ご注意を〜

これは未来のお話(『メサイア』設定)です。苦手な方はご遠慮ください。

・アレンとヒロインが成人してます。20代です。
・いわゆるそういう関係です。
・宗教を匂わせる記述がございますが、現実のそれとはまったくの無関係です。あらかじめご了承ください。


上記をご理解いただけたうえで、「それでもいい、むしろ何でも読んでやるぜ!」という勇気に満ち溢れている方は、スクロールでどうぞ。
















クリスマスの贈り物。
順に増えてゆく12日間。
どうか、最後までひとつまで受け取ってね

私の恋人。






● The twelfth day of Christmas 1 ●









寒い寒い寒い本当に寒い、凍えそうだ。
今日の夕食は温かいものがいいな。例えばビーフシチューとか。
それなら野菜もお肉も摂れるから体にもいいし、お腹にも嬉しい。お鍋にいっぱいで量がたくさん。
何より僕の大好きなの得意料理だ。


「アレン!!」


とか何とか冷気に頬を赤くしながら考えていたら唐突に上から呼ばれて驚いた。
けれどもっと驚いたことに、次の瞬間には声の主が降ってきた。


「…………………」


アレンはちょっと絶句する。
仕事道具を放り込んだトランクを片手に下げ、食料の詰め込まれた買い物袋を抱えて、その場に立ち尽くす。
呼び声に釣られて顔をあげれば空中に金髪の人物がいた。
家にいたから服装は赤いチェックのワンピースだ。
上からもこもこした生地の白いカーディガンを羽織っていて、けれどどう見ても外に出ていいような格好じゃない。
雪が降り続く屋外ではひどく寒いと感じるだろうに。


アレンの眼前にあるのはえらく年季の入ったボロい建物で、かれこれもう3ヶ月ほど住みついているアパートだった。
本当はもっと綺麗で交通の便のよいところが良かったのだが、が此処でいいと言ったのでいいことになっている。
ちなみにアレンは反対した。だってやたら古い。そして狭い。
けれどそれらの問題はが綺麗に解決してくれた。
彼女は剥がれていた壁紙は新しく貼りなおし、薄汚れた床を曇りなく磨きあげ、ピッカピカに掃除し尽くした。
さらには家具をうまく移動させることで、それなりに広い部屋へと変えてしまったのである。
おかげで今や我が家は外から見ただけではとても想像できない内装となっていた。


どうやらには倹約家の素質があるみたいだ。
それはそれで良いことなのだけど、アレンとしてはちょっとだけ不満に思う。
だって彼女は無理に買い与えてやらないと一切贅沢をしてくれないのだから。
そんなわけで今日もお土産をいくつか購入してきた。
無駄遣いをして怒られるかもしれない。
けれどきっと彼女は笑ってくれるだろう。
その予想にうきうきしつつ、仕事を終えたアレンは教会からの帰り道を急ぐ。
そうして辿り着いた家の前で、話は冒頭に戻るのだ。


は手すりを身軽に乗り越えると、アパートの屋上から飛び降りてきた。
膝丈のワンピースが舞い上がり、長い脚が露わになる。
黒いタイツを履いているけれどそれはそれで何だかアレだった。
思わずアレンが釘付けになっていると、ギリギリのところでスカートを押さえつけて空中側転。
続いて右ひねりに二回転、左に一回転して、華麗に着地をする。
今度は飛び込むように前転してアレンの足元まで転がってきた。
そのまま流れるような動作で膝を折り、地面に手をつく。


「………………………」


今度こそ本当にアレンは絶句した。
何故ならはそうやって深々と頭を下げたからだ。
ちなみに此処は外である。
しかも寒風吹き荒れる12月だ。
地面には当然雪が降り積もっており、その上に跪いて土下座をしている女性というのは、さすがのアレンもお目にかかったことがなかった。


「……


アレンは恐る恐る訊いてみる。


「なに……、してるの……?」
「ジャンピング土下座です」


普通に返答。
けれど意味がわからない。


「何それ」
「神田の国の伝統的謝罪法よ」
「本当に?絶対?そんなこと言って日本の方々に怒られない?」
「大丈夫よ、だって日本人なら誰だって出来るっていう噂なんだから!」
「いや、ない。それはない。というかそんな国民性は嫌だ」


アレンは根拠はないけれど絶対の自信を持って断言した。
冷や汗をかきながらを見下ろす。


「体操選手顔負けの連続技を決めた挙句が、これ……?雪に埋もれながらの土下座……?本当にちょっと有り得ないなぁ……」
「こ、心からの謝罪なの!お願いだから受けとめてよ」
「これでハイそうですかって言える人間は絶対にいないと思う」


アレンが半眼になりつつそう言うと、はがばりと顔をあげた。
何だか微妙に涙目だ。
本当に何なんだろうこの人。


「ダメなの?許してくれないの……?」
「それ以前に意味がわからないんだって」
「……っつ、がんばったのに……。アレンが帰ってくるのを延々と待ち続け、渾身の力でジャンピング土下座に挑戦してみたのに……」


唇を噛み締め、目をうるうるさせ始めたを眺めながら、アレンは思う。
こんなことを真面目にやっちゃうような馬鹿を、何故僕は好きなんだろうか。
本当に本当に、謎だ。


「こ……っ、この!鬼畜!意地悪アレン!!」
「罵倒される理由もわからない。いいからそろそろ立ってよ」


地面に伏せて泣き喚くをアレンは促した。
先刻から周囲の視線が痛い。
そりゃあ雪の上で薄着の女性を土下座させている男がいたら、好奇の目で見られるのも当たり前だ。
何より一番にの体が心配だった。


「いつまでもそんなことしていたら冷えてしまうだろう。早く中に入ろう」


言いながら腕を掴んで引っ張り立たせる。
はまだめそめそしていたが全部無視して手を繋いだ。
指の間を握れば、アレンの手袋越しに体温が伝わってくる。
よかった。雪の上に手をつくものだから心配したけれど、霜焼けにはなっていないようだ。
アレンはそのままを連れて階段を登り、自分達の部屋のドアを開ける。
先に金髪を押し込んでから後ろを振り返った。
途端、じっとこちらを観察してくれていたご近所の皆さんと目が合う。
アレンは満面の笑みを振りまきながら、大きな音を立てて扉を閉ざした。


「明日、妙な噂になってないといいけど……」


ただでさえ神父とシスターが同じ家に住んでいるのはどういうことなのかと、いろいろ憶測が飛び交っているところだ。
別に自分達の関係を隠すつもりも弁解するつもりもない。
だからあくまで普通に暮らしているけど、品のいい噂ばかりでもないのには頭が痛かった。
男の自分はどうでもいいけれど、女性のには可哀想だ。
けれど当の本人はアレン以上にどうでもいいと思っているようだった。


「アレン、冷たい」


急に言われて顔を向ける。
すると薄紅の唇がキスをしてくれた。
爪先立った体は不安定だから両腕で支えてやる。
あぁ荷物を放り出してしまった。トランクはいいけれど買い物袋の中には卵が入っているのに。


