雪のように真っ白な神父さま。
シスターのいるところにいつでも一緒。
どうしてって?好きだからさ。
わかるだろう、と神さまが云った。
● The twelfth day of Christmas 2 ●
意識を浮上させた途端、ひどい頭痛に襲われた。
脳内で小人が暴れまわっているみたいだ。
足音のように継続的に響く鈍痛。記憶が掻き乱されて気持ちが悪い。
吐き気を覚えて手を口元に当てようとしたところで、自分の体の動きが鈍くなっていることに気がついた。
そして肌を滑る他人の指先にも。
「お目覚めですか」
聞こえてきた声が馴染み深いものではなかったから、は無理に思考を叩き起こした。
双眸を開くと同時に触られていた脚を取り戻す。
体を動かせばまた頭痛が激しくなったが気にしない。
「ここは……」
声を出すと掠れていた。
落ち着けと、自分に言い聞かせる。
背の下には柔らかい感触。触れるのは滑らかなシーツだ。
どうやら意識を飛ばしている間に、寝室に連れ込まれ、ベッドに寝かされてしまったらしい。
随分と手際のいいことだ。
それに何だこのだだっ広いベッド。うちの3倍くらいはある。
一体いくらくらいするんだろう……、と冷静になるためにどうでもいいことを考える。
ひとつ息を吐いて体を確認してみた。
大丈夫、どこも何ともない。
頭巾を剥がれ、ブーツとニーハイを脱がされていたけれど、それだけだ。
どうやら気を失っていたのはほんの少しの時間らしい。
はホッとしたけれど、すぐにまだ安心するのは早いと思い知らされた。
ベッドのスプリングが軋み、身を乗り出してきたウィリアムに視界を塞がれたからだ。
「起きていただけて何よりですよ。気絶されたままでは困ります」
「……そうね。私も困るわ」
言うが早いか、今度こそ殴り飛ばしてやろうと拳を振り上げた。
けれど上手く力が入らなくて、それは難なく受け止められてしまう。
また頭が痛んで視界がぶれたから、は強く歯噛みした。
(眠っている間に妙な薬でも嗅がされた……?)
体の動きを縛るこの倦怠感は普通ではない。
過去に実験で使われたそれよりは微弱のようだが、何か神経をおかしくする薬のようだ。
ウィリアムは掴んだの拳をゆるゆると撫でた。
「暴れられてはそれこそ困ります。貴女には今から懺悔をしてもらわないと」
「……何を?」
「貴女が犯した罪の全てですよ」
そのまま手首を掴んで押さえつけられる。
は抵抗を止めた。
これ以上動きを封じられたら、本当に敵わなくなる。
その判断のために、触れてくる手には表情を消して耐えるしかなかった。
「さぁ、告白なさい。どうやって神父さまを誘惑したのです」
どうやらウィリアムは神を気取りたいらしい。
悪魔との契約を吐かせる拷問のように、を責めて、その全てを口にせよと言うのだ。
否、実際に再現させるつもりのようだった。
彼の吐息が首筋を辿り胸元に降りてくる。
ぞわりと鳥肌が立って、は唇を噛んで拒絶の声を堪えた。
「罠はこの黒い服の下にある。本来ならば誰にも晒さない、肌の色や感触、形……。その全てで彼を陥落したのでしょう」
ウィリアムの指先が優しく服の襟口にかかった。
は顔を背けた。
目を見開いて、何よりも強い感覚だけに集中し、男の存在を無視しようとした。
それが癇に障ったのか、胸倉を掴むようにして一気に前を開かれる。
布地が裂ける嫌な音と、千切れ飛んだボタンが落ちる軽い音が、変に合わさって笑いたくなった。
「目を閉じなさい」
冷たく燃える声で言われる。
「神に祈りなさい。それでも貴女は聖職者なのでしょう、シスター」
晒された肌に冷気が当たって寒い。
脚を這い上がってきた手に、反射で蹴りを喰らわせそうになる。
駄目だ。今抵抗の様子を見せたら、本当に奪われてしまう。
は目を閉じずに、ただただ怖気を抑えて自分を殺す。
「精神は本能を超越するものだと、私に教えてください」
そんなことは無理だろうとせせら笑われる。
「さぁ、どうぞ。それともその身でもって、神に背いた者は救われないのだと、証明してみせますか」
