己を屠り、過去を捨て、導の銀すら喪って。
それでもそれでも、それで も 。


「逃げないよ」







● 蝶と口づけ  EPISODE 13 ●







大切なものは失くしてから初めてわかる、とは誰が言ったのだろう。
随分と的を射た言葉だとは思う。
どれだけ理解しているつもりでも、実際にこの指の隙間をすり抜けたときの絶望には慣れることがない。
何度思い知らされても、闇の底に砕け散る虚無の音が心を狂わせる。


「……っ、本当に速いな!」


苦笑したティキが上空から襲い掛かる黒い手刀を弾き返す。
その慣性を利用しては身を翻し、次は胴をなぎ払う。
真っ二つにしようと思ったのに切り裂いたのは白いシャツと褐色の皮膚だけだった。
は着地と同時に大きく後方飛翔。
すぐさま距離を取る。
また飛び出していけば刃に付着した赤が飛んだ。


血は『死』を呼び起こす。
この世界の空にも土にも、あの人たちの死が埋まっている。
あぁ、そうだ。
私をここまでにしてくれた存在は死んだ。
腹を裂かれて背を割られ、血を撒き散らして死んでいった。
もっと生きていたかっただろうに、私が命を奪ってしまったのだ。
そして、“私”は殺される。
幾度も幾度も繰り返し、夜が来るたび葬られ闇に沈んで死を味わう。
だから“”は覚悟を決めた。
ひどく不様な自分に腹を括った。
『生きる』ことに心に誓った。
死んではいけない。
何故なら命を失えば、誰であれそこで終わりなのだ。
愛も友情も信念も絶望も後悔も、何もかもが遅すぎる。
誰も手の届かない冥府へと消えてゆく。
だからこそ、生きなければいけない。
死者が失い、どれほど願っても二度と手に入らない命を持っているのだから、それをやすやすと手放すことなど許されない。
今生きている者には全て、懸命に生きる義務があるのだ。
それは権利と共に放棄してはいけない最大の務め。


「……!?」


突然に激しい違和感に襲われて、は襲い掛かってくるティキの一撃を受け止めずに避けた。
後退して油断することなくちらりと視線をやる。
見下ろした腕は籠手に覆われて異常なほどに震えていた。


(そんな、限界なの……!?)


ふざけるなという思いをこめて刃をいくつか皮膚に突き立てた。
痛みで感覚を呼び戻す。
動け。お前はまだ生きているんだろう。


生に約束されたことがある。
どうせいつかは死はやってきて、宿命として受け入れなければならない。
ならば、それまで精一杯に生きなければ。
今は全力で生命を使って生き続けなければと思う。
生きたいと望みながら死んでいった人たちを何人も見過ごしてきたのだから、その命懸けの嘆きを全て背負って、自分は此の世界を走り切らなくてはいけないのだ。


取り戻すことのできない尊い存在をいくつも覚えている。
だから私は『死』のために戦うのではなく、『生』のためにそれを遂行しよう。


「はぁ……、っあ」


呼吸がままならなくなった。
右手に感じる凄まじい脈動。
強い吐き気が止まらない。
人体が受け付けられる物ではない何かが、皮膚の下を、臓器の隙間を、無遠慮に荒らしまわっている。


あぁ何て死に近い感覚なのだろう。
この苦しみを知っている。
それは父を母を姉たちを失った喪失感の中でもなく、グローリアを死なせた絶望の日でもない。


(……う……っ、ぁ、……いし、き、が………!)


この魂が呑まれるような感覚は、あの時。
“私”が死んだ、あの時のものだ。
刃を握り締めて己の心臓に叩き込んだ。
そして酷薄に命じたのだ。
「跡形もなく消えてしまえ」、と。


そう“私”は一度死んでいる。
私は“私”を殺して“”になった。
本当に体に刻まれているのは家族でも師でもないのかもしれない。
どこまでも自分勝手な人間らしく、“私”自身の死こそが、“”に生きる決意をさせたのかもしれない。
全ては一貫していた。
もう二度と失ってたまるかと思うものは、“”を形造る光。
失えば死んでしまう温もり。


「っあ、あァ……ッ」


この感覚を覚えている。
一度死んでいるから知っている。
手放せば永遠に戻らない『生』という存在を。




だからこそ、それを何としても守り抜こうと、こんなにも強く決意してしまったのだ。




いつか死刑を告げられる日がやってくる。
決して逃れられない運命の時がこの身を襲う。
失うとわかっているからこそは『死』に抗おう。
それが『生』ある全ての者が果たすべき役目。大切なそれをいくつも奪った自分の責務。
そして存在しているからには果たさなければいけない。
かけがえのない魂に報いなければならない。
この命に誓ったことを最期まで、


「っ、く……はぁ、………ああッ!」


貫かなければ……!


壊れてしまうと思った。
同時に壊れてしまえと思った。
どうせ私の胸は血と罪で詰まっている。
撒き散らして死ぬのは絶対にごめんだ。
だったら弱い自分を打ち破り、その枷を飛び越えて戦い続けよう。


ノアに言われるまでもなく、私はすでに他人どころか自分の命すらも奪った殺人者だった。
何度同じ罪を重ねようとも構わない。
大切なものが損なわれるくらいなら、私がひとつ残らず引き受ける。
殺すも救うも同じだけの重荷を背負わなければならないのだから、大事な仲間には絶対に渡すものか。
過去も未来もない“私”だけが、その罪過を物にする権利があるのだ。


は眼球すら血に染めて抗った。
そして破壊者として自分を押さえる力に命じる。


(壊れろッ!!)


その意志に応えて右腕が燃え上がった。
硬く柔らかく、水のような弾力のある何かが、内側で音もなく折れた。
炎がそれを灰に還し、跡形もなく消滅してゆく。
吐き気が止んだ。
目眩も消えた。
驚くほど鮮明になった意識は、何故だかいつもより少しだけ暗かった。


それは何より輝くものを、自身が持っていたからだった。




















驚きという言葉では追いつかないほどの衝撃を受けた。
ティキは呼吸すら忘れて眼前を見つめる。
理由はわからないが急に苦しみ出したエクソシストは、こちらが不審に思っているわずかな間に燃え上がったのだ。
誇張ではない。比喩でもない。


本当に、“燃えている”。


「おいおい……」


思わず呆然とした声が出た。
目が離せないから確認できないが、仲間である白髪の少年はこれをどんな顔で見ているのだろう。
何せ人間の内側から炎が噴出し、瞬く間に全身に広がってしまったのだ。
普通なら有り得ない状況だし、火だるまになっている少女というのはなかなか壮絶な光景だった。
敵である自分ですらぞっとしないのだから、身内の彼はどれほどにショックだろう。


(どうして火が……。しかも何だこの色)


こちらにまで飛んでくる火の粉に、吸い寄せられるように手を伸ばす。
目が眩むようなそれは何故だか黒色をしていた。
こんな色彩を放つ炎など見たことがない。


(漆黒の炎……?)


不思議に思ったが、触れた瞬間に腕を引き戻した。
貫くような鋭い痛みがティキの指先を襲い、その肉を切り裂いてしまったからだ。
手が震えた。
見開いた目で確認してみる。
何だこれは。
“痛い”?超人のノアが痛みを感じる?
そんな馬鹿な。
どんなに肉体が破損しても、痛覚が追いつく前に再生が始まるはずだ。
特に意識したことはないほど、その現象は摂理に近かった。
それなのに……。
どうやら襲い掛かってきた炎もそうならば、負わされた傷もまともではないようだ。
ティキは己の切り裂かれた指先を見つめて唇を笑みの形に震わせる。


(まさか。これは、イノセンスか……)


訴える痛みを握りこんで冷や汗を誤魔化した。


(悪い冗談だな)


それを全身に纏った少女へと視線を戻す。
今度こそ本当に目が離せなくなりそうだ。
夜の迫る薄暗い廃教会の中で、彼女のまわりだけが明るく輝いている。
燃え盛る漆黒の火炎が体全体から立ち上っているのだ。
幾重にも広がりながら乱舞し、空中に咲いては散りゆく火花。
美しくも激しいその光景。


ゆらり、とが顔を動かしてこちらを見た。
その瞬間、凄まじい感覚がティキを襲った。
金色の瞳が自分を映し、視線が出合った途端に全身が粟立った。
戦慄に支配される。
先刻までとは比較にならないレベルで叫ぶ本能。




この生物は、 危 険 す ぎ る 。




自分と一族の使命を害する敵だ。
殺せ、抹消しろと命じるままにティキは己の能力を開放した。
ほとんど無意識のうちにに向けて掌を突きつける。
背後にはノアの方陣が浮かびあがった。


(拒絶、拒絶だ。そんなイノセンスは今すぐに葬ってやる)


繰り返し能力を放ってを取り巻く大気を排除する。
『快楽』のノアとして万物を取捨選択し、彼女を真空で包み込んだ。
空気が渦巻き、突風が起こる。
彼女はあの暗い球体の中で弄ばれ、窒息死した後、肉体は塵となって消滅するだろう。


「これでお終いだ、エクソシスト」


教会の壁、天井、床までも無に帰して、真空空間の規模を広げる。
決して脱出できないように見えない鎖で締め上げる。
四肢も胴も喉も、体の内側までもを圧殺。
どんな生物でも逃れられはしない。
完膚なきまでに命を破壊する方法だ。


ティキは全力で能力を使いながら、もう片方の手で胸を押さえた。
の気に晒されて心臓がひどく脈打っている。
肌が粟立つのを止められない。
確実に彼女を絶望の内に捕らえ、命を握っているのに、指先の傷が燃えるように存在を主張してくる。
何故こんなにも感覚が騒ぐのだ。
自分はもう勝ったも同然で恐れる必要など何もないのに。
ティキは無理に笑って闇色の球体、その中で死にゆくに語りかけた。


「苦しいか?けれどそれも、すぐに感じなくなる」


片端を吊り上げた唇で口づけを落とすように別れを告げた。


「さよならだ。お嬢さん」


その声に反応するかのように、唐突にティキの目の前に十字架を模した投剣が現れた。
右から順に命中するように時間差をもって投げつけられたようだ。
6本もあるそれを全て叩き落すには、ティーズを纏わせた左手を横薙ぎにする他ない。


「……!?」


動きは反射的であり、完全に誘われたものだった。
けれどそれが何を意味するのかティキには瞬時に理解できない。
追い討ちをかけるように真空空間が内側から破裂した。
振るった自分の腕が視界を横切るその一秒にも満たない間に、だ。
さらにそれが爆散して周りのものを巻き込みながら消滅する前に、ティキは右斜め後ろに猛烈な悪寒を感じた。
右手は前方に突きつけたまま。
左手は防御のために一閃して、大きく外側に向いている。
そんな自分の死角に、彼女はいつの間にか出現していた。
落雷のような激しさと速さを備えた手刀が、ティキの急所を目がけて奔る。


「…………っつ」


体内に隠していたティーズの群れがそれを真正面から受けた。
ゴーレムは粉々に打ち砕かれ、一瞬にして黒い炎に包まれる。
いいや、違う。
これは炎じゃない!


「ぐ……、っ」


ティーズの防御はわずかに刃の軌道を逸らしただけだった。
脇腹を深々とえぐられてティキは産まれて初めての激痛を感じる。
ようやく右手を翻し、敵を後退させることが出来た。


「ホント……何なんだよ………」


この少女を前にして何度目かわからないけれど、笑うしかない状況なのでそうした。
灼熱を発する傷口を押さえる。
やはり、“痛い”。
この感覚は尋常じゃない。
そして復元は困難であることを本能で悟った。


「細胞レベルでの破壊か」


ティキは舌を打った。
考えるより先に感じる異変。


「ここまでやられちゃ、さすがにすぐには再生できないな…………」


“ノア”の遺伝子がうまく働かない。
何故ならエクソシストの刃は傷をつくると同時に、断面を灼き切っていった。
ちらりと目をやれば炭化した己の肉が見える。
それどころかあまりの熱量に脂肪と神経、血液までもが蒸発していた。
つまり細胞の組織に至るまでを、完璧に破壊されたのだ。
人間の体は所詮それの集合体である。
ノアの身体は傷を負っても周りの細胞を活性化させて塞げるし、骨や肉も繋ぎ目が生きていればすぐに元に戻すことができる。
けれど組織を根源から破壊されては再生はぐっと困難になるのだ。
一から作り直すのはさすがの超人でも時間のかかる仕事だった。
ティキはそう納得して思う。


(これは本気で痛いな……、いろいろと)


想像を絶する苦痛と現状況に冷や汗を浮かべた。


「オレの読み間違いか」


金髪を睨みつけて言う。


「それは、炎じゃなかったんだな」


そう思ったからこそ、真空を創り出したとも言えた。
火は酸素がなければ燃えない。
空気を排除してしまえば無力化できると思った。
けれど違ったのだ。
そう、彼女の武器は最初からひとつだった。


「それは、炎じゃない。光だ」


ティキは身をもって知ったことを世界に告げる。


「凄まじい熱を持った、光の刃」


炎のように見えた漆黒はすでにおさまっていた。
けれど戦慄は強くなる。
の右腕。
そこに宿った刀身が、さらに巨大化していたからだ。
すでに少女の細い腕はほとんど見えていない。
光る黒がいくつも突き立って、奇妙な造形を創り出していた。
何故だか機械的にも生物的にも見える。
硬質な羽根が何枚も重なり、銀色の籠手を覆いつくしているのだ。
光刃が蠢く。
黒は軌跡を描いて火花を散らし、コードのように血管のようになって、手刀の周囲を取り巻いていた。
刀身が触れた石床はどんどん溶解してゆく。
空気すら消滅しそうな高熱。
その、恐るべき凶器。
どうやら飛躍的に能力が向上したようだ。
否、真の姿を現したというべきか。
先刻とは比べものにならないほどの波動を感じる。
ティキはそれを本能的に悟りながら口を動かした。


「それが相手じゃあ無意味だな。炎は空気がなければ消えるが、光は真空状態でも存在できる。ましてやお前の操るそれは空間さえも斬り裂けるんだから」


的外れな攻撃をしてしまったことを正確に理解する。
そして少しだけまずいと思う。
それを素直に言葉にした。


「いくら“ノア”でも、その灼熱の刃に致命傷を負わされたら……再生が追いつく前に死んじまうかな」


初めてだった。
人間として生を受け、ノアとして覚醒して、初めてこの身を晒された。
『死』の危険。


「たいしたお嬢さんだ。まさか本気で殺される可能性が出てくるとは思ってなかった」


は答えない。
金色の双眸でじっとこちらを見つめている。
ティキは脈動するかのような痛みに心の底から笑っていた。


「弱小な人間が。偽りの神に選ばれたエクソシストが。ノアに対抗しうる……?」


そんな馬鹿な、と思うけれど現に腹は痛むのだ。
壊死した細胞が、零れ落ちる赤が、ティキに生物としての危機を訴えている。
本当に可笑しくて仕方がない状況だった。


「お前は、オレの生命いのちを奪う能力を手にしているって?ははっ、すごい。凄いな!“痛み”なんて感じたのはいつぶりだろう」
「…………………」
「今日は驚くことばかりだ。いや、お前といるといつだって愉快だよ。お嬢さん」
「…………………」
「どうした?オレはこんなに楽しい気分なのに、話もしてくれないのか?」
「何を」


問いかければはすぐに答えた。
声は平坦で何の感情も宿ってはいない。


「私に何を話せと言うの」
「話題をリードしようか」
「結構よ。私達には言葉などもう要らないでしょう」
「拳で語り合うのみって?」
「いいえ。そんな時間も必要ない」


は響く声で囁いた。


「さよならよ。快楽のノア」


殺される、と思った。
否、感じた。
直接脳みそに叩き込まれるように、彼女の意思が伝わってくる。
ティキの意識は金の双眸に恐ろしいまでに占領されてしまった。
背に悪寒が走り、唇が歪む。
男は目を見開いて微笑んだ。
真っ赤な口元を、裂けるように吊り上げて。
けれど唐突に光に満ちた視界が遮られる。
それで急に世界が暗くなったものだから、ティキはひどい不快感を覚えた。


「ノア様!」


叫んだのは教会内に顕現したアクマだ。
十数体はいる。
向かい合う男と少女の間に、阻むようにして次々と姿を見せる。
召喚した覚えはないものだからティキは眉を寄せた。


「なぜ出て来た」


アクマ達は応えずに一斉にに襲い掛かっていった。


「いっけぇ!」
「殺せ殺せ殺せ!」
「エクソシストをぶっ壊せッ!!」


「無駄だって」


暗紫色の瞳を細めてティキは呟く。
声には多大な呆れとわずかな嘲笑が含まれていた。
そして言葉の間に金髪がなびく。


「邪魔よ」


は構えることもなくアクマ達の突撃を受け、無造作に手刀を回転。
その先端が輝き、光が十数条に分かれて伸びる。
新たに召喚された刃が槍と化して至近距離から一気にアクマ達を貫いた。
ボディは漆黒の光に包まれて蒸発し、瞬く間にこの世から消失する。
光は再び刀身に戻り、翻った手刀が上空から迫っていた数十メートルはあろう巨大なアクマを両断した。
ぶちまけられる残骸も空中で燃え尽きて、この世ではないどこかへ落ちてゆく。
破壊は一瞬。圧倒的な戦いだった。
けれどこのアクマ達はまだ奮闘したである。
低レベルのものは彼女に近づくだけで熱に灼かれ、何もすることできずに壊れていったのだ。
あまりにも勝敗のわかりきった戦闘を眺めながら、ティキはひとりごちる。


「こいつらはオレが呼んだわけじゃない……、とすると」


声に爆音が重なる。
先方のアクマ達が一瞬で破壊されたため、後方から飛来したミサイルも放った敵も丸見えだ。
はその場で跳んで回避、一番高いところで身をひねって手刀を振りかざした。
空中で小さな身が円を描くように踊り、落下の間に四方八方から突き出される凶器、飛来する弾丸をひとつ残らず斬り刻む。
着地のときには彼女を中心に完全な破壊領域が出来上がっていた。


「余計なことをしてくれたわけだ」


が手刀を扱うたびに消えてゆく膨大な数の兵器たち。
ティキは嫌な笑顔を浮かべた。
あのアクマ共はおかしい。
いくら知能が低くても無駄な特攻を繰り返すのは本意ではないだろう。
に敵わないことは本能のレベルで察知できるはずだ。
そうなれば今目の前で繰り広げられている破壊劇が意味することはひとつ。


「オレに危機が迫ればアクマに守るよう命じていたのか」


そして、そんなことができるのはこの世でただ一人だけだった。


「そんなにノアが大事か?千年公……」


いいや、大切なのは神への生贄……子羊か。
思い直して目を伏せる。


「オレが抜け駆けすることを知っていた……?ってことは、これは彼女を恐れて?それともオレをふがいないと思って?どっちにしろ大きなお世話だな」


悪いな千年公。
心の中で囁き、微笑んだ。


「この隙を突いて逃げるか殺すか、決着をつけろと言いたいのだろう。けれど……」


の放った漆黒が兵器の群れに炸裂。
高熱の光弾はアクマ達の固いボディを紙のように貫通、衝撃でそれを四散させる。
黒い焔玉となって瞬時に燃え尽きた。
完全に失われた包囲網を抜け、は床を蹴る。
それを視覚がとらえたときにはもう金髪がティキの目の前にあった。
瞬間移動をしたのかと思うほどの速度に、笑いが漏れる。


「どっちもごめんだ。こんなイイ女、すぐに終らせる手はない」


それが男ってもんだろう。
ティキは千年伯爵の意向を完全に無視すると、ティーズを幾重にも腕に纏わせ凄まじい刺突を受けた。
途端感じる灼熱。
そのまま組み合っていれば熱に灼かれてしまうから、力の差を武器に少女を弾き飛ばす。
はそうされることを読んでいたようで、衝撃を殺すために自ら後退した。
再び激しい剣戟が交わされる。
衝突音が響き、刃が軋る。
火花は熱く飛び散り、ティキの肌に落ちて細胞を壊死させた。


(あんまりやってると死ぬかな)


適当にそう考える。
死ぬのは困るし、何より痛い。
けれどそれよりも楽しくて仕方がなかった。
胸が逸る。鼓動が激しく打つ。堪らない。
たまらない!
けれど次々やってくるアクマがその快楽を邪魔した。


「千年公も念の入ったことで」


言い捨てるティキから離れ、は手刀を左に奔らせる。
アクマ達を横に一線、次に右に回転させて縦に切断した。
彼女の間合いに入れば全ては千々に解体、消滅させられてゆく。


「邪魔だと言っているでしょう」


がそう囁いた途端、手刀がまた変形した。
燐光を散らしながら刃が伸びてゆく。
現れたのは黒光の長槍だ。
恐ろしいほど長く、レイピアのように細くなった刀身が一気に振り放たれる。
踏み込んだ足、を軸に、あまりにも巨大な円が描かれた。
その線上に存在していた長椅子や柱、壁面が崩壊。
そしてアクマは頭や胸、胴を真っ二つに斬り裂いた。
兵器たちは灼やし尽くされ灰も残さず消えてゆく。
倒壊した木や石は大部分を蒸発させ、炭化した断面から異臭が立ちのぼる。
そのままは長槍を振り上げた。


「私の前に立ちはだかるな!」


裂帛の声と共に三度刀身が形を変える。
直線だったそれが突如として螺旋を描き、上空のアクマ達を一閃した。
長槍の姿をとっていた刃が今では鞭のようだ。
長く円弧を描いてアクマ達に絡みつき、その存在を葬った。
光刃が鋭く床を叩くと同時に教会内から兵器の群れが消滅する。
どれだけ沸いて出ようとに無へと返されるだけだった。


「本気で惚れそうだな……」


ティキは暗い熱を込めて呟き、また出現したアクマの大群に手を突きつけた。
大気を拒絶して真空空間を造り上げる。
それでアクマをひとつ残らず包み込んだ。
身構えていたは大きく目を見張る。


「どうして貴方が」


その能力でアクマを滅したノアに、エクソシストは疑問の声を投げる。
彼女からすれば味方を潰すことが信じられないのだろう。
けれどティキにすれば、あんなものはいくらでも代えのきく存在でしかなかった。


「邪魔だと思うのはオレも同じだよ、お嬢さん」


だからこそ千年伯爵の命令を拒絶し、アクマ共を破壊する。
はまだ驚いているようだけど、ティキは当たり前のように、そして熱望するように言う。


「お前と踊るのは、オレだけでいい」


その輝く金色に映るのは、この姿だけでいい。


「アクマ共に介入させはしない。さぁ、二人っきりで闘ろうぜ」
「……随分とフェアなのね。超人の余裕?私では相手不足だと?」
「まさか。お前以上はいないよ」


他の誰もいらないと、ティキは臆面もなく言い切った。
胸が破れそうだ。
早く早く早く、早く。
この壊れそうなオレ心臓の代わりに、お前のそれをくれないか。


「余所見は妬ける。……オレだけを見ていろよ」


いつの間にか笑みすら消して、真剣に告げていた。
は少しの間ティキのその表情を眺めた。
彼女の背後で、上空でアクマ達が真空に呑まれて破壊されてゆく。
巻き起こった爆風に金髪が煽られた。
長いそれに額と片目、口元が隠れる。
それでもティキにはが微笑んだように見えた。


「私もあなただけを見ていたい。この瞬間、誰よりも何よりもあなたに惹かれているの。……だから」


瞬間、黒の嵐がティキを襲った。
受け止めた向こう。
交錯した刃と刃の左右に、金色の瞳があった。
は微笑んでなどいなかった。
ただ激しいまでに無表情を保ちながら、血まみれの唇で囁く。


「一番に壊してあげる。“ティキ・ミック”!」
「オレもだよ。“”!」


両思いを確かめ合うと、凄まじいまでの歓喜を感じた。
この動悸は死に至るものだろう。
早くお前の血と命で鎮めてくれ。
そんなことを願いながら、ティキはの可愛い喉に手を伸ばした。


最大級の愛と殺意を込めて。




















体格と力の差は元より。
ノアは普通の方法では倒せないことは明確だ。
そして弱いこの身は体力が底を尽きかけている。
血の流しすぎで目眩と寒気が永続的に襲ってきていた。
禁術を開放することでようやく傷を負わせることができるようになったが、の圧倒的不利に変わりはなかった。
それでも負けるわけにはいかない。
少女は本当に己の全てを懸けて戦っていた。
命さえ捨てはしないと、決意を刃に乗せて敵へと斬りかかる。


二人の刃が大きく旋回し、激突。
剣撃が炸裂して突風を生む。
衝撃波が互いの頬に朱線を走らせた。
弾かれた刀身は線対称に翻り、再び交錯、今度は体ごと吹き飛ばす。


は空中で回転、靴裏で壁をとらえて膝をたわめる。
そこを蹴って飛び出す瞬間、十字短剣を投げる。
すでに着地していたティキは身構えたが、投剣は見当違いのほうへと向かい、床に深々と突き刺さった。


「何のつもりだ?」


疑問の声には答えない。
横向きに着地した床を蹴りつけ飛翔、そのままの勢いで前転、上空から頭部を狙って踵を振り下ろす。
ティキはそれを片腕でガードした。
読み通りだ。はそこを足場にまた跳んで身をひねる。
上下逆さまになって後ろを取り、背中を目がけて手刀を奔らせた。


「!?」


しかし唐突にティキの背面が膨れ上がり、紫の色彩が爆発する。
彼は振り返ることもなくティーズを放ってきたのだ。
顔面に迫られては刃先をそちらへ軌道変更、食人ゴーレムを駆逐して獣のように床に下りる。
その低い姿勢のまま足払いを仕掛ければ跳んで避けられた。
手刀を鞭のように変形させて追撃するが、またもや蝶の群れに阻まれる。


思わず神田のように舌打ちをしそうになった。
スピードでは確実にこちらが上だ。
けれどどうしても致命傷を負わせることができない。
どうやらティキは無意識に動いているようだった。
回避が可能なのは目だけでこちらの動きを掴み、反射で戦っているからだ。
さすがはノア、超人と呼ぶにふさわしい戦闘本能だった。


は休む間もなく駆け出す。
ティキも合わせて脚を早める。
平行疾走で刃を絡ませれば、衝撃で二人の間に転がる長椅子が木っ端微塵に砕け散った。
斬撃と刺突が荒れ狂い、どちらも同じだけの血を流す。
は受け止められた刀身を急激に変化させて右に薙ぐ。
喉を真っ二つにするはずだった刃は身を引いたティキにかわされる。
次は右上から斬り裂こうとしたが、男の手が無遠慮に胸へと迫っていたので即座に急降下。
退けた途端には横に跳んだ。
ティキはそれを追いながら笑う。


「おしいな。もう少しで柔肌に触れたのに」
「相変わらず変質者ね」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ」
「被害者の正当なる証言よ」
「そんなに肌を晒しているお嬢さんが悪い」


刃を振るうついでに顔を近づけ、彼は楽しそうに胸元を覗き込んできた。
は不快に思ったが感情に流されずに、確実に腹へと武器を叩き込む。
すぐさま弾かれたが、軌道を逸らされただけで皮膚を斬り裂いてやった。


「私を露出狂のように言うけれど」


は引き千切られた団服、そこからのぞく白い胸元にティキの血を浴びながら続ける。


「この服を破り捨てたのはあなたでしょう」


ティキの刃がを掠めて布地から素肌と赤をこぼれさせる。
腹を裂かれているのに懲りないものだ。
はある意味感心して、そのまま手刀を腹部に叩きこもうとしたが、さすがの彼も回避行動に移った。


「オレにはロリコン趣味はないんだが。お前を見ていると、妙に苛めたくなるんだよ」
「はっきり殺したいと言えば簡単よ」
「服だけじゃない。その白い皮膚も、綺麗な体も、熱い内腑もズタズタに引き裂いてやりたい……」
「すごい告白ね。感激して鳥肌が立ちそう」
「でも、なぁ。お前はどれだけ突き落としても這い上がってくる。これまでのようではダメだ。まだ足りない。もっと、もっと……」
「…………あなたは私に何を求めているの」
「徹底的な破壊」


ティキはくすりと笑った。
は避けられた刺突の勢いのまま踊るように足を動かし、回転力で威力を増した斬撃を放つ。
男は上から刃を強襲させ、少女のそれを叩き下げた。
あまりの衝撃にの体勢が傾く。


「お前を支配する。膝をついて崩れ落ちろ。頭を垂れて跪くんだ」


耳元に寄せられた唇が甘い声を吐き出す。
脳を侵食するような重厚な囁きに、にひどい怖気を覚えた。


「黒と白の戦い。光と闇の闘争。夜がこの世を染めるとき、お前の居場所は存在しない。さぁ、オレの意のままに服従しろ!」
「お断りよ!」


は鋭く叫んだ。
刃の先を爆発させ、その反動で無理やり体勢を立て直す。
手刀を鋭角で上昇。
ティキの黒い前髪を切断、額に聖痕とは別の傷を刻んだ。
血は目の間を伝い、鼻梁に到達して左右に分かれる。


「新世界は大いなる闇に満たされる。光は不要だ。特にお前のような鮮烈なものはな」


ティキは舌を出して流れてきた血をぺろりと舐めた。
上唇に踊る赤。
壮絶な笑みを浮かべる。


「二度と輝かぬよう、徹底的に壊してやるよ」


褐色の指先がくうを撫でる。


「この世界ごと、な」


次の瞬間、は手刀を鞭状に伸ばして螺旋と直線を描かせた。
その軌道で前後左右、さらには上空から迫りくる蝶たちの弾丸を叩き落す。
今まで見てきたものよりも格段に大きく、獲物に飢えているように見える。
しかも動きが素早い。
イノセンスを体内に取り込んでいなければ視認することもできなかったであろう、超高速の攻撃だった。
それも身を捨てての特攻のようで、ゴーレムの何体かは空気摩擦に耐え切れずに燃え尽きる。
強いものだけがへと辿り着かんとし、その直前で伸縮変形自在の刃に葬られた。
それでも数千、数万と襲ってくる蝶を全て迎撃することは物理的に不可能だ。
刃で切断し、その周囲を熱で灼いても、あとからあとから沸いて出てくる。
は即座に判断した。
いくつかの光刃を放ち、急所の前で展開。
そこだけを守り、残りは血飛沫を跳ねさせるに任せる。
そして剣の形に戻した手刀で前方の蝶の壁を切り開いた。


銃弾と化したティーズたちが肩に腕に脚にと突き刺さってくる。
筋肉と関節を破壊される前に決着をつけなければ自身の負けは確定だった。
紫の帳を引き裂き、一気にティキへと迫る。


飛翔する漆黒の刃。
光を跡に残して振るう少女は、あたかも剣舞を舞う者だ。
振り上げられた右腕が、武器の形も相まって片翼を広げたようである。
天使と言えば陳腐だけれど、この世ならざる者と呼ぶべき姿だった。


そんな少女を避けてティキは跳躍。
男が寸前まで立っていた床に刃が突き刺さる。
しかし黒はそこから急激に跳ね上がって敵を追跡、右太ももを抉り飛ばした。
同時にの身が蝶にいたぶられる。
露出した部分はすでに全てが赤に染まっていた。
どの鮮血も床に落ちるより早く互いが互いを追い詰めてゆく。
勝負に決めにかかったのは案の定の方だった。
この体が動かなくなる前に、とどめを……!


灼熱の刃がティキの暗い紫の瞳に迫り、光を宿した。
瞬間、刀身が分裂。
刃葬じんそう』は数十条の細い剣となり、ティキの頭に心臓に腹にと、全身を目がけて奔る。
死角など存在ない完全なる同時攻撃。
鮮血が爆発したかのように飛び散った。


「…………………」
「…………………」


二人はそこで止まった。
人間が視認できるレベルを遥かに凌駕した戦いが、緊急停止。
闇の迫る教会の中、白い床に赤い雨が降る。
濁流のように降り注ぐ鮮血に、の身は濡れてゆく。


「やっぱり、痛いか」


気を抜けばすぐさま意識の飛びそうな激痛に、ティキは口元を震わせた。
それでも別の感情の方が強い。
興奮と快楽に微笑みが湧き上がってくる。


「でも、お前がくれるのなら悪くない」


そう言って緩む男の唇。
吐息は血霧となって消える。
ティキの左腕は真っ黒に燃え尽きていた。
炭化した皮膚の下で、細胞のほとんどは壊死している。
右足は完全にその機能を失っているようだった。
腕に胸にと深い傷を負い、そこから溢れ出す血がを染めてゆく。




けれど、それだけだ。




次の瞬間、ティキの前で展開された大量の蝶が光の刃に灼かれて消滅する。
それは急所だけを守った盾であり、が使った最低限の防御策とまったく同じだった。


「勝手に真似をして悪いな。お前に敬意をはらってやってみたんだが」
「…………………」
「急所以外とはいえ、よく投げ出せる。こんなこと……。半端じゃないぞ」
「…………………」
「ただの人間が……なぁ。尊敬するよ」
「…………………」


は動けない。
いくら傷を負わせても致命傷となっていないのだから、すぐさま離れるべきなのに、敵の眼前に立ったままだ。
硬直してティキの声を聞いているしか出来ない。
それもそのはずだった。
男は右脚の機能を奪われ、左腕を炭化させられて、それでも反撃に打って出ていたのだ。
それは完全なる捕縛。


腹に、手を突きこまれた。
展開させた防御壁のわずかな隙を縫った指先が、の腹部に触れて侵入する。
万物を選択できる彼は皮膚を通過し、内臓を掌握した。
臓器を掻き回され、握り潰される。
はあまりのことに全機能が麻痺、微動だにすることもできない。
痛いとか、苦しいとか、そんな程度の感覚ではなかった。
ティキは吐息のように微笑んで、の体内から手を一気に引き抜く。
そのときは透過自在能力を使わなかったようで、この世の法則に従い皮膚に大きな穴が開いた。
腹部が破け、中身がこぼれ落ちる。
滝のように赤が床に落下して、足元に巨大な血溜りを作っていった。
は見開いた目で自分の命が奪われてゆくさまを見つめる。
駄目だ。
このままでは死ぬ。


は咄嗟に刃を傷口に押し付けようとした。
肉を炭化させてこれ以上の流血を防ごうとしたのである。
しかしその動きはティキに止められた。
手刀の熱に灼かれて炭へと変貌した彼の左手が、の右腕を掴む。


「さぁ、お嬢さん」


灼け爛れてなお動く指先は、超人の証。


「次はどんな痛みがお望みだ?」


甘い囁きと共に衝撃。
イノセンスを纏ったの右腕に、ティキが打撃を加えて砕き折ったのだ。
骨が破砕される音が残酷に響き渡り、教会の天井に散っていった。


「………………ッツ!!」


は悲鳴をあげなかった。
自身との誓約を守り、不様な声は喉の奥へと封じた。
ただ感情とは関係なく生物としての涙が溢れてくる。
衝撃に一瞬思考が飛んだ。


「おいおい、堪えるなよ。そんな顔を見たら」


ティキの声も痛みに震えている。
イノセンスに触れた彼の左腕は骨も肉も血液ですら完全に消失。
刃と熱に破壊されて蒸発してしまったのだ。
彼も激痛に苛まれていたが、覚悟してやっただけ自分を取り戻すのが早かった。


「…………押し倒したくなるだろ」


そうして彼の右腕はの喉を掴み、一気に転倒させる。
背中と石床が激突、破片と華奢な体が跳ね上がる。
互いの体から流れる鮮血が空中で混じりあった。


ティキはついに、の白い首を捕らえたのだった。




















彼女は声をあげなかった。
それが何よりアレンの心を殺した。
代わりに叫び出しそうになる。
痛みを受けたのはのはずなのに、このまま自分も死んでしまうんじゃないかと思う。
けれどそんな不様なことは許せなくて、唇から漏れそうになった悲鳴を必死に堪えた。


黒く光る盾の向こう。
男に首を掴まれ押し倒された少女の体が、床の上で痙攣するように跳ねた。
砕かれた床の破片と彼らの血が宙を舞い、視界を白と赤で染める。
そこに金髪が舞い上がって眩しく感じる。


ぱさり、と長い髪が床に落ちて広がった。
アレンは呼吸すらできなかった。
ティキは沈黙した。
の喘鳴だけが、世界に響いていた。
彼女の唇から赤が白い頬を伝い、床に広がった血溜まりに落ちてゆく。


「……………………!!!」


ふいにの身体が絶叫した。
耳を塞ぎたくなるような破壊音が世界に反響する。
とても目で追うことの出来ない一瞬の攻防が、その時にはすでに終っていたのだ。


は砕かれた右腕を無理に動かし、いくつもの刃を放った。
そしてティキは同じだけの速さでそれを阻んだ。
咄嗟にから手を離し、身を起こして避ける。
光刃は彼の肩を掠めて血飛沫をあげさせた。
しかし損傷はの方が大きかった。
回避行動と同時に左足を蹴り出し、男の全体重はそこへとかけられる。
ティキは一切の容赦なく、の右腕を踏みしだいたのだ。
わずかに繋がっていた骨すらも粉々に破壊されて、少女の腕が一気に伸びる。
神経が裂け、肉が引き千切られ、肘の関節が粉砕する。
人体があんな風になるのかと思うほど無惨な様子だった。


「これでもう『刃葬じんそう』とやらは使えない」


いまだに踵でにじりながらティキが言う。
腕から血がぶちまけられて中身がこぼれ出る。
は無音で苦痛を叫び続けていた。
息も吸えないほどに喘いで、声にならない悲鳴をあげる。
完全に破壊された右腕からは黒い光が消えていた。
それでも、イノセンスは籠手の形状を保ったままだ。
あそこまでやられてなお発動を止めないに、アレンは恐怖に近いものを感じる。
もういい。
もう、やめてくれ。
彼女の意志を否定しても、そう叫びたかった。


「ぁ、……うっ、ど、……けッ!」


獣のような声を出して、は己の右腕を蹂躙したティキの脚へと左手を振り下ろす。
必死に刃を召喚して掌で握りこみ、突き立てる。
けれどもその前に短剣状に変化した蝶が、彼女の肩を貫いた。
衝撃で体は戻され、は仰向けの状態で床に縫いとめられる。
刃はティキを傷つけることなく、白い掌を爛れさせるだけに終った。


「駄目だよ、お嬢さん。お前はもうオレに捕まったんだ。暴れるのはなしだぜ」


優しく言いながらティキは続けざまにティーズを放った。
ゴーレムは鋭い針のようになってに襲い掛かる。
何度も肉を貫通する音が響いて、わずかに漏れたの苦鳴すらも掻き消した。


「その瞳と魂を愛でてやるよ。蝶の標本のように、ピンで縫いとめてな」


微笑むティキの言うとおりに、は左肩・左掌・左太もも・右足首を真上から貫かれる。
少女の体は衝撃に何度も跳ね上がるが、床に磔にされていて動きは制限される。
金の双眸から生理的な涙が零れては血に混じって消えていった。


「お嬢さんは……さ、オレが怖かったんだろ?」


ティキが掠れた声で囁く。
痛みにやつれたそれは妙に扇情的で耳に障った。


「いや、オレというより“男”が……かな。自分より強くて大きなものに捕らわれるのを恐れていた。だから攻撃を仕掛けても、見切りをつけてすぐに離れる。違うか?」


それはアレンにも思い当たる節があった。
はどれだけ自分が優勢でも、相手が反撃の様子を見せれば躊躇いもなく後退する。
素早く潔い判断に感心していたが、同時にらしくないと思っていた。
豪快な彼女にしてはやけに慎重すぎるのだ。


「普段は光の刃を放って遠距離・中距離で戦っていた。近づけば曲芸じみた身軽さで相手を翻弄するか、圧倒的スピードで即効終らせるかのどちらかだ」
「…………………」
「それは、裏を返せば接近戦は不得手ということ」
「…………………」
「女だからなぁ。一度でも捕まればお終いだ。体格で圧倒されて、力でねじ伏せられる。今みたいに、な」


ティキは言いながらぐりっ、踵を捻った。
またの腕が踏みにじられ、頑丈な靴裏で肉が擦れる嫌な音がする。


「グローリア・フェンネスとクロス・マリアンが武器化を禁じたのは、危険度だけでなく敵に近づきすぎるなという意味もあったんだろう。剣を生み出すその技は、明らかに接近戦向きだ」
「…………………」
「お前自身もその弱みを熟知していたようだけど。結局はオレの勝機になったな」


何度も刃を交わしているうちにティキは知ったのだろう。
敵の捌き方の中に、の的確な戦術を。
そしてそこに秘められた、彼女自身ではどうしようもない弱点を。


「ティーズが飛び交うなか、早々に決着をつけようと思えば接近戦しかない。お前を捕まえるには、そっちから近づいてきてくれるのを待つしかないからな……」


だからティキは大切な食人ゴーレムをあんな風に使い捨てたのだ。
何せの速さと身のこなしは尋常ではない。
勝負を急かして威力と命中率の高い接近戦へと無理に持ち込ませ、彼女が攻撃をしかける一瞬を突いて、その身を捕らえるしかなかったのである。


「勝負を決めにかかる瞬間しか、完全に動きを読ませてくれないお嬢さんが悪いんだぜ?……それでもここまでやられるとは思ってなかったけど」


喋っている間に辛くなってきたのか、ティキはの傍らに膝をついた。


「急所以外ならたいしたことないと踏んでいたんだが……。腕はなくなるわ、足は動かないわでさんざんだよ」


ティキは右手で左腕の付け根に触れる。
断面は灼き切れていてもうほとんど血は出ていなかった。
まるっきり腕がなくなると体のバランスが取りにくいものだなぁと呟いて、前屈みになる。
床に磔にしたの顔の横に手をつき、彼女の瞳を覗き込んだ。


「さて、今の感想はどう?お嬢さん」
「最、悪」


痛みに喘いでいただったが、意外にも即座に答えを返した。
右腕を無惨に潰され、手足を貫かれ、全身から血を垂れ流しながらもティキを睨み据える。
声は吐血のためか掠れていたけれど聞き取れない程度ではない。
切れ切れながらも言葉を口にする。


「女で、あることを、……ここまで呪ったのは初めてよ」
「へぇ?」
「この貧弱な体では、どうやっても力押しの相手に勝てない。……だから、グローリア先生は私に、あらゆる武術を教え込んでくれたのに。それでもまだ、足りないなんて」
「限界ってのがあるんだよ。どれだけ鍛えようが、どれだけ努力しようが、性別が壁となる。例えイノセンスを内に取り込んで肉体を強化していてもな」
「特に、あなたはノアで、体格の良い、大人の男性。小娘では歯が立たない、というわけ、か……」
「そう。女は男より弱くなくちゃいけない。差別ではなく、そうあるべきだ」
「ど、うして」
「決まってる。そうでないと押し倒せないだろ?」
「………………ほん、とに、最悪」
「女は男の下に組み敷かれて、可愛く啼くものなんだよ。お嬢さんだって経験がないわけじゃないだろう」


クスクスと笑うティキの声に、は完全に表情を消した。
瞳だけが冷たく光る。
怒りと侮蔑の色だ。


「今まで何人の男を手玉に取ってきた?その気もないのに誘惑して、無理やり寝台に倒されて。何とか貞操は守ってきたみたいだが……、それでも綺麗な体とは言えないな」


囁くティキの唇が、そっとの首筋に寄せられた。
そのまま歯を立てられれば頚動脈が破れて死ぬ。
命を握られた状態では無感情に返した。


「どう、でも、いいことよ。体なんて……。戦闘に支障が、ない、程度に動いてくれれば」
「強がるなよ。怯えて叫んで逃げ出して、一度は相手の男を八つ裂きにしたくせに。今でもそのことを後悔しているんだろう?自分を穢そうとした奴のために、よく心を痛められるものだ」
「あなたはよく口を、回せるもの、ね……。覗き趣味と、合わされば最強よ。絶対に女性にモテ、ないから」
「ひどいな。……犯されるより暴力のほうがマシか?侮蔑を投げかけられ、拳を振り下ろされて。魔女め化け物めとなじられるほうがイイ?」
「自虐の、趣味は持って、ない。勝手に私を、変態の仲間に加え、ないで」
「ははっ、じゃあ薬漬けは好かった?ロードなら喜びそうだが、オレはそこまで嗜虐的じゃない。媚薬なら興味があるけれど」


ティキは言葉でさんざんを攻撃した。
先刻アクマの能力で暴き出した心の闇を軽口のように喋ってゆく。
は取り乱すことはなかったけれど、それで確実に傷ついていることは知っているから、ティキは楽しそうに肩を震わせて笑う。
そしてそのまま唇での肌を辿った。
ぐるりと曲線を描きながら喉まで下降する。
赤い舌がそこを這った。


「なぁ、お嬢さん。……これからどうしようか」


捕食者が浮かべるのは残酷な笑み。


「どうされたい?どこを触られたい?どんな風に攻められて、どうやって果てたい?」


の口から答えの代わりに赤が現れる。
せりあがってきた血が唇の端から溢れ出し、むせかえる。
少しの間そうやったあとは、瞳すらもティキに向けずに教会の天井を見上げた。
声もなく涙も流さず、誰もその眼に映さずに、ただひたすら孤独に耐えようとしていた。


「希望を聞いてやってるのに無視か?」


不満そうに呟いて、ティキは舐めていた喉に噛み付いた。
はびくりと目を見張る。
呼吸音が妙に抜けるようなものになって耳障りだ。
首筋に赤い血が滴り、また白い床を染めてゆく。
ティキの犬歯がの皮膚を喰い破ったのだ。


(殺される)


アレンは愕然とそう思った。
予想できないはずはなく、ある意味当たり前の流れであるにも関わらず、今になってようやくそれを認識する。


が、殺される)


アクマに血と記憶を奪われて、死に向っていた彼女を見たときと同じ衝動が、再びアレンをじわじわと浸食し始めた。
全身の血液が逆流する感覚。
もう発動できないかと思っていたイノセンスすら、その激情に反応して蠢いた。
何かが頭か心の中で、音を立てながら千切れてゆく。
自分さえも、粉々に、崩壊して、
……………………、


「……!?」


ふと熱を感じて、理性すら手放そうとしていたアレンは我に返った。


「い……っ」


痛みに思わず声をあげれば、目に入ったのは己の左手だった。
そこに宿った十字架が燃え上がる。
正体不明の白光を宿して炎のように立ち昇ってゆく。


(何だ……!?)


アレンは驚愕して左手を押さえようとしたが、ただの人である右手はいとも簡単に弾かれる。
あまりの熱量に脚を捕らえていた落石が砕け、破片すらも溶けていった。


(これは、の能力……?)


感じる灼熱と波動は、先刻までが操っていた『刃葬じんそう』に酷似している。
否、それそのものと言っていい。
けれど何故の能力を自分のイノセンスから感じるのだろう。


「まさか……っ」


アレンは視線をへと戻した。
彼女はティキに噛み付かれた喉から血を流し、ぞっとするような呼吸音を奏でている。
当然のことながらイノセンスを開放できる状態ではない。
けれど籠手に宿った黒玉は微かながらも確かに光を宿していた。


(まだ繋がっているんだ……!アクマの能力から救い出したとき、僕とのイノセンスがひとつになるのを感じた。二人の能力は今でも共鳴してる!!)


それはいつ途切れるともわからない絆だった。
は命を救うためにアレンを『守葬しゅそう』の中に留め置いたが、当の本人はそれを拒絶している。
こんな盾、粉々に打ち砕いて彼女の元へと駆け寄りたい。
その気持ちのずれが、すぐにでも共鳴を終らせてしまいそうだった。
だからこそ、今になってイノセンスが同調の色を濃くしたのには理由があるはずだ。
アレンはそう思い至って自分の胸に手を置いた。
同じ想いがあるというのなら、これしかない。
今この時、自分が何よりも願うこと。




生命いのちを、諦めない)




それはアレンがに教えてもらった、生きる者としての誓い。
戦場を駆ける誇り高い戦士の心だ。


は諦めていない。殺されてやるつもりなんかない。その気持ちが僕と同調して、再び共鳴を目に見えるまでにしたんだ)


のイノセンスにアレンと同じ波動が見られないのは、意図的に隠しているからだろうか。
今は発動しているだけで精一杯だろうに、そんな無茶をしているなんて信じられない。
けれど敵であるティキに気付かれないようにするには、その強靭なの精神力に頼るしかなかった。
アレンは少しでもの負担を軽くしようと、息を殺して己の左手に願う。


(僕はを諦めない。殺させてやるつもりはない。だからお願いだ、イノセンス。力を……!)


必死に祈るアレンの耳にの激しい喘鳴が聞こえてきた。
それはもはや声ではなく、ひどい苦痛を集めた音だ。
怖気立って見れてみればティキの右腕が消えている。
いや、透過自在能力での胸元に突き入れているのだ。
あの位置は、そう。
彼女の体に刻まれた歪な傷、心臓の辺りだ。
アレンは叫び出しそうになったけれど、唇を裂けるほど噛み締める。
は顔を背けて頬を血溜まりの中に埋めていた。
もはや呼吸もままならないようで、彼女の口からは血だけが吐き出され続ける。
ティキはそれを見下ろして穏やかに微笑む。


「傷と心臓、両方を同時に触れられるのはどんな気分だ?」
「……………………」
「痛い?苦しい?それとも気持ちいい?無言は淋しいんだけどな、お嬢さん」
「……………………」
「悲鳴も命乞いもなし、か……。相変わらずだな。まぁさっき腹に手を突っ込んだときも耐えてたもんなぁ。内臓を掻き回されたらそれなりに痛いと思うんだが」


冗談じゃない。発狂するほどの痛みに決まっている。
アレンはそう思って吐き気を堪える。
目を抉られたときの不快感が蘇ってきて意識が揺らいだ。
そんな己を叱咤してを見つめ続ける。
目を逸らしたくて仕方がないけれど、彼女を望む以上逃げるわけにはいかなかった。
ふいにの顎が跳ね上がった。
ティキが爪で心臓を引っかいたのだ。
反動で顔が戻り、瞳が見開かれる。
焦点が合っていない。
床に縫いとめられて、全身を血だらけにして、心臓を掴まれたままもがいている。
その唇が微かに動いて、


「…………………」
「ん?何だ?」


ティキですら聞き取れなかったのだから、アレンにわかるはずもなかった。
は助けを求める風でもなく、ただただ同じ唇の動きを繰り返す。
それを見てティキは笑みを冷たいものへと変えた。


「最後に言いたいことでもあるのか?それとも誰かを呼んでいる?」
「…………………」
「少年の名前?それとも他の奴?聞こえないよ、お嬢さん」
「…………………」
「と言うか、聞きたくないな。オレ以外を求める声なんて」


言い捨てるなりティキは心臓を掴む手に力を込めたようだった。
五指に命を締め付けられたが大きく喘ぐ。
アレンは『守葬しゅそう』に手を打ち付けた。
まだだ。
のイノセンスはまだ開放できるレベルまできていない。
共鳴の絆を伝って必死に手助けをするけれど、アレンも重症の身だ。
まだ、時間がいる。
アレンは凄まじい重圧を感じながらも、ティキに悟られないように能力を発揮してゆく。
それは盾が遮る世界でだからこそできることだった。


は虚空を見つめている。
呆然と潤んだ金色の瞳。
けれどふいにアレンは気がついた。
果たして彼女は今、何かを視認できているのだろうか。
あの状態でそれが可能なのか。
答えは否だろう。
それでもは何かを射抜いていた。
ただひたすらに。


「……ェ……ド」


わずかに聞き取れたの声はむせ返りそうなほどの愛惜に満ちていた。
切なくて哀しくて愛おしくて、あんな風に言葉を紡ぐ彼女は初めて見た。
金髪の少女の意識がもう自分にはないことを知ったティキは、不愉快そうに口元を歪めて吐き出す。


「限界か。その唇から嫌な言葉を聞く前に終らせてやるよ」


そうしての視線を遮るように覆いかぶさった。
暗い紫色の瞳と、明るい金色の瞳が対峙する。
の胸元で蠢く男の腕。
ティキは愛憎のこもった声で彼女に最後の言葉を送った。


「じゃあな、お嬢さん」




永遠に、おやすみなさい。




甘やか囁き声と共に、爪が心臓へと突き立てられた。










引き続きヒロインVSティキ戦です。
グロい上に鬼畜ですみません……。(平伏)
女の子がいたぶられる話は可哀想ですね。
読むのも書くのも苦手です。ただ今回はヒロインなので別にいっかなー!と。(苦笑)
何となくこの子はさんざん酷い目にあって、その反動で強くなる子だと思っています。
Sな書き手でごめん、がんばれヒロイン!
……………………どうでもいいけど今はアレンの方がヒロインポジションですね。(禁句!)

次回で決着です。
そろそろアレンにヒーローに戻っていただこうと思います。
戦闘・流血描写・グロ表現がございますので、またまたご注意をお願いいたします。