「おかえりなさい」
「ただいま」


今更だけど挨拶をして、今度はアレンから口づけた。
驚くほど暖かい。
本当に自分の体は冷え切っていたみたいだ。


「どうしてこんなに冷たいの?手袋もコートもびしょびしょ」


もう少しキスをしていたかったのに、が唇を離して訊いてくる。
アレンは名残惜しげに彼女を抱き寄せながら答えた。


「帰りに子供たちに捕まったんだよ」
「へぇ」
「何だかすごくはしゃいでいてね。雪遊びの相手をせがまれたんだ」
「そう……」


そこでは曖昧に頷いた。
口元が緩んでいるから気を悪くしたわけではなさそうだが、妙に表情を取り繕おうとしているように見える。
アレンは小首を傾げたが、伸びてきた手に訊く機会を奪われた。


「とにかく脱いで。そのままだと風邪を引いちゃう」
「あぁ……」


促されてとりあえず手袋を外そうとする。けれどなかなかそれが出来ない。
仕方ないので口で引っ張り抜いた。


「手がうまく動かない……」
「かじかんでるのよ。やってあげる」


奥からタオルを持ってきたが、それをアレンの頭に被せながら言う。
彼女はこちらの手を取るとそっと手袋を外してくれた。
触れた体温がひどく心地良く感じるのは、体が凍えているせいだけだろうか。
もっとして欲しくてなって、の耳元で囁いた。


「脱がせて」
「は……?」
「服も。雪で濡れていて冷たい。君が暖めてよ」


そこまで言ったときに耳たぶに唇が当たった。
はびくりとして、頬を赤くする。
昔から彼女はここが弱い。


「……変な言い方しないで」
「そんなふうに聞こえた?」
「そういうふうに言ったんでしょ、あなたが」
「……それで、期待したの?」
「もうっ!」


はちょっと乱暴にアレンの胸を押し返した。
怒ったような動作でコートのボタンをぶちぶち外してゆく。


「……千切らないでね」
「大丈夫、取れたらちゃんとつけてあげるわ。ついでにその軽い口も縫い付けてあげようか?」


思わず言えば上目遣いにちろりと睨まれた。
ばかだなぁ、。そんなことしてもちっとも怖くない。
むしろ君の口を僕に縫いつけてやりたくなる。
アレンはコートを脱がそうとしてくるの顎を掴んで、口唇を強く強く押し付けた。


「ん、っ……」


彼女はくぐもった悲鳴を漏らして、咄嗟に身を引こうとした。
けれど指先で頬を撫でて引き止めれば抵抗はなくなる。
アレンは微笑んだ。
口づけは荒く、手は柔らかく触れる。


「は、……っ」


キスの合間の吐息も塞いでやれば、からも身を寄せてきた。
彼女の手が動いてアレンの体から濡れたコートを滑り落とす。
床にはすでにいろいろな物が転がっていて、買い物袋からはリボンが結ばれた可愛い包みが覗いていた。
そういえばあれも割れ物だったなと思う。壊れてないといいけど。
アレンはの服に手をかけた。
その途端、少しだけ離れて言われる。


「……私は寒くないわ」
「そうだろうね」
「だから脱がさなくていいの」
「僕が寒いんだってば。ね、暖めて」
「…………………」


は眉をしかめて目を伏せてしまった。
けれど拒絶は口にしないから気にしない。
抵抗のつもりなのか、彼女は彼女でアレンの濡れた服を脱がそうとしてくれるからどうにもやりにくかったけれど、気にしない。


「……私、アレンに謝らなくちゃいけないことがあるの」
「え?……ああ」


そういえば、彼女は自分に素晴らしいジャンピング土下座をしてくれたのだった。
あんな強烈なこと忘れていたわけではないけれど、現状況のほうが大事すぎる。
アレンはの上着に手を滑りこませて彼女の丸い肩を撫でた。


「なに?何かあった?」


カーディガンをするりと脱がせる。
現れたのは黒いセーターと裾の広がらないワンピース。
にしては随分と可愛らしい格好だ。
けれど言われた言葉はアレンにとってどうにも可愛くないものだった。


「明日の夜……クリスマスをね、一緒に過ごせなくなっちゃったの」
「…………………」


思わずぴたりと手を止める。
聞き間違いかと思ってを見つめる。
すると彼女は勢いよく頭を下げた。


「本当にごめんなさい!」


距離が近いのでアレンの胸に頭突きをしたみたいになった。
体を強張らせて目をきつく閉じている様子から見て、冗談ではなさそうだ。


「……どうして?」


なるべく普段と変わらない声で訊いてみた。つもりだったが、えらく不機嫌なように自分でも聞こえた。
はその調子にか、それとも同時に腰に這わせた手にか、とにかくびくりと肩を揺らす。


「……仕事が、入っちゃったのよ」
「仕事?夜の分は全部断ったんじゃなかったの」


昼はアレンもとは別の仕事があるが、夜はきちんと空けておいたはずだ。
聖職者としてあるまじき暴挙だろうが、クリスマスは二人にとって本当に大切なものなのだ。
けれどはそんな日に今更一緒にいられないと言う。


「どうしてもと頼み込まれたの。クリスマスの夜に聖書を朗読してくれって」
「……どこの教会?」
「教会じゃない」
「じゃあ何かの集まり?」
「ちがう」
「誰の依頼だ」


アレンが低く問い詰めると、は躊躇った。
だがそれは無意味だし、黙っているつもりもなかったのだろう。
結局はハッキリと答えた。


「ステュアート子爵のご子息よ」


そこでアレンは眉をひそめたまま首を傾けた。
言われて思い出したのは、青灰色の瞳を持つ美丈夫。
この地方の有力者、その年若い息子だった。


「どうしてあの人が?」


アレンは何だか奇妙に思う。
父である子爵は聖夜に間違いなく教会を訪れるだろう。そこで地元の者と過ごすのがクリスマスにおける彼の仕事だ。
それにはもちろんご子息も同行すると思うのだが。


「何でも足を怪我されて、今年はお父さまのお供を諦めたとか。ひとりお屋敷で過ごされることにしたそうよ」


が少し俯いたまま説明した。


「けれど教会に行けないことを深くお嘆きになって……せめて聖書の朗読が聞きたいと、聖職者をお望みなのよ」


なるほどねぇ、とアレンは思う。
確かに彼は敬虔な人物だったはずだ。
けれどいろいろ引っかかることもあった。


「……それ、いつ依頼されたの?」
「今日。仕事帰りにお会いして」
「…………ご子息は足を怪我しているはずだよね」
「気晴らしにと、馬車でお散歩にいらしていたのよ」
「ふぅん。それはそれは、優雅なことで」


アレンは冷たく瞳を細めた。
お屋敷に聖職者を呼び寄せて聖書を朗読させるというのはいかにも貴族らしい。
だからそれはいい。
ただ、アレンが許せない点はひとつだけだ。


「……夜に、女性を呼びつけるというのはどうなんだろうね」


低音で呟くとが驚いた顔をした。


「何を言ってるの?ご子息は私を聖職者としてお呼びになったのよ。何か……妙なことを考えてらっしゃるはずがないじゃない」


どうやら彼女にはそういう考えがまったくなかったらしい。
アレンはちょっと閉口した。
は馬鹿ではないのだが、その可能性が充分に示されない限り、他人を疑ってかかろうとしないのだ。
過去の例で言えば、アレンが告白するまで彼女はまったくこちらの気持ちに気が付いていなかった。
つまり、言い寄られない限り、相手が自分に気があるということを理解しない。
鈍いというよりは、その手の話を避けているようにアレンには感じられる。
だからこそ、簡単にはそういう方向に考えが結びつかないのだろう。
対してアレンはというと、すぐさまそれを勘ぐる。
恋人だからというのもあるが、どうにもは妙な男に好かれやすいからだ。


