それは在ってはならないものだった。
抱いてはいけない気持ちだった。
心はいらない。
何故ならオレは真実だけを見つめる、冷徹な傍観者なのだから。
● 心情の定義 EPISODE 1 ●
「そんでその時のヤツどうしたと思う?“とりあえず不審なものには突撃あるのみ!”って言って、ジジイに飛びついたんだぜ?あの不自然に立ってる髪の毛に!ガラスの頭にホント容赦ねぇさー!!」
けらけら笑いながらラビが言った。
爆笑しすぎて少しソファーからずり落ちている。
笑うついでに強く背中を叩かれて、アレンはラビの手を振り払った。
「痛いですよ、ラビ」
「いいじゃん、だってこれは笑いなしには語れないのギリギリアウトな武勇伝なんだぜ!」
リナリーのノロケ話の後、まるで負けてられないとばかりにとの思い出話をはじめたラビは本当によく喋った。
いつまでたっても言うことがなくならないらしく、談話室に陣取ったまま、すでに数時間が経過している。
が一向に目を覚まさないので、誰も動くに動けず、また動く気もなかった。
リナリーはに関する話を微笑ましく、そして少しばかりの嫉妬をまじえながら聞いていた。
彼女が妬くのもわかるくらい、ラビの語り口調はをよく知っており、アレンですら何度かムッとしたほどだ。
話の大半を怒り混じりの呆れで聞いて、アレンはため息をついた。
「ほんと……、って昔からだったんですね」
「その通り!」
「それで、ラビもそのころから一緒になって馬鹿やってたわけですか」
「おうさ。そりゃあもう退屈しなかったぜ」
にこにこと話すラビは、腹が立つぐらい本当に楽しそうだ。
「ジジイのメイク道具をこっそり取り替えたこともあったなー。すっげぇカラフルな顔になっちまって。あとでオレももさんざん怒られたけど、あれは笑いが止まらなかった!」
そう言って、ラビはまた大きな声で笑った。
懐かしげに細められる瞳が涙で滲んでいる。
アレンは少々鬱陶しくなってきたので、ラビを無視してリナリーに向き直った。
「それにしても、ちょっとショックですよ」
「何が?」
いきなり話を振ったわりに、リナリーはすぐさま反応を返した。
どうやら彼女もラビの自慢話には思うところがあったらしい。(絶対にそれは嫉妬だ)
アレンはにっこりと笑って言葉を続けた。
「グローリアさんのことです。クロス師匠と対等に話が出来る彼女を、僕は尊敬していたのに」
言いながら視線をの寝顔へと移動させる。
「二人の話を聞いた限り、の破天荒な性格は、どう考えてもグローリアさんの影響ですね」
アレンがそう言った瞬間、隣のバカ笑いが止まった。
急に静かになったラビを振り返ると、彼はじっとを見つめていた。
先刻までの笑顔が嘘のように消えている。
アレンは首を傾げたが、リナリーが気づかずに言った。
「そうね。確かにちょっと似ているかも」
「似てねぇよ」
そう言い捨てたのはラビだった。
何だか乱暴な口調だった。
クッションを抱えて、何だか不機嫌な顔をしている。
唐突に変わった雰囲気を不思議に思ってアレンが視線で問いかけると、ラビはすねたように呟いた。
「オレ、グローリアのこと好きじゃなねぇんさ……」
彼らしくない物言いと言葉の内容に、リナリーが声をあげた。
「ええ?どうして?」
驚く彼女と同じように、アレンも目を見張った。
グローリアに会ったことはないが、話から想像するに、ラビの好みである大人っぽい魅力の女性なのだ。
それに様子から察する限りでは、もリナリーも、彼女に懐いていたようだ。
疑問の眼差しを向けられて、ラビはのろのろと口を開いた。
「がアイツのこと好きだし、死人を悪く言うのは嫌だから黙ってたけど。オレはグローリアが好きじゃなかった」
ラビの声には、どうにもならない怒りが混じっていた。
それは子供心に彼が抱いていたものなのだろう。
「だって、アイツは毎日をボコボコにしてたから」
「ラビ、でもそれは……」
「わかってるさ、リナリー。でも、いくら弟子を鍛えるためだからって、来る日も来る日も血を吐くまで殴って、体中アザだらけにしてたんだぜ。骨折なんて当たり前だし、ひどいときは内臓が破れても戦わせてた」
それを聞いたとき、アレンは特別には驚かなかった。
何故ならの身のこなしは、一目でそうとうな鍛錬の成果だとわかるものだったからだ。
