どうして僕の前に現れたんだ。
その温もりを奪いたくない。
傷つけたくない。
それ以上、血まみれにならないで。



愛を疑った僕に、躊躇いもなく触れないで。


Troumerei


逆方向を向き、長椅子に並んで腰掛けた二人はしばらく無言だった。
はめちゃくちゃにピアノを奏でていた。
恐らく即興で弾いているのだろう。
耳障りでないのが不思議だ。
アレンは膝を抱えて、ぼんやりそれを聞いていた。



彼女を突き放しておきながら、傍にいることがひどく心地良くて嫌になる。
会いたくないから方舟にいたのに、無意識の内にこの部屋に呼んでいた自分には吐き気さえ覚えた。
くだらないことだ。
いくらがいいと言っても、そんなのはひどすぎる。



そんなことを考えていたのに、ふいに空気をぶち壊されて、アレンは椅子からずり落ちそうになった。
聞こえてきたのは何とも陽気なメロディ。
しかも歌つきだ。



「ねこふんじゃった〜、ねこふんじゃった〜、ねこふんじゃった〜ら引っかいた!」



よりにもよってこの歌か、と思う。
冷や汗を浮かべているうちに曲は変わって、今度はエーデルワイスになった。
また歌つきだ。
次はマザーグース。
ハンプティ・ダンプティからはじまって、メリーさんの羊、きらきら星。
捨て子だったアレンでさえ、幼い頃に聞いたことのある曲ばかりだ。
それからは様々な言語で歌を歌い続けた。
何故だか童謡が多かった。
歌詞が聞き取れなくても、メロディが優しかったから、それとわかった。



聞いていれば、不思議と少しだけ涙が滲んだ。
そのとき奏でられていたのが子守唄だったからかもしれない。
アレンは小さな声で疑問を呟いた。



「どうしてそんなにピアノが弾けるの」



は歌を歌っていたから聞いていないのかと思ったが、間奏中に答えが返ってきた。



「音楽は好きなの」



よく考えれば、彼女からこういう話を聞くのは初めてかもしれない。
アレンはその声を捕らえようと、我知らずに顔をあげた。



「本当は踊る方が好きなんだけどね。……リズムを掴んで、音階通りに鍵盤を叩く。そうすれば、ホラ。弾けるよ」



それはつまり、すごいことなんじゃないのか。
アレンは呆然と考えた。
もしかしたら幼い頃に習っていたのかもしれないが、それにしたって彼女の言葉が本当ならば、メロディを聞いただけで弾けてしまうことになる。
その証拠とでも言うように、いまやは聞くも壮大な曲を弾いていた。
きっと何とかソナタの第何番とかそういうやつだ。
たぶん楽譜にしたらミミズがのたくったようにしか見えないような。
両手が有り得ない速さで鍵盤の上を駆け抜け、音を奏でてゆく。
あ、下のほうにあるペダルを踏んでる。
あれって付いている意味あったんだ。



アレンはしばらくピアノを弾くを眺めていた。
もはや開いた口が塞がらない。
けれどふいに旋律が切なくなったから視線を前に戻した。



は歌っていた。
声が少しだけ震えている。
それはいつか聞かせてくれた、グローリアとの思い出の歌だった。
歌詞はフランス語だったからアレンにはさっぱり聞き取れなかったけれど、溢れ出す想いだけで充分だった。
哀しくて、愛おしくて、泣いてしまいそうになる。
それは当たり前のようにも同じで、彼女はその曲が終ると同時に、鍵盤の上に手を置いたまま頭を下げてしまった。
深く俯いた顔を長い金髪が隠す。
ピアノの音が消えた室内は、ひどく静かだった。
アレンは思わずの肩に手を伸ばした。
抱き寄せたいと思った。
独りで俯いて、震えていてほしくなかった。
けれど指先が触れる直前で体を強張らせる。
あんな風に突き放しておきながら、彼女に触れてもいいのだろうか。
そんなことが許されるのだろうか。
その一瞬の躊躇の内に、が口を開く。



「私は、この曲によく似たものを聞いた」



アレンはゆっくりと目を見張った。
はわずかに顔をあげて、続ける。



「この部屋で、聞いたのよ。あなたの声で」
「……………………」
「ねぇ、アレン」



そこでは震える息を吐き出した。
苦しいのか辛いのか、それとも違う何かなのか。
の白い手が持ち上げられて、そこにかざされる。
ピアノに立てかけられた楽譜。
指先はその表面に添えられることはなく、くうをそっと滑っていった。



