バクはさり気なく歩調をゆるめて歩いてくれた。
それでも松葉杖をついたには厳しい道のりだった。
たった一本の廊下がこんなにも苦しいと感じるなんて、腹立たしい話だ。
ウォンが手を貸してくれようとしたけれど、心からお礼を言って断る。
自分の力で進まなければならない。
はそう思って、必死に歩き続けた。
Troumerei
辿り着いたのは広々とした空間だった。
天井が突き抜けるように高い。
周りは薄暗く、中央にだけ証明が当てられていた。
数人の科学班員がここで何かを調査しているようだった。
「!?」
切らした息を整えていると、唐突に名前を呼ばれた。
顔をあげればリーバーやジョニーが駆け寄ってくるのが見える。
また怒鳴られるなと思って、は覚悟を決めた。
「お前こんなところで何やってるんだ!!」
「ちゃんと寝てないと駄目じゃないかっ」
案の定の言葉だ。
嬉しいのと申し訳ないので微妙な笑顔になってしまう。
「うん、あのね。大丈夫だから……。ありがとう」
「いいから早く病室に戻れ!オレが送って……っ」
「この馬鹿娘を連れてきたのはボクだ」
わたわたとの腕を掴んだリーバーを制して、バクが言った。
それは堂々たる宣言だった。
彼はそのままの肩をぐいっと抱くと、リーバー達を押しのけて歩き出す。
制止の声があらゆる方面から飛んできたが普通に無視だ。
はそのままバクに連れられて部屋の中央に足を進めた。
そこにあったのは奇妙な多角形。
空中に法則なく、いくつも浮かんでいる。
一番左のものには“3”というナンバーが刻まれていた。
はそれを見て思い切り顔をしかめてしまった。
「貴様の捜し人はこの中だ」
バクに言われて、思わず額を押さえる。
「何でそんな悩みのど真ん中にいるのよ、あのバカ……!」
最近イヤと言うほど堪能してきた、ノアの方舟。
忌々しいその入り口が眼前に広がっていた。
何も今まさに心を悩ませているところに、わざわざ閉じこもらなくてもいいではないか。
もしかしてこれは自虐か。
あいつは自虐をしてるのか。
は腹立たしいような悲しいような、複雑な気持ちでそう考えた。
頭がひどく痛んで視線を落とす。
後ろからリーバーの声が飛んでくる。
「おい、まさか入る気じゃないだろうな!?」
「ここまで来て入らないほうがおかしいだろう」
さも当然とばかりにバクが答えた。
途端に反対の声があがり、科学班員の数人が駆け寄ってくる。
けれど、伸びてきた彼らの手にが捕まることはなかった。
「触れるな。彼女は怪我人だ」
今さらなことを言って牽制し、バクがを方舟の入り口に押しやったのだ。
庇うように前に立たれては彼の団服を引っ張る。
「バク支部長」
「いいから行け。貴様はそのために来たのだろう」
「何言ってるんっスか!駄目だ、!!」
「そうだよ、室長に入るなって言われてるんだ!」
「それなら奴も問題だろう。に引きずり出してもらおうではないか」
必死に止めるリーバー達を、バクはふふんと鼻であしらった。
「中に入ったきり行方知れずだ。奏者だろうが、方舟を我が物として扱いすぎだと思うが?」
「しかしですね、まだ調査は終っていません。どんな危険があるか……」
「これはもはや奴の思い通りにしか動かないと聞いている。それなら彼女に害が及ぶはずがない」
「ですが……っ」
「何だ。信用されていないとは可哀想に。はどう思う?」
バクが視線だけで振り返り、そう尋ねてきた。
口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
も同じようにそれを返した。
「大丈夫です。絶対に」
大きく頷いて見せれば、「ホラ見ろ」とばかりにバクは科学班員に告げる。
「当の本人が信じているんだ。外野が口を出す隙など、あるものか」
胸を張ってそう断言するアジア区支部長に、皆はぐっと黙らされた。
困ったように互いの顔を見合わせている。
リーバーが諦め混じりに言った。
「それはそうかもしれませんが……。中に入ったところであいつのところに辿り着けるとは思えませんよ」
「……どういうことですか?」
は目を見張って、バクの後ろから顔を出した。
ジョニーが肩をすくめつつ説明してくれる。
「方舟の奥、ぐちゃぐちゃなんだよ。オレらが調査してるところは大丈夫なんだけど……」
「それ以上進むと、法則なんてまるで無視だ。道も建物も扉も全部混ざり合ってる。…………たぶん“奏者”の意思でそうなってるんだ」
「………………つまり」
言いづらそうにヒゲ面を掻くリーバーの言葉を聞いて、は低く呟いた。
「あのバカは完全に閉じこもっちゃってるってわけですか」
「あ、ああ……。まぁ」
リーバーは慌てたように付け足した。
「いや、あの、がどうこうってわけじゃないと思うぞ!独りになりたいときは、ホラ!誰にだってあるだろう!?」
「………………………………、そうですね。そんなのあいつの勝手だと思います」
は俯けていた顔を振り上げた。
唇を一度きつく噛み締めて、開く。
「そして、それを気に食わないと思うのは……」
言いながら金髪を翻した。
松葉杖を軸足かわりに、猛烈なスピードで方向転換。
そして骨折していない方の脚で、方舟の入り口を思い切り蹴りつけた。
「私の勝手だ!!」
ズガァンッ!!と凄まじい打撃音が響き渡った。
蝶番が弾け飛び、わかりやすく形を取っていた扉板が砕かれる。
七千年前の遺産、まだまだ調査過程の大事な方舟の扉を、は気持ち良いくらいの勢いで蹴り破ったのだ。
これにはその場にいる全員が驚いた。
肩で息をするの後姿を、唖然と見つめる。
傍に立っていたバクも冷や汗を浮かべていた。