のイノセンスは強力だが、それだけでは活かしきれないその特性を、彼女は自らを鍛えることで克服している。
そう指導したのは師匠であるグローリアだと容易に想像できたし、伯爵やノアに目をつけられているを鍛えるのは彼女の使命だったとも言えた。
けれどそれは理屈であって、感情では割り切れないものだった。
特に、幼い友人の立場としては。
「あまりに痛々しくて、ホント見てらんなくて。やめてくれって頼んでも、その度にが止めるなって言うんさ。強くなるしかないから、これでいいんだって。でもがよくても、オレは嫌だった」
ラビはぎゅっと強くクッションを抱きしめた。
「オレは、そんなの嫌だったんさ」
そこまで言ってラビは顔を伏せてしまった。
けれど少しだけ微笑んだ声がする。
「まぁ、グローリアもオレのこと気に入ってなかったみたいだけど」
「……それは、どうしてですか?」
「うん、これもムカつく話でさ。オレが未来のブックマンだからって」
アレンが瞬くと、ラビはぺしりとクッションを叩いた。
「オレはブックマンになったとき、の隠し続けている過去を知ることになる。それが気に食わねぇんだと」
アレンはそれを聞いて、何だかハッとした。
そうなのだ。
ラビは将来ブックマンになるべき性を持つ青年。
いつの日か、の秘密さえも知ることのできる立場にいる。
「“そのときになっても、まだ親友面してられたら誉めてやるよ”ってさんざん言われて虐められたからな。あれ、結構トラウマになってる」
「確かに、の秘密って、相当なものみたいだものね……」
リナリーが唇を押さえて呟くと、ラビはふんっと息を吐いた。
強気なそれは、まるで恐れや不安を笑い飛ばすかのようだった。
「上等だぜ。どんなことになったって言ってやるさ。胸を張って、“オレはの親友だ”ってな」
翡翠の瞳が窓からの光を吸い込んで、不敵に煌めいた。
その様子にリナリーが少しつんとした声で言う。
「もう本当に妬けちゃうわ。とラビは仲が良すぎよ」
「そりゃあ一番付き合い長いしなー」
「出逢いは私のほうが先よ」
「“”と出逢ったのはオレのが先さ」
「ちょっと。そんな小さなことで争わないでください」
アレンは半眼になって仲裁に入ったが、リナリーに睨まれた。
あれ?僕、正論言ったのに。
そもそも僕なんて、一番出逢いが遅くて付き合いが短いのに。
アレンはそう思ったが、リナリーには伝わらなかったようだ。
「小さなことって何よ、アレンくん。これはとっても大切なことなのよ。そのせいで私はラビに親友の座を奪われたんだから!」
「別にそれだけが勝因じゃねぇけどな。え、何さ、聞きたい?オレ達ふたりの出会いを聞きたいって!?」
「何も言ってませんよ、ラビ」
「よーし!お兄さんが語ってやるさ!オレとの運命の出会いを!!」
聞いてもいないのに勝手に盛り上がるラビに、アレンはため息をついた。
何故だか自分以外にのことを語られると、自慢されているように感じてしまう。
どうしたことなんだろう、これは。
けれどそう思ってしまうのも無理のない調子で、ラビは話し出した。
嫉妬にむくれるリナリーと呆れ顔のアレンの間を、最高潮に楽しそうな声が通過していったのだった。
それはやはり数年前の話だ。
以前からブックマンの弟子としてちょくちょく『黒の教団』に顔を出していたラビは、ある日師匠に突然こう言われた。
「お前に会わせたい者がおる」
それを聞いて咄嗟に思ったことは、イキナリ何を言い出したんだこのジジイは、だった。
そのころはまだ同じくらいの身長だった、己の師を見つめる。
奇妙な黒いメイクに彩られた瞳が、真っ直ぐこちらを見据えていた。
ゆったりとしたデザインの団服に身を包んだ小柄な老人。
現ブックマンを見つめ返して、ラビは笑った。
「何さ、マジメな顔しちゃって」
冗談はやめてくれという含みを持たせて、ラビは頭の後ろで手を組んだ。
「会わせたい者?未来のブックマンであるオレに?」
それが師の言葉をまともに受け取らなかった理由だった。
“ブックマン”とは流れる者だ。
歴史を傍観し、記録する。
それだけを為す存在。
どこにも留まらず、心を傾けず、さすらうだけ。
それはありのままの歴史を残すという、重い性を背負っているからだ。
確実にその役目を果たすために、どんな場合も私情をまじえることは決して許されない。
関わった人々とも、いずれ別れる運命にある。
