あぁ、あぁ、お願いだから。
そんな優しいばかりの温もりでこの心身にあますことなく貫いて、ズタズタにして、抉るように抜き去っていかないで。いかないで。いかないで。

行かないで。







● 蝶と口づけ  EPISODE 15 ●







嫌な匂い。
すんっ、と鼻を鳴らしてロードは視線を投げた。
ティーン向けの雑誌から目を逸らしつつ、可愛らしい眉をひそめる。
そして頬張っていた棒付きキャンディーを口から離すと、嗅覚を刺激する匂いを誤魔化すようにその甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「ボクのお菓子タイムを邪魔するなんて、イヤな奴ぅ」


赤い舌を出してぺろりと甘味を舐め上げる。
すると部屋の奥から同意の声があがった。


「確かにくっせぇの」
「ひどい匂いだね。ヒヒッ」


振り返るでもなくそこにいるのはデビットとジャスデロの双子で、ロードと同じように本から顔をあげたようだった。
といっても二人は読むというより眺めているだけで、それも拷問の道具がイラスト入りで掲載されているオカルト冊子をだ。
彼らは今度はこれを想像して実現させようぜーと楽しそうに話し合っていたのである。
ゴシック調の室内には机とソファーが何脚か。壁は本棚と額縁で埋まっていた。
ロードのお菓子とジャスデビの玩具が散乱しているため、チェス盤のような床はほとんど見えない。
ノアの一族だけが出入りできる異空間で、三人の子供は口を揃えて「臭い」と言った。


「お菓子の甘ーい匂いが台無しだよぉ」
「誰だよ、こんな匂いさせてんの」
「ヒッヒッ、デロも何だか暴れたくなってきた」


ロードとデビットは不満を口にしたが、ジャスデロだけは声をあげて笑った。
すると同調して他の二人もニヤリと唇を吊り上げる。
年端もいかない少年少女ではあるが、彼らは正真正銘ノアの一族だった。


「だよねぇ。こぉんなに血臭をぷんぷんさせちゃって」
「オレも殺してぇなー。特にクロスとかクロスとかクロスとか」
「誰が帰ってきたのかな。どれだけ殺ってきたのかな」


ドロドロウキウキし出した双子を見やって、ロードはこっそり吐息をつく。
血の匂いは嫌いではないが、お菓子の香りを損なわれては迷惑だ。
それに触発されて殺人衝動が沸いてくる。
人を殺すとなると外出をしなくてはいけない。今日は千年公と遊ぼうと思っていたのに、面倒だ。
ああ二人で楽しく惨殺しに行けばいいのかぁ、と素敵なことを思いついたところで、扉が外側から開かれた。
入ってきた長身の名をロードは呼ぶ。


「ティッキー」


“お帰り”といつも通りに挨拶しようとして、思い切り吹き出した。


「キャハハハハ、何その格好!!」


ロードが爆笑するのも無理のないほどティキの様子は凄まじかった。
仕立てのいい服はボロボロ、髪は乱れまくって、シャツの色は真っ赤だ。
もともと服装に気を遣うほうではないが、ここひどいのは初めてのことだった。
彼は人間の血で汚れるのを好まず、殺すとしても綺麗に始末するのが常なのだ。
だからこんな血まみれの姿は珍しいことこのうえない。
ジャスデビも腹を抱えて笑い出す。
彼らはロードと違い、馬鹿にした色を含んで言った。


「だっせぇの、バカティキ!!」
「しかもいろいろ欠けてるし!ヒヒッ!!」


双子が指摘した通り、ティキには欠陥が見られた。
左腕がない。
片脚がえぐれている。
その他にも肩や腹の肉が吹き飛んでいて、下手なホラー映画より恐ろしい雰囲気だ。
けれど彼はいつもの口調で返す。


「うるせぇよチビ共。ちょ、ロードそこどいて」
「なんでぇ?」
「寝たい」


ティキは落ちてくる髪を掻きあげてソファーまで歩いてくる。
そこに座っていたロードを手で追い払うと、ごろりと寝転がった。
高価な布地に血が染み込み、床にまで滴ってゆく。
彼は大きく息を吐いたけれど、安息には程遠く、双子にソファーを蹴り飛ばされた。


「おい、部屋が汚れるだろ!」
「ヒッ!血ってなかなか取れないんだよ!千年公に怒られる!」


笑いと非難を込めてガタガタ揺するが、ティキは何も言わなかった。
反応がないのでますます双子の攻撃は激しくなる。
ロードも参加したくなって、横たわったティキ腹の上に飛び乗った。
途端カエルを潰したような声があがる。


「あはっ、変な声!ねぇティッキー、そんなになってどうしたのぉ?」
「………………」
「ねぇってば、教えろよぉ」
「………………」
「ねぇねぇ、……」
「………………」
「ティッキー?」
「………………」


そこでようやくロードは気が付いた。
口を閉じてゆっくりと目を見張る。
ティキの傷口に指を這わせれば、徐々に笑顔をが消えていった。
彼女は馬乗りの状態から素早く床に降り立ち、片手を持ち上げる。


「やめて、ジャスデビ」


いまだにソファーを蹴りまくる双子を制止した。
その声の調子と表情に、彼らはぴたりと動きを止める。
本能で感じたのだ。
自分達の長子が冗談でもなくそれを求めていることを。


「……ロード?」


デビットが眉をひそめながら呼ぶ。隣のジャスデロも首をかしげていた。
ソファーに横たわって小さく荒い息を繰り返しているティキを、ロードの双眸が見下ろす。


「ティッキー本当にやられてる」
「え……」
「ホントに?」


本当に重症だと言うのか。
どうせすぐに回復するだろうと思っていたジャスデビは、揃って目を見張った。
ティキを見れば肌を裂かれ、腕をもがれ、脚を吹き飛ばされて血が出てる。
それが痛みの伴うものだとしたらノアたちの想像を絶した。
何故なら最強を誇る肉体を持っているからだ。
今まで一度も苦痛に苛まれたことなどない。
ティキを真っ赤に染める赤は、この凄まじい匂いは、殺した相手ではなく彼自身のものだというのならば、もう馬鹿にした態度には出られなかった。


「嘘だろ?なんで?どうして再生しないんだ?」
「ヒ、ヒッ……。デビット、見て。傷口が炭化してる……」
「細胞から破壊されてるんだよ。ここまでされちゃ、さすがにすぐには元に戻せない」


ロードは淡々と告げた。
ジャスデビは思わず黙り込む。
目の前の同族の惨状も言葉にならなかったのだが、すぐそこに立った少女の気配が恐ろしかったからだ。


「ティッキー」


ロードはまったくの無表情だった。
いつも薄い笑みを浮かべている唇が、硬質な声を吐き出す。
わずかに見開かれているようにも見える暗紫色の瞳が、じっとティキを見据えていた。
もはや語尾を伸ばした口調もなく、彼女は静かに問いかける。


「誰にやられたの」


次の瞬間、哄笑が巻き起こった。
ジャスデビは本当に驚いてびくりと肩を揺らす。
さすが双子だけあって、まったく同じ動作で身を縮ませた。
笑い出したのはティキだった。
ソファーに寝転んだまま、血を垂れ流したまま、声をあげて笑っていた。


「訊かなくてもわかるだろ?オレをここまでにできる敵はそういない。お前のお気に入りだよ、ロード」


目元を覆っていた掌をずらして少女の顔を拝んでおく。
その表情を見て愛されてるなぁと実感する。
我が家のお姫さまは本当に家族想いの良い子だ。


「ちなみに可愛いほうだ」


少年じゃないよ、と言えば即座にロードは理解したようだった。
けれど彼女より早くジャスデビが声をあげる。


「「か!!」」


異口同音にその名を叫ばれて、ティキはまた笑った。
けれど笑うどころではない双子が憤慨した調子でまくし立てる。


「抜け駆けしたのかよ!アイツを殺すのはオレらだって言っただろ!!」
「ずるいずるい!はジャスデビの獲物!!」
「無理だよ。お前らじゃ返り討ちにあう」


地団太を踏む子供達にティキはいっそ優しくそう忠告した。
即座に反論と罵倒を浴びせられたが、手で自分の状況を示してやれば語調が弱くなった。
ティキはいまだに笑いながら続ける。


「本当に殺されるぞ。あのお嬢さん、おっかなすぎる。ノアの肉体を破壊する能力を持っていやがった」
「……ヒッ、それで」
「アイツにやられた結果がそれかよ」
「そうだよ」


隠すでもなく頷いてやる。
ジャスデビも、もうダサいだの臭いだの言うわけにはいかなかった。
あの娘が相手ならば手こずるのも頷けるのだ。


「でも、ここまで……」


“ノア”がやられるなんて。
言葉の続きをデビットは呑み込んだ。
言わなくても伝わっているジャスデロも言葉を失くしている。
ティキは傷が痛むのも、息が切れるのも構わずに、延々と笑い続けていた。


「あぁ愉快だ。最高の気分だよ。あんな人間がいるだなんて」
「やられたくせに嬉しそうだね、ティッキー」


ロードが言った。
彼女の口元には笑みが戻っていたが、見るものに恐怖を与えるような様子を見せている。
ティキは笑顔で肯定した。


「ああ。今度こそ本気で惚れたかもしれない」
「ふぅん……」


ロードは片手を持ち上げると、自分の唇を撫でた。
小さな舌でちろりと舐める。
そしてティキに微笑み返した。


「じゃあ、ますます殺すのが楽しみになったねぇ」
「本当にな」


それは求愛と等しかった。
肉体を、精神を、跡形もなく己のものにする方法。
最高の略奪愛。
世界の全てから欠片も残さず存在を奪い去る行動だ。


ティキは狂おしいまでに笑いながら、自分の胸元を押さえた。
に刺し貫かれた心臓が痛い。
ノアの体ではこの傷もいつかは癒えてしまうだろうけれど、ずっと忘れずにいようと思う。
激しい感覚は思考を薙ぐ嵐。苦痛と快楽に酔いしれる。
脈打つような痛みはまるであの少女自身のようだった。


「胸に傷だなんて、お揃いだな。お嬢さん」


瞳を閉じながらティキはへと囁いた。
その微笑をロードが見ていた。
どこまでも闇に似た紫の瞳を細める。


舌舐めずりは狂喜を味わうかのように唇からこぼれ落ちた。




















「冗談じゃないよ」


寒さに身をすくめたドリーがぶつくさ言った。
この季節の朝は冷える。まだ陽も昇りきっていないのだから、ますます肌が粟立つようだ。
ショールを肩に巻きつけながら、『カフェ・イグナーツ』の店長は眼前を睨みつけた。