ウィリアムの手がを強く掴んだ。
悲鳴はあげない。
無礼な男には聞かせない。
「……何故、神を裏切ったのです」
信者としての問いにだけ答えてやる。
彼が何と言おうと、自分の役目はそれなのだから。
「神など知らない」
は掌を握り締めた。
「私が信じ、崇め、祈りを捧げてきたのは神ではないわ」
危機的状況で、乱された格好で、それでも言葉を揺らがせない。
それがの精一杯の誇りだった。
必死の抵抗だったのだ。
「私が崇高だと感じたのは、信じるもののために戦う人、魂を燃やす想い、全身で感じたぬくもりだった。それこそが私を救ってくれた。神ではないわ。全てが生命を抱いて生きる人間よ」
思い出す顔はいくつあっただろう。
本人にもわからなかった。
ただ忘れるはずもなく、この身に刻まれている記憶だ。
「だから私は聖職者になった。これまで出会った人々と、これから知るだろう大切なものを守るために。この世に在る全ての哀情を、壊したくて……」
いつかそれが救済になると信じている。
いや、信じさせてくれた。
悪魔がはびこる世界で、神に愛された人が、そう教えてくれたから。
「“私”は咎人です。あなたが言う通り、神は私を救わないでしょう」
はウィリアムを見上げた。
見開かれた曇り空色の瞳を見つめる。
「……私も、世界も、神は救ってはくれませんでした。それを成し遂げてくれたのは“彼”だけです。死を拒絶し、運命に逆らってまで、この手を掴んでくれた………だから私は」
彼に幸せになって欲しいと思った。
何よりも強いその願いは、本人によってたったひとつの条件を提示される。
それは“ずっと傍に居て、共に生きて欲しい”という無茶難題。
「あなたが神を裏切らないように、私も、私が信じるものを裏切らない」
いつも心の底から願っている。
天を仰ぎ、祈りを捧げることができる。
そして世界は希望に溢れていると、未来が幸せなものだと確信するのだ。
ただただ、己は信条に誠実に。
「私は、“聖職者”なのだから」
だからこそ、「この世は生きるにたる素晴らしいものだ」という最高の救いを口にすることが出来るのだから。
「愛を知らない人間が、神の愛を語れますか」
「……………………」
「愛を知らない人間が、神の愛を理解できますか」
「……………………」
「救いは死か愛によってしかもたらされない。私は死を望みました。けれど」
「……彼の愛が貴女を救ったと?」
そこで押し殺した声で訊かれた。
顔は暗くてよく見えない。
けれど唇は震えているようだった。
はそんな状況でもないのに、自然と口元を緩めてしまった。
「“神”とは生きるうえでの希望のことです。教え、導き、時に罰を願って許しを乞う。……あなたの目にどう映ろうと、私はそれに忠実なつもりです」
「……馬鹿な人だ」
ウィリアムは吐き捨てた。
がハッとしてみると、彼の目は闇の中で爛々と光っていた。
「貴女のような背徳者が……」
「……ウィリアム様?」
「貴女、のような……私はどうして」
「なに……」
脈絡なく呟くウィリアムからは身を引こうとした。
すると拘束を強められる。
せめて左手は捕らえられないように慌てて体の下に隠した。
痛いくらいに肩を掴まれ、また服を引き千切られる。
「貴女は神の花嫁でしょう!それなのに何故、あんな男にその身を捧げたのです!!」
叩きつけられた怒声には今までになかった感情が込められていた。
切羽詰った響き。苦悩に歪んだ美しい顔。
それは彼の言う精神が本能を超越した姿では決してなかった。
「愛している?あの男を?乙女の花を散らした悪魔を!?」
「……っつ」
「言ってください!貴女の方が誑かされたのだと!彼に脅されて契約を交わしてしまったのだと!!」
「アレンを侮辱しないで!!」
反射的に怒鳴り返していた。
必死に我慢してきたことも忘れて、腹の底から怒りを吐き出す。
ウィリアムは硬直した。
今まで何をされても声をあげなかった自分が、衝動のようにそれを行ったからだろう。