そんな道を歩む自分に、個人的に会わせたい者がいるだなんて、あり得るわけがなかった。
「教団のお偉いさん?それとも記録するべき情報の持ち人?そんなんわざわざ言われなくても会うって。なに深刻ぶってるんさ」
とうとう耄碌してきたのかジジイ……、とか思いながら、ラビは適当に話を流そうとした。
しかしその頭はブックマンによって強烈にはたかれる。
「馬鹿もん、少しは真面目に聞け!」
「い……ってぇ!何するんさー!」
「いいか、ラビ。これからお前に合わせる人物は、少々……いや、かなり厄介な事情を抱えておる」
「はぁ?」
突然そんなことを言われても、ラビはぽかんとするしかなかった。
しかしブックマンはやけに真剣で、袖に両手を突っ込むと重いため息をついた。
「その者は抜き差しならない理由で過去を放棄した。名前を捨て、出生を隠し、別の人物になることになったのだ。……我々が強制したと言っても過言ではない」
「ちょ……、ちょっと待つさ」
ラビは掌を突き出して話にストップをかけた。
頭が混乱していて、思わず手を額にやる。
「何だよ、それ……。名前を捨てたって、過去を放棄したって、そんなんまるで……」
「そう。お前と同じ境遇だ」
重々しく頷いたブックマンに、ラビは雷に打たれたかの如く固まった。
しばらく硬直した後、プルプル震え出す。
瞳には涙が滲んでいた。
「ひ……ひっでぇ!ひでぇさジジイ!!」
「はぁ?何の話じゃ」
怪訝そうに眉を寄せるブックマンを指差して、ラビは非難の声をあげた。
「どこから見つけてきたんだよソレ!オレを見捨ててソイツを新しい弟子にするつもりだな!確かにオレはまだまだ未熟者かもしんねぇけど、そんなのひどすぎさ!サイテイ!鬼畜!このサディストパンダ!!」
「阿呆か」
びーびー泣き喚くラビを、ブックマンはあっさりそう言い捨てた。
その心底バカにしきった声と目線に、ラビはやっぱり捨てられるんだと確信した。
「こんなひどい仕打ち、今時おとぎ話の継母でもしねぇさ!もういい、だったらコッチから出てってやる!パンダジジイなんて新しい後継者と動物園に帰ればいい、檻の中で快適に暮らせばいい、そこで優雅で幸せな老後を過ごせばいいんさ!!」
「だからお前は阿呆だと言っとるんだ、話を聞かんかーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
涙ながらに言い放った途端、ブックマンも強烈な蹴りをうち放っていた。
それは見事にラビの即頭部を捕らえ、少年の体は無惨に壁に激突、コンクリートにめり込む。
床にベシャリと落ちた弟子を見下ろして、ブックマンは何故かそこで微笑んだようだった。
「やはりお前はあの者と気が合いそうだ。同じようなことを言われたぞ」
「…………は?」
「あやつの場合“子供達の人気者になればいい!!”と、言うことがひとつ多かったがな」
「なに……?何のことさ?パンダの話?」
「違う。先刻から言っておる、お前と似た境遇の者のことだ」
床に伏していたラビはそこで瞳をあげた。
目を瞬かせてブックマンを見つめる。
師はもう一度、言った。
「お前に会わせたいものがいる。…………話を聞くか?」
そしてラビは戸惑いながらも、頷いてみせたのだった。
「…………………………っつーと、何?裏歴史にしか残せないような事件に巻き込まれたソイツは、生きていられるとどうにも厄介だから、過去の自分を殺して、別人にならなきゃいけないってこと?」
「身も蓋もない言い方をするなお前は……。まぁそういうことだ」
どうにも簡潔すぎるラビのまとめを、前を行くブックマンが肯定した。
二人が行くのは『黒の教団』の長く薄暗い廊下だった。
どうやらこの先に、これから会うべき人物がいるようだ。
師の後につき従いながらラビはぼんやり思考する。
まさか自分と似た境遇の者が、他にもいるなんて。
そんなこと、これっぽっちも考えたことはなかった。
想像すらしたことない。
どこまでも特殊な性であることは、身を持って知っていた。
だからこんな運命を背負って生きているのは、自分だけだと思っていたのだ。
「辛かったろうな……」
ラビはブックマンが振り返るまで、自分がそう呟いてしまったことに気がつかなかった。
だから彼の鋭い瞳で見られて、少々慌てる。
