広がるのは南国のような白い町並み。
煉瓦造りの通りは綺麗な花で彩られている。
ここは方舟。
未知なる空間に敬意を表して、まずはひと声叫んでみよう。
「今すぐ出て来い、引きこもりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
Troumerei
自分の声が延々と木霊していくのを、はじっと聞いていた。
その余韻が完全に消えるまで動かない。
もとの静寂が場を支配すると、もう一度それを壊すように大業なため息をついた。
「やっぱりダメか……」
わかってはいたけれど、少しだけガッカリする。
予想通り過ぎて何だか悲しい。
一人で叫んで馬鹿みたいだ。
いや、馬鹿みたいなのはもうだいぶ前からか。
そう考えながら、は松葉杖をついて歩き出した。
丸い石を敷き詰めた地面を進んでゆく。
こうやって重症の体を引きずっている時点で利口ではないだろう。
皆にさんざん心配をかけて、心を砕いて見送ってもらって。
方舟の中を歩いているうちに、つい先日の死闘を思い出して、傷が痛みを強めた。
同時に本部の温かさを思い知る。
今日だって何人にも「ありがとう」と言って、それでも全然足りないのだ。
自分には大切なものが多すぎると、幸福に似た吐息をついた。
「でも、だから守るだけじゃ足りないんだよ……」
教会のような建物の傍を通り過ぎる。
辺りは静かだ。
誰もいない。
けれどは虚空に向かって語りかけた。
「不遜な願いだってわかってる。私は自分勝手でわがままだ」
あなたもそれを知っているよね。
心の中で続けて、は囁いた。
「ねぇ、私は。大切な人の哀情に、全ての破壊を捧げたい」
私はエクソシスト。
ただの破壊者。
だからこそ唯一できる“壊す”ということで、誰かを救いたいと思った。
そうすることで、笑顔を産み出したい。
幸せな未来を創ることができればと願った。
いつかはきっと、救済者になれると信じて。
「この声は聞こえてる?」
は少し音量を大きくした。
けれど何の反応も返っては来ない。
気配すら感じられなくて、思わず足を止めた。
眼前にそびえたつのは奇妙な文様の入った扉。
何の絵だろう。
ブタか、人間か、それ以前に動物なのか。
結局、絵心のない彼の創り出した物だから、考えても無駄だと結論付ける。
は一度息を吐き出すと、大声で言い放った。
「これは宣戦布告よ!」
聞こえているかどうかはわからないけれど、そんなことはどうでもよかった。
ここは彼の操る世界。
ならばその全てに告げてやるだけだ。
は左脚だけで跳躍すると、そのまま扉に向かって飛び込んでいった。
「私はあんたを壊しに来た!その勘違い甚だしい孤独をぶち壊しにね!!」
言葉と同時に、完膚なきまでに扉板をぶち破る。
ノックはしない。
静かにドアを開けてやりはしない。
彼と自分を隔てる物など、全部ぜんぶ突き崩して前に進むだけだ。
は四肢に痛みを感じて扉枠にもたれかかった。
今の衝撃で傷口が開いたかもしれない。
けれど後悔はない。
これでまたひとつ、彼に近づけたからだ。
苦痛に耐えながら、飛び込んだ扉の内側に視線を一周させる。
その途端、は眉をひそめた。
「これはまた……、何というカオス」
扉枠の向こうに広がっていた世界。
それはまさに混沌としていた。
様々な国の建物が建ち並んでいる町並み。
地面を下とはせず、あちこちに広がっている。
それだけならまだしも、階段や橋が有り得ないところから生えたり、他のものと混ざり合ったりしている。
進路は途切れ別のものに変化し、天井に到達したと思ったら逆さまに建物が突出している。
あらゆる法則が捻じ曲がり、見ているだけで酔いそうだ。
まるで迷宮そのものだった。
色も淡いものが基調かと思えば、急に絵の具をぶちまけたような派手さに変わっていて、ある意味は感心してしまった。
「さすが。相変わらずの美的センスね」
皮肉ではなくそう言って、はその空間に足を踏み入れた。
とりあえず壁に沿って進んでゆくことにする。
