心はいらないと教えられた。
感情を殺すのが義務だと言われた。
だったらオレは、お前にすべてを預けよう。
いつか役目を終える、その日まで。
● 心情の定義 EPISODE 8 ●
「うひょう、あの姉ちゃんストラーイク!!」
白い扉にへばりついて、ラビは明るい声をあげた。
場所は大きく清潔な建物。
十字架を掲げた病院の中だ。
ラビは目の前の廊下を行く看護婦に、熱い視線を投げかける。
床にしゃがみこんだ彼の背に上半身を預け、もその女性を見た。
デヘデヘと笑う赤い頭に顎を乗せて言う。
「おっ、やっぱりラビの好みかー。でも残念。あの看護婦さんには恋人いるよ」
「マジで!?つーか何でオマエそんなこと知ってるんさ!?」
「きのう口説いた」
「手ぇ早いな!ケガ人のくせにっ」
「ばっか、だからこそだよ!“あなたのような美しい方の手を煩わせてしまってごめんなさい……、けれどケガ人に尽くすその姿を一番近くで見ることのできる私はなんて幸せ者なんでしょう。傷の痛みも宇宙の彼方に吹き飛ぶようだ!”ってね」
「何そのベッタベタな殺し文句!そんなんで落とせるなんておかしい!この世界はおかしいさ!!」
「おかしくなーい。もうお友達だもの。おーい!」
がそう呼びかけると、例のお姉さんは振り返り、笑顔を浮かべた。
手を振ってくれたので、も振り返す。
大人っぽい彼女の微笑に、ラビは床に沈没した。
「オレは今、オマエが女でよかったと心から思ってる……」
「なんで」
「男だったらマジでムカつく、すっげぇジェラシーだから!!」
「ヘタレなこと言うなっ、がんばれ立つんだラビ!!」
「無ー理ー!!」
「そんな消極的な態度で女の子のハートをゲットできると思うなよ!よーし、久しぶりに私が素敵な口説き文句を伝授してあげる!!」
「嫌!オマエ有り得ねぇほどスパルタじゃん!絶対に嫌さー!!」
過去の恐怖が蘇ってきたラビはそう叫んで跳ね起き、病室内を逃げ回った。
それをすぐさまに捕まり、床に引きずり倒される。
背中にどかりと腰を下ろされて、ラビは悲鳴をあげた。
「ぎゃあっ!!」
「さぁラビ、まずは基本文句からだよ!リピートアフターミー!!」
は意気揚々と喋り出したが、その途中で騒ぎを聞きつけた年配の看護師が病室に駆け込んできた。
彼女の手によって二人は引き剥がされる。
それからしばらくお説教をくらった。
「病室で暴れるな、ケガ人は大人しくしていろ」と言葉を変え、表現を変え、延々と注意される。
ラビとはもう慣れっこだったので、「「ハーイ」」と口だけの返事をした。
看護師も二人の悪癖(主にケガ人だということを忘れて暴れまわること)については、何を言っても治らないと諦めたらしく、ため息をついて出て行った。
それでも「安静にしていなさい」と釘を刺すのは忘れない。
仕方なくラビとは自分のベッドに戻ることにする。
「はーぁ。病院って暇さー」
ラビがシーツに倒れこみながら不満の声をあげた。
もごろりと寝転んで、頷く。
「たいしたケガでもないのにね」
「オマエはたいしたケガだろ」
ベッドの上で身を起こしたラビの、翡翠の瞳が睨みつけてくる。
「火傷に凍傷、刺傷、裂傷、打撲にその他もろもろ。ケガの見本市かっつーんさ」
「そっちも似たようなものじゃない」
そう応えて、もラビを睨み返した。
「……肩、まだ痛い?」
「ん?うん、ダイジョブだって」
「よくも私のこと庇ってくれたね、ありがとう!」
「お礼なら笑顔で言えよな……」
顔をしかめてぶつくさ言うラビを、はじっと見つめた。
あの炎の海から爆発を引き起こし逃れたとき、地面に落ちる寸前でラビがの下敷きになったのだ。
彼女を庇うために己の体を盾にしたのである。
結果ラビの肩の骨を痛め、現在はきつく固定されている。
「……ありがとう」
は何とかがんばって笑おうとしたが、やっぱり少し無理があった。
それはラビを怒っているのではなくて、彼に庇われなければならなかった自分のふがいなさに対する腹立ちだった。
思わず瞳を伏せる。
その様子にラビが苦笑する。
「オマエだってオレのこと言えないだろ」
言いながら彼は包帯の巻かれたの頭を指差した。
それは崩落してくる瓦礫から、がラビを庇って負ったケガだった。
「皮膚がバックリいってたくせに。何針縫ったんだっけ?」
「さぁ忘れた」
「ははっ、まぁとにかくお互い様ってことで」
「ふん、だ。覚悟しろラビ!」
は強く言って、ベッドの上に立ち上がった。
ビシリと指先をラビに突きつけて宣言する。
これは約束。
そして誓いでもある。
「私はもっともっと強くなる。それであんたを完膚なきまでに守ってやるんだから!」
それを聞いてラビは一瞬、虚を突かれたような表情で固まった。
見開かれた翡翠の瞳が、強気な黄金の瞳を見返す。
それからすぐに吹き出した。
腹を抱えて大きな笑い声をあげる。
「ぷ……っ、あはははははははははは!!!」
「な、何だよー!」
「あはは、じゃあさ。オマエもだ」
ラビは涙の滲んだ瞳で、を見据えた。
「オマエも、オレに守られる覚悟を決めろよ!」
にやりと不敵な笑みがその唇に浮かんだ。
はゆっくりと瞠目した。
突きつけられていた指先がわずかに震える。
それをぎゅっと握りこんで、は微笑んだ。
「……うん!」
やっと見ることのできたその笑顔に、ラビも相好を崩した。
何だか胸の内が暖かくて、くすぐったくて、顔を見合わせて笑いあう。
すると病室の扉が控えめにノックされた。
「はーい」
が応えると、探索隊の男性が静かに室内へと入ってきた。
「失礼します。あの……、ラビさんにこれを」
そう言って彼が差し出してきたのは小さなブーケだった。
オレンジと黄色の小ぶりな花でまとめられ、赤いリボンが飾られている。
ラビは受け取りながら目を瞬かせた。
「何さ、この花」
「そこで貴方に渡してほしいと頼まれまして」
「ハッ、もしかしてそれは綺麗な姉ちゃんだったり!?」
「しません」
「なーんだ。ガッカリ」
ラビは大げさにため息をついて肩をすくめた。
その弾みでブーケについていたカードが床に落ち、がそれを拾う。
そしてその文面、書かれていた名前に驚く。
ラビは誰からなのか尋ねようとしたが、それより先に探索隊の男性が言った。
「そのブーケを私に預けていったのは、あの夜あそこにいた少年ですよ。ほら、藍色の髪と瞳の」
それを聞いた途端、ラビの動きが止まった。
ブーケを握る手に不自然な力が入る。
息を詰めて探索隊の男性を見上げる。
