とラビが身構える。
アレンはを隠すように抱きしめた。
「何のつもりだ……っ」
「何って、別に?」
ティキはもう用は済んだとばかりにロードの扉に体を向けている。
視線だけでを返り見て微笑んだ。
「残念賞だよ。勝負に負けたんだから、慰めてくれたっていいだろう?」
の肩が怒りか恐怖かに強張った。
アレンは彼女の頭に掌を当ててさらに引き寄せる。
その様子にティキは嘲笑を浮かべた。
「キスくらいで騒ぐなって。別に初めてでもないだろう」
「……っつ」
「もっと凄いことだって知ってるくせに。なぁ、お嬢さん?」
はアレンの胸で深い吐息をついた。
「そうね。……でも」
不愉快げに唇を手の甲で拭い去ると、貫くような眼差しでティキを見据えた。
「敵に奪わせるほど堕ちたつもりもないわ」
「……へぇ。イイ顔だ。キスだけじゃ甘かったかな」
超然と言い返したに、ティキは満足そうに微笑んだ。
背を向けて片手を振る。
「じゃあな、お嬢さん。次に会ったときはもっと凄いことをしよう」
「あなたにはキスより刃のほうがお似合いよ」
「お互い様だ」
ちろりと舌を出して自分の口唇を舐めあげた。
「お前を手に入れられるならどちらでもいい。……また会おう、」
色を含んだ低い声が耳に障って仕方がない。
そのまま彼は「ティッキーのへんたぁい」と呆れた顔をするロードと並んで扉の中に消えていった。
バタンッ、と響く重い音。
歪んだ空間は閉ざされ、扉が消えると同時にノア達の気配も完全に途絶える。
「「「「……………………」」」」
残されたのは静寂のみだ。
事の異常さにいつの間にか食堂室は無人となっていた。
それをいいことに、アレンは喉から絞り出すようにして、ある要求を口にした。
「……ラビ、火判」
「へっ?」
「火判ですよ、火判!!」
最大級の怒りを込めて叫んだ。
「早く出してください!それでを消毒するんです!滅菌消毒!!」
「それより塩だ!塩を撒け!!」
珍しいことに神田まで同じ調子で怒鳴る。
彼は傍にあったテーブルを力の限りで殴りつけた。
「快楽のノアめ、好き勝手やりやがって!!」
「まったくですよ、あのヤロウ!!」
本来ならばラビも怒るシーンなのだが、アレンと神田の剣幕がすごすぎて出遅れてしまった感が否めない。
保護者みたいな青年はそのへんのものをガンガン蹴っているし、恋する少年は猛烈な勢いでの唇を拭っていた。
「い……っ、痛い痛い痛いってアレン!」
本人が大声で抗議したが、アレンは煙が出そうな速さで擦りまくる。
鬼のような形相があまりに恐ろしくてちょっと泣きそうだ。
アレンの手の甲はのつけていた口紅で真っ赤に汚れてしまっていた。
「アレン、手が……」
「くそ……っ」
どうやら気遣ってくれたようだけど、アレンはそれどころではなく悪態をついた。
滅多ないそれに今度こそが制止してくる。
手首を掴まれて引き離された。
打ち払ってやってもよかったのに、平気な振りをされては不可能だ。
「大丈夫よ。……あれくらい、大したことじゃない」
「あれくらい……?」
キスなんて、大したことじゃない?