角を曲がればのぼり坂で、そのまま行くといつの間にか頭が下を向いていた。
天井に立っていることに驚いていたら、唐突に重力が正常に戻って落下する。
怪我のせいで受身はまともに取れないだろう。
は激痛を覚悟して目を閉じた。
「………………っ、え?」
けれど痛みはいつまで経ってもやってこなくて、瞼を持ち上げればきちんと地面に横たわっていた。
何がどうなったのかわからない。
何の衝撃もなく着地したというのだろうか。
「ホントに未知の世界ってわけなの……?」
これが新たな方舟ということなのだろうか。
確かに伯爵に引きずりこまれたときも、何が起こっても不思議ではない雰囲気だったが。
「それとも、あんたの意思?」
は立ち上がりながら訊いてみた。
返事は当然のようにない。
奏者である彼が助けてくれたのかと思ったのだが、確認する術はないようだ。
はわずかに瞳を伏せた。
けれどすぐに壁に手をつき、松葉杖を支えに歩き出す。
それからどのくらい進んだのだろう。
場所が場所だからか、全ての感覚が曖昧である。
けれど血の気の失せ具合がだんだんと強くなっているから、かなりの時間が経過しているはずだ。
行けども行けども、迷宮は終らなかった。
“奏者”が創り出した不思議な空間には、果てなど用意されていないのか。
「これはプロね。プロの引きこもりだね」
切れる息の合間にはわざと笑ってみせた。
そうやって強がるが、呟く声が震えてしまう。
どうせ時間も距離も感じにくいのなら、痛みだってそうしてくれたらいいのに。
脇腹に滲んでいた赤が、ついに地面に落ちた。
血液は跳ねて白い石畳を濡らす。
気管に血が絡まるのを感じて咳き込んだ。
ひどく寒い。
凍えそうだ。
それは自分の体から体温が失われているからだけではない。
淋しかったのだ。
この世界はひどく哀愁を帯びていて、そのまま息の根まで止まってしまいそうになる。
誰もいない空間。
全ての音を喰らい尽して、静寂だけが広がっている。
暗く張り詰めた空気は、きっと彼の意思だ。
それは、拒絶。
彼は今、何も必要としていない。
誰のことも求めていない。
この世界は、そんな心のあらわれだった。
空間の全てがを拒み、締め出そうとしているように感じられる。
跳ね退けさえされないものの、決して受け入れてくれはしないだろう。
だからこそ歩む道に終わりは訪れない。
彼の元へは辿り着けない。
孤独、混乱、不安、恐怖。
それらがを包み込んだ。
彼の激情に、ゆるやかに喉を締め上げられる。
来るな、と言っている。
誰も傍に来ないでくれと。
そんな叫びが辺り一面に広がっていて、と彼を確実に隔てていた。
「……………………そうやって、あんたはすぐに独りぼっちぶるのよ」
軽く喘息を起こしながら、は囁いた。
歩みは止めない。
前に進むことを諦めたりはしない。
「だから速攻で突っ込みを入れてやらなきゃ」
目眩がして、視界がまわる。
這うように、もがくように、歩き続ける。
「思い知らせないと、駄目なんだから…………」
そこで唐突に世界が真っ白になって、全身に衝撃を感じた。
一瞬意味がわからなくて困った。
動こうとしたけれど上手くいかない。
仕方がないからしばらくじっとしていると、次第に視界が回復してきた。
頬に固い感触。
瞬けば睫毛が石畳をこすった。
どうやら派手に転倒したらしい。
は震える腕を地面に突き立てて、身を起こした。
そのまま立ち上がろうとしたが、激痛に邪魔される。
見てみると脚が血まみれだった。
いつの間にか靴が脱げていて、包帯を巻いた足の裏から血液がにじみ出ていたのだ。
「あちゃー……」
これはマズイ、と全然真剣みのない声で呟く。
事実としてマズイ状態なのだが、悲観しても血は止まらないだろう。
はどうしようかなと考えて、結局ズボンを脱いだ。
上着は尻の下まであるものだし、ロングカーディガンも羽織っているから問題はないと思う。
この際、下着が見えなければいい。
どうせ会うのは一人だけだ。
そう考えて、はズボンを歯と手を使って引き裂き、包帯のうえからさらに巻きつけた。