彼はラビのその反応に戸惑いを覚えたようだった。
「あ、あの。何か……?」
「………………ソイツ」
声が掠れた。
ラビは息を吸ってもう一度口を開く。
「ソイツ、何か言ってたか?」
「え?いいえ。ただ“赤毛で眼帯の男にこの花を渡してほしい”とだけ」
「何で……、コーネルの奴」
「これがコーネルの答えなんだよ」
がそう言った。
ラビは視線を巡らせて彼女を見た。
金の瞳が微笑んでいた。
とても優しく、暖かく。
その白い手がラビへとカードを差し出す。
「大切なものでしょ。もう落としちゃ駄目だよ」
ラビは何も言えないまま、それを受け取った。
薄黄色の四角い紙片。
その上には記憶の中にある懐かしい文字が躍っていた。
『赤毛の馬鹿へ』
「な、何さ、この宛名……」
ラビは思わず半眼になった。
冷や汗が出るのを止められない。
ため息をひとつ吐いて、コーネルの文字を追ってゆく。
『書くスペースが少ないから要点だけ。俺はやっぱりお前を許せないと思うし、許す気もないよ』
それはそうだろう。
あんな風に存在を廃棄されて許せる人間がいるものか。
ラビはそう思って続きを読む。
『けれどどうしても願ってしまうことがあるんだ。それはたぶんくだらなくて、でも俺にとっては大切なことで』
ラビはそこで前髪をかきあげた。
バンダナを取っているから目にかぶさってくるそれが、視界の中で邪魔だったのだ。
けれどその指先が止まる。
『お前がいなくなったあの日から、俺はずっと祈ってた。お前の無事を、平穏を、再会を。最後のひとつはもう無理でも、他のことはこれからも想わせてほしい。つーか想わせろ。俺の勝手だ』
そうだ、オマエの勝手だ。
けれど、それは。
ラビは小さく息を呑んだ。
コーネルの綴った心に、目を見張る。
『俺はこれからもずっと祈ってるよ。お前の幸せを。元気で生きてるかなって、毎日毎日、空を見上げて思うよ。それはの言うところの“友達”ってやつで、だからやっぱりお前は俺の“友達”ってことだ。いろいろ考えるのは面倒くさいから、もうそういうことにしておく。お前もそういうことにしておけ。いいな』
いいな、ってそんなこと。
思っていいのか。
オレは、まだ。
『お前はもうあのころのお前じゃないから、俺のことを思い出すことはないだろう。でも、だったら知っていてほしい。お前の幸せを願ってる奴がここにいるって、知っていてくれるだけでいい。それが、俺のたったひとつの望みだよ。ワガママでごめんな、ああもう書くところがない。よってこれで終わりだ!』
ラビは知らずに手に力を込めた。
最後の一文が心に突き刺さる。
何度もそこを読み返した。
『お前の友達、コーネルより』
“友達”と、呼んでくれるのか。
あんなにひどいことをしておいて。
それでもまだ、オマエは。
胸が苦しくて、ラビは片手で顔を覆った。
握り締めたカードを額に押し付ける。
「ははっ、馬鹿はソッチさ……」
呟く声は震えていた。
それを殺したくて体を強張らせる。
ラビは口元に笑みを滲ませた。
「何で、こんな」
世界は冷たく、残酷だ。
絶望や苦痛に満ちている。
オレだけが知っている、世界の裏側、本当の姿。
けれど、握り締めた紙片に溢れるこの優しさは何だろう。
廃棄してしまった過去をそっと包む、この暖かさは何だろう。
「本当に馬鹿さ……、コーネル」
顔を覆った手の隙間から、消えそうな呟きがこぼれ落ちた。
けれど共に落ちてきた一筋の涙は、二度と消えることのない光を放って、世界へと溶けていったのだった。
はラビをひとり残して、そっと部屋をあとにした。
手を引いて一緒に連れ出した探索隊の男性には、唇の前で人差し指を立てておく。
彼に小さな声でお礼を言い、持ち場に戻るよう告げて、は歩き出した。
目指すところは決まっていた。
白い廊下を進んで、角を二つ曲がる。
突き当たりの小さな病室。
その扉の前には、藍色の髪の少年が立っていた。
は彼に微笑んだ。
「待っててくれたの?」
コーネルは壁にあずけていた背を離して起立した。
そうしてに微笑み返す。
「うん。なら来るだろうって、何となく思ってたから」
「そっか。ありがとう」
「でもちょっとタイミングが悪いかも」
コーネルは笑みに少しだけ苦いものをまぜて、静かに病室の扉を開けた。
を目線で促し、中を覗きこませる。
そこでは白く清潔なベッドの上で、藍色の髪の婦人が穏やかな寝息をたてていた。
「母さん、眠ったばかりなんだ。帰る前にと会わせたかったのに」
「私も会いたかったけど。ゆっくり休んでくれるほうが嬉しいよ」
「うん……。そうだな」
「それはそうとして」
取っ手にかけられたコーネルの手を掌で覆って、は扉を閉めた。
そうしないと話し声でコーネルの母を起こしてしまうかもしれないからだ。
空間がきちんと分離されたのを確認してから、はコーネルを見上げて言う。
「ずいぶん華やかな病室になったね」
の言葉通り、コーネルの母の病室はありとあらゆる花で飾られていたのだ。
心を優しくさせるような淡い色と、甘い香り。
思わず笑顔になってしまうほど、それは素敵な様子だった。
コーネルが自慢気に胸を張る。
「びっくりしただろ?母さんの好きな花で部屋を埋め尽くしてみたんだ」
「あはは、すごく喜んでくれたでしょ」
「それはもう」
嬉しそうに言うコーネルに、はまた肩を震わせて笑った。
それから息を吐いて、少し首を傾ける。
「ねぇ、コーネル。『反魂の花』は嘘で、この世に実在しなかったけれど。あなたの花はそれと同じような力があると思うよ」
「え……?」
「だってお母さんの心を癒して、元気にしてくれるんだもの」
例え病を治すことができなくても、優しく温かいもので、その魂を一杯にすることができる。
コーネルの花は、そんな力を持っている。
「それはとてもすごくって、きっと何よりも素敵なことだよ」
は金髪を揺らして微笑んだ。
それは彼女が滅多に見せないような柔らかいもので、コーネルは目を見張る。
は重ねたままだったコーネルの手を握った。
「死ぬってことを私はまだ経験したことがないけれど、たぶん不安で怖いものなんだと思う。それを迎えようとしている大切な人に、あなたは笑顔をあげることができる。幸せで満たすことができる。それって最高にすごいことなんじゃないかな」
コーネルは瞳を揺らした。
そして病室の扉へと視線を動かした。
その向こうで眠る、母の顔を思い出す。
柔らかな光に満ちた優しい表情。
あれをつくり出したのは、自分?
