誰が君を幸せにするの?
「ぼく」だと言ったら頷いて。
どうかこの手を取っておくれ。


さぁ恋人に贈ろう、12日目のクリスマスを。






● The twelfth day of Christmas 3 ●







「こちらですよ」


口調だけは丁寧に、声はぞんざいに、ウィリアムは言葉を投げた。
白髪の神父は大人しく案内を受けて客間までやってくる。
会話はない。客人が口を開かないのだから、家人も黙ったままでいた。
ウィリアムが先に扉を開いて入り、暖炉の前のソファーに腰掛ける。
テーブルの上にはいまだに二人分の食事が乗っていたから苛立った。
後片付けが遅い。何て怠惰な使用人だ。担当の者は今年いっぱいで解雇することにしよう。
そんなことを考えていたウィリアムは、あまりに勢いのよい音が響いてきたので驚いた。


「……我が家の扉を叩き壊すおつもりですか」


それがアレンの仕業だと知って、盛大に顔をしかめた。


「もっと丁寧に閉じてください。聖夜だというのに騒々しい」
「本当に、聖夜だというのに騒がせてくれますね」


返答はあまりに冷ややかだった。
ウィリアムはアレンを見た。
アレンもウィリアムを見ていて、その瞳が不審に感じるほど静かだったので眉根を寄せる。
とりあえずは彼の目的の物を指差してみせた。


「シスターの荷物はそこに」


床に置かれたままになっているトランクを示す。
けれどアレンはそれを完全に無視して、向かいのソファーに腰掛けてきた。
その勝手な振る舞いをウィリアムは不快に思った。


「……御用はお済みでしょう。どうぞお引取りを」
「冗談でしょう。黙って帰れるとでも?」


間髪入れずに返される。
相変わらず瞳は揺らがない。


「シスターは糾弾できても、神父相手には無理ですか。けれど、僕は彼女と違って奪われるものがありませんからね。あなたの気が済むまでお付き合いできますよ。どうぞ?」


そう言う顔は少しだけ笑みが滲んでいた。
そしてウィリアムは理解する。
彼の穏やかな双眸も、冷静な表情も、全ては激しい感情の裏返しなのだと。


「……神父さまに聞いていただくことなどございませんよ」
「なるほど。女性を襲っておいて、懺悔する気もないと」
「責めを受けるべきは私ですか?」


ウィリアムはアレンを睨み付けた。
その視線の先で、彼は優雅に足を組む。
肘掛に頬杖をつく姿は何だか妙に絵になっていて、自分よりこの家の主に相応しいように見えた。
態度もそれに相応に、尊大に言われる。


他人ひとのものに手を出しておいて、よく言えたものだ」


声の裏には途方もない軽蔑と怒りが込められていた。
相手にもう隠すつもりがないのだと悟ると、ウィリアムは手にしていた杖をソファーに放り出した。
背もたれに体重を預けてふんぞり返る。
そして鼻で笑ってやった。


「他人のもの、ねぇ。聖職者に恋人とは、恐れ入る」
「ものすごくどうでもいいところから話を始めますね。これだからこの肩書きは面倒くさいんだ」


アレンは短く息を吐いた。
それからおもむろに断言した。


「僕は神なんてどうでもいい。だからこの身分にも縛られてはいないんですよ」


根本的なところから話を崩されて、ウィリアムはちょっと唖然とした。
自分の世界と価値観をまるごと否定された気分だ。
実際にウィリアムの考えはそれによって成り立っていた。


「そんなものは関係ない。あなたは彼女に乱暴しようとして、僕はそれを絶対に許せない。その話のどこに神だの何だのが介入する隙があるんです」
「……あ、貴方は神父でしょう」
「そうですよ、だから?何だって言うんです」
「私が許せないのは、神の教えに背く貴方がたの関係だ!」
「それがあなたの大義名分ですか」


思わず口調を荒げたウィリアムに、アレンはひどい鋭さで切り返した。
蝋燭が燃えている。
その炎が銀灰色の瞳に宿る。


「神があなたに言いましたか。を殴れと?服を引き千切って、肉体を所有しろと?随分と素晴らしいお言葉ですね」
「違う、私は……!」
「それさえあれば、あなたはどんなことでも成し遂げるつもりですか。……そもそも女性を無理やり奪うことも神はお許しになっていないはずですが」
「そうやって煙に巻こうとしないでください、自分たちのことを棚にあげて」
「そんな気はありませんよ。最初から言っているでしょう、僕は神の教訓や自分の立場には囚われていない。あなたとは違います」


そこでアレンは瞳を細めた。


「そんな理由などつけなくても、どんな身分に縛られていても、僕は彼女に触れることを躊躇わない」


ウィリアムは唐突に奇妙な感覚に襲われた。
何だこれは。
何故、自分はこの男と向かい合って、こんな話をしているのだろう。
それがひどく恐ろしいことに思えてきて体が震えた。


「それは僕の意思です。結果も責任も僕が負います。……だから彼女との関係に口出しをされる謂れはないんですよ。神にも、あなたにもね」
「……聖職者のくせに。そんな堕落した考えが」
「“聖職者のくせに”、は僕には通用しません。何度言わせるんですか」
「貴方が彼女を穢したのでしょう!」


恐怖の正体がわからない。
ウィリアムはそれに苛立って叫んだ。


「神から花嫁を奪い取った!それがどれほどの罪か、考えたことがありますか!?」
「ありませんね、特に」
「貴方がシスターを誑かし、間違った道へと引きずり込んだ!懺悔すべきは私ではない!背徳の契りを交わした貴方がただ!!」
「どれほどの罪かは知りません。考えたこともありません。罰があるなら全て受けましょう。それでも、間違っていたとは思わない」


怒りの濃度は同じくらいか、いやアレンのほうがよほど凄まじいというのに、ウィリアムと違って声の調子は乱れなかった。


「例えどんなに酷い罪過でも構わない。僕はとの関係を悔いてはいないし、これから先もあり得ないでしょう」


絶対に、とアレンは特に言葉を強めず言った。
まるで当たり前のことみたいに。


「……何というざまだ」


思わず呻いたウィリアムに、アレンは微笑んだ。


「我々は“聖職者”です。けれど一般のそれではない。説明しても納得してくれないとは思いますが」


それは明らかに表情だけの笑みだった。


「過去は教皇の元に擁立された団体に所属していました。今でもその一派であり、正規の制約からは外れているんです。わかりますか?……つまり僕にもにもあなたの常識は適応されない」
「……………………」
「あなたの宗教心に障るような場面を見せてしまったことだけは、こちらの落ち度です。その軽率さはお詫びしましょう。けれど」