「何だってそんなに急いで帰らなきゃいけないんだい」


店の前に仁王立ちになって何度もそう文句を言われるものだから、は荷物を地面に下ろした。
最後の掃除もゴミ捨てもアレンにやらせてしまったので、二人分のトランクを運び出したところだ。
それも見つかって怒られたのだけど。
片手で労働するには確かに辛かった。
骨が砕けた右腕はきつく固定され、三角の布で吊ってある。
脚も関節を破壊されていたからいまだに引きずってしまうほどだった。
裏から戻ってきたアレンは左眼に包帯を巻いているし、二人とも病院にいなくていいのかと思うほど壮絶な怪我人ぶりだ。
は痛む頬を引き攣らせながらもドリーに笑いかけた。


「こんな状態では働けません。タダ飯食らいはいらないでしょう」
「わかったような口を叩くんじゃないよ。そういう問題じゃない」
「これ以上、ご迷惑をかけたくないんです」
「今更だね。……違う。私が言いたいのは、その体で今すぐ戻って来いっていうのはどういう了見だってことさ」
「………………」
「こんな子供に無茶させて。『黒の教団』とやらは何を考えてるんだい」
「私たちは“エクソシスト”ですから」


がにっこりと微笑めば、ドリーは思い切り嫌な顔をした。
アレンを見上げても微笑されるだけだったから、大きなため息をつく。


「大体どんなやんちゃをしたらそんなになるのかね。大怪我をして帰ってくるだなんて聞いてなかったよ」
「……すみません。でも夕食には間に合ったでしょう?」


あのときの騒動を思い出してアレンは苦笑した。
ドリーは笑うこともなくぴしゃりと言い放つ。


「馬鹿言ってんじゃないよ。とても物を食べられる状態じゃなかっただろう。あの後どれだけ大変だったか。客は大騒ぎするし、村の主治医じゃどうにもできないし、隣町から医者を連れてくるには時間がかかるし……。私の手当てがなければあんた達は死んでいたよ」
「はい、感謝しています」
「本当にありがとうございました。それと、……ごめんなさい」


二人してお礼を言ったけれど、は続けて頭を下げた。
それは親しみをこめたものではなく、どこか礼儀的だった。
あの日以来はドリーと距離を置いている。
怪我のせいもあるのだろうが、エクソシストの問題に彼女を巻き込まないように間合いを測っているようにアレンには感じられた。


「まだ借金を返済し終わっていないのに、こんなことになってしまって……。お金は必ずお返しします。すぐにとはいきませんが、遠くないうちに」
「いらないよ」


ドリーは突き放すように声を投げつけた。
嫌そうに手を振ってに顔をあげさせる。


「借金はチャラだ。もうあんた達が返す必要はない」
「え……?」
「どういうことですか?」
「あのお嬢さんを覚えているだろう」


きょとんと目を見張るアレンとに、ドリーは腕を組んで続けた。


「白い花飾りの帽子を被っていたご婦人だ」
「ああ……。泥棒にあったっていう」
「盗まれた鞄を取り戻してあげた、あの……?」


顔を見合わせて思い浮かべるのは、この村にきて一番に出会った身なりのいい女性だった。
彼女のために奮闘しては借金を作るハメになり、アレンと共にドリーの元に辿り着いたのだ。


「彼女が何か?」


アレンが首を傾けつつ問いかけると、ドリーは顔をしかめて言い捨てる。


「あの人が払ってくれたんだよ。あんた達の借金を全部ね」
「ええ!?」
「何ですかそれ!!」
「おっと。文句を言うんじゃないよ。ご婦人はマリアンのために金を出したにすぎないんだから」


あの時きちんと気にしないでくれと伝えたはずなのに、金を払ってもらっただなんて困るというものだ。
すぐにでも会いにいって説得したい衝動に駆られた二人だったが、ドリーの言葉に固まった。


「は?クロス元帥?」
「何で師匠?」
「あの方は隣町の大富豪の娘なんだよ。ここを出たマリアンは彼女の屋敷に押しかけたらしい」


あぁ、と納得してアレンは言う。


「師匠はいつも、その土地で一番お金持ちの女性を口説きにいきますからね……」


何となく話の展開が読めてきてちょっと頭を抱えたくなった。
も続いたドリーの言葉に冷や汗をかく。


「マリアンはご婦人にあんた達の保護者だと名乗ったそうだ。そうしたら“代わりにお礼をさせてくれ”と大いにもてなされたらしい。そしてまんまと愛人関係に落ち着いたってわけさ」
「あ、愛人……。恋人ではなくて?」
「私は女に金を払わせるような男をそう呼ぶ気はないね。……とにかく、そういうよしみで彼女が奴の借金を一掃してくれたんだよ」
「一掃?って全部?アレン名義のものもですか?」
「いいや、さすがいくつかは残っているだろうけれど。私のところのは綺麗に片付けてくれたよ」


ほれ、と借用書を手渡されて、アレンとは二人で覗き込む。
まじまじと見つめるまでもなくそれは返済済みとなっていた。
微妙な表情で固まっていると、ドリーがティムキャンピーを掴まえて言う。


「この変なのはしばらくマリアンにくっ付いて行っていたみたいでね。婦人からのメッセージを届けてくれた」
「………………」
「マリアンと出逢えたのは、きっとあんた達のお導きだってさ。それはそれは幸せそうに笑っていたよ」
「…………、花の笑顔」


はいまだに言葉がでなかったが、隣のアレンがぼそりと呟いた。
顔をあげて見れば、彼は少しだけ唇を緩める。


「君は彼女に花の笑顔を取り戻すって言っていたでしょう。師匠が絡んでいるのはどうかと思うけど……、本当にそうしてあげたんだなと思って」
「…………、私のおかげじゃないよ」
「でも向こうはそう思ってる」


は重ねて否定を口にしかけて、結局やめた。
本当にあの女性がそう思っているのならば、水を差すようなことを言うべきではない。
それに彼女が幸せになったのならば純粋に良かったと思う。
小さくアレンに笑い返して、ドリーへと視線を戻す。


「でも、私の借金はまだあるはずです。このお店と自転車の修理代が」
「ないよ」
「店長」
「ないって言ってるだろう。あんた達はよく働いてくれた。だから、もういい」


確かに随分な労働だった。
朝から晩まで働き通した。
そうは言っても時間的には数週間だから、どう考えても返済金額までは追いついていないはずだ。
高く見積もっても三分の二程度だろう。
ドリーはもう返さなくていいと言うけれど、そんなのは少し哀しくなる。
それが優しさだとわかっていても、切なくなる。


「…………、お役に立てなくてすみません」
「妙なこと言い出すんじゃないよ。何なんだい、あんた。この間から変にしおらしくて気味が悪い」
「だって私がしでかしてしまったことです。責任を取るのが当然なのに、こんな働けもしない状態になって、温情のある計らいをしていただいて。……私は子供すぎます」
「事実ガキだろう」
「もう甘えていていい歳ではありません」
「最後くらいはいいことにしておきな」


ふいにドリーは柔らかい声を出した。
けれどがちょっと驚いた様子を見せると、たちまち叱りつけるような調子に戻る。


「そっちの主張はどうだか知らないけれど、あんた達より私は確かに“大人”なんだ。一度は甘えてくれてもバチは当たらないだろう」
「でも」
「もうぐちゃぐちゃ言うのはおやめ。…………あんた達のおかげで私は随分楽しかったんだ」


ドリーはアレンとを交互に見た。


「本当を言うと、ずっとここに居ればいいと思っていたんだよ。だってエクソシストっていうのは、危険な仕事なんだろう。いつもそんな怪我を負わなくちゃいけないんだろう。……子供がすることじゃない。まっとうな大人ならそう言うはずなんだけどねぇ」
「店長……」
「でもどうせ、あんた達は頷いてはくれないんだろう」
「……、すみません」
「いいよ。ちょっと夢を見ただけさ。これからあんた達と三人で暮らしていくのも悪くないってね」


賑やかさに触れて家族が恋しくなったのだと、ドリーは目を伏せて囁いた。
彼女は随分長い間一人で生活しているようだった。
そういえば夫や子供はいないのだろうか。
そんな当たり前のことも、アレンとは知らなかった。


「何を言ってもあんた達は帰ってしまうんだろう。それを責めるつもりはないよ。けれどね、やっぱり少し寂しいから、最後くらいは甘やかさせとくれ」
「……いつも厳しい店長らしくないですね」


ふいに胸が締め付けられるような気がして、はわざとそう言った。
けれどドリーが本当に寂しく微笑んだものだから色々なことを後悔した。


「私は自分で思っていたよりあんた達を気に入っていたってことさ」


もっとこの人と話せばよかった。一緒にいればよかった。
限られた時間の中で随分そうしてきたつもりだけど、どうしても考えてしまう。
いつも怒鳴りつけてくる声が今では本当に優しくて、はやっぱりこういう場面は苦手だと思った。
別れはいつだって心を蒼く染めるものだ。
明るく笑ってさようならをしたいのに、いつもならそうするくせに、何故だか今回は言葉が出ない。


の借金はつけておくよ。…………全部終ったら、またおいで。その時に返しておくれ。ずっと待っていてあげるから」


いつでも此処で迎えてあげるから、とドリーは続けた。
それから少し難しい顔をする。


「結局は金を返せと言っているのだから、甘やかしているうちに入るのかねぇ」
「……大甘ですよ」
「本当かい?今までのことを考えると全然だと思うんだが」
「充分です。ドリーさん」
「でも猶予期間は長くはないよ。早いとこ厄介事を終わらせて、元気な顔を見せに来な」


微笑と共にそう告げられて、アレンとは少し息を詰めた。
そして二人で「はい」と頷いた。
ドリーは満足そうな表情を見せておもむろに腕を持ち上げる。
それを広げてみせられたので、軽く目を見張った。


「何変な顔してるんだい。お別れだろう?」


言われてアレンは微笑む。
さようならの挨拶だ。
自分も腕を持ち上げてドリーを抱きしめた。
女性相手だからアレンは軽くしたのだけど、抱き返してくる手には思い切り力が込められる。
ちょっと痛い。
抱いているつもりが抱かれている気分だ。