それは嘘みたいな奇跡で、けれど真実だ。
そう言ってくれた人が、今コーネルの手を握っている。
そこで唐突に肩を叩かれた。
コーネルが驚いて見ると、の強気な笑顔が目の前にあった。
「この親孝行者!!」
楽しそうに言って、はコーネルをばんばん叩いた。
明るく笑うその顔に何だか力が抜ける。
同時に少しだけ涙が滲んだ。
「俺……」
コーネルは囁いた。
「母さんが、死ぬの。怖い。すごく、怖いんだ」
「……うん」
「でも、それはやっぱり一緒にいたいから怖くって。だから、できることをするよ。母さんの傍で、少しでも長く、幸せだって笑っていてもらえるように」
「うん」
「一緒に笑っていられるように、……がんばるよ」
「それが、コーネルにしかできないことだよ」
「………………」
「あなただけが、できることだよ」
ゆっくりと心に響くその声に、コーネルは静かに目を閉じた。
あたたかい優しさに小さく震える。
そしての手を握り返した。
「うん……。ありがとう、」
後悔しないように、なんて無理だ。
どれだけ努力しても、大切な人が逝ってしまえば大きな哀しみに襲われる。
けれど残るものはあるだろう。
例えば笑顔。
ありがとうと、囁く声。
交わした言葉をどうか忘れないように、旅立つ人が覚えていてくれるように。
がんばろう。
そうでなければ、あの人の安息を、幸せを願う資格などない。
それができるのは自分だけだというのに。
不様なことなどしてたまるか。
「『反魂の花』にしてみせるよ。母さんに捧げる、俺の花を」
そこで少しだけ涙が出たけれど、コーネルは真っ直ぐにを見つめて微笑んだ。
震える頬。
伝う雫を、金髪の少女が拭ってくれた。
「うん」
は優しく頷いて、いつもと同じ笑顔を浮かべた。
「きっと出来るって信じてるよ。だって私はあなたの花の力を知ってるもの。ね、店長!」
「あはは、そうだったな。一日店員の信頼がありがたい」
コーネルは声をあげて笑った。
はそれを見て、何だか安堵したような表情になった。
握っていた手をそっと離して、言う。
「こっちこそありがとう。いろいろ迷惑かけてごめんね」
「なに言ってるんだよ。迷惑だなんて」
コーネルは慌てて首を振ったが、は笑みに淋しさを滲ませた。
「そろそろラビが心配だから。……戻るね」
「……………………」
軽く手を振ったに、コーネルは何か言おうとした。
けれど言葉が出てこない。
はそっと踵を返した。
柔らかな日差しの差し込む、白い廊下を歩き出す。
少し進んだところで声が響いた。
「!」
振り返ったの視界に、ふわりと何かが舞った。
驚いて受け止める。
それは白と薄紅の花で作られた、小さな小さなブーケだった。
「コーネル、これ……」
「あげる。それは、に」
視線をあげると、廊下の真ん中でコーネルが笑った。
「俺とアイツをやっぱり“友達”だと教えてくれた、君に。俺の花を素敵だと言ってくれた、女の子に。変てこな一日店員に、店長からの贈り物だ」
「………………」
「足りなかったバイト代は、それでチャラにしてくれよな」
は見張っていた瞳を、ゆっくりと細めた。
手の中のブーケを見下ろす。
いい匂いがした。
心を一杯にして、自然と笑顔にしてくれる。
そんな美しさだ。
「やっぱり、あなたの花は最高だよ」
震える声で呟いて、は顔をあげた。
そして明るい声で言い放つ。
「店長のばかっ、労働よりバイト代のほうが多すぎる!」
「ははっ、だったらまた手伝いに来てくれよ」
「また……?」
「うん。今度は店先で変な歌を熱唱しても、特別に許すから」
そこでコーネルは少しだけ必死さを見せた。
を見つめて、一生懸命に言う。
「前は“さよなら”って言ったけれど、今は“またな”って言いたい。……駄目かな」
「……………………」
はどうしようもなくて、口を閉じた。
ラビならどう言うだろう。
彼にしてもそうだし、自身、簡単には頷けなかった。
今度もし会えたとして、自分たちはそのとき彼の知る人間でいるのだろうか。
“ラビ”と“”で、いられるのだろうか。
恐ろしいほどの不安があった。
けれど同時に、思うことがある。
(私たちは、私たちだ)
それが、の答えだった。
「“さよなら”は言わない」
は笑顔を浮かべると、大きく手を振った。
「ありがとう、コーネル!」
心からそう思う。
またね、と胸の中で叫んだ。
彼の安息と幸せを強く祈りながら、身を翻す。
は足の怪我などそっちのけで、思い切り床を蹴立てた。
手にした幸福の形、香る花を握り締めて、金の光は走り出したのだった。
「ラビ!!」
「どわぁっ!?」
勢いよく病室の扉を開くと、ラビが悲鳴をあげた。
けれど構わず滑り込んで背中に飛びつく。
振り返ったその顔はそれなりに涙で濡れていたので、は自分の服の裾を掴んで彼の頬をゴシゴシしてやった。
着ていたのが白いワンピースだったから難なくそうすることができたが、それほど丈は長くないのでの脚が丸見えになる。
ついでに下着やへそまで覗いたが、二人の関係上それは少しも気にすることではなかった。
「はい、よしよーし」
「バカ慰めんなよー。オレのがお兄さんなのに」
「残念ながら、その説は信じてないから」
「ホント残念だな、説って何さ!?事実だし!!」
「それより、ねぇ!」
「何だよ。って、どうしたんさソレ」
そこでようやくラビは落ち着きを取り戻してきたらしい。
の手にしているブーケを不思議そうに指差した。
首を傾けて訊いてくるから、は答える。
「もらった」
「……コーネルに?」
「他に誰がいるの」
「そっか……」
ラビは少し頷いて、の手からそのブーケを受け取った。
目を細め、眩しそうにそれを眺める。
そしてふと、瞬いた。
「あれ?これ普通のブーケじゃねぇじゃん」
「え、なになに」
「ホラ。髪飾りにできるようになってる」