両手を振って誤魔化すように言った。
「あーだって、オレは自分で納得してこの道を選んだけれど、ソイツは偶然そんなことになっちまったんだろ?進んで名前を捨てたわけでも、出生を隠すわけでもないんだったら、そんなの……」
横に振っていた手が下がっていく。
何だか力の抜けていく自分のそれを見下ろして、ラビは囁いた。
「そんなの、絶対つらいよな……」
「………………」
ブックマンは何も言わなかった。
そのまま顔を前に戻して歩き続ける。
ラビもそれに続いた。
しばらく進んでから、ブックマンはようやく口を開いた。
「あの者も自分で選んだのだ」
「え……?」
「別人として生きていくことを、自ら選んだ。そう仕向けたのは確かに私達だ。……イノセンスの適合者をみすみす死なすわけにはいかん。それだけの理由のために」
ラビはもう少しで歩みを止めてしまいそうだった。
ブックマンは乱れた自分の足音に気がついているはずだ。
けれど決して振り返らなかった。
「世界はあの者に対して残酷だ。人々はあれを拒絶し、排除しようとするだろう。だから別人にならなくてはならない。けれどそれだけで、あの者が背負うものが変わるわけではない」
「…………………」
「あれの罪は重く、罰は永遠に続くだろう。……だからお前と引き会わせるのだ」
「オレに……?」
ラビは胸騒ぎを感じて団服を握り締めた。
ブックマンは振り返らない。
ラビは足を止められない。
「お前はやがて知ることになる。あれの秘密の全てを。知ることでお前はその運命、その一端を背負うことになる。―――――――――――ブックマンとして」
それはあまりに重い言葉だった。
そう、真実を知る者は等しく背負わなければならないのだ。
問われ続ける責任と、そこに渦巻く運命を。
まるで伴侶のように寄り合って、添い遂げねばならない。
それが“知る”者の責務なのだ。
「だからお前をあの者のところへと連れて行く。俗な言い方だが、将来を約束した相手だ。お前が生きている限り、そしてあれが生きている限り、お前たちは関わり続ける。あれの人生を管理することもまた、我らの仕事なのだ」
「……それが」
声を出すと喉がかすれた。
ラビは息を吸って、もう一度言った。
「それが、“ブックマン”の役目……」
「そうだ」
頷いて、ブックマンは足を止めた。
そしてラビを振り返ると、廊下の先を指差した。
「ここからは一人で行け。ブックマンとしての自覚を新たにする、いい機会だ。自分だけで対面し、言葉を交わして来い」
そう言われてラビは身震いをする思いだった。
何だか人ひとりの人生を、急に背負わされた気分である。
そうなるのはもっとずっと先で、自分はまだまだ修行の身だ。
だからこそ、想像するに余りある凄まじい重圧に、膝が砕けそうだった。
ここまで来る道のりも、聞かされた話も、自分を脅かすための仕掛けかと思われた。
「くそっ、嫌がらせかジジイ……っ」
「何を言うか。いいから行って来い。なに、強暴だが噛み付きはせん。……たぶんな」
「ええーっ、何さソレ、どんなヤツなんさ!」
「行けばわかる。奥から二番目の部屋だ。ホラさっさとせんか!」
叱咤と同時に背中を前に突き出されて、ラビは転がるように廊下を進んだ。
ずらりと並ぶ扉の群れ。
目的の部屋に入ると見せかけて、そのひとつ手前に入ってやろうか。
ちらりとそんなことを思ったが、ラビは首を振った。
しゃんと背筋を伸ばして奥から二番目の扉を目指す。
前に進む。
それは足を止められないからじゃない。
足を止めないんだ。
自分の意思で。
ラビはブックマンとして生きることを決めた。
だからこんなところで臆すわけにはいかなかった。
しかし、
「やっぱ怖ぇって……」
目の前の扉を見上げてラビは呻った。
どんなに覚悟していたって、怖いものは怖い。
それが人間で、ラビだった。
この向こうに、将来自分が背負うべき秘密を抱えた人物がいるのだ。
言い知れぬ不安がどんどん膨らんで、扉の前で右往左往する。
思わず縋るようにしてブックマンを振り返るが、彼は身振りで“行け!”と命令を寄越しただけだった。
どうやら逃げ道はなさそうだ。
しかもモタモタしているからパンダジジイの導火線に、今にも火がつきそうである。
ラビは恐怖に板ばさみにされて、とにかくドアノブに手を伸ばした。
と、その時。
バンッ!!
