顔が、見たいと思った。
手を握って、頬に触れて、その声が聞きたい。
けれど一番最初にすることは決まっている。
は彼をぶん殴ってやりたくて仕方がなかったのだ。
Troumerei
「…………っ」
気持ちが先走って身を乗り出せば、ソファーから転がり落ちた。
顔面から床に飛び込む。
そのまま前転して、背中を思い切り打ちつけた。
苦鳴を漏らしたが何の反応もない。
部屋はしんとしたままだ。
涙目で見上げれば、彼は微動だにしていなかった。
何だアイツ。
はそう思って、激痛に耐えながら這うように傍まで近づいていった。
床には食べ物の残骸が散らばっている。
英国紳士ぶってるくせに、行儀が悪すぎる。
やっぱりここは鉄拳を叩き込まなければ、とは思った。
ティムキャンピーが飛んできて肩にとまる。
ゴーレムの翼に頬を寄せ、は彼の眼前でゆっくりと立ち上がった。
「アレン」
もう一度、名前を呼んだ。
もう一度、無反応を返された。
その声など聞こえないかのように、抱えた膝頭に額を押し付けている。
はぐっと顎を引いて腰に両手を当てた。
「この近距離で無視するとは、イイ度胸ね」
わざといつもの調子で言ってみたが、アレンはやはり何も応えなかった。
は数回まばたきをして気まずい空気を流した。
躊躇いがちに、そっと手を伸ばす。
「アレン……」
「うるさい」
唐突に掠れた声でそう言われる。
はびくりと肩を揺らして、指先を強張らせた。
はっきりとした拒絶を目の前に突きつけられて、呼吸を失う。
けれどそのままアレンは続けた。
「ついに幻聴まで聞こえ出した……。最悪だ」
「…………………………は?」
はこれ以上ないほど唖然として、口をぽかんと開けた。
目の前でうずくまったままのアレンが独り言を繰り返す。
「何でここまであの人に支配されなきゃいけないんだ、僕は…………」
「あの……、アレン?」
「うるさいうるさいうるさい。の声で喋るな」
「いや、私だから」
「幻聴のくせに」
「………………すみません、アレンさんは私の存在を幻か何かだとお思いで?」
「……………………………」
訊けば図星だったのか、それとも本当に無視を決め込んだのか、アレンはますます顔を伏せてしまった。
本当に何なんだコイツ。
は思わずため息を漏らした。
「あのね、アレン。私は本物よ」
「…………………」
「あんたに会いに、ここまで来たの」
「………………………………」
「聞いてますかコノヤロウ」
「……………………………………………」
「……………………、ねぇ」
吐息をつきながら、はアレンに触れた。
頭を撫でて、白い髪を指先で梳く。
頬に掌を当てた。
「顔を見せて」
囁くように頼んでみても、アレンは動こうとはしない。
仕方がないから両手でむりやり顔をあげさせてやった。
「目を開けてよ」
仰向かせたアレンは、瞳を閉じていた。
わずかに血管の透ける白い瞼が、銀の双眸を隠している。
その色が見たかった。
だからは言った。
「お願い。ちゃんとあなたに会いたいの」
「嫌だ」
にべもなく断られた。
コイツ本当に私のことが好きなのかと思う。
ふつう想い人が頼んだら、素直に聞いてくれるものではないのだろうか。
まぁ一般的なことは知らないから何とも言えないけれど、これはさすがに冷たすぎる気がした。
ちょっと真面目にどうにかしてやろうかとは考える。
「………………目を開けたら」
ふいにアレンが呟いた。
「そうしたら、きっとが見える」
「当たり前でしょ?」
「幻覚に興味はないよ……」
「……………………………だから、私は」
アレンはどこまでも自分がここにいることを信じていないらしい。
触れる手の感覚も、方舟の現す幻だと思っているのだろうか。
本当にどうしようもないなと思って、は肩をすくめた。
「だったら、もういいよ」
「………………………」
「アレン。じゃあ、絶対に……」
は呟きながらアレンの顎に手をかけた。
指先で持ち上げる。
長い睫毛と、閉じられた瞳。
そんなことをしているあんたが悪いのだと、心の中で不敵に告げる。
それから声に出して言った。