「ありがとう」


ふいに耳元で囁かれた。
ドリーはには聞こえないように、小さく小さく言う。


「あんたがを守ってくれたんだろう」


それを聞いて、アレンはがノアに攫われたときにドリーと交わしたやりとりを思い出した。
そっと瞼を閉じて答える。


「いいえ。守り切ることはできませんでした」
「そうなのかい?それでもいいさ。何もかもうまくできるはずもない」
「………………」
「それでもあんたはのために走っていっただろう。きっとそれだけで、あの子の何かは救われているよ」
「……そう、なのかな」
「ああ、きっと」
「そうだと、いいな……」
「アレン。これからもを守ってやりな」


ドリーが何を思って自分にそう言うのか、アレンにはよくわからなかった。
何となく感じられるけれどハッキリと言葉にできない。
だから静かに身を離して、彼女の瞳を見つめて首肯した。


「はい。必ず」


するとドリーは声に出して笑った。


「あんたイイ男だよ。マリアンの弟子とは思えないね」


明るく言ってアレンの頬にキスをする。
女性にしては大きな手が白髪を掻き回して離れていった。
くすぐったい。母親がいたらこんな感じなのだろうかと思うと少し胸が痛くなった。
ドリーは今度はに向き直り、アレンにしたのと同じように大きく腕を広げて見せた。


「………………」


けれどは動かなかった。
いや、動けないというほうが正しいかもしれない。
脚は少し反応したようだったけれど、ちゃんとした一歩が踏み出せない様子だった。
むしろ自分から飛びつくんじゃないかと思っていたアレンは目を瞬かせる。
ドリーは露骨に怪訝な顔をした。


「どうしたんだい。おいで」
「………………」
「空気の読めない子だね。おいでったら」
「………………」


は不思議な表情をしていた。
何だか泣き出したいような笑い出したいような顔で、困ったように眉を下げている。
痺れを切らしたドリーが低く呼んだ。



「ごめんなさい、何だかわからないけど体が動かない」


自分でも理解できていないようで、混乱したように一気に謝る。
アレンが隣に行って背を押そうとしたけれど無駄だった。
体が強張っていて足が根を生やしたような状態なのだ。
心底申し訳なさそうなに、ドリーは大業なため息をつく。


「そうかい。じゃあ最後だし、あんたがその気になるような話をしてあげよう」
「え?」
「昔語りだ。動けないんなら口も回すんじゃないよ。黙って聞いといで」


ここはいつもの調子でぴしゃりと言って、ドリーは腕を下ろした。


「私はね、もともとはこの国の人間じゃないんだよ」


いきなりそう告げられてアレンとは瞠目する。
此処は洪国で、公共語はハンガリー語だ。
ドリーはそれをペラペラ喋るし、村にだって馴染んでいる。長い期間この地に住んでいる証だった。
それなのにこの国の出身ではないというのだ。
予想外の話である。


「数年前にやってきてね。ハンガリー人と結婚したから、名前がイグナーツ・ドリーになったのさ。その夫も死んじまったけれど」
「ご結婚されてたんですか」
「意外そうにするんじゃないよ。しかも再婚だ。二回も結婚してる」


はただ吃驚して聞き返しただけなのに、ドリーは口元を曲げてそれを主張してきた。


「出身はフランスさ。前の夫もフランス人。その時の名前はドリー・フェンネスっていってねぇ」


そこでアレンは何か引っかかりを覚えた。
それはも同じで、彼女のほうが強く反応した。
ゆっくりとまばたきをしながらその音を口の中で繰り返す。


「ドリー・フェンネスさん?…………“フェンネス”さん、ですか」
「そう。よくある名前だろう。でも、夫は特別に美形だったよ。子供達も可愛かったもんさ。五人いたんだけど、特に一番上が美人だった」


親馬鹿な話だけどね、とドリーは笑う。
その瞳はを見ていた。
じっと見ていた。
そして微笑んだまま告げた。


「長女の名前は、グローリアっていってね」


今度は引っかかりなんてものじゃなかった。
フランス人。フェンネスというファミリーネーム。美人の女性。グローリア。
グローリア・フェンネス!
アレンは息を呑んでを振り返った。
彼女は硬直していた。
そして見る見るうちに蒼白になった。
血の気が引く音が聞こえてきそうなくらい、真っ青になったのだ。
ドリーはそれをやはり笑顔のままで眺めている。


「私が産んだとは思えないくらいの美女でね。まぁ銀色の髪も、蒼い瞳も、顔の造作だって父親譲りだったんだけど」
「……、っ」
「性格もしっかりしていたよ。乱暴なのがたまにキズだったが、あの美貌がそうさせたんだろうね」
「せんせいの」
「余計な男が群がってくるから、言動を荒くすることで自分を守ろうとしていたんだ」
「グローリア先生のお母様なんですか」


喘ぐように言葉を絞り出したにドリーは答えなかった。
けれどそれが返答だった。
は唇を手で覆って苦鳴を押し殺したようだった。
今まで何も知らずに師の母の前に立っていたのだ。礼も尽くさず、挨拶もせずに。
そうして何となく悟る。
ドリーの胸に飛び込めなかったのは、無意識のうちにその罪を感じ取ってしまっていたからだ。
無知を呪い、己を蔑んで、何より先に悲痛な声を吐き出した。


「……ご、……ごめんなさい………!」


驚愕と罪悪がを混乱させているようだった。
いつもなら考えられないほど冷静さを失って、彼女は謝罪を口にした。


「私のせいで先生は……っ」
「黙りな」


“死”という単語をドリーは言わせなかった。
今まで聞いたことがないくらい鋭い声で遮り、顎をあげてを見下ろした。
片手を腰に当て、威厳のある態度で言う。


「余計なことを喋るんじゃないよ。口を閉じて聞くんだ。……最後まで」
「………………」
「いいね」


了解を取るというよりは念を押すような調子だった。
事実としてが承諾する前にドリーはまた語り出す。
それはどこか遠くを見るような眼だった。


「うちはとても貧乏でね。子供が多かったものだから、夫と私は寝る間も惜しんで働き続けた」


彼女が一体なにを言いたいのか、アレンにもまったくわからなかった。
けれどが見るのも可哀想になるくらい真っ青だから、指先を伸ばして手を繋いだ。
触れたそれは微かに震えている。
目の前で繰り広げられているのは死んだ師の過去で、語り手はその母親だ。
いくら“”でも動揺するなというほうが無理だろう。
だからアレンは小さな掌をしっかりと握りこんだ。
そのすぐ傍でドリーの声は淡々と続く。


「当然 幼い弟たちの面倒を見るのは長女のグローリアでね。随分手を焼かされたようで、いつも子供は苦手だと豪語していたよ」


知っている、とは胸の内で頷く。
私もよく言われた。
「泣くな騒ぐな鬱陶しいガキは嫌いだ、お前が大嫌いだ」と。
それが彼女の姉弟関係からきているとは思わなかったけれど。


「心底憎いわけじゃないだろうけれど、家族の世話ばかりに明け暮れていたからもうウンザリだったんだろうさ。あの子は看護師になりたがっていたから、勉強する時間が欲しかったんだと思うよ」


いいや、グローリアは医者を目指していたのだ。
は以前こっそりラスティに教えてもらったことがある。
グローリアは必死に努力をしたのだけど、国の体制と時代、そして性別が壁となり、その夢を叶えることができなかったのだと。
母親であるドリーにより高い志を告げなかったのは、心配をかけたくなかったからだろうか。
……ただの意地っ張りだろうなとは思った。


「毎日毎日、弟たちを寝かしつけた後、ランプの光だけを頼りにして医学書を読みふけっていた。その本も自分で働いて、金を貯めて、一冊ずつ揃えていったものだ。当時の私はそれを怒ったよ。腹も膨れない、暖も取れない、そんな紙の束に何の価値があるんだってね」


労働階級の当たり前の言い分だ。
その日を生きていくのに必死なのだから、知識など追い求めている余裕はない。
医学書を買う金があるのなら少しでも生活に直結した物が欲しいのだ。
本など時間を消費するだけの邪魔ものでしかなかった。
そんな非難を受けながらもグローリアは勉強を止めなかった。
父を嘆かせ、母を怒らせ、弟たちに自由を奪われても、懸命に励み続けた。


「努力家な子だったんだ。頭も良かった。もっと裕福な家に生まれていれば、優秀な人間になれただろうに」


先生は充分優秀な人間だった。
はそう言いたいけれど声が出ない。
ドリーに黙らされたからではなく、ただただ喉が張り付いたようになっているからだ。


「でもねぇ、すごく馬鹿なことをしたんだよ。あの子はとても愚かだった。たくさんの知識、誰もが羨むような美貌…………幸せになるための要素をいっぱい持っていたのに、そんな自分をないがしろにしてしまったのだから」


ドリーは一度目を閉じると、こちらを見た。
何だか痛そうに、切なそうに、アレンとの胸元に光るローズクロスを眺めた。


「戦争」


その単語が胸を貫いた。
眼差しは優しい。声は悲しい。


「戦争が始まってね。夫も徴兵されて、敵地で死んだ。遺体も帰ってこなかった。……体を粉々に吹き飛ばされたらしいよ」


敵さんも遺髪くらい残してくれたっていいのにねぇ、とドリーは少しだけ笑った。
アレンは返す表情すら選べなくて繋いだの手を強く握る。
彼女の笑顔はあまりにも哀しすぎた。


「けれど泣いている暇なんてありゃしないんだよ。戦争で仕事がなくなって、それでも食べていかなきゃならなくて。だって子供が飢えているんだ。寒さに震えているんだ。母親が守ってあげなくちゃいけないだろう」


幼い子が泣いている。
父の死を悲しんでいる。
自分の代わりにそうしてくれているのだから、母は今すぐに動き出そう。
家族と共に生きる糧を得るために。


「がむしゃらに働いたよ。あの時代は何でもした。物乞いだって恥ずかしいとは思わなかった。子供たちが食べられるなら後はなんだってよかったんだ。けれど、とんでもないことが起こってね」


ドリーは喉の奥でククッと笑った。
少しも楽しくなさそうに肩を震わせる。
そして自分の腹部を撫でた。


「赤ん坊がいたんだよ。私のお腹の中には」


元より声を失っていたけれど、は重ねて絶句した。
戦時中の妊娠。
それがどれほどの苦労を引き起こすか、女の身ならば痛いほど胸に迫ってくる。


「夫の置き土産さ。正直、それに気づいた時は彼を呪ったね。これ以上子供が増えたら私たちは飢え死にだ。出産するまでもたないだろう。私が働かなければどうにもならないというのに、その体は身重だ。仕事なんかできるはずがない」