それほどまでに激怒しては彼を睨みつけた。
「私のことはどう言ってくれても構わない。けれど、彼を蔑む言葉は許さないわ」
「……貴女を穢した男を庇いますか。あのけだものを」
今度も反射的には手を振るっていた。
肩を押さえられていたからそこまで威力は出なかったが、確実にウィリアムの横面を張り飛ばす。
はわずかに震える指先を握りこんだ。
「……許さないと言っているでしょう」
ウィリアムはのろのろと片手を持ち上げて、赤くなった頬を押さえた。
それから嘲笑を浮かべる。
「本当に、貴女は私を苛立たせる天才だ」
「お互い様よ」
「……堕ちた聖女は娼婦も同然」
「あなたの解釈にも興味はないわ」
「ならば私も受け入れてくださいますね」
今度は声をあげることを我慢した。
自分が嬲られる分にはどうでもいい。
けれど本当に奪われては堪らないので、今できる範囲で抵抗した。
「やはり罪は貴女にあるのか」
「……っ、う」
「神父の身を陥れ、私をこのような道に走らせた」
「痛……!」
「償いをしてください。ねぇ、シスター」
覆いかぶさってくる体も、触れてくる手も、耳元で鳴っている息遣いも、何とか意識の外に追い出す。
手繰り寄せるのは痛みだけだ。
早く早く早く……!
必死に願うは迫り来るウィリアムの指先にシーツを蹴り乱した。
(どうか……っ)
一際強く左手を握りこんだ、その時だった。
コンコンッ。
控え目なノックが遠くに聞こえた。
いいや、これはこの部屋の扉を叩く音だ。
動きを止めたウィリアムは、息を整えて平静を装った声を出す。
「何だ。此処へは来るなと言っておいただろう」
「申し訳ございません。それが……その……」
隔てられた向こうで使用人らしき男性が口ごもる。
はウィリアムから顔を背けて鼓動を落ち着かせていた。
口は開かない。
叫び声をあげれば聞こえるだろうけれど、雇われ人に助けを求めても無駄だろう。
そうやって主人の息子の顔を潰すとは思えない。
「お客様がいらっしゃっているのですが……何度お引取りを願っても聞き入れてくださらないのです」
「そんなものはお前たちで対処しろ。わざわざ私のところまで持ってくるな」
「で、ですが……」
ウィリアムはぴしゃりと命令したが、うろたえる気配で察したのだろう。
きっと相手は簡単にはあしらえない身分の者なのだ。
ここは自分が出るしかないと踏んだようで、彼はの耳元に唇を寄せてきた。
「大人しくしていてください。まぁ、逃げられはしないでしょうが」
そして素早く衣服を整えると、を置き去りにして部屋から出て行った。
すぐさま鍵がかかる音がする。
閉じ込められることはわかりきっていたので、は特に驚かない。
とりあえずは危機が去ったことを安堵した。
「危なかっ、た……」
自分の貞操が。
というよりは、ウィリアムの身が。
は自分の体の下に隠していた左手を取り出す。
掌を開いて掴んでいた刃を取り外しにかかった。
常に袖口に忍ばせているナイフを握り込むことで、薬で鈍くされた神経を揺り起こそうとしていたのだ。
痛みは何より鮮明に感覚を呼び覚ます。
おかげで随分と体は動くようになってきていた。
けれど使用人の彼が来てくれなかったら本当に危険だった気がする。
もう少しで刃を振りかざしてしまいそうな事態だったのだから。
「もう……、他人を傷つけるのは御免よ」
暗い思い出を振り払うように、そして意識をハッキリさせるために頭を振る。
まぁもう二・三発くらいは殴っておきたかったけれど、この隙に逃げ出さない手はない。
は血まみれになっている掌をそのままに、ベッドから降りて立ち上がった。
やはり足元はおぼつかない。
歯を喰いしばりつつ、素早く部屋を確認する。
客間同様、無駄に広い寝室だった。照明も壁紙も絨毯も豪華を極めたものだ。
けれど見学している暇もないので、は唯一の脱出口に向ってゆく。
それはバルコニーへと続く大窓だった。
扉には鍵をかけられた。
そしてウィリアムの言葉を思い出せば、押しても引いても殴っても蹴っても椅子をぶつけても、開きはしないだろう。