ラビがそう言うのでもブーケを覗き込んでみたが、よくわからなかった。
どうりで普通のものよりずっと小さかったのだと納得しただけだ。
けれどラビには承知のうえらしく、テキパキと包装を外すとに言った。
「頭につけてやるさ。後ろ向いて」
頷く前に両肩を掴まれ、体の向きをかえられる。
はラビのベッドにぺたりと座り込んだ。
「えーっと、ブラシはどこさ?」
「確か棚の上に」
「おっ、あったあった」
「ラビ。あのさ」
髪に触れてくる手を感じながら、は口を開いた。
「決意宣言してもいい?」
「……は?」
後ろでラビが変な声を出した。
動きが一瞬だけ止まる。
それでもは普通に続けた。
「改めて決めたことがあるの」
「……オマエはいつも唐突だな」
ラビは小さく吐息をついて呟いた。
ゆっくりとの金髪を梳き始める。
「でも、ホントは違うよな。オマエがそうやって口にするとき、それはずっと思ってたことや、心に強く誓ったことなんだって、オレは知ってる」
優しく微笑むその気配に、も笑った。
くん、と軽く髪を引かれて促される。
は微笑んだまま目を閉じた。
「あのね、ラビは私を強いと言ってくれたけど。それはとても嬉しかったけれど……。私はまだまだだと思うんだ。これだけじゃまだ、足りないよ」
だって私はまだ、みんなを守りきれるほど強くない。
今回だってそうだ。
自分のふがいなさがラビに怪我を負わせ、自らも傷ついてしか守ることができなかった。
「私は強くない。だから、強くありたいと願ってる。そのためにすべてを、この体も心も魂も懸けるよ」
ブラシがそっと髪の上を滑ってゆく。
感じる手の温もり。心地いい。
「大切な人が笑顔で幸せだって言ってくれる、そんな日が来るまで……、戦い続けるよ」
コーネルが、この世に生きる全ての人がそうするように。
形はそれぞれあるだろう。
花に想いを込める者、文字に願いを託す者。
そして、世界を害する敵と戦う者。
それが、望む未来のためにの取るべき唯一の方法なのだ。
「とりあえず叶えたい夢はね、女友達の花嫁姿が見たいな。みんな可愛いんだろうなぁ。リナリーが結婚したら、コムイ室長と二人で男泣きしようって決めてるんだ」
「うわぁ、どんな状況だよ。想像しただけで恐ろしい……」
「神田は、……アイツの幸せってちょっと複雑だから。とにかく傍で見守ってやろうと思ってる。必要なときにすぐ手が貸せるように」
「ははっ、ユウの仏頂面が目に浮かぶさー」
とラビはくすくすと笑いあった。
それは夢だ。
実現するかどうかはわからない、将来の話。
何故なら自分達は戦争の中で生きている。
けれどだからといって、未来を諦めるなんてどうかしている。
幸せなそれを手にするため、そのためにこそ、私達は戦っているんだから!
「そうやって生きていくよ。“”は、ずっと前を向いて走り続ける。……がんばるよ」
ラビの指先がの金髪を撫でて、複雑に編みこむ。
優しい匂いがする。
温もりに心が満たされてゆく。
「一生懸命、がんばる」
はベッドの上で胸を張って、力強く言い放った。
「だって、ねぇ、私の親友が記す未来だもの。とびっきり最高なものにしてやりたいんだ!」
ピタリ、と背後でラビの動きが止まった。
息を呑む音がする。
は瞳を輝かせた。
光を宿して精一杯微笑む。
「ラビが記録する歴史を、悲しいままで終わらせるもんか。そんなことにはさせない。絶対に諦めない!」
「、お前……」
「一瞬も見逃さないで、覚えていてね。“私たち”が幸せになる、未来への道を」
そう言うと、髪に触れていた手が微かに震えた気がした。
彼は自分の宿命から逃れられない。
ブックマンになる道を選んだのだから、伴う苦痛と絶望を背負わなければならない。
けれど、だからなんだと言うのだろう。
自分は彼の親友で、傍にいることができるのだ。
だったら考えるまでもなかった。
努力するだけだ。
大切な彼が少しでも多く笑っていられるように、幸せだと言ってくれるように、がんばるだけだ。
悲しい未来など記録させない。
優しく素敵なもので、紙の上を埋め尽くしてやる。
その暖かさで、冷たいインクなど乾かしてやらないのだ。
「以上、私の決意宣言でしたー!」
は明るく話を締めくくった。
ラビは何も言わなかった。
しばらく沈黙して、ゆっくりと動き出す。
指先がの髪に花を編みこんでゆく。
「なぁ……」
小さな声がした。
それは掠れていて、近くにいなければ聞こえなかっただろう。
ラビが囁く。
「いつか、オレが“ブックマン”になったら、その時は」
それは言葉にしてはいけないことのように感じた。
けれど互いに願わずにいられなかった。
するり、とラビの手がから離れる。
ただ気配がする。
不安や恐れを握りつぶして、希望を信じる声がする。
「その時は、また……オレと友達になってくれるか?」
病室は暗い。
もう夕暮れだ。
落ちてゆく春の陽。
けれどひどく明るく感じるのは何故だろう。
は輝く金髪を揺らして振り返った。
そして親愛なる翡翠の瞳を見つめたのだった。
「あなたもそれを望んでくれるのなら、喜んで」
まるで光のように、希望のように、金の少女は微笑んだ。
「だって私が親友でいてほしいのは“ラビ”だけじゃない、“あなた”っていう一人の人間なんだもの!」
あまりの眩しさにだろうか、ラビは瞳に涙が滲むのを感じた。
瞬きをした視界で、が手を伸ばして自分の頭に触れる。
そこに花が飾り終えられているのを知って、首を傾けた。
は少しだけ不安そうにラビに訊いた。
「ね、似合う?」
彼女の金髪に編みこまれた白と薄紅の花弁が、甘い香りをこぼした。
ラビは何も考えずに、腕を伸ばしてを強く抱きしめた。
心の底から嬉しくて声をあげて笑う。
「オマエ、最高!!」
大好きだ大好きだ大好きだ、オレの親友!