「何だか変だと思うよ、その依頼。なにも余所者のシスターを名指しする必要はないだろう」
「思い立たれたときに、たまたま私が目の前にいたのよ。きっとそれだけ」
「……仕方ないな。じゃあ僕も一緒に行く」
「だ、駄目よ!私ひとりじゃないと!!」
「…………、何で?」


当たり前みたいに却下されて、アレンは口元だけの笑みを浮かべてみせた。
はちょっと目を泳がせる。


「そ、そういう依頼だから」
「だから何で。どうして君だけじゃないと駄目なの?」
「きっと遠慮していらっしゃるのよ。聖夜がフリーな聖職者なんて、そうはいないだろうから」
「ここにもう一人いるけど」
「……クリスマスは、アレンに仕事をしてほしくないの」


そこでぽつりと呟かれた。
は止まっていた手をまた動かして、アレンのタイをほどく。
シュルリと音を立てて引き抜いた。


「家で待っていて。日付が変わるまでには必ず帰ってくるから」


伏せた睫毛が震えて、窺うように見上げられた。
切なげなその表情に、アレンはずるいなぁと思う。
そんな顔をされたら強引な手に出られないじゃないか。


「嫌だ」


というわけで、思い切りだだをこねてみた。


「そんな依頼なんて断って。一晩中僕と一緒にいてよ」


そう強く言ってやれば、はちょっと呆気にとられたようだった。
ぽかんとアレンを見上げて、すぐに頬を赤らめる。
困ったような怒ったような微妙な顔になった。


「な、何それ。子供みたいなわがまま言って……」
「言うよ。だって誕生日だからね」


きっぱりとそう告げると、はうっと言葉に詰まった。
それでも何とか説得しようと口を開く。
アレンのベストを脱がせて、シャツのボタンに指をかける。


「わ、私だって誕生日なんでしょう?」
「うん。僕がそう決めたからね」
「だったら私のわがままも聞いてよ」
「君のが先だよ。僕の言うことを聞いてくれたら一考してあげる」


あくまで揺るがない態度でアレンもの服を脱がしてゆく。
脇のファスナーを降ろして手を突っ込み、セーターを捲り上げた。


「ちょ……っ、あぁもう!お願いごとは聞いてくれないし!勝手にひん剥いてくるし!何なのよアレンは!!」
「嫌なんだよ」


顔を見られたくなかったから、アレンはを抱き上げた。
短くあがった悲鳴を無視して室内を進む。
途中でトランクを蹴飛ばしたけれど放っておいた。
寝室のドアを押し開けて、そのまま彼女をベッドに押し倒した。


「クリスマスの日に、君が僕以外の人と一緒にいるのは嫌だ」


白い首筋に食らいつくようにして口づけを落とす。直接に体温と脈を感じる。
いつもよどんだ意識の底で思う。
殺してやりたい。
そうすれば、自分だけのものになるのに。
けれど生きているも愛しているから、アレンは別の方法で彼女を手に入れようと動く。


「……、ちゃんと帰ってくるから。アレンのところに」
「帰るまでもなく此処にいてよ」


仕事だと言っているのに引き止める自分は子供だろうか。
どうでもいい。とにかく今はを困らせてやりたかった。
他は何も考えるな。
僕を怒らせないように、僕の機嫌を取ってくれ。


「……寒い」


白い肌を辿りながら呟けば、が抱きしめてくれる。
もっと熱を感じ取りたくてアレンは彼女をシーツの底に突き落とした。


落下した先は二人きり。




















目を覚ますと朝だった。
寝ぼけた頭で鳥の声を聞きながら隣へと腕を伸ばす。
けれど手は空を掻くばかりで、アレンは不機嫌になりながら瞼を持ち上げた。
案の定、そこにの姿はなかった。


「……ばか」


悪態を吐くけれど、ちっとも怒りが込められない。
とにかく淋しい。
朝起きてみて、が隣で眠っていないというのは、何度経験していても嫌なことだった。
特に昨夜は食事のあともずっと抱きしめていたからだろうか。


そこで寝室の扉が開いてティムキャンピーが入ってきた。
目覚まし時計のようにいつも通りの時間だ。
羽根でぽんぽん頭を叩かれたので、仕方なくアレンは起き上がる。
床に落としたままだったはずの衣服は片付けられていて、背の低い衣装棚の上には着替えが置かれていた。
どうやらが全部してくれたようだ。
とりあえずアレンはズボンを履いて、シャツを羽織る。
だらしない格好だけどまだ寝ぼけているから許してもらいたい。
長い髪を掻き乱しながらリビング兼ダイニングに出て行けば、テーブルの上がごちそうで埋まっていた。
キッチンのほうを覗いてみてもやはり料理の山だ。
それは世界各地のクリスマス料理で、毎年豪華になっていっている気がする。
ところでケーキはどこかな。保存棚の中かな。
見渡していたら置手紙を発見した。
確かめるまでもなくの字だ。


『今日は早くに教会に行かないといけないので先に出ます。朝食はキッチンのコンロの横にあるから、温めて食べてね。他はつまみ食いしないように!』


ちぇ、先手を打たれた。ちょっとくらい味見しかったのに。
アレンは唇を尖らせながら続きを読む。


『夜はそのままステュアート子爵のお屋敷に行きます。やっぱり一度引き受けたことなので断れません。礼儀としても、きちんとお会いする必要があると思うしね』


うん、まぁ依頼を受けるにしろ断るにしろ、とりあえずはご子息を伺うべきだろう。
アレンもそれはわかっていたからもうそこまで不満に思うことはなかった。
やはり夜に、というのが気になったけれど。


『ただ、誕生日のわがままを叶えてあげられなかったのは申し訳ないと思っています。ごめんなさい。25日になるまでには必ず帰るので、待っていて。そうしたら、他は何でも聞いてあげるから』
「よし、言ったな」


アレンは思わず手紙相手にそう確認した。
さて、何をしてもらおうか。
考えただけでニヤニヤしてしまう。
それからまだ少し文章が書いてあって、最後はこう締めくくられていた。


『きちんと朝食を食べてあったかくしてから出かけてください。アレンもお仕事がんばってね。より』


そこまで読んでアレンはしみじみ思う。
着替えも食事も用意してくれて、こんな手紙まで置いていってくれるなんて、本当によく出来た奥さんだなぁ、いやまだ結婚してないけど。
もっと言うと大体において結構アレな感じだけど。
緩んだ顔で紙を折り畳めば、裏に追伸があった。