ならば時間の無駄を省いて手っ取り早く行くべきだ。
窓の鍵は簡単に外せた。むしろ大変だったのはそれを開くことだった。
窓枠が凍りついてしまっていて、なかなか動いてくれなかったのだ。
力の入りにくい手で必死に押せば、ガラスが血だらけになってしまった。
かなりの大惨事に見えるがの知ったことではない。掃除をしなければならない使用人にだけには少しだけ申し訳ないと思ったけれど。
何とか押し開けた窓からバルコニーに出る。
素足で踏む雪が冷たい。
上着も着ていないので本当に凍死してしまいそうだ。
は血まみれの手をついてバルコニーの下を覗き込んだ。
「高い……」
なるほど、ウィリアムが「逃げられない」というわけだ。
さすが子爵の住居といったところで、が今いる寝室は大きな屋敷の最上階のようだった。
白に埋もれた地面がやけに遠く見える。
普通の人間が落ちたなら、絶対に死ぬ。
けれどは普通ではないので、普通にバルコニーの手すりに足をかけた。
勢いをつけて登れば、目眩がした。
高さにではない。まだ薬の効果が残っているようだ。
それでもは手すりを強く蹴って、一気にバルコニーから飛び降りた。
くらりとする。視界が回る。きちんと着地できるといいな。
とにかく早く帰りたい。
殴られた痛みも襲われた恐怖も、その想いには敵わなかった。
もちろんこの高さもだ。
そしての足は見事に地面を捕らえ……、そのまま見事にすっ転んだ。
ずるっと前に滑って頭から雪に突っ込む。
死ぬほど冷たい。
けれど雪がクッションになってくれたおかげで、動きの鈍い体でも何とか骨折せずにすんだようだ。
は奥歯をガチガチ鳴らしながら、這いずるようにして木陰まで進んでいった。
とりあえずは脱出できた。
残りの難関は塀だけだ。いかに素早くそれを越えるかで、無事に帰宅できるかどうかが決まる。
木の幹に背をあずけて呼吸を整える。
どれくらいそうしていただろう。時間の感覚が曖昧だった。
急がなければと思うけれど、駄目だ。まだ立てない。視界がぐるぐるしていて気分が悪い。
「う……っ」
思わず胸を押さえてうずくまった、その時だった。
「……?」
あり得ない声がした。
咄嗟に幻聴かと思う。ウィリアムに嗅がされた薬はそんな効果もあるのか。
反射的に顔をあげて、幻覚作用も疑い出す。
何故なら振り返った先に、声の主が…………アレンが立っていたからだ。
「ど、どうしたの、そんなところで」
訳がわからないとばかりの口調で訊いてくる。
けれどのほうが混乱していた。
否、硬直していた。
「なんで……」
「え?……あぁ、君の帰りが遅いから。迎えに来たんだけど、追い返されちゃって」
つまり、使用人が言っていた「帰れと言っても帰らない、それなりの身分の客人」とは、この神父さまだったらしい。
アレンは小声で言いながらの隠れている木陰に近づいてくる。
「子爵の息子が出てきてからは本当に問答無用だったよ。あの人“シスターならもうお帰りになりましたよ”なんて言うんだ。それだったら真っ直ぐ家に戻ってくるはずなのに」
怒ったような声で説明してくれるけれど、あんまり聞いていられなかった。
アレンの気配に安堵する。やっとうまく呼吸できた気がして、は震えた。
自分が泣きそうになっていることには気が付かなかった。
「腹が立ったから勝手に忍び込んでやったんだ。君はまだ敷地内にいると思って」
それは立派な不法侵入だけど、は責めることなど考えつかずに嬉しく思う。
心配してくれたとか、迎えに来てくれたとかではなくて、それよりももっと単純に、アレンがそこに居てくれることに感謝していた。
今すぐ立ち上がって駆け寄りたい。
抱きついて、抱きしめてもらいたい。
うまく動かない体が死ぬほどもどかしい。
乱れた呼吸で名前を呼んだ。
早く来て。
「アレン」
「君はどうしてそんなところに……」
言いながら、アレンが木陰を覗き込んだ。
そこに隠れていたの姿を見た。
そして、限界まで目を見開いた。
「」
呆然と名前を呼ばれる。