「お、おい、……。一応それは重要な物で…………」
「知りません。後であいつが直せばいいんだ!」
振り返ったは笑顔だった。
けれど確実に青筋が浮いている。
彼女の言うとおり、方舟は奏者の意思でどうとでもなる。
だからこれ以上突っ込むのはやめておこうと、一同は思った。
「…………………………私は」
は方舟のほうに向き直ると、押さえた声を出した。
眼前に散らばった扉の破片。
硝子のように煌めいて、空中に浮いていた。
「私は、エクソシストです。どこまでいっても……破壊者なんです」
壊すことしか知らなかった。
必要だと言われたのは、それだけだった。
他の守り方などわからない。
優しい方法なんて、誰も教えてはくれなかったのだ。
「だから、こうすることしか思いつかない」
は震える拳をぎゅっと握りこむと、背後にいる仲間たちを振り返った。
「行ってきます。――――――――――――哀しい目をした彼を壊しに」
決して大きくはない声だった。
それでも言葉は空間に響いた。
皆は息を呑み、を見つめる。
沈黙が彼らから反論を奪い去ってしまったことを示していた。
確かな意志を秘めた金色の双眸、その強さを仲間達はよく知っていたのだ。
「……………………女にしか見えないと言ったが」
ふいにそんな声がした。
が視線をやると伸びてきた手に頭を軽く引き寄せられる。
すぐ傍でバクが吐息をついた。
「やはり、貴様は普通にはいかないんだな」
「……そうですか?」
「バク支部長の言う通りだ」
苦笑まじりに口を開いたのはリーバーだった。
「何でお前はそうなんだ?普通の女の子ならもっと可愛く、“好きだから傍にいてやりたい”とか言うものだろう」
その言を聞いて、は思わず想像してみた。
自分が彼にそんなことを告げる場面を。
瞬間、これ以上ないほど血の気が引き、全身に鳥肌が立つのを感じる。
「そんなのやったら、世界の終わりだ!」
確実に即死できる自信がある。
思わず涙を浮かべて首を振れば、周りの皆も真っ青になって頷いてくれた。
「いや……、すまん。一般論を言ってみただけなんだが、お前がそんなことになったら確かにこの世もおしまいだな……」
「う……っ。想像しただけで怖気が……」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!」
「ちょ……っ、オレ今晩寝られないっスよー!!」
「ああ、ジンマシンが出そうだ……!」
口々に言われてはそうだろうそうだろうと思ったが、微妙に引っかかるものも感じていた。
何だこの敗北感。
女としてものすごく駄目な気がする。
けれどやっぱり性格に合わないことをするのは犯罪なので、無理やり気にしないことに決めた。
「……まぁ、そんなわけで。私らしくやってきたいと思います」
「そうだな。これ以上に貴様らしいこともないだろう」
バクは笑っての頭をぽんぽんと叩いた。
はくすぐったさに微笑んで、リーバーたちに視線をやる。
それから深々と頭を下げた。
「お仕事の邪魔してごめんなさい。でも、どうか……行かせてください」
それを受けて、科学班員は揃って微笑を漏らした。
ゴーイングマイウェイのくせに、こういうところはきちんとしているのがなのだ。
相変わらずの馬鹿だと思って口を開かずにはいられない。
「………………扉を蹴破っての殴りこみだ。オレ達が止められるはずもないさ」
「そうそう」
「どうせ行くなら、せいぜいアイツに活を入れてきてくれよな!」
「ああ、でもどっちも怪我人なんだからやりすぎるなよ」
口々に言われて、は両手を胸の前で握った。
心が熱に満たされてゆくのを感じる。
自然と表情が微笑みになる。
「ありがとう!」
最大級の気持ちをこめて叫んだ。
そしては皆に片手をあげると一歩を踏み出す。
輝く金髪を残像にして、方舟の中へと入っていった。
最後にその髪に触れたバクは、奇妙に満たされた気持ちになって瞳を伏せた。
自分は上手く彼女を送り出せただろうか。
フォーや支部員たちの代表として手を貸すことができたのだろうか。
そう考えればの笑顔が浮かんできて、満足感に吐息をついた。
「髪の色のせいだろうか」
バクは傍に控えていたウォンに語りかけた。
「あの娘を見ていると、西洋の物語を思い出した……。確かイギリスの童話だ」
「ああ、わかりましたぞ」
ウォンはすぐさま了解して、楽しそうに言う。
「確か金髪の少女が白いウサギを追いかけて、不思議の国を冒険するお話でしたな」
「ああ、そうだ。彼女は白髪の少年を捜して未知の方舟へと乗り込んでいった。まるで物語そのままだ」
「はい。けれど何故、少女はウサギを追って行ったのでしたかな……?」
「なに、理由はいらんさ」
首をひねって物語の詳細を思い出そうとするウォンに、バクは笑ってみせた。
閃くような微笑を浮かべて、が蹴り破った方舟の入り口を眺める。
「そこには理屈も何も存在しない。心が求めるままに走っただけだろう」
「なるほど」
ウォンは本当に納得したように、両手をぽんっと叩いた。
バクと並んで方舟を見上げる。
温もりのある声で囁いた。
「それはまるで、恋のようですな」
バクはそれを聞いて、思わず吹き出した。
大の男が二人で話している内容ではないと思ったのだ。
「馬鹿なことを言うな」とクスクス笑って身を翻す。
歩き出しながら、バクは最後にゲートへと一瞥をくれてやった。
「これであの二人を会わせないようなら、貴様もたいした存在ではないな。方舟」
七千年前の大いなる遺産は、その皮肉を静かに受け取ったのだった。
鼓動は旋律、終曲を告げて。あなたの声で囁いて。