「あなたの心に、触れてもいい?」



その声を聞いた途端、アレンは躊躇いなど忘れてしまった。
思考などどこかに飛んでいったに違いない。
伸ばしていた指先はの肩を掴まず、その手を握った。
伝わってくる体温が、たまらなく心地良いと思った。
どうしてだろう。
会いたくなかったのに。
触れたくはなかったのに。
“独り”にしたくないと言う彼女の気持ちが、ひどく心に響いてきて死んでしまいそうになる。
アレンはそのままの手を引き寄せた。
どちらも震えていた。
切なくて哀しくて、それでも孤独ではないという事実に震えていた。
アレンはそっと、彼女の手を自分の胸の上に置かせた。



「今さら……」



命の鼓動を愛しい掌に伝えて、アレンは囁いた。



「今さらそんなことを訊くの。こんなところまで入ってきておいて」



本当に、こんな心の奥の奥まで、君は……。
そこでアレンはしばらく言葉を失った。
思考が上手く働かない。
傷つけたくないと何よりも願っているのに、同じだけの強さで彼女を求めている。
身動きが取れない。
どうすればいい?
それでも確実に優しい破壊の音色が響いていた。
だからこう言わずにはいられなかった。



「………………弾いて。



崩された虚勢。
壊された孤独。



「君の声で聞きたい」



あの歌を。



がこちらを見つめていた。
金の双眸は何故だか揺れている。
ああ、涙だ。
わずかに滲んだそれが、ますます彼女の瞳を光みたいに見せていた。
は何も言わずに指先を握った。
そしてアレンの手からするりと抜け出すと、ピアノに触れる。
一度音色を確かめるように鍵盤を押さえた。



それからはまるで魔法みたいだった。
たった一回聞いたきりのはずなのに、の奏でる旋律はアレンの弾いたものとまったく同じだった。
楽譜は置いてあるけれど、彼女に読めるはずもない。
ほんとうに記憶の通りに弾いているだけなのだ。
持ち前の運動神経でリズムを掴み、感覚の良さで鍵盤を叩く。



二度ほどメロディを繰り返した後、は歌い始めた。
何度聞いても不思議な歌詞だ。
けれど何故だか心地良い。
以前は感じた頭を誰かに覗かれている感覚も、今はもうなかった。
の歌声が静かに響いて何もかもを支配してくれる。
ああ、こうやって歌ってもらって初めて気がついた。
この歌詞がどれだけ優しいものかということに。
自分の頭に流れてくるだけではわからなかったことだ。
混乱も不安も恐怖も猜疑心さえも凌駕して、伝わってくる想いがあった。



涙が出そうになった。
アレンは椅子の上で膝を抱いて、そこに顔を伏せた。
ゆるやかに曲が終って、歌が消えて、それでも余韻がそっと包み込んでくる。
体が小さく震えて止まらない。



「これは、やっぱり……子守唄なんだね」



演奏を終えたが囁いた。
隣で楽譜を撫でる気配がする。
アレンは掠れた声で言葉を返した。



「マナが……」



蘇るのは、懐かしい面影。



「その歌詞は、父と僕が作った文字で描かれてるんだ……。どうしてかはわからない」
「……………………」
「それは、二人だけの秘密の言葉だ……」
「だから、こんなにも優しさを感じるのね……。グローリア先生が歌ってくれた歌と同じように」
「そう。同じなんだよ。けれど、何で……っ」



狂おしいほどの愛情が溢れていた。
大切な者を慈しむ想い。
そこに感じるのは確かに父で、けれどだからこそわからない。



「何故こんなところでマナを感じるんだ……。あの人はただの旅芸人で、僕はただの捨て子だったはずなのに。ノアも方舟も14番目も関係ない、僕たちはただの……」



混乱する。
頭がひどく痛んだ。
アレンは片手で顔を覆って唸った。



「ただの親子だったはずなのに……!」



血は繋がっていなかった。
けれど確かに絆はあった。
それなのに、その証は今や疑うべきものとしてアレンの前に存在している。



「アクマを救いたいと、そう思ってここまで歩いてきたのに。自分の意思でこの道を選んだつもりなのに…………」



足元が不安定になる。
自分を形造る強さが指先から崩れ落ちてゆく。
それは途方もない恐怖だった。
アレンはぶるりと体を震わせて、思わず心の声を吐き出した。



「あのころの全てが偽りだったなら、“僕”は一体誰なんだ……っ」



「アレン・ウォーカーよ」



間髪入れずにがそう応えた。
アレンは大きく肩を揺らして顔をあげた。
目が合えば、彼女は繰り返した。



「貴方はアレン・ウォーカーよ。それ以外の何者でもない」
「……………………」
「私は貴方のお父さんを知らないから、彼のことは何も言えない……。けれど貴方なら知っている。あなたは」