ふいにアレンが立ち上がった。
コツリ、と靴音を鳴らして近づいてくる。
怖いと思うのは何故なのか、ウィリアムにはいまだにわからなかった。


「いい加減、それに逃げるのは止めたらどうだ」


声が低くなった。
表情は変わらない。
アレンは微笑んだままだ。


「神だの身分だのは怒りを焚きつけただけで、本当の火種は別だろう。そんなくだらない言い訳はもうどうでもいい」
「何を……」
「まだ誤魔化すのか」


不快を口にしようとすれば、勢いよく顔の横に手を突かれた。
ソファーの背に掌を押し当てたアレンが身を屈めて覗き込んでくる。
顔に影が落ちて、やけに瞳が光っているように見えた。


「僕には、彼女にしたことを全て背負う覚悟がある。今までもそうしてきたし、これからだって当然だ。けれど」


そして今度こそ、アレンの顔から笑みが消えた。
その途端、恐怖が倍増する。
ウィリアムは我知らずに肌を粟立たせた。


「お前は神を言い訳にした」


ぞっとするような強い言葉。
背徳者めと罵りながらも、ウィリアムは認めずにはいられない。
アレンの言葉には行動に裏打ちされた鮮烈さがあるのだ。


「敬虔な考えばかりを口にし、聖者の振りで糾弾して、その実自らの欲だけでを辱めようとした」
「それは……!」
「一方的に殴りつけるのが正義か。四肢を押さえつけて服を剥ぐことが健全な行いか。女性を無理やり奪うことが善良な民のすることか」


口を開こうとしたウィリアムをアレンは容赦なく切り捨てた。


「僕と彼女の関係を罪だと非難しておきながら、己の所業だけは正しいものだったと言うつもりか!!」


反論など許されなかった。
いつの間にか自分達は裁く者と、裁かれる者になっていたのだ。


「全ては神のためだと、それを言い訳に自分の行動に責任を取らない。罪を負う決意も、罰を受ける勇気もない。……そんな男が彼女を手に入れられると思うなよ」


言葉の最後で双眸がすがめられた。
怖気が強くなる。
一瞬殺されるのではないかと思って、実際にそれが可能な距離に相手がいることに錯乱して、ソファーの上に転がしていた杖を掴んで振り上げた。
鈍い打撃音が響く。
ウィリアムは悲鳴を押し殺した。
何故なら神父のこめかみを打つはずだったそれが、彼の手によって事も無げに受け止められてしまったからだ。


「僕は」


杖を奪い返そうとしてもアレンの力は強くてびくともしない。
そのままで彼は言った。


を奪おうとする男を許さない。けれどお前はそれ以上に最低だ。神を口実にした卑怯者。自分の価値観だけで世界を括るな。全てが正しいのだと慢心するな。それでもそれを貫きたいのなら、我が身で何もかもを背負う覚悟を決めてからにしろ」


みしり、と嫌な音がした。
掴まれた杖が軋んでいるのだ。
アレンは唐突にそれをウィリアムの手から奪い取る。
そして腕を大きく振り上げた。


ウィリアムはもう悲鳴も出なかった。
ただ酷い痛みを恐れて目を閉じる。
風を切る音と、激しい打撃音が部屋中に響いた。


「……それなら僕が殴り飛ばしてやる」


衝撃は襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、ソファーの背が陥没していて、真っ二つに折れた杖が床に投げ捨てられていた。
呆然と震えているウィリアムをアレンが冷たく一瞥する。


「今のままではそんな価値もない。お前は神の教えを盾に、罪を犯そうとした背徳者だ」


“男”として裁かれる権利もないのだと、悟らされた。
断罪の杖は自分を打たずに無惨な様子で床に落ちている。
アレンを見上げる。
ウィリアムにとっては、この神父こそが女性と契りを結んだ背徳者だった。


けれど彼は、それを誰よりも己の所業だと認識し、罪も罰も一身に受けるつもりでいる。
他の何者も関係なく、ただただ自分の意思だけで決意している。
それは精神が肉体を超越している証になるのかもしれない。
ウィリアムなど杖で打たれるかと思っただけでこれほど恐ろしかったというのに、アレンは彼女への愛のために今後の人生すべての苦痛を厭わないと言うのだから。
否、もしかしたら死してさえ、救いなどいらないと考えているのかもしれなかった。


これが愛なのかと思った。
こんなに激しくて恐ろしいものが。
同時に理解したのはアレンへの恐怖の正体だった。
何もかもが、根本から違うのだ。
彼は“神父”ではなくひとりの“男”として自分と向かい合っている。
だからこそ、こちらの非難をそのままに受け取った。
そして、そのうえで神など居ても居なくても、を愛することを止めないというのだ。
他のどんな要因も関係なく、彼は彼自身の全てをひとつ残らず燃やして彼女に焦がれているのだから。
それは神なくして生きられないウィリアムにとっては耐え難い事実であり、“自分”という存在を問われる残酷な詰問だった。


彼女は神の花嫁だった。だから見つめているだけでよかった。
彼女には恋人がいた。裏切られた。私ではない、神が裏切られたのだ。
どうか断罪を。背徳者に裁きを。どうかどうかどうか、そうでなければ救われない。
救われないのは誰だ。
あぁ、私だ!
そんな風に考えなければ私は一歩も動けなかった!!


“神など関係ない”というのはそれを愚弄する言葉ではない。
何よりも鮮烈に、世界へと告げる愛の宣言だったのだ。


「……殴る価値もない、か」


アレンはこちらの非難を受け取ったのだから、“神父”としての裁きは下せない。
けれど“男”としては、自らの考えできっぱりと判断したのだ。
ウィリアムの愛など、相手にもならないと。
その通りなのだろうと泣きそうに呟けば、アレンが瞳を向けてきた。


「あなたは殴られたいのですか。もしそうでもお断りしますよ。本当なら、いくら拳を振るっても足りないくらいですけどね」
「……私を、殺してやりたいと?」
「…………いいえ。僕はを泣かせる気はありませんので」


そこで何故か彼は表情を揺らした。
睫毛を伏せて拳を握る。
けれどすぐにまたウィリアムを睨み付けた。


「杖を壊してしまいましたね。確か足を怪我されていたはずですが」
「ええ……。大して不自由ではありませんが、そのためにあつらえた物です」
「でしたらそれが治るまでに、僕たちはこの街から去りましょう」


アレンは踵を返しながら続ける。


「二度との前に現れないでください。それを破ったなら……今度こそ僕はあなたに何をするかわかりません」


脅しではないのだと、すでにウィリアムも承知していた。
謝罪の方法も機会もないのだと思い知らされて言葉を失くす。
アレンは元より期待していないようで、のトランクを持ち上げるとそのまま扉に向っていった。
それを見て不意に思い出す。
同じようにしてそこから出て行こうとしたシスターの後姿を。