「絶対に目を開けないで」
それは嘘だ。
アレンはせいぜい意地を張っていればいい。
私が必ずその瞳を開けさせてやるんだから。
言葉が終るやいなや、はアレンをぐいっと引き寄せた。
そして強引にキスをした。
自分の唇で、彼のそれを塞ぐ。
有無を言わせず、不躾に口づける。
それはまるで殴りつけるかのような動作だった。
本当は頬を張り飛ばしてやろうと思っていたのだけれど、こちらの方がきっと痛いだろう。
その予想は大的中だったようで、アレンの体が驚きに揺れる。
咄嗟に身を引いて、肘を鍵盤にぶつけた。
奏でられる不協和音。
それさえ気にせずに、はキスを続けた。
「……………………っつ」
触れている唇が震えた。
腹が立っているから、それに軽く噛み付く。
苦しくなるまでキスをして、最後にぐっと唇を押し付けると、は飛び退くようにアレンから離れた。
瞼を持ち上げれば、銀灰色の双眸が見えた。
限界まで目を見張って、こちらを凝視している。
あまりに強引な口づけに息を乱しながらも、彼はを食い入るように見つめていたのだ。
は微笑んだ。
そして彼の瞳を見据える。
開かれた、その色を。
「ふふん、目を開けた。私の勝ちよ」
「……………………」
「それと、ありがとうって言うべきかな。………………やっと会えたね。アレン」
そう囁けば、アレンは思い出したかのように息を吐き出した。
見張っていた目を瞬かせる。
恐る恐る口を開いた。
「…………?」
いまだに信じられないとばかりに名前を呼ばれたから、は一歩だけ彼に近づいた。
子供のように胸を張って言ってやる。
「そう。私は。いい加減、わかってよ」
「な、何で……、本当に……?」
アレンは呆然と呟いてへと手を伸ばした。
指先が長い金髪に触れて、すぐに引っ込められる。
本当にそこにが居ると確認すると、アレンは顔を歪めた。
「何で、君がこんなところにいるの?」
「……私の話、聞いてた?」
「………………どうやって入ってきたんだ」
「上から落っこちてきたのよ」
「方舟が……、動いた……?…………っ、“奏者”の意思か」
「てっきりあんたがここに呼んでくれたかと思ったんだけど。その様子じゃ違うみたいね」
「……………………手違いです。この部屋には、誰も入れるつもりはなかった」
「…………、そう」
「君に会うつもりはなかった」
アレンはから目を逸らして、吐き捨てるようにそう言った。
は胸が痛むのを感じる。
それは、彼が自分を拒絶したと思ったからではない。
彼がどこまでも孤独になる気でいたということに、衝撃を覚えたからだ。
「………………どうして、こんなところまでやって来たんだ」
唸るようにアレンが言った。
片手で顔を覆って、痛みに耐えるように拳を握る。
指先が震えたのをは確かに見た。
「そんな体で、馬鹿じゃないのか」
「怒らないで。もう皆にさんざん叱られてきたんだから」
「どうしてだよ。僕が一番に怒らなきゃいけないことだ……!」
そこでアレンが掠れた声を荒げたから、は両腕を伸ばした。
胸元に彼の頭を引き寄せる。
ぎゅっと力を込めて抱きしめた。
「駄目。あなたは私を怒るフリをして、自分を傷つけるから」
「………っ」
「だから、駄目よ。怒らないで」
「…………………こうなることが、嫌だったのに」
アレンは大きな息を吐き出すと、そっと目を閉じた。
「君に会いたくなかった。血まみれの姿なんて、見たくなかった。どうして病室で大人しく寝ていられないんだ」
「それはお互いに言えないことでしょう。あなただって重症人なんだから」
「君みたいな無茶はしていない。僕は独りになりたかっただけだよ」
「私は、あなたを独りにしたくなかっただけよ」
「………………………」
「それがおせっかいでもワガママでも、嫌だと思ったのよ」
最後にわずかに声が震えたから、はぐっと唇を噛んだ。
アレンの頭に頬を寄せる。
白髪が肌を撫でる。
「それが、嫌だって言ってるのに……」
アレンの口調はどこまでも苦しそうだった。
「君には嘘がつけない。きっと僕の気持ちに気付いてる。…………そうわかっていたから、僕は」