そんな心の叫びを感じながら、ラビは決して失いたくない存在をきつく腕の中に閉じ込めたのだった。
「あーヤバイ。いろいろ思い出してきた。それだけで涙が出る。まったくはどれだけオレを泣かせれば気がすむんさ!」
その翡翠の瞳を潤ませて、ラビはぷりぷりと怒ったフリをした。
ソファーから身を乗り出し、向かいで眠るを睨みつける。
けれどその視線には隠し切れない親愛が込められていた。
午後の談話室を染める淡い光が、の白い頬を優しく照らしている。
彼女の頭を膝に乗せているリナリーは、ほぅと小さなため息を漏らした。
「私……今までの親友がどうしてラビなのかしら、って悔しく思っていたけれど。なんだか心から納得しちゃったわ……」
そう言うリナリーの顔は少しだけ不満気だったが、優しい諦めにも似ていた。
ラビが嬉しそうに頷く。
「だろだろ?オレってばの最高の親友なんさ!」
「そこまでは言ってないわ」
「……ちぇ。厳しい」
「あの」
それまで重く口を閉ざし、沈黙を守っていたアレンが声を出した。
唇に軽く握った手をあて、視線は床の上に固定されている。
銀灰色の瞳には不安にも似た光が踊り、何だか落ち着かない様子だった。
ラビとリナリーは目を見張る。
「どうしたんさ、アレン」
「何かあったの?」
「いえ、その」
「オレとの感動ストーリーに何か疑問でもあるんか?」
ラビは困惑したように隣に腰掛けているアレンを覗き込んだ。
アレンはそれにちょっとだけ身を引いて、また何かを考え込む。
しばらくした後、戸惑い気味に口を開いた。
「ラビ……。ひとつ聞きたいんですけど」
「ん?何さ何さ」
「え、っと。ラビはのことが好き、なんですよね?」
「はぁ?当たり前だろ!大好きさ!!」
「それは、その。……………………………どういう意味で?」
ひどく言いにくそうに、アレンはラビにそう訊いた。
ラビは一瞬固まって、それから疑問符を浮かべる。
「は?アレン、何……」
「だから!ラビは、つまり、…………………………………………………………のことが女の子として好きなのかって訊いてるんです!!」
そう怒鳴ったアレンの顔は、何だか真っ赤だった。
噛み付くように言われてラビは目を瞬かせる。
しばらく絶句して、それからすぐに笑い出した。
「な、何言って……っ、あははははははははははっ!!!」
「笑わないでください!怒りますよ!?」
「そんなこと気にしてたんか、なぁんだアレンってばププー!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、いいから答えてくださいよ!!」
急かすと同時に軽く蹴りを入れられて、ラビはごろりとソファーに転がった。
いまだに笑い声をあげながら言う。
「何を言い出すかと思ったら、はぁビックリした!あのなアレン」
「…………何ですか」
「とりあえず、そういうことはリナリーのいないところで訊こうな」
ひょいと身を起こしたラビはアレンの頭に手を置いた。
その表情は笑顔だが、何だか冷や汗が浮いている。
アレンが視線を巡らせると、向かいにいるリナリーが凄まじい激情を放っていた。
けれどこちらも表情としては笑顔だ。
「そうね、私も聞きたいわ。そこのところどうなのラビ」
「リリリリリリナリーの前でそういう話はダメ!わかったかアレン!返事は!?」
「ラビこそ答えたらどうなの?ねぇ、あなたはのことが女の子として好きだったりするのかしら?」
そのあまりの恐ろしさにラビは涙目になってアレンにしがみついた。
しかし唯一の頼みもそこでバッサリと切り捨てられる。
「ほら、早く答えてくださいラビ」
アレンにまでそう言われて、ラビは己が絶体絶命、孤立無援であることを自覚した。
ソファーの上をにじり下がり、目の前の恐ろしい二人を眺める。
「…………………………………………“うん、そうさ”って言ったらオレはどうなるんかな」
「うふふ心配しないで」
「そうです、何もしませんよ」
「嘘だ!絶対嘘だ!!」
「「いいから早く答えて(ください)」」
笑顔のまま目が据わっている彼らに勝てる可能性はゾウリムシの繊毛ほどもないので、ラビは大人しく言うことを聞くことにした。
このような的確な判断力がないとブックマンにはなれないのだ。…………………というかこの世を生きていけないのだ。本当に。
ラビはソファーにきちんと座りなおし、ひとつ咳払いをすると口を開いた。
「まぁ結論から言うと、そういう意味の好きではないな」
「…………本当に?」
「何さアレン、その疑いの目は!オレってホント信用ねぇな!!」
「あら、それは仕方がないわ。ラビの話を聞いた限りじゃ、二人はそういう意味で好き合っているようにも思えるもの。…………腹立たしいことにね」
「今ちっさく怖いこと言ったさ!!」
ラビは冷たい二対の目線から逃れようと、クッションに顔を押し付けた。
「違うっつてんのに、もー!そりゃあのこと可愛いと思うし、女としてすっげぇ魅力的だと思うけど!!」
「へぇ。思ってるんですか。思ってるんじゃないですか」
「アレンくん、そろそろイノセンスの出番みたいよ」
「だから違うって!話は最後まで聞きなサイ!!」
変な口調でそう怒鳴ると、ラビは大きく息を吐いた。
ソファーに身を沈めて目を伏せる。
口元には笑みが浮かんだ。
「なんつーかさ。そういう意味で好きになる前に、やっぱり憧れのほうが大きくって。をオレの色で染めたくないっていうか……、うまく説明できないんだけど」
翡翠の瞳がゆっくりと瞬いた。
「はのままでいてほしいんさ。オレの、たったひとりの親友で」
「………………」
「言うならば、どれだけ家族が好きでもソイツとは恋愛関係にはならないだろ。オレ達はそんな感じ」
「……なんとなく、わかったような」
「わからないような感じね……」
「んー、やっぱりオレにもうまく説明できないさ」
ラビは少し苦笑して、肩をすくませた。
それから片手を持ち上げて、そっと己の右眼、眼帯を押さえる。