「公園に」


気がつけば口を開いていた。
アレンは振り返らない。
彼が扉の向こうに消える前にと、ウィリアムは言葉を急いた。


「公園に行ってあげてください。彼女はあれを守るために、この屋敷まで来て」


そして苦い口調で続けた。


「あのような目に遭ったのだから」


バタン、と扉が閉まる。
それはもう二度と開くことはなかった。


全てが終ってしまってから、ウィリアムはようやく認めた。
例えどれほど自分の規範に外れていようと、彼らは自分の信じるものに忠実な、“聖職者”でしかなかったのだと。




















怒りが納まらない。
本当は理屈を抜きに殴り飛ばしたかった。
あの男がに与えた痛みと屈辱をそのまま、いや何倍にもして返してやりたくて堪らなかった。
けれどそれが身勝手な感情であることも苦しいほどに理解している。


「……っつ」


アレンは唇を噛んだ。
ざくざくと雪を踏みしめて道を進みながら、震える息を吐き出す。


本当に、自分はウィリアムと変わらないのではないのか。
自分を囚えたが悪いのだと一方的に責めて、その実ただ彼女に縋り付いていただけではないのか。
許してくれと。受け入れてくれと。
全てを投げ打ったその訴えを、は拒めないと知っていて。
だって彼女はそういう人間だと、“仲間”だった僕は理解していたはずだ。
打算はなかった、本当に?
神を免罪符にしたウィリアムのように、自分の持つ全てを言い訳にして、を手に入れたんじゃないのか!


吐き気がした。
ずっと心に引っかかっていた罪悪感が、こうも酷いものだったとは、自分でも予想外だった。
もしそれが本当なら、可哀想だ。
馬鹿な。僕のような悪い男に騙されて。


今では間違っても大通りを歩こうだなんて気にはならなかった。
アレンは迷わず賑やかな世界に背を向ける。
脇道に逸れていって、薄暗い中を進んでいった。
吐き気が止まらない、止まらない、止まらない。
耳の奥で水音が鳴っている。延々と木霊している。
ざぁ、ざぁ……。
あぁは泣いていたかもしれないのに。


アレンは思わず傍にあった街路樹を殴りつけた。
大きな打撃音が響いて、弾みで手に持っていたトランクが口を開けてしまう。
中身が一斉に路上へと雪崩落ちた。


「…………………」


アレンはしばらく押し殺した呼吸を繰り返しながら、それを眺めていた。
感情が強すぎて、いろいろなことに混乱していて、うまくものが考えられない。
あの頃の僕はそれほど頭がよくなかったと思うけれど、のことだから何か察せられるものもあったのではないだろうか。
それほどまでに、アレンは彼女を見つめていたのだから。


はぁ、とひとつ大きく息を吐いた。
それからゆっくりとしゃがみ込む。
とにかく散らばしてしまった荷物を片付けないと。
アレンは手を伸ばして雪の上に散乱した物を拾い集めてゆく。
聖書をはじめとする仕事道具、メモ帳にペン、毛糸の手袋とマフラー。
あとはアレンには理解できないものばかりだった。
携帯健康食品とか、登山用のナイフとか、ライトや火種なんかもある。
彼女はどこかの秘境に冒険でも行くつもりだったのだろうか。
アレンは全ての荷物をトランクに戻し終えて、そこでふと手を止めた。
視線の先に可愛い色が揺れている。
トランクの内ポケットだ。それを押さえる皮の留め具に、リボンが蝶々結びにされていた。


「これ……」


アレンは思わず手で触れて確かめる。
見覚えがある。
これは昨日にあげた、薔薇のコロンについていたリボンだ。
包装紙のオマケのようなものだから生地はひどく安っぽい。
強く引っ張れば千切れてしまいそうな薄さだった。
こんなものを、どうして。


「捨てたと思ってた……」


プレゼントで肝心なのは中身だけで、それにかかっていたリボンなどただの飾りだ。
それなのに捨てずに取っておいて、こんな場所に結んでいただなんて。
アレンは少しも知らなかった。
が言わなかっただけで、もしかしたら他のプレゼントも全部?


「神父さま?」


そこで唐突に声をかけられた。
アレンは本気で吃驚して顔をあげる。
見てみると、何人かの子供達が敷地から頭を突き出してこちらを覗いていた。
夕方に見た顔も多い。


「何してるの?」
「そんなところに座っていたら濡れちゃうわよ」
「ほら、立って立って」


きょとんとしている男の子と、大人っぽく注意してくる女の子。
あと何人かが駆け寄ってきて手を引っ張ってくれた。
アレンはのトランクを閉めて起立する。


「みんな、こんな夜遅くにどうしたの?」


親御さんが心配するのではないかと思って尋ねてみると、子供たちは少し呆れた顔になった。


「雪祭りに来たんだよ」
「決まってるじゃないか」
「ダメよ、神父さまはこの街の人じゃないんだもの」
「知らないんだわ。あのね、ここではたくさんの人が雪像公開の瞬間を見に来るの」
「こんな時間に?」


アレンが目を見張ると、皆が揃って頷いた。


「雪像がいっせいにお披露目されて、ライトアップされるんだよ」
「夜に見るのが一番キレイなの」
「俺は家族で来たんだ」
「私はおじいちゃんと」
「お兄ちゃんたらひどいのよ。私を連れてきてくれるって言ったのに、恋人さんとどこかへ行っちゃったの」


口々に言う言葉を聞いてアレンは察する。
どうやらこの街では雪祭りで作られた雪像を見ることは、老若男女のクリスマスイベントとなっているようだ。
視線を遠くに投げてみると、なるほど遠く木々の間が煌めいている。
あの方向は公園の中心地だ。
そこここに派手なイルミネーションがされていて、確かにこれは人が集まりそうだなと思った。
アレンは子供達に向き直る。


「そう……。お父さんやお母さんたちとはぐれないようにね。気をつけて、楽しんでおいで」
「神父さまは?お祭りを見に来たんじゃないの?」


一人の女の子がふたつに結んだ髪を揺らしながら尋ねてきた。
アレンは苦笑して、違うよと言おうとした。
今はとてもそんな気分にはなれない。
それより家に残してきたが気がかりだった。
けれど帰ったところで、どんな顔をして会えばいいのか……。


「シスターは先に着いてるぜ」


そこでアレンはちょっと固まった。
意味がわからないからゆっくりと瞬く。
まじまじと、先刻の声の主である青いマフラーの男の子を見つめた。
その横から別の子が口を挟む。


「二人で来てねって言ったのに。どうして一緒じゃなかったの?」
「シスターが後から来いって?」
「でも、何だか様子が変だったよ。ぼーっとして」
「ずっと黙りこくってるんだ。いつものシスターらしくない」
「本当にね。一体どうしたのかしら」