『11個目のクリスマスプレゼント、とても気に入りました。ありがとう』


文字の下に可愛い薔薇のイラストが描いてある。
意外とは絵が上手いので白黒でもそれとわかった。
アレンが手紙に鼻を近づけてみると、仄かに甘い香りがする。


窓際に視線を投げてみれば、そこには花のコサージュやら綺麗な色のリボンやらクマのぬいぐるみやらが並べられていた。
全てアレンがに贈ったものだ。
よくよく考えてみると今まであんまりそういう物をプレゼントした覚えがなかったので、クリスマスにかこつけて押し付けてみたのである。
それもたくさん贈りたかったので、マザーグースにもかこつけてみた。
『12日のクリスマス』とかいうアレだ。
恋人が12日間クリスマスの贈り物をし続ける歌。
さすがに歌詞通りのヤマウズラやらキジバトやらはいらないだろうから、アレンの先入観だけで選んだ女の子が喜びそうなものに変更してみたが。
そうして昨日渡したのが、この手紙にも染み込ませてある薔薇のコロンだった。
香水は自身の甘い匂いを損ないそうだったので、ハンカチやスカートの裾に軽くふりかけるタイプのものを選んだ。
その小瓶が窓際に並べられたプレゼントの列の末尾に置いてある。
よかった、割れてなかったんだ。
昨日を抱きしめるときに床に落っことしてしまっていたので、アレンはそう思って胸を撫で下ろす。
そしてが気に入ってくれたことを嬉しく思った。
正直そこまで高価な物ではないし、リボンもぬいぐるみもコロンも彼女の好みではないだろう。
けれど本当に欲しい物をあげようと思えば、もれなく健康増強グッツになってしまう。
それはない。断じて、ない。
クリスマスなのだからもっと可愛らしいものがいい。
そしてアレンにはを何よりも甘やかして、誰よりも女の子扱いしたい理由があった。


「最後のプレゼント……12個目も気に入ってくれるといいけど」


アレンはの置手紙を口元に当てて、ふぅとため息をついた。
柔らかい薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。


さぁ、今夜は大勝負だ。




















敬虔って何だろう。


は全力それを問い詰めたい気分に襲われていた。
確かに自分も信仰心の篤いほうではない。
神など生まれてこのかた一度も信じたことはないし、子供のころは大の教会嫌いだった。
それなのに何の因果か、十代になる前から教団に所属していた。
今もその関連で聖職者に納まっているけれど、全てが自分の意思とはいえないのだ。
いろいろと制約が緩くなったとはいえ、元教団の一派はいまだに自分を管理下に置きたがっている。
それに巻き込まれてくれた我が恋人は本当に凄い。
私なら我慢できないかも。いや、アレンのためだったら何だって平気か。
つまり彼もそういうことなのだと思い至って、はちょっと頬を染めた。


「おや、シスター。やっと表情を緩めてくれましたね」


そう言われた途端、は口元を引き締めた。
少し鋭い視線を投げれば「あぁ、怖い」と肩をすくめられる。
それにまたイラッとして今度こそ睨み付けてやった。


そこは広い部屋だった。
正直などは何のためにこんなに面積を取っているのかわからない。
今だってここにいるのは二人だけだ。
敷き詰められた赤い絨毯にも、一面の白い壁にも、描かれた文様は豪華な金。
重たい生地のカーテンの房飾りも同じ色だ。
火の入れられた暖炉の上には家紋を象ったレリーフが掲げられている。
そしてこの屋敷の次期主は、その前に置かれた布張りのソファーに腰掛けていた。


「いい加減、お心は和らぎませんか」


声は極上。聞いた者を酔わせる、美酒みたいだ。
仕立てのいい服に身を包み、短い髪を綺麗に撫で付けてある。
長身痩躯、整った顔立ち。
青灰色の瞳がを見て微笑んだ。
何とも美しいこの男こそステュアート子爵のご子息、ウィリアム・ステュアートである。
は聖書を抱えて扉の前に立ったまま、口を開いた。


「ウィリアム様」
「あぁ、どうぞウィルとお呼びください。お近づきのしるしに、是非」
「これはどういうことでしょう」


上機嫌に喋るウィリアムに対して、は淡々と返す。


「私は聖書を朗読するために参ったのですが」
「おや。随分と仕事熱心でいらっしゃる」


そこで声に揶揄が混ざった。
ほんのわずかだが、感じ取ることができた。
伊達にも人間相手に仕事をしていないのだ。
ウィリアムは見惚れそうなほど美しい笑顔を浮かべているけれど、本心では何を考えているかわかったものではない。
警戒を覚えつつ、はひとつ瞬いた。


「あなた様こそ敬虔なお方」


自分で言いながらちょっと乾いた気持ちになる。
本当に本当に敬虔って何だろう。


「それなのに何故、このようなご用意を?」


は視線をそちらへと投げた。
ウィリアムの座っているソファーの前だ。
そこには綺麗に盛り付けられた料理が慎ましやかに並んでいた。
いや、皿数は多いのだがテーブルが巨大すぎてそう見えないのだ。
グラスも二つ。ワインがコルクを抜かれるのを待っている。
血のしたたる肉にアルコール度の高い酒ってもう本当に。
本当に、本当に、本当に敬虔って何だろう。


「……厳粛な聖夜をお望みだったのでは?ウィリアム様」
「本当に釣れませんね。愛称で呼んでくださいと言っているのに」
「立場をわきまえております。それより、お食事をされるのなら私は失礼させていただきますが」


ほんと、何のために私を呼び出したんだコイツ。
こんなものを食したいのなら聖職者が来る前に終えてほしいものだ。
それ以前に食事がふたつあるのはどういうことだ。
今からお客さまが来るのか。いや、そんなはずはない。
すると……。
いろいろと考えて今すぐ帰りたくなっているに、ウィリアムは穏やかに微笑んだ。


「とんでもない。今夜は付き合っていただきますよ、シスター」


グラスをひとつ取って、差し出してくる。
あぁ、やっぱり。
は頭を抱えたくなった。


「……失礼ですが」


本当ならば失礼なのは目の前の男だ。
なので結構容赦なく言ってやった。


「ウィリアム様は何をお考えになっているのですか」
「何を、とは?」


けれど笑顔で首を傾げられた。
空とぼけられて思わず片眉を持ち上げてしまう。
誤魔化すようにはひとつ咳払いをした。
だめだめ、平常心よ。ここでキレたらいろいろと台無しなんだから。


「……事前にお聞きしていた依頼内容とは、随分と違うようですが」
「あぁ、聖書の朗読でしたね。お読みになりたいのならどうぞ。シスターの美しい声を拝聴させていただきますよ」
「…………本当に聴く気がないのなら、教えなど無意味です」


いや、むしろ適当に読んで終らせてとっとと帰ってやろうかな。
は半ば本気でそう考えた。
自分だって信仰心の薄さではウィリアムに引けをとらないのだ。


「では、晩餐を。二人きりで楽しい時間を始めましょう」


いや、むしろ今すぐコイツをぶん殴ってさっさと帰ってやろうかな。
は完全に本気でそう考えた。
殊勝な顔をして仕事を依頼してきたからどれだけ敬虔な人物かと思ったらこれだ。
本当にガッカリである。
認めたくないが、アレンの予想は当たっていたみたいだ。
もう充分にわかっていることだけど、はあえて訊いてみた。


「それは、私に仰っておられるのでしょうか」
「もちろん」
「最初からそのおつもりで?」
「ええ、まぁ。昨日偶然お会いできたのは神のお導きだと確信しておりますよ」


今の発言でますます信仰心を薄めてしまったは、もう面倒くさくなってきて肩の力を抜いた。
目を閉じて聞こえないようにため息をつく。


「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます。そのようなおもてなしをお受けするわけにはまいりません」
「何故?」
「私は聖職者として此処に参ったのですから」
「だから?」
「…………………」