「それにオレ達は似すぎている。互いの苦しみを理解しているから、分かり合うことができても……、支えにはなれても、それだけだ。あの絶望から救い出すことはできない」
「救い出す……?」
「いい加減、コイツの強がりを打ち砕いてくれる奴が現れないもんかなー」
それは、自分にはできないことだとラビは自覚していた。
あの絶望に耐えて独り起立する彼女を、何者にも縋らない少女を壊すことはできない。
同じ場所に立つ自分には、その手を掴んで苦痛から引き上げることはできない。
に必要なのは、彼女が必死に隠してきた弱い心を見つけて、そっと抱きしめてくれる者だ。
が強がりばかりを見せずにいられるような。
意地っ張りな彼女を泣きたいときに泣かせてくれる、そんな優しい人間なのだ。
「そんな奴がいたら……」
すごく悔しいけれど、を、大切な親友をあずけることができるのに。
そう思って、ラビはふと隣を見た。
銀灰色の瞳と出合う。
思わずじっと検分するように眺めると、アレンは不思議そうに首を傾けた。
ラビは少しだけ微笑んだ。
「まさか……、な」
「?何の話ですか?」
「べっつにー。まぁ、そんなわけでオレとは親友!それ以外にはならねぇんさ!!」
ラビは胸を張ってそう断言した。
そして向かいで眠るを指差す。
ひどく楽しそうに笑った。
「つーかコイツの裸なんて昔っから見慣れてるからさ!今さらやれとか言われても無理だってホント!!」
次の瞬間、アレンは左手を振り下ろした。
それは完璧に反射的な行動だった。
ついでに反射的にイノセンスが発動していた。
白く巨大な対アクマ武器が凄まじい勢いで床を爆砕する。
舞い上がった白煙が流れると、大きく穿たれた穴の向こうにラビが腰を抜かしているのが見えた。
アレンはそんな彼に向かってにっこりと微笑んだ。
「今。……今、何て言いましたか?ラビ」
「い、いや、あの、アレン……!?」
「変ですね。僕の耳がおかしいんですか?何だか年齢制限がかかるような発言が聞こえた気がするんですけど」
「そ、それは、オレもう18歳だからさ、ダイジョブかなー……なんて」
「僕は15歳です」
「私は16歳よ、ラビ」
「そしても推測するところ15歳前後です。ああ、駄目ですね。完璧に法に触れました。社会不適合者として排除しなければ!!」
アレンは素晴らしい笑顔のままそう言い放つと、己の左手を振りかざした。
再び轟音が響き、床が豪快に砕け散る。
ラビが泣きながら這いずって逃げようとするので、アレンは右手で彼の襟首をひっ捕らえた。
「駄目ですよ、きちんと制裁を受けてくれないと」
「制裁ってレベルじゃねぇだろソレ!やややややややめて、マジでやめてくれ!!」
「嫌です。さっきの発言は何だかとっても不愉快でしたから」
「じゃあ何か!?オレがとあーんなことやそーんなことがしたいって言えばいいんか!?」
「ラビ、それ以上言うと私の靴も黙っていないわよ……?」
「あははは、大丈夫ですよリナリー。それより先に僕の左手で物言わぬ肉片に変えてみせます、美味しいミンチにしてやります……!!」
「ひいぃぃぃぃいいいいいいい!!!」
迫り来る超特大の恐怖にラビは頭を抱えて絶叫した。
それに反応してか、金髪が動いた。
リナリーの膝に頭を乗せて眠っていたが、唐突にむくりと身を起こしたのだ。
彼女の目覚めにアレンは動きを止め、ラビは目を見張る。
リナリーがそっと呼びかけた。
「?」
「…………………………」
は寝ぼけ眼のまま辺りを見渡した。
そして左手を構えているアレンと、それに今にも蹂躙されそうになっているラビを発見する。
しばらくじっと観察した後、二人を指差した。
「……フレンドシップ?」
「どこをどう見て!?」
「“俺の友情を受け取れー!”みたいな?」
「受け取れるかー!!」
「熱い展開を乞うご期待!」
「寝ぼけんな、現実を見るさ!!」
ラビはアレンの魔の手から逃れようと必死に暴れながらに言った。
「オマエの親友が殺されかかってるんだぞ!?」
「へぇ」
「オイオイ反応薄いなー!!」
「なんで?」
「何でって……!」
「なんで殺されかかってるの?」
ぼんやりとそう訊かれてラビは瞬いた。
言葉を失くしたアレンと目を交し合う。
は視線を巡らせてリナリーを見、首を傾けた。
「ね、なんで哀れなウサギが腹黒魔王に抹殺されそうになってるの?」
「ええーっと。それはね……」
「うん」
「ラビが、その。何て言うか」
やはり口にするのは恥ずかしいのか、リナリーは言葉を濁した。
がますます首を傾けるから、ラビが言ってやる。
「オレがオマエとはエロいこと出来ねぇっつたら、何故かこんな状況になったんさ!」
「……それだけ?」
「それだけ!」
ラビが大きく頷くと、は眠そうな目をアレンに向けた。
その金の瞳を緩慢に瞬かせる。
「それは、怒るとこ?」
「……………………」
「何かよくわかんないけど事実だよ。ラビは私にえっちぃことしないもの」
アレンは、女の子が平気でそういう発言をするな!と思ったが、口にするより早くに言われる。
「そうじゃなきゃ一緒のベッドで寝た時点でアウトでしょ」
そう言われれば。
何となく納得してきたアレンの傍で、ラビが激しく頷いている。
は小さなあくびを漏らした。
「私もラビ相手じゃ無理だなぁ」
「だよなぁ。今さらそんなことな」
「できないよねぇ」
「できないよなぁ」
二人はあはは、と明るく笑いあった。
はいまだに寝ぼけた顔でぼんやりと言う。
「そうだよ、“眠れないから本貸して”って頼んだら18禁の官能小説を押し付けた挙句さんざん感想を聞いてきたり、グラビア見ながらこの子この胸がすごいだの、あの子のお尻が好みだの熱弁を振るわれたりするけど、ラビは私にえっちぃことなんてしないよ」
「「…………………………」」
それを聞いてアレンとリナリーは顔を見合わせた。
ラビは蒼白になって硬直している。
だけが笑っていた。