アレンはちょっと息を吸い込んで、一気に吐き出した。


……、ここに来てるの?」


子供たちはまた揃って頷いた。


「だって、ねぇ」
「ダメだよ、秘密だよ」
「シスターがそう言ってた」
「あら、もういいでしょう?だって今日はクリスマスなんだから」
「まだイヴだよ」
「あんまり変わらないよ。きっといいんだよ」
「神父さまが来たんだから、きっとそういうことよ」


混乱していて言葉が出ないアレンの前で、子供たちはきゃっきゃと騒ぐ。
訳がわからない。
というか、何でが此処にいるんだ?
確か今夜、彼女はかなり危ない自に遭って、そのあと自分とかなり深刻な言い争いをしたはず……。
間違っても祭りを楽しもうという気分ではないと思うのだが。
そんなことをぐるぐる考えているアレンの腕を子供たちが引っ張った。


「行こう、俺たちが案内してあげる」
「こっち、こっち!」
「わ……っ、ちょっと!」


後ろからも押されては前進するしかない。
アレンは転びそうになりながらも、子供たちの導く方へと駆けていった。




















「こっちだよ」


子供たちが指差したのは公園の端にある丘の上だった。
そこは簡素ながら展望台のような造りになっていて、地面には石畳がひかれ、ベンチが設置されている。
もちろんそれらは全て雪で埋もれていて、今ではただの山のようになってしまっていた。
縁にぐるりと手すりが立っていなければ、どこがどこだかわからなくなりそうだ。


「何があるんだい?」


アレンは雪を踏みしめて丘を登りながら問う。
あまりに公園の隅のほうなのでイルミネーションもされていないから、足元はかなり薄暗い。


「まだナイショよ。見ればわかるから」


手を繋いでいる女の子が言った。
笑顔がちょっとに似ている。
アレンは曖昧に微笑み返して目を逸らした。


「シスターが守ってくれたんだ」


到着するまで待てなかったのか、前を行く男の子が唐突に口を開いた。


「俺達が公園の隅っこに、勝手に雪像を造っていたことは知っているよね?」
「え……、うん」
「あれね、シスターが言ってくれたことなの」
「私たち、必死に頼んだのに、お祭りに出られるのは大人だけだって。子供はいけませんって、断られちゃったの」
「それで僕たちが公園の隅で落ち込んでいたらね」


“みんなの雪像を見てみたい。私のために、ここに造ってくれないかな”。
は子供達にそう言ったそうだ。


「最初はこんな隅っこじゃ嫌だって思ったよ。でもシスターはそんなこと全然気にしてなくって、自分から雪像を造り出しちゃったんだ」
「すごいんだよ!本当にいろんなものを次々と」
「私は耳の長いウサギさんを造ってもらったわ」
「僕は電車!8両も繋がったやつ!」
「何か巨大なロボットもあったよね。“コムリン”とかいうの」


どうやらは、沈む子供達を励ますために率先して雪像造りをしてみたらしい。
彼女は芸術的なことに強いというか、変な方向に才能があるらしくて、こういうことだけは得意だった。


「ちなみに今は渾身の雪像を製作中なんだよ」


子供たちは口を揃えて「あれはすごい!」とを褒め称えはじめた。
妙なところで大人気だ。いや普通に慕われてもいるようだけど。


「僕たちも、いつの間にか一緒になって雪像を造ってたんだ」
「楽しかったよ、すっごく!」
「場所とかもうどうでもよくなっちゃったんだよね。だってシスターが本当に楽しみにしてくれていたから」
「毎日見に来て喜んでくれるの。ここが素敵だって誉めてくれたり、難しいところを手伝ってくれたりしたわ」


全部が全部、アレンには初耳だった。
どうしては話してくれなかったんだろう。別段隠すようなことでもないと思うのだけど。
そこで不意に子供達たちの声に怒りが混ざった。


「でもね、昨日子爵家のウィリアム様が来てね」


その名前を聞いて、わずかに足元がぶれた。
子供たちは気付かなかったようなので、アレンは黙ったまま丘を登り続ける。


「会場でもないところに雪像を造られたら困るって」
「そう言ったの。ちゃんとシスターの注意通り、道を避けて造っていたのに」
「しかもあの兄ちゃん、祭りの前に撤去するとか言い出したんだ!」
「ひどいでしょう?シスターと私たちががんばって造ってきた雪像なのに」


確かに少し横暴なようだ。
会場の外は駄目だというのもわからなくはない考えだが、子供たちの作品である。
大目に見てやるのが大人だろう。
それともの造ったものが精巧すぎて、祭りの妨げになりそうだったのか。
出場作品よりも目立たれては困る、という意味なら納得できそうだった。


「それで、は何て?」


アレンが訊くと、腕を組んでいる女の子が言った。


「ウィリアム様に頼んでくれたわ。どうか、雪像を壊さないでくださいって」


そうして続いた言葉にアレンは目を見張った。


「“とりひき”をしたのよ。ウィリアム様がシスターのお願いを聞く代わりに、シスターもウィリアム様のお願いを聞くって」


子供の舌では言いにくいのか、妙な発音だったが意味はわかった。
取引、だ。
はウィリアムと子供たちのために交渉していた?


「ウィリアム様がなんて言ったのかは知らない。でも、雪像を壊さないまま帰ってくれたの。きっとシスターがお願い事を叶えてあげたのね」


それが、聖書朗読の依頼だったのか。
だったらが断れなかったのも頷ける。
そして子供たちを想う聖職者の姿が、ウィリアムの歪んだ気持ちに火を点けたのかもしれなかった。


「私たちの雪像は、シスターが守ってくれたの」
「だから神父さまにも見せてあげられるの」
「それでね、シスターが今造っているのは神父さまにはナイショの作品なんだ」


そこでアレンは丘の上に到着した。
風が冷たい。
屈みこんで子供たちのマフラーを締めなおしてやる。


「25日になったら見せるって言ってたんだ」
「だからここまで案内したのよ」
「私たちが教えてあげたかったから」
「ねぇ、見て!シスターが神父さまにあげるって!!」


そこで一気に手を引かれて、手すりの前まで連れて行かれた。
アレンは今更知ったことが多くてあんまり頭がついていっていなかった。
ぼんやりと歩いていき、丘の天辺から公園を見下ろす。


そして、今度こそ本当に言葉を失った。


「あぁ、まだ造ってる」
「さっきからずっとああなんだ」
「明日に見せるから、朝に仕上げるって言っていたのにね」
「さっき突然やって来て、黙々と造り続けているんだよ」


そんな子供たちの声もよく聞こえない。
アレンは掴んだ手すりを無意識のうちに握り締めた。
眼下にはがいた。
スコップも使わずに手で雪を掻き集めて、それを盛り、形を整えてゆく。
白い息を吐き出しながら、何かに取り憑かれたように機械的に動いている。
一心不乱に造り続けている。


それの形は巨大な円だった。
直径はどれくらいだろう。
アレンと神田とラビが手を繋いで腕を広げても、まだあるんじゃないかと思う。
上には様々な物が乗っかっていた。
一番に目立つのが縞模様の入った長細い円柱。数は二十数本。頂上には炎を模したものが宿っている。
それらの間には三角形の物体があった。きっとあれだ。アレンの大好きな、真っ赤な苺。
あとはが勝手につけたオプションだった。
あの花はアレンがプレゼントしたコサージュと同じ。
クマのぬいぐるみはその横に、首にリボンを巻いて座っている。
薔薇は香ってきそうにたくさん咲いていた。
そして並々と盛られたクリームの真ん中に鎮座した、大きな大きなプレートにはこう書かれていた。




“Merry Christmas & Happy Birthday!!”