ウィリアムはソファーの肘置きに頬杖をついて、瞳だけでを見上げてくる。
からかうような口調とあいまって、本当に無礼な感じだ。
は静かにそれを見下ろした。


「“聖職者”としての私に御用がないのなら、こちらにお邪魔させていただいている理由がございません。失礼させていただきます」


丁寧な口調だけは保ってそう言い、深く一礼する。
は足元に置いていたトランクを開けると、その中に聖書を仕舞い込んだ。
本当は投げ込みたいような心境だったが、まだウィリアムの前なので我慢する。
これ以上突つきまわされるのは御免だ。
は荷物を手に、扉から出て行こうと一歩を踏み出した。
その背に甘やかな声がかかる。


「可愛らしい香りですね。コロンですか」


不意に言い当てられて足が止まった。
確かにトランクを開いたときに、中に閉じ込めていたハンカチから薔薇の匂いが零れ出していた。
部屋の中に漂う場違いな香り。
ウィリアムが小さく笑う。


「けれど、いささか幼い。それはシスターには似合いません」
「…………………」
「貴女はもっと大人でしょう。むせかえるほどきつい薔薇の香が似合うような……ね」


は口を閉じたまま振り返った。
途端、青灰色の双眸に射抜かれる。
ウィリアムは微笑んでいたが、眼だけは睨みつけるような色を含んでいた。


「こちらに来てください、シスター」


ウィリアムはへと掌を差し伸べた。


「貴女は聖職者なのでしょう?ならば、貴女を信じる者を悲しませるような真似はしないはずです」
「…………………」
「違いますか」
「……、あの取引はいまだに有効なのですか」
「ええ。貴女がこの手を取ってくださればね」


それはほとんど脅しだった。
は心底、目の前の男を大人げないと思う。
けれど逆らえないのは、彼がどれほど嘘つきで信仰心が薄かろうが、たちが一生懸命作り上げてきたものを一瞬で壊す権力を持っているからだ。


は一度目を閉じて息を吸った。
微かに薔薇の香りがする。
本当は今すぐアレンの居る家に帰りたかった。
けれど、どうしてもそれが出来ない理由がにはあるのだ。


瞳を開く。
ウィリアムと目を合わせたまま、トランクを床に置いた。
彼はにっこりと微笑んだ。


「本当に、何故あんな物のためにここまでするのやら」


鼻で笑われたので、も笑顔になる。
そうして叩きつけるようにして彼の手を取ってやった。




















「寒い……」


昨日とまったく同じことを思い、今日はつい口に出してしまった。
アレンは身をすくめて早足に道を行く。
マフラーに顔をうずめて息を吐けば、一瞬だけ温かくなってすぐに霧散した。
うううっ、本当に冷える。ついでに心にも大寒波だ。
アレンは横目で周囲を見渡してそんなことを考えた。
大通りを埋める幸せな笑顔。恋人か、家族か。固まって買い物を楽しんでいるグループもいる。
誰もが隣に居る人と手を繋ぎ、身を寄せ合って、クリスマス・イヴを楽しんでいるようだった。
その中を一人で歩くというのは何とも物悲しい気持ちになるものだった。


「寒い」


本当に、あらゆる意味で。
アレンはますますマフラーに顔をうずめてしまった。
それは白い毛糸で出来ているけれど編み目がしっかりしているから防寒はバッチリだ。
ただし、アレンの心まで温めてはくれない。
マフラーよりも、これを作ってくれた人が傍に居れば、凍えたりなんかしないのに。
アレンは肩を落として賑やかな大通りから外れていった。
今日は静かな道から帰ろう。
気分的にそう思って、夕闇に沈む方へと足を向ける。
すると宙にいたティムキャンピーがアレンのマフラーの中に飛び込んできた。
冷え切ったゴーレムに首筋を触られて思わず悲鳴をあげる。
一瞬で全身に鳥肌が立った。


「こ、こら!冷たいじゃないかティム!!」


怒った声で言って追い出そうとするが、ティムキャンピーはすばしっこく逃げ回って、最終的にはアレンの襟首に噛みついた。
そのままぐいぐい引っ張って元の道へと戻そうとする。
まるで、今足を向けている方向には行くなとでも言うように。


「ティム……?」
「あー!神父さまだ!!」


アレンの疑問の声と、そんな呼び声が重なった。
目を向けてみると数人の子供たちが走り寄ってくるところだった。
男の子もいるが、今日は女の子が多い。
この街に住む少年少女で、親にくっついて来る教会の常連だ。
そして昨日アレンをびしょびしょにしてくれた雪遊びの相手でもあった。


「こんばんは」


アレンが微笑んで挨拶をすると、彼らも口々にそれを返した。
何人かはすぐに本題へと入る。瞬く間に周りを取り囲まれて、がっちりと身柄を押さえられた。


「ダメだよ、神父さま」
「そうよ、ダメよ」
「ダメダメ!さぁ早く向こうへ行って」
「え?どういうこと?」


女の子たちに手を繋がれ、腕を取られる。男の子たちがまとまって背中を押してくるから、アレンは方向転換せざるを得ない。


「僕はあっちの道から帰りたいんだけど……」


困惑に眉を下げつつ、脇道を指差す。
子供達は揃って首を振った。


「ダメ」
「そう言ってるじゃないか」
「あっちには、行っちゃいけないの」
「どうして?」
「「「「ダメったらダメなの!!」」」」


またもや揃ってそんなことを言う。
アレンは子供達が行くなという方向に視線を投げた。
あちらには何があったかな。
確か煉瓦で出来た散歩道と、人工の森。そしてこの街で一番大きな公園があったはず……。


「あぁ」


アレンは納得して微笑んだ。


「雪祭りで造った像を見られたくないんだね」


雪祭り、というのはどこの地方でも催される雪像を造る祭典である。
此処にも当然それがあって、けれど他所よりは盛大にされるのが特徴だった。
何でも技術屋の多い街であるから、かなり精巧な雪像がお目にかかれるらしい。
会場である公園は期間に入ると自由に行き来できる場所を制限され、作品は祭り当日まで人目から隠される。
制作過程を見せない、というところがいかにもプロらしくて本格的だ。
子供達はそんな技術屋たちに憧れて、公園の隅っこに見様見真似で雪像を造っているようだった。
当然、公開日も本物と同じにしたいのだろう。
その証拠に、今までもアレンはさんざん公園から遠ざけられていたのだった。


「雪像の公開は今日の0時……クリスマスからですもんね。明日、見に行かせてもらうよ」


アレンがそう言うと、子供達は嬉しそうな顔になった。


「うん、明日」
「絶対だよ」
「シスターと二人で」
「二人で来てね!」
と?」


まぁ元からそのつもりだったけれど、妙に念を押されるものだ。
アレンは首を傾げて、それでも元気いっぱいの子供達にまとわりつかれてはいつまでも疑問に思ってはいられなかった。


「そんなに走ったら転ぶよ!」


そう注意する自分の声も笑んでいる。
アレンはいくつもの小さな手に引かれて、煌めくクリスマスの大通りへと戻っていった。




















「どうぞ」


そう言って差し出されたのは酒の入ったグラスだった。
揺れる液体が照明の光を内包して輝く。
美しい色だ。
けれどそのきつい匂いを嗅いだだけでは酔いそうになっていた。