はその理由を思い至って、一気に蒼白になった。
アレンが居てくれることに安堵するあまり、いろいろと吹っ飛んでしまっていた自分が許せない。
早く来て、だなんて冗談じゃない。
今はこちらに来ないでと、そう言わなくてはいけなかったのに。
はアレンの視線を受け止められなくて顔を伏せた。
殴られた頬が痛む。唇が切れている。
乱れた髪が落ちかかってきて、自分の表情を隠してくれた。
「なに……」
尋ねてくる声が耐えられない。
シスター服は引き千切られていて、白い肌が晒されていた。
それを両腕で覆って身を縮める。
今すぐアレンの視界から消えたかった。こんな不様な姿を晒していたくはなかった。
「、何が」
問いかけに首を振る。
何でもない。こんなのは何でもない。
そう言ってもアレンは傷つくから、は必死にいつもの声を出す。
「へいき」
大丈夫だと、何も奪われてはいないと、それだけを伝えた。
何度も首を振って、震える体を押さえつけた。
脚を投げ出してしまっていたから、慌てて引っ込める。
爪跡の残された太腿も、凍傷になってしまっている足裏も、全部スカートの中に隠した。
「平気」
繰り返してみたけれど、アレンは聞いてくれなかったようだ。
唐突に頭から何かを被せられた。
驚いている間に体が浮き上がる。
アレンの上着に包まれて、彼に抱きかかえられたらしい。
そのまま歩き出す気配がする。
やけに早足で怖かったけれど、アレンに縋りつくことはできなかった。
顔を見ることも無理だ。
はアレンの上着を頭から被ったまま、泣き出しそうに目を閉じた。
視界は家に帰り着くまで塞がれたままだった。
冷たい風を感じなくなったし、アレンの足取りが緩やかになったのでそれと知る。
彼は道中と同じく一言も口を利かずに乱暴にどこかの扉を押し開けた。
それからを腕から降ろし、その体勢の変化で被っていた上着はずり落ちてくる。
ようやく瞳は開放され、網膜が像を映し出した。
そこは自宅のバスルームだった。
バスタブの縁に座らされたに、シャワーを引っ掴んだアレンが向き直ってくる。
彼はまったくの無表情だった。
否、は知っている。
これは激情を無理に押し殺しているときの顔だ。
それがわかるだけに青ざめて、伸びてきたアレンの手にびくりとしてしまった。
「………………」
アレンはやはり無言だった。
そうしての膝に落ちていた自分の上着を掴んで、脱衣所のほうに投げ捨てる。
ボタンが床に当たって高い音を鳴らした。
アレンはそれに一瞥もやらずにコックをひねり、手の上にシャワーを流した。
水の温度を調節してからバスタブに跪く。
「あ……っ」
足を取られて引き寄せられた。
指先が触れて痛む。素足で雪の上を歩いたからだ。
凍傷になってしまっているそこに、アレンが湯をかけてくれた。
「ア、アレン……」
呼びかけるけれど返事はない。
じゃばじゃばと遠慮なく湯を浴びせて、バスタブに注いでゆく。
彼はそこに膝をついているものだから、どんどん服が濡れていっているのに気がついて、は言った。
「いいよ、自分で……」
身を乗り出して手を伸ばせば、強く足首を握られた。
吃驚してそのままずるずるとバスタブの底に座り込んでしまう。
スカートがびしょ濡れだ。お尻にまで染みてきて気持ち悪い。
「……自分でやるから」
もう一度言うけれど、アレンは反応してくれない。
しばらく沈黙が続いた。
ただバスタブに落ちてゆくシャワーと、排水溝に流れてゆく水の音が響いている。
単調に続くそれを、雨音みたいだとは思った。
「………た」
ぼそりとアレンが呟いた。
けれどよく聞こえない。
が顔をあげれば、再び唇が動いた。
「やっぱり、行かせるんじゃなかった」
その声には表情同様、何の感情も宿ってはいなかった。
「こんなことになるのなら」
ごめんなさい、と言いたかった。
けれどそれも口にしてはいけない気がして、ただ馬鹿な自分を認めるしかできなかった。
「……思っても、みなくて」
するとアレンは笑ったようだった。
「当たり前だろう。……予想できていたら、僕が」