あぁ、もう、誰がどう見てもあれは僕への贈りものだ。
随分と昔に自分が彼女にあげたもの。
それよりもずっと美しくて大きくて素敵な、雪で出来たバースデイケーキだった。


「神父さま、25日が誕生日なんでしょう?」
「あんな大きなケーキがもらえるなんていいなぁ」
「でも食べられないね」
「ていうか、あんなにたくさんはお腹に入らないだろ」
「それにすごく綺麗だから、食べたりしたらもったいないわ!」


子供たちがはしゃいでいる。
笑いながら手すりにしがみついてを見ている。
アレンだけが微笑むことも忘れて、彼女と彼女の手から造り出される物を、瞳に映し出していた。


「いつから……」


声を出すと変だった。
それでようやく自分が泣きそうになっているのだと気が付いた。


は、いつからあれを?」


問いかければ我先にと答えてくれる。


「もうずっとだよ」
「何日も前から、ずーっと」
「毎日毎日、いっしょうけんめい造ってたよね」
「神父さまにはナイショねって。だから僕たち、今まで公園には来ないでって言ってたんだ」


ごめんね、と謝られた。
それに首を振ってやった。
謝罪するべきは子供たちでもでもなく、アレンだった。
だから彼女は雪像のことも、ウィリアムのことも、自分には話さなかったのだ。
否、話せなかったのだろう。
何故かはもう考えなくてもわかる。
そう、というのはいつもこうで。
アレンはトランクの内側に結ばれていた、薄っぺらなリボンを思い出す。
彼女は自分のあげたちっぽけな幸せさえ大切に取っておいて、お返しにこんな大きな喜びを与えてくれるような人間なのだ。
胸が熱い。燃えているようだ。
焼き殺されそうになって、アレンは言った。


「みんな」


一斉に見上げられるのを感じる。


「みんなだけで、下まで戻れるかな」
「え?大丈夫だけど……」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「神父さまも一緒に行こうよ」
「ねぇ、シスターが待ってるわ」
「うん、だから……」


アレンはそこでようやく微笑むことができた。


「今すぐのところへ行ってくるよ」


ごめんね、気をつけて下りてきてねと思う。
アレンは言うが早いか、片手のトランクを放り出す。
そして掴んでいた手すりに飛び乗ると、そこから一気に身を躍らせた。


子供たちが悲鳴をあげた。
けれど途中から歓声みたいになる。
アレンはそれを後ろに聞きながら、遥か下の地面を目指す。


そこにいる、の元へと。




















子供たちの声に反応したのか、空中にいるうちからはこちらを振り返ってきた。
驚いたように金色の眼を見開く。
肩を持ち上げるように体を強張らせて、けれど腕の力は抜けたのか抱えていた雪の山をどさりと落としてしまった。
その間にアレンは地上に辿り着く。
膝を使って衝撃を和らげて、きちんと着地をしてみせる。
背筋を伸ばしてと向かい合った。
その姿を真正面から見た途端、アレンは思わず言ってしまった。


「ひどい顔」


金髪は濡れたままなのかボサボサ。
寒さで鼻の頭が真っ赤だ。
目も腫れていて、何だかすごい様子だった。
服装も着込めるだけ着込んだというような膨らみ具合だったし、マフラーの巻き方だっていい加減すぎる。
呆れた視線で全身を眺め回してやった。


「百年の恋も冷めそうな格好だね」


元がいいだけに、そう言いたくもなる。
するとの表情が情けない感じに歪んだ。


「さ、冷めた……?」
「まさか」


何も考えずに即答して、そんな自分に苦笑した。
答えを聞いていなかったのか、どん底まで落ち込んでいるの傍まで歩いてゆく。
速度を落とさずそのまま抱きついた。
がよろけて数歩後ろに下がる。
アレンは構わずに腕に力を込めてみせた。


何を言えばいいんだろう。
何て言えばいいんだろう。
ただ、が愛おしくてどうしようもなかった。


「なんか、もう」


とりあえず彼女のぬくもりを感じていたい。


「わからなくなってしまったよ」
「……何が?」
「いろいろ。僕は今も昔も、君のことになると必死すぎてよくわからない」
「わからないの……?」
「今更、考えたって答えは出なくって。自分を疑うばかりみたいだ」


の優しさにつけ込んで、他に持っていたもの全部を人質にして、彼女を手に入れたのかもしれない。
不器用な僕は、そうやって愛を得ようとしたのかもしれない。
それは今ではもう、わからなかった。


「けれど、ひとつだけ確かなことがある」


アレンはそこでを解放した。
距離を取ってきちんと見つめた。
何だかとても寒く感じる。離れてみればどれほど彼女が暖かい存在なのかを思い知る。
僕は君がいないと本当に凍えてしまうよ。


「愛してる」


何だかすんなり言葉が口から飛び出した。
とても素直な気持ちだった。
同時に死にそうなほど胸が焦がれた。


「僕は君が好きだ。何よりも大切で、誰よりも想ってる。それだけは、今も昔も同じだ。僕は自分を疑っているけれど、この気持ちだけは嘘じゃないよ」


この世のどんなことよりも確かだと、胸を張って言える。


「僕は君という人間に取り入って、その愛を得たのかもしれない。他を全て捨てることで、自分の傍に縛り付けたのかもしれない」


が泣きそうに首を振ったので、両頬に手を添えてそれを止めた。
今はいい。
黙ってじっと聞いていて欲しい。


「打算でもって君を手に入れた卑怯な男かもしれない。……嫌われても仕方ないと思うよ、でも」


息をするのも辛い。
ただを瞳に映しているから続けられる気がした。
終わるのなら、死ぬのなら、彼女の手でとどめを刺してほしかった。


「君が好きだ。愛しているよ、


皆がこの声を聞けばいいと思った。
も神も悪魔も人間も自然も、全てが僕の気持ちを思い知ればいい。
そうしないと、もう僕のちっぽけな胸には納まりきらない。


「その優しさにつけ込んだのなら、それは君に受け入れてほしかったからだ。その甘さに縋りついたのなら、それは君が欲しくたまらなかったからだ。“僕”なんてどうでもよかった。意地も外聞も放り投げた。僕は僕の持っているもの全部を、君を手に入れるために使ったんだよ」