「どうか遠慮させてください。お酒は飲めないんです」


それ以前に仕事中(はまだそのつもりだ)の聖職者に勧めるなよと思う。
別に飲んでもいいものもあるし、場合によっては口にしなければならないこともあるけれど、今はどちらにも当てはまらない。
何より親しいわけでもない男性の前では到底そんな気にはなれなかった。
けれどウィリアムは食い下がってくる。


「一口も?」
「……私は酔うとさんざん暴れまわるそうです。此処でそんなふうになるわけにはまいりません。ご迷惑でしょう」


何せこんな豪華な内装なのだから。
目だけで部屋の中を指してみせた。
その視線が壁際に飾られた大きな壷に至ったとき、ウィリアムが言う。


「貴女を介抱できるのなら安いものですよ。どうぞ、あれでも割って見せてください」


グラスを回しながら微笑んだ。
もそれを見て笑顔になる。


「もっと有効な使い道がありますでしょう?」


例えばあなたの頭をかち割ってやるとか。
そう続けたかったけれど、何とか堪えて別のことを口にした。


「割ってしまうくらいならどうぞお金に換えてください。この街の孤児院は随分古くなってきています。近いうちに責任者が参りますでしょうから、ご寄付をお願いいたします」
「ええ、もちろん。いくらでも出させていただきましょう。……そのためにも」


不意に距離を詰められては隣を見た。
並んで腰掛けたソファー。
広いそこで程よい間合いを保っていたのに、今では肩が触れそうだ。
グラスを鼻先に突き出され、無言で促される。
仕方なく受け取ったを、ウィリアムは当然と言わんばかりの顔で見ていた。
そして自分もグラスを傾けて酒を飲む。
対するは口をつけずにそのままでいた。


「お料理もどうぞ。冷めないうちに」
「……ウィリアム様。我々が禁欲を重んじていることはご存知でしょう」
「聖夜まで徹底なさると?それはそれは素晴らしい信仰心だ」


また鼻で笑われた。
はだんだん彼の目的がわからなくなってきていた。
アレンの危惧した通りかと思いきや、どうにもウィリアムの言動は皮肉めいていて、自分に好意があるとは思えない。
こんな用意までして、何がしたいのだろう?
もしくは、何が言いたい?
またアレかなぁと思って、は瞳を伏せた。


「ウィリアム様は私がお気に召さないようですね」
「ほう?どうしてそう思うのです?」


肉を切り分けながら聞き返される。
静かな部屋に聞こえるのは、食具を使う音、蝋燭が燃える音、そして平静な自分の声だけだ。


「よく指摘されてしまいますもの。身元のはっきりしない者が教会に出入りしているのは、どういうことなのかと」
「……そうですね。貴女には国籍も戸籍も不明。ヴァチカンが発行した証明書をお持ちのようですが、それもどうやって手に入れたのやら」
「ご許可はいただいております。教皇をお疑いになられますか?」
「いいえ、まさか」


教皇の名前を出されたウィリアムは強い否定を口にした。
意外にも彼は宗主を崇めているらしい。
そう振舞わないのは自分に対してだけなのだと悟って、は一度唇を引き結んだ。


「でしたら、どうか私のことはご容赦を。総本部の方々にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」


遠まわしに、しかしハッキリと、これ以上は踏み込んでくるなと言っておく。
あれやこれやと探られて困るのは本人よりもヴァチカン、引いては宗教世界全体なのだ。
そしてウィリアムもその一部に含まれている。
はそれを思ったのだが、彼は予想外の言葉を返してきた。


「シスター」


声は静かだった。
けれどどこか怒りを孕んでいるようだった。
が視線をやるのと同時に、ウィリアムが手にしたフォークが肉へと突き刺す。
それは皿の上で赤い汁を飛ばしながら無惨にも崩れ散った。


「貴女はいつまで聖職者を気取っているつもりですか」


言われた瞬間、意味がわからなかった。
混乱よりも衝撃が強い。
引っ叩かれたような気分になって、瞳を見開く。
ウィリアムの口元が震えた。どうやら笑ったようだ。


「先刻から聞いていれば、聖書の教えだの孤児院への寄付だの……もっともらしいことばかり言って」


美しい声で吐き捨てるように続ける。


「挙句の果ては“禁欲を重んじている”?どの口が言うんだか」


その瞬間伸びてきた手に顎を掴まれた。
あまりに唐突だったので避けられない。
そして一度捕まってしまえば、振り払うのは難しかった。
彼は有力者、子爵の息子なのだから。
下手なことをすればもうこの街には住めなくなってしまう。
ただでさえ各地を転々としなければいけない身の上だというのに、これ以上アレンを振り回したくはなかった。


「嘘つきな唇ですね。私が塞いで差し上げましょう」


けれどそんな考えも、ウィリアムの言葉に吹き飛んだ。
強引にキスをされそうになったから、こちらも強引に手を割り込ませる。
思い切り力を込めて引き離した。


「やめてくださ……」


あくまで冷静を保って拒否を口にすれば殴られた。
比喩ではない。
今度こそは驚愕した。
ウィリアムは本当に容赦なく、こちらの頬を張り飛ばしてきたのだ。
衝撃によろけてソファーに肘をつけば、骨が軋むくらい肩を掴んで引き起こされる。


「やめて欲しいのはこちらですよ、シスター」


冷笑の声が上から降ってきた。
打たれた頬がじんじんと熱を持っている。
痛みに唇が震えて、それを殺そうと噛み締めると、口の中に血の味が広がった。
殴られたときに切ったのか、それとも自分の歯で傷つけてしまったのか。
口の端から少し赤が流れ出すのを感じる。


「今更、純情ぶられては困ります」
「何を……っ」
「貴女はそんな女ではないでしょう」


酷い罵り言葉まで声音のせいで優雅に聞こえる。
ウィリアムは再びの顎に手をかけた。
仰向くことを拒めば、もう片方の手に後ろ髪を強く引っ張られる。
そうやって無理に上げさせられた顔は当然のことながら痛みに歪めてしまっていた。


「お止めください、ウィリアム様」


いまだににはどこまでやっていいのか判断がつかない。
女としての危機なら遠慮なく抵抗するが、ただ純粋にそれを奪われそうになっているわけではなさそうだ。
こんな暴力を振るわれる理由が理解できない。それともそういう性癖の人なのか。
下手なことをすればヴァチカンに……、一番身近な神父に迷惑がかかってしまうので、は慎重に言葉を重ねる。


「どうか、この手を離してください」
「駄目ですよ。今夜は付き合ってくださいと言ったでしょう」


あぁ、何だか話が通じなさそう。
ショックから素早く立ち直ったは、結構頭にきていたので笑顔で言う。
笑うと切れた唇が痛んだが構うものか。


「随分と過激な聖夜をお好みですね。恋人候補にサンドバッグはいかがでしょう」


確か、いつも通っている健康増強グッツの店に置いてあったはずだ。
種類も豊富で使い道も多岐に渡る。
店主にいいものを選んでやってくれと、紹介状くらいは書いてやらないでもない。