そこでドリーはを見て、ちょっと申し訳なさそうにした。
睫毛を伏せて小さく呟く。


「若い娘に聞かせる話じゃないんだけどね。本当ならば決して考えてはいけないことだ。けれどそのときは膨らんだお腹が邪魔だった。…………堕ろすしかないと思った」


そうでなければ死んでしまう。
自分だけならまだしも、家に帰れば幼い子がまだ何人もいるのだ。
ボロを纏った細い体。腹を空かせた可愛い瞳。
まだ見ぬ赤ん坊よりも、目の前の子供をドリーは選んだ。
何度も謝罪を呟きながら、幾筋も涙を落としながら、苦渋の決断をした。


「せめて堕胎の方法は言わないでおくよ。とにかく、私は赤ん坊を流そうとした。痛くて辛くてどうにかなってしまいそうだったけれど、必死に耐えたよ。でも途中で気を失って、目を覚ますとベッドに寝かされていた。しかもちゃんとした処置までされていたのだから驚いたねぇ」


ドリーは自分の腹に置いていた手を下ろした。
そうすることで痛みを忘れたとでも言うように。


「グローリアが助けてくれたんだ。私も赤ん坊も無事だった。……あの子は素人が一人で堕胎を行う危険性を説明してくれたよ。それがあまりにも淡々としているから頭にきて頬を殴り飛ばしてやった。どうして止めたんだって。子供を堕ろさなければ一家心中するしかない状況だったから」


膨らんだ腹はそのまま。宿った命もそのまま。
これでは全員死んでしまう。
ドリーはグローリアにそう訴えかけた。


「するとあの馬鹿娘、いきなり激昂して私の頬を殴り返したんだ。医術は傷ついた全ての人に与えられるべきものだと声を荒げてね。一人前に看護師気取りだよ。それで言うんだ、“その子は母さんの娘だけど、私の妹でもあるんだ。勝手に殺すな”ってね」


殴られた頬を真っ赤にしたまま、銀髪を乱したまま、グローリアは超然とそう言い放った。
そんなことは絶対に許さないと、ドリーを抱きしめて囁いた。


「まだ性別もわかっていなかったのに勝手に女だって決め付けてたんだよ。どうせ自分が世話係なのだから今度は妹がいい、可愛い女の子がいい、名前だってもう考えてあるって」


グローリアは産まれてくる子を祝福しようとしていた。
苦しい生活の中で、戦火の下で、それでも生命を否定することなく迎え入れようと努力していた。
はそれがどれほどの慈愛であったのかを考える。
師は強い母性を持った人だったけれど、二十歳にもならないうちからであったと知っては、さらに感じ入るものがあった。
ドリーは力を抜くようにして微笑む。


「どんな名前だって聞いたけれど、教えてくれなかった。産まれたときのお楽しみだって言ってさ。…………その日にグローリアは長かった銀髪を切った」


それを聞いたの指先が反応した。
アレンは振り返ることなく、ドリーを見つめる。
なだめるように掌の温度を伝えながら。


「綺麗な髪だったから、それなりに高い値がついたよ。でもそれもすぐに無くなった。今度は本を売った。あの子が必死になって集めた医学書を、一冊残らず売り払った」


女の象徴である髪も、大切にしていた本も、全部引き換えにしてグローリアは家族を守ろうとした。


「グローリアは身重の私の代わりに、家事を全てこなして、日がな一日働き通した。あの子が寝ている姿なんて見たことがなかったよ。休むこともしていなかったように思う。死に物狂いで働いて、綺麗な髪も顔もボロボロにして、グローリアは金を稼いできてくれた」


体を壊さないのが不思議じゃないくらいだった。
それでも見る見るうちにやつれてゆく娘の姿。
働きに出て行くときの背中が痛々しい。
あんなに美しかった肢体が枯れ木のようになったのを見た時は、ベッドに横たわったまま声をあげて泣いた。


「よく出来た長女だろう?でもねぇ、それでも駄目だったんだよ。グローリアがいくらがんばっても日に日に生活は苦しくなってゆく。あの子はプライドが高かったから、そんなことをするはずないと分かっていたけれど。……体を売るようなマネだけはしないでくれと、頭を下げて頼み込むほどに、家計は切羽詰っていた」


もうそれしか金を得る方法がなくなっていたのだ。
若い娘ができることなど高が知れている。
けれど母親として許せるはずもない。
綺麗な体のまま、いつか嫁に行く姿を、この目で見たかった。
ドリーは顔をあげて、再びエクソシストたちのローズクロスに視線をやった。


「そんなとき、うちに『黒の教団』とかいう奴らが押しかけてきたんだよ」


あぁ、と無音で呻いては顔を覆いたくなる。
漆黒の使者が今まさにこの胸の扉を叩く。
悲しい別れを喚起する。


「奴らはもうベッドから起き上がれなくなっていた私に言った。“娘さんはエクソシストです。彼女の身柄は『黒の教団』が預からせていただきます”。…………いきなり来てこれだ。ふざけてるにもほどがある」


憎々しげにドリーは十字架を睨みつけた。


「しかも奴らは、グローリアを引き取る代わりに金を出すと申し出てきた。残された家族が一生暮らしていけるだけの金額だからもう生活に困ることはないと…………足元を見られて仕方がない状況だったけれど、私だって娘を売るほど落ちぶれちゃあいなかったよ。さんざん物を投げつけて追い返してやったさ」


グローリアはその様子を、冷静な目で眺めていたという。
ただドリーの様子を見つめる蒼い瞳、美しい顔。


「グローリアだって私の大切な子供だ。あの子を手放すくらいなら、死んだ方がマシだ。家族全員引き連れて地獄まで逃げてやると怒鳴り散らして…………興奮のあまり気を失った。目を覚ますと、グローリアがいつかみたいに淡々と妊婦が暴れることの危険性を説明してきてね。可愛くない子だと思ったよ」


何だい、こっちは憤死しそうなほど頭にきたっていうのに。
本人はまったく気にしない素振りで説教をしてくる。
いつも通り。いつも通りのグローリアだった。


「本当に、可愛くない子だったよ……」


そこで少しだけドリーの声が震えた。


「翌朝、グローリアはもう家にいなかった」


先生らしい、とは思った。
彼女はそういう人だ。
今語られているのは、私の知っているそのままの人物だ。


「テーブルの上には見たこともないほど金が山済みにされていたよ。私の娘は一晩で札束に変化した。私が守りたかったのは子供たちだ。グローリアもその一人だった。それなのにひどい話だろう」


誰か一人でも失うくらいなら、皆で死んだ方がよかったのに。
後悔しても銀髪のあの子はもういない。
家族を守るために己を犠牲にした。
髪も本も自分も捨てて、出て行ってしまった。


「手紙が残されていてね。中身は薄い便箋が一枚。このお金の分だけちょっと働いてきます、ってさ。簡単な調子で書いてあった。しばらく帰れないけれど心配するなって……」


ドリーは一度ぐっと唇を噛んだ。
そのときの絶望が、今も胸を襲っているのだろう。


「馬鹿な子だよ。女が戦争に行くだなんて。自分から死にに行くだなんて。そんなことをするなら餓死したって凍死したって同じじゃないか。あんなに賢くて美人だったんだ。いくらでも幸せになれたのに、あの子は家族のために全部放り投げたんだ。馬鹿な子だよ」


馬鹿な子だよ、とドリーは何度も繰り返した。
子供を失って泣き叫ぶ母親の姿が見えた気がした。


「私は“戦争”に夫と娘を奪われた。いい加減うんざりだ。だからもう全てがどうでもいいと思ったよ。けれど、まだ四人も子供がいたし……、グローリアは私たちの幸せを望んでいた。お腹の中の子のことも」


ドリーは少し息を吐いて、を見つめた。
繋いだ手がピクリと震える。
アレンはそれを感じながら横目で視線をやると、彼女の真っ青のな頬には少しだけ赤みが射していた。
グローリアの話が胸に響いている証だ。
ドリーとの双眸が対峙する。


「残された手紙に書いてあった。産まれてくる子は絶対に女の子だ。私に似て美人になる。頭もよくてスタイルもいい、完璧な女の子。母さんが育てれば性格だってまぁまぁになるだろう。私はしばらく家を出るけれど、どうか家族として傍にいられるように、私の考えた名前を赤ちゃんにつけてくれって」


じっと見つめあう二人。
互いに目を逸らさない。


「もうずっと前から決めていた。可愛い可愛い末っ子、私の愛する妹。その名前は」


ドリーの唇が彼女を呼んだ。


「“”」


握った手から力が抜けた。
視界の隅で華奢な肩が喘ぐように上下する。
俯いてしまったから金髪が彼女の横顔を覆った。


「どんな理由があるのかは知らない。何の意味が込められているのかはわからない。けれどグローリアが祝福した生命いのちは“”だった」


彼女が手を掴んでくれないから、アレンが力を込める。
そうすることで引き止める。
激しい感情に流されないように、しっかりと捕まえておく。


「あんたと同じ名前だね」


ドリーはにそう言うと、もう一度息を吐き出した。


「グローリアのおかげで、生活はぐっと楽になったよ。それまでと比べものにならないくらい人間らしい暮らしができた。でもね、戦争が続いて、空襲が激しくなって、街が焼け滅びた」


思わずアレンは目を閉じた。
争いが踏みにじる幸せの形、人の命、愛する心。


「…………グローリアが自分を売り渡してまで守ろうとした家族は、私以外、全員死んでしまった。戦火に焼かれて、命を落とした。私のお腹の中にいた“”は、…………」


哀しい声がこぼれ落ちる。


「子供を失ったショックで、流産してしまった」


何もかも失った。
守るためにグローリアを手放すことになったのに、それが全て灰になった。
大切なものは瓦礫の下だ。
掘り返してみても何も戻らない。
何ひとつ、返らない。


「遺骨を拾っても、遺品を集めても、どうにもしてあげられなくてね。死んじまったら全部お終いだ。だから私はグローリアのところに走ったのさ。だってもう生きている家族はあの子しかいなかった。『黒の教団』まで行って、娘を返してくれと迫った」