「気付いていたよ。このピアノを奏でたときから、あなたは傷ついたような顔をしていた」
「…………………………」
「仲間を救えた事を喜んで、けれど同時に混乱や不安を感じているように見えた……。今は、……怖いの?」
「怖いよ、君が……。他の誰も気付かずにいてくれたのに、どうして」
そこで彼はどこか諦めたようにため息をついた。
「わかっていたんだ。君には何も隠せない。きっと独りにしてはくれないだろうって………………その優しさが、怖かった」
あぁ方舟で感じた恐怖の原因は、私にもあったのかと、は思った。
「だから、僕はここにいたんだ」
「…………………あなたは私に会いたくないから、方舟の中に閉じこもっていたのね」
「だって、ひどいじゃないか……!」
それは、閉ざしていた心を吐露するような行為に見えた。
アレンは喉に張り付いた声を絞り出す。
「弱い者に縋られて、寄りかかられて……。いつだってそうだ。僕は君の重荷になってばかりだ」
「どうして?そんなの私が決めることよ」
「駄目だ。傷だらけの君に頼りたくない」
「……………………それなら、なぜ私をこの部屋に入れたの」
は静かに問いかけた。
アレンの肩が大きく揺れた。
咄嗟に身を離されそうになって、それを阻むために強く抱きしめる。
「方舟は“奏者”の意思にしか従わない。あなたが本当に私を拒絶しているのなら、ここには入れなかったはずよ」
「……………………」
「私は、ここにいなかったはずよ」
「…………………………、だから僕はひどい奴なんだ」
アレンは強張らせていた体の力を抜いた。
はそれをしっかりと受け止めた。
「嫌だと言いながら、心では君を求めてる……。本当にどうしようもない。傷つけるだけだとわかっているのに」
「……………………」
「…………無意識だよ。君をここに入れたのは」
「私の声が、聞こえたの?」
「ううん。ただ、方舟が気配を感じ取ったんだろう。自然に動いた……。いや、僕の自分勝手な願いに応えただけだ」
そこでアレンはようやく自らの意思でに触れた。
そのまま抱き返されるかと思ったけれど、両肩を掴まれて強く押される。
決して乱暴ではなかったが、アレンはを自分から引き離したのだ。
「ごめん、こんなはずじゃなかったのに……」
瞳を伏せたアレンが言うから、は口を開いた。
何故だか喉がひどく痛かった。
それでも必死に何でもない声を出す。
「何が?アレンに謝られる覚えなんて」
「あるよ。そんな体で無理をさせた。そうならないように、方舟の中にいたのに。誰も入れないように、入り口を閉ざして」
「………………そんなに私に会いたくなかったの」
「会いたくなかったよ……っ」
吐き出すようにそう言って、アレンは完全にから手を離した。
「淋しいとか、哀しいとか、そんな感情で君に触れたくない。その温もりを利用したくない。…………君を傷つけたくないんだ」
「……………………」
「頼むから、…………僕のために無茶をしないで」
「何でかな……。今、猛烈にあなたを張り倒してやりたい気持ちよ。アレン・ウォーカー」
は固い声音でそう告げた。
アレンは緩慢に瞳をあげた。
それから息を呑む。
はそんなに今の自分の顔はひどいのかと思った。
正体のわからない感情がせりあがってきて、熱を孕んだ。
喉が焼けるようだ。
涙が浮かんだけれど、絶対にこぼすものかと自分に誓って、アレンを睨みつけた。
「私を傷つけたくないのなら、それ以上バカなことを言うのは止めて」
「…………バカなこと?」
「そう、バカなことよ。どうしてそういう考えになるのかわからない」
「何のことだよ」
「全部よ!」
思わず叫んでしまって、は唇を閉ざした。
右手をきつく握って胸に押し当てる。
落ち着けと、自分に念じた。
そうしないと本当に泣いてしまいそうだったのだ。
「…………ああ、腹が立つ。会いたくない会いたくないって、そればかり。わざとこんなところに閉じこもるなんて……っ」
やはり来なければ良かったのだろうか。
一瞬でもそう考えて、は自分に激しい怒りを覚えた。