「……………………」
「……よく、彼が君を見ていることだけは、気づいていたけれど」
言われて驚く。はまったく知らなかった。
ウィリアムには教会で何度も会ったし、道行く途中で子爵家の馬車を目にすることも多かった。
けれど、その視線が我が身に注がれていただなんて。
彼は自分達の口づけを偶然見たと言っていたけれど、もしかしたら故意にアレンが見せたのかもしれない。
それは裏目に出てしまった警戒だ。
「ほんと……妙な男に好かれるね。君は」
少しも楽しくなさそうに笑うアレンに、は堪らなくなった。
どうしたって、どう言ったって、苦しめてしまうだろう。
その事実に自身もズタズタにされる。
「……違うわ」
ただ黙っていられなくて必死に声を絞り出した。
「あの人は敬虔なだけよ。神に忠実で、異端の私を許せなかった……それだけで」
「……………………」
「私が、欲しかったわけじゃ」
「驚いた。ここまでされて、まだ理解していないの」
遮る声は鋭かった。
本当に斬りつけるみたいに、アレンはの言葉を叩き伏せた。
あまりに強い口調に目を見張る。
金色の瞳でアレンを見つめる。
「“敬虔”な人物が、シスターに暴力を振るったって?」
「……………………」
「頬を殴りつけて、服を引き裂いて、その存在を支配しようとした?……君は彼を馬鹿にしているの?」
「馬鹿に……?」
「本当に分かっていないのか。あの人も可哀想に」
アレンはまったくそう思っていないように、喉の奥で笑った。
それから吐き出すように一気に言った。
「彼は君が好きなんだろう」
意味がよくわからなかった。
は本当に呆然としてしまって言葉が出ない。
アレンは相変わらずシャワーを流しながら続ける。
「教会で言葉を交わしたときか。それとも馬車の窓から垣間見たときか。いつからかなんて知らないけれど、彼は君に恋をしたんだと思うよ。淡く、優しい気持ちを抱いたんだ」
「そんな……」
「けれど君は聖職者だ。絶対に結ばれない。だから見つめているだけでよかったのに……君には僕がいた。それが彼の癇に障ったんだろうね」
「………だから、こんな……?」
「聖職者のくせに、と言われただろう」
ずばりと言い当てられては沈黙した。
アレンの笑みは消えない。
「“聖職者のくせに”。………聖職者だから諦めていたのに、どうして他の男と……。彼はそう言いたかったんだよ」
「……………………」
「怒りに変質したその感情を、抑えきれずに君にぶつけた。今回のことはそういうことだろう」
それだけだろう、とアレンは言った。
けれど同時にまた強く足首を握られた。
骨が軋む。痛みにわずかに声を漏らしてしまった。
「……でなければ“敬虔”な人物が、シスターに乱暴なことをするはずがないじゃないか」
ましてやその身を所有しようとするはずがない。
アレンはそう確信しているようで、を掴む手も一向に緩めようとはしなかった。
「その場にいなかった僕でも察せられるのに。どうして」
「………違うわ。だって、おかしい」
「おかしい……?」
が首を振れば、アレンが問い返してきた。
声が虚ろに聞こえる。
何かとんでもない認識の違いが、二人の間にはあった。
「だって、好きなら」
は混乱して頭に手を添えた。
そこはソファーの縁にぶつけたところだろうか、少し瘤になってしまっていた。
「好きなら、こんなことするはずないじゃない」
「……………………」
「こんな、無理やり……。感情の捌け口にしたいのならまだしも」
「そんなくだらない心理はわかるくせに、ね」
わからない。
だって腹が立つから殴るとか、欲を処理したいから奪うとか、そういうことならとても単純でわかりやすい。
そして、“本当に好き”ならこんな酷いことはできないはず。それがの絶対的な意見だった。
けれどアレンはそれを真っ向から否定した。
「僕も似たようなものだっていうのに」
「え……?」
「ねぇ、」
そこでアレンの口調が急に穏やかになったから、は全身に鳥肌を立てた。
自分でも驚くほど寒気がする。