戦火を潜り抜けて、流産した体を抱えて、本部までの道を辿ったのだとしたら、そこには凄まじいほどの苦労があっただろう。
アレンは考えてぞっとする。
きっと命懸けだったのだ。
ドリーは絶望のあまり何もかもどうでもよくなっていて、存在しているには残った者に縋りつくしかなかったのである。


「……思い出すと、やっぱりあんた達を帰したくなくなるんだけどねぇ。何か聖職者の集団だい。ろくに話も聞かずに外に放り出してくれて。夜通し扉を叩いたけれど、返事ひとつ寄越さなかった」


アレンとを非難する気はないのだろうけれど、ドリーは鬱々とした目を二人に向けた。
それから大業なため息をつく。
最後にちらりとアレンを見て、片手で額を押さえた。


「それでも、夜が明ける頃にようやく扉が開いたんだ。私は疲労に朦朧としながらも、出てきた人間に飛びついた。そいつにグローリアを返してくれと頼み込んだんだ。…………それがクロス・マリアンとの出逢いだよ」


まさかこんなところで師匠の名前が出てくるとは思ってなかったから、アレンは限界まで目を見開いた。
どうりでドリーが嫌そうな視線を自分に向けたわけだ。


「アレン。弟子のあんたには悪いけれど、あの師匠は最低だったよ。必死に懇願する私を見下ろして、“何だ。母親のくせにグローリアとまったく似てないな”なんてほざきやがった。あからさまにガッカリした様子を見せたのさ」


確かに美女好きのクロスなら言いそうなことだ。
アレンの目から見ても、ドリーは彼の好みではない。
そこにグローリアの面影を求めていたのなら、それくらい臆面もなく口にするだろうと思った。


「しかもあの男は“こんなところにいたって時間の無駄だ。俺も出て行くところだから一緒に行くか”なんて言ってね。嫌がる私を無理に引きずって、街道へと追い立てた。それから汽車に乗ってしばらく旅をさせられたんだよ」


アレンは何だか猛烈に謝罪したい気分になった。
何てことをしているんだあのバカ師匠。信じられない。
仮にもグローリアの相棒を名乗っていたのなら、その母親をもう少し気遣うとかしたらどうだ。
無理矢理に旅の道連れにするだなんてどうかしている。


「私はマリアンの全てが気に食わなくてねぇ。ダラダラ長い髪も、所構わず煙草を吸うところも、傍若無人な物言いも、大嫌いだった。グローリアだって一番嫌がるタイプの男だ。それなのに慣れ慣れしくあの子の話ばかりするから、あんたは一体何なんだいと問い詰めたよ」


ドリーは今まで見たことがないくらい嫌そうな顔をして、呻くように言った。


「そうしたら“グローリアは俺の女だ”だとのたまいやがった。有り得ないね。本当に有り得ない。あの子はどうにかなっちまったんだと思ったよ。だってマリアンみたいな男のどこがいいんだい。あんな女たらしに私の娘が騙されただなんて……あぁ、ごめんアレン。師匠の悪口ばかり言って」


ドリーは途中で非難の言葉を打ち切ったが、アレンは思い切り首を振って気にしないでくださいと訴えた。
どんどん罵ってくれて構わない。
ドリーの言う通り師匠は有り得ない。
傷心の母親に“お前の娘は俺のものだ”と宣言したのだから、本当に有り得ない。


「謝罪ついでに言っておくと、そのとき私はマリアンの横っ面を殴り飛ばしてね。グローリアがあんたみたいな男に引っかかるわけがないだろう私の娘を馬鹿にするな、って思い切り怒鳴り散らしちまったんだよ」


悪いねぇ、と全然そう思ってない顔でドリーは言う。
それは完璧にクロスへではなくてアレンへの謝罪だった。
弟子に師匠のアレな過去を暴露していることに責任を感じているようだが、何度だってアレンは思う。
まったく、全然、気にしないでください。
むしろよくやってくれました。


「それであの男は何て言ったと思う?“やっとお前がグローリアの母親だって信じられたよ”って笑ったんだ。拳の重さがまったく同じだったそうだよ。…………それからは少し、まともな話をしてくれるようになった」


それも気に入らないのかドリーは苛々とため息ばかりつく。
少しだけ瞳が優しくなったように見えるのは、アレンの勘違いかもしれなかった。


「グローリアが『黒の教団』でどうやって生きてきたのか。何を思って、どう過ごしているのか。マリアンは全部聞かせてくれた。そして当たり前のように言ったんだ。グローリアは私の元へは戻らないと」


真正面を切って、あっさりと告げたのだろうな。
師匠のことだ。きっとそうしたはずだとアレンは考える。
ドリーは片手を持ち上げて、腕をさするように自分を抱いた。


「そりゃあショックだったねぇ。だって家族のために出て行ったんだ、みんな居なくなったら戻ってきてくれるものだと思っていたのに。…………グローリアはもう、それだけのために『黒の教団』に居るんじゃなかったんだよ。あの子だけの“戦う”意味を見つけてしまっていたのさ」


ふいに儚い力を感じた。
アレンは咄嗟に隣を見る。
は相変わらず俯いていて表情が見えなかったけれど、繋いだ手に力が戻ってきていたのだ。
弱々しいけれど確かに、指先がアレンのそれに絡む。
ドリーも下を向いたまま自分を抱く腕に力を込めた。


「私にはわからなかった。グローリアが、私の娘が戦わなくちゃいけない理由が、理解できなかった」


帰ってきてくれと望んではいけないのか。
独りにしないでくれと願ってはいけないのか。
グローリアはドリーの呼び声に応えなかった。
夜通し響くノックの音にも、決して扉を開こうとはしなかった。


「マリアンはそんな私をこの村に置き去りにしたよ。田舎でせいぜい静養しろって。住む場所を示して、生活資金を置いて、出て行った。………………それから数年間は音信不通だったね」


ドリーはそこで顔をあげた。
そして随分久しぶりに、穏やかに微笑んだ。


「それがある日ひょっこり顔を出したんだ。相変わらず嫌な男だったけれど、そのときばかりは嬉しかったねぇ。だってグローリアの手紙を持ってきてくれたんだ」


別れからかなりの年月が経っていたとドリーは言う。
そのころにはハンガリー人の男性と再婚していて、店も始めていたそうだ。
タダ飯にありつきながらクロスが差し出したのは真っ白な封筒で、中身は懐かしい筆跡で綴られていた。


「一文目でずっこけたね。勝手に出て行った娘が“やっほー、母さん元気ー?”なんて書き出しをしていいものかい。あれには便箋を握り潰しそうになったよ」


うん、その書き出しはいただけない。
あとやっぱりグローリアさんとは似ていると思う。
アレンは一人で冷や汗をかいた。


「まぁ元気でやっているとわかっただけで充分だった。それよりもどうして急に手紙なんかをくれたのかわからなくてね。不思議に思っていたら、マリアンが二枚目を読めと言うんだ。その通りにして驚いたよ」


ドリーは相変わらず穏やかな表情をしていた。
そして微笑みにのせて言った。


「だってあの子が子供を引き取って、面倒を看ているっていうんだ」


アレンは咄嗟にの手を引いた。
彼女が聞いているとわかっていても、もっと促したかった。
ねぇ、グローリアさんは君のことをお母さんに伝えていたよ。
それがどういう気持ちのものだったのか、君にならわかるだろう。


「声が鬱陶しい。眼が生意気だ。顔を見ているだけで張り倒したくなる。強情な性格だし、言うことは聞かないし、本当に可愛くない子供だってさ。そんなに嫌なら他の人に任せればいいだろうと思うくらい文句ばかり書き連ねられていた」


ドリーはを見ない。
もドリーを見ない。
アレンだけが二人を見つめて、ただそこに立っていた。


「でも最後のほうに少しだけ、弱音が書いてあった。どう接すればいいのかわからないって。弟たちと違って子供らしい主張をしない奴だから、力加減を誤ってしまう。いつも怒鳴りすぎて、殴りすぎて、ひどい目にあわせてしまう。本当はもっと……」


声は吐息のように唇から溢れ出た。


「もっと母さんみたいにうまくやりたいのに、って」


それからすぐにドリーは微笑んだ。
自分の発した音を吹き飛ばすように、声をあげて笑った。


「私だってそんなにうまく子供を育てた覚えはないよ。でもね、グローリアは私を頼って相談してくれたんだ。あの子はいくら叱られても、私を嫌いにならなかったらしい。自分もそうしたいって。怒鳴るばかりじゃなくて、殴るばかりじゃなくて、もっとちゃんと」


細められて茶色の瞳は泣き出しそうな色をしていた。
それでもドリーは俯いた金髪を見た。
今度はもう逸らさずに、きちんと見つめた。


「ちゃんと、母みたいに、姉みたいに、なってあげたいって言っていたよ」


痛いほど手を握り返された。
は震えを殺すようにアレンの掌を掴む。
同じだけの強さで返せば、少しはの心は鎮まるのだろうか。


「あの子は、家族になりたかったんだと思うよ。だってその子の名前を“”にしたっていうんだ。産まれてこられなかった自分の妹の名前をあげたんだ。愛したかったんだよ。大切にしたかったんだよ」


きっとそうだよ、とドリーは笑う。
どうしてそんな見ず知らずの子供に、大事な名前をあげたのだろう。
ドリーにはわかった。母親だから理解できた。
願いを込めて、グローリアはその子を“”と名付けた。


「今度こそ、生きていて欲しかったんだよ」


ようやく産まれてきた生命。
目の前で誕生したそれは、本人でさえも望まないものだった。
だからグローリアは彼女を“”と呼んだ。
せめて名前だけでも温もりを与えたかったのだ。
誰も知らなくても、きっと自分だけは呼ぶたびに思う。
“大丈夫。拒絶されない。排除されない。その名は祝福された生命いのちだ――――――………”
せめてもの救いのように、ずっとそう呼び続けた。


「帰る間際、マリアンはグローリアの手紙を燃やした。何でそんなことするんだって怒ったら、そこ書かれていた子供は厄介な事情を持っていて、存在を記録として残せないんだって言うじゃないか」


この文面も、教団の目を盗んでこっそり書いたものだとクロスは語った。


「それから半年に一度、マリアンはグローリアの手紙を持って私の元を訪れた。内容は決まって“”のことだったよ。身長が伸びただの、またバカをやっただの、友人関係が心配だだの、さんざん師匠風を吹かせてさ。すぐに灰になってしまうとわかっていたから、忘れないように何度も読んだ」