そんなのは、ここまで見送ってくれた皆の気持ちを踏みにじることになる。
けれどそのせいで、アレンをさらに孤独にさせたことも確かだった。
考えれば考えるほど思考がぐるぐるする。
脚がわなないて膝をつきそうになった。
けれどそんな無様な自分は許せそうにない。
は必死に立ったままでいた。
弱音を吐くのは嫌だったけれど、素直にならなければとても彼とは渡りあえそうになかった。
だから何とか小さな声を紡ぎ出す。
「足が痛い。血が止まらない。皆に怒られた。帰ったらきっと全員に殴られる。痛い痛い痛い、もうずっと痛みが止まらない。それでも私はアレンに会いたいと思った!」
「………………………」
「あんたが閉じこもったのはあんたの勝手よ。私がここに来たのは私の勝手よ。利用するとか、傷つけるとか、そんなのはどうだっていい。後悔したって遅いんだから。私はもうここにいる。あんたの目の前よ。アレン」
「………………だから、何だって言うんだ」
「これだけは譲らないということよ。間違っているのは絶対にそっちだもの。アレンが独りになろうとしているときに、私が大人しく寝ていられると思うほうがどうかしている」
そう言ってやればアレンがぐっと息を詰めたから、はさらに確信に満ちた声で続けた。
「わかっていて逃げたのなら、なおさらね。私がそれでいいと言っているのに、あんたは触れるのを躊躇った。そんな優しさ、どこにでも捨ててしまってよ」
「………………、嫌だ」
「…………………………ここまで拒絶されると、アレンは私のことが嫌いなんだと思えてくるのだけど」
「違う!!」
そこでアレンが叫んだ。
思考を通り越して飛び出した言葉のようだった。
がわずかに肩を揺らせば、アレンはハッとしたように唇を閉じた。
顔を逸らし、震える指先を握りこんで言う。
「違う……。そうじゃないから、嫌なんだ…………」
「……………私だって、そうじゃないよ。だからここまで来たの」
は真っ直ぐにアレンを見つめて囁いた。
「私は、どうしてもアレンに会いたかったのよ」
言ってしまってから、は自分自身に吃驚した。
これではまるで女の子みたいではないか。
こい、とかしてる普通の。
いや、普通ではないか。
扉を蹴破って殴り込んできてしまうような自分は。
アレンも本当に驚いたように、こちらを見ていた。
はそこで何だか肩の力を抜いた。
言うだけ言って、少し落ち着いたのかもしれない。
アレンの頬が確実に染まったのを見て、満足したのかもしれない。
は吐息をつくと、さばさばと長い髪を払いのけた。
「どいて」
「…………………は?」
アレンはぽかんと口を開けた。
は構わずに近づいていって、彼を椅子の端に追いやる。
そして自分は隣に腰掛けた。
「な、何する気……?」
アレンが気まずそうに訊いてくるから、は逆にきっぱり言ってやった。
「ピアノを弾くの」
「は、はい?」
「アレンはどうやっても会いたくなかったみたいだから、もう何も言わない。でも、帰らないよ」
「……………………」
「あなたは私を傷つけないし、利用もしない。だって、私が勝手に傍に居るだけなんだから」
前を向いたままそう告げてやれば、アレンはわずかに睫毛を震わせた。
それからよく考えた後、尋ねる。
「それで、何でピアノ……?」
「私も色々ごちゃごちゃなの。だから、全然関係ないことをして冷静になりたいのよ」
それはがよく使う手だった。
何か考えがまとまらないときは、そうやって平常心を取り戻す。
今はそれがピアノなだけだった。
「ちょうど目の前にあることだし。ああでも、これに触られるのは嫌?」
「いえ……、別に。僕のってわけじゃないし……」
「そう。よかった。ちょっと借りるね」
何だかいつも通りのような会話をして、は両手を持ち上げた。
頭がぐちゃぐちゃで考えをまとめなければ。
けれど本当は、行き着く答えに気付いていた。
それはきっとアレンも同じだろう。
は隣に感じる温もりに瞳を伏せた。
一呼吸置いて、一気にピアノを弾き始める。
奏でられる音色。
の白い指先が、黒い鍵盤の上に踊る。
音にして捧げよう。私の心を、あなた
だけに。