「それともサンタクロースにねだられますか。プレゼントにくださいと」
「無機物になど興味はありませんよ。……泣いて許しを請う、生身の人間でないとね」
「私にそれを求めていらっしゃるのなら、どうぞ拳をお引きください。期待はずれです」
「……と、言いますと?」
「殴られて泣いてしまうほど、お嬢さま育ちでもありませんので」
「そうでしょうね。貴女は随分と下賤の生まれのようだ」


もういい加減、にもウィリアムの笑みに嘲りであることは察していた。
穏やかで、冷たく、ひどく見下すような色が、彼の端正な顔に貼り付けられている。
はとりあえずは動かずに、利き手だけを体の影で固めておいた。


「確かに子爵家のウィリアム様からすれば、私は下賤の者でしょう。けれど、それが殴らねばならない理由になるとは思えません」


これで断られたら、今度はこっちが拳を叩き込んでやろう。


「離してください。私のような者でも痛いものは痛いのです」


は無理やりではなく、自分から顔をあげて、真っ直ぐにウィリアムを見据えた。
睨みつけるというよりは、射抜くように。
瞳に力を込めてみせる。
するとウィリアムは少しだけ表情を緩めた。


「本当に……、聖職者でなければ良かったのに」
「え……?」
「それだけが貴女の罪です。そして私は絶対に許すことができない」


どこか切なげで、悲しみに揺れる青灰色の眼。
それに戸惑った一瞬が隙となった。
唐突にウィリアムはの肩を掴むと、そのまま乱暴にソファーに押し倒してきた。


「……っつ」


上に圧し掛かられて息が詰まる。
折れそうなほど握られて、手首の骨が悲鳴をあげた。


「ウィリアム様!」


非難の声で呼ぶが、彼は意に介さずに自慢の長身と男の腕力で完全にの動きを封じてしまう。
唯一自由な足で蹴り上げようとしたけれど、巧みに太ももの間に割って入られた。
そうやって押さえ込まれては威力が出ない。
いくらが武術に優れていても、四肢を捕まえられてはどうしようもなかった。
加えて今回の相手は背が高く、力の強い男性だ。
何となく数年前の快楽のノアを思い出してイラついた。
あの人に押し倒されたときもこんな感じだった気がする。
自分が弱く小さな存在であることに対する不快感が、腹の底からこみ上げてくる。


「どいてください。これ以上、私に触らないで」


苛立ちのままに強い口調で言ったけれど、ウィリアムは品の良い顔で笑うばかりだ。


「おや、嫌がられますか。このような状況には慣れていらっしゃるのでは?」
「悪い冗談は止めて。もうたくさんです」
「口ではどのようにでも取り繕えますね。そう……貴女の美しい顔のように」


ウィリアムは少し瞳を細めて、の手首を頭の上でまとめて押さえつけた。
そうしてもう片方の手を頬へと伸ばしてくる。


「そのお綺麗な上面で本性を隠しているのでしょう。言葉も同じ……それらしいことばかりを言って、清廉な人物、無垢な乙女を演じていらっしゃる」


は彼の指先を首を振って避けた。


「触らないでと言っているでしょう」
「……どこまで男を欺くのが得意なのか」


そこでウィリアムは声を低めた。
そしては後悔する。
手を避けるためとはいえ、彼から目を逸らしてしまったことを。


「……っつ!?」


逆らえないほど強い力で首を掴まれた。
それこそ骨が砕けてしまうのではないかと思うほどの乱暴さだ。
そうやって顔を引き戻されたかと思えば、強引に口づけられる。
キスとも呼べないような荒々しさで唇を塞がれて、は声にならない悲鳴をあげた。
痛い。苦しい。
そして何より触れる感触が気持ち悪い。
忍び込んでくる男の呼吸。
アレンではないそれにひどい嫌悪感を覚える。吐きそうだ。
すぐに限界がきたから、ウィリアムは身を引いた。
唇には赤が滲んでいる。
自分が抵抗した結果であるそれを見るまでもなく、は息を乱して咳き込んでいた。
本当に吐いてしまいそうになっていたのだ。
嫌な過去を思い出して体が震える。
ほとんど喘息を起こしかけていて、喉からは嫌な音が漏れていた。


「……本当にお上手で」


ウィリアムはそんなを構わない。


「こんなことをなさっていたでしょう、貴女は」


こんなこと、と言っているのがキスであるとは少しの間気付けなかった。
続けられた言葉で一気に納得する。


「あの神父さまとですよ。手を握り、抱き合って、口づけをしていた」


まるで汚いものを吐き出すように、ウィリアムは言う。


「堕落した聖職者め」


そこで本当には理解した。
ウィリアムが自分に向ける敵意の正体を。
いまだにかすれた呼吸音を立てながら、見開いた瞳で見上げる。
そう、今自分の上に跨っているのはどこまでも純真な人物だった。


「どうやって彼を誘惑したのです。その美麗すぎる顔ですか。それとも女性らしさを極めた体ですか」
「……………………」
「甘い声で誘って?白い指先で触れて?……それとも目の前で裸にでもなりましたか、ねぇシスター」
「……やめて」
「何をです。自らの罪を知らずに、どうやって懺悔するおつもりですか」
「罪など犯していない、私と彼は……っ」
「禁じられた関係でしょう。この期に及んで誤魔化そうとしないでください」


ウィリアムは笑顔のままを見下ろした。


「白々しい」


否定するつもりはなかった。
けれどはアレンとのことを罪だとは欠片も思っていなかった。
自分達は常識から外れた身分、元黒の教団に所属する“聖職者”なのだ。
人々には一般の聖職者と混同されがちなので今ではヴァチカン側もそれで通すように指示しているが、根本的なところで異なっている。
だから自分達は人目だけは避けつつも、遠慮せずに振舞っていられるのだ。
対外的なことから婚礼は認められないだろうけれど、その大きな要因はの境遇にあって、“聖職者”というところにはない。
だが、それをウィリアムに伝えるのはどうにも難しそうだ。
説明して納得してくれるものでもないだろう。
その証拠に、彼はだけを敵だと思い込んでいるところがあった。


「貴女はリリムだ」


聖職者を誘惑し、堕落させる女悪魔の名前で呼ばれる。


「それともアダムを罪に引き込んだイヴか。……女というのはどこまで誘惑に負けやすいのだろう」


そう言うウィリアムを、は場違いにも感心していた。
敬虔って何だろうと考え続けていたが、彼こそがまさにそれだったのだ。


「自らの欲に男性を巻き込むな、魔女め」


そう、父性宗教では、女性を奪う男性ではなく、男性を魅了する女性が悪とされるのだ。
罪は女性だけにあり、男性はただ騙されただけ。
そのような解釈が遥か昔から続いているのである。
あと数百年も経てば裁判で訴えられそうなこの考えも、この時代では完全に一般的なものだった。
そのためにはウィリアムを責めることができない。
ただ彼は自らが信じる神と、それに仕える聖職者に忠実なだけなのだから。


「噂で聞いていた美しいシスター。馬車の中から見た貴女の姿。いつも隣には白髪の神父さまが居ましたね……。偶然にも口づけをしているところを見てしまったときの、私の気持ちがわかりますか?」
「……………………」
「なぜ神父さまを誘惑し、堕落させたのです」
「……………、堕落?」
「そうでしょう。神は彼を許さない。女に堕ちた聖職者など、決して」