「ラビ、あの官能小説ちっとも面白くないよ。この間は“今夜は寝かさないよ……”のところで寝ちゃった」
「い、いや、あの、……!」
「前に見ていたグラビアは、私やっぱり右のショートヘアの子のが好みかなー」
「ちょ、タンマ!頼むから黙ってくれ!!」
「ああそうだ、任務に行く前に文句をつけてくれた下着のことなんだけど……」
がそう言って自分の上着に手をかけたから、アレンの中で何かが切れた。
掴んでいた襟首を利用してラビを床に引きずり倒す。
それは猛烈なスピードで、少しの抵抗も許さなかった。
怯えた顔で見上げてくる赤毛の青年に向けて、白髪の少年はいっそ優しく微笑んでやる。
「ラビ」
「ひっ、ひい!」
「今のは本当ですか」
「ち、違……っ」
「そんなわけないでしょう、こう見えて僕はのことをけっこう信用してるんですよ。あの馬鹿があんなに上手く嘘をつけるはずがありません、よって真実ですねそうですよね」
「……………………」
「返事は」
「…………ううううううううっ」
あまりの恐怖にか、ラビは本気で泣いていた。
けれど彼の所業はかなり許せないことであるし、服を脱ごうとしていたを保護しているリナリーの目も死刑を求刑している。
アレンは何の躊躇いもなく発動している左手を構えた。
そして今度こそ絶対零度の笑顔を浮かべたのだった。
「ラビ、知ってますか?君がにしていることは、セクシャルハラスメントっていうんですよ」
「略してセクハラー」
気の抜けた声がそう言った。
同時にアレンの目の前に金髪が登場する。
彼女を保護していたはずのリナリーが驚いたように呼ぶ。
「!いつの間に……」
は寝ぼけた顔のままアレンとラビの間に割って入った。
眠気にグラグラしている頭を支えて、ラビの首に巻かれているマフラーを引っ掴む。
ラビが器官を塞がれた苦しみに悲鳴をあげたが普通に無視だ。
そうすることでアレンの手から彼を奪い返すと、は口を開いた。
「いじめちゃ駄目」
「……は?」
ぽかんとしたアレンの前で、はさらにマフラーを使ってラビを引き寄せた。
「悪いけど、ラビを泣かせてもいいのは私だけなの」
「……………………」
「親友の特権だよ」
当たり前のような口調でそう言われたので、アレンは思わず口を閉じた。
目の前の少女を見下ろす。
眠気が大量に含まれたその表情。
ラビが後ろからの首に抱きついた。
「!信じてたさ、オマエはオレの味方だって……ぎゃあ!!」
感動にむせび泣くラビの声は、そこで悲鳴に変わった。
その原因はだった。
彼女は掴んでいたマフラーを引きずり寄せると、ラビに見事な足払いを決めたのだ。
ラビが綺麗にすっ転んで床に落ちる。
はうつぶせに倒れた彼の背中に勢いよく腰を下ろした。
「とゆーわけで、私が泣かす」
「なんでー!?」
「だってアレンがラビに手をあげたらただの弱い者イジメでしょ。つまり、私がやらねば!」
「オレをいじめることに異存はないんか!?」
「ないです。近いうちに一発注意しとかないと、って思っていたのでむしろ好都合。あのね、ラビ。女の子を変な目で見るなぁ!」
「無理言うなよ!オレは健全な男のコなんさ!!」
「それにしても限度があるでしょ、最近は目に余るものがある!ハイ、いいからお尻出しましょうねー。女の子の味方、お姉さんがぺんぺんしてあげますからねー」
「嫌さ!前もそんな感じのこと言って、その後からオレの記憶飛んでんだもん!気づいたら青アザだらけでさぁ!オマエ、オレに何したんさ、何する気さ!!」
「気にしないで、それもこれも全ては愛だよ。もうバカことしちゃ駄目よ、っていう大いなる愛情表現だよ」
「嘘つけー!!!」
ラビは絶叫したがは容赦なく片手を振り上げた。
眠気がおさまらないのか、いまだに頭が揺れている。
このままでは目にもあてられない惨劇になりそうなので、アレンはの腕を掴んだ。
後ろから抱えてひょいと立たせる。
そして大きなため息をついた。
「もういいです、ラビ。今回は許してあげます」
「マ、マジで!?」
ラビは予想外の展開に目を輝かせたが、は不満気な呟きをもらした。
「ええー……」
「もだよ。もうおしまい」
「むー。じゃあまた今度にする」
「僕も今度にします……。何だか今はラビへの腹立ちが怒りを通り越して呆れになり、すでに憐憫へと変化してしまったので」
「おお、感情の三転換だね」
「最終的に僕が手を下すほどの価値もないかな、という結論になりました」
「なぁるほど」
「何だよ、コイツら!ちっとも助かった気しねぇさ!!」
妙に意気投合して頷き合うアレンとに、ラビは滂沱の涙を流した。
床に這いつくばったまま哀れな声をあげている。
アレンはそれを無視して後ろから抱いたと“ラビいじめ”について意見を交わしていたが、ふと突き刺さるような視線に気がついた。
目を向けて見ると、笑顔のリナリーが睨んでいる。
アレンは不思議に思ったが、肩越しに振り返っている寝ぼけたの顔が近いことに気がついて、
「あー……」
何となく頬を赤くしたり青くしたりした。
このままくっついていたらマズそうなので、腕をほどいての背を押す。
アレンは少しだけ不本意そうに言った。
「ほら。それよりも君はラビに言うことがあるでしょう?」
「え?」
は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い至ったようだった。
口を引き結んで、拗ねたような表情になる。
けれどそれはわざとだ。
だって頬がわずかに朱色を帯びている。
は顔を前方に戻すと、床に落ちているラビの目の前にしゃがみこんだ。
膝を抱えて彼を見下ろし、涙しているその赤毛を撫でる。
薄紅色の唇が小さく開かれた。
「おかえり、ラビ」
「……………………」
その途端、ラビの涙が止まった。
目を見張ってを見上げる。
そう言えばブックマンの仕事から帰還して、と言葉を交わすのはこれがはじめてだ。
慌てて身を起こす。
「たっ、ただいま……」
「うん」
「あ、あーっと……。久しぶり」