熱い湯は凍傷を温めてくれるけれど、染み込んできた水は冷たくなって体温を奪う。
「こんなことを言えば否定するだろうけど。君はとても聖職者に向いていると思うよ」
「……………………」
「君は救いを求める人を見放さない。頼ってくる者を裏切れない。いつも周囲の期待に応えようとする」
それはアレンのほうだろうと思う。
けれどそんな彼が言う。
「悪い男はそこにつけ込むんだよ」
何だかとても酷い話をされている気分になって、は首を振った。
続きを聞きたくなかった。
それでもアレンは口を閉ざさない。
「どれだけ甘い言葉をかけられたって、どんなに豪華な贈り物をされたって、君は騙されやしないのに」
「…………やめて」
「責める振りでも許しを乞われたら、君は本当には拒めない。無意識に受け入れようとする」
「やめてよ、私が彼にそうしたって言うの……!?」
「少なくとも僕のときはそうだったじゃないか」
押し殺した声で呻くに、やはりアレンは穏やかなままだった。
それが一層恐ろしくて、言われた言葉が信じられなくて、呼吸が止まってしまいそうになる。
バスタブに水が流れてゆく。
全てが同じように見えるのに、何ひとつ貯まらず、留まらず、消えてゆくばかりだ。
「僕が好きだと告げて、君がそれに応えてくれるまで、随分と時間があっただろう」
戦時中の話だ。
そしてそれにはの厄介な境遇も深く絡んでいた。
「その間、僕は何をした?」
「………………」
「とても自分勝手に振舞っていたはずだよ。君の了承を得ないままに。好きに触って奪おうとした」
けれど、本当にはそんなことしていない。
ウィリアムのような乱暴な真似では決してなかった。
それに、
「だって……っ、最初にそう言って……」
「宣言していればいいというものでもないだろう。……僕はね、。はじめから君の意見なんかどうでもよかったんだよ」
アレンはいつまでもを見ない。
銀灰色の瞳はバスタブに落とされたままだ。
「君が泣いても傷ついても、僕が原因ならどうだってよかった。だからあんな酷いことが平気でできた。……そして、君が僕を受け入れてくれたとき、気が付いたんだ」
そこでようやく顔をあげる。
見えた銀色の双眸は、口調のような穏やかさなど欠片もなく、怒りと侮蔑と罪悪の色に染まっていた。
声が、掠れる。
「君は僕を裏切れない」
怒りはそんなへ。
侮蔑は自分へ。
罪悪はずっと心に抱いていたものだろうか。
「君は僕を見捨てられない。突き放せばどうしようもないほど傷つけてしまうと知っていたから」
あぁもう嫌だ。叫び出したい。
は耳を塞いでしまいたくて仕方がなかった。
「知ってたんだよ、君がそういう人だって。だって優しいからね。好きだと言うだけでは駄目でも、僕が何もかも投げ出して、縋り付けば絶対に応えてくれる。愛を失くした君は、愛に飢えた僕を拒絶できない。そうだろう?」
違う。止めて。
そんな言葉を聞かせないで。
「本当は最初からだったのかもしれない。君に告白したときも、無理やりキスをしたときも、初めて奪ったときも、死にそうな感情に支配されて、それでも心のどこかでわかっていたのかもしれない。君は僕を見放さない。君は僕を傷つけない。だってそういう人間だからね君は!!」
はっきりとアレンの声に怒りが滲んだ。
彼は怒っている。を記憶の限りで責めている。
「僕は君のそんな甘さにつけ込んできたんだよ。もうずっと。ずっとだ!」
ギリッと握り締められた掌の間で、シャワーが悲鳴をあげている。
止まらない水音。
への罪悪感に燃えるアレンの瞳は鎮火できない。
「……それはあの男がしたことと、何が違う?」
だから状況が、立場が、場合が違えば、彼にも応えたんじゃないのか。
彼がそう言いたくて、そしてそれを口にする自分と、そんな疑いを抱かせるに怒っているのだと気付いた瞬間、一気に理解した。
あぁ、そうか。
「だから……」
だから、だったのだ。
「今までずっと……、私がどう言っても、何をしても、“あなたを愛している”という気持ちを信じてくれなかったのね」