アレンは今度こそ本気で苛立ちが限界を超えるのを感じた。
わずかに微笑んですらみせたの体を乱暴に近付ける。
驚いた顔はほんの数センチ先だ。
咄嗟に抵抗しようとした掌をねじ伏せた。
「……残念賞がキスなら」
「え?」
「勝者の僕には?」
呑み込まれた息さえ感じた。
鼻先も睫毛も唇だって掠めるほどの距離だ。
身を引こうとするの両足の間に割って入る。
よろけた彼女の全ては完全にアレンの腕に委ねられていた。
「……冗談でしょ?」
本気の熱を感じ取ったのか、が戸惑いの声を発する。
それが完全なる引き金だった。
「勝った僕は、キスより凄いこと、してもいいんですよね?」
了解なんて聞いてやらないけれど。
「アレ……んッ」
名前を呼ぶ彼女を遮った。
「おいコラ!」
「何やってんだ、モヤシ!!」
ラビの困惑した声と神田の怒声を全く無視して、アレンは強くを求めた。
他の何も邪魔できないように。
他の誰も介入できないように。
豪力の左手にものをいわせて抱きしめた。
「く……っ、苦し……!苦しいってアレン!!」
「……………………」
「死ぬ!死んじゃうから!腕を緩めて……っ」
「……………………」
「お願いだってば!!」
当然ながらはジタバタともがいた。
それすらも出来ないよう深く抱き込めば、締め付けられた肢体が悲鳴をあげるのを聞く。
「ちょ、骨がミシミシいってるんだけど……っ」
「知るか馬鹿。痛い目を見てろ」
「じゅ、充分です!もう充分!!」
「うるさい」
抱きしめすぎて固くなった体、その首筋にアレンは顔を埋めた。
長い髪が頬を撫でる。
甘い匂いがした。
「……嫌いだ」
何でだ。
何でなんだよ。
君はどうやったって女の子で、今回は僕がたすけると言ったのに、やっぱり全然守れた気がしない。
この気持ちは伝わらない。
どうせ今口づけたって、理解してもらえない。
だから、
「君なんて大嫌いだ」
そう言ってやれば、の肩が跳ねた。
アレンはゆっくりと腕をほどいて彼女の顔を見る。
怯えた眼をした金髪の女の子の頭を優しく撫でてやった。
「僕は、君が、大嫌いだよ。……わかった?」
こんな言葉、嘘なんだって。
アレンが吐息のように微笑むと、も同じ表情になった。
否、もっと泣く寸前の子供のような顔で笑った。
「うん……」
素直に頷く姿に叫び出したくなる。
嘘だよ。好きだよ。愛しているよ。
「ありがとう」
そう告げて同じ言葉を返してくれたらいいのに。
……そんなのは夢想にしか過ぎない。
これが今の自分に出来る精一杯でしかなくて、アレンは悲しいのかもよくわからない伽藍どうな気持ちでから手を離した。
それを彼女が引きとめる。
赤い左手を白い指先が掴む。
が微笑んだから、アレンの心には黒い染みができた。
「ほんと……キスより凄いことね」
君にとってはそうだろうね。
唇の接触はどうだっていいくせに、こんなやり取りだけで本当に幸せそうに笑う。
はようやく“アレン・ウォーカー”を信じてくれたけれど、薄紅に染まった頬は僕が望むような意味じゃない。
ねぇ、さっき僕が君のために戦ったのは、“仲間”としてじゃなくて、“男”としてなんだって、わかってる?
落ちて砕けたハンプティ・ダンプティ。
二度と元には戻らない。
僕たちは二度と、元の関係には戻らない。
取り戻したのは彼女。得たものは本当の信頼。
そして壊したのは“仲間”という名の心地良い逃げ道だ。
「…………………………」
溢れ出してくるどろどろした欲望に、アレンは無理やり蓋をして鍵をかけた。
に握られた手を取り戻す。
少しだけ驚いた顔をした彼女の見えないところで固く握り締めた。
「アレン?」
問うように見上げてきたに、僕は微笑み返してあげられるだろうか?