そこでは瞬きをした。
涙が零れ落ちそうだった。
けれど彼女は泣かないだろう。
ようやく悲しみを吐露したアレンの前では、泣けないのだろう。



「あなたは誰かを想うことが出来る人よ……。そして、その愛を教えてくれたのが“マナ”だということを知っている。だからきっと、後悔しない」
「…………何を?」
「この道を選んだことよ。ここまで必死に歩いてきた全てを」
「…………………………」
「そうやって救えたものを、悔やんだりはしないでしょう」
「………………、僕は」



言いかけた言葉は吐息になった。
は少しだけ微笑んだ。



「あなたは“アレン”よ。“マナ”に愛されて、その魂を抱いて。血も涙も流しながら、必死にここまで歩いてきた、私の仲間」



彼女の声で聞くその名前は、何故だかとても温かかった。



「例え誰かに指示された道であったとしても、あなたの本質は変わらないはずよ」



本当にそうだろうか。
誰がそれを証明してくれるんだろうか。
アレンはすがるようにを見つめた。



「けれど、これだけは知っていて。ねぇ、いつも私に冷たいフリをして、本当は誰より優しい“アレン・ウォーカー”」



そうしては金色の瞳を細めた。
微笑みが綺麗で胸が痛くなる。
ああ、涙が。




「私のあなたへの気持ちは、絶対に誰かに決められたものなんかじゃないよ」




涙が、こぼれた。
本当に、今度こそ頬を滑り落ちた。
ずっと我慢してきたのに、もう駄目だ。




「この想いだけじゃ、“あなた”を“アレン”だと証明することはできないかな……」




左頬の傷を撫でてゆく感触。
水滴が顎を伝って膝の上に落下した。



「アレン」



が静かに自分の名前を呼んだ。
返事をしなければと思う。
けれど胸が苦しくて声が出ない。





「私は、あなたを形造るひとつになりたい」





ひとつだなんて冗談じゃない。
こんなに僕の心を占領しておいて、今さら馬鹿なことを言うな。
そうやって罵ってやりたかった。
俯いた視界にの金髪が見える。
すぐ傍で声がする。



「“そして坊やは眠りについた”」



あの歌詞だ。
流れるようには言う。



「“息衝く 灰の中の炎 ひとつ ふたつと”」
「………………“浮かぶ ふくらみ 愛しい横顔”」



アレンも自然と口を開いていた。



「“大地に 垂るる 幾千の夢”」
「“銀の瞳のゆらぐ夜に 生まれおちた輝くおまえ”」
「“幾億の年月が 祈りを 土へ 還しても”」
「“ワタシは 祈り続ける”」



そこで目の前に白い掌が差し出された。
頬に手を当てられて、そっと顔を上げさせられる。
の指先が、優しくアレンの涙を拭っていった。



「“どうか この子に 愛を”」



ああ、そうか。
アレンはそこで理解した。
自分は意外と鈍感だったらしい。





この歌を歌うことは、彼女の告白だったのだ。





だからアレンは離れていこうとするの手を掴んだ。
指先を絡めて引き寄せる。
吐息のように最後の歌詞を囁いた。



「“つないだ 手に キスを”」



アレンはの掌に口づけをした。
音など立てず、そっと唇を寄せる。
滑らかな肌の感覚に目眩がした。
わずかに震えた手を握ってアレンが瞳をあげれば、が見えた。





そうして気が付けば、アレンは彼女にキスをしていた。
今度は手ではなく、本当に唇を重ねる。
触れる感覚がどうしようもないくらい愛おしくて、もっと深く口づけた。





彼女は破壊者だと思う。
弱い僕を完膚なきまでに壊して、光で包み込んでしまうことのできる、この世でたったひとりの女の子だ。





だからどうか、愛を。
繋いだ手。
唇に触れる。
優しい温もりと甘い香りに酩酊する意識。





アレンは乞うようにを求め続けた。







届けとどけ。この想い、あいのうた。