「久しぶり」
「元気だった……、みたいだな」
「そっちもね。お疲れさま」
「うん……」
ラビは床に座り込んでを見つめた。
何だか訊いてみたくなった。
アレンがそう言っていたからだろうか。
それとも昔を思い出したからだろうか。
「なぁ」
「なに?」
「オレがいなくて淋しかった?」
その途端、の顔が奇妙に歪んだ。
眉が寄って目が据わる。
自分の頭に置かれていた彼女の手に不自然な力が入ったので、ラビは思わず肩を揺らした。
「い、いや、今のはその!」
「ラビさんは私に喧嘩を売っていらっしゃるのかしら」
「何故お嬢さま言葉!?怖いからヤメテ!!」
「嫌ですわ、わたくし産まれながらにしてこうでしてよ」
「口調と行動があってないんさ!!」
不機嫌丸出しの顔で髪を引っ張ってくるに、ラビは涙を浮かべた。
は両手でその赤毛を掴んでウサギの耳のようにしてやる。
そして低く言った。
「…………あんたは私が言わずにがんばってきたことを訊くわけね」
「い……っ、はへ?」
「この8年間、何度あんたが連絡もなしに消えても私が絶対に言ってやるもんかと思っていたことを、今になって訊くわけね!!」
「も、もしかしなくても怒ってるさ……!?」
「“淋しかった?”……。残念ながら私はもう子供じゃないし、ラビばかりに頼らないように努力してきたつもりよ。そんなさんに向かって“淋しかった?”だぁ!?」
「ひぃ、ゴメン!変なこと言ったオレが悪かったですゴメンナサイ!!」
ラビはとりあえず謝ったが、それでもの勢いは止まらなかった。
「そんなわかりきったこと、わざわざ訊くな!」
「へ……?」
「ああもう悔しい!!」
はそう怒鳴るとラビの髪から手を離して、掌で彼の両頬を挟んだ。
そして力強く告げた。
「私がいつも、どれだけの嬉しさで“おかえり”って言ってると思ってるんだ!!」
本当に悔しそうには瞳を光らせた。
けれどそれはラビへの腹立ちではなく、気持ちを伝え切れていなかった自分への叱咤のようだった。
驚くラビの前では続ける。
「“淋しい”なんて当たり前のこと誰が言うもんか!そんなことわかっててくれてるものだと思ってたよ、それが恥ずかしいから今まで何でもないフリで出迎えてたのにっ」
「……………………」
「くそぅ本気で悔しいな、見てろよラビ!今度からそのウサギ頭でもわかるように“おかえり”を言いまくってやる!せいぜい私の世界を揺るがすような出迎えっぷりに涙するがいいわ!!」
は毅然と言い放つと口を閉じた。
ラビがぽかんとしているから彼から手を離す。
身軽に立ち上がって顔を背けた。
けれどやっぱり頬が赤い。
いつもの照れ隠しが始まると予想して、アレンはこっそりと笑みの混じった吐息をついた。
「はぁ、もう目覚めっからラビいじめは中止だし、悔しい思いはするしで疲れた!リナリーお願い癒してー」
思いがけず本音を言ってしまったのでラビの傍にいるのが恥ずかしいのだろう。
母を求める小さな子供のように両手を突き出して、はリナリーのもとへ行こうとした。
けれど背後から引き止められる。
両腕が伸びてきて背中から抱きしめられる。
「ストップ。その前にオレの淋しさを癒してくれ」
ラビがを腕の中に閉じ込めたまま、こらえ切れずにクスクスと笑った。
頭の上に顎を置かれているからにもその振動が伝わる。
金の瞳が少しだけ不満気な色を見せた。
「ラビ、重い」
「我慢するさ」
言いながらラビはをぎゅうっと強く抱きしめた。
そこには溢れそうな嬉しさと親愛が込められていた。
だからくっつく二人に怒って何かを言おうとしたリナリーを、アレンは言葉もなく片手で制する。
確かに注意するべき体勢だが、今だけ特別だ。
“親友”が再会を喜び合うのに邪魔をするわけにはいかない。
「長身を利用した甘え方はやめようよ。私が小さいのがバレるじゃない」
「いいじゃん、久しぶりなんだし。それに」
そこでラビは長く息を吐いた。
それは安堵のようだった。
そして幸せのようだった。
の側頭部に頬を寄せて囁く。
「オレはオマエに会えなくてめちゃくちゃ淋しかったんだから」
ラビはそっと腕をほどくとを振り向かせた。
彼女の輝く金色が眩しい。
淋しさを埋め、心を満たす感情。
自分たちは決してこのままではいられない。
いつかは“ラビ”と“”に終焉が訪れる。
けれどもう恐れることはないだろう。
例えば絶望に負けない心、苦痛を笑い飛ばす勇気、冷たさを癒す温もり。
そんなたくさんの力を授受し合って、二人はここに立っている。
自分たちは絶対無二の“友達”なのだ。
それ以外にはなれないのだから、何度だってはじめればいい。
何度終わろうとも、何度だって“友達”になればいい。
強くそう願う心は、結ばれた絆の消失を決して許さないのだ。
「。……オレさ」
ラビは翡翠の瞳を細めて微笑んだ。
「オレはきっと、オマエがいないと退屈すぎて死んじゃうよ」
そして腕を伸ばしてを思い切り抱きしめた。
「なぁ、大親友!!」
真っ直ぐに伝わってくる感情に、も微笑んだ。
笑い声をあげながらラビを抱きしめ返す。
明るい幸福なその光景に、アレンは思った。
きっとこんな瞬間にこそ、魂を満たす温もりが産まれるのだと。
『心情の定義』、別名ヒロインとの思い出話ラビ編、終了です。
『永遠の箱庭』のオリキャラ、リオンのときもそうだったんですが、これでコーネルとさよならかと思うと少しだけ淋しかったです。(笑)
いやぁ、それにしてもラビは書きやすかった!メイン連載に出てくるキャラで一番書きやすいかも。
感情表現がオープンな人なので、どんどん動いてくれました。
一番書きやすいのはヒロインかな、と思っていたんですが、意外と本心を見せない子なのでね……。(汗)
いつも微妙に苦労してます。
次回は思い出話シリーズのラスト、神田編です。前二人よりも殺伐としていますのでご注意を。
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