この気持ちが、世界の真理みたいになればいいのに。
愛してる愛してる愛してる。
僕は、君を、愛してる。


「みっともなくて、どうしようもない愛だ。君はもう選ばなくてもいい。くだらないと切り捨ててもいい。そんなことはできないと知っているけれど、どうか」
「いや」


が震える唇で囁いた。
手を持ち上げてアレンのそれに重ねてくる。
泣き出しそうなのは見なくてもわかっていた。
雰囲気で察せられた。


「やめて。もう言わないで。さよならみたいな言葉を口にしないで」
「駄目だ。僕たちは一度終わりにしないといけない」


そうでなければ本当に壊れてしまう。


「疑いを持ってしまったのなら、もう続けられない。それでは嘘になる。騙し合うことになる」
「それでもあなたを失いたくないと言ったら!?」


が叫んだ。
声は悲痛に掠れていて、アレンは絶望してしまいそうになる。
いつだって、彼女の苦しみは自分の苦しみだった。


「あなたはひとりで納得してそう言うけれど、私は嫌よ。絶対にいや」

「もういい。何だっていい。そんなことは少しも思っていないけど、あなたが私を騙していたというのなら、それでいい。私の性格とか浅はかさとかを利用していたのだとしても、それが何だって言うの」
、駄目だよ」
「私は怒ってない。許す以前に、そんな権利は放棄してる」
「そんなことを言わないで」


アレンは優しく宥めるけれど、は聞いてくれなかった。
腕をまわしてくるからそっと避けた。
瞳の奥から涙が浮かびあがってくる。
その金色で睨みつけられた。


「だったら今度は私がするわ。あなたの甘さにつけこんで、拒絶できないようにする。優しさに縋り付いて、傍にいてもらう。あなたがひどいって言ったこと、私が全部してあげる」
「駄目だ」
「あなたが私にそうしたと思っているのなら、それでお互いさまになるじゃない」
「そんなことに意味はない」
「アレンも思い知ればいいのよ。今までのこと全部、怒るようなことじゃないんだって。私の立場になればわかるはずでしょう?」


もうアレンは答えなかった。
黙ったまま首を振った。
は何だか愕然と目を見開く。
アレンを見て、見つめて、それから堪えきれなくなったように視線を落とした。


「私がいいって言ってるのに、どうして勝手に罪悪感なんか持つのよ……っ」
「それこそお互い様だろう。僕は君と生きることを苦だとは思っていない。自分で選んだことなのに、君は今でも、在りもしない僕の別の未来を悔いている」
「それは確実に私が原因でしょう……!」
「平行線だよ、。僕たちは今更、昔の自分たちを責め合っている」


結論は出ない。
出るわけがない。
それこそミランダのイノセンスでも、時は戻りはしないのだから。


「過去の真実は過去にしかない。あの頃の僕たちに委ねるしかない。だから」


アレンはの頬から手を離して、その上に重ねられていた彼女のそれを取った。
手袋がびしょ濡れだ。
ずっと雪を触っていたのだから当たり前か。
アレンは場違いにも少し笑ってしまった。


「手、かじかんでるんじゃないの」
「……わからない」


は俯いたまま答えた。
アレンと違って笑ったりはしなかった。


「感覚がないの」


そう、と頷いて、の手袋の下に自分の手を滑り込ませる。
ぬくもりを与えるようにしながら脱がせてやった。


「ねぇ、


アレンはそっと目を伏せた。


「過去の僕たちを信じよう。あのときに出した答えが、あのときの真実だったのだと。そして今は、今だけの真実を見つけなければ」
「だから、さよならを言うの」


の声は淡々としていた。
泣いてはいなかった。
口ではそう言っても、彼女は他人に縋り付かない。
縋り付けないのだ。
強がりで、意地っ張りで、アレンから甘やかしてやらないと、ろくに素直になれやしない、小さな女の子のままなのだから。


「私たちは、ここで終るの?」
「そうだよ」


肯定するアレンのほうが倒れそうだった。
不安と恐怖で立っていられなくなりそうだった。
足元が覚束ない。
初めて想いを告げたときも、ここまで怖くはなかった気がするのに。
アレンは一度唇を噛んで、それから言った。


「ここで終って、もう一度はじめよう」


するり、と握っていたの手を離した。
彼女はしばらく気がつかなかった。
黙ったまま下を向いていて、けれど不意に肩が揺れる。
ゆっくりと腕を持ち上げて、自分の左手を見た。


感覚のなくなったその薬指に、銀色に輝く指輪を発見した。


「結婚しよう」


アレンは言った。
声は自分では普通に聞こえたけれど、口から心臓が飛び出しそうだった。
あぁもう本当に自分を殺せるのはだけな気がする。


「過去を疑っても、もうどうしようもないから。どうか今からはじめさせて。今の僕を全て使って伝えるから」


がアレンを見上げた。
呆然としているようだけど、瞳が揺れている。
涙のせいで、そう見える。


「君の優しさには甘えない。君のぬくもりには縋らない」


言いながらアレンは数歩下がってから離れた。
何にも頼らずに起立してみせた。


「たった一人の男として言うから」


本当に今更な話だけど、もし過去の僕が打算的な馬鹿でも、現在の僕は違うのだと証明させて。


「僕は君が好きだ。馬鹿なところも、突拍子のないところも、感動屋なところも、初めて作った料理が死ぬほど不味いところも、苦手を克服しようとこっそり……いやバレバレなんだけどね?一生懸命に頑張っているところも、何かもう正直欠点多いと思うけど全部好きだよ」


何だかこれ以上続けると延々とけなしてしまいそうなので無理やりまとめた。


「好きだよ」


その言葉にだけ気持ちをこめた。


「僕は孤児だったから家もお金もないし、家族もいない。顔に目立つ傷があるし、左手は異形だ。性格もまぁ良くないことは出逢った途端に言い当てられていたよね。だから一緒にいてたくさん喧嘩をするだろうし、いっぱい迷惑もかけると思う」