あの子の字で語られる、あの子の弟子の話。
とても楽しそうに書かれているから、グローリアだって元気なんだろうと考えなくてもわかった。


「たまーに、取りとめのない文章もあった。どうしても拳が出てしまうとか、ひどく当たってしまうとか、…………殺してしまいそうになるとか。物騒な話だと思ったけれど、生き死にのある場所に居るんだとわかっていたから何とも言えなくてねぇ」


一般人には想像もできないことさ、とドリーは自嘲した。


「返事は書けないと諦めていたけれど、一度だけマリアンに特別の伝言を頼んだことがある。全部終ったら“”を連れて帰っておいでって。…………マリアンは似合わない表情になって、伝えるだけ伝えると言ってくれた」


そんなことは不可能なんだと、師匠は知っていたのだ。
アレンは心臓にナイフを晒されたみたいになって思う。
”にそんな自由はない。
グローリアが彼女の手を引いて、ドリーの元へと連れて帰れるような日はこない。
そしてまた別の事実としてその願いは叶うことがなかった。


「結局、二度とあの子の姿を見ることはなかったけれど……」


はぁ、とドリーはまた息を吐いた。
瞳はを見つめたままだ。
顔をあげられない少女を見下ろして囁く。


「グローリアが死んだと聞いた時はね、あんまり驚かなかったんだよ。だって“”を庇ってからだって言うじゃないか。どうせそんなことだろうと思っていたんだ。あの子は家族のために自分を投げ出す。髪も本も自由も……そして命も」
「………………」
「最期まで馬鹿な子だった。不器用な子だった。そうやってしか守ることの出来ない子だった。…………愛していると、伝えられない子だった」
「………………」
「グローリアが死んでからも、マリアンは年に一度は訪ねてきてくれた。私は“”のことが聞きたかったんだけどね、なんて言ったらいいのかわからなくて……。どう思えばいいのかわからなくて」
「…………怒ってください」


ふいに、細い細い声でが言った。
地面を睨みつけたまま、喉から絞り出すようにして繰り返す。


「怒って、蔑んで、罵って、許さないでください」
「…………きっと、それが正論だなんだろうね」
「あなたはそうするべきです。私はあなたから最後の子供を奪った存在なのだから」


また繋いだ手に力が込められる。
大きな震えがアレンまで伝わってきた。
それすらも顔を歪めて見つめて、は続ける。


「こんな……、あなたの前に一人では出られない、仲間に頼ってしか立っていられない、弱い私だけど。それでも、逃げません」


は一度強く目を閉じると、意を決したように顔を振り上げた。
そしてドリーと真正面から向かい合った。
金色の瞳を揺らすこともなく師の母親を見つめた。


「私がグローリア先生を死なせた」


それは真実。
けれど心をひどく傷つけてゆくだけの言葉でもある。
は断罪のために痛みを望んで告げた。


「私が、あなたの娘を殺した……っ」


その瞬間、高い音が響いた。
がよろめいたから、アレンは慌てて腕を差し出す。
それで何とか転倒は防げたけれど驚きが隠し切れない。
何故なら目の前でドリーがの頬を力の限りで張り飛ばしたからだ。
蒼白になっていたその肌が一気に燃え上がる。
唇が切れたようで、口の端から血が流れ落ちた。


「どうだい、私の平手は。マリアン曰く、グローリアのとまったく同じ衝撃だそうだけど」


ドリーは掌を閉じたり開いたりしながら訊いた。
は激しく痛む頬を押さえて呆然と返す。


「お、おんなじ……」


それから泣き出しそうに顔を歪めた。


「そっくりです。先生に殴られたみたい……」
「親子だからってこんなところまで似るもんかねぇ。あぁ、私があの子をさんざん張り倒して育てたからか」
「痛い……」


呻くは本当に痛そうだった。
アレンもクロスにはたくさん殴られてきたけれど、なんというか迫力が違う。
激しく逞しく、女性特有の強さが込められているように思う。
だっての頬が真っ赤だ。唇から出た血だって半端じゃない。
これでも平手だからまだ手加減した方なのだろう。……うん、本当に怖い。
殴られた衝撃でまだぐらぐらしているを見て、ドリーは鼻を鳴らした。


「あんたが馬鹿なことを言うから悪いんだよ。何だい、私の娘が殺されたって」
「………………」
「嫌な言葉を聞かせるんじゃないよ」
「っ、でも」
「私は、ずっと、“”をどう思えばいいのかわからなかったんだ」


息を詰めて何かを言おうとしたを、ドリーは遮った。
瞳に込められた感情は複雑すぎて、アレンには読み取れない。
ただ口元だけが優しく笑んでいる。


「グローリアを奪った者だと、憎むべきなのか。グローリアが愛した者だと、慈しむべきなのか。……だからマリアンに、その後の彼女のことを聞けないまま、何年も過ごしてきた」
「…………………」
「それがどうしたことかねぇ、ある日突然 私のところに飛び込んできたんだ。自転車に乗って、店をぶち壊して、“”がやってきた。まさかこんな出逢い方をするとは思ってなかったよ」
「…………、私もです」
「しかもマリアンの弟子と一緒だった。あんた達二人をうちに置くことになったときは、何の因果かと頭を抱えたね」


そこでちょっと横目で睨まれたから、アレンは身を縮ませる。
本当に師匠と借金のこととなると肩身の狭い思いしかしない。
そんなことよりもアレンは聞きたいことがあったから、頑張って唇から言葉を送り出した。


「それで、……ドリーさんは“”をどう思ったんですか?」


もうその必要もないけれど、アレンはを支えたまま尋ねた。
抱いた体が強張る。
見つめる先の瞳が細められる。


「第一印象は最悪。猛烈に可愛くないと思ったね」
「……はぁ」
「グローリアの言っていた通りだった。馬鹿で生意気で破天荒。何も考えていないフリをして、どうでもいいことまで気をまわしている嫌な子供。これは周りの大人が見たら、さぞかし腹が立つだろうなと同情したよ」
「大人じゃなくても腹立ちますけどね……」
「あんたも似たようなものだけどね」


思わず呟いたアレンに、ドリーはずばりと返した。
ちょっと胸にきて黙り込む。
ドリーは片頬を真っ赤にしたを眺めた。


「何だか不思議な気分だったよ。あの子の手紙から飛び出してきたみたいに、私の目の前にあんたが居た。他愛もない言葉を交わして、私の作った料理を食べて、用意してやったベッドで眠って。本当にそこで“”が生きていた」
「………………」
「ただ私の中には懐かしさがあった。だってあんたはあの子が残していったものだ。悩みながらも一生懸命に育てた唯一の弟子だ。………………あんたを見てると、グローリアを感じて仕方がないんだよ」
「……、私に、先生を?」
「あんたの中に、まだいるんだろう?グローリアは」


訊かれては自分の胸を押さえた。
心に手を当てて、目を閉じる。
そこにドリーは掌を重ねた。


「グローリアの中には“”がいた。手紙から溢れるほどそう感じた。同じようにあんたの中にもあの子がいる。顔も仕草も口調も似ていないけれど、何でだろうね……」
「…………………」
「どうしてだか思い出すんだよ。あんたを見ていると、あの子を。……きっと二人は今でも一緒なんだろう。私の娘は、ずっとあんたの中に居座って、消えちゃくれないんだろう」
「…………………」
「だったら、もう自分がグローリアを殺しただなんて言うのはおやめ。あんたはそんなことをしないよ。そんなこと考えちゃいけないよ。だって私の娘はね……」


震えたのはどちらの手だったのだろう。
傍にいるアレンにもわからなかった。
きっと二人にしかわからなかった。
もしかしたら、互いの中に存在し続けるグローリアの鼓動だったのかもしれなかった。


「死んじゃいないんだ」


が瞳を開いた。
ドリーはその頬を撫でた。
胸の上で重なった手が、ぴったりと寄り添っている。


「あの子が守ろうとしたものは、いつだって家族だった。幼い弟達や、母である私。そしてあんただ」


ドリーの指先が金髪を掻きあげる。
額に巻いた包帯に血が滲んでいるのが見えた。
は激痛を我慢するような表情で、優しい手を受け入れていた。


「そりゃあそうだろう。だって“”は可愛い可愛い末っ子、グローリアの愛する妹だ」


掌が滑っての左耳に触れる。
そこに飾られた黒曜石のピアスを撫でる。
グローリアの形見は、いつだってのそこで光っていた。


「あんたに会って、それをゆっくりと理解したんだ」


それはどちらに語りかけているのだろう。
ドリーは優しく微笑んだまま、小さく囁く。
そっとピアスを指先で包んで。


「やっと、帰ってきてくれたんだね。“グローリア”」


肉体は滅んでしまったけれど、一目見てすぐにとはいかなかったけれど、今では確かに感じられる。
あんたは“ここ”にいる。
跡形もなく死んでなんかいないんだ。


「ようやく会えたね。“”」


生まれてくる前に死んでしまった幼い命。
それが私の知らないところでこんなにも大きくなった。
世界が産んで、グローリアが育てた、私の最後の家族。


ドリーはそこで大きく両腕を広げた。
そして笑顔。
思い切り微笑むと、弾みで涙がこぼれ落ちた。




「お帰り、私の“娘たち”!」




その背中を押したのは誰だったのだろう。
風か世界か感情かが、衝動のように彼女を突き動かした。
ドリーの胸に真っ先に飛び込んだのは“グローリア”だった。
何年も会うこともなかったその大きな存在に抱きついて、喘ぐように肩を震わせる。
同時に彼女は“”で、初めて母の抱擁を受けた。
産まれたての赤ん坊のように彼女に縋り付いて涙の滲んだ吐息をこぼす。
ドリーは幼子をなだめる仕草で、その背中を撫でてやった。


「わたし、……私は……っ」
「グローリア、、私の娘だ」
「どうしたらいいのかわからない……。あなたに育まれた先生に、たくさんのものをもらったのに。名前も生命いのちも居場所も力も、何もかも与えてもらったのに……!」
「家族なんだから当然だろう」
「でも私は……っ、こんな私では、何ひとつ返せない!!」
「だったら生きなさい」


その声は紛れもなく母のものだった。
をより一層強く抱きしめて、ドリーは告げる。
きっとグローリアに伝えられなかった言葉だ。
そしてグローリアもに言えなかった想いだ。


