許せないと思った。
悲鳴をあげず、涙も見せず、何度だって立ち上がる姿が恐ろしい。
けれど本当に怖いのは、を激しく想う僕自身でしかなかったんだ。


それは聖職者の禁忌。
……僕は、呪われた左眼で君を見ている。







● 蝶と口づけ  EPISODE 14 ●







ふいに呼吸がうまくできた。
の喉に空気が通り、唇が動く。
吐き出した血を嚥下する前に声は世界に放たれる。
たくさんの笑顔が悲しみが思い出が脳裏を駆け抜けていった。
家族も師匠も仲間達も、手を伸ばせば届きそうな距離にいて、けれど決して触れられない。
そして最後に彼を呼んだ。
痛くて苦しくて辛くてどうしようもなくて。
それでも“死ねない”と叫ぶ心が本能のように求めたのは、ただ一人……、


「ジェラルド」


ようやく空気がその音を伝えた。
それがが命の危機に瀕して必死に呼んでいた名前だった。
ティキはぴくりと反応して動きを止める。
誰だそれは、という当然の疑問が刹那を生む。
アレンはその一瞬を見逃さなかった。


ッ!!」


渾身の力を使って叫び、それを教会中に響き渡らせる。
呼ぶ声を契機にイノセンスを通じて力を流し込む。
肉体的にも精神的にも無理やりに叩き起こした。
途端に彼女の瞳に光が引き戻され、目の前にいるティキに焦点を合わせる。


そして、最後の勝負が始まった。


ぶちり、という音にアレンは総毛立つ。
神経が千切れる破壊和音。
が床に磔にされている己の左腕を、強引に取り戻したのだ。
指の間が裂け、肉を持っていかれても、は構わなかった。
真っ赤な掌が翻ってティキの腕を激しく掴む。
互いの骨がギリギリと軋り、反発し合う。
極限を超えたの顔には陰が射していた。


「あの人は安息を知らない」


今もなお闇の中を徘徊し続けているのだろう。
生も死も超越したところを独りで歩み続けているのだろう。


「それなのに、私だけが眠れるはずもない」


だからこそ“”として生きる道を選んだ。
喪の仕事に従事し、悲劇の弔いの人となったのだ。
死ねない理由なんてたくさんあるけれど、彼はその一角を絶対的に占めている。


「私は、あの人を残して死ぬわけにはいかないのよ」


だから、とは囁く。
金色の双眸だけが、堕ちゆく世界の中で光っていた。


「代わりに貴方がおやすみなさい」


その瞬間、ティキの視界の隅で黒光が爆発した。
目を走らせれば、そこには床に刺さった十字短剣。
戦闘の最中にが投擲した刃である。
見当はずれな攻撃だったから特に気にせず捨て置いていたものだ。


「なに……!?」


短剣はとティキを中心に8本、円形に突き立てられている。
そのそれぞれが波動を放ち、空気が揺らぐほどの勢いで光を射出した。
黒の本流がティキの目の前を遮る。
耳に流れ込んでくるのは幾千、幾万と重なった涼やかな音。
遠くて近いところでの声がする。


黒死葬送こくしそうそうくさりの儀」


鎖葬さそう拘縛鎖こうばくさ


その宣言と同時に次々と肉体に侵入される感覚。
ティキは瞠目して自分のそれを見下ろした。
の胸元に突っ込んでいる右腕に、容赦なく無数の鎖が突き刺さっていた。
痛みもなく貫通して縛り上げる。
自身の手はそこから離れていたが、それよりもっとひどい圧迫感を覚えた。
これは捕縛の技だ。
咄嗟にそう判断したティキはの息の根を止めようと手に力を込めた。
そのまま心臓を破壊しようと試みる。
けれど腕を捕らえられた状態では、それ以上指先が進まない。
まさか、神経まで支配されてしまったのか。


「チッ……」


舌打ちをして腕を引き抜く。
やはりの意識が働いているのか、先刻とは打って変わって後退は簡単だった。
ティキは勢いに任せて跳び退がる。
彼女が身を引けというのならば、不本意だがそれに従おう。
一番に避けるべきはこのまま完全に拘束されることだった。
そうなれば待つのは死のみ。
身動きのとれないところを、あの灼熱の刃で刺されてお終いだ。


(それは、さすがにマズイな)


胸の中で吐き捨てて、口元に苦笑を浮かべる。
そして冷静に判断した。
今なら振り切れるはずだ。
術主が瀕死だからだろう、技の発動には揺らぎが見られた。
いまだに捕らえられているのが右腕だけなのが、その証拠である。
ならば襲い来る黒が全身に突き刺さる前に鎖を断ち切ってしまえばいい。
ティキはもう何度か後退すると、着地と同時に腕を振り抜いた。
絡みついた鎖が跳ね上がり、波打ち、教会中を奔りまわる。
床に壁にと打ち付ければ、轟音を奏でながら崩れ去った。
叩き斬るためにティーズを呼び出そうとしたところで、左腕を失っていることを思い出す。
そこに纏わすことができないのであれば、満足な強度は得られないだろう。
ティキは仕方なく根源から破壊しようと、鎖を一気に引き寄せた。
黒鎖は無理な動きを強いられ、幾本は天井高くまで跳ぶ。
幾本は床を破壊しながら這う。
そして幾本は空中を水平に円弧を描いて、


ドスンッ、という衝撃になった。


重い一撃。
唐突のことに、ティキは目を見開く。
驚愕に動きが止まり、振り回していた鎖が大人しくなる。
実体のないそれではあるが術主の意識で具現化しているのだろう、重力に従い落下した。
黒鎖が下へと退いた教会内で男は立ち尽くす。


「ありがとう」


すぐ傍で声がした。
背後からだ。
腰に回された華奢な腕が、先刻からティキを抱きしめていた。


「最後まで私を離さないでいてくれて」


小さな手がシャツの端を掴む。
が後ろからティキに抱きつき、その背中に頬を押し付ける。
彼女からの抱擁は初めてのことだった。
驚きに開いていた唇が苦い笑みを刻む。


「それは皮肉か?」


それこそ皮肉を込めて訊けばすぐに「いいえ」と返される。
縋るようにしがみついてくるは、きっとそうでもしないと立っていられないのだろう。
ティキは手を持ち上げてそこへと触れた。




巨大な手刀が、彼の胸板を完全に刺し貫いていた。




見事な一突きだ。
背中からティキの体を真っ直ぐに突き刺している。
黒い刀身も白銀の籠手も、の腕は全て人体を貫通。
ティキが少し視線を落とせば、それらが何もかも見えるほどだった。


「なるほど」


喋れば口の端から血が流れ落ちた。
それでも言わずにはいられない。


「この鎖は、オレを捕らえるためのものじゃなかったんだな」


もちろん心臓を破壊されないようにという意図もあったのだろう。
けれど一番の狙いは、これだったのだ。


「潰された右腕を、オレに動かさせるため……だったのか」
「そう。あなたが私を導いてくれた」


は背後で頷いたようだった。
ティキは目を細めて自身の胸を貫く、彼女の腕を眺める。
籠手の下は完全に破壊されていて、どうみても自力で動かせる状態ではない。
粉砕骨折よりなお悪いそれ。
だからこそは鎖を放った。
教会内をいまだに埋め尽くす黒鎖。
その幾本かはの手刀……、黒い刀身の先に連結していたのだ。
つまりティキは自ら死神を召喚したことになる。


捕縛から逃れよう、断ち切ろうとする当然の行動。
それが、鎖の先に刀身を繋げたを、自分の正確な位置まで引き寄せてしまったのだ。


砕かれた右腕は動かない。
腹は裂け、脚は貫かれている。
だからこそ、は『刃葬じんそう』の刀身の先端に鎖を繋ぎ、ティキの力で飛翔。
身のこなしだけで軌道を調整し、勢いにのったままこの胸板を貫いたのだ。
攻撃性のない鎖だと高を括っていたのが悪かったのか。
けれど、まさか捕縛の鎖の先に敵が繋がっているなんて思わないだろう。
そこに凶器を連結させて、こちらの力を利用して、襲い掛かってくるだなんて。
そんなこと、誰に想像できる?
ましてやはもう一人では立つことも難しい重症の身だ。


「この失態はオレが甘かった……というより、お嬢さんの策が破天荒すぎるだけだな」


悔し紛れでもなく、心からそう思った。
そして激戦を繰り広げた相手との決着が、こうもあっけなくついたことに笑いが漏れる。
結果も予想外すぎた。
一人で声もなく笑ってティキは掴んでいた鎖を鳴らした。
するとふいにその輪郭が歪んで、粒子となって溶け出す。
教会内を埋める黒鎖は瞬く間に消え去り、の手刀へと戻ってゆく。
やがてその刀身も完全に消失した。
イノセンスは発動を解除。
籠手からロザリオの形へと戻り、の手の甲を転がって床へと落ちた。
辺り一面に広がるティキの血の海に、それが跳ねる。
赤に汚れた銀色に、ティキは言う。


「お嬢さんも、限界か……」


イノセンスの発動が勝手に解けたのを見て取って、そう悟った。
何せ彼女は自分との戦闘を繰り広げながら、同時に捕縛の技を編み上げていたのだ。
並大抵のことではない。
万が一捕らえられたときのことを考えて、戦場に罠を仕掛けるという発想。
そしてそれを実行する度胸と精神力。
にとってはまさに生死を懸けた勝負だった。
数年前の時計塔では不可能だった強硬策を、ようやく独りの力で実現してみせたのだ。
その代わり反動も比べものにならないほどに凄まじい。


ティキは手を滑らせる。
黒い刀身も銀色の籠手も消えたの腕。
自分の胸を貫くそれに触れた。
粉々になった骨の感覚がしたから、痛くないのだろうかと思う。
痛いだろうと思い直す。
ティキ自身、右脚の肉を吹き飛ばされて、片腕を完全に失って、心臓のすぐ近くを一突きにされて、“痛い”のだ。
これが人間の痛覚だというのならば、だって同じだろうに。
こんなひどい目にあって、何故彼女は何も言わない?
悲鳴は滅多に聞いていない。
涙は一度も見ていない。
ノアでもない、弱い人間のくせに。
どうして……?
こんなときいつも彼女に感じる愛おしさのようなものが湧き上がってきて、ティキはの手に触れた。
自身の胸板を貫く彼女の腕、その指先を握った。


「お嬢さん」


いいや、そんな呼び方じゃなくて。





違う、これでもない。
この名前は嘘だ。
それでも他は知らないから、その音を繰り返した。


。どうして、お前は……」


自分が何を言いたいのかわからないまま、ティキは小さな掌を強く握った。
そうして己の体を横に滑らせる。
透過自在能力を使って、胸を貫いている彼女の腕をすり抜けさせた。
ダンスのターンように、手を取った状態でを振り返る。
向かい合えば再び衝動が湧き上がってきた。
金色の眼に射抜かれて、感情が騒ぎ出す。
ティキは言葉も持たずにを抱きしめようとした。
しかし強引に引き寄せようとしたところで、側面から襲撃を受ける。


「!?」


ハッと我に返っての体を突き放し、自分は跳び退がる。
襲い掛かってきたのは黒い光の破片だった。
が作り出したものにしては不恰好であるし、彼女はずっと自分の目の前に居たからそんなことは不可能だ。
第一イノセンスの発動はすでに解けている。
どういうことかとティキが目を見張れば、視界に白い影が躍り出てきた。


……!」


その人物が倒れこみそうになった彼女の体を受け止めた。
同時にティキとの間の空間に、先刻の黒光の残骸が突き刺さる。
それは床を抉り熱で溶かして消えていった。


「少年……?」


ティキは少女を両腕で支えるアレンの姿に、驚きを隠せない。
彼はの術に覆われて身動きが取れなかったはずだ。
問えばアレンは顔をあげ、こちらをきつく睨みすえる。
その左手が妙な波動を放っていることに気付いて首を巡らせた。
アレンが『守葬しゅそう』で囚われていた場所を見れば、黒光の壁が粉々に砕き崩されていた。
先刻ティキを襲ったのは、それを内側から破壊した衝撃で飛び散った破片のようだ。
脱出と攻撃を同時に行ったアレンに思わず感嘆のため息をつく。
けれどもっと感心するべきことは、彼の腕の中でが呟いた。


「うそ……、『守葬しゅそう』を破ったの……?」


激痛に朦朧とさ迷っていた金色の双眸が見開かれる。
かろうじて動く左手で、アレンの胸元を掴んだ。


「何て無茶を……、あれは私以外の人間が勝手に出入りできるものじゃないのに……っ」
「勝手にじゃない」


アレンはティキを睨んだまま、に答えた。


「二人のイノセンスが共鳴していた。君の能力に反応して、盾が僕の攻撃を受け入れたんだ」


だからといって無茶をしていないとは言えないだろう。
の能力と合わせようと、発動が解けて強度が弱まっていようと、防御技である『守葬しゅそう』を打ち破るのは至難の業だ。
ましてやアレンは瀕死の状態である。
はまだ何か言おうとしたが彼は素早く遮った。


「それに、君に怒られるつもりはないよ。そうしたいのは僕のほうなのだから」


言いながら彼はの肩を強く抱いた。
自分の胸に頭を押し付けて、無理に体重を預けさせる。
その間もティキを睨み続けていた。


「ティキ・ミック。勝負はつきました」
「…………少年の勝ちか?」


今の状況から見ればそうなりそうだ。
ティキは血を流し続ける胸を押さえて、わずかに上体を折る。
痛みが凄まじくて、そろそろ立っていられなくなりそうだ。
けれどアレンが首を振ったから、思わず顔をあげた。


「いいえ。僕も負けです」
「………………どういうことだ」
「僕もあなたも負けたんです。…………に」


吐き出された言葉はとても静かで、苦痛に満ちていた。


「あなたはを手に入れられなかった。僕はを守りきれなかった。だから二人共が敗者です」
「…………………」
「彼女はあなたの拒み、僕を阻んだ。全て敵にまわして独りで戦い抜いた。……だから、だけが勝者と呼べる」
「……どちらの手も取ってくれなかったから、二人とも負け。自身の願いを実現させたお嬢さんが勝ちというわけか」
「ええ。そうです」
「そうだな……。お嬢さんの望みは、少年を守って自分も生き残ることだもんな」


喉の奥で笑いながら言えば、アレンは瞳を翳らせた。
銀灰色がそれでもこちらを見つめてくる。
ティキはいっそせいせいとした様子で笑顔を浮かべた。


「確かに彼女だけが自分の想いを叶えている。……オレはもう戦えそうにない」
「…………………」
「さすがにこれ以上やると、洒落にならないからな」
「それはこちらも同じです。僕もも、立っているのが精一杯だ」
「少年が出てきてシラけちまったしなぁ。潮時か……」


最後の一言は自分に向って言い、ティキは背筋を伸ばして起立した。
心臓近くに空いた穴からは血が止まっていなかったが、それを押さえるためではなく胸元に手を当てる。
そして優雅に一礼してみせた。


「デートはここまでだ、お嬢さん。そこの無粋な少年に、次は二人の仲を邪魔するなと伝えておいてくれ」


目の前にアレンがいるにも関わらずそんな軽口を言って微笑む。
その様子は死に至る傷を負わされているようには見えなかった。
わずかに息が乱れている程度で、これが自分達の敵かとエクソシストは戦慄する。
彼は確かに超人と呼べる種族だった。


「あんまりこの体を苛めると千年公に怒られるし、ロードや双子には笑われる。それでも止められないくらい興奮したよ。ありがとう」
「…………っつ」
「またの機会を楽しみにしている」


はティキの元へと向おうとしたが、体が言うことを聞かなかった。
そのうえ後ろからアレンに引き戻される。
痛みと悔しさに唇を噛んで、無理に感情を押し殺す。
そしてエクソシストとしての判断を下した。


「……、私もよ」


今は互いに退くべきだ。
これ以上の戦闘は体が耐えられない。
無謀な追撃をしかけるよりも、仲間の傷を手当するほうが先決だった。
傷を抉られたとか、過去を暴かれたとか、そんな個人的な感情などいくらでも捨ててしまえばいい。
は己の破壊衝動を必死に抑えて告げた。


「次に会ったときに」
「また闘り合おう」
「そのときは、逃がさない」
「オレもだよ、お嬢さん」


そうしてティキは何処からともなくティーズを召喚した。
紫の色彩が翻り、どんどんと増えて彼の姿を覆ってゆく。


「オレはお前を諦めない。必ず手に入れる……」


血に濡れた男はそれでも艶やかに微笑んだ。
指先が伸ばされて、掌が差し出される。
彼の手は確実にを求めていた。
燃えがる生命を心の限りで欲していた。


「言っただろう?オレはお前を縛るあらゆるしがらみを断ち切ってやる。全ての枷をぶっ壊してやる」


自分にはそれが出来ると、ティキは再び口にした。


「その心を傷つけてないがしろにした“仲間”たちから、お前を跡形もなく奪い去る。死という形で……な」


そこで彼は、愛の告白のように甘い声で囁いた。


「オレが残酷な運命から開放してやるよ、お嬢さん」


それが優しさであり、救いであるような錯覚に陥る、甘美な響き。
そう、確かに幼いころの自分は願っていた。
死を。この醜い存在を殺してくれる相手を。ひたすらに望んでいたのだ。
“私”は…………。


突風が巻き起こり、ティーズの大群が後ろへと流れた。
の視界は煽られた長い金髪で覆われ、遮られる。
それがおさまったときにはもうティキの姿はどこにもなかった。
風と蝶が連れ去ってしまったように、長身の影が消失。
大量の血液だけを床に残して、快楽のノアは去っていった。


「………………」


残された余韻には胸が詰まるのを感じる。
自分を望む、あの狂気に満ちた男の眼が消えてしまったことに、吐き気を覚える。
駄目だ。
一度起こしてしまえば眼を逸らすことは難しかった。
暗い記憶が耳の奥で鳴り止まない。
ティキの狂った愛によく似たものを、過去の自分が知ってた。
だからこそ、この手で跡形もなく壊してやりたかったのに。
あの光が欠落した双眸がこの世に存在していると考えるだけで堪らなくなる。


「…………っ」


我慢できなくなって、はアレンの腕から逃れた。
関節を破壊された脚は思うように動かないから這うように進む。
頭の冷静な部分はティキが撤退してくれて良かったと思っているのに、何故こうやって彼に追いすがろうとしているのだろう。
壊したいのか。壊されたいのか。
アクマが見せた過去の自分が、殺してくれと胸の中で叫んでいる。
今ここにあるエクソシストの自分が、破壊したいと頭の中で訴えている。
生命を懸けた戦闘という極限状態を終えて、境界線の曖昧になった時間がをぐちゃぐちゃにした。


もう立っていられなかった。
崩れ落ちるように膝をつけば赤い血がびしゃりと跳ねる。
色も匂いも気持ち悪い。べたべたと纏わりついて白い脚が見事に汚れた。
元から傷だらけだったけれど、自分の血と混じるのは不快だ。
腰にかろうじて引っかかっているだけのスカートがどんどんそれを吸い込んでゆく。
吐き気がおさまらなくてむせれば、床に突いた手に何かが触れた。
指先を滑る固い感触。
白銀のロザリオ。
血まみれになった自分のイノセンスを、は夢中で拾い上げた。
嫌だ、こんなのは昔を思い出す。
汚してはいけないときつく言われてきたのに、私はこれを真っ赤に染めてしまった。
あの人たちの血で―――――――………。


は嘔吐感に咳き込みながら、掌で擦って汚れを落とそうとした。
赤い色は消えない。
スカートの裾で拭ってみても無駄だった。
吐き気が止まらない。止まらない。止まらない。
胃どころか自分の内面を全部ひっくり返してしまいそうだ。





名前を呼ばれるのと同時に肩を掴まれた。
そこで何となく、あぁ今の私は“”だったなと思う。
けれど体は拒絶反応のように、触れた彼の手を弾き飛ばしていた。
見上げた視界に暗くなった空と星が見えた。
そしてアレンの驚いた顔。


「……ご、め……っ」


は振り払ってしまったアレンの手を見つめる。
どうして拒んでしまったのだろう。
あんなに優しい掌は他になくて、私のような存在に触れてくれること自体が素晴らしいことなのに。
当たり前のことを考えて、無理やり微笑んだ。


「ごめん、アレン」


私は何をしているんだ。
“私”は“”なんだから、そうであるように振舞わなければいけなくて、だから笑って手を伸ばす。
そしてアレンの指先を握った。


「ごめんね、痛くなかった?」
「…………………」
「本当にごめんなさい。早く病院に行こう」
「…………………」
「すぐに傷の手当を……」


アレンは黙ったままだった。
もそこで言葉を失った。
繋いだ手を握り返されたからだ。
痛いほどの力で、掌を圧迫される。
怪我なんか無視で乱暴と言えるくらいの激しさで、アレンがを求めた。


全身に、ゆっくりと、衝撃が走った。


その瞬間、火に晒されたようにはアレンの手を振り払った。
それは反射的な行動で、自分でも何をしたのかいまいち理解できなかった。
けれどあれだけ強く握ってきたアレンから逃れられたのだから、自分はそれ以上のものを出したことになる。
それこそ渾身の力だ。


「……?」


本当によくわからなくて、は自分の掌を見た。
震えていた。
何だこれは。
アレンに触れられて、何故私は震えている?
は呆然と顔をあげた。
銀灰色の瞳がこちらを見下ろしていた。
そこに宿った光がひどく冷たかったから、ますます混乱する。
どうしてそんな眼で、彼は私を見るのだろう。


「いや……」


何?といつもの調子で聞きたかったのに、口が勝手にそう動いた。
駄目だ言うな。言ってはいけない。
理解が追いつく前に、理性が制御する前に、自分の感情をぶちまけるな。
そんなのは違う。
そんなのは“”じゃない。


「やめて」


何に対してそう願っているのかもわからなかった。
アレンは相変わらず冷ややかな視線で見つめてくる。
見下す、と言った方がいいかもしれない。
の知っている彼は、こんな眼で他人を眺めたりはしないはずなのに。


「やめて、触らないで」


懇願する相手の後ろに青い三日月が見えた。
その光が影をつくり、その中には覆われていた。
沈んでゆく。溺れてゆく。苦しいともがいてみせても、目の前の彼は助けてはくれないだろう。
今の“私”が“”でなくなろうとしているように、彼もアレンではないようだった。
暗い夜、血の海の中に二人は取り残される。


「“私”に触れようとしないで」


そこでようやく本能で感じていたことに理解が追いついた。
彼は“私”の過去に触れようとしている。
”の言い分なんか放り投げて、この身の全てに手を伸ばそうとしている。
だからあんなに冷たい眼をしているのだ。
いつものアレンなら、こんなことしない。出来ない。
私が嫌だと訴えれば止めてくれる。言わなくても踏み込んでこない。
心の中でどんなに歯がゆく思っていても、沈黙したままでいてくれる優しい人なのだ。
そんな彼が私の考えを無視して、自分を傷つけて、それでもその境界線を踏み越えようとしている。
どれほどの覚悟のもとでそうしているのかは、アレンの人柄を思えば容易に想像できた。
けれどそれを受け入れられる余地がにはない。
いつものように受け流せない強い意志に、全身がすくみあがる。


「やめてよ。どうでもいいじゃない。“私”のことなんて」
「………………」
「今まで通りでいてよ。アレン」
「………………」
「それよりも病院に行かなくちゃ……、ねぇ」
「………………」
「ね……」


必死に笑おうとするけれど、口元が震えてうまくいかない。
わなないているのはすでに掌だけではなかった。
銀灰色の瞳に貫かれて、は凄まじい恐怖に襲われた。


「アレン」


名前を呼んでも返事もしないし、笑わない。
こんな彼は知らない。
あまりに恐ろしくてはアレンから離れようとしたけれど、立ち上がる力が出なくて、じりっとにじりさがっただけで終った。
血溜りと影の世界が、の居場所だった。
こんなのアクマやノアと命懸けの戦いをしているほうが怖くない。
ちっとも怖くない。


そう。私はいつだって、内側を見透かそうとする眼差しを一番に恐れていたのだ。


「そんな眼で見ないで」


リナリーは私のために笑ってくれた。
ラビはずっと傍にいてくれた。
神田は隣で一緒に戦ってくれた。
アレンはそれを全部してくれた仲間だから、はこのままで居たいのに、彼はその先を求めようとしている。
好奇心でもなく、ただただこの存在のためだけに。


「知ろうとしないで。理解しようとしないで。あなたが痛いだけよ」


何となく予想は出来ている。
私は彼を傷つけるのだろう。
優しいその心に、深い痛みを刻み付けるのだろう。
そして人一倍優しいあなたは、私なんかの想いを背負い込んでくれるのだろう。
嫌だ。そんなのは。


「いや……っ」


アレンは無表情を保ったまま、の手首を掴んだ。
悲鳴をあげて振り払おうとするけれど、今度はそうもさせてもらえない。
指先が皮膚に食い込んで嫌な音をたてる。
痛いと訴えれば、開放してくれと頼めば、アレンはそうしてくれるはずなのに、今の彼には何を言っても意味がなかった。


「やめて、離してよ……!」


は残った力を全て使って暴れるけれど、アレンはびくともしない。
表情すら揺らがないから本当に抵抗は無意味だった。
けれどは彼に何もかも知られて痛みを背負わせてしまうくらいなら、今のうちに失いたかった。
アレンとの絆を全て断ち切ってでも、拒んでやりたかった。


「“”を壊さないで」


この心の奥に触れようとしないで。
“私”の苦痛や絶望を理解しようとしないで。
あなたを傷つけるくらいなら、“私”は今まで通り孤独の内に死んでいたい。
あなたの仲間である“”のままでいさせてよ。


「そうじゃなければ生きていられない。それ以外は認めてもらえない。だからお願い」


懇願の声は届かない。
逃げて、と思った。
もうこの手を振り払えないのならば逃げて欲しい。
逃げて逃げて逃げて逃げて、私の声など届かないところまでどうか走っていって。
“私”なんかのいない世界で幸せに笑っていてよ。
彼の視界の中にいることすら苦痛で、はアレンから顔を背けた。
けれど強い力に引き戻される。
その強制的な所作が、ひどい戦慄を生む。
殺されるのだと思った。
今まで積み上げてみたものが、何もかも粉々に突き崩される。
違うのに。
いつだって息の根を止めてほしいと願っていたのは、こんなんじゃなくて、くだらない私の弱さだったのに。
揺ぎ無い強さで、私は“私”を壊したかったのに。
けれど今跡形もなく蹂躙されようとしているのは、必死に造り上げた“本物”だ。
嫌だ。
“死ぬ”のは嫌。
やめてやめてやめてやめてやめて、やめて。




「あなたの優しさで、“”を破壊しないで……!」




喉が引き攣るような叫び声を吐き出した瞬間、目の前が暗くなった。
何が起こったのかよくわからなかった。
圧迫感が強くなって、愕然と悟る。


は体が折れそうなくらい強く、アレンに抱きしめられていた。




















殴ろうとした。
もう動かすことも難しい左手を握り締めて白い頬を張り飛ばしてやろうと思った。
そうしたら少しはこの胸の痛みがわかるんじゃないかと、そんな自分勝手な考えて拳を振り上げようとした。
仮にも女性相手にありえない。
普段の自分なら考えることはあっても、絶対に実行しようとは思わないだろう。
それほどまでにアレンはが憎らしかった。


「怯えていればいい」


怒りのままに吐き捨てる。
僕は今どんな顔をしているだろう。
想像することは難しかった。
こんな冷たい眼を、蔑むような眼差しを、他人に向けたことはないのだから。


「そうやって怖いと震えていればいい。抵抗しても敵わずに、僕に触れられて嫌だと」
「………………」
「泣き叫けべばいい……!」


言葉を言い捨てながら地面に膝をついて、彼女の体を掻き抱いた。
抵抗なんて許さなかった。
二人とも血まみれだから、どうしようもないくらい赤に汚れる。


「今の僕は、あの男と同じだ」


いまだに近くで微笑んでいるような気がする。
褐色の肌と暗紫色の瞳が目に浮かぶようだ。


「ノアもアクマも教団も、君を傷つけた。意思など無視して、尊厳を踏み潰して、まるで自分の所有物のように君を扱った」
「………………」
「僕はそんな奴らから君を守る気でいたよ。仲間だから。家族だから。大切な人だと、思ったから。でも……っ」
「………………」
「でも君はそれを望まない。ノアを拒んだかわりに、僕の手だって取らなかった。そんなものはいらないと、切り捨てて、背を向けて、置き去りにした……!」
「ち、ちが……」
「黙れよ、言い訳なんか聞きたくない!!」


の掠れた声が聞こえた気がしたけれど、アレンは怒鳴って遮った。
腹立ちがおさまらないから抱き込んだ体を乱暴に揺さぶる。
どちらも怪我人だけど構うことはなかった。


「どうしてだよ。肝心なところで振り払って。関係ないと遠ざけて。君は気持ちひとつ、分け与えてはくれない」
「アレン……」
「ふざけるな……、僕を馬鹿にするなよ」
「アレン」
「いつまでも自分勝手に振舞うことは許さない」
「アレン!」
「もう物わかりのいい振りはやめたんだよ……!」


制止するようにが名前を呼ぶから、その両肩を掴んで自分から引き剥がした。
彼女は泣きだしそうな顔をしていた。
恐怖と葛藤に、崩れてしまいそうだった。
それこそアレンの望むところだ。


「もう君の言い分なんか知らない。嫌だと言われても止めない。…………本当は、優しくしたかったけれど」


が夢の中で泣いていたあの朝のように、ただ抱きしめて、隣に寄り添っていてあげたかった。
けれどもう無理だ。
だって僕は悟ってしまった。
アレンも泣きだしそうに言う。


「ちゃんと受け止められる自分になるまで、何も訊かないでいようと決めていたけれど。その決意は無駄なんだろう。……そんな日は来ない」
「……どう、して」
「傷をつけずに君に触れることなんかできないからだよ」


の双眸が見開かれた。
あぁ、彼女はどうしてこんなに怪我を負っているのだろう。
血で真っ赤になって、肌を裂かれて。
破り捨てられた服からは腹や胸元が覗いていた。
形の良い乳房が布地からこぼれ落ちそうで、のような女の子がこんな格好をしているのは絶対におかしかった。


「傷つけたくないと思っていたから、僕は今まで黙っていたんだ。けれど、無理なんだろう。そんな生易しいことで、君には触れられないんだろう」


両肩を掴む手が震えた。
それを殺したくて力を込めれば、互いの骨が軋んだ音を立てる。
気持ち悪い。
への感情と、自己嫌悪で呼吸が止まってしまいそうだ。


「分かり合えるものが何ひとつなかったなら、僕は君を諦めたよ。でも、たくさんあったじゃないか。僕たちは仲間だと、そう信じられるだけの想いが……確かに」


それは例えば生きる希望とか。
生命の大切さだとか。
戦う意味を問う先。
顔を見合わせて何度一緒に笑っただろう。


「僕は君の心を知って、体を抱きしめたよ。さっきアクアから君を救った時だってそうだ。確かに気持ちが通じ合ったって、わかった」
「…………………」
「けれどそれは、君が僕を求めたわけじゃない。君はそんなことはしない。…………君はどこまでも孤独に自分という存在を背負おうとしているから」
「…………………」
「そこにある絶望や苦痛を、決して誰にも渡そうとはしないから。…………僕が、君に触れられる日はやってこない。君がそれを許してくれない。いつまでたっても……一生許してくれない」


それがの誇りなのだろう。
自分という存在を保つための、強い強い誓いなのだろう。
だけどそんなこと僕の知ったことか。


「だったら、君が拒むのなら、僕はもう強引に奪うしかないだろう」


力にものをいわせて、腕力に頼って。
ちょうど今、君を捕まえているように。





名前を呼べば、彼女は恐怖に強張った表情で微かに首を振った。
アレンは構わずに続けた。


「今の僕は、ノアや教団と同じだ。君を……傷つける」


ねぇ、触れることが出来ると思ったのはまやかしだったの。
を悪夢の底から救い出したとき、ようやく彼女を独りにすることもなくなったと信じられたのに。
どこまでも強いこの人は、結局何度だって僕を突き放す。
僕を自分の苦悩に巻き込むまいと努力し続ける。


「もう、優しさはいらない」


そんな、優しさは、いらない。


「要らないよ。“”」


そう囁けば目の前の人が呼吸を止めたのがわかった。
息を短く吸い込んで、そのまま硬直してしまった。
アレンは荒れ狂う心を他人のように眺めながら、言葉を彼女の心臓へと突き刺した。




「“君”は誰?」




時間は、そこで役目を放棄してしまったようだった。
流れは止まり、滞り、何もかもを凝結させてしまった。
進めもしない。戻りもしない。
壊れた針は動かない。
ただ風だけが吹いて、二人から体温を奪っていった。


アレンは“”を否定した。
本当の名前を問いかけることで、その存在を拒んだ。
殺したのだ。
彼女の心を容赦なく砕いて、踏みにじって、懸命に生きてきた8年間を粉々にした。
破片は胸に突き刺さり、じっとりと溶けては毒へと変わる。
金色の双眸はぴくりともしない。
深い穴のようになった瞳は、もう光が見えなかった。
嗚呼、とアレンは思う。
本当に、こんなことで、彼女は死んでしまうのだ。
なんて不安定な存在なのだろう。
アクマやノア、苦痛や絶望に対してはあんなにも強く凛とした態度で立ち向かうくせに、どうして僕のこんな一言で呼吸をやめてしまうのだろう。
いいや、これは言った相手が“アレン”だからだ。
これはひどい裏切り行為であることをアレンは重々自覚していた。
”という人間は随分迫害されて生きてきたものだから、一度自分の内側に入れた者にはとことん弱いのだ。
大好きになって、信じきって、守るためなら全てを懸けて戦い抜く。
本当の笑顔を向けてくれる。
微笑み返せばとても嬉しそうに口元をほころばせて、馬鹿で愉快なことを言い出すのだ。
それを生きる糧にしていることぐらいわかっていた。
そんな大切な“仲間”に裏切られたものだから、“”の意識は凍ってしまったのだろう。
どれほどなのか。
どれほど、今苦しいと思ってくれているのだろうか。
“僕”が傷つけたという事実はどれだけの衝撃を与えている?
アレン・ウォーカーという人間は、その心をどれだけ占められていた?
激しい憎らしさがそんな欲に変わって、アレンは今度こそ嫌悪感で死んでしまいそうになった。
僕は彼女を痛めつけて喜んでいるのか。
これじゃあ本当に快楽のノアと変わらない。


「ねぇ、答えて」


それでもアレンの唇はそんな声を吐き出す。
を嬲り続ける。
泣けばいい。
泣いてくれ。
僕に裏切られて、傷つけられて、涙を流してよ。
どうか、辛くて苦しいとこの胸に寄りかかって……。


「“君”は誰なんだ」


は応えなかった。
何の反応も返さなかった。
ただ見開いた目でアレンを見つめていた。
表情からは何の感情も読み取れなくて苛立つ。
そんな自分が殺してやりたいほど嫌いで、アレンは自分の唇に冷笑が浮ぶのを感じた。


「“君”はどこの誰で、どこから来て、どうやって此処にいる?」
「………………」
「年齢は?出身は?家族は?」
「………………ぅ」
「答えてよ」


ぴくり、との肩が揺れた。
ようやく反応したのは“家族”という単語だった。
恐らく心の闇に直結するものなのだろう。
アレンは四肢を引き裂かれそうな思いで言葉を吐き出す。
それが、どれほど彼女を傷つけるのか、わかっていながら。


「金色の瞳」
「……っ、ぅ」
「左頬に傷のある、男性」
「は……、っ、…………」


ぶるぶると全身を震わせるに手を伸ばして、指先で触れる。
冷え切った皮膚と、粘着性のある血液。
肉がぐちゃりと嫌な音をたてる。
アレンは彼女の左胸、そこに刻まれた傷跡に容赦なく掌を這わせた。


「彼は一体“誰”の心臓を貫いた?」


その名が“”でないことはわかっている。
わかっているんだよ。
アレンはアクマの能力が見せた光景を思い出す。
真っ赤な空。真っ赤な地面。真っ赤な少女。
あの血まみれの女の子は、“”になる前の君なんだろう?


「うっ、うあ……げ、ほっ、……」


は反射的に片手を持ち上げて口元を覆った。
けれど塞ぎ切ることはできなくて、結局上半身を折って地に伏せた。
弾みでアレンの手は心臓の上からずらされる。


「か……はっ、ぅ……ぐ」


の口から吐き出されたのは血なのか胃液なのか、判断がつかなかった。
ただ熱い液体をぶちまけて喘いだ。
固まりはないのに喉が塞がれてしまったらしい。
喉が激しく上下に動いて、呻き声と赤い体液を垂れ流す。
きっと体の内側が潰れるような感覚に襲われているんだろうな、とアレンは思った。
嘔吐するものがないのにそれを行うというのはとても辛いはずだ。
そうまでして、彼女の全ては真実を話すことを拒絶していた。


「吐くほど嫌なんだね」


心の内は死にそうなほどなのに、アレンの声は冷静だった。
は顔をあげない。あげられない。
地面に爪を立てて、真っ赤な液体を落としてゆく。


「いつもは何でもない顔で誤魔化すくせに」


アレンの手はいまだにうつ伏せのの上体と太ももの間に挟まれていた。
そのまま手さぐりで心臓の位置まで戻す。
彼女は抵抗しないかわりに、またひどく赤を吐いた。


「笑って話を流す?冗談を言ってみる?僕は何度もそうされてきた。ほら、今回はしないの?」


もう片手を体の間に差し込んでを引き起こす。
泣いてて欲しいと思ったけれど、白い頬は血で汚れているだけだった。
真っ青な顔で震えながら、ただ口元を押さえている。
少しでも油断すればまた吐き出してしまいそうなのだろう。
アレンはを真正面から見つめて、無理に微笑んだ。
顔の筋肉を吊り上げるだけのそれは、どれほど不自然に、不気味に見えることだろう。


「こんなときじゃなければ、君はうまく言いつくろうことができるだろう?僕を傷つけずに自然と拒絶することができるだろう?」


言葉を研ぎ澄ませて切りつける。


「でも今は無理だ。満身創痍の君には、そんな余裕がない」


命を懸けて守ったはずの相手に、喉笛を噛み付かれるのはどんな気分だろう。
聞いてみたいけれど、はぜいぜいいうだけで意味のある声は発さなかった。
代わりにアレンばかりが口を動かす。


「だから僕も正直に答えてくれるかなと思ったんだけど。駄目みたいだね」


期待外れ。
嘘だよ、予想通りだ。
どうせ君は僕に何も言ってくれないってわかってた。
生死をさ迷う激戦の後で、壊れそうな肉体を、限界に達した精神を、信じていた相手に踏みにじられる可哀想な“”。
けれど、さぁ。
こんなときでもないと君は平気なフリをするだろう。
本当に死にそうな極限状態でもなければ……そんな風に赤をぶちまけて拒絶を顕わにしなかったんだろう。
だって僕は君の大切な“仲間”だ。
だから君も無防備な顔で近寄ってきて、そんなところが大好きだったんだけれど、今ではどこまでも疎ましい。


「笑顔も虚言もない。普段よりは誠実だけど、吐いて吐いて吐いて、言葉を流してしまうなんて」
「…………………」
「ずるいね、本当」
「…………………」
「君は卑怯だ」


ひどい言葉ばかりだった。
罵りに近い。
は苦痛に歪んだ瞳で見つめ返してくる。
潤んでいるように見えるけれど、そんなのはどうせ生理現象だ。
改めて、何なんだろうこの人はと思った。
変だ。おかしい。
悲鳴をあげない、涙も流さない。
裏切り行為を淡々と続ける自分に、非難ひとつ浴びせない。
本当に普通じゃない。
考えれば自然と拳を握っていた。
再び湧き上がった殴りたいという思いからか、激しいばかりの感情を殺そうとしたからか。
どちらにしろ爪が皮膚を突き破るまで、そうしていた。
それに気付いたは咄嗟にアレンの手に触れてきた。
まるで止めろというように。傷つけるなと訴えるように。
違う、そうじゃない。
君が守らなくてはいけないのは、こんな僕ではなくて自分自身のはずだろう。


差し出して欲しいのは、そんな手じゃないんだよ。


アレンはのそれを振り払い、手首を掴み返した。
彼女は自分の行動がよくわかってなかったのだろう、ハッとしたように息を呑んだ。
立場が逆転したように、感情もひっくり返る。
触るなと彼女の全身が叫ぶ。
ほら、僕が傷つけばこの人は簡単に癒しの手を差し出すくせに、反対のことをすればどこまでも拒絶するのだ。
弱音も吐かずに哀しみも見せずに、誰にも縋らずに。


(縋ってくれだなんて、僕の夢でしかない)


彼女はそんな不様な真似はしなかった。
だからにっこりと微笑んで言ってやる。


「教えてあげようか」


振り払われないように手首を掴んだ手に力を込める。
痛みに金色の瞳が揺らいだ。
アレンはそれを無理に引き寄せて囁く。


「答えてくれないのなら、言いたくないというのなら、僕が教えてあげる」


吐息が互いの口唇に触れた。


「君の拒絶が何よりの証拠だよ」


垂れた長い金髪がアレンの頬を撫でた。
闇の中でも輝くはずのそれは、今は血で汚れて黒ずんでいる。
滴る雫がぽたり、ぽたり、と落ちてゆく。


「君という存在は、エクソシストになった8年間だけで出来ているわけじゃない」
「……………………」
「“”でいるつもりなんだろうけど。それだけで生きてきたと思いたいのだろうけど。本当はわかっているんだろう?」
「……………………」
「過去の“君”は死んでいない」


言葉にすればはすぐに唇を動かした。
違うと言いたいようだけど声にならなかったから無視する。
そもそもそちらの言い分は聞かないと最初に断っておいたはずだ。


「あの小さな女の子は、今も君と共にいる。ねぇアクマに見せられたんだろう。教えられたんだろう。いつまで認めないつもりなんだ」


垣間見ただけの僕のほうが先にそれを受け入れてるってどういうことだ。


「君は馬鹿だけど愚かではないだろう。それなのに、いつまでこんな頭の悪いことをやっているの?今まで誰も止めてくれなかったの?」


グローリアさんは?クロス師匠は?
無理だろうな。あの二人にとっては幼い子供でしかない。
時代的にも人格を確立させるのに必死な頃だから、口にすることなど出来なかったのだろう。
じゃあリナリーは?ラビは?神田は?
これも無理だ。
は女性に弱い。どこまでも強がってみせるだけの対象だ。
ラビと神田は、どちらも同じく謎を抱えた者。
踏み越えてはいけない一線を知りすぎている。
わかっていても、言えない。言えばどうなるのか痛いほど理解しているから。
自分が拒むことを相手にするだなんて無体、友人だからこそ出来なかったのだろう。
だから、今、僕が告げなくちゃいけないのか。
ここまでやっておいてなんだけど、本当に本当に、傷つけたくなかったのになぁ。最低の話だ。
そんなことを考える。
僕こそ最低の卑怯者だ。


「ね、……」


名前を呼ぼうとして困った。
何て言えばいいのだろう。まぁ何だっていいか。
すぐに思い直した自分に失笑する。


「…………そうやって、いつまで自分を責めているつもりなの。過去の“君”は“”を、“”は過去の“君”を。互いに否定して、蔑み合って、それでどうなるっていうの」
「…………………」
「そんなのは間違ってる。そして、そうやっている時点で、君は気付いているはずだ」
「…………………」
「結局は、どちらも君自身なんだって」


は首を横に振りたいようだった。
だからアレンは彼女を捕まえている手を全て離して、その頬を覆った。


「過去は死んでいない。現在いま も生きている。“あの子”も“”も同じ、たった一人の人間だ」


触れた肌は冷たくて、震えていて、もう止めてあげたくなったけれどアレンにはそれが出来ない。
この人は自分の力で立ち上がれる“”だけれど、同時に赤い世界に座り込んでいる小さな小さな女の子なのだ。
手を離すわけにはいかなかった。
言葉を止めるわけにはいかなかった。


「教えてあげるよ。“君”はね、とてもおかしな人なんだ。変わってるなんてものじゃない。僕の知っている型に全然あてはまらなくて。良い意味でも悪い意味でも一般常識にとらわれない、変てこな人」


それこそ出逢ったときから、ね。


「でも、“君”が無茶苦茶するのは他人のことだけで。実際は考えあってのことなのに、奇行でそれを誤魔化そうとするんだ。馬鹿で突飛なことばかり言って、何も考えていないように振舞って……。ひどい照れ隠しだよね」


それが僕には不思議な風に感じられた。
鬱陶しいけれど、楽しかったよ。
腹が立つけれど、嬉しかったよ。
何度も突き落とされて、何度も救われてきたよ。


「“君”はとても強い人だと思う。誰かのために笑って、誰かのために哀しむことができる。他人の弱さを受け止めてあげられる。…………けれど」


アレンは手にぐっと力を込めた。
指先がの頬に食い込む。
その光景に表情が歪みそうになったけれど、必死に笑顔を保った。
それは彼女のせいだった。
アレンのニセモノの微笑を嫌いだと言った、金髪の少女にそれを見せ付けていたかった。


「“君”の弱さは誰が引き受けるの?」


コールは何回?
僕が見た彼女の世界には、誰もが不在だった。
沈黙のうちに助けを求めたその先に居たのは自身でしかなかった。
救難信号はその小さな体の内で鳴り止まない。
コールは無限?
否、


「ずっと不思議だった。どうして君はそんなにも強いのか。どうして涙を流さずにいられるのか。どうしてたった独りで絶望と苦痛に立ち向かえるのか。誰にも見せない弱さは、どこへ行ったのか。…………その答えを、ようやく見つけたよ」
「…………………」
「いいや、本当は随分前に気付くべきだったんだ。僕は」


響くベルをいつも受け取っていたのは、君だったんだね。




「“”は、過去の“君”に、全ての涙を押し付けていたんだね」




そう囁いた瞬間、の唇が動いた。
笑ったようにも見えたし泣き出しそうにも見えた。
ただ息を吐いたかと思うと、肩を持ちあげるようにして体を強張らせた。
アレンはそれを見て笑顔を緩める。
ようやく不自然に表情を保つことを放棄することができた。


「辛いことも苦しいことも、全部ぜんぶ、あの幼い少女へと追いやってきたんだろう」


繋がった回線。
掛けたのは君。
取ったのも君。
同じ人間が、取引をした感情。


「君は、過去の自分を意識の底で痛めつけて、ズタズタにして、泣き喚かせて。そうやって今まで笑ってきたんだ。酷い話だね。自虐なんてレベルじゃない」


アレンもそうとう自己犠牲精神の強い人間だと評されてきたけれど、これは次元が違った。
彼女の魂は分裂させ、互いを責め合いながら生きてきたのだ。
”は、その境遇ゆえに生まれる苦しみを過去の自分へと背負わせた。
反対に幼い少女は孤独を“”に強いる。
誰にも甘えるな。誰にも涙を見せるな。誰にも弱さをさらけ出すな。
だってそれを全て持ってる小さな“彼女”は、“”自身が殺したことになっているのだから。
この世に存在しないとしたものを、どうして他人に示すことができるだろう?


「もっと早く、それに気が付けばよかった……」


アレンはもう、間違ってでも微笑むことができなかった。
心臓が潰れそうに苦しい。
”は何も言わなかった。
これまでだってそうだし、今も同じだ。
けれど口をつぐんだまま、無意識にそれを垣間見せていたのに。


「噴水に飛び込んで隠した涙。あれを流していたのは“君”だろう」
「…………………」
「あの朝に泣いていたのは、“君”なんだろう?」
「…………………」
「昔リナリーが出会ったという女の子よりも、もっと鮮明に僕は“君”を知っていたのに」


止まらない涙を、耐え切れない哀しみを、ひっそりと流していた彼女。
闇に紛れた意識の向こうで、あるいは夢の中で、独りぼっちで泣き続けていた。
”の弱さを背負い続けてきた。
いいや、それは“君”自身の弱さだ。


「君が別人のように扱うから、僕もそれが自然なんだと思ってた。でもそうじゃない。彼女は、君だ。“”だよ」
「違う」


は唐突に明瞭な口調でそう言った。
声を叩きつけた。
体を強張らせたまま、表情を失くしたまま。


「違う。ちがう。あの子は私が殺した。もういない。死んだのよ」
「……生きてるよ。今も息をしている。僕の目の前で」
「私はよ。エクソシストの“”。あんな……」


見開かれた金色の双眸の下に、不自然な皺が刻まれる。


「あんな弱い子供じゃない」
「そうだね。でも強い“君”は泣いた」
「…………………」
「限界まで我慢してこられたのは、あの子に全ての弱さを背負ってもらっていたからだろう」
「ちがう!!」


掠れた叫び声があがった。
彼女は髪を振り否定を示したけれど、すぐに唇を押さえてうずくまった。
また咳き込みながら赤い液体を吐き出す。
拒絶反応は先刻よりも強くて、呼吸困難になるんじゃないかと思った。
アレンは自分が仕向けたくせにぞっとする。
悪寒なんてものじゃない。目の前が、世界が、真っ暗になるような。
思わずを掴む指先を震わせる。


「駄目なのに……」


彼女は喘鳴に混じって囁いた。
苦しさのあまり声に出しているのに気付いていない様子で、ただただ平坦な言葉を吐き続ける。


「“”じゃなければ駄目。“あの子”では許されない。生きていけない」
「…………………」
「誰も存在を認めてくれない。拒絶される。排除される」
「………………っつ」
「容赦もなく殺される」

「死ねと命じられる。今すぐにでも」
……!」


血液を吐くのと同じようにぼたぼたと言葉をこぼす少女の体を、アレンは引き上げて抱きしめた。
冷たい。
血にまみれた体は冷え切っていて奇妙な感覚がした。
アレンの指が食い込んだ皮膚はおかしな様子を見せている。
まるで死体のような、


「どうして“私”を“”のままでいさせてくれないの」


その声は悲鳴だった。
聞いたこともないほど、静かな断末魔だったのだ。


「死なせない」


息があがって変な声になった。
それでもアレンは構わなかった。
涙が滲む。苦しい。苦しい。君を想うといつだって、こんなにも苦しい。


「死なせるもんか……!」


アレンはの体を夢中で掻き抱いた。
怪我の痛さも血で汚れることも、自分の涙も無視した。
どれほど強く願っても駄目なら、無理矢理にでも掴まえて離さないでおくしかないじゃないか。


「本当に何なんだ、君は。どうして一人で死ぬとか壊れるとか決めて、当たり前みたいな顔でそう言うんだよ。そんなのおかしいだろ……!」


これ以上ないくらいに密着したら、彼女の鼓動を感じた。
手放したくない音をアレンは繋ぎとめようとした。


「君は馬鹿だ。自分勝手だ。仲間を無視するな。僕を見くびるな。死なせるわけないだろう!」


もしかしたら縋りついているのかもしれない。
を抱きしめるふりをして、必死に行かないでくれと懇願しているのかもしれない。
それでも子供みたいにそれをわめくだけではないと、証明したかった。


「僕が“君”を壊させるわけないだろう……!!」


もう嗚咽が隠せなかった。
泣いてほしいのはのほうなのに、どうして自分がそうしているんだろう。
おかしな話だ。


「僕が破壊したいのは“”じゃない、“君”のその独りよがりな考えだ!過去の自分を否定して、現在いまの自分を傷つけて、馬鹿みたいに孤独に耐える、そんな態度が許せないって言ってるんだよ!!」


ふざけるなと何度も罵った。
他人に対して、いやアクマに対してだって、こんなに激しく当たった事はないかもしれない。
アレンはをぎゅうと一際強く抱きしめた。


「僕は君が嫌いだ」


腕の中の人は、ぴくりと反応した。
けれど何か言う前にアレンは続けた。


「僕の仲間を傷つける、君が嫌いだ!過去の“君”を泣かせてばかりの“”も、“”を責め続ける“君”も!どちらも同じ人で、僕の大切な家族なのに、……っつ、何で…………」
「………………」
「どうしてそんなに自分を痛めつけるの。どうして独りで苦しみを背負おうとするの」
「………………」
「僕は、僕の仲間を害する者を許さない。例えそれが、君自身だとしても。……絶対に」
「………………」
「ねぇ、僕は“”も過去の“君”も大切なんだ。辛い道を俯かずに必死に歩いてきたことも、その胸の内でずっと独りで泣いてきたことも。どちらも、とても尊いことだと思う」
「………………」
「“”を失いたくない。過去の“君”に触れてみたい。ずっと、傍にいたい」
「駄目よ」


そこでが口を開いた。
声は空洞のようだった。
まるで操られるように彼女は囁く。


「私は、……」
「僕のだよ」


聞きたくなかったからアレンはそれを遮った。


「君は僕のだ」


勝手に決め付けて、拒絶されるとわかっていて、それでも泣きながら告げた。
潰された左眼は涙で溶けるように熱い。


「僕は過去の“君”を殺さない。“”を壊さない。死んでも守ってあげる」
「……っ、し、死、……」


どこか呆然としていたはそこで唐突に暴れ出した。
こうなるとわかっていて言ったものだから、アレンは腕に力を込めて離れようとする彼女を抱きしめる。
は子供のように頭を振った。


「だ、だめ、駄目……そんな、こと……!」
「うん。だから君も“君”でいてよ」
「……っ」
「僕は過去の“君”が死んでも、現在いまの“”が壊れても、悲しいんだ。それがとても怖い。だから守るよ。僕の全てを使って。……命だって懸けて」
「………………」
「でも君はそれを嫌がるだろう。僕を死なせないために、僕の言うことを聞いてくれるだろう」
「……、ひどい」
「そう。よくできました。僕はひどいことを言っている。これはお願いでも決意でもなく、脅迫だ」


アレンは愕然とするの耳元に唇を近付けて、ほとんどそこにキスをするように告げる。


「もう、その心を傷つけないで。痛みを隠さないで。独りでいないで。負の感情を僕のせいにしてくれても構わない」


抱きしめた体が総毛立った。
とても距離が近いから、直に恐怖と非難が伝わってくる。
それが辛くて堪らないけれどそれよりもアレンはに伝えたかった。


「いいや、僕のせいにして欲しい。全部ちょうだい」


何だっていいよ。
もう、何だっていいんだ。
優しさも温もりも丸まま貰って、だから今度は君の悲しみとか苦しみがいい。


「もう、ね。嫌なんだよ。君の強さに勇気をもらって、笑顔にさせられて。僕ばかり救われているのは」
「………………」
「僕も君を助けたい。与えてくれたものに応えるだけじゃなくて、僕からもたくさん返してあげたい。でも何も渡すものがなくて、奪うことしか考えつかなかった」


リナリーみたいに優しくしてあげることも、ラビみたいに一生を共にする約束も、神田みたいに強い気持ちで傍にいることも、僕にはまだ何ひとつ出来ない。
だから、言うよ。


「結局、君を傷つけるだけかもしれない」
「………………」
「それでも、“本当”に欲しいんだ」


あぁ、結局君は僕の求めるもの全てだった。


「泣いて」


アレンは自分も涙しながら願った。
以前ずぶ濡れになりながら言ったことを、もう一度口にした。
あのときよりも随分ひどいことをしていると自覚しながら、それでも。
ようやく腕を緩めて、体を離して、の瞳を真っ直ぐに見つめる。
相変わらず彼女は恐怖に硬直したままで、眼差しには非難が込められていた。
それはアレンが平気でこんなことを言っていると思っていない証拠だ。
傷つけて、傷ついて、どうせ二人ともをズタズタにする言葉。


「過去も現在いまも全部だよ。“君”が、泣いて」


どうせ同じ人間だ。
美しく醜い金髪の少女。
ローズクロスを身につけて、赤い血の海に座り込んでいる女の子。


「そうしたら、僕が抱きしめるから。温もりを届けるから。独りじゃないって教えてあげるから。……ずっと」
「………………」
「ずっと離さないでいるから」


小さく幼い君へ。もう独りぼっちで泣かなくていいよ。
僕がその涙を奪ってあげるから。
強くなった君へ。もう独りぼっちでがんばらなくていいよ。
僕がその強がりを壊してあげるから。


そう、こんなこと、普段の君ならにっこり笑って「大丈夫」と言うんだろう。
「平気だよ。泣かないよ。私はそんなに弱くないもの」なんて。
その心の隙に付け込む僕は最低の人間だ。
それでもいいから、君から手を伸ばして欲しいと思った。
だってそうでもしないともうおかしくなりそうで。


おかしく、なりそうで。


「泣いてよ」


その言葉で時間も感情も因果律も狂ってゆく。
見開かれた瞳が痛々しくて、見ていられなくて、それでも彼女の世界にいるためにアレンはもっと距離を詰めた。
一生懸命に微笑もうとした。
今度は彼女の好きな自然な笑い方をしようとしたけれど、何故だかひどく難しかった。
唇が震えてうまくいかない。
おかしいな。
視界まであやふやだ。


笑顔になるにはアレンには余計なものが多すぎた。
反発とか苛立ちとか、尊敬とか愛しすぎるばかりの言い訳に溢れていた。
感情なんてよくわからない。
どれだけ経っても理解が追いつかない。
いつも穏やかに、物わかりのいい顔で微笑むことしかしてこなかった。
噛み締めることも出来ずに、飛び込んでくるものは全て丸呑みだ。
だからいくら食べてもアレンは空腹で、そんなことはわかっていたのに見ないふり。


(アクマだけだ……)


落下してゆく自分の涙は、真っ赤だった。
潰された左眼が疼く。
アレンはアクマに対してだけ激しい想いを叩きつけてきた。
何故なら壊してもよかったからだ。
壊してあげなくちゃいけなかったから、遠慮もなく感情を吐露することができた。


(アクマと、君だけだった…………)


目の前の少女は、アレンがエクソシストになって初めてアクマ以外で存在で、真正面から気持ちをぶつけることもできる人物だった。
それは彼女が先に遠慮もなく接してくれたからだ。
ベルネス公爵家の地下通路から、アレンは完全にに心を開いていた。
開かされたという方が正しいけれど、それは自然とそうなったように、不快な強制力は感じなかった。
アレンはをエクソシストとして信じて、人間として信じきって、共に生きてゆくことを決めた。
同時に恐ろしいことも思っていたのだ。
ずっと気付かないようにしていたけれど、否定してきたけれど、ノアに暴かれて認めてしまった。
僕は、君を求めてる。
君を想うと全身の血が騒いで、鼓動が暴れ出す。
自分を見失ってしまうくらい激しく焦がれている。
同じなんだ。
アクマと、同じなんだ。




僕はアクマにそうするように、君を壊して、君を救いたい。




(ごめん)


人間である君を、アクアと同一視している。
エクソシストとして失格だ。いや、人間として最低なんだ。


(ごめんなさい、僕は)


涙が、止まらなかった。
呪われた左眼は潰れているのに、が欲しいと全身が叫んでいる。
心が絶叫している。
こんな激しい感情、どうにかなってしまいそうだ。


(僕は、壊したいほど君を愛してる)


それがどんな“愛”なのか、わからないけれど。
神も悪魔も、本人の意思さえどうだっていいと思えるほどに、願ってしまったのだ。
だからアレンは、を傷つけて、彼女を抱きしめる。
そうすることを飢えるように望んでいる。


「憧れなんだ」


アレンは一度瞬いて涙を全て落として、はっきりとを見つめた。


「僕は君に憧れている。強い“”を心から尊敬する」


嘘。
本当はそんな綺麗なものじゃなくてもっと醜くて激しい感情だ。
でもまだ言えるような名前がないからそのまま続けた。


「それは、絶望とか苦痛とかを呑み込んで生まれた強さで。弱さを流さずに背負ってきた“君”がいなければ存在しなかったものだ。そうだろう?」
「………………」
「過去がなければ現在いまもなかった……。弱い“あの子”がいたから、強い“”がいる。だから僕は“君”を大切に思うよ」
「………………」
「君の全てを」


壊したいのは、互いを否定しあう冷たい絆。
真っ二つに隔たれた魂の壁。
8年前を境にできた心の孤独、その息の根を止めよう。
赤い左手と白い右手でくびり殺すよ。


「どちらも君で、どちらも大切。……君は僕のだ」


だからもう、許してあげて。
せめて、認めてあげて。
殺さないで。壊さないで。
ずっと一緒に居てよ。
だって、ねぇ、君は、


「“君”は僕の大切な仲間だ」


最後にようやく少し微笑めた気がした。
は愕然としたままだった。
アレンがそんなことを考えているとは思っていなかったのだろうか。
自分のことなど何ひとつ、言わなければわからないと……、言葉にしなければ伝わらないと、そう思い込んでたのだろうか。
でも僕は知ってる。君を見ていたから。
君は、もっと、何度だって思い知ればいい。
たったひとりで“”が生きてきたわけじゃないんだって。
生きていくわけじゃないんだって。
死ぬほどに思い知っていればいいよ。


「……っ、は、…………」


ふいにが息を吐いた。
いや、笑ったのだ。
肩を揺らして、喉を震わせて、声もなく笑い出した。
瞳はアレンを見ていなかった。
ただぼんやりと、虚空を眺めているようだった。
痙攣するように笑いながら彼女は小さな声を出した。


「“”だけじゃ、駄目だって言うの」


駄目だよ。そう言っただろう。


「誰も存在を認めない、私すら否定する、あのちっぽけな子供まで仲間と呼ぶの」


そうだよ。だって彼女も君なのだから。


「だからを否定して、“私”を受け入れるの?でもなく、あの子供でもない、“私”を。……あぁ、違う。あなたの言い分ではどちらも合わせて“私”か」


“君”だよ。
8年前から独りぼっちで泣き続けた弱い女の子と、8年前から独りぼっちで泣かずにきた強い女の子。
たった一人の人間だ。


「どちらか一方でも損なわれないように、あなたが守ってくれるって?死を恐れずに、命を懸けて?あの子供を殺し続けるのはよ。を責め続けるのはあの子供よ。私たちの戦いに介入するの?ねぇ、どちらが敵?二人とも“私”だというのなら、ひどい話ね」


は嘲笑した。
けれど嘲る相手はアレンではなく、自分自身のようだった。


「ひどい脅しね。“私”が、あなたと戦えるわけがないのに」
「………………」
「あなたを傷つけたくない……。そう思えば、とあの子は許し合わなくてはいけないのね」
「………………」
「本当にひどいなぁ。できないことばかり突きつけて。8年間必死で作り上げてきたものを一瞬で打ち砕いて。今まで誰も、そんなこと言わなかったのに」


血まみれの手が持ち上がって、額に添えられた。
掌の下で金の前髪がぐしゃりと音を立てる。


「誰も、“私”なんかを、求めたりしなかったのに」


全身を震わせて少女は笑っていた。
おかしくて堪らないというように、苦しくて仕方ないというように、息を詰まらせながら笑っていた。


「“私”、は」


虚ろな金色の瞳が空をさ迷い、ふいに焦点を結んだ。
けれど現実の何かを見ているというよりは、自分の内側に気がついた様子だった。
少しの沈黙。


そして眼球の奥から透明な液体が現れて、瞬く間に下瞼に溜まっていった。


の口元はそれでも笑んでいた。
ぼんやりとどこかを見つめながら、微笑んだままだった。
量の限界を超えた雫が頬を転がり落ちるまで、まったくそれに気付いていないようだった。


「駄目」


それは、涙に見えなかった。
ただ眼から水が流れてゆくだけの現象。


「だめ。“”は“あの子”を絶対に許せない。“あの子”は“”を受け入れられない。だからこんな風に」


ぎこちなく持ち上げられた両掌が、落下してゆく雫を全て受け止めようとしていた。


「こんな風に、醜さをさらけ出してはいけなかったのに」


そこでようやくはアレンを見た。
顔をあげて、その金色の双眸で、真っ直ぐに見つめた。


「あなたの優しい脅迫に、応えてはいけなかったのに……!」


呆然とした瞳から水滴を流して、微笑み続ける少女の姿が、アレンを限界に至らしめた。
殴りつけるような乱暴さでを引き寄せて、抱きしめた。
彼女からは求めることに慣れていなくて、ちゃんと泣くこともできなくて、だからその分も奪うように強く抱擁する。
ひどい嗚咽が漏れた。
感情が激しくて、混乱していて、わけがわからない。
名前も知らない愛だけがアレンの胸の内で燃え上がっている。
この炎は僕を殺すだろうか。
抱きしめているこの人まで燃え移って、害するのだろうか。
どうでもいい。どうだっていい。ただ今は抱き合っていないと駄目になる。


「僕のせいにして」


よりずっと上手に泣きながら、アレンは囁いた。


「君が泣いてしまった責任を、僕に押し付けて。ぜんぶ背負わせて。君は嫌だと思うだろうけれど、お願いだ」


それは命懸けの願いだった。
の肩口に顔を埋めて呻くように告げる。
自分の嗚咽がうるさい。
血の匂いも邪魔だ。
僕は彼女の鼓動を聞いて、彼女の香りを感じていたいのに。


「分け与えてくれないのなら、僕は同じだけ傷ついていたい」
「……また、ひどいことを言う」


が腕の中で笑った。
首筋に涙を感じるのに、いつまでたっても彼女の笑顔は消えない。
どこまでも自分のためには泣くことが苦手な人なのだと思った。
どうせこの涙だってほとんどが僕のためだ。
だったら傷つけて、傷ついて、抱き締めあって癒そうよ。
もう離れられないくらい強く求め合おうよ。


でないと“君”は今にも消えてしまいそうだ。


繋ぎとめるためにアレンは彼女を抱きしめていた。
逃がさないように、殺されないように、壊されないように。
誰もが“あの子”の死を願うのなら、僕が生きてと叫び続けよう。
誰もが“”を糾弾するのなら、僕が温もりを囁こう。
ずっと不思議に思っていた。
彼女は何より鮮明な存在のくせに、どこか儚く感じられる人だった。
それはどこまでも危ういものを胸の中に隠し持っていたからだ。


「傍にいたいんだ。…………」


そう願う相手の名前を、アレンは呼ぶことができなかった。
だから抱きしめる。
下手くそにしか泣けない彼女に温もりを伝えて、独りではないと教える。
もう二度と、真っ赤な世界に置き去りにすることのないように。


君は強い“”。
血の海で溺れていた小さな女の子。
その手を掴んで出口までの道を探そう。
一緒に歩こう。
どうか僕を信じていて。


弱々しくも抱きしめ返してくれた掌に、ようやくアレンはほんの少しでも本当の彼女を見つけたのだと感じた。
堪らずに泣いた。
二人で、泣いた。










ヒロインVSティキ決着。戦闘終了です。
さんざん粘っといて最後はあっさり帰ってくれました。ティキは引き際は間違えないタイプだと勝手に解釈しています。
さて、今回のバトルは始終ヒロインが無茶やってくれましたね。
制止の声は聞かないわ禁術に手を出すわ封印を破っちゃうわで、もうさんざん。
そりゃあアレンも怒りますよね!でも私もあそこまでマジギレするとは思ってなかったですね!!(爆)
本気で怒ったアレン様、超怖い。^^
英国紳士なので我慢しましたが、ヒロインが女じゃなかったら絶対に殴ってたはず。(それよりもすごいことしたけど)


次回で終章です。
だいぶ伏線回収したんで、次で完了させます。ものすごくでっかい伏線なのでがんばります!