今までだって実際にそうだった。
神田やラビもかなり巻き込んできた気がする。
くだらないことで腹を立てて、本気で怒って、でも絶対に嫌いにはなれなかった。


「僕を選んでも、君には何の得もない。けれど……」


少しだけ笑えたらいいな。
の好きな笑顔を浮かべられたらいい。
アレンは自分自身に願った。


「世界中の誰よりも、僕は君のためなら、何だってできるよ」


それこそ何だって、と思う。


「君がいるのなら他は何もいらない。仕事も住む場所も選べなくていい。……まぁ、全部君がよくないと嫌だけど」


だってに苦労をさせるのは御免だ。
これは男として当然だろう。


「今は」


アレンはだけを見つめて言った。


「ただ、君を縛り付けたいからじゃなくて、君と共に生きたいからそう思ってる。だからそのことでは気に病まないでいて」


金色の瞳は昔から見慣れていて、けれど何だか初めて見る色みたいに輝いている。
こんなときだからかな。
それともはいつだって新鮮な、心の炎を持っているからかな。


「僕の未来は君と一緒じゃないと欲しくはないから。それ以外のものを考えて、嘆いたりしないで」


手を伸ばして触れてしまいたい。
抱きしめて、受け入れてと懇願してしまいたい。
けれどそれは自分自身で許せないから、アレンはその場から動かなかった。
指一本、に触れたりしなかった。


「そして君にも、僕と一緒の未来以外は、欲しくないと言って欲しい」


他は全て拒絶して、この手を取って欲しい。


「好きだよ、。心から愛してる」


唇に乗せた言葉は、きっと彼女に捧げるためにこの世に存在していたのだ。
アレンはそんな勝手な確信を持って、へと告げた。




「どうか、一生を共にして。僕と結婚してください」




声は大きくはなくて、けれど世界に響き渡る。
それは過去に抱いた互いへの疑いも、今まで続いてきた彼女の運命も、これからだってある自分のふがいなさも、全部ぜんぶひっくるめての告白だった。
これ以上、勇気のいる言葉はこの世にないと思う。
頬が高揚している。
喉が細かく震えている。
酸欠になりそうだ。
もっと格好良く決めたかったのに、台詞もいろいろ考えていたのに、いざとなると全部が全部吹き飛んでしまった。
でも、本当に心からの言葉だ。
どれだけ飾り付けても、それでなければには届かない。


沈黙は殺されそうになるほど長かった。
アレンはずっとを見ていた。
もアレンを見つめたままだった。
彼女の表情に変化は訪れない。
何だか居た堪れない気持ちになってくるほど、延々と硬直している。
けれど、アレンが少し逃げ出したくなってきたところで、それが嘘だと気がついた。


今まで徐々に溜まっていたらしい涙が、そこで一気にこぼれ落ちたからだ。


あまりにぼろぼろと泣き出したので、今度はアレンが硬直した。
だっての号泣とか、付き合いが長いのにまだ数回しか見たことがない。
というか、無表情で、目を見開いたまま、泣かないで欲しい。
ちょっと怖いから。


「なんで」


が呻いた。


「何で今言うの」


ええー、そこから駄目出しですか。
相変わらず言動が読めないである。
固まったままそう思うアレンの前で、彼女は目元を覆ってしまった。


「こんな……、こんなひどい顔のときに……」
「あぁ、うん!女の子には重要だよね……」
「エミリアが言ってた。プロポーズされるときは雰囲気で察して、完璧に綺麗に整えてから受けたいわよねって」
「ごめん……今の君、完璧どころかボロボロだよね」
「ボロボロよ……」


ああああ、何だかすごく肩が強張ってるし、息が苦しそうだし、全身が震えているから抱き締めてあげたい。
でも今は駄目だ。まだ触れられない。
も同じように思っているようで、必死に一人で立ったままでいた。


「なんで」


またが呻いた。


「何でアレンはこんな女が好きなの」
「何でって」
「正直、何度聞いても理解できないわ。あなたは私なんかを選ばなければ、もっと穏やかに生きていけるのに」


は顔を覆っていた両手を握り締めた。
寒さで動きにくくなっているそれを固めて、ふいに左手へと視線を落とす。


「多くの苦しみを味わってきたあなただからこそ、これからはそんな人生を送るべきなのに」


神に取り憑かれて、悪魔も見捨てられなくて、自分すら見失いそうになって、それでも必死にあの戦争を戦い抜いてきた。
だからこそ、もう静かで平凡な生活を手に入れるべきだと。
はアレンにそう言いたいようだった。


「私は異端者よ。もうずっとそうなの。あの人たちは私を逃がさない。好きになど生きていけない。永遠に見張られて、縛られて、苦しむことになる」


はアレンに向かって左手を差し出した。
掌を上に向けている。
そこにはナイフを握りこんでできた傷が、深々と刻まれていた。


「私の手は血まみれなの」


それは贖いきれない罪の証。
そして手を翻して甲を見せた。


「あなたはそんな女に指輪をはめるの?」


の肌を汚す赤、その指に場違いに輝く銀色。
アレンはそうだよと言いたかった。
他はいらない。他なんてない。
君以外は本当にどうだっていいんだ。
けれどはアレンに口を開かせなかった。


「私はこの指輪を受け取れない」


彼女の瞳はずっと、自分の手に宿る銀色に落とされていた。


「あなたは私のために、何ひとつ捨ててはいけない。全部ぜんぶ持って、未来へと歩いていって、そこで幸せにならなければ」


君がいなければ無理だよ。
アレンの叫びは声にならない。


「誰よりも、幸せにならなければ」


の右手が左の薬指にかかる。
あぁ、指輪を引き抜いて、こちらと突き返されるのかな。
そうしたら、本当に、僕は酷い男になってしまいそうだよ。


「そう言わなければいけなかったのに……っ」


アレンは目を見開いた。
彼女の手は指輪を外そうとはしなかった。
それに爪を引っ掛けたけれど、震えるばかりでどうにもできない。
金の瞳に映った銀色が、雫になってこぼれ落ちた。


「何故こんな酷い女を好きになったの……っ、あなたの可能性を全部潰してしまうような人間を、困難ばかりが待ち受ける運命しか持たない異端者を……!」


が叫んだ。
嗚咽が聞こえる。
本当にこれ以上ないまでに泣いているのだと知ると、アレンは愕然とした。
こんな彼女を見たのは初めてだった。


「どうして?突き放さなければいけないのに。拒絶しなければならないのに。あなたは私が優しいから裏切れないのだと言ったけれど、そんなのは違うわ」


は強く首を振って目を閉じた。


「逆なのよ。本当に相手を想うのなら、受け入れてはいけない。その手を取ってはいけない。あなたの幸せのために、私は消えなくてはいけない!!」


アレンは後悔しそうになっていた。
自分はに何てことを言わせているのだろう。
彼女が今まで心の内に秘めていた苦しみを、こんな風に吐露させてしまうなんて。
けれどアレンがを開放して、もう一度手に入れるために言葉を紡いだように、彼女もまたそうしなくてはいけないのだ。
でなければ二人は本当に終ってしまう。
後悔しては、いけない。