と大きな音をたてて、目の前の扉が開かれた。
続けて、
ガスンッ!!
と景気のいい音と共に、扉板がラビの顔面を直撃した。
ラビは激痛のあまり、悲鳴すらあげることなく床に崩れ落ちる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っつ!!!」
「うわー……。なに?今の確かな手ごたえ」
無言で悶絶していると、頭の上から声がかかった。
同時に目の前に人が立つ気配がする。
ラビは血の味のする口元を押さえて顔をあげた。
そして目を見張った。
そこにいたのは少女だった。
齢はラビよりいくつか下だろう。
まだまだ成長過程である細い四肢に、小さな顔。
その頬を覆うのは見事な金髪で、肩にかかるぐらいに切りそろえられている。
通った鼻筋に小さな唇。
こちらを見下ろす瞳は、薄暗い廊下でも輝くばかりの金色だった。
ラビは幼いながらも衝撃を受けた。
少女が整った容姿をしていることは誰の目にも明らかだったが、それ以上に意識を惹きつける雰囲気を持っていたのだ。
それは人ごみに混じってしまってもすぐに見つけ出せるであろう、確かな存在感だった。
美人は美人なのだが、普通に言うそれだけではすまないものがある。
ラビは少女を見て、見つめて、見とれていた。
扉板にぶつけた鼻を押さえたまま、床にしゃがみこんだ体勢で、呆然と目を見開いていた。
少女はそんなラビの様子を不審そうに眺めて、それから部屋の扉を振り返った。
そこについた血の跡を確認し、またラビを見下ろす。
そしてその容姿にぴったりの、綺麗な声で言った。
「懲役は6ヶ月以下よ」
ラビは咄嗟に反応できなかった。
ぽかんと口を開けると、少女は腰に片手を当てて、再び言う。
「もしくは50万円以下の罰金」
「…………………………は?」
ラビは目を瞬かせた。
何を言ってるんだコイツ。
まったく理解できないし、何だか不愉快な内容な気がするし、それよりも声が綺麗だから聞き惚れていたい。
けれどたぶん無理だろうということはわかっていた。
少女は特に表情を変えずに、普通に言った。
「残念ながらお目当てであるグローリア先生は留守だよ」
「え……?いやグローリアに用があるんじゃなくて」
「じゃあ私?先生みたいなボンキュッボン!じゃないよ?胸なんてないに等しいけどいいの?そっちのシュミの人?」
「は……?いや、ちょっと待て、なに……」
「なんて言ったっけ、あなたみたいな人のこと……。ええーっと。そうだ、ロリコン!」
「いやいや待てって」
「ロリコンだー!私、生で変態に会うの初めて!」
「だから待てってば!」
「ちょっと感動だね!」
「オレは絶望だ!!」
だんだん勘違いされていることを理解して、ラビは勢いよく立ち上がった。
そうすると少女は意外なほどに小柄だった。
けれどそれよりもラビは叫ぶ。
「オレはロリコンでも変態でもねぇさ!」
「えー?だって部屋の前で鼻血たらしてたじゃない。覗きは懲役6ヶ月以下、もしくは罰金50万円以下なのでよろしく」
「覗きでもねぇし!そもそも鼻血はオマエが勢いよく扉を開けたからさ!!」
「ああ、それは何だか人の気配がしたから、とっちめてやろうと思って」
「何で部屋を訪ねただけでとっちめるんだよー!!」
「先生が、“コソコソした妙な輩がいたら、それはバカか変態だからぶちのめせ。私が許す”って言ってたから、それを忠実に楽しんで実行しようかなと」
「なんて過激なこと命令してんだグローリア!教育上よろしくねぇさ!!」
「てゆーかまだ鼻血たれてるよ。大丈夫?」
そう訊かれてラビは顔を覆う手に力を込めた。
扉にぶつけた鼻はまだじんじんと痛み、少女の言うとおり血の流れる感触がしていた。
「うううう血の味がする、気持ち悪ぃ……」
思わず不快を口にすると、遠く廊下の向こうから声がした。