しかし、その心配は無用だった。
「アーレーンー」
超低音で呼ばれてびくりとする。
振り返ってみれば顔を青くしたラビが両手をわきわきさせて立っていた。
「オマエなー!オレの親友に何してるんさ!!」
「とりあえず斬る……!」
神田はというともっと短気で言うが早いか本当に『六幻』で斬りかかってきた。
アレンは跳躍して回避。逃げるのを口実みたいにしてから離れる。
ラビに近づくなと言われた彼女だけを残して、三人はじりじりとにらみ合った。
「ちょっと何なんですか、神田もラビも」
「うるせェ!テメェ、今日はさんざんやらかしてくれたな!!」
「結果オーライだけど最後のだけは許せんさー!!」
右に左、上下にと振り回されるイノセンス。
仲間だというのに本当に手加減なしだ。
アレンは半ば呆れながらそれらをかわした後、不意に動きを止めて構えを解いた。
好機とばかりに襲い掛かってくる神田とラビが最も接近した瞬間に囁く。
「ごめん」
二人は動きを止めた。
刀はアレンの喉元へ、槌は頭上でぴたりと停止する。
離れた場所にいる金髪の少女を見ていられなくて瞳を閉ざした。
「僕は……」
どちらも何も応えない。
アレンは構わずに告げた。
「僕はが好きです」
握った拳を額に押し付けた。
手足がひどく冷たくて、体の芯だけが燃えるように熱い。
おかしくなってしまった感覚は鈍いのか鋭いのか。
「ごめんなさい……」
どうして謝罪するのかなんて、そんなことは言わなくてもいいだろう。
知っているだろう。
この想いは、彼女を傷つける。
許しを請わない代わりに心から願った。
僕は“”を破壊するだろうけれど、どうか君たちは。
君たちだけは、変わらずに彼女の仲間でいてやってくれ。
……それはもう、僕には絶対にできないことだから。
アレンは暗い予感と白い愛情に侵されながら囁いた。
「“オレ”は、“彼女”を、愛してる」
それはまるで法廷で罪の告白を耳にするように、聞く者の胸を静かに強襲したのだった。
くすくす、くす。
異空間を歩くロードは、背後の笑い声をいい加減怪訝に思って振り返った。
そこにはやはり唇を緩めたティキがいる。
ロードは家族ならではの容赦のなさで言ってやった。
「ティッキー、気持ち悪ぅい」
「ひでぇな」
即座に反論があったけれど、彼はまだ声を殺して笑っていて、態度を改める気はないようだ。
「そんなにキスが嬉しかったのぉ?」
同じ女の身としてはに同情したいところだが、愛する人に口づける喜びはロードにだってわかる。
ボクもアレンにキスしてくればよかったかなと思った。
まぁ、今日の彼の雰囲気では到底無理だったろうけど。
「違ぇよ」
少し遅れて否定がきたので、ロードは一瞬何のことを言われたのかわからなかった。
隣に並んできたティキが目の前に差し出してくる。
それをぱちくりしながら眺めた。
「ジョーカー?」
ティキが手にしていたのは一枚のトランプ。
ジョーカーのカードだった。
「そ。キスはおまけ。俺が本当に欲しかったのはこっちだ」
また愉快そうに笑いながら、ティキはロードを追い抜いて、先を行く己の主に問いかけた。
「次はどうやって口説こうか。なぁ、千年公」
こちらに背をむけたまま、どうやら彼も微笑したようだった。
ティキは指先でジョーカーを弄ぶ。
今回は勝負に負けたけれど、みすみす渡してやる義理もない。
このカードは渡さない。
手元にだって残してやらない。
アレンから奪い去ってきた“Joker”が、褐色の手に握り潰されるのを見て、ロードは自然と薄い笑みを浮かべたのだった。
『恋船旅路』終章です。
せっかくアレンがお相手なので、一度はやってみたかったポーカー対決。
ちなみに私の知識はにわかなので何か間違いがあったらすみません。(汗)
それにしてもアレンは強いですね〜。絶対に負けないイメージがあります。
ティキもティキで負けっぱなしにならないところが何とも言えません が。
さて、終章と言いながら根本的には何も解決してないので、次回からも恋愛メインのお話です。
糖分的にはいつも通り期待せずにお読み頂ければ嬉しいです。(笑)
よろしくお願い致します!
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