「これで、何とか…………」
今度こそ立ち上がろうと、力を込める。
けれど手は壁面を滑る。
松葉杖はどこにいったのだろう。
転んだ拍子に飛んでいってしまったのか。
あれはラスティに渡された物だから、失くしたくなかった。
は地面に四つん這いになったまま、それを探して辺りを見渡した。
そこで思わず失笑が浮かぶ。
今の自分は、何て無様なんだろう。
捜し人の元に辿り着くこともできず、地べたに転がって血を垂れ流している。
松葉杖を見つけたから、そこまで必死に近づいてゆく。
そしては力尽きたように倒れこんだ。
仰向けに寝転び、空を見上げる。
奇妙な色をした雲がゆっくりと視界を流れていった。
は本当にボロボロの状態で、石畳に這いずくばっていた。
立ち上がらなければいけないと思う。
そのためには、この激痛に勝つ必要があった。
ああ、痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
いたい。
「あいたい………………」
今の今まで必死に我慢してきた弱音。
それは、そんな言葉になって、の唇から零れ落ちた。
その瞬間。
「え」
またもや唐突に世界が変わって、全身に衝撃を受けた。
今度は奇妙な浮遊感。
そして一気に落下してゆく感覚。
どうやら背の下にあったはずの地面が、忽然とその存在を消滅させてしまったらしい。
床が抜けては、そこに寝転んでいたは下方へと落ちてゆくしかない。
重力にしたがって急降下してゆく自分の体。
世界が上空へと流れてゆく。
何だこれ。
普通に怖い。
普段ならどうってことないけれど、今は満身創痍で着地どころか受身も取れない。
思わず悲鳴をあげそうになって、唇を噛んだ。
それは、これ以上無様な自分には耐えらないと思ったからだ。
逆巻く風がを包み込む。
世界は何もかもが混ざり合い、黒くなってゆく。
視界が閉ざされる前に、は空中で体を回転させ、下方を向いた。
どうせ落ちるのなら背中からではなく、真正面からいこうと考えたのだ。
危険があるとは思わなかった。
何故ならここは方舟。
“奏者”の意思に従う世界。
だから、彼が自分を傷つけるはずはないと、疑いもなく信じられる。
ふいに視界に光が瞬いたから、はそれに手を伸ばした。
と、思った途端、何かと激突した。
「ぶっ」
このパターンもいい加減飽きたなと考える。
衝突するのはこれで何度目だ。
相変わらず出たのは少しも可愛くない悲鳴。
けれど今度の相手は人ではなく、何かもっと柔らかい物だった。
落下の名残でぐらつく頭を起こしてみてみれば、それは布張りのソファーだった。
はふかふかと弾むそこに、上手いこと着地したらしい。
どうりで痛みはなかったわけだ。
「なに……、何が…………?」
ソファーは逆に変な感じがした。
今まで硬い地面の上にいたからだろうか。
そのまま寝てはいられなくて、はゆっくりと起き上がった。
肩が痛んだから手を添える。
思わず顔をしかめれば、その視界を翼が舞った。
「ティム……!」
目の前にいたのは金色のゴーレムだった。
ティムキャンピーはを気遣うように頭上を一周し、視線を誘うように飛んでゆく。
それに従って辺りを見渡せば、そこは見覚えのある場所だった。
決して広くはない四角い部屋。
天井は高い。
あるのはのいるソファーと、椅子が何脚か。
そして中央に据えられたピアノへと、ゴーレムは飛んでゆく。
ティムキャンピーはそこに腰掛けていた人物の頭に着地した。
は震えるように息を飲み込んだ。
彼はこちらに気付いていないのだろうか、膝を抱えて顔を伏せてしまっている。
見えるのは白髪と、包帯の巻かれた手足だけだ。
はいまだに呆然としたまま、唇を開いた。
それを口にするのはたった数時間ぶりなのに、ずいぶん久しぶりのように感じられる。
何故ならは意地を張って、彼に会えるまで絶対に呼ばないと決めていたからだ。
「アレン……」
その名は二人きりの部屋に、そっと響いた。
ようやく見つけた、ここはなんて迷宮サンクチュアリ!