「何をやっとるんだ、お前は」
いまだにそこに立って、こちらの様子を見ていたブックマンだった。
彼は心底呆れた様子でため息をつき、嘆きに首を振った。
「仮にもブックマンの後継者と庇護すべき者との初対面だというのに……。変質者と勘違いされた挙句、鼻血とはずいぶんなものだな」
この苦情には、ラビも声をあげねばならなかった。
「オレのせい?オレのせいなんか!?いや違う、絶対に違う!確かにオレもちんたらしてたけど、それだけで特攻かけてくるコイツが悪いんさ!!」
必死にそう訴えたがブックマンは取り合わなかった。
まるでハエでも追い払うように手を振ってみせる。
「もういい。はやく挨拶を済ませろ」
一方的だ。そして理不尽だ。
相変わらずこの世は自分に対して厳しいのだと再確認して、ラビは少女に向き直った。
そして憮然とした調子で言った。
「出せよ」
少女は動かない。
じっとラビを見上げるだけだ。
ラビは少し眉を寄せて、もう一度言った。
「過去を隠蔽して生きていくことになったっていう、因果な奴を出してくれ。オレはソイツに会いに来たんさ」
「………………」
「おい……、ここにいるんだろ?」
何の反応も見せない少女にじれたラビは部屋の中を覗きこもうとしたが、それより先に彼女は言った。
ラビではなく、廊下の先に立っているブックマンに向かって。
「じーさん。これはどういうこと?」
ラビは思わずぎょっとしてしまった。
まさかブックマンのことを“じーさん”呼ばわりする者が『黒の教団』にいるだなんて。
ラビも“ジジイ”と呼んではいるが、それは彼の弟子としての特権であると、勝手に思い込んでいた。
“ブックマン”、その存在の意味を知ったうえで、そんな呼び方をする者がいるとは、考えてもみなかったのだ。
しかし当のブックマンは特に気分を害した様子もなく、答えた。
「近いうちに引き合わせると言っただろう。そやつがそう、不本意ながらも私の弟子、未来のブックマンだ」
「じーさんの弟子……。未来のブックマン……」
少女はそれを聞いてきょとんと瞬いた。
そして言う。
「この変態さんが」
「誰がだー!!!」
ラビは全力で叫び、否定した。
何だか名誉毀損で訴えてもいいぐらいの勘違いを解こうとラビは再び口を開きかけたが、それより先に少女が頭を下げた。
「はじめまして」
「………………は?」
意味がわからずに顔をしかめたラビに、少女は告げる。
「わざわざ会いにきてくれてありがとう」
「え……?いや、オレは」
会いに来たのはオマエじゃない、と言おうとしたが、それはブックマンの盛大なため息に遮られた。
どこまでも鈍い弟子を見やって、師匠は告げたのだった。
「いい加減に気がつけ。その娘がそうだ。お前と引き会わせたかった者なのだ」
ラビは仰天して少女を見下ろした。
上から下まで眺め回して、それでも理解できずに固まる。
その様子に少女は笑った。
「はじめまして、ブックマンの後継者。私が“過去を隠蔽して生きていくことになったっていう、因果な奴”よ」
その事実に、ラビは目眩を覚えた。
そして相手がこんな小さな女の子だと、あらかじめ説明しなかったブックマンを、心の底で呪ったのだった。
ヒロインとの思い出話、第2弾『心情の定義』はじまりです〜。
リナリーのお次はラビで。
ヒロインとラビの関係は“親友”です。
それも生半可なものではありません。(それこそ、どちらかが欠ければ残された方は壊れてしまうくらい、互いを大切に思っています)
それは二人ともどうしようもない孤独を抱えて生きているからこそですね。
そのへんがきちんと見えてくるように書いていければ、と思います。
次回はヒロインとラビがおつきあいしますよ〜。(笑)
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