「“それなのに”さよならを言えないのか……。“だから”この指輪を外せないのか……。私にもわからない」


が面をあげた。
本当にひどい顔だった。
ぼろぼろに泣いて、頬を真っ赤にして、唇が震えている。
とても不細工で、何より綺麗だと思った。


「わからないわ、アレン」


僕の愛する人は、この世で一番醜くて美しい。


「それでも私、今、うれしくて」


また涙の勢いが増した。
子供みたいに泣いて、右手で拭っているけれど全然追いついていない。
しゃくりあげながらは言った。


「し、幸せで、死に、そう……な、のっ」


今までさんざん思い知ってきたことだけど、というのは本当に泣かない人なので、今の状況はかなり特殊だった。
おかげでアレンはどうすればいいのかわからない。
一緒になって泣いてしまいたい気分だ。


「もう……っ、なんで、ほんとに、こんなひどいおんなが好きなのあなたは!!」


そんなのたぶん君が君だからだと思うよ。
当たり前みたいにそう考えたら、本当に涙が出そうになった。




「私は、わたしじゃなくて……っ、アレンに、なによりも、だれよりも、幸せになってほしいのに……!」




「だったら」


もう何も考えられなかった。
アレンはに手を差し伸べた。
自分からは触らない。それだけは破らない。
何故なら今こそ孤独に耐えなければ、“ふたり”には戻れないのだから。


「だったら、


どうか、お願いだから。




「今すぐ僕を幸せにしてよ」




この手を取って、よ。




その瞬間、が地面を蹴った。
指先と指先が触れると同時に、彼女の小さな体が飛び込んでくる。
アレンはそれを全身を使って受け止めた。
きっと自分という人間はを抱きしめるために存在していて、腕は抱きしめるために、脚は支えるために、唇は愛を囁くためにあるのだと思い知った。
それがどんなに馬鹿な勘違いでも、今このときだけは、絶対にそうだった。
神にだって否定させない。
悪魔にも覆させやしない。
触れ合ったぬくもりが、この想いが真実なのだと鮮明に伝えてくれる。





きつく抱擁する。
アレンは震えを殺すように頬をの側頭部に押し付けた。
目を閉じると涙が一粒、彼女の肩に落ちていった。
抱き合ったまま左手を掴んで持ち上げる。
ほんの少しだけ離れて瞳を見つめた。


「これは」


の細い左薬指に輝く指輪を示してみせた。


「12個目のクリスマスプレゼントで、君への誕生日プレゼントで……、僕の心のからの気持ちだ」


そっと持ち上げて、軽くキスを落とした。


「受け取ってくれるね?」
「……あなたはもうわかっているでしょう?」


の涙は止まらない。
こんなに泣いたのはほとんど初めてだろうから、止め方がわからないのかもしれない。
それでも彼女は微笑んでくれた。


「優しさだとか、拒めないからだとか、そんなじゃないわ。私は私の気持ちだけで、自分勝手に選んだの」


も指輪にちゅっとしてみせる。


「私が、あなたの……あなただけの手を取りたいと願ったのよ」


距離が近づいた。
の長い睫毛が揺れて、金色の瞳に自分が映りこむ。
涙を流しながらも微笑んだ唇が、アレンに告げた。




「愛してるわ、アレン。……私をお嫁さんにしてくれる?」




ねだられていることは知っていたから、アレンは言葉で返さずにに口づけをした。
相変わらず甘えるのが下手くそだ。
そんなんじゃ、僕以外には伝わらないよ。
けれど、君は、それでいい。
ずっと、そのままでいい。


その瞬間、街中に鐘の音が鳴り響いた。
午前0時を告げる時の歌声。
同時に公園の中心で、一斉に光が灯された。
照らし出された銀世界に、人々が歓声をあげる。
雪が舞う。光が踊る。誰もが笑顔で、皆が幸せを知っていた。
世界は美しい。愛する人が目の前にいれば、それだけで何もかもが煌めいて輝く。微笑み合いながら、生きていける。
もしかしたら、人間ひとは、それだけでしか、生きていけないのかもしれなかった。


「……昔、絵本で読んだわ」


唇を離せばが囁いた。


「女の子の夢はね、一人残らず“幸せな花嫁さん”なんだって」


あぁ、だから先刻の問いかけだったのか。
アレンは納得して、それでも少し首を傾げた。


「“幸せな”お嫁さんにしてくれる?って言わないの」
「あぁ、それはいいの」


何だかあっさり言われたのでちょっとむくれる。
けれどは本当に幸福そうに微笑んだのだった。


「幸せには、してもらうんじゃなくて、二人でなりましょう!」


言葉と同時に唇を奪われた。
こんなときまでで、アレンはいろいろと情けない気もしたけれど、彼女を愛しているのでどうでもよくなった。
細い腰を抱き寄せれば、首に腕を回してくれる。
触れるぬくもりが心地良い。
これひとつさえあれば、絶望も苦痛も怖くないのだと、改めて実感した。


「ありがとう、アレン」


は自分の薬指にはまっている指輪を本当に大切そうに掌で包んだ。
それからアレンと手を繋ぐ。


「お誕生日、おめでとう」


まだ少し泣きながらそう言うから、アレンは彼女の頬を指先で拭ってやった。


「君も。お誕生日おめでとう」


「「「「おめでとう!」」」」


そこでそんな復唱が聞こえてきたから、アレンとは吃驚して振り返った。
視線の先には寒さで顔を真っ赤にした子供たちがいた。
ようやく丘の上から戻ってきたらしい。
男の子も女の子も、手を取り合って、笑顔で言ってくれる。


「おめでとう」
「おめでとう!」
「神父さま、おめでとう!!」


きっとこの子たちは誕生日のことだけを言っているのだろうけれど、アレンは何もかもを祝福されている気分になって微笑んだ。


「……ありがとう」


世界中に告げたかった。
こんなにも、生まれてきてよかったと思った日は他になかった。
胸に光が満ちている。
そしてアレンの幸せは、手を繋いで、心を繋いで、そこに存在してくれていた。


「あのとき、あなたがくれたものよ。雪で出来た誕生日ケーキ」


が自分の力作を見上げる。
子供たちが周りを取り囲む。
聖なる夜を彩るのは、イルミネーションと星と雪、そして笑顔。




「Merry Christmas & Happy Birthday!!」




心を、体を、魂を、鮮やかに染め上げる、愛する人の微笑だった。
アレンは堪らなくなってもう一度にキスをした。




どうか、これから先も彼女の瞳に僕と同じものが映りますように。
煌めく世界、祈りの雫、幸せの在処はしか知らない。
アレンは金色の光を抱きしめた。二度と離しはしないとこの世の全てに誓う。




そしてその左薬指に、自分の色を永遠に刻み込めたことを、心の底から幸福に思ったのだった。