はただただ双眸を見開いてウィリアムを見上げる。


「彼をそそのかして、罪を犯させよと悪魔に言われましたか。哀れな神父さまだ……、もう二度と救われない。永遠に楽園へは行けない」


ウィリアムもただただ双眸を細めてを見下ろしている。


「貴女が彼を穢したのですよ」


そこでは何だか愕然とした。
ウィリアムの言葉は自分たちに当てはまらず、どこまでも的外れだ。
けれどその底にあるものは、がずっと抱いていたアレンへの罪悪感だった。


「私が……」
「そう。貴女さえいなければ、彼は神に愛されたままでいられたのに。陽の下で健やかに生きていけたのに。貴女がその素晴らしい人生を閉ざしてしまったのですよ」


ウィリアムに言い当てられてゆく、哀しい心の奥。
アレンは神に愛されていた。
一度は失った命を永らえさせるほど、その守護を一身に受けていたのに。
が彼の手を掴んで、光の届かない闇の世界へと連れてきてしまったのだ。


「神父さまはもうまともな人生を送れない。罪を背負わされ、罰を受けながら生きてゆくことになるのです」


そう、アレンはの罪を一緒に背負ってくれた。
そして同じ罰を受け続けてくれている。
ひとつの場所には留まれず、親しい人とも別れて、ただただだけと共に。
彼にだって夢があっただろう。
なりたい職業、住んでみたい土地、安定した生活。
本当は今でも望んでいるのかもしれない。
けれどそんなことは口にはしない。出来ない。
アレンは優しいから、の前では絶対に言わない。
彼は神に愛された人間で、本当は何もかも持っていたくせに、その全てを投げ捨ててしまったのだ。
そうさせたのは…………、間違いなく“私”だった。


私は幼い頃に名前を捨てた。故郷を失くした。思い出を放り投げた。
アレンがしてくれたことは、それとどこが違うのだろう。
他に大切なもの全てを放棄して、身ひとつになって、自分と一緒に生きると言ってくれたのだ。
その言葉が愛しくて、傍にいてくれることが嬉しくて、けれど本当はずっと心のどこかで思っていた。


(アレンには、もっとたくさんの未来が、可能性があったのに)


それを全て潰してしまった。
穏やかな人生から永遠に道を踏み外させてしまった。
ウィリアムの言う通り、私はアレンを堕落させてしまったのかもしれない。
少なくとも、“普通”の幸せから遥か遠いところまで連れて来てしまったのは事実だった。


「答えてください。何故、神父さまを貶めたのですか」


ウィリアムの手はの首にかかったままだ。
この掌に彼が体重を乗せれば、骨なんて簡単に折れる気がする。
けれど随分前からそうであって、今更突きつけられた罪に、意識はとうに塞がれていた。
“私”という存在の罪。“”が行った破壊の罪。
それらを合わせてひとつとしての自分が為したのは、これ以上ないまでの罪過だった。


「彼を、愛しているからよ」


そう告げた唇は頬を殴られて封じられた。
目の前が激しく揺らぐ。
反動でソファーの縁にしたたか頭をぶつけてしまった。
くらくらと回る視界で、今度こそ自分の口から血が吐き出されるのを見る。
量は少なかったけれど、鮮やかな赤を見ては胸が痛んだ。
あぁ怪我なんかしたらアレンが悲しい顔をするのに。


「貴女のような者が聖職者でいて良いはずがない」


嫌悪と憎悪。蔑みの眼。
激しく注がれるそれら懐かしいと思う。
こんなのは何でもない。こんなのは昔からよくあったことだ。
殴られ、蹴られ、罵られ、肉体と精神を傷つける暴力の数々。
それなのに、


(アレンが、哀しむ)


今ではそれを知っていた。
彼が思い知らせてくれた。
痛みよりも苦しみよりも、それだけが、の中で確かな感覚だった。
非難されるべきが“私”なら、どんな仕打ちにも耐えられる。
けれど、それが廻りに廻ってアレンを傷つけるのならば黙ってなどいられない。
愛する人を想うからこそ、は自分で自分の身を守らなければならないのだ。


そう思うのに、意識はすでに遠のいていた。
殴られた衝撃か、頭をぶつけたせいなのかはよくわからない。
は自分が吐いた赤から眼だけを動かして、何とかウィリアムを見た。
彼は笑っていた。
その笑みはやはり侮蔑の色を持っていて、けれどどこか双眸が切ない。
それは、が思わず戸惑いを覚えてしまった、あの哀惜の瞳だった。


「私を怒らせた、貴女が悪いのですよ」


囁かれた言葉によく似たものを、昔に聞いた覚えがある。


『僕を囚えた、君が悪い』


そう言って責めたくせに、あの人は私に許しを求めていた。
罪人が神に乞うようにただただ必死に。


(懺悔すべきは私のはずでしょう……?)


あのときアレンに問い返したかった言葉は、やはり今回も声にならずに消えた。


の意識は闇の底に堕ちてゆく。
彼が一緒ではないと知って、泣いてしまいそうに切なくなった。


落下した先は、独りきり。




















ガシャンッ!!


唐突に激しい落下音が響いて、アレンは本当に驚いた。
息を詰めて吐き出せば少しだけ白く凍る。
室内は温かい。暖炉では絶えず火が燃えている。
けれどアレンは何となく窓辺に座って外を眺めていたのだ。
白い雪に飾られ、イルミネーションに輝く地上。そして黒い闇に覆われ、月と星が光る空を。
吹き込む寒さを無視してまでそうしていたのは、ただアパートの階段が見える位置に居たかったからだ。
ここならの帰宅もすぐにわかる。
彼女が心配、というのもあったけれど、ひとりきりの室内が嫌だというのも大きかった。
がいないだけで、豪華な料理もクリスマスの飾りつけも、何だか色あせたように見えてしまうのだ。


「ティム?」


音の正体かと思って呼びかけてみる。
けれど金色のゴーレムは眠ってしまったはずだ。
寝室への扉が閉じたままになっているのを確認して、ますます首を傾けた。


「何だ……?」


不審を呟きながら音のしたほうへと足を向ける。
少し近づけばわかった。
きつい香りがする。
むせ返るような、薔薇の芳香だ。


テーブル横の小さな窓、その縁に並べられたリボンやコサージュやぬいぐるみの数々。
その末尾に並べられていたはずのコロンの小瓶が下に落ちていた。
花を象った蓋が外れ、こぼれた中身が床を濡らしている。
少量なら微かに香る程度のコロンも、これだけ大量に出てしまえば鼻につく。
アレンはきつい薔薇の匂いに顔をしかめた。
ここまでになってしまえば、には似合わない。たくさんはつけないでねと言っておかないと。
それにしても、


「どうして……」


何故コロンが床に転がってしまっているのだろう。
朝見たときはきちんと落ちない位置にあったし、今だって落下するような要因はなかったはずだ。
アレンは眉を寄せつつ、床を掃除して小瓶を拾い上げた。
きちんと栓をして窓辺に戻す。
そうすれば見た目には元通りになったけれど、強烈な匂いはしばらく消えそうになかった。
それを手で振り払いながら壁際の時計を見上げる。
もう充分に夜も更けてきている。
はまだ帰って来ないのだろうか。


「……遅いな」


ため息まじりの呟きは、独りきりの室内に淋しく響いた。