「生きて生きて生き抜いて、そして…………幸せになりなさい」


どうか、私の娘たち。この願いを聞き届けて。


「それが、家族にしてあげられる精一杯の愛情だよ」


誰が何を言おうと、それが世界の真実だった。
本当に愛しているのであれば、心から大切だと思うのであれば、健やかに生きて幸せになって。
いつも心からの笑顔を見せていて。
どんな絶望も苦痛も、その奇跡の前では無意味でしかないのだから。


「私はもう子供を失うのはごめんなんだよ。あんたは死なないでおくれ、
「……っつ」
「私の最後の娘」


は涙を見せなかった。
けれどドリーの胸に顔を埋めて、泣き出しそうに震えていた。
いつまでもいつまでも抱きしめてもらいながら、さようならの言葉を見失っていた。




一度だけその唇が声もなく「おかあさん」と動いたように、アレンには見えた。




















少し先で金髪が揺れていた。
片手では結えないから、背に流したままのそれ。
昇ってきた太陽に照らされキラキラと輝いて、アレンの右眼に光を躍らせる。
眩しいなと思うけれど何だかずっと見ていたかった。


前を歩くは完全に無言だった。
ドリーと別れてから一切口を開かない。
泣いてはいないけれど、そうしたいような感情に胸を塞がれているんだろうと思う。
アレンもあえて何も言わずに後ろを数歩離れて歩いてゆく。
涙を流せばいいのに。
けれど彼女がそうすることを何よりも苦手としていることは、身に染みてわかっていた。
強いから泣かない。弱いから泣けない。
どちらの本当の姿だ。
呆然と微笑みながら涙をこぼす彼女が脳裏に焼きついている。
泣いて欲しいだなんて言うことがどれだけ残酷なことなのか、二度もしてしまったアレンには痛いほどに理解できる。
どうすればいいんだろう。どうやればいいんだろう。
何をしてあげれば、君はもっと自然に涙することができるの?


「“”」


前を歩く少女が、唐突にぼそりとそう言った。
アレンは吃驚して足を止める。
その気配を感じ取ったのか、も前進するのをやめた。


「“”って、呼んでくれる?」


無理な明るさも、空元気も感じられない声だった。
少なくとも虚勢を張って話しかけてきたわけじゃないとわかって、アレンは軽く息を吸い込む。
それをひどく嬉しいと感じたのだ。
向けられた小さな背は静かな調子で続けた。


「あなたは“私”を仲間だと言ったけれど。これからも“”って呼んでくれないかな」
「…………………」


アレンは咄嗟に返事が出来ない。
何故ならあれ以来、彼女を“”とは呼んでいなかったのだ。
一度だってその名前を口にしなかった。
過去の彼女も現在の彼女も大切だと思ったから、8年前からのその呼称を使うべきではないと思ったのである。
けれど、


「いいよ」


アレンはそっと頷いた。


「その名前は“君”の生命いのちを祝福している。口にするたびにそれが伝えられるなら、何度だって呼んであげる」


グローリアが与えた、愛の形を。





数日振りにその音を唇に乗せたら、胸に温もりが宿った。
ドリーの話を聞いたからだろうか。
いいや、もっと単純に、僕はこの名前が好きだったんだ。
一度はもう呼ばないでおこうと思ったのに、また口にすることができて良かったと思う。
勝手な話だけど本心だ。
視線の先での肩が少し震える。


「ありがとう」
「……グローリアさんは、この名前の由来を教えてくれなかったの?」
「何も。ただ、最初の頃はあまり呼んでくれなかった。口にするたびに複雑な顔をして……、私を嫌悪してるのかと思っていたけれど、きっと違ったのね」
「…………………」
「まさか、あんな意味があったなんて」


呼ぶたびに、温もりを伝えてくれていただなんて。
長い銀髪。完璧な美貌。見下すような蒼い瞳。ごく稀に見せてくれる優しい笑顔。
頭の中をぐるぐるまわるグローリアの面影。
処刑を求める子供を“”と呼んで、彼女は“私”をこの世に繋ぎとめてくれた。


「時期的にね、弟さんたちを亡くして間もない頃なの。先生が私を引き取ったのは」
「……そう」
「殺される子供を見たくないだけだったんじゃないかな。だから命を救ってあげた。……死んでしまった兄弟の代わりに」
「………………」
「プライドの高い人だったから、そんなことをしてしまった自分が許せなかったのよ。死者を他人に重ねるだなんて無粋だもの。見ず知らずの者を“”と名付けてしまったことを後悔していたんだと思う」
「でも、ずっとそうだったわけじゃないだろう」


ずっと、彼女は自分を責め続けていたわけではないだろう。
それくらいアレンにだってわかった。
だって当然知っていることだ。


「私の希望がそう思わせるのかもしれない。でも、たくさん呼んでくれた。“”って何度も何度も。…………最初から、それが私の名前だったみたいに」
「グローリアさんにとってはそれが君だ。君が彼女の“”だよ」
「家族のように愛していたのは、私だけだと思っていたのにな……」


がぼんやりとそう囁くから、アレンの呼吸が苦しくなった。
今更思い知らされて空洞のようになった胸に堪らない想いが響く。
そこにグローリアはいるけれど、決してできはしないから、アレンは呼んだ。





相変わらず彼女は振り返らない。


「僕もマナに名前をもらった。“アレン”と父が呼んでくれたから、それが僕になった。だから僕も君を呼ぶよ。“”って」
「…………………」
「けれどそれは、その名前になってからの君をいうんじゃない。グローリアさんは、エクソシストとしての君だけを愛していたわけではないだろう」
「…………………」
「グローリアさんは君を大切に思っていた。“君”の全てを」
「そうよ、あの人は全部知っていた」


突然遮るようにそう告げられた。
今までのぼんやりした調子ではなく、いつものみたいに強い口調だった。
アレンはハッとして口を閉じる。


「あの人は私の過去を知っている。何もかも承知のうえで弟子にしたのよ」
「…………………」
「冷たい眼で見ろされた。容赦もなく罵られた。嫌いだと何度も言われて、それでも一緒に過ごす度に思い知らされる。少しずつ私たちは近くなっていって、何の気構えもなく“”と呼んでくれるようになって、向けられた背に手を伸ばしても振り払われないんじゃないかだなんて夢を見て、実際にそうなったときのあの人の顔といったら」
「…………………」
「顔といったら……」


は少し微笑んだようだった。
笑い声が小さく聞こえる。


「最初からあの人の前では、私は“私”だった」
「……やっぱり、グローリアさんは全てを受け入れていたんだね」
「そう、私さえも拒絶することを延々とやってくれていたのよ。あの人が死んでしまってからは、今度こそ本当に過去はいらないものだと思ったのに。ようやく息の根を止められたと思ったのに」
「…………………」
「あなたがまた、…………」

「“私”を“”と呼んでくれる人は、もういない」

「もういらない。二度と失いたくないから、そう決めた」

「それなのに、ごめんなさい。今はあなたに呼んで欲しいと思ってる」



アレンは何度もその名前を繰り返した。
いくら呼んでも声は涸れないだろう。
赤い世界で座り込んでいる彼女を救うには、ただひたすらに求めるしかないのだと、もう苦しいほどに思い知っていた。


「ごめんなさい、アレン」


金色の髪をなびかせて、が振り返った。
表情はなかった。
ただ眩しそうにアレンを見つめる。
それよりもずっと光を眺めるように、銀灰色の右眼を細めた。


「まだよくわからないの」


が脚を引きずるようにして近づいてくる。
あまり無茶をして欲しくなかったから、アレンからも距離を詰めた。
先に足を止めたのはで、アレンは彼女より二、三歩進む。
手を伸ばせばすぐの場所に、互いが立っていた。


「あなたが“私”を見つけたこと。“私”しか認めてくれなかったこと。ひどいと思う。怖いと感じる。今からだって拒絶するべきだと知っている……。でも」
「………………」
「それよりも強く、“私”はあなたの仲間でいたいと願ってる」
「………………、
「自分がわからない。禁術を破ってまであなたを守ったのに。今度はこの手で傷つけようとしているなんて」
「僕もそうした。それで、いいよ」
「…………あなたは優しいから。これから“私”のことを知るたびに苦しんでしまう。…………苦しめてしまう」
「……それが、恐ろしいの?」
「だって最低の矛盾よ。……いつもの私ならこんなこと絶対にしない」
「“君”が望むのなら、それでいい。僕は、それがいい」


ほんの少しの距離。
ひどく邪魔だと思う。
そういえばベルネス公爵家から帰る道でも、こうやってと向かいあった。
あのときも同じ事を考えた。
本当に、どこまでも手を伸ばしたくなる人だね、君は。


。僕を守りたいのなら、もう独りにならないで」
「…………………」
「知らないところで君が苦しんでいる方が、僕を傷つけるんだって、もう伝えたはずだよ」
「…………………」
「僕を守ってくれるのなら、僕にも守らせて。過去だけでも現在いまだけでもない、“君”を守らせて。僕たちは仲間だろう。……そうでないと本当じゃない」
「……、私はあなたが笑っていないと嫌よ」
「僕も君がちゃんと笑っていないと嫌だ」
「………………“家族”だものね」
「“家族”だからね。―――――――――“”」


愛を込めて呼べば、金色の瞳が瞬きをした。
傷つけ合うとわかっているのに傍にいたいと思う。
なんて傲慢。なんて自分勝手。それでも望むのは何よりも強い感情が胸を焦がして止まないからだ。


「仲間で、家族なら。君は僕を許してくれるだろう?君を傷つけた、僕を」
「あなたも私を許してくれるの?あなたを傷つけた、私を。……これから傷つける、私を」
「返事は知っているだろう」


わざわざ答えるまでもない。
君が拒んでも、僕がその痛みを奪い取るよ。
アレンが当たり前のように言うと、は呆れたふうでもなく、馬鹿にした様子でもなく、とても切ない表情をした。


「……アレンは物好きね」
の仲間なんてやっている時点でそうだろうね」


アレンは仄かに笑った。
は笑わなかった。
だからその顔を真っ直ぐに見つめて言う。


「ねぇ、


相変わらず微笑むことは難しい。
それでも懸命に努力した。
のためだけに微笑を浮かべて、静かに告げる。


「いつか、君が本当のことを話せるときがきたら」


そんな日は来ない。
アレンもも知っている。
隠蔽された過去は誰の口からも語られず、このまま闇へと葬るべきだ。
世界のために、彼女のために、そうあるべきなのだ。
そう理解していながら、なおのことアレンは心の底から願った。