闇の根は同じだった。
は自分のために放棄させてしまった、アレンの未来と可能性を憂いていた。
けれどアレンはそうすることによって、ようやくを己の元に縛り付けることができたのだと思っているのだ。
罪悪感は消えない。
そんな風に手に入れてしまった相手に、心のどこかで懺悔している。
好きだからこその負い目を感じ、それを隠して傍に寄り添ってきたのだ。
たった今、この時まで。
それは許し合えることなのだろうか。
今更はっきりとした、自分たちでも形を掴むことを恐れていたものが、目の前に突きつけられている。
は悲しかった。
どうしようもないくらいに、傷ついていた。
それはたったひとつの事実によって。
「ずっと……」
泣いて、しまいたい。
「ずっと、私の気持ちをそんなふうに思っていたの……?」
裏切れないから。見放せないから。ただ、拒絶できないから。
それだけでアレンを好きだと言っていたと、そう思われていたのか。
私の言葉は、そんな風に、伝わってしまっていたのか。
その問いかけはだけでなく、アレンをも切り裂いたようだった。
彼は衝動のようにバスタブを殴りつけた。
空間がひび割れるような打撃音。その弾みでシャワーが手から離れて落ちる。
湯が跳ねて、の顔をびしゃりと濡らした。
反射的に目を閉じた。
熱い雫が頬を滑ってゆく。
それが冷めるまで待って、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
アレンがこちらを見つめていた。
その表情を見て、あぁ私は今泣いているのかなと思った。
わからない。
自分でも、もうよくわからない。
「……だったら」
不意に呻くようにアレンが吐き捨てた。
「だったら何だって言うんだ……!」
それだけを投げつけて、アレンは立ち上がった。
バスルームの扉を叩き開けて外に出てゆく。
は追いかけなかった。立ち上がれなかった。声をあげて泣いてしまいたかった。
けれどそれをするには感情が強すぎる。
また、アレンがいないところで涙を流すなんてことは、にとってひどく難しいことだったのだ。
「ぅ……、っ」
それでも思わず漏らした自分の声は、まるで泣いているかのように聞こえた。
雨音がしている。
雪が降る夜に、バスタブを叩く虚偽の音。
過去からを追いかけて責め立てる。
ざぁ、ざぁ……。
途切れることはない。
半端に開いた窓のガラスは、血にまみれていた。
すでに赤黒く変色したそれをウィリアムは眺める。
薄暗い寝室で独りきりだ。
ここに閉じ込めていたはずの女性は、羽根でも生えていたのか、飛んで逃げてしまったようだった。
バルコニーに残された痕跡からは、それしか推測できない。
いや、それとも箒に跨って?
彼女は天使か、魔女か。
くだらない空想を巡らせる。
ふいに階下が騒がしくなった。
静寂に浸っていたウィリアムは眉をひそめて、ため息を共に立ち上がる。
杖を片手に扉を押し開いた。
「騒がしいぞ」
威厳のある声を放ちながら階段を下りれば、ちょうど騒動の中心と行き当たった。
ウィリアムは足を止めて目を見張った。
対する彼はこちらを見上げて無表情に言う。
「今晩は」
どうやらここまで勝手に入ってきたらしい。
それも正面きっての堂々とした不法侵入のようで、門番や使用人たちが後から後から追ってくる。
取り押さえようとするそれらを容赦なく振り払って、彼はウィリアムに告げた。
「僕の恋人がこちらに荷物を忘れたようです。引き取りに来ました」
はっきりとした声音でそう言ってくる。
“恋人”と明言されて、ウィリアムは思わず顎を持ち上げた。
冷ややかな目で見下ろす。
けれどそれ以上に氷の双眸で斬りつけられた。
「返していただけますね、ウィリアム様」
そう告げるのは黒いコートを纏った白髪の神父。
敵意を持って睨みつけてくる双眸。
銀色の瞳が、聖夜の飾りのように閃いた。
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