「そんな日がきたら、僕に聞かせてくれる?」


の双眸が見開かれる。
信じられないものを見るように、アレンを金色に映す。


「“君”のことを、僕に教えてくれる?」


真っ赤なその胸の内を晒してよ。
見たいんだ。君のものならなんだって。
絶望の魂が肢体を燃やし尽くす前に、触らせて。
”だけでも“あの子”だけでも足りないんだよ。
また、左眼が、疼く。
“君”が欲しい。


欲しくて欲しくて堪らない。


「大元帥でも、中央庁でも、ブックマンでもない、僕だけど」


そんな肩書き何ひとつもっていない、ただのエクソシスト。ちっぽけな人間。
けれど誰にも譲りたくないと思うのは、“アレン・ウォーカー”という固体でしかない。
だから真正面から彼女を望む。
これだって、どれほどに傷つけるのか、わかっていながら。
アレンは激しい想いを震える唇から吐き出した。


「僕に……」


「聞いて」


声は最後まで音にならずに、そんな言葉に遮られた。
急に温もりを感じる。
アレンは息を止めた。
いつの間にか伸びてきた指先が、コートの裾を掴んでいる。
すぐそこにある金色の瞳は呆然としていて、まるで自分の意思ではないように口を動かしていた。


「もし、話せるとしたら」
「………………」
「あなたにしか無理だと思う」
「………………」
「だって“私”を求めてくれたのは、あなただけだもの」


アレンは絶句していた。
まさか応えてもらえるとは思っていなかったのだ。
言うだけ言って、自分の気持ちを伝えて、拒絶されるなんて知っていて。
それでもいつかは奪ってやるという宣言のつもりで囁いた。
それなのにこんな、本当に彼女から手を伸ばしてくれるだなんて、夢のようでしかない。


「聞いて。アレン」


無意識に握った手が恐怖と罪悪に固められる。
表情はゆっくりと悲痛に歪み、唇がわなないた。
強く双眸を閉じれば雫が睫毛を濡らして、いっそ泣いてしまえば楽なのに、それでもまだ彼女の中で何かが制す。
代わりのように握り締められた指先がアレンのコートの裾を持ち上げ、そこに額を強く押し付けた。


「“私”のこと」


途方もない後悔が見えた。
こんなこと口にしてはいけなかった。願ってはいけなかった。
アレンの言葉はの胸に刺さり、切り裂いて、真っ赤な血を溢れさせる。
いつもそこで孤独に溺れていた金髪の女の子。
彼女は今、ようやく、自分から触れてくれた。
死にそうなほど己を責めて、殺したいほど蔑んで、さんざんにいたぶりながら、それでもがアレンを求めた。
必死に伸ばされた小さな手。


「……っつ」


正体のわからない衝動に襲われて、アレンはを引き寄せた。
触れるのならこうしてほしかった。
そんな服の端なんて、僕じゃないよ。
後頭部に掌をまわして強く抱きこむ。


「アレン、……」
「何も言わないで」


縋りつくなんて程遠い。
こんな弱い力じゃ駄目だよ。
馬鹿な君は自分を傷つけてでしか他人に寄りかかることもできない。


「ごめんとか、やっぱり駄目だとか、絶対に言わないで」
「…………………」
「口にしようとしていただろう。そんなのは」
「だったら、ひとつだけ」


振り払われることが怖くてきつく抱擁したのに、ふいにの手が離された。
ぞっとする。ひどい悪寒が走って引き止めようと動く。
けれどはアレンから距離を取ることもなく、腕を持ち上げて抱きしめた。
ぎゅっと強く抱きしめ返した。
あたたかいもので心を満たすように、優しい力で捕まえる。


「ありがとう」


右手が砕けているから左腕だけのことだったけれど、背中にまわされた掌はこの間よりもしっかりと彼女を感じさせてくれた。
謝罪も否定も、もう口にしなかった。
アレンがやめてくれと願ったから、せめてものお返しには言う。


「ありがとう、アレン」


いつもリナリーに、ラビに、神田にするように、ありったけの親愛を込めて。


「大好きだよ」


そうしてそっと身を離すと、真正面からアレンを見つめて微笑んだ。
顔立ちは相変わらず綺麗だけど、表情はそう呼べそうもない。
苦痛も罪悪も後悔も必死に隠して笑顔を浮かべるものだから、美しいとは言えない。
けれどアレンは死んでしまうかと思った。
ぐらり、とする。
寒くもないのに全身が粟立った。


「大好きだよ、アレン」


結局、今この瞬間まで、がアレンにそう告げたことは一度だってなかったのだ。
普段は照れが邪魔をして言わないけれど、他の友人にはさんざん好意を伝えてきたくせに、自分にだけ口にしてくれなかった言葉。
大好きだよリナリー、大好きだよラビ、大好きだよ神田……。
何度そうやって微笑む彼女を見てきただろう。
はアレンにだけは“大好き”だとは言わなかった。
もちろん態度ではそう感じられなくはなかったし、最近ではアレンも了解していた。
喧嘩ばかりの仲だから伝える機会がないのも原因だ。
しかし、そうわかっていても思うことがなかったわけではなくて、ずっと少しだけ淋しかった。
そんな自分を認めていなかったから、今になって思う。


(痛い)


胸を、貫かれたみたいだ。
鋭い剣先がアレンの心を突き破った。
それは即効性の毒のように全身を蝕んでゆく。
細胞から破壊されてひとつひとつが痛みに脈打つ。


(そんな、笑顔で)


目の前の、綺麗な顔をした女の子の、不恰好な微笑。
アレンが努力してそうするよりずっと変な表情だけど、必死に微笑もうとする弱さ、醜さ、ひたむきさ、美しさ。そんな目に見えないものに酩酊させられる。
意識の全てを奪われる。


(“大好き”だって)


僕に手を伸ばして指先で触れて抱きしめて、それで大好きだと笑ってくれた。
本当に“仲間”で、“家族”だ。
だっては大切な者、皆にそうする。


(痛い)


自分が崩れてしまいそうだった。
どうしてこんな風に感じるのだろう。
ようやくの一部になれたのに、自分にだけは話すとまで言ってくれたのに、こんなにも愛おしくなるような笑顔を見せてくれているのに。
どうして、……?


(いたい)


泣きそうになる。
やっと言ってもらえた最高の言葉がこんなにもアレンを殺そうとする。
胸に刺さった剣はたちまち激しい炎になって、心を焦がれさせた。


(おかしいな……。好きだと言ってもらえて嬉しいのに)


意識の底では、ずっと、そうして欲しいと願っていたはずなのに。


(どうしてだろう……、同時に、こんなにも、哀しい)


痛い痛い痛い痛い、胸が潰れる。
相反する感情に喉が塞がれてしまって、アレンは何も言えなくなった。
真っ二つに分かれた心。
一方はとても幸福に満たされたのに、もう一方はひどく引き裂かれている。
とにかくはっきり理解できたのはこれだけだった。


アレンは死んでも、「僕も好きだ」とは、返せそうになかったのだ。


決してが嫌いだというわけではない。絶対に違う。それは断じて間違いだ。
仲間として、家族として、心の底から大切に想っている。
けれど本当は“愛して”いた。
好きじゃない。親愛だけじゃない。“愛”があった。
アクマに対するそれに似ている、奪い取るような感情が。
同時にマナへの情愛に似た想いもあって、ますます混乱する。
相変わらずに対する自分の気持ちはとことん理解できないものだった。
“愛”と呼んでいいのかすら不安で心が掻き乱される。
大切なのに、それだけじゃなくて、無言の激情がアレンを支配していた。
少なくともこれがの言う“好き”とは違うことを、明確に悟っていたからだ。


「……アレン?」


は微笑みに疑問を混ぜて、名前を呼んだ。
何も言わないアレンを不思議に思ったのだろう、目を瞬かせて笑顔を消そうとする。
それは嫌だったから指先で頬を撫でた。
欲しいものは何だろう。
考えれば考えるほどぐるぐるして、倒れそうになる。
感覚は全てのものだった。
彼女に対する想いなんて、こんなにも激しいのだからはっきり名前もわかればいいのに、いまだに理解が及ばない。
ただが望んでいることだけは知っていたから、アレンはそうした。


ゆっくりと、微笑んだ。


「帰ろう」


言って掌を持ち上げる。
本当は左手で触れたかったけれど、彼女の腕は砕かれているから、右手を差し出す。
こちらなら傷つけずにすむだろう。
破壊衝動はイノセンスの宿った左だけだと信じたかった。
壊したくて、大切にしたくて、そのどちらもがを前にしたときの自分だ。
だからせめて今は右手を伸ばして、の好きな笑顔を浮かべる。
彼女のためなら、今度こそ自然とそうすることが出来るはずだ。


「一緒に帰ろう。ホームへ」


そう告げればは肩の力を抜いたようだった。
そっと睫毛を伏せて、アレンの手に自分のそれを重ねる。
少しだけ涙の滲んだ瞳が微笑んだ。


「うん」


二人はそのまま歩き出した。
互いに怪我をしているからゆっくりと歩調を落として足を進める。
手は離さない。
の力は優しくて、このまま粉々にしたくなる衝動を、アレンは見ないフリをした。


壊したいと願う相手に、今は崩れそうな自分を支えてもらっているのだと、絶対に気付かないフリをした。


(痛い)


黒の欲望、白の羨望。
その毒粉は蝶の羽根にのって、アレンの胸をちらちらと引っ掻く。


どちらにも染まれない心は無限の灰色に侵されていった。










『蝶と口づけ』、終章です。
前回言っていた伏線ってのはドリーさんのことでした。
過去の彼女はともかく、現在の彼女は本当に母性の強い人だと思います。だから娘もそうなったのではないかな〜と。
もうひとつの伏線は“大好き”。今までヒロインにさんざん口にさせてきて、アレンだけには言わせなかった台詞です。
このタイミングが肝心です。アレンをもやもやさせるのが目的!^^
これから彼には、無意識に逃げていたものと向き合ってもらおうと思っています。
もちろんヒロインにも。何とかがんばって欲しいところです……。

次回から新章が始まります。
初っ端からかなりエグくて暗いので、苦手な方